「私、こんなこと、いやになって来たわ」
投げやるように云うと、
「そんなこと相子に云われたら、私が困る、解《わか》ってるだろう?」
と云いながら、万俵は銀行合併が成功し、新銀行が誕生すれば、相子と自分の間は今までのようには行かなくなるだろうが、これほどの才能と容貌《ようぼう》を持った女を手放すには惜しいし、さりとて新銀行の頭取ともなれば、これまでのような妻妾《さいしよう》同居の生活は許されなくなるだろうと思った。
「相子、ここでバスをお使い――」
「だって着替えのお洋服は、私のお部屋よ」
「着替えなどいらない、晚餐《ばんさん》まで少し寝《やす》もう」
万俵はぬるむような声で云った。窓の外はすっかり暮れ落ち、薄墨色のかすかな稜線《りようせん》を見せていた富士も、闇《やみ》の中に消えていた。
相子は湯上りの豊満な体にバスタオルを巻きつけただけの露《あら》わな姿で、万俵のベッドに入った。万俵の体はいつもより熱く昂《たかぶ》っていることが感じ取られた。仕事の上で何か征服欲を満たした時に必ず感じ取られる万俵の体の昂りであった。万俵の両手が、相子の背に廻り、唇が首筋に触れ、乳房に触れて行った。身をよじらせると、さらに昂るように全身を愛撫《あいぶ》した。相子は喘《あえ》ぐように顔を上げ、
「ほんとうは、今夜は寧子さんの番ね」
と云うと、自分のその言葉に昂奮《こうふん》し、酔うように、相子の方から、万俵の体に四肢をからめて行った。
ほの暗い室内で濃密な情事が終っても、相子の体にはまだ尾を曳《ひ》くようなほてりが残っていた。相子は体をくねらせ、万俵の足に自分の足をからませたが、万俵は力を抜いたまま、応じなかった。
「やはり足は、纏足《てんそく》のように小さくて白い寧子さんの方なのね」
湿った声で相子が云った途端、大介の胸にふと、亡父が公卿《くげ》の女の手足はましゅまろのように白く柔らかいということだな、と云った言葉が思い出され、そこに自分の新妻を犯す脂ぎった亡父の顔が浮かび上り、その亡父の顔に、明後日《あさつて》、最後の引導を渡す鉄平の顔が重なり合った。
万俵鉄平は、夜明け近くになっても、眠ることが出来なかった。今日、阪神特殊鋼に対する銀行団の結論が、メイン.バンクの阪神銀行で申し渡され、自社の命運が決まるのであった。
傍《かたわ》らのベッドで寝んでいる妻の早苗を起さないように、そっとナイト.テーブルの灯《あか》りを点《つ》けると、水差しの水をコップに注《つ》いで、睡眠剤をさらに飲み足した。資金繰りにあけくれる毎日を切り抜けるため、数カ月前から使いはじめた睡眠剤は、またたく間に量が増えている。
「あなた、まだお寝みになれないの」
鉄平の気配に目を覚ました早苗は声をかけた。
「うむ、眠れない」
「あまり考え過ぎないで――、いくらお舅《とう》さまがあなたに冷たいといっても、見殺しになさるようなことはないわ」
夫の気持をいたわるように云った。
「解っている、しかし――」
鉄平は、ほの暗い天井を見上げた。
「しかし、なんだとおっしゃるの、あなたが考えていらっしゃることといえば鉄のことばかり――、家庭で子供たちとゆっくり寛《くつろ》ぐこともなく、年中、仕事に打ち込んでいるあなたの姿は、お舅さまにもよくお解りのはずだわ」
早苗は涙声で云い、枕に顔を押しあてた。昼間はきりっと束ねてある髪が解かれて、毛先が両肩でこきざみに震えている。このところかまいつけてやれない妻に、鉄平はふと胸を衝《つ》かれたが、さりとて欲望も起らない。
「もうお寝み、少し眠くなって来た」
灯りを消すと、
「あなた、こんな時、大川の父が生きていてくれたら――」
早苗は縋《すが》りつくように云った。たしかに自由党の実力者で、通産大臣をはじめ数々の国務大臣の経歴を持ち、官僚にも隠然たる勢力を振るっていた大川一郎が生きていたなら、阪神特殊鋼はここまで追い詰められはしなかったろうという思いがする。しかし、今さら岳父《がくふ》の死を悲運と嘆いてもはじまらず、実の父である万俵大介を信頼するよりほかなかった。鉄平は一縷《いちる》の望みを抱いて、ようやく、うとうとと、まどろんだ。
