饭饭TXT > 海外名作 > 《华丽一族/華麗なる一族(日文版)》作者:[日]山崎丰子【完结】 > 華麗なる一族.txt

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作者:日-山崎丰子 当前章节:15381 字 更新时间:2026-6-16 06:24

「今、一カ月前からとおっしゃいましたね、すると、阪神特殊鋼の倒産はその頃から既に解っていたのですか」

「万俵頭取は爆発事故が起った時から阪神特殊鋼は危ないと見ていたらしい、それにもかかわらず、うちの三雲頭取は、別枠《べつわく》融資や、増資の環境工作のためにと株の買増しまでしているのだから、いかに大甘ちゃんりんか、解るというものだよ」

 綿貫が嘲笑《ちようしよう》すると、小島は深刻な顔で、

「しかし専務、だからと云って、当行が阪神銀行と合併するという論理は、私にはぴんと来ません、われわれの悲願は、戦後二十数年間、いまだに続いている日銀天下りの支配から脱して、自主独立することではありませんか、そのための三雲追出しであり、日銀進駐軍の排斥運動ではなかったのですか」

 声を昂《たかぶ》らせて云うと、綿貫は、声が高いと窘《たしな》め、

「小島君、君の気持は解っておるよ、この大同銀行は誰が何と云おうと、融資担当のわしと預金の君が車の両輪になり、そのうしろから一万人の行員が汗水たらして力一杯に押してくれたればこそ、激甚《げきじん》な競争に打ち克《か》ち、都市銀行第八位の座を保っておられるのだ、日銀から次々と天下って来る頭取が、全銀協や経団連の会合で、ソファに足を組んで、呑気《のんき》に国際金融論や景気の変動論などをぶっておられるのも、われわれの働きがあってこそだ、口惜《くや》しい気持はわしも、君も同じだ――」

「それならばなぜ、突然、他行と合併など……」

 小島は、承服できぬように云った。

「日銀進駐軍を追い出すには、われわれの力だけでは不可能だからだ、正直なところ、外部の力を利用しなければ到底、出来ん」

 綿貫の細い眼は次第にすわって来、大きな鼻翼が膨《ふく》らんだ。

「小島君、ここは一つ、冷静に考えてみるんだ、外部の力というと、大蔵省からの移入人事か、もしくは他行との合併の二者択一しかない、当行がそのいずれを選ぶかといえば、云うまでもなく後者であり、阪神銀行はその点、当行の恰好《かつこう》の合併相手と、わしは確信する」

 綿貫の決意と自信に満ちた表情に、小島は気圧《けお》されるように黙り込んだ。綿貫はさらに、言葉を続けた。

「それで君への頼みというのは、ここ半月以内で、役員会の過半数を制する役員工作をやって貰いたいのだ、三雲の殿さんといえども、現職は強い、したがって、三雲頭取や白河専務、融資部長の島津取締役などの日銀天下り派に気付かれぬように“短期決戦”でまとめてしまうことだ」

 と云うと、小島はぴくっと頬を動かし、

「専務、そうすると、これはクーデターですね」

 声を殺すように云った。綿貫はうむと頷《うなず》き、志を同じくする男同士の視線がかちりと合った。

「小島君、頼みにするよ」

「はい、一身を賭《と》して専務のご趣旨に――」

「では早速、明日から行動開始だが、人事担当の山之内常務にはわしが話す、君は総務企画担当の角野常務に話してくれ、夏目専務らの中間派の抱込みと、平取締役八人への工作は、明後日、わしと君と山之内、角野を加えて四人で策を練ろう」

 早くも票を数えるように云うと、小島は、

「専務、くどいようですが、阪神銀行の方は間違いございませんね、オーナーで辣腕家《らつわんか》の万俵頭取が、どうして上位行である当行とあえて――、その点がどうも……」

 ひっかかるように念を押すと、綿貫は上衣《うわぎ》の内ポケットに手をやり、一枚の分厚な名刺を小島の前に置いた。万俵頭取の名刺である。綿貫はその裏を返した。

御高配多謝

御約束厳守

 毛筆でしたためられ、印鑑が捺《お》されている。綿貫が、大同銀行のマル秘資料と引替えに、万俵から取り付けた“万俵念書”であった。よほど肌身離さず、しまい込んでいたのか、名刺の四隅が折れ、汗臭い体臭が匂《にお》うようだった。

