「どうぞ――、ご案内申し上げます」
抑揚のない低い声でそれだけ云い、ホール正面の赤い絨毯を敷いた階段を、先にたって上って行った。薄暗くてよく見極められなかったが、ホールの左右にも、上下に通じる幾つもの階段があるようで、百人近いという官邸の職員が、どこで、どのような仕事をしているのか、まるで無人の館《やかた》のようにひっそりとしている。
二階へ上ると、左手に受付があり、深い皺《しわ》を刻んだ官邸の主《ぬし》のような男が、じろりと万俵を一瞥《いちべつ》したが、秘書官の目くばせで、そのまま通過し、万俵はひとまず、秘書官次室へ通された。事務秘書の部屋らしく、六、七人の職員が黙々と仕事をしており、万俵を案内して来た秘書官は、少しお待ち願いますと云うと、ここまでで自分の任務が完了したような無関心さで、自分の席に坐った。
万俵は戸惑い、美馬のルートで今日、佐橋総理に会う時間を取り計らってくれた大蔵省出向の秋野総理秘書官の名を口にしかけると、次の部屋に続く分厚い扉が開かれ、鄭重《ていちよう》に呼び入れられた。そこが総理秘書官室で、三十坪ほどの奥行きのある部屋の左手に首席秘書官、突き当りに外務省、大蔵省、警察庁から各一名ずつ出向して来ている秘書官の机が並んでいる。
「万俵頭取でいらっしゃいますね、私、秋野でございます」
秋野秘書官がたって来、名刺をさし出した。大蔵省の主計局育ちで、総理官邸に転出する直前の役職は、主計官であったというのが、美馬から聞いた経歴だが、現在の銀行局銀行課長の井床《いどこ》がやはり総理秘書官だったことを思い合せると、万俵は四十二歳の秋野に、鄭重な初対面の挨拶をし、今日の格別の計らいを謝したが、同室の秘書官への思惑から互いに美馬のことにはふれなかった。
「恐縮ですが、総理は三時四十五分に官邸を出られますので、お話は十五分間でおすませ下さいますよう」
秋野はもの柔らかな口調の中にも、時間厳守を求めて、秘書官次室と総理秘書官室を遮《さえぎ》っている扉より、さらに分厚い扉を開けた。三番目に開かれた部屋が、ようやく総理執務室であった。
佐橋総理は、窓を背にした大きな執務机の前で、両手を椅子の肘《ひじ》について、坐っていた。斜め後方には国旗が掲げられている。
「本日は、ご多忙の中、突然お邪魔致し、恐縮に存じます」
万俵は、銀髪端正な表情に適度の頬笑みをうかべて挨拶すると、
「まあ、どうぞそちらに――」
佐橋総理は、特徴のある大きな眼で机の前の椅子を指した。関西に来る折は、関西財界人で作っている会合に出て来て、如才なく愛想を振りまくその眼が、こうして一対一で向い合うと、一種の威圧感をもって映る。万俵はこの時、自分が都市銀行でただ一人のオーナー頭取とは云いながら、たかだか第十位の地銀的都市銀行の頭取にしか過ぎないことにかすかな劣等感を覚えた。
指された椅子に腰を下ろすと、万俵は、
「本日、お伺いしたのはほかでもございません、私どもの次女が過日、細川信也氏のご長男一也君と婚約が整い、はからずも佐橋総理ご夫妻と、新たに姻戚《いんせき》関係を結ばせて戴くことになりましたので、そのご挨拶と、挙式が来春三月三日ですので、総理がもし国内におられるようでございましたら、是非ともご臨席賜わりたく、お願いに参上した次第です」
「ほう、それはご丁寧に――、細川信也は家内の弟だが、そういえば適齢期の青年がおったようだねぇ」
佐橋総理はそう云っただけで、予想以上に反応が薄かった。総理夫人の予定に合わせて、二度も正式の見合いの日取りを変更し、京都の嵯峨《さが》の『吉兆』であれほど大そうにした見合いであるにもかかわらず、総理には全く伝わっていないのか、あるいは伝わっても、とっくに忘れ去られているらしい。万俵は自尊心を傷つけられて、視線を総理の背後へ移した。窓には、ライフルで狙撃《そげき》されても、弾丸《たま》が貫通しないように、六枚張りの防弾ガラスが填《は》め込まれ、外は広い芝生の庭であった。天王山を背にした一万坪の宏大《こうだい》な岡本の自邸の庭と比べれば、さしたることもなかったが、この官邸の庭は、ヘリコプターが離着陸出来るよう整備され、一昨年の訪米の時も、昨年のアジア各国訪問の時も、佐橋総理はここから羽田へ直行している。
