一般焼香は、鯨幕を引き廻した下の大門から、静かに切れ目なく続いた。つる乃家の老女将《おかみ》と芙佐子も顔を青白ませ、列につらなっていた。黒い喪服の中に、紺《こん》やグレーの略式の服を着て、一目で阪神特殊鋼の現場作業員と解《わか》る人々の姿も多数、見られる。作業員たちは一様に焼香台の前で長い黙祷《もくとう》をし、暫《しば》し、焼香の列を滞らせるのも忘れたようにたたずんでいた。その度に、立礼している早苗の眼には新たな涙が溢《あふ》れ、万俵大介は端正な表情を崩さず、立礼を続けた。
何十人目かの弔問客に対して、万俵が立礼しかけると、黒ドスキンの略装礼服を着たその男は、つと万俵の傍へ步み寄った。
「倉石です――」
と名乗ったが、万俵にはとっさに思い出すことができなかった。
「鉄平君の友人の倉石弁護士です」
と云った途端、万俵の上体が揺らいだ。鉄平が父である自分を阪神特殊鋼の非常勤取締役として背任罪で告訴した時の、鉄平側の弁護士であった。万俵は硬《こわ》ばりかける口もとで、
「新年早々の葬儀にもかかわらず、ご会葬のほど、いたみ入ります」
ことさらに鄭重《ていちよう》な挨拶をした。
「いや、友人として力及ばなかったことを今、鉄平君に詫《わ》びて来ました」
と云うなり、倉石は怒りを見せた表情で、さっとたち去って行ったが、万俵には倉石の弔問が、俄《にわ》かに不気味な影になって掩いかぶさり、立礼中、ずっと暗い尾を曳《ひ》いた。
一時間余りにわたる一般焼香が終り、いよいよ出棺《しゆつかん》であった。
日本館の玄関に、遺族をはじめ告別式参列者の人たちが粛然と両側に列んだ中を、鉄平の柩はしずしずと担《かつ》ぎ出され、霊柩車《れいきゆうしや》におさめられた。そのすぐ後の車には、喪主の太郎、早苗、大介が乗り、続いて母の寧子と銀平、遺児の京子をはじめとする遺族たちと、親戚がそれぞれ車に分乗して従った。霊柩車がゆるゆると動き出すと、うしろに続いた車も黒く長い列をなし、天王山を背にして高台から下りた。
不意に霊柩車が停まった。邸内の坂の中ほどにある石橋の上であった。遺族も会葬者たちも、一斉にはっと不吉なことのように息を呑《の》んだが、それは万俵大介が、阪神特殊鋼を一望のもとに見渡せる石橋の上で霊柩車を停め、柩の中の鉄平に名残りを惜しませるために、予《あらかじ》め指示しておいたのだった。
灘浜に臨んだ阪神特殊鋼の高い煙突からは、鉄平が生きていた時と同じように鉄を精錬する煙が、今日も絶えることなく、たちのぼっている。霊柩車は再び動き出した。
鉄平の柩が運び出され、出棺を見送る会葬者もたち去ると、三雲は人影のなくなった万俵家の庭に、独りたっていた。
万俵大介をはじめとする一族の人たちは霊柩車に従って火葬場に向い、僅《わず》かに居残っている人たちは、広間の祭壇の取り片付けや、おびただしい樒《しきみ》や供花《くげ》のあと片付けに追われ、告別式が行なわれた広間から隔たった庭にいる三雲の姿に気付く者は誰もいない。
そこからは、邸内の東側の高みに建っている鉄平の曾《かつ》ての住家が見えた。三雲には、鉄平の死が、何としても口惜《くちお》しかった。そして自分が大蔵委員会に喚問されたことを鉄平が新聞で読み、電話して来たのを娘の志保から聞いた時、電話の一本、或《ある》いは葉書の一枚でも出しておいたら、もしや、という心の悔いが深まった。そう思うと、鉄平の住まっていた家へ行ってみたい衝動に駈《か》られた。広大な庭の池の横を通りぬけ、樹齢百年を越す松の樹《き》の間を縫い、芝生の庭に面したル.コルビジェ式の建物の前にたって、玄関の扉《とびら》を押すと、音もなく開いた。
