事実は、それぐらいの不足額ではなかった。目先二十億が不足していたが、さしあたって九月三十日に決済しなければならない手形が四億三千万あり、その支払先である大手商社に手形の延期を頼んでいるのだった。
「それで、理由はどんな風に説明したんだ」
「今月の製品の出荷がずれ込み、その代金は来月入るから、それまで待って貰いたい、契約書も入っているからと頼み込むと、それでは延期した分についての金利は日步四銭で支払うことが条件だとふっかけて来ました」
「えっ、日步四銭も――」
鉄平は、声高に聞き返した。銀行より二倍近くで相当な高利だった。
「商社は銀行の上前《うわまえ》をはねるところですから、仕方ありませんよ、しかし背に腹はかえられませんから、日步四銭でも払うと云うと、ほう、おたくはそれほどお困りなんですかと逆《さか》ねじを食わせ、そんなところには、手形を延期する限り、担保として有価証券を入れて貰わないと、危なくて応じられないと云うのです、彼らはまるで禿鷹《はげたか》ですよ」
吐き捨てるように銭高が云うと、鉄平は、
「やむを得ない、有価証券を出そう」
と云った。銭高は、今さらながら経理面に疎《うと》い鉄平を呆《あき》れるように、
「そんなのがあれば苦労しませんよ、とっくに全部、担保に入っておりますよ」
「そうか、じゃあ、どうやって月末の四億三千万の手形を落したらいいのだ……」
鉄平は、がらがらと会社が崩れ落ちるような思いがした。銭高も黙り込んだ。
「そうだ、社内預金はどうなってるんだ」
「それも既に運転資金に繰り入れて、使っていますよ」
「じゃあ、資産表を見直してみよう」
鉄平は、どこかに資金繰りの活路を見出《みいだ》したかった。
「専務がご覧になって、何かが出て来るのでしたら、私がとっくに見付けています、ご覧になるだけ無駄でございますよ」
銭高はやや慌て気味に云った。万俵大介の指示を受けて、見せかけ融資をしているからであった。しかしそれでも見るという鉄平の言葉には逆らえず、経理部員に資産表を持って来させた。
鉄平はそれを受け取ると、固定資産、投資資産、棚卸《たなおろし》資産、当座資産の項目を順に追って行った。何か処分し、換金出来るものはないかと見て行くうちに、ふと当座資産の各種預金のところに眼が止まった。預金勘定の額が自分の記憶より五億近く膨《ふく》れ上っている。
「銭高君、何も足らないことはないじゃないか、阪神銀行の預金が五億近くも残っているが、どうなっているんだい?」
ほっとしながらも訝《いぶか》しげに聞いた途端、銭高の眼が戸惑うように瞬《しばたた》いた。
「ああ、それですか、それは月末の支手決済がずれているために、一時的に預金が膨れ上っているだけですよ」
「しかし、使える金には変りないだろう」
「そうじゃございませんのです、月末に入って月初《げつしよ》に出て行く金ですから、一時的な瞬間をご覧になって、あるあると思われては困ります、金なんて、そんなものなんですよ」
銭高は話の腰を折るように云い、さっさと資産表をしまい込んだ。
「するとあとは、阪神銀行へ無理を頼みに行くしか仕方がないわけか、僕自身が行って来る」
鉄平は、たち上った。
阪神銀行の頭取室の扉《とびら》を押すと、回転椅子に坐った万俵大介は、彫像のように動きのない表情で、鉄平を見据えた。
「どうして私のところへ直接、やって来るのだ、事故処理委員会で財務内容の調査を行なっている時期に来られては、こそこそと情実貸金をやっているようで、迷惑だねぇ」
頭から冷たく云われ、鉄平は身じろいだが、一礼して父の前に坐った。
「今日はお叱《しか》りを覚悟で参りました、実は今月末の四億三千万の支払手形の決済が出来ず、伊東商事や日紅商事をはじめ支払期限の来ている五つの商社を廻って延期を依頼しましたが、各社とも応じてくれず、万策尽きて、急場を救って戴きに参りました」
「総額四億三千万なら、一社あたり一億足らずの金額であろうに、長年のつき合いの伊東商事や日紅商事にまで断わられたのかね」
「ええ、担保があればというのですが」