午前八時に一旦《いつたん》、阪神特殊鋼へ出社した後、鉄平は阪神銀行本店に出向いた。融資担当の渋野常務から、十時に頭取室へお運び願いたいと伝えられていたのだった。
東側玄関で車を降りると、睡眠不足の充血した眼に秋陽が眩《まぶ》しく照りつけ、眩暈《めまい》を感じたが、鉄平は足を踏んばるように玄関の階段を上った。
三階役員受付には、頭取秘書の速水《はやみ》が階下《した》からの連絡をうけて、出迎えていた。
「お待ち致しておりました、どうぞ――」
もの静かな口調で挨拶《あいさつ》したが、秀《ひい》でた額の下の澄んだ眼に、緊張感が漂っている。鉄平は黙って頭取室に向い、速水が開いた扉《とびら》の中へ入った。
部屋では、父の万俵大介が頭取机の前の回転椅子に坐り、融資担当の渋野常務がその斜め横の椅子に坐って待ち受けていた。
鉄平は、父の前にたった。
「このところご心労をおかけして、申しわけありません、本日、銀行団の最終結論を伺いに参上致しました」
「そこへかけるよう――、話は渋野常務からする」
言葉短かに応《こた》えた。指《ゆびさ》された椅子に腰を下ろすと、渋野常務が口を開いた。
「では私から、五日前に長期開発銀行で行なわれた三頭取会、その翌々日、関西銀行協会で行なわれた七行専務、常務クラスによる事故処理委員会の結論をもとに、メイン.バンクとしての意見を申し上げます」
いつもの遠慮がちな口調とは打って変っている。
「まず長期開発銀行の宮本頭取、大同銀行の三雲頭取、万俵頭取の三頭取会の結論ですが、はじめは共に阪神特殊鋼救済のために最善を尽すという前提にたって、話合いが行なわれました、しかし百億を上廻る赤字欠損のみならず、今後、この赤字がどの程度、増えるかわからないという点で、最初に長期開発銀行が設備銀行という性格上、融資続行は不可能であるとしておりられ、次に三雲頭取と万俵頭取の間で政府救済としての日銀特融が話し合われ、三雲頭取が日銀ご出身であるところから、松平総裁に直接、日銀特融を申し入れられましたが、金融機関以外の私企業に対する特融は前例がないという理由で却下されました。
したがって三頭取会では阪神、大同二行による融資では支えきれないと判断し、七行専務、常務の事故処理委員会に結論を持ち越しました、ところが日銀特融却下が各行に伝わり、救済不可能の意見が圧倒的になり、メインの当行にすべてが委任された次第です」
三雲頭取の日銀特融工作の失敗が各行の融資方針に影響したかのような云い方をしたが、阪神特殊鋼救済に最も力を尽してくれたのは三雲頭取であるということを知っている鉄平は、ぐっと口を真一文字に結んでいた。
渋野常務はさらに、言葉を続けた。
「そこで、メインの当行の結論ですが、この段階ですから、歯に衣《きぬ》をきせずはっきり申し上げます、第一に阪神特殊鋼の現状については、既に今後の経営を続けられるような状態ではないと判断します、第二に今後の経営の継続についての経営陣の能力ですが、石川社長は病床にあるし、専務のあなたが経営に当られて現状を乗りきられるには、何といってもまだお若すぎ、キャリア不足と判断致します」
あからさまに、鉄平の経営能力を批判した。鉄平はきっと眉《まゆ》を上げ、渋野の言を遮《さえぎ》りかけたが、渋野は、
「以上の二点からして、会社の現状をいかに収拾するかであります、さし当って十日後に十九億の手形決済が迫っていますが、銀行団が手を引いた状況下で十九億の不渡りを出して倒産すれば、関連企業に連鎖倒産を起し、一阪神特殊鋼にとどまらず、大へんな混乱を招き、社会問題にもなります、よってこの際、会社更生法の適用を受け、債務の棚上げと同時に財産の保全をはかられることを勧告致します」
と告げた。万俵大介は依然として、渋野常務にだけしゃべらせ、自身は沈黙している。鉄平は憤《いきどお》りで顔を朱奔《しゆばし》らせ、
「会社更生法の適用は、私としては受け入れられない、一昨日、東京で開かれた商社団の会合で、十日後の十九億の手形決済の期限は、銀行団が何らかの保証さえすれば延期し、阪神特殊鋼の自主更生に協力するという結論が出された、渋野常務、あなたは商社団の、銀行団に対する救済要請を聞いているはずではありませんか」