さらに一步、内《うちら》へ足を踏み入れると、黴《かび》くさい湿《し》けた臭《にお》いがしたが、南側に面したテラスの鎧戸《よろいど》が一枚だけ開いており、そこから冬の陽が射《さ》し込んで、絨毯《じゆうたん》が剥《は》がされた床《ゆか》に、小椅子が三脚、残っていた。三雲はその一脚に腰を下ろした。曾て万俵鉄平も、この居間に寛《くつろ》ぎ、家族と団欒《だんらん》し、そして情熱を燃えたぎらせて、高炉建設にたち向ったのであろうと思うと、銀行家《バンカー》としての自分の理想を具現してくれるはずであった強靭《きようじん》な信念と逞しい行動力を持つ一人の青年実業家を忽然《こつぜん》として失った悲しみが、今さらの如《ごと》く、三雲の体の奥底からこみ上げて来た。それにしても、万俵鉄平は、なぜ突然、猟銃自殺を遂げたのであろうか。元旦の新聞紙面は、各社とも作りおきの記事が多いためか、鉄平の死は、社会面の一隅に、会社倒産によるノイローゼ自殺かと、簡単に報じられていたが、万俵鉄平は、ただそれだけの理由で、自ら命を断つような人間だとは考えられない――。
どのくらいの時間がたったろうか。不意に、床に黯《くろ》い人影が映った。思わず、ぎょっとして椅子からたち上ると、その人影もたち竦《すく》むように止まった。振り返ると、薄暗い部屋の入口に、万俵大介が礼装のままたっていた。
「あ、三雲さん、あなたでしたか――」
「お断わりもせず、勝手に入って失礼致しております」
詫びるように三雲が云うと、
「いや、私もなんとなく、こちらへ足が向いてしまって――」
万俵はそう云い、改まった姿勢で、
「本日はご遠路、お運び下さり、最後までご会葬戴き、鉄平は誰よりも、あなたのご参列を喜んでいることと思います、あちらに供養膳《くようぜん》をご用意しておりますので、どうぞ――」
父親らしく礼を云った。
「いや、私はもうそろそろ、帰京致さねばならないのですが、鉄平君の死にぎわのご様子を聞かせて戴きたいと思って、あなたをお待ちしていたのです」
三雲は、憂《うれ》いを含んだ眼《まな》ざしで云った。
「親の私から申すのもなんですが、鉄平の死は銃口を顎《あご》の下に当て、足指で引金をひき、しかも、一発だけ籠《こ》めた弾《たま》で命を断った、男らしい死に方でした」
「そうでしたか――、しかし、あの意志の強い逞しい人が、どうして自殺などをはかったのでしょうか」
「ご承知のように人一倍、責任感の強い性格だっただけに、阪神特殊鋼の倒産を苦にしていた矢先に、年末にあった多数の従業員の解雇、その他の様子を知って、おそらく、死をもって詫びようとしたのだと思います」
と応えると、
「ほんとうに阪神特殊鋼の倒産だけが、原因だったのでしょうか、自殺にまで踏み切るには、何かもっと、それより深い、原因があったのでは?」
三雲は納得がゆきかねるように云った。
「いや、阪神特殊鋼倒産の責任に加うるに、三雲さんにまでご迷惑をおかけした申しわけなさに尽きると思います」
と云うと、三雲の眼に刺し通すような強く厳しい光が溜《た》まった。
「それが原因なら、万俵さん、私の銀行家としての不明と、あなたご自身の企業的野望が、鉄平君をして死に追いやってしまったといえるのではないでしょうか――」
三雲の声は震えを帯びた。万俵は一瞬、動揺の色を見せたが、