 小島は、綿貫の顔と万俵念書を見比べた。

「どうだ、納得したかね」

「しかし、このご高配というのは?」

「なに、別に意味はない、要は合併話を真剣に検討してくれて忝《かたじけな》い、御行《おんこう》の決意が固まるまでは絶対に他言しないことを約束するという意味だよ」

 と説明したが、事実は合併話が成功すれば、綿貫を新銀行の副頭取にするという意味であった。小島は暫《しばら》く考え込むようだったが、

「では頭取のポストは、どうなるのです」

「当面は向うだが、それは止《や》むを得ん、いくら当行の方が上位といっても、まさか三雲を頭取の座から追い落したわしが、相手行の万俵頭取をさしおいて、頭取にはなれん、しかし、それは当面のことで、対等合併といっても当行の方が上位行だから、合併してしまえばリーダー.シップはこっちのものだ、いずれわしが頭取になった時は、君が副頭取だ」

 と云うと、小島の顔が昂奮《こうふん》で紅《あか》らんだ。

 *

 十二月十八日、神戸に珍しく雪が降った。昨夜半から激しく吹き荒れていた季節風がおさまったかと思うと、鉛を塗ったように重く垂れこめた空から、突如として不気味なほど大きなぼたん雪が降りはじめ、人々を驚かせた。

 この日、神戸地方裁判所は、かねてより会社更生法の申請をしていた阪神特殊鋼に更生法の適用を認め、午前十時、更生開始の決定を下した。時を同じくして、裁判所によって選任された管財人一名と管財人代理三名の一行が、灘浜の阪神特殊鋼へ向った。

 管財人一行の車が阪神特殊鋼の正面玄関に到着した頃、ぼたん雪はさらに激しく降りしきっていた。一メートル先も定かでない異様な降り方は、高炉を完成して世界一の特殊鋼メーカーを目ざした会社が、一転して、更生会社という屈辱を舐《な》めるに至った悲運を深く押し包んでいるようであった。

 管財人の一行は、玄関に出迎えていた総務部長の先導で、三階講堂へ上って行った。そこには石川社長はじめ十三名の役員と、部課長以上百五十名が、たったまま整列していた。

 静まり返った廊下に、管財人一行の靴音が高く響き、講堂入口の前で、止まった。一瞬、講堂内に身じろぎするような緊迫感が漂い、正面壇上の役員席にいた万俵鉄平が、病いをおして出席している石川社長に代って、管財人一行を迎えるために、講堂入口にたって行ったが、一行の顔ぶれを見るなり、たち竦《すく》んだ。管財人は、帝国製鉄尼崎製鉄所の和島所長であった。

「本日、神戸地裁より私が管財人に選任されました、他の三名は私が同地裁に申請した管財人代理です」

 和島管財人は切口上に云い、神戸地裁の二通の書面を鉄平に示した。一通は更生手続き開始決定書であり、もう一通は管財人決定書であった。鉄平は、管財人決定書に眼を走らせた。

 更生会社 阪神特殊鋼株式会社 の管財人、同代理を左記の通り決定する

 管財人 帝国製鉄常務 和島龍三

 管財人代理 阪神銀行調査役 花村 勉

 大同銀行監査役 崎田安義

 五菱商事大阪支店次長 渡辺正夫

 鉄平は顔を上げると、こみ上げて来る感情を呑み下すように唇をひきしぼり、無言のまま、和島管財人を壇上左側の椅子《いす》に先導した。和島管財人の顔を見知っている役員席に動揺が起り、壇の下に居列《いなら》んでいる百五十名の部課長たちも動揺の気配を見せた。そして管財人一行が椅子に着席したのに対し、自社の役員陣十三名は、病身の石川社長を除いて、全員、起立したままという光景を眼《ま》のあたりにし、部課長たちは更生会社の苛酷《かこく》な現実に凝然と顔を硬《こわ》ばらせた。

 和島管財人は、壇上の中央に進み出、奉書紙にしたためた書状を拡《ひろ》げ、読み上げた。

「神戸地方裁判所の決定により、本日、午前十時、阪神特殊鋼は更生会社となり、私をはじめとする管財人及び管財人代理が、今後、当社の管財運営に当ることになりました。

 当社の倒産により、数万にのぼる債権者及び株主に多大の迷惑をかけ、その汗と脂《あぶら》の結晶である財産を一時、棚上げされ、このため関連事業に従事している幾多の人たちは失業し、或《ある》いは賃金の不払い、切下げなどによって非常な苦しみを舐めておられるのであります、このような時、当社の従業員が、人々の苦しみをよそに今まで通りの在り方であることは道義的にも、社会的にも許されるものではありません、したがって、従業員諸君は徹底的な経費の節約と合理化によって、一日も早く会社の再建を計り、債務の返済に努力する責任があります。