万俵は視線を佐橋総理へ向けた。今日のほんとうの目的は、総理夫人の甥《おい》の細川一也との婚約を有難がって報告に来、田舎者扱いされるためではない。来たるべき大同銀行との合併に備え、いざ事を公《おおやけ》にした時に諒承《りようしよう》を取りつけやすくするために、さり気なく、今からそれを響かせ[#「響かせ」に傍点]に来たのであった。
「ところで総理、現在の不景気はまだ当分、続きそうでしょうか」
「さあ、どうだろうねぇ、そういう問題は、万俵さん、あなた方の方が明るいでしょう」
国会答弁のように、軽くいなすように応《こた》えをはずしたが、万俵はそこが狙《ねら》いであった。
「銀行といわず、産業界といわず、全く環境が厳しくなりつつあります、これからは思いきって従来の発想を変え、業界再編成がやりやすいように、行政を仕向けて戴かないと、いろいろ困難な問題が出て参ります」
「うむ――」
「いずれ私の方にも将来、そんな問題が出て来るかもしれませんが、その節は――」
意味深長に、そこで言葉をきった。遠からずほんとうに“そんな問題”が持ち込まれて来るなどとは思っていない佐橋総理は、安易に顎《あご》で頷き、
「阪神銀行の預金順位は、何位だったかね」
至極《しごく》、鷹揚《おうよう》に聞いた。十五分の面会時間がそろそろ終りに近づきかけているので、せめてものお愛想で聞いたのだった。愛想を忘れないのは、政府関係者以外が総理執務室を訪れるのに、全く手ぶらであるはずがないからだった。後日の“挨拶”を考えている万俵は、落ち着き払った表情で、
「現在、十位です」
近々、このランクを一挙に五位に上げるプランを持って参上しますと、口にまで出かかる衝動を抑えて応えた。佐橋総理は、改めて阪神銀行がそんな下位の銀行なのかと思ったらしかったが、万俵は、
「永田大蔵大臣には常日頃、とりわけご厄介になってまして、感謝いたしております」
と云うと、佐橋総理にもその言葉の意味は響いたらしい。
「永田君とねぇ、彼になら、何でも遠慮なく持ち込んで、云ってくれていいよ」
「お言葉、有難うございます、お忙しいなかをお邪魔申しあげました、では本日はこれで失礼させて戴きます」
万俵は一礼して席をたった。“永田大臣になら何でも持ち込んで云ってくれ”という佐橋総理の言葉は、まさに千金に値する言葉であった。今度、永田大臣に会い、具体的に大同銀行との合併を打ち明ける時、佐橋総理のこの言葉を伝えれば、永田大臣の面倒見も一層、よくなるというものであった。
万俵は、入って来た時の道順ではなく、総理執務室の向うの応接間を通り、別の廊下を通って出た。総理を訪れる者は、必ず一方通行で、決して誰とも顔を合わせることのない仕掛になっているようであった。
久しぶりに万俵家のダイニング.ルームから、晚餐《ばんさん》の賑《にぎ》やかな笑い声がたっていた。
昼間、東京で帝国製鉄の兵藤副社長と会い、そのあと佐橋総理とも会って、夕方の飛行機で帰って来た万俵大介は、極めて上機嫌で食卓に向っていた。大介を正面に、寧子と相子、二子と三子が向い合って坐り、大介は血の滴《したた》るような生焼《レアー》のフィレ.ステーキを口に運びながら、
「二子、お前の華燭《かしよく》の典は盛大になるよ、今日、総理官邸へそのご挨拶《あいさつ》に行って来たよ」
「まあ、すごい、総理官邸って、万一の場合に備えて、中は迷路のようになっているんですってね」
二子より三子が、好奇心に満ちた顔を向けた。
「迷路というほどではないが、思いがけないところに階段があったり、廊下がわざと曲りくねってつけられたりしているね、総理執務室は防弾ガラスと鋼鉄の防弾扉《ドア》で囲まれ、一種独特な雰囲気《ふんいき》だったよ」
大介はそう応えながら、厳重に警備された建物の中で、一国の宰相としてぬくぬくと権力の座に坐っている男の顔を思いうかべた。それはどう見ても好ましい顔とは云えなかった。官僚政治家の冷たさと狡猾《こうかつ》さを身につけ、権謀術数を弄《ろう》して官僚組織を動かし、政敵は平然と金で買収する汚《よご》れた手の持主だったが、今の万俵大介はその汚れた手と結びつくことが必要であった。大介が唇に滲《にじ》んだステーキの脂《あぶら》をナプキンで拭《ぬぐ》い、フォークを置くと、相子が大きな眼を輝かせ、