「そりゃあ当然だ、担保なしで金を融通するお人好《よ》しはいないだろうからね、ほかに算段する当てはないのかね」
「資産表を仔細《しさい》に検討しましたが、もはや処分し得るものは処分し尽しております」
「では、いよいよ米櫃《こめびつ》の底をついたのだな」
大介の眼には、子会社の窮状を聞く沈痛さはなく、舌なめずりするような快感があった。
「――まさに金融的な飢餓状態といいますか、社員に支払う給与以外、当社で自由に動かせるものは皆無になりました」
鉄平は、搾《しぼ》り出すような声で云った。
「私に対する厳しいご批判はいろいろあると存じます、しかし今はただ高炉稼動《かどう》後の私を信用して、今月末の手形決済分をお貸し下さるようお願い致します」
「信用? 信用というのは事実で示して貰わねばならぬものだ、信用を失っている現実を前にして信用せよというのは、信用の押売りじゃないか」
突っ撥《ぱ》ねるように云った。
「何と云われても、今の私には会社を生き延びさせる金、金が必要なんです、阪神特殊鋼の専務に対してはもう貸せないとおっしゃるのでしたら、人生のすべてを特殊鋼に賭《か》けている息子に対して、どうかご融資下さい」
必死の面持で頼んだが、大介は表情を動かさず、
「そんなのは、よけいに通らない理屈だね、私は、四億三千万の金を親子の情で貸すような神経は持ち合せてない、しかし先月のように、再度、不渡り騒ぎのような事態になれば、メインの当行が迷惑するから、救済方を考えないでもないが、素手《すで》では応じられない」
「しかし、既にあらゆる術《て》を尽した上で、さし入れようにもさし入れる担保がありません――」
鉄平は、言葉を跡切《とぎ》らせた。
「やはり経営者としてお前は駄目だな、私の考えるところ、長年の取引がある江州商事の親会社である五菱商事の保証書を持って来るなら、阪神銀行としては四億三千万の融資に応じようじゃないか」
「五菱商事がそんな保証書をくれるでしょうか、五菱銀行から一時不渡りの情報が当然、入っているはずですのに……」
「だから、智恵《ちえ》がないというのだよ、要は話の持って行きようだ、担保として工場財団の後《こう》順位を設定し、今後の対米輸出の全部と、原料、機材の納入の何パーセントかの権利を与えるというような条件を出せば、そこは爪《つめ》の長い商社のことだ、マージンを計算して乗り出して来るだろう」
大介は明快に云ってのけた。
「ご助言有難うございます、早速、私自身、五菱商事へ行って参ります」
ほっと救われるように息をついたが、これも阪神特殊鋼をトリックに、大同銀行を呑《の》み込む万俵大介の布石の一つだとは、夢にも思っていなかった。
当面の資金繰りの算段がつくと、鉄平は爆発事故のショック以来、持病の高血圧症で寝込んでしまっている叔父の石川社長を見舞に行った。
車が芦屋《あしや》川沿いの石川邸の前に停まると、すぐ内側から門が開かれた。手入れの行き届いた庭には樹齢を重ねた松が枝を茂らせ、数寄屋《すきや》造りの建物を深々と押し包んでいる。
玄関から広縁づたいに奥へ行くと、障子を開け放ち、涼風《すずかぜ》を入れている寝室で、叔父は臥《ふ》せっていた。鶴《つる》のような細い顔がまだ赤味を帯び、枕《まくら》もとには叔母の千鶴《ちづる》が坐《すわ》っている。
「まあ、鉄平さん、お忙しい中をよくいらして下すったわね」
兄の万俵大介に似た端麗な顔を、綻《ほころ》ばせた。
「お加減はいかがですか、いつも気になりながら、つい失礼ばかりしておりまして――」
医者の指示で、安静を保つと同時に、精神的刺激を避けるために、出来るだけ仕事の話は避けるようにと命じられていたのだった。
「おかげさまで、事故直後は二三〇にも上っていた血圧が、一六〇位に下り、頭痛がする、動悸《どうき》がすると云っていたのも落ち着いたようで、今は降圧剤を飲んで、安静にしてさえおればよろしいのですよ」
ほっとするような眼《まな》ざしを病人に向けると、
「いや、まだ頭が重い、頭に鍋《なべ》をかぶったような気がする、それに肩が凝る、お前、少し肩を揉《も》んでおくれ」