「それは聞きました、しかし銀行には預金者保護という立場があり、どのような保証ももはやすることは出来ません、第一、阪神特殊鋼自体、会社更生法による再建以外、生きのびる道はないと存じます」
「じゃあ伺うが、会社更生法によって、阪神特殊鋼の今後の経営はどう変るというのですか」
「それを検討するのは、会社更生法を申請して、整理をつけてからのことですが、われわれとしては、従来から親しい間柄にある帝国製鉄から人材を迎え入れ、原材料の購入から製品の販売まで、帝国製鉄のルートにのせれば、再建は早いと考えています」
渋野が応えた途端、鉄平は椅子からたち上った。
「それではまるで、帝国製鉄の傘下《さんか》にすっぽり入るも同然じゃないか、阪神特殊鋼を帝国製鉄に身売りさせる気なのか!」
青い焔《ほむら》を燃えたたせ、父と渋野に詰め寄ったが、万俵大介は眉一つ動かさない。渋野も瞬時、押し黙り、
「万俵専務、帝国製鉄の件については、まだ先の話で、今は会社更生法の申請を勧告しているのです、あなたの会社に対する愛着は解りますが、あなた一人の執着のために、三千人の従業員と下請け、関連企業を犠牲にするのですか」
鉄平の崩れやすい点を衝いた。そのもくろみ通り、鉄平は振り上げた両の拳《こぶし》の持って行きどころがないように、たち竦《すく》んだ。
「当行の勧告を受け入れられますね」
すかさず、渋野が畳み込むと、
「――いや、私は、これまでやって来たことは間違っていないと信じている、今日《こんにち》の逆境を生みだした最大の原因は不測の熱風炉の爆発事故と、メインである阪神銀行の融資停止から起った資金繰りの窮迫だ、資金繰りさえもう暫《しばら》く続けば、私は高炉を稼動させ、会社を自力で再建させる自信がある、どうか会社がたち直るまで、今まで通りやらせてほしい」
鉄平はなおも強く更生法の申請を拒み、メインの援助を求めたが、渋野は、
「しかし万俵専務、もう遅うございますよ、あなたは暫くご静養下さい、会社更生法さえ申請して下されば、あとはわれわれで再建に当ります」
最後の言葉を口にした。鉄平ははっと、父の方を向いた。
「私に静養しろというのは、頭取の意思でもあるのですか」
しかし、万俵大介は応えなかった。
「渋野常務、私に辞めろというのは父の意思なのか、どうなんだ!」
狂ったように叫ぶと、
「鉄平、男というものは諦《あきら》めが肝腎だ、当行の決定通り、お前は暫く休養することだ!」
冷徹な声が飛んだ。一縷《いちる》の望みは父によって断ち切られた。鉄平はがっくりと肩を落し、
「仰《おお》せの通り、私は退きましょう、そのかわり、何とか更生会社にせずに生かしてほしい、せめてこの願いだけは聞き入れて下さい」
机の上に体を乗り出し、父に懇願すると、不意に万俵大介の顔に、憎悪《ぞうお》に似た色がうかんだ。
「女々《めめ》しいぞ、鉄平、いつまで祖父の亡霊に取り憑《つ》かれているのか!」
思いがけない言葉が浴びせられた。鉄平は愕然《がくぜん》とし、父の背後の壁に掛っている自分と瓜二《うりふた》つの先代、万俵敬介の肖像写真を見上げた。その途端、鉄平の心の奥底に残っていた父に対する肉親の絆《きずな》が、ぷつんと切れる思いがした。
「お父さん、あなたは――」
あとは言葉にならず、全身を戦慄《わなな》かせて父を凝視した。
鉄平は、深い衝撃を受けて阪神特殊鋼へ帰って来ると、まっすぐ専務室へ入らず、一之瀬常務の部屋へ足を向けた。今、自分の衝撃を受け止め、阪神特殊鋼の行くべき方向を誤たず考えられるのは、彼だと思った。だが一之瀬の姿は部屋には見当らず、秘書が、工場へ出かけられましたと告げた。工場長であり、常務である一之瀬としては、鉄平が阪神銀行から帰って来てから、病中の石川社長も出席して開かれる予定の緊急役員会まで、他《ほか》の役員のようにじっとしていられず、居てもたってもいられぬ思いで、現場へ出かけているに違いなかった。鉄平はジープに乗って、現場に向った。
高炉建設現場まで来ても、一之瀬の姿は見当らず、既に完成して稼動を待つばかりの高炉が聳《そび》えたっていた。その横にガス爆発事故を起した熱風炉が復旧しつつある。この熱風炉の事故さえなければ、今頃は高炉を動かし、銑鉄《せんてつ》がどんどん出ていたであろうにと、思わず歯がみし、原料ヤードのある岸壁の方へ眼を向けると、岸壁の端にたっている一之瀬の姿が見えた。