「それで、総理との会見はいかがでございましたの」
「何しろ予定がびっしりで、十五分ほどしか時間がなかったが、近く姻戚関係になる挨拶をし、結婚式へのご出席をよくお願いして来たよ」
「それじゃあ、二子さんの結婚式には総理ご夫妻にご出席戴けますのね、すばらしいわ、銀平さんと万樹子さんの時だって、祝辞の代読だったんですもの――」
相子は自ら演出した舞台の幕が開くのを娯《たの》しむように、
「二子さんの式服は、白無垢紋綸子《しろむくもんりんず》の着物に、白唐織《からおり》の裲襠《うちかけ》、お色直しは疋田《ひつた》の振袖《ふりそで》とイヴニング.ドレスにきめておりますけど、お色直しをもう一回ふやしましょうか」
「けど、それでは花嫁の二子が疲れてしまいますわ」
母の寧子が案ずるように云うと、
「それぐらいは辛抱しなくては――、お仲人《なこうど》の小泉夫人のお電話では、参議院議長でいらっしゃる一也さんの伯父さまの細川節也さまも、この婚約を喜ばれ、結婚式には実力大臣をはじめ、錚々《そうそう》たる政治家の顔を揃えるとおっしゃっているそうですわ」
相子が声を弾《はず》ませ、三子も羨《うらや》ましそうに相槌《あいづち》を打った。大介はワイン.グラスに口をつけながら、さらに上機嫌で、
「二子、お前は倖《しあわ》せ者だねぇ、帝国製鉄の兵藤副社長にも会ったが、細川一也君の評判はとてもいいし、ひょっとしたら帝国製鉄とは仕事の面で親しい間柄になるかもしれないから、こんないい縁組はない」
と云うと、それまで頑《かたくな》なほど口を閉ざしていた二子は、父の方をまっすぐ見、
「私、今からでも細川さんとの婚約は解消して戴《いただ》きたいと思っております」
はっきりした口調で云うと、大介は、グラスの手を止めたが、すぐ声に出して笑い、
「何を云うのだい、今頃、恥ずかしがらなくていい、嫁入り前の娘のデリケートな感傷はお父さまだって解《わか》っているよ」
「いいえ、お父さま、私はそんな感傷でものを云っているのではありません、私はほんとうに――」
改まった姿勢で云いかけると、大介はさらに声をたてて笑い、
「いいよ、いいよ、解ってる、そんなことより、新婚旅行にパリへ行って、ツール.ダルジャンの鴨《かも》料理でも食べて来ることだな、セーヌ川沿いのテーブルに坐って、夜間照明に照らし出されたノートル.ダム寺院を眺めながら、冷たいポタージュからはじまる美味《おい》しい料理を食べるんだ、お隣の席には伯爵《はくしやく》夫人がいるという、あの雰囲気を楽しんでおいで」
いつになく、饒舌《じようぜつ》に喋《しやべ》った。
「あら、お酔いになりましたの」
相子が艶《なま》めいた眼《まな》ざしを向けると、
「いや、酔ってなどいない、今日はとてもいい晚餐だよ」
なおもあれこれと、新婚旅行の話をし、デザートのシャーベットを食べ終ると、たまには銀平のところへ寄ってやろうと、席をたった。
南側の緩い傾斜を上って、日本館との間にある池の傍《そば》まで来ると、大介は足を停め、そこから見える鉄平の住まいへ眼を向けた。鉄平は、まさか父が帰神してしまっているとは知らず、阪神銀行東京支店か麹町の行邸で、今も執拗《しつよう》に自分を待っていると思うと、残忍な快感がこみ上げて来、阪神特殊鋼が思惑通りの決着をみるまでは、どんなことがあっても鉄平に会うまいと、改めて腹を決めた。
池の前を通り過ぎ、銀平の南欧風の住まいまで来ると、居間に灯りが点《つ》いていた。庭から直接ベランダへ上ると、長椅子に寝そべって、経済誌の頁《ページ》を繰っている銀平の姿が見えた。ガラス戸を開けて、入ると、
「誰かと思ったら、お父さんですか」
銀平は、ものぐさそうに体を起した。
「珍しいね、お前もこの程度の早さには帰っているのかい」
「いえ、今日は四、五日続いた深酔いで、さすがにグロッギーになりましてねぇ」