 前途は多事多難でありますが、再建への熱意を結集して邁進《まいしん》すれば、必ずや前途に光明を見出《みいだ》すことが出来ると確信します、そのためにこれまで以上の耐乏生活を皆さんに訴える次第であります」

 更生会社の従業員の厳しい心構えを要請した。

「次に、当社の更生計画の具体案について述べますが、その前に、まず役員陣の建直しが急務であり、これから氏名を呼び上げる役員は、即刻解任しますから、直ちにこの場より退出して下さい」

 重々しく命じた。

「代表取締役社長、石川正治君――」

 名目的な社長にすぎなかった石川社長の解任を申し渡す第一声が、響き渡ると、石川正治はよろめくように椅子からたち上り、総務部長の手に支えられて、壇上を去った。

「同専務、万俵鉄平君――」

 実質上の経営者であり、倒産の直接責任者となった当事者として指弾するように一際《ひときわ》高く、万俵鉄平の名前が読み上げられた。鉄平は太い眉《まゆ》をぐいと吊《つ》り上げ、和島管財人の方を見、それから自分の横にたっている一之瀬常務を顧みた。工場長である一之瀬は、常務陣の中で残されることが、予想されており、自分の後事を託せるのは一之瀬だけであった。

 暫《しば》し深い眼《まな》ざしを交わし、鉄平は階段を踏みしめた。両の拳《こぶし》を握りしめ、断腸の思いで一步、一步、壇を降りる万俵鉄平の姿は、阪神特殊鋼、落城の容《すがた》そのものであった。一之瀬工場長の眼尻《めじり》から一筋の涙が頬を伝い、居列ぶ百五十名の部課長たちも寂《せき》として声なく、壇を降りて自分たちの前を通り過ぎて行く万俵鉄平を万感の思いをもって見送った。不意に慟哭《どうこく》するような嗚咽《おえつ》が起った。鉄平は思わず足を止め、その方へ振り返りかけたが、辛うじて耐え、步み去った。

 万俵鉄平に続いて、経理担当の銭高常務、営業担当の川畑常務も解任され、常務の中で残されたのは設備、生産を担当する工場長の一之瀬ただ一人であった。もはや万俵鉄工から五十余年の歴史をもつ阪神特殊鋼の企業生命が終焉《しゆうえん》したことは、誰の眼にも歴然としていた。

 講堂を出た万俵鉄平は、自分の部屋へ戻って机の中を整理し、今日が最後の工場を見廻り、現場の従業員たちに別れを告げるために、安全用のヘルメットを冠《かぶ》りかけた時、扉《ドア》がノックされた。応答すると、和島管財人が入って来た。講堂ではまだ管財人の更生開始に基づく具体的な計画案が述べられている最中《さなか》のはずであった。鉄平は訝《いぶか》しげに和島管財人を見た。

「何か、私に格別なご用でも――」

「そうです、重要な用件ですから、銀行サイドの説明を花村管財人代理が行なっている間に席をたち、直接、私からあなたに伝えに来たのです」

 と云い、和島管財人は鉄平の前にたった。

「あなたが当社非常勤取締役である万俵大介氏を、特別背任罪で告訴した告訴状は、本日、当社管財人である私が取り下げました」

「なに、告訴を取下げ? そんな馬鹿《ばか》なことが!」

 鉄平は、自分の耳を疑った。そんなことがありようはずがなかった。

「いや、あなたは、万俵鉄平個人ではなく、阪神特殊鋼代表取締役専務として告訴しておられる、しかし、あなたはもはや当社役員でなくなりましたので、新たに当社の管理経営にあたる管財人の私の判断で、こちらへ赴く前に神戸地検で、告訴を取り下げました、これがその告訴取下書です」

 と云い、書類をさし出した。鉄平は、あっと声を呑《の》んだ。明らかに神戸地検担当検事の印鑑が捺《お》された告訴取下証明願書であった。

「ご納得戴《いただ》いたようなら、私はまた講堂へ引き返さねばなりませんから――」

 和島管財人はそう云い、部屋を出て行った。

 一人になると、鉄平はいきなり告訴取下書を引き裂いた。何という卑劣極まる仕打ちなのだ! 万俵大介からどのような好条件を示されても、告訴を取り下げる条件は唯《ただ》一つ、帝国製鉄への身売りをせず、阪神特殊鋼を自主独立で再建させてくれることだと主張し続け、万俵大介もその意向を入れる方向で考えると確約すると同時に、阪神銀行の顧問弁護士である曾我も、告訴取下げの示談に来る度に、それを約束した。それ故《ゆえ》に告訴は取り下げなかったが、今日まで告訴の事実を公《おおやけ》にしなかったのだった。にもかかわらず、更生開始決定の今日、管財人として乗り込んで来たのは、帝国製鉄常務尼崎製鉄所所長であり、その管財人の手によって告訴を取り下げさせるとは――。