ジープの音に気付いたらしく、一之瀬は振り返って、鉄平を見た。
「専務――」
とだけ云い、あとの言葉を跡切《とぎ》らせた。ジープを降り、眼を血走らせた表情で近付いて来る鉄平の様子で、すべてを察したのだろう。
鉄平は一之瀬の前にたつと、
「無念だ――、会社更生法の勧告を受けた……」
一言そう云うと、胸の中がごつごつと鳴り、耐えていた思いが、一度に噴き出して来た。一之瀬も激する気持を抑えかねるように、
「無念の思いは、私とて同じです、専務は高炉建設のために、技術.設備面だけではなく、自ら資金繰りにまで奔走され、よく体が持つと思われるほど精根を尽されました、ただ阪神銀行の頭取と阪神特殊鋼の専務という立場としては、そのような結論にしかならぬことでも、親子という間柄で何とかならなかったものでしょうか、そこが心残りです――」
「そこなのだ、私は経営者としての自分の非力、欠点は素直に詫《わ》び、父に助けを求めたが一蹴《いつしゆう》された、企業家同士というものは、親子といえども冷徹であらねばならぬとはいえ、親子の間も、人間性も捨てなければならぬものだろうか……、私は父の態度に割り切れぬものを感じる、或《ある》いは何らかの意図によって謀《はか》られたような気もする……」
と云い、鉄平は、大阪湾寄りに見える帝国製鉄尼崎《あまがさき》製鉄所の煙突に無念の視線を向けた。
「何を云われるのです、親が子を謀るなど――」
万俵大介と鉄平との間が、あまり温かではない親子であることを知っている一之瀬であったが、頭を振り、
「先代がお亡《な》くなりになる直前、万一、何かことがある時は若い鉄平を頼むと云い遺されました――、そのお言葉にもかかわらず、私は専務を補佐する力量にかけ、何のお役にもたちませんでした……」
一之瀬の眼に、はじめて涙が滲《にじ》んだが、
「専務、今はとつおいつ思っている時ではありません、正午からの緊急役員会を万遺漏《ばんいろう》なくやり通されるまでは、心乱されてはいけません」
二人の背後から海風が冷たく吹きつけていたが、一之瀬は鉄平を励まし、支えるように云った。
本社事務所に戻ると、石川正治は病気をおして出社し、他の役員たちも既に役員会議室に集まって、緊張した表情で専務を迎えた。
社長の隣席に坐ると、鉄平は沈痛な面持で口をきった。
「最後まで希望を捨てず、銀行側と話し合ったが、融資打切り、会社更生法の適用を勧告された――」
息を呑《の》む気配がし、石川社長は高血圧症の顔をみるみる紅潮させ、
「病床とはいえ、ことここに至るまで会社の危機を知らずにいて心苦しいが、今となっては皆さんで協議して、すべての事態に対処して戴《いただ》きたい――」
息切れするように云った。鉄平は言葉を継いだ。
「私としては、高炉さえ稼動すれば、一貫生産に入ってコスト.ダウンし得るから、何とか続けたい、そのためには私が責任を取って退いても、会社だけはこのまま生かしてほしいと頼んだが、それも容《い》れられなかった、今日まで、すべて高炉のため、高炉さえ出来ればと皆に協力を要請し、私自身も高炉に賭《か》けて来たが、会社更生法の手続きを取らざるを得ない事態にたち至り、役員諸氏をはじめ、従業員一同に申しわけない――」
鉄平は、頭を垂れた。一之瀬はたまりかねたように、
「いや、専務は死力を尽して闘われた、にもかかわらず、ガス爆発事故、特殊鋼の不況、そして金詰りと、一種の不運が重なったのです、もし専務が責められるなら、専務を補佐する任にある私たち三常務にも責任があります」
と云うと、経理担当の銭高常務は、口髭《くちひげ》をたくわえたねっそりとした表情で、
「私は全力を尽したつもりですよ、アメリカン.ベアリング社のキャンセル以来、四苦八苦で資金つなぎをしているところへ、思いがけない事故が起ったのです、あの事故さえ起らなければこんな窮地に陥らなかったはずでしょう、それにしてもあなた方は、いつだって技術第一主義で、経理には何の相談もなく、新しい設備を作る場合、まずそれをきめてから金の工面を押しつけるやり方をとられたことも、今日の羽目に繋《つな》がったといえますよ」