千鶴は仕方なさそうに夫の体を起した。鉄平も手伝って起し、千鶴が肩を揉みはじめると、石川正治は、
「すまないね、会社の大へんな時に、鉄平君にだけ背負わせてしまって――」
もともと小心なだけに、今度の事故ですっかり参っていた。
「いえ、会社の方は役員一同、力を合わせてやっておりますから、この際は療養第一にお考え下さい」
鉄平が気を憩《やす》めるように云うと、
「だが、全く何も聞かされないと、聞かされないで、また気になって仕様がない――、どうなんだね、会社の方は?」
神経質に眉《まゆ》を寄せて、聞いた。
「幸い現場の従業員はもちろんのこと、事務系統の者も一丸となって、熱風炉の再建開始の日を待っていますよ」
「じゃあ、資金繰りの方はどうかね? 不安がって銀行が手を引くことはないのかね」
石川正治には一時不渡りのことも知らせていなかった。
「まあ何とか――、しかしこの間、銀行団の会合があって、目下、長期開発銀行が当社の財務内容の調査をしていますよ」
と云うと、石川正治はみるみる顔色を変えた。
「えっ、財務内容の調査を――、こんな経営悪化の時、調査などされたら、よかろうはずがない、それはもう、銀行がきっと、うちを潰《つぶ》すつもりでおるのだよ、そうに違いない」
「馬鹿《ばか》なことをおっしゃるものじゃありませんよ、融資銀行というものは、融資先の企業が潰れることを恥としておりますよ、ですから、この間の銀行団の会合でも、当社の財務内容を正確に調査した上で、今後の抜本的な打開策をたてようとしているので、財務内容の調査、即悲観的な結論ではありませんよ」
「いや、そんな気やすめに騙《だま》されない、潰すつもりだから、大介さんもメイン.バンクでありながら、他行に調査を任せたんじゃないのかね、この調子ではもう駄目じゃ、私は社長を止《や》めたい――」
「叔父さん、まあ落ち着いて下さい、この会社の重大事の時に、社長たるものが、もう止めたいなど、会社全体の士気にかかわります、少しは言葉をお慎み下さい」
鉄平がきめつけるように云うと、
「なに、私に慎めというのかね、大体、私があれほど高炉建設の一時延期をすすめたのに、鉄平君、君が強引に押しきって、逆に工期を縮めるために突貫工事をして事故が起り、会社の工合が悪くなったのじゃないか、私はもう止めたい、止めたい……」
と云うなり、動悸をうつように息をきらせ、顔を紅《あか》らませた。千鶴は慌《あわ》てて、夫の体を寝かせ、
「鉄平さん、なぜ会社のお話などなさるのです、お仕事のお話は禁物だと申し上げたじゃありませんか、何もかも、あなたのせいですよ」
険しい語調で詰《なじ》った。いかに病臥《びようが》中とはいえ、社長の座にありながら、もう止めたいと口走る石川正治と、それも鉄平のせいだと責める叔母の顔をやりきれぬ思いで見詰め、鉄平は今さらのように、阪神特殊鋼のすべてが、自分一人の肩にのしかかっている重さを肩に食い入るように感じた。
石川邸を出ると、もう九時を廻っていた。久しぶりに早く自宅で寛《くつろ》ぐために、まっすぐ車を岡本に向けた。
玄関に車が停まると、早苗《さなえ》が出迎えた。
「今夜はお早うございますのね、でも子供たちはもう寝《やす》んでおりましてよ」
毎晚帰りが遅く、子供たちの顔も、このところあまり見ていなかった。
庭に面した居間に入り、ガラス戸を開け放つと、背後の天王山の山風が肌に涼しかった。
「ハイボールをおくれ――」
早苗に云い、ぐったりとソファに坐った。
「あなた、叔父さまのお工合はいかがでございましたの」
「血圧は一六〇位に下って落ち着かれたけれど、当分は会社に出られるのは無理だろうね」
「じゃあ、あなたは何もかもお一人で、やらなくちゃあならないのね……」
「うむ……」
鉄平はぐいとハイボールを空け、夕刻、阪神銀行へ父を訪ね、融資を頼んだ時のことを思い返した。息子の会社が資金繰りに窮迫し、まさに金融的な飢餓状態であるというのに、慰めの言葉一つかけず、逆に四億三千万円の融資にも、素手では応じられないと、五菱商事の保証書をとって来るよう示唆《しさ》した父は、たしかに優れたバンカーであるかもしれないが、そこには血の通った情合いの一かけらも見出せない冷徹な計算だけがある。鉄平は自分の身辺のわびしさが、身にこたえた。