 鉄平はあまりの衝撃にたっていることが出来なかった。辛うじて窓際に体を支え、荒い息をした。もし眼前に万俵大介がおれば、何をしでかすかしれない狂暴な怒りに駈《か》られた。

「専務、専務!」

 窓の下の方で、自分を呼ぶ人声がした。外を見ると、数十人の従業員たちが、下から自分を見上げている。鉄平ははっと我に返り、ヘルメットを冠り直した。従業員たちには、自分の取り乱した姿を見せてはならなかった。外へ出ると、先程まで降りしきっていたぼたん雪はやみ、凍りつくような外気が頬を刺した。

「専務、専務がおやめになるのは、ほんとなんですか!」

 まだ講堂では、管財人の更生計画案が延々と語られていたが、鉄平の即刻解任を聞きつけた三、四十人の従業員が、鉄平を取り囲み、殺気だつように聞いた。

「会社がこうなった以上、役員が責任を取るのは、当然のことだ」

 鉄平が云うと、組合委員長が、

「しかし、管財人は帝国製鉄尼崎製鉄所の和島所長じゃないですか、われわれ労組は、帝国製鉄の傘下に入ることは、断固反対だと、あれほど強く専務に要求しておったではありませんか」

 激しい口調で迫り、他《ほか》の従業員たちも気色ばんだ。

「その点、私も心外だ、だが管財人の選任は裁判所が行なうのが建前になっているから、今となって騒いでは再建を遅らせることになる、幸い一之瀬工場長が残っている、去る私も辛《つら》いが、それ以上に残った一之瀬工場長のこれからは、針の筵《むしろ》に坐る毎日だから、団結して一之瀬工場長をもりたて、電気炉の煙を絶やさないで貰《もら》いたい、阪神特殊鋼を去っても、私の生甲斐《いきがい》は、諸君の燃やす製鋼の火と煙を、見守り続けることなのだ」

 惻々《そくそく》として語る鉄平の言葉に、従業員たちは、しんとし、声が跡絶《とだ》えた。

「最後に工場を見廻りたい、一人で行く」

 鉄平はそう云い、玄関横に止めてあったジープに乗り込んだ。アクセルを踏みかけると、従業員たちの中から、一之瀬四々彦が走り寄って来た。

「専務、僕は専務がおられない会社には、止《とど》まりません」

 断固として云った。

「いや、君は残って、お父さんを助けてほしい」

「専務が去り、帝国製鉄の軍門にくだった会社で、鉄に賭《か》ける情熱は湧《わ》きません」

 四々彦は強く首を振った。四々彦の気性を知っている鉄平は、それ以上は云わず、ぐいとアクセルを踏み、高炉建設現場へ向った。

 工事がストップしたままの建設現場は人影がなく、灘浜から吹いて来る季節風が吹き荒れていたが、完成した高さ六十メートルの高炉と修理半ばの熱風炉、転炉、鋳床《ちゆうしよう》の建屋《たてや》、原料を運ぶベルト.コンベアなど、巨大な最新設備が、聳《そび》えるように建ち並んでいる。鉄平はジープからおりると、高炉建設現場が一望のもとに見渡せる岸壁に上り、鉄鋼マンとしての生命を賭《と》した設備を食い入るように見入った。自分の知力、体力、精神力のすべてを投入したものは、あと一息というところで、自分の手からもぎ取られてしまったのだった。

 鉄平はもはや、これ以上、正視出来ぬように体を海の方に向けた。白い波濤《はとう》が沖から風に煽《あお》られるように押し寄せて来、岸壁に当っては、白い飛沫《しぶき》になって砕け散った。それはあたかも、自分自身の姿のように見え、海に向って足を踏んばった鉄平の顔に、はじめて滂沱《ぼうだ》として涙が落ちた。

 万俵家の東側の高みの一角にある鉄平の家の前には、コンテナー輸送車が横付けになり、次々と荷物を運び出している。

 十日前、万俵鉄平名義の土地八百坪と建坪九十六坪のル.コルビジェ風家屋とを総計一億四千万円で、万俵不動産へ売却して阪神特殊鋼の債務の一部に充《あ》てたが、その翌日から、直ちに引っ越しの荷造りにかかったのだった。大きな家財道具類は既に運び出されていたが、身廻り品や日常用品などがまだ少し残っている。早苗は、若いお手伝いや運送会社の従業員たちをてきぱきと指図しながら、家具類がなくなり、急にがらんとした家の中を見廻した。夫から、父を告訴した限りはこの家を出、自分は役員寮に入るから、お前は子供を連れて暫《しばら》く実家へ帰ってくれと云われた時は、この家を出ることは承知したものの、別れて生活することはいやだと反対したのだったが、翌日から役員寮に泊り込んでしまった夫を訪ね、髭《ひげ》もろくに剃《そ》らず、再建計画に打ち込んでいる姿を見たとき、もはや夫の動かぬ気持を知ったのだった。