「観方《みかた》によっては、或《ある》いはそう云えるかもしれません、しかし、企業である限り、親子の間といえども、致し方のない場合もありましょう」
と言葉を濁した。しかし、阪神特殊鋼の倒産が意図的なものであり、阪神、大同合併は鉄平の犠牲によって購《あがな》った合併だったのではないかという疑惑を持っている三雲は、
「企業発展のためには、肉親でも何でも、人間的なものを一切、犠牲にし、置き忘れてしまっていいものでしょうか、人間性を置き忘れた企業は、いつか、何処《どこ》かで必ず、躓《つまず》く時が来るというのが、私の信条です」
芯《しん》の強い、きっぱりした口調で云うと、万俵は、
「三雲さん、私は阪神銀行の頭取であると同時に、万俵コンツェルンの総帥《そうすい》です、そしてコンツェルンの中核はいうまでもなく阪神銀行です、中下位行である阪神銀行が現状のままでは、やがて“坐《ざ》して死を待つのみ”という状況に追い込まれることが予測されます、となれば、統率者たる者は、手段を選ばず、隙《すき》あらば相手を取って食おうと考えるのは当然のことでしょう」
と云った。三雲は、しばし万俵の顔を凝視し、
「万俵さん、孟子《もうし》の教えに、『天下ヲ得ルニハ 一不義ヲ成サズ 一無辜《むこ》ヲ殺サズ』という言葉がありますねぇ」
静かな淡々とした語調で云った。天下を得るには、一つの不義もなさず、一人の罪なき者も殺してはならぬという意であった。自ら不倫、不義の私生活を営み、罪なき者、鉄平を死に追いやってしまった万俵としては、その言葉がぐさりと鋭く胸に突き刺さった。
いつの間にか、南側の一枚開け放たれている鎧戸の窓から射し込んでいた陽が翳《かげ》り、がらんとした部屋の中で、万俵と三雲が二人だけ、無言のまま、対《むか》い合っていた。それは人生観、死生観を異にする二人の人間が相対峙《たいじ》し、対決するかのような姿であった。
やがて三雲は、静かに口を開いた。
「鉄平君の死は、私でさえも今なお耐え難い思いです、いわんや、あのようなりっぱな跡継ぎを失われた父親たるあなたのご心中は、お察しして、あまりあるものがあります……」
再び万俵の胸が、鋭く刳《えぐ》られた。その跡継ぎを自らの手で縊《くび》り殺してしまったのだった。
三雲は、たち去りかねるようにもう一度、鉄平の居間であった部屋を見廻し、鎧戸の開いている窓際にたった、昏《く》れなずむ夕陽の中に、阪神特殊鋼が黒い輪郭を見せて、くっきりと浮かび上っているのが見えた。
鉄平君、さらば――、三雲は心の中で、そう最後の別離を告げ、くるりと万俵大介に背を向けた。
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終 章
夜の羽田空港の国際線のラウンジは、それぞれの思いをもって海外へ飛び発《た》って行く人々の哀歓と、見送る人たちの騒《ざわ》めきで埋められている。
そんな中で、ひっそりとした見送りであったが、一際《ひときわ》、美しく目だつ姿があった。パン.アメリカン機で、一之瀬四々彦のいるペンシルバニアのピッツバーグに向う万俵二子、それを見送る一子、三子の姉妹と銀平の姿であった。鉄平の死から二カ月半経《た》っていたが、誰の胸にもその哀《かな》しみは深かった。しかし、鉄平の死によって、二子と細川一也との婚約は解消した。父の万俵大介は、二子と四々彦の結婚をようやく諒承《りようしよう》し、細川家へは自殺者を出した家として婚約辞退を申し入れ、細川一也の体面をたてて、婚約を解消したのだった。