経理がいつも陽の当らぬ場であった積年の恨みまで口にした。
「しかし、高炉建設自体は今でも正しいことであったと思っている、だから私は技術、設備面だけではなく、金融面でも自ら一生懸命にやったのだが、こんな事態になって無念やる方ない、かくなった上は、社長と私が責任を取って退陣するから、あとに残った皆さんで、阪神特殊鋼が一日も早くたち直るべく再建策を考えて貰《もら》いたい、そのためには忍び難きを忍んで、会社更生法の適用に応じるのだ――」
鉄平は断腸の思いで云った。暫《しば》し声がなかったが、一之瀬は、
「会社更生法が適用されても、高炉計画は放棄せずにやって行けるのでしょうか」
技術者《エンジニア》らしい一徹さで云うと、銭高は、
「あんたは、高炉を動かすのに、どんなに金がいるか解《わか》っているのですか、高炉というのは、出来上った自動車を動かすような簡単なものではなく、原料、その他の運転資金がうんと要《い》る、これまでの債務を棚上げにして、設備、人員すべての面で縮小するのが、会社更生法の常ですよ」
経理面に疎《うと》い技術屋を窘《たしな》めるように云った。営業担当の川畑も、
「会社更生法が適用されると、当社のイメージ.ダウンが甚《はなは》だしく、ものを売る営業としては会社の信用、製品の信用ががた落ちして非常にやりにくくなりますね」
先行《さきゆき》に不安を覚えるように云い、一同は通夜《つや》の席のように沈んだ空気に包まれたが、鉄平は、
「倒産して野たれ死にするより、一時的には不名誉であっても、会社更生法の適用を受け、債務を棚上げにして、一日も早く技術と設備を誇る阪神特殊鋼を再建して貰いたい、それが今、私から皆に切に、お願いしたいことである――」
と云うと、一座は粛然とうな垂れた。鉄平は既に覚悟をきめた人らしく、静かに席をたった。これから会社更生法の適用を裁判所に申請するための書類作成に取りかかると同時に、下請けの連鎖倒産を食い止める手だてを講じなければならない。
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三 章
神戸の街に、阪神特殊鋼倒産のニュースが旋風のように渦巻いていた。
関係者筋には朝から噂《うわさ》として流れていたが、正午近くになると決定的となり、三宮、元町の官庁、ビジネス街に、国鉄、私鉄の各駅の構内に、“阪神特殊鋼倒産”を報じるニュース速報が続々と貼《は》り出され、どこも、黒山の人だかりであった。
「おい、見てみい、阪神特殊鋼が倒産したんやて!」
「へええ、ほんまか、不景気いうたかて、あれほどの会社がなんでやろ」
「夏にどえらい爆発事故を起して、死傷者が出たやろ、あれが祟《たた》ったのと違うか」
口々に云《い》い、食い入るように速報記事を読んでいる。
阪神特殊鋼倒産
会社更生法適用を申請
経営不振で五百五十億円にのぼる負債を抱えるにいたった阪神特殊鋼(本社神戸市、資本金六十億円、石川正治社長、従業員三千人)は、本日午前九時三十分、神戸地裁に会社更生法の適用を申請、受理された。同地裁は申請の内容審査を行ない、十二月初旬に更生法適用開始をきめるが、同社は特殊鋼業界第一位の大手メーカーで、系列の下請け業者がおよそ三百社にのぼるだけに、業界とくに関西業界に大きなショックを与えている。
更生法適用申請書によると、経営不振におちいった理由として、(1)設備投資の過大(2)製品価格の不安定(3)契約低下(4)過剰生産にともなう在庫経費の増大(5)資金ぐりの悪化(6)原材料購入価格の値上り――など十項目をあげ、さしあたって十一月十五日決済の十九億円の支払いが難かしくなったというもの。
今後は主取引銀行と大口株主である帝国製鉄の間で会社再建の具体策を協議するが、とりあえず、阪神銀行を中心にした七行で協調融資団をつくり、会社再建と連鎖倒産の防止に努力する模様である。
不況が深刻化しているまっただ中での阪神特殊鋼の倒産は、戦後最大級という規模の大きさもさることながら、年末を間近に控えているだけに、人々の心をうそ寒くした。