 子供たちの賑《にぎ》やかな声がした。

「さあ、京子、ギャングごっこだよ、その荷物の上から僕を撃つんだ」

 と云い、荷物の上を飛びはねている。小学校一年の京子は、子供らしい好奇心で引っ越しを喜んだが、三年生の太郎は「僕たちどうして東京へ行くの」と訝《いぶか》しげに聞いた。その太郎も今は元気で、ギャングごっこをしている。そんな子供たちの姿を見ながら、ふとこれから先のことを考えた。実家《さと》の大川家は父が亡《な》くなった後も、兄たちは別居したままで、母が独り住まいしている広い邸内とはいえ、太郎と京子の立場を考えると、早苗はいとおしい思いに駈られた。

「早苗さん――」

 自分を呼ぶ声がした。テラスに姑《しゆうとめ》の寧子が、唇を青白ませてたっている。

「まあ、お姑《かあ》さま、どうなすったのです? 早くお入りになって――」

 驚いてガラス戸を開けると、寧子はがらんとした家の中を眺め、

「やっぱり出て行くの、行かないで!」

 身もだえするように叫んだ。早苗は子供たちに気付かれぬように急いで応接室の扉《ドア》を閉めたが、なおも、

「お願いだから出て行かないで――、万樹子さんが出て行き、あなた方も行ってしまったら、私はどうしていいか……」

 体を震わせ、絨毯《じゆうたん》を剥《は》がした剥出《むきだ》しの床に体を崩れ伏した。早苗は姑の体を抱き起して、椅子に坐《すわ》らせ、

「お姑さま、今度はしっかり遊ばして、お姑さまがしっかり遊ばさないと、うちの人がどんなに苦しみますか――」

「そんな優しい鉄平が、どうして明日、この家を去ったりするのです――」

 取り縋《すが》るように云ったが、早苗は応《こた》えなかった。今もって父を告訴したことを知らぬ姑に、阪神特殊鋼が倒産し、更生会社になるに至った経緯と、その間にあった舅《しゆうと》と夫との葛藤《かつとう》を話してみたところでどうなるものでもなかった。そしてこの母がもっとしっかりして、高須相子などの介在を許さず、妻妾《さいしよう》同居の生活に甘んじなければ、万俵家には正常な親子関係が育《はぐく》まれ、今回のような父子相剋《そうこく》はあり得なかったろうにと思うと、早苗は今さらのように夫の胸中にある無惨《むざん》な思いを知った。

 高須相子は、居間の暖炉の火を確かめ、灯《あか》りをフロア.スタンドに切り替えると、

「ではお先に――」

 今夜の万俵の心中を推し測るように、先に二階へ上った。

 万俵大介は、窓に近いソファに坐り、樹《こ》の間《ま》越しに見える鉄平の家をじっと見詰めていた。今日は、仕事の場である阪神特殊鋼を明け渡し、明日は家族とともに家を去って行く鉄平のことを思うと、万俵はここ十七日間の、人には知られない苦しい闘いを思い返した。

 鉄平が自分を告訴した日から十七日間、毎日のように顧問弁護士の曾我に、告訴取下げのための示談をさせ、立件に至るまでの時を稼いでいたが、その最中《さなか》に、阪神特殊鋼倒産に関する金融調査団として大蔵委員の議員一行が来神した。一行に告訴の件が洩《も》れないかと、三日間の調査期間中は、まさに薄氷を踏む思いで過したのだった。その一方で裁判所に阪神特殊鋼再建のために、一日も早い更生開始と管財人の選任を働きかけた。管財人には主力銀行の顧問弁護士がなる場合が多かったが、この際、会社再建の陣頭指揮をし、下請け及び関連企業に安心感を与える管財人が必要であるとして、帝国製鉄尼崎製鉄所の役員が最も適切であると推挙したのだった。そうすることによって管財人がそのまま更生会社の社長になり、自然な形で阪神特殊鋼が帝国製鉄の傘下に吸収されることを意図するとともに、鉄平が阪神特殊鋼代表取締役専務として告訴している告訴状が、鉄平の専務解任と同時に、管財人の手によって取り下げられることを計算に入れていたのだった。