そう云いながらも、やはり飲んでいたらしく、テーブルの上にブランディ.グラスが載っている。
「どうです、召し上りますか」
「うむ、貰《もら》おう」
大介はグラスを受け取り、
「どうだい、もういい加減に万樹子を迎えに行ったら――」
「またそのお話ですか、それなら答えは同じです、僕はのこのこ行きませんよ」
「だが、向うは相子が行き、寧子が足を運んでも、やはりお前が直接、迎えに行って誠意を示さない限り帰さないと云っているのだから、自分自身で行くことだ」
「勝手に出て行って、誠意を強要するなんて滑稽《こつけい》ですよ、僕は行きません」
「そんなに万樹子が気に入らないなら、何も難かしいことは云わない、適当に遊べばいいじゃないか、ともかくこのところ、万樹子を万俵家から離縁《さ》らせるわけにはいかない」
命じるように云うと、銀平の青白んだ顔が大介の方へ向き直った。
「お父さん、万樹子を離縁《さ》らすことが、どうしてそんなに重大な問題なんです、二子の結婚が間近いからですか」
「それだけじゃない――」
重い口調で応え、大介は暫《しばら》くブランディ.グラスの琥珀《こはく》色の液体を見つめていたが、
「銀平、当行は近々、合併する」
と告げると、銀平はさすがに表情を動かした。
「なるほど、そういうわけだったのですか、合併相手はどこなんです?」
「大同銀行だ――、但《ただ》しこの合併は、当行が実質的に大同銀行を呑《の》み込む合併だから、心配することはない」
「心配なんかしませんが、どうやってそんな合併が可能なんですか」
銀平は、バンカーらしく受けて聞いた。
「それはまだお前にも云えない、だが小が大を呑むからには、二年がかりで慎重な準備をし、美馬を通して、大蔵省銀行局にはもちろん、永田大蔵大臣にも周到な根廻しをしてある、あとは株主の旗振り役として安田太左衛門氏の力が必要だから、今、安田家とまずくなるわけにはいかない、場合によっては私も一緒に行くから、お前はこの際、是非、万樹子を迎えに行っておくれ」
鉄平に対する時とは打って変った思いやりと優しさを籠《こ》めて、大介は云った。
ゴルフ.ネットの標的の真ん中にボールが命中し、万樹子は得意気に二子を振り返った。
「二子さん、ちょっとした腕前でしょ」
「ええ、お始めになってどのくらいなの?」
「半月そこそこってところかしら、近くに打ち放しの練習場があるので、目下はそこのコーチについて基本的な打ち方のレッスンを受けているんだけど、練習場や家のインドアは早く卒業して、コースに出たいわ」
万樹子はそう云い、キュロット.スカートの裾《すそ》を翻《ひるがえ》して、再びボールを打った。中心の的からはずれるボールもあるが、多くはクラブの真芯《ましん》に当り、ばしっ、ばしっと標的の布を鳴らす音が、安田家の広い芝生の庭に響き渡る。
二子はやや離れたガーデン.チェアに坐って、クッキーをつまみながら、
「ナイス.ショット! その調子なら間もなく、コースに出られるわ」
「ところが、私のコーチったら、コースを廻る話になると、あと暫くのご辛抱をと一向、煮えきらないから、いらいらしてしまうのよ」
その途端、万樹子は大きく空振りした。銀平自身が迎えに来るならという条件付きで、万俵家に帰ることを諒承《りようしよう》してから一週間経《た》っているのに、銀平からは電話一本かかって来ないことが、万樹子の心を苛《いら》だたせているのだった。
「万樹子さん、今日、お電話下さったの、何かご用があったんじゃなくて?」
二子は思いきって、聞いてみた。万樹子の電話は、万俵家にではなく、ピアノのレッスン先にかかって来た。「久しぶりにあなたと会って、お喋りしたいわ」と云われ、レッスンの帰りに安田家を訪ねたのだった。
「二子さん、あなたもお打ちにならない?」
万樹子は、二子の問いにはすぐに応《こた》えず、クラブをさし出した。冴《さ》えた秋の陽はいつの間にか翳《かげ》り、ゴルフ.ネットの標的の輪郭がぼんやりと薄らぎはじめていたが、二子はスタンスをきめて、打った。
「このアイアン五番、少し重いわね」
二、三打、打ってみて云うと、
「そうかしら、……ところで、銀平さんのその後のご様子はいかが?」