「あなた、私にはお仕事のことは解《わか》らないけれど、ご無理なさらないで――、この頃のあなたは、随分疲れていらっしゃるわ」
早苗は、夫の身を案じるように云い、
「お飲みにばかりならないで、少し何か召し上った方がおよろしいわ」
「いや、食欲はないし、それに飲んでいるから、もうこのまま寝むよ」
疲れた声で云い、ソファからたち上った。
シャワーを浴びて、寝室のベッドに横たわると、さほど飲んでもいないのに、酔いが俄《にわ》かに廻って、激しい睡魔に襲われた。
何時間経《た》った頃だろうか、突然、鉄平の耳もとで、ドカーン! という轟音《ごうおん》が炸裂《さくれつ》し、部屋中に真っ赤な血が飛び、柘榴《ざくろ》のような肉塊が散った。
「救急車! 救急車を呼べ!」
鉄平はベッドで大声を上げた。
「あなた、どうなすったの! しっかりして――」
早苗の声がして、揺り起された。夢だったのだ。夢の中で熱風炉がガス爆発し、あの事故の時と同じように濛々《もうもう》と土煙と焔《ほのお》が上り、熱風炉の周《まわ》りには爆風で地面に叩《たた》き潰された者の血と肉片が飛び散って、その血みどろの姿にうなされていたのだった。体中がべっとりと脂汗《あぶらあせ》で濡《ぬ》れていた。鉄平は、傍《かたわ》らのベッドの中から不安そうに見詰める早苗に、
「夢を見ただけだ、心配しないでお寝み――」
と云い、妻を安心させるためにタオルで汗を拭《ぬぐ》うと、自分もすぐにベッドに体を横たえ、眼をつむったが、それからは頭の中が異様に冴《さ》えきってしまった。
*
「ご免やす――」
万俵家の邸内に柔らかい大阪弁が聞えたが、誰も応答する者はいない。
「ご免やす――」
つる乃家の老女将《おかみ》は、もう一度、スペイン風の洋館と日本館を仕切る野石《のいし》積みの石塀《いしべい》の切戸から小腰を屈《かが》めて案内を乞《こ》うたが、やはり応答がない。六十近くには見えない色白の艶《なま》めいた顔に、薄鼠《うすねず》色の一つ紋の着物を着、手には袱紗《ふくさ》包みを抱えて、うしろに大きな荷物を提《さ》げた男衆《おとこし》の伴《とも》を連れている。
かたりと切戸が開き、若い女中が顔を覗《のぞ》かせた。
「どちらさまでいらっしゃいますか」
「つる乃家からお伺いしたんでおますけど――」
「鶴屋って、元町《もとまち》の和菓子屋さんの?」
「いえ、大阪の新町《しんまち》のつる乃家でおます、旦那《だん》さんにお取次ぎしておくれやす」
「旦那《だん》さんって、あのう、頭取さまのことでございますか」
「へえ、つい旦那さんなどと云うてご無礼でおました、頭取さんのことだす」
若い女中は、見馴《みな》れぬ老女と男衆を怪訝《けげん》そうに見、朋輩《ほうばい》の女中に耳うちしたが、
「ともかく、ちょっと奥へ伺ってみます」
と云い、うちらへ入りかけると、日本館と洋館を繋《つな》ぐ回廊を步いて行く高須相子の姿が見えた。女中はすぐその方へ駈《か》け寄り、見馴れぬ来客のことを告げると、相子が訝《いぶか》しげに日本館の内玄関にやって来、
「あら、大阪のつる乃家の女将さんでしたのね」
驚くように云った。先代の万俵敬介が存命中、邸内で催された春秋の園遊会には、奥内《おくうち》のお手助《てすけ》と称して出入りしていたから、相子もつる乃家の女将のことは知っており、老女将も相子については、毛唐かぶれした生意気な女の家庭教師であると、故人から聞いていたのだった。
「これは高須先生《せんせ》でおますか、お懐《なつ》かしゅうおます」
「どうもお久し振り――、その後お元気でいらして?」
「おかげさんで達者にさせて戴《いただ》いておりますが、先生もお勤めがお長うおますなあ、今は下の妹嬢《こい》さんのお勉強をみてあげてはりますのだすか」
「三子《みつこ》さんは今年、大学四年生ですのよ」
「ああ、ほんなら鉄平若旦那《だん》さんのお子さんだすか、親子二代のお子さまのお勤めとはさぞお骨が折れまっしゃろが、いつまでもお若うて、おきれいでおますなあ」