 人の気配に振り返ると、銀平がポケットに片手を突っ込んでたっていた。

「いつ、帰って来たんだ、お前の家の灯りは消えているじゃないか」

「今、帰って来たばかりで、ちょっとお寄りしたのですよ」

 酒臭い匂《にお》いがした。

「大分、飲んでいるのか」

「ええ、でも酔ってはいませんよ」

 と云ったが、飲むほどに青白む顔が、いつも以上に青い。

「お父さんも、今度ばかりは、やり過ぎですよ」

「なにがだ――」

「鉄平兄さんのことですよ、会社を潰《つぶ》しておいて、その上、管財人が帝国製鉄の常務ではひどすぎますよ、この頃のお父さんを見ていると、怖《おそ》ろしいような気がする――、戦国時代の大名が自分の野望、戦略のためには子供を人質に出し、時には平然と殺させる、それに似たものを感じますよ」

「それは鉄平の方が悪い、父である私を告訴したではないか」

 家族の中では女たちには一切極秘にし、銀平にだけ、告訴のことを話していた。銀平の顔に白い笑いがうかんだ。

「お父さんは、ご自分の勝手な時だけ、父である私を、という云い方をなさるけれど、兄さんに対するお父さんの態度は少なくとも、そんなものじゃありませんね、しかし、どのような大きな意図のもとでも、息子の会社を平然と潰すお父さんと、だからと云ってそれを告訴する兄さんも、どちらもおかしいですよ、僕には解《わか》りませんねぇ」

 他人《ひと》ごとのように云い、

「それで今後どうするつもりなんですか、兄さんは――」

「私は万俵倉庫の副社長の椅子を用意したんだが一蹴《いつしゆう》し、その後、顧問弁護士の曾我さんを通じて、他の二、三のポストを世話したが、どれも断わった」

「じゃあ、自分の土地と家も売り払い、次の仕事のあてもなく、この先どうやって行くのでしょうかねぇ」

「それを話し合おうにも、このところ家にいないから話しようがない、一体、あれは何を考えているのだろうか――」

 と云い、自分からの一切の申し出を断わった鉄平の心中を測りかねた。

 静かな冬の朝だった。芝生におりた霜を踏む鉄平の足音に、池の鯉《こい》が波紋を描いた。揺れ動く水面に映った鉄平の顔は、曾《かつ》ての鉄平とは別人のようであった。ぎらぎらと精悍《せいかん》に輝いていた眼は空《うつ》ろに力なく、逞《たくま》しく引き締まっていた頬はこけ落ちて、生気を失っている。自分のすべてを賭けた企業をあと一步というところで、無念の思いをもって失った者の虚脱した顔であった。

 池の藻《も》がゆらぎ、三十数尾の錦鯉《にしきごい》が群れ寄ったため、水面に映った鉄平の顔がかき消えた。鉄平は池の横の高みに上った。

 そこから阪神特殊鋼の煙がたちのぼっているのが小さく見える。電気炉の煙突であろう、赤黒い煙が抛物線《ほうぶつせん》を描いて、海に向って流れているが、時間的にみて心なしか少ない。操業のスケジュールが変更になったのか、或《ある》いは電気炉に故障でも起ったのかと案じて、鉄平は、はっと現実に返った。自分はもはや、阪神特殊鋼の経営者ではないのだ。いつものように出かけて行くことも、現場を見廻って督励することも出来ないのだと思うと、鉄平は今さらのように自分の失ったものの大きさとかけがえのなさを知った。

 鉄平は視線を邸内に向けた。日曜日の七時を過ぎたばかりの邸内は静まり返り、本館の窓も、銀平の家の鎧戸《よろいど》も閉ざされて、まだ眠りから覚めていない。しかし本館の東南にある母の居間の鎧戸は開かれ、レースのカーテンも引かれている。母がそこで独り寝《やす》んでいる時は、朝が早いのだった。

 鉄平は母の部屋を訪れた。二間続きの日本間で、母の寧子は身繕いを整え、純白の菊を活《い》けた床の間を背にして、香をたきしめていた。

 鉄平の姿を見るなり、眼頭《めがしら》をおさえた。

「随分、お窶《やつ》れやこと……、事情は洩れ聞きました」

「お母さまには、何かとご心配をおかけしましたが、今日、ここを去るご挨拶《あいさつ》に参りました」

「じゃあ、やはりもう……」

「我儘《わがまま》を申し上げますが、この度《たび》のことは、私として動かせぬことなのです」

 鉄平は、はっきりとそう云い、

「お母さまに、この家を去るにあたって一言、お伺いしたいことがあります、僕はほんとうに父、万俵大介の長男なのでしょうか」

 ひたと射るような眼を向けた。

「あなたは一体……どうしてそんな……」

 息を呑《の》むように云いかけると、

「僕はもう随分前から、そのことで僕なりに苦しみ、悩んで来たのです、ですからこの期《ご》に及んでは、ほんとうのことを教えて下さい、子の出生について真実を語れるのは、母親だけで、母たるものの義務だと思います」