万樹子は、ようやく口をきった。
「まあまあってところかしら、それより万樹子さんは、お戻りになるお気持、全然ないの?」
「目下、考慮中よ、でも家の方じゃあ、特に父が態度を硬化させているわ、いくら何でも、銀平君は誠意がなさすぎるって――」
「そうおっしゃられても仕方がないわ、でも万樹子さんご自身、銀平兄さんに会って、話してみようとはお思いにならないの」
「そんなの厭《いや》よ、向うからそう云って来るならともかく、私の方からは絶対、そんな申入れなどしないわ」
「それは万樹子さんの意地? それとも愛情――」
「愛情だなんて、とんでもないわ、銀平さんとの間には、そんな感情はとっくに失《な》くなっているのよ」
万樹子は、投げやるように云った。
「愛情が失くなっているのなら、一体、何を考慮中なの? 私には解らないわ」
二子がそう云った途端、万樹子の顔が引き歪《ゆが》んだ。
「――私にだって解らないわ、だから苛々するんじゃない! こんな状態って、生殺しも同然よ、私は、まだあなたと同じ二十四歳なのよ」
ヒステリックに叫んだかと思うと、うっと声を殺すように嗚咽《おえつ》した。二子は胸を衝《つ》かれ、慰める言葉もなく、押し黙った。
「まあ、まあ、こんな暗うなっても、まだ打ってはりますの」
芝生の向うから、万樹子の母の佳江が近付いて来た。二子は慌《あわ》てて持っていたクラブを振り、
「気がつきませんでしたわ、すっかり夢中になっていたものですから――」
と応えたが、二人の傍《そば》に来た佳江は、
「二子さん、お夕食ご一緒して下さいね、もうすぐ用意が整いますから」
万樹子を訪ねて来てくれたことを心から喜ぶように云った。
「有難うございます、でも私、今日はこれから三宮へ行く用がありますから、もう失礼させて戴きますわ」
「あら、こんな遅くなって三宮へ? お買物なら明日にして、今日はご一緒してよ」
万樹子は、せがむように云った。
「お買物じゃなくて、お約束があるの、ピアノのお友達のお誕生日なので――」
一之瀬四々彦と会うためであったが、二子はそう云い繕い、万樹子と母の佳江に挨拶《あいさつ》して、安田家を出た。
三宮で電車を降りると、二子は、フラワー.ロードに面した神戸市役所の前まで駈《か》けるようにして步いた。一之瀬四々彦が、阪神特殊鋼の帰途、車を運転してきて、七時にそこで落ち合うことになっていたのだ。
市役所前の花壇のところまで行くと、前方から、四々彦のブルーバードが走って来て停まった。
「待たせて失敬――、社の方で出かける前に、ちょっと仕事があったものだから」
と云い、助手席の扉《ドア》を開けた。
「お仕事で遅れたのなら、勘弁してあげるわ」
悪戯《いたずら》っぽく笑って、二子は助手席に坐り、
「私、今、無性に夜の海が見たいの、舞子海岸まで参りましょうよ」
と云った。四々彦はちょっと躊躇《ためら》うような様子をしたが、ハンドルをきって、フラワー.ロードをUターンすると、海岸通りに車を走らせた。暮れなずんだ海の向うに、大きな船体が黒いシルエットを描き、かすかに重油の混じった潮風が匂《にお》って来る。
「熱風炉の工事、兄に聞いたのですけれど、ようやく再開されたのですってねぇ」
二子が云うと、四々彦は油気のない髪を風に吹かせながら、
「警察関係の現場検証で長い間、待たされましたが、ともかく再開されて嬉《うれ》しい限りですよ、あとは熱風炉の中へ積む特殊耐火煉瓦《れんが》さえ出来上って来れば、復元工事は一気呵成《かせい》に進むでしょう、高炉はもう完成しているし、操業まであと四カ月ほどですよ」
技術者らしい喜びを噛《か》みしめるように、云った。
塩屋を通り過ぎるあたりから、海沿いの国道は急に車が少なくなり、四々彦はスピードを上げた。暗い海に浮かんだ燈《とう》浮標《ふひよう》の光が点滅し、その向うに淡路島の灯りが見える。
舞子海岸の砂浜と松林が続く道に入ると、四々彦は車を海べりの砂浜ぎりぎりの場所に進めた。星空の静かな夜だったが、砂浜に打ち寄せる波の音は、意外に大きい。
四々彦と二子は、車の中に坐ったまま、暫く海に眼を注いでいた。