感心しきって云うと、若い女中たちはくすくすと忍び笑いした。老女将が大真面目《まじめ》なだけに、相子はよけい自尊心を傷つけられた。
「それで突然、お越しのご用向きは?」
「頭取さんにお目にかかりとうおまして――」
「ですからそのご用向きをお聞かせ下さい、私がすべて承ることになっているのですから」
権高《けんだか》に取りしきるように云った。老女将は驚くように相子を見上げ、
「ちょっと、鯉《こい》を持って参じましたんでおます」
「え、鯉を?」
「ご贔屓《ひいき》のお客さんから、珍しい鯉をわての家の庭にと戴いたのだすけど、今日は先代さまの月命日で、ことのほか鯉のお好きでおました先代さまのお供養《くよう》にと存じまして」
と云い、伴の男衆が提げている大きな桶《おけ》を眼で指した。
「じゃあお通りになって下さい、お寺さまのお勤めが終って帰られた後ですから、頭取は日本館におられます、あなた、ご案内なさい」
若い女中に云いつけ、相子はさっさと洋館の方へ行ってしまった。
内玄関から奥座敷に通ると、十五畳の仏間の正面の仏壇に燈明が点《とも》され、香煙が漂っていたが、月命日の内輪だけのお勤めは、だいぶ前に終り、万俵大介と寧子が所在なげに坐っていた。女中が老女将の来訪を告げると、
「老女将か、なんだね、急に――」
大介はさり気なく云いながら、故人の月命日に訪れて来るとは何かの無心かと警戒したが、寧子は、懐かしげに老女将を見遣《みや》り、
「ようおいでですこと、どうぞお詣《まい》りして下さい」
とすすめた。老女将は眼を涙ぐませ、
「外囲いの者に、お詣りさせておくれやすのだすか、おおきにありがとさんでおます」
両手をついて、仏壇の前に膝《ひざ》をにじらせ、袱紗包みからお供えを出すと、姿勢を正して焼香した。
お詣りをすませると、老女将は涙を拭い、
「その節、疝痛《せんつう》で臥《ふ》せっておりました折には、頭取さんじきじきの御見舞を頂戴《ちようだい》致し、有難うさんでおます、本日、不躾《ぶしつけ》に参上致しましたのは、鯉に凝ってなさるご贔屓さんから、山吹黄金《やまぶきおうごん》という見事な鯉をお頂戴したのだすけど、先代さまの月命日にあたる日に、先代さまとゆかりの深い珍しい鯉を戴くのも不思議なご縁と思い、お持ちしたんでおます」
と云った。万俵大介は眼を池に向け、
「鯉か――、たしかに先代は毎朝、鯉に餌《えさ》をやってからでないと、一日の仕事が始まらなかったな」
生前の父を思い返すように云った。
「つる乃家の方へお越しの時も、朝お目ざめになると、一番にご本宅へ電話おしやして、餌のことを云いつけてはりました、中でも“将軍”と名づけた墨流しの鯉のことはようお話に聞きましたが、まだ長生きしてるのでおますか」
「うむ、もう五十年になるが生きている、化物みたいな鯉で、めったに姿を現わさないがね」
「ところが鉄平若旦那《だん》さんにだけは、お幼《ちい》さかった時から、手を叩《たた》くと、どこからとものう出てくるということでおますな」
老女将が出されたお茶を口もとに運びながら云うと、寧子が不意に、
「あの……鯉のお返しと申しては何ですが、私が丹精こめて作った蘭《らん》をさし上げさせて戴きますから、ちょっと温室へ……」
ぎこちなく云い、そっと仏間を出て行った。大介は池に視線を向けたまま、
「山吹黄金とは、珍しいな、早速、池に放っておくれ」
庭下駄を履き、庭石伝いに池の方へ足を運んだ。老女将は内玄関に待たせている男衆に云いつけ、自分も池へ廻った。
つる乃家の印半纏《しるしばんてん》を着た男衆は、桶を池のそばまで運び、ビニールの覆《おお》いを取った。桶の中には、頭から胴体、鰭《ひれ》まで全身の鱗《うろこ》が黄金色に輝く体長五十センチほどの鯉が飛び跳《は》ねんばかりに、激しく尾を振っていた。
「ほう! 見事な鯉だな――」
大介は、眼を奪われるように見惚《みと》れ、男衆が池へ放しかけると、
「いや、ちょっと待ってくれ、一度、池の中の鯉を呼び集めてみよう」