それだけに阪神特殊鋼のある灘浜《なだはま》臨海工業地帯は、街中より一層、騒然としており、阪神特殊鋼の工場構内には、倒産事件を取材する新聞社、テレビ局のおびただしい車や下請け債権者のライトバン、トラックが犇《ひしめ》き合うようにずらりと並んで、異様に緊迫した気配が漂っている。
その中でも、最も殺気だっているのは、債権者が詰めかけている一階の経理部であった。
「何、ぐずぐずぬかしてる! 責任者を出せ、責任者を!」
「あんたとこは、更生法を打ったら借金棚上げで助かるやろが、うちはどないなるのや! 千五百万円の阪神特殊鋼の手形は紙屑《かみくず》になってしもうたんやぞ! 今すぐ弁償してくれんかったら、工場にある鋼材を持って帰ったる! ええか!」
怒声が、四方八方から乱れ飛び、応対する経理部員たちは顔面蒼白《そうはく》になっている。
「まことに申しわけありません、皆さまには出来るだけご迷惑がかからないよう最善を尽しますので、今日のところはご諒承《りようしよう》を――」
「諒承やて? ふざけたことを云うな、お前ら下っ端《ぱ》では話にならんから社長を呼んで来い! わしは、あいつに話がある!」
一際《ひときわ》、居丈高な声がした。阪神特殊鋼の下請け会社の中では中クラスだが、一〇〇パーセント阪神特殊鋼に依存している戎《えびす》歯車の戎社長だった。
「石川社長は、高血圧で入院中でございまして――」
「なにい! わしらが死ぬか生きるかの時に、病院へ逃げるとは何事や、引きずり出して来い!」
血相を変えて、食ってかかると、他の債権者たちも煽《あお》られるように、さらにいきりたった。奥の電話に出ていた経理部長の安井が、慌《あわ》てて飛んで来た。
「戎さん、若い者の説明不足で申しわけありません、石川社長の病状は重篤《じゆうとく》ですので、私がお話を聞かせて戴《いただ》きます」
宥《なだ》めるように云うと、戎社長はジャンパーのポケットから封書をひっ張り出した。
「安井さん、これ見なはれ! 播州《ばんしゆう》相互銀行から内容証明付で今朝《けさ》、送り付けられて来ましたんや」
文面は戎歯車が裏書した阪神特殊鋼の三千七百万円の手形を本日正午までに買い戻してほしい、もし出来なければ相殺《そうさい》勘定を起すというのだった。
「わしは昨日《きのう》、播州相互銀行へあんたんとこの手形を割りに行ったんや、ところが昨日に限って割ってくれん、妙やとは思うたが、まさか阪神特殊鋼が倒産するとは夢にも思うてへんから、そのまま帰ったら、夜の八時頃、支店長から電話がかかって、何が何でも三千七百万の阪神特殊鋼の手形を買い戻してほしいというのや、大半はとっくに割ってしもうてるから、急にそんなこと云われてもと押問答したあげく、今朝のこの内容証明や、相殺勘定されたら、うちの会社の当座預金や不動産一切の資産から、わしの個人預金や家内名義の不動産まで、金目《かねめ》のものは全部、銀行に押えられ、従業員と家族は干上《ひあが》ってしまうんや、何とかしてくれ!」
安井経理部長の胸座《むなぐら》を掴《つか》むと、下駄履きのまま駈《か》けつけた下請けの店主は、作業衣に油を滲《し》みこませ、
「わしら下請けのそのまた下請けの零細企業はもっとみじめやぞ! あんたとこの製品に合うように買い入れた旋盤、工具の月賦《げつぷ》がまだ八十万以上も残ってるのに、仕事が無《の》うなったら六千円の家賃かて払えん、一家心中をせいというのか! 人殺し奴《め》!」
泣声で怒鳴ったが、安井経理部長は返す言葉もなく、頭を垂れるばかりだった。
債権者の怒声が渦まく一階とは対照的に、二階役員室の廊下は静まり返っていたが、記者会見が行なわれている役員会議室には、二十数人の各社の社会部記者とテレビの放送記者が詰めかけ、テレビ.ライトとフラッシュが万俵鉄平に容赦なく浴びせられている。会社更生法をメイン.バンクの阪神銀行から勧告されたその日から六日五晚、連日徹夜の状態で更生計画案を経理部、営業部のスタッフと作成してきて、今朝九時半に自らの手で神戸地裁へ提出した鉄平は、頬がげっそり痩《こ》けて土色の顔をしていたが、最後の力を振り搾《しぼ》るように、記者団と対《むか》い合っている。