「四々彦さん、あなたとのこと、兄から父に話して貰うことになっていたのですけど、私自身が父に話しますわ、いいでしょう」
二子は、思い詰めるような語調で云い、四々彦を見た。
「じゃあ、帝国製鉄の方との婚約は、解消したというわけですか」
そこまで云う限り、既に婚約解消の上だろうと、四々彦は考えた。
「いいえ、父は昨日《きのう》、東京から帰って来て、結婚式には、佐橋総理や帝国製鉄の兵藤副社長も出席して戴《いただ》けるようお願いして来たと、上機嫌で話してましたわ」
「そこまで話が進んでいて、あなたは、よくそんな他人《ひと》ごとのように話せますね、いくら周囲がむりやりにことを運んだといっても、僕には到底、理解出来ない――」
四々彦が咎《とが》めるように云うと、
「だって、兄も、あなたも、高炉が出来るまでとおっしゃっていたから、それまでお待ちしてたんですわ、四々彦さんのお気持に、変りはないのでしょう」
「変らない、だけど……」
「だけど、何?」
四々彦は、フロント.ガラスの向うの浜辺に打ち寄せる波頭を厳しい顔でじっと見詰めたまま、応えなかった。
「四々彦さん、私の父が恐いの?」
「君のお父さんが? 僕にとって恐いのは、そこまで運んでいる婚約を解消して、僕と結婚することをはっきりさせた時、君に集中する非難だよ」
「覚悟はしています、でも私は、自分がほんとうに愛している人の前を眼をつぶって通り過ぎ、他《ほか》の人と結婚することなど出来ないの!」
迸《ほとばし》る気持をぶっつけるように二子は、四々彦の胸に顔を埋めた。四々彦の両手が二子の頬に触れ、唇を重ねた。波の音を遠く聞きながら、はじめての長い口づけだった。四々彦の腕の中で、二子は眼を閉じた。やがて顔を離すと、四々彦は、
「万俵専務には出来るだけ早い機会にお話しし、それからあなたの家へ諒解を戴きに行く」
熱っぽい真摯《しんし》な眼で云い、ふと何を思ったのか、
「さっきの話では、万俵頭取は昨日、東京から帰られたそうだけど、間違いはないですね」
確かめるように聞いた。
「ええ、昨日、六時半頃に帰って参りましたわ、それが何か?」
二子は、怪訝《けげん》そうに応えた。
「おかしいな、昨夜七時頃、東京の万俵専務から高炉のことで僕に電話があり、資金繰りの件でどうしても父に会わなければならないので、上京中の父を追っているが、まだ会えずにいるから、今晚は帰れないと、そうおっしゃっていたんだ……」
「じゃあ、父はわざと兄を避けたのかしら……」
「しかし、なぜ、そんなことを……」
「四々彦さん、私、今度の婚約を通して気になることが一つあるの、……阪神特殊鋼は、まさか帝国製鉄の傘下《さんか》へ入れられるようなことはなくて?」
「いくら何でも、それは二子さんの考え過ぎだろう、将来、そんなことにならないように、高炉を建てたんじゃないですか」
四々彦は、二子の心配をふっきるように云った。
「それならいいのですけど――、この間、帝国製鉄のその方と、東京の姉夫妻をまじえてお食事した時、義兄《あに》とその方の間で、帝国製鉄と阪神特殊鋼が親密な関係になればいいという話が出たので席をたってしまったんです、でも昨夜、父がいうには、兵藤副社長と会った時もそんな話が出たようなことを云っていましたの、それで、あまり符合するし、もしやと不吉な思いがしたんです――」
二子が云うと、四々彦は真っ暗な夜の海に向って、唇を噛《か》んだ。
高血圧症で臥《ふ》せったきりの石川正治を、万俵大介は土曜日の午後、芦屋の邸《やしき》に見舞った。玄関に出迎えた大介の妹の千鶴は、広縁づたいに奥まった寝室へ案内しながら、
「お忙しいのによく来て下さったわね、ちょうど会社の銭高常務がお見舞に来て下さっているんですのよ」
「ふうん、銭高君が――、鉄平は来るかね」
大介は、手入れの行き届いた庭に眼を遣《や》った。
「ええ、半月に一度はどんなに忙しくても来て下さるけど、なんだか疲れきった顔をしているわね、大丈夫なの」
「大丈夫って、何が――」
「もちろん体よ、うちの人に続いて鉄平さんに倒れられたら、大へんですもの」
「ああ体のことか、鉄平は生来、身体頑健だから、心配はいらんだろう」
素っ気なく云った。