 寧子の眼が、異様にきらきらと輝いた。

「鉄平、あなたは私の子です、私の産んだ子供です――」

「お伺いしているのは、僕の父たる人のことです、答えて下さい」

「許して、許しておくれ!」

 たおやかな母の体が、鉄平の膝《ひざ》もとに頽《くずお》れた。何を許せと云うのだろうか、祖父との不倫を許せというのか、それとも祖父と父の、いずれの子とも解らぬことを許せというのだろうか――。もし、その後者を意味するならば、鉄平は体が灼《や》け爛《ただ》れるような恥辱と怒りを覚え、思わず、母を打ちたい衝動に駈《か》られた。

 その衝動を抑えるように、鉄平はすっくとたち上った。

「鉄平、待っておくれ――」

「お母さま、ご機嫌よう――」

 もはや何一つ、もとに戻せるものはなかった。背後で嗚咽《おえつ》する母の声が聞えたが、鉄平は足を止めなかった。

 階下へ降りると、居間の扉《とびら》のところに大介が姿を見せた。つかつかとその方へ步み寄ると、気のせいか、身構えるような気配を見せたが、鉄平は大介の前にたち、

「私の完敗です、最後の最後まで騙《だま》し討ちになさったのですね」

 不気味なほど静かな語調で云った。

「騙し討ちなど、穏やかでない言葉だな、だが、私としては一行の頭取として、万俵コンツェルンの総帥《そうすい》として、こうするより他《ほか》には仕方がなかったのだ、いつかは解ってくれるだろうと思う」

「僕は、この邸《やしき》を出て行くご挨拶を申し上げに来たまでです、十時三十分の新幹線で子供たちを東京へ送って行きますので、間もなく早苗と子供たちもご挨拶に参ります」

「それで子供たちを東京へ送った後、どうするのだ」

「まだ考えておりません、暫く独りになって、考えてから決めようと思います」

「それもよかろう、暫く静養してから、こちらにも二、三、考えている仕事があるから、その時、相談に来るといい」

 しみじみとした口調で頷《うなず》いた時、

「お兄さま、出ていかないで! お父さまと仲直りなさって!」

 突然、三子の泣声がした。横で二子も眼を潤《うる》ませている。

「泣いたりする奴《やつ》があるか、また会える時もある――」

「会えるって、いつ? いつになったら」

「それは……いつかまた――」

 顔をそむけるように云うと、二子が指先で涙を拭《ぬぐ》い、

「お兄さま、どんなことがあっても鉄を捨ててはいや、阪神特殊鋼をもう一度、お兄さまの手に取り返して!」

 凜《りん》とした声で云った。

 やがて、早苗が二人の子供を連れて挨拶に来、出発の時間が迫った。

「銀平はどうした、二子、呼んで来なさい」

 大介が云いつけると、テラスの方から銀平が入って来、

「兄さん、新大阪駅まで僕の車で送って行きますよ」

 車の鍵《キー》を手にして云った。

「いいよ、ハイヤーを呼んであるから――、それより銀平、お母さまのことを頼むよ、ずっと傍《そば》にいるのはもうお前だけだからな」

 声をくぐもらせるように云い、迎えに来たハイヤーに向った。それまで鉄平と言葉を交わさずにいた相子は、

「鉄平さん、お体をお大切に、あなたのお家はちゃんと管理していますから、いつでも戻っていらっしゃることね」

 最後にそう声をかけると、鉄平はくるりと振り向き、

「僕は二度と帰って来ない、高須君、あんたもこの家から出るべきだ」

 と云い、早苗と子供たちを促した。むずかる京子をあやして、二子が車に乗せた。

「お兄さま、私、ご一緒の車でお送りしたいわ」

「いや、万俵家を去る私を、お前たちはこの邸内から見送ってくれ、それから四々彦君は会社を辞め、また、アメリカへ行く」

 それだけ云うと、鉄平は車に乗り、扉をしめた。

 鉄平たちを乗せた車は、下の門に向って動き出した。玄関のポーチには、父と弟妹たちが見送り、ふと二階を見上げると、母の白い顔が窓ガラス越しに見えた。ゆるゆると万俵家の邸内の道を降り、石橋のところまで来ると、鉄平は車を停めた。そこからは灘浜の阪神特殊鋼が真下に見下ろされた。鉄平の胸には、万俵家を去る別離より、阪神特殊鋼と訣別《けつべつ》する思いの方が、耐え難かった。