水面に向って大きく手を打った。水面に小波《さざなみ》がたったかと思うと、藻《も》をゆらめかせて、三十数尾の錦鯉《にしきごい》が群れをなして泳いで来た。大介は“将軍”を呼ぶために、もう一度、大きく手を叩いたが、墨流しの色に、背のあたりだけ黒漆のように光った巨鯉は、ついに姿を見せなかった。
「あの、こっちの鯉はどない致しまひょ」
飛び跳ねる鯉を気にして、男衆が聞いた。
「うむ、放してくれ」
山吹黄金が放たれた。赤、黄、紅白、鹿《か》の子《こ》に彩《いろど》られた錦鯉の群れの中を、黄金色の鱗を燦《きらめ》かせ、山吹黄金は泳ぎ出した。
「鉄平がいたら、せっかく来てくれたんだから、“将軍”を呼んでやれるのだが、日曜日の今日も会社でね」
大介が云うと、老女将はふと思いついたように、
「若旦那さんといえば、どこかお工合が悪いのではおまへんでっしゃろか」
「どうしてだね」
「どないと云われますと困るんだすけど、ちょっと近頃、ご様子が……」
「だから、どんな風にと聞いているのだ」
大介は山吹黄金が群れを離れて、池の周りをゆっくり泳ぎ廻る方へ視線をやりながら、聞いた。
「実は、この間お越しやした時、えろう酔いはりまして、うちの芙佐子にお戯《たわむ》れになり、まさかあんたと僕とが血を分けた間柄ではあるまいと、おっしゃったそうでおます」
「なに、血を分けた間柄ではあるまいなどと、そんなことを――」
大介の眼が異様に光った。それは明らかに鉄平が自身の出生に疑惑を抱いている言葉であった。
「もちろん、そんな阿呆《あほ》なことはありようがおまへんと、きつう申し上げたんだすけど、このところ酔いはると、お悩みごとがあるのか、えろう苦しそうに乱れはるとか……、もしか夏の爆発事故で、ご心痛から体のお工合を悪うしはったのやったらと、心配でおます」
と云うと、大介はやっと今日、老女将が自分を訪れて来た理由を悟った。おそらく鉄平が留守であることを知った上で山吹黄金の鯉にこと寄せ、鉄平の振舞いを話したかったのだろう。そう思うと、青い炎のような怒りが噴き上げて来た。鉄平の出生に関して自分だけが疑っているのだという残忍な優越感が損われたことと、鉄平が自らの出生に疑惑を抱きながら、先日、頭取室を訪れ、父と子の情に訴えて融資を頼んだのかと思うと、大介の胸中は火に油を注がれるように煮えたぎった。
「出しゃばったことを申して、ご気分を損いはりましたら、堪忍《かんにん》しておくれやす」
大介の険しい表情を見、老女将は詫《わ》びた。
「いや、山吹黄金に見惚れていたんだよ、鉄平のことは老女将が心配せずとも、私がちゃんとする、今日は何かとご苦労――」
と犒《ねぎら》うと、老女将はそれを機会《しお》と心得て、
「ほんなら、蘭を戴いたら失礼させて戴きます、先代さまに思いもかけずお詣りさせて戴き、この先、思い残すことはおまへん」
心から挨拶《あいさつ》し、男衆を伴に庭から内玄関の方へ帰って行った。
大介は老女将の姿が植込みの向うに見えなくなると、座敷に上り、足早に洋館の書斎に向って、部屋に入るなり、電話のダイヤルを廻した。大同銀行の綿貫千太郎専務の自宅であった。綿貫が電話口に出ると、
「日曜日にどうも恐縮です、いや全く、銀行へはなかなかおかけするのが難かしくて……、実は先般来、ご依頼している書類、検討を急がねばならぬ事態になりそうですので、至急、お手渡し戴けませんか、かたがたおよろしく」
押し殺すような声で云い、電話をきった。
万俵大介からの催促があって、数日後の夕刻、綿貫千太郎は金箔《きんぱく》の打出《うちで》の小槌《こづち》をガラス.ケースに飾った専務室で、机の引出しの奥にしまってあった書類を、秘《ひそ》かに選《え》り分けていた。阪神銀行に手渡す約束になっている大同銀行の機密書類で、いずれも大蔵省銀行局だけに提出して、他行には一切知られていない報告書や、大蔵省にさえ握られていないトップ.シークレットの書類ばかりであった。それらのおおかたは、専務取締役としてコピーを持っていたが、万俵大介と“大文字の密約”を交わして以来、さり気ない口実をもうけて各部担当者に持って来させた書類も含まれている。