廊下を折れ、奥まった寝室の襖《ふすま》を開くと、石川正治は枕《まくら》屏風《びようぶ》を前にして三枚重ねの緞子《どんす》の蒲団《ふとん》に臥せっていた。枕もとには銭高が畏《かしこ》まっている。
「あなた、兄が見舞に参りましたよ」
千鶴が声をかけると、銭高を相手に愚痴をこぼしていたらしい石川は慌てて上体を起し、銭高も下座《しもざ》へ下った。
「どうぞそのまま――、一頃《ひところ》よりお元気そうじゃありませんか」
万俵は、枕もとに坐り、強いて明るい口調で云った。鶴《つる》のような痩身《そうしん》の石川は、高血圧症特有の赤味を帯びた顔を頷《うなず》かせ、
「お陰でどうにか入院せずにはすんだものの、痩《や》せた者の高血圧は危険だそうで、医者からなお静養を命じられています、会社のことが気になりながらも、まだ出られないんですよ」
弱々しい笑いを見せた。義兄に対するというより、千鶴の夫として阪神特殊鋼の社長に据えられているという気兼ねがありありと窺《うかが》われた。
「あなたは、サラリーマン社長ではないんですから、そんなことを気にせず、充分、静養につとめられることですよ、今日の血圧はどの位なんですか」
と聞くと、千鶴が、
「今朝《けさ》、お医者さまに往診して戴いた時は、一七〇でしたわ」
「じゃあ、ちょっと高いな、昨日、姫路のうちの山林《やま》でとれた松茸《まつたけ》を、例年のように山守《やまもり》が持って来たので、家の者に届けさせますよ、焼松茸にでもして賞味して下さい」
気持を引きたてるように云うと、
「ほう、もうそんな季節になりましたか――、好物だから早速、頂戴《ちようだい》します、ところで今日は、会社のことで何かお話があるんじゃないのですか」
病人らしい敏感さで、聞いた。
「それそれ、すぐそういう風に気を遣うから、よくなられんのですよ、それとも銭高君が何かつまらんことを喋《しやべ》ったのかね」
じろりと睨《にら》むと、銭高は、
「いえ、私もお見舞に伺っただけで、別に――」
ねっそりとした表情で、否定した。
「確かに銭高君も、鉄平君も、それから時折、見舞に来てくれる他の役員たちも、爆発事故のあと事故処理委員会が出来て、長期開発銀行に財務内容の調査を受けたが、会社の資金繰りは銀行間の話合いで順調にいっていると、口を揃《そろ》えて云うには云う、しかしそれにしては、どうして皆、ああ元気のない顔をしているのか……、ことに鉄平君に至っては疲労困憊《こんぱい》している様子じゃないですか、義兄《にい》さん、隠さずにほんとうのことをおっしゃって下さい、阪神特殊鋼はよほど危機に瀕《ひん》しているんではないですか」
と云うなり、石川は上体を起しかけ、そのはずみで、枕もとの薬袋から、降圧剤がばらばらと畳に散らばった。
「まあ気持を鎮《しず》めなさい、そりゃあ阪神特殊鋼は苦しくないといえば嘘《うそ》になるが、業界全体が不況のどん底なんだから、どこも同じですよ、そのうち抜本的な切抜け策を考えますから、あなたはともかく養生専一にして下さい」
と云いながら、もと通り寝かせにかかると、石川は不安そうに大介の顔を見詰めたまま、
「抜本的な切抜け策というと……、今まで通り、阪神銀行が親銀行として面倒をみて下さることに変りはないのでしょうね」
確かめるように聞いた。銭高は視線を逸《そ》らしたが、万俵は急に高飛車な口調で、
「そういうことはあなたが心配しなくともいいのですよ、お疲れのようだから、私はこれで帰りますが、暫《しばら》くぐっすりとお寝《やす》みになったらいかがです、銭高君、君も失礼し給《たま》え」
と席をたつと、銭高も病人に挨拶して寝室を出た。
「あら、もうお帰りですの、せっかく、おうすをたてましたのに――」
広縁のガラス障子を開けて、千鶴が抹茶《まつちや》を運んで来た。
「いや、銭高君と話があるから、ちょっと座敷を借りる」
二人が樹齢百年を数える松と築山《つきやま》の見える座敷に入り、紫檀《したん》の座敷机を隔てて坐ると、千鶴は干菓子《ひがし》と抹茶を置いて、すぐ部屋を出た。