「万俵専務、阪神特殊鋼がこれほど巨額な負債を抱えて倒産した原因は何だと考えますか、更生法にもって行くまでに、ほかに打つ手はなかったのですか」
記者たちは、初めから万俵鉄平を罪人扱いして詰問した。
「最大の原因は高炉建設の時期と、不況が重なり、資金繰りに破綻《はたん》を来たしたからです、むろん更生法を回避するためにも全力を尽しましたが、申請の止《や》むなきに至りました」
鉄平は、間近でたかれたフラッシュに充血した眼を瞬《しばたた》かせて応《こた》えた。
「高炉といえば、八月に爆発事故を起して多くの犠牲者を出したばかりですが、特殊鋼が高炉を持つこと自体に、無理があったのではないですか」
「ロウ.コストのいい製品を生産し、今後の国際競争に勝ちぬくためには、是非とも必要なことでした」
「しかし、そのために建設途上で二十数人の死傷者を出した上、半年もたたぬ今また、五百五十億にのぼる負債を抱えて倒産し、三百社に及ぶ下請け関連企業が丸裸で抛《ほう》り出されたのですよ、あなたはそれでも高炉計画が間違っていたとは思わないのですか」
「事故で死傷された方、また今度の更生法申請でご迷惑をおかけする多数の債権者の方々には、お詫《わ》びの言葉もありません、ことここに至っては、爆発事故で完成が遅れている熱風炉を一日も早く復旧し、高炉を稼動《かどう》させることだと思っております、それがあの事故で死亡された方へのせめてもの供養《くよう》であり、多大なご迷惑をおかけした債権者の方々への償いだと考えております」
確固とした語調で云うと、
「それじゃあ、あなたは無謀ともいえる過大な設備投資を反省していないというのですね」
「驚きましたね、階下《した》に駈けつけて来ている債権者たちの憤《いきどお》りがあなたには全く聞えないのですか、弱い者は泣き寝入りしろと云うのですか」
記者たちは、一斉に鉄平を非難した。
「こんな結果を招いたことは私の非力であり、責任は痛感しています、しかし高炉建設自体は間違っていなかったと申し上げているのです」
「では、更生債権にならぬ零細な下請けに対して、あなたは私財を抛《なげう》ってでもという気持なんですか」
資産家の万俵一族の長男だけに、厭味《いやみ》な質問が出された。
「私で出来うる最大限のことはして償うつもりで、準備を進めております」
はっきり言明すると、
「ところで管財人は誰になりそうですか」
中に混じっていた経済記者が聞いた。
「今のところまだ決まっておりません」
「伝え聞くところでは、メインの阪神銀行は、鉄に明るい帝国製鉄から求めることを希望しているのに対し、あなたは反対のご様子ですが、その点どうなんですか」
「そんなことはありません、何事もメインと相談して決めて行きたいと思っています」
鉄平は咽喉《のど》もとに突き上げてくるものを、ぐいと呑《の》み下すように応え、記者会見は終った。新聞記者たちは夕刊の締切時間を気にするように蒼惶《そうこう》と席をたって行ったが、それぞれの頭の中には、“二世経営者の甘さ”“技術屋経営者の限界”というタイトルがもう決まっていた。テレビ.ライトが消され、人気《ひとけ》のなくなってがらんとした役員会議室で、万俵鉄平は頽《くずお》れるように椅子の背に体を投げ出した。
万俵大介は頭取室で、東京支店から刻々と入って来る電話に神経を集中させていた。つい先程の芥川からの電話では、阪神特殊鋼の会社更生法のニュースは東京方面でも反響が大きく、大蔵省、日銀関係にもショックを与えている模様を伝えて来ていた。
机の上の直通電話のベルが鳴った。
「芥川君か――」
万俵が受話器を取ると、
「いえ、私ですよ、私――、もしもし、綿貫千太郎でございますよ」
大同銀行の綿貫専務の昂《たかぶ》った声が聞えた。
「ああ、あなたでしたか――、こちらからおかけしたいと思っていたところですが、そちらの様子はいかがです」
と云うと、綿貫は咳払《せきばら》いをし、
「それですよ、実は先程、三雲頭取は大蔵省へ担保状況その他、とりあえず当行の現状を報告かたがたお詫びという形で参りましたが、メイン.バンクより多額の不良貸付をしたという点で、相当、厳しくやられそうですよ、一方、行内でも、メインより貸し込んでいたということで、行員たちが動揺し、三雲頭取批判の声が高まっております」