選り分けた書類は全部で厚さ五センチほどになった。綿貫はそれらを銀行名の入ってない大きな書類袋に入れると、その書類の控えを、便箋《びんせん》にメモして行った。
損益状況表(過去六期間)
業務報告書(過去六期間)
主要取引先一覧
大口融資先一覧(預貸金計数を含む)
要注意貸金一覧
年齢別、性別人員構成
給与実態(定例給与、賞与)並びに役員報酬
保有有価証券銘柄別一覧
大株主名簿
支店長会、労働組合等行内諸団体動向
袋に入れた書類を、再度チェックして控えていきながら、綿貫は突如、空怖《そらおそ》ろしい思いに襲われた。このマル秘書類を阪神銀行に渡すことは大同銀行を丸ごと売り渡すような行為であった。たとえ日銀天下り派に積年の恨みはあっても、思えば昭和六年、苦学して仙台高商を卒業し、青雲の志を抱いて就職したのが、大同銀行の前身である関東貯蓄銀行であったが、当時はまだ関東一円の零細な預金層を相手にした日掛貯蓄銀行で、綿貫自身、高商卒の本店勤務とはいえ、浅草や品川の商店街を貯金箱を持って毎日、一銭二銭の金まで集めて廻った思い出がある。
そんなところから出発して苦節四十年、金融資本の時流に乗って、今や預金量九千二百億、都市銀行第八位にのし上った大同銀行の歴史は、綿貫自身の歴史でもあった。それだけに大同銀行に対する愛惜の念は誰よりも強い。しかも自分の下には、日銀天下り派の追出しを図り、大同銀行の自主独立を願う少なからぬ部下がいる。その部下たちは、まさか自分が阪神銀行との合併を秘かに進めているとは夢想だにしないだろう。それを思うと、綿貫はうしろめたい罪悪感を覚えたが、一方また、今、三雲頭取以下の日銀天下り派を追い出すクーデターを起してみても、生抜き派の力だけでは、せいぜい喧嘩《けんか》両成敗で、三雲と自分が責任を追及されるのがおちであり、自分がそんな役廻りになるなど、とんでもないことだと思った。
そこまで思い進むと、綿貫はうしろめたさが次第に薄れ、大同銀行と阪神銀行とが合併した場合に想定される都市銀行第五位の副頭取のポストが、俄《にわ》かに光り輝いて眼前に浮かんだ。
扉《ドア》をノックする音がした。綿貫は急いで机の上に拡げていた控えメモと書類袋を机の引出しに押し込み、融資部からの稟議書《りんぎしよ》を手早く前に置き、どうぞと応答すると、三雲頭取であった。
「これは頭取、私の部屋にお見えになるなど、びっくり致すじゃございませんか、ご用があれば、お伺いしますのに」
机の上には怪しまれるような気配は残していなかったが、さすがに狼狽《ろうばい》気味に椅子からたち上ると、三雲は、綿貫の机の前までゆっくりと步いて来た。
「ご勉強ですね、最近、あなたが当行の体質改善のために、いろんな計数データを集めて検討しておられると聞いて、心強い限りですよ」
皮肉ではなく、真底《しんそこ》、それを喜ぶように云うと、綿貫は内心、どこからそんな噂《うわさ》が洩《も》れたのかと思い、ぎくりとしながらも、
「最近のように、こう目まぐるしく金融情勢が変って参りますと、頭の古い私もさすがにじっとしておれませんでねぇ、ですが、勉強だなんてとんでもない、若い部下に進講させながらの耳学問が専《もつぱ》らで、云ってみれば年寄りの冷水《ひやみず》みたいなものです――、で、頭取のご用件は?」
ことさらに謙遜《けんそん》し、三雲の用件を聞いた。
「ほかでもない、阪神特殊鋼に対する長期開発銀行の調査のことですが、調査開始からほぼ一カ月経《た》っているのに、一向その調査結果が出ない様子なので、事故処理委員会に当行から出て貰《もら》っているあなたに、その後の様子を聞きたいと思ってねぇ」
調査が長びいていることを懸念《けねん》するように云った。
「そういえば、私のところへも連絡がありませんね、半官半民の長期開発銀行さんのことですから、日数など気にせず、得心の行くまでじっくり調査しておられるんでしょうが、われわれ市中銀行は、そんな悠長なことでは困りますから、早速、明日、向うの東郷常務に問い合せてみますよ」