万俵と銭高は黙って、干菓子を口にし、抹茶を飲んだ。しかし茶碗《ちやわん》が空《から》になっても、万俵は何も云い出さず、織部焼《おりべやき》の肌合いを楽しむように、掌《たなごころ》に入れて眺めているばかりだった。
「あのう……本日、こちらの方へ伺うようにと、秘書の速水君を通じて連絡がありましたのですが――」
銭高は、長い沈黙に耐えきれぬように口を開いたが、万俵はなおも茶碗から眼を離さず、うむと頷いただけだった。
「頭取のご用は、明後日、長期開発銀行で行なわれる三頭取会の席に、専務と私が呼ばれている件についてでございましょうか」
再び銭高は、しびれをきらすように聞いた。長期開発銀行からは石川社長、万俵専務、銭高の三人に呼出しがかかっていたが、石川社長は病臥《びようが》中で出席出来ない旨《むね》を返事し、万俵鉄平と銭高が出向くことになっていた。
万俵は、茶碗からようやく眼を上げ、
「むろん明後日の件だ、心の準備は出来ているだろうねぇ」
低い押しつけるような声で云った。銭高ははっと顔色を動かし、
「頭取、私は長期開発銀行でどんなことを聞かれるのでしょうか、私は何も……」
「何を聞かれるか、それは解《わか》らない、明後日の三頭取会では、当行はむしろ受身の立場だからねぇ」
他人《ひと》事《ごと》のように応《こた》えた。
「ですが、一番、追及される点といえば、大同銀行から借り増すための見せかけ融資を行なったということでございましょう、しかしそれは頭取からのご指示で、そのご指示通り帳簿操作をしただけであり、私個人としては何の動機もないわけでして……」
恨みがましく、万俵を上眼遣いに見た。万俵から見せかけ融資を指示されたあと、担保の面でも、それまでの融資額に見合った担保を手厚く確保しておきたいからと云われ、その面でのかなり強引な操作も強いられていた。だから銭高は、万俵が阪神特殊鋼に何を企《たくら》んでいるのかを察知していたが、万俵は眉《まゆ》一つ動かさず、
「で、君は、三頭取会でそのことを衝《つ》かれたら、どういう答弁をするのかね」
「それは……むろん私一人の独断で行なったと申しますが……、しかしその結果、こういうことにはなりませんでしょうね」
両手を前につき出し、縄つきの恰好《かつこう》をした。それは滑稽《こつけい》というより、みじめな男の姿であった。
「当然じゃないか、そんな馬鹿《ばか》な! だが高利を借りていた点はまずかったな」
「その点も、いよいよ資金に詰って、再び不渡りを出しそうになったので、頭取のところに参上致しましたら……」
と云い、あとは言葉を呑《の》んだ。万俵に、これ以上は他行からも借りられず、高利に手を出すよりほかなくなりましたと訴えた時、万俵はいいとも、やめろとも云わなかったが、今さらそれを口にしてみても仕方がなかった。
銭高は既に、万俵から将来の生活を保証して貰《もら》っているのだった。それは万俵家の女たちが身につけているダイヤやエメラルドの指輪の二つか三つ分に相当したが、高校生を頭《かしら》に三人の子供がいる五十五歳の銭高には有難い額といえた。
東京虎ノ門にある長期開発銀行の頭取専用応接室の扉《とびら》は、固く閉ざされていた。
大きな丸テーブルに長期開発銀行の宮本頭取、阪神銀行の万俵頭取、大同銀行の三雲頭取が席をとり、その向い側に阪神特殊鋼の専務である万俵鉄平と常務の銭高が畏《かしこ》まるように坐って、もう一時間も前から、財務調査に基づく阪神特殊鋼側の事情が聴取されていた。
宮本頭取は、日頃の包容力のある温和な表情を厳しく引き締め、
「先程来、ご説明した通り、阪神特殊鋼の財務調査の結果は、容易ならざる事態を示しており、銀行団としては重大な決意をしなければならぬわけです、阪神特殊鋼の経営陣としては、現状をどのように認識しておられますか」
鉄平に向って聞いた。連日の疲労で青黯《あおぐろ》い顔をしていたが、鉄平は姿勢を正して、
「極めて困難な事態にあることは、重々承知しておりますが、いま一度、融資のご協力を得て、何としても高炉を稼動させ、一貫生産によるコスト.ダウンで経営内容を改善したいと思っております、そのためには、いかなる苛酷《かこく》な条件にもうち克《か》つ所存でございます」