「そうすると綿貫さん、綿貫支持の多数派工作もこの際、一挙にというところですが、くれぐれも慎重を期して下さいよ、ではまた変ったことがあれば報《しら》せて下さい」
電話を切ると、またベルが鳴った。芥川からであった。
「頭取、只今《ただいま》、日銀廻りの冠《かんむり》から連絡が入り、正午に阪神特殊鋼の会社更生法に関する日銀総裁の談話発表があり、テレビ中継されるそうです」
阪神銀行の日銀担当の忍者からの情報を伝えた。
「そうか、あと十五分だな、近畿《きんき》財務局と日銀大阪支店へは大亀専務に行かせているが、君はすぐ大蔵省と日銀へ行って、主力銀行としてのお詫びかたがた双方の今後の動きを探ってくれ、今、綿貫君からの連絡で、大同銀行の三雲頭取が大蔵省へ行っているとのことだから、私もこちらが一段落つき次第、上京する」
と云い、受話器を置くと、融資担当の渋野常務が顔を出した。
「頭取、正午のニュースで、日銀総裁の談話発表があるそうです」
「うむ、芥川君から今、報せて来た」
「では私は、今からまだ少し残っております主要取引先への事情説明に廻って参ります」
大口株主会社と主要取引先へは、昨日《きのう》の深夜、役員たちが手分けして、新聞社へ洩《も》れないように、各経営者の私邸へ事態の説明に廻り、諒承を得ていたのだった。
万俵はすぐ、秘書の速水にポータブル.テレビを持って来させた。
正午のニュースが始まり、松平日銀総裁の特徴ある尖《とが》った鷲鼻《わしばな》と小さくつぼんだ口もとが画面に映り、持ち前の甲高い声で話し出した。
「この度の阪神特殊鋼の会社更生法の適用申請は、まことに遺憾《いかん》なことであります、各関係方面で協力して、同社の関連企業および金融機関に影響のないように努力して戴きたい、日銀としても相談を受ければ相応の対策を考慮する所存です。
また今回の件を通して痛感することは、企業の経営者は、経営に対してもっと厳しい姿勢と責任を持つ必要があり、同時に金融機関も、企業の実態把握《はあく》という点に努力すべきであります、なお金融引締め策が、倒産の一原因とも云われておりますが、今回の場合は、設備過大の経営のあり方に問題があったと考えられます」
と締め括《くく》った。永田大蔵大臣への根廻しがきいているためか、日銀総裁の談話も、阪神特殊鋼の経営姿勢こそ厳しく衝《つ》いていたが、メインの阪神銀行は特に名指しせず、一般金融機関という表現で銀行側の自粛を促している。しかも日銀特融は拒否したが、相談を受ければ相応の面倒を見るという云い方であった。
インターフォンが鳴り、総務部長の声がした。
「只今、毎朝新聞、日本新聞をはじめ五社の社会部記者が、頭取にコメントを求めに来ています」
「社会部記者か――、仕方がない、一時に商工会議所へ行く予定があるから、十五分間と時間をきって会おう」
馴染《なじ》みのない社会部記者には、この際、会いたくなかったが、逃げるわけにはいかなかった。
役員応接室には五人の社会部記者が待ち受け、日本新聞の記者が、真っ先に質問した。
「阪神特殊鋼は会社更生法の申立てをしたが、主力銀行としては同社の実態を充分に解明した上でのことですか」
「もちろんです、会社内容を充分に調べ、最後の最後まで、何とか会社更生法に持ち込まないように指導してきたが、これ以上、支援を続けることは、多くの債権者に迷惑をかけることになるので、会社更生法の申立てに至ったわけです、あくまで阪神特殊鋼の自発的な意思であり、主力銀行は、それに同意したのです」
万俵は、阪神特殊鋼と阪神銀行が談合の上で決めたのではないことを強調した。続いて毎朝新聞の記者が質問した。
「会社更生の事態になる前に、主力銀行として他《ほか》に打つ方法がなかったのですか」
「基幹産業である阪神特殊鋼の社会的責務、立場を考慮して、主力銀行としては最善の努力を続けて来ましたが、当の阪神特殊鋼が会社継続の意思を失ってはどうしようもありません」
「では主力銀行として、今後の事態にどのように対処されようとしているのですか」