「是非、そうしてくれ給《たま》え、私は明日の午後から北海道、東北の主要な店舗廻りがあって、暫《しばら》く出張するので、あなたの部屋の前を通りがけに、寄ってみたのです、では失敬――」
三雲はそう云い、まっすぐ伸びたうしろ姿を見せて、部屋を出て行った。綿貫は扉が閉まると、再び途中になった書類の控えのメモにかかった。控え終ると、大きな書類袋に厳封し、鞄《かばん》の中へ入れ、小脇《こわき》に抱えて席をたった。時計を見ると、五時半であった。
これから有楽町のしゃぶしゃぶ屋で、阪神銀行東京事務所長の芥川に書類を手渡し、その後、大同銀行従業員組合の熊本委員長と会うことになっていた。
熊本委員長の方は、銀行合併の場合、組合の意向が大きなウェイトを持つから、今から宣撫《せんぶ》工作を開始しておくためであった。
日劇の向いのビルの手前でタクシーを降りると、綿貫は雑踏にまぎれ込むように步き、ビルの地階にある『花くま』のガラス戸を開けた。民芸調にしつらえた店内は、夕食時には少し間があるせいかがらんとし、仲居が手持ち無沙汰《ぶさた》にたっている。
「ようお越しやす、奥で待ってはります」
女将《おかみ》が、眼ざとく綿貫の姿を見つけて、奥座敷の一つに案内した。芥川の坐っている座敷机には空になった湯呑茶碗《ゆのみぢやわん》があり、大分前から待ち受けていたようだった。
「お待たせ致しましたかな」
綿貫はぬうっと部屋に入り、芥川の前に坐ると、
「ご多忙の中、無理なご依頼をして恐縮です、本来なら今夜はゆっくりと一献をさし上げねばならぬのですが、電話で申し上げておりましたように、万俵から書類をお受取りしたら、すぐその足で神戸に届けるよう命じられていますので、勝手ですが、その……」
ちらっと綿貫の鞄に目を遣《や》った。綿貫としても、時をおかず、万俵の手に渡る方が安心であったから、鞄の中から分厚な書類袋を取り出した。
「じゃあ、これを万俵頭取に――、くどいようですが、まったくの部外秘であることに心を配って下さい、万一、このことが洩れると、私の社会的生命は終りですからねぇ」
芥川の眼をじっと見据えると、芥川も縁なし眼鏡をきらりと光らせ、
「有難うございました、確かにお受取り致します」
ずっしりと手ごたえのある書類袋をおし戴《いただ》くようにして、受け取りかけると、
「で、受取書は?」
促すように云った。綿貫は、万俵に対して、マル秘書類と引換えに自分のポストを確約する一札を是非とも貰い受けたいと、申し入れているのだった。
「これはどうも――、つい書類に気を取られて……、これが万俵からことづかって参りましたもので、どうぞお改め下さい」
芥川は出来ることなら、渡さずにすませたかったような気配で、胸の内ポケットから白封筒を取り出し、綿貫の前へおしやった。厳封した封筒を開けると、中には万俵頭取の名刺が入っており、裏面に万俵自身の毛筆で、一筆したためられていた。
御高配多謝
御約束厳守
簡単な一文であったが、綿貫は、憑《つ》かれたような眼で、万俵大介の印鑑が捺《お》されている“万俵念書”に見入った。
芥川が慌《あわただ》しく座敷を出て行くと、綿貫千太郎はもう一度、大同銀行のマル秘資料と引換えに取りつけた“万俵念書”に見入った。御高配多謝、御約束厳守と書かれているだけだったが、それでも言を左右にしてなかなか書こうとしなかった万俵大介から、印鑑を捺した一札が取れたのは成功だと思った。これさえあれば万俵から梯子《はしご》をはずされる心配がなく、万一の場合は、万俵を自分と抱合い心中させることも出来る。
「どうぞ、あちらのお部屋でおます」
芥川とかち合わないようにと、予《あらかじ》め用意しておいた奥の別室に人を案内する女将の声がした。大同銀行従業員組合の熊本委員長が来たらしい。綿貫は急いで万俵念書を上衣《うわぎ》のポケットにしまい込み、小用を足して来た風《ふう》を装いながら、熊本の入った奥の部屋に向った。
襖《ふすま》を開けると、まだ四十前のくせにむっくり太った熊本委員長は、ちょうど坐ったところだった。
「どうも専務にお待ち戴いたようで、恐縮です、運悪くタクシーがなかなか拾えなかったものですから――」