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 四   章

 大同銀行秘書課の壁時計が、午後六時を過ぎると、役員の在否を知らせる標示板のランプが一つ、一つ消えて行く。週初めの月曜日の退社時間は総じて遅いが、頭取以下、常務まで、役員ゾーンに部屋を持つ八名の役員の中で、渡米中の白河専務を除いて最初にランプが消えたのは、六時十一分、業務担当の小島常務であった。“ブラック.ホース”と渾名《あだな》されている浅黒い長身を前へつき出し、取引先の夜の接待に駈《か》けつけるような慌《あわただ》しさで、秘書課の前を通り過ぎて行った。

 次に総務企画担当の角野常務のランプが消え、今まで面談していたらしい経済誌の記者と如才ない笑顔で話しながら出て来た。それから五分程後に、“坊ちゃん専務”の異名がある経理担当の夏目専務が、篤実《とくじつ》温厚な表情で、ゆっくりエレベーターの方へ步いて行った。

 一見、平素と変らぬ役員の退社風景であったが、綿貫の腹心の秘書課長だけは、何食わぬ顔付きを装っている役員たちが、取締役も含めて、一時間乃至《ないし》二時間後には、各人各様の方法で、大田区千鳥四丁目の綿貫千太郎の私宅に集合することを知っていた。

 六時三十分、頭取室のランプが消えた。秘書課長は、すぐ廊下へ出た。絨毯《じゆうたん》を敷き詰めた廊下の向うから、三雲頭取が、背筋をまっすぐ伸ばし、静かに步いて来る。日銀理事から都市銀行の頭取に天下って一期もたたないというのに、阪神特殊鋼の倒産を境に俄《にわ》かに鬢《びん》に白いものが目だち、大型倒産をした企業にメイン.バンクを上廻る貸込みをしていた責任を問われている苦悩が滲《にじ》み出ている。そうした三雲の姿は“悲運の頭取”として日ごとに愁色《しゆうしよく》を深めていた。

 秘書課長は恭《うやうや》しく三雲頭取を、エレベーターの前まで送り出すと、三雲はいつもの澄んだ眼《まな》ざしで、

「ごくろうです――」

 と犒《ねぎら》った。その表情は今から数時間後に、綿貫派の役員のみならず、夏目専務らの中間派役員たちも、綿貫の私宅に結集し、クーデターを謀議しようとしている気配など、全く気付いていない様子であった。

 三雲の姿がエレベーターに吸い込まれるのを見届けると、秘書課長は足早に綿貫の専務室へ赴いた。

「どうだ、三雲頭取は帰ったのか」

 綿貫は、落ち着かぬ口振りで聞いた。

「はい、只今《ただいま》――、今晚は予定通り外部会合もなく、まっすぐ自宅へ帰られます」

「そうか、三雲頭取さえ帰ってしまえば、白河専務は今、ニューヨークだし、あと、島津融資部長の眼をくらますだけだが、そっちの方も予定通りだろうな」

 念を押すと、秘書課長は頷《うなず》いた。日銀天下り派である外国担当の白河専務は、ニューヨークへ初の大同銀行海外店舗をつくるための視察で出張していたし、取締役兼務の島津融資部長は、更生会社になった阪神特殊鋼の管財人に提出する債権書類を作成するための調査に忙殺されていた。この二人の不在と多忙が、三雲頭取に、綿貫たちの動きが全く察知出来なかった大きな原因であった。

「では、わしは帰る、まだ残っている役員には、君が巧《うま》くやっておいてくれ」

 綿貫はそう命じると、秘書課の標示ランプに繋《つな》がっている「在室」のスイッチを、ぱちっと切った。

 東急池上線千鳥町の駅から北へ二丁ほど行った住宅街の中ほどに、綿貫千太郎の住まいがあった。二百坪の敷地に昔ながらの総檜造《ひのきづく》りの二階建ての家屋と、白い大きな土蔵が建ち、周囲は高い塀《へい》がめぐらされている。常務になった八年前、融資部で担保物件として押えていたのを、安く買い取った家で、蔵付きであることが、何よりも綿貫の気に入っていた。

 夜目にも白い蔵を目印に、取締役以上の役員たちが、一人、また一人と、目だたぬように集合し、全員、顔を揃《そろ》えたときは、八時半を過ぎていた。

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