「鉄平兄さまも、今頃、姫路のあのお墓から、二子、元気で行っておいで、四々彦君によろしくって、云《い》っていらっしゃるでしょうねぇ」
白のドレス.コートの衿《えり》もとに、母の寧子から贈られた蘭《らん》の生花を飾り、清楚《せいそ》で華やかな装いをした二子が、しみじみとして云った。一昨日《おととい》、万俵家の菩提寺《ぼだいじ》である姫路の亀山御坊に納骨された鉄平の墓へ詣《まい》り、四々彦との結婚が許され、渡米する報告に行ったのだった。
姉の一子が、母に似た白い細面《ほそおもて》を頷《うなず》かせ、
「鉄平兄さまが、今度の二子ちゃんの結婚を一番、喜ばれるはずね、生きていらしたら、どんなにか……」
と云い、夫の美馬が義妹の結婚のための旅だちを見送りに来ていないことを気にし、
「ご免なさいね、美馬は、どうしても、はずせない用事があるそうで――」
と云うと、二子は明るく頬笑み、
「いいのよ、お姉さま、それより、私だけがこんな勝手をして、自分だけが倖《しあわ》せになって、悪いみたい――」
姉の生活が決して倖せではなく、万俵家の閨閥《けいばつ》結婚の犠牲になっていることを知っているので、逆に姉をいたわるように云った。
「でもね、私には子供という生甲斐《いきがい》があるわ、今夜だって、宏も、潤も、二子叔母ちゃまのお見送りに行くんだってきかないのを、夜が遅いからって云いきかせてきたの、可愛《かわい》くってよ」
息づくように云い、
「二子ちゃん、あなた方の結婚式、ほんとに二人だけで挙げるの」
古風な一子は、まだ信じられぬように聞いた。
「ええ、そうよ、最初はお父さまは大反対で、四月一日の新銀行の披露パーティがすんで一段落つくまで待つように、五月になればお母さま、銀平兄さま、三子ちゃんも連れて、ピッツバーグへ行き、アメリカでのお父さまの友人、知己に集まって戴《いただ》いて、ちゃんとした結婚式と披露宴をするからって、なかなか許して下さらなかったのだけど、私たちはどうしても二人きりで、式を挙げたいの、それが四々彦さんの強い希望で、一之瀬のお舅《とう》さまも諒承して下さっているの」
二子が、兄の急死を四々彦に知らせると、外国で自分が最も尊敬し、信頼していた人の訃報《ふほう》を受け取ることほど苛酷《かこく》なことはない、僕はその日、独り教会の椅子《いす》に坐《すわ》って、専務の死を悼《いた》み、弔《とむら》ったという短いが、切々たる哀しみを籠《こ》めた手紙を書き送って来たのだった。その鉄平の死のあとだけに、二人きりのひっそりとした結婚式にしたいというのが、四々彦の希望でもあり、また阪神特殊鋼の煙を絶やさぬことを、鉄平の霊前に誓った四々彦の父の一之瀬工場長の希望でもあった。
「それで、生活の方は、うまくやって行けそうなの、第一、新婚家庭に必要なお荷物やお支度など、どうするの? ピッツバーグはシカゴから飛行機で二時間もかかるということじゃないの」
一子は、ピッツバーグのUSスチール技術開発研究所に勤めている四々彦との経済生活を案じ、日本から船便で或《あ》る程度の荷物は送っているとはいえ、新婚家庭に必要ないろいろな支度に姉らしく心を配った。
「お姉さま、私たちは2LDKぐらいのアパートに住むのよ、結婚のためのお支度なんてものいらないわ、第一、欲しい家具があれば、ピッツバーグの百貨店で買えばいいし、日用雑貨品ならスーパー.マーケットで整えればいいわ」
快活に云うと、妹の三子は、
「羨《うらや》ましいわ、やっぱり結婚は自分で選んだ人とするものね、私、相子女史に良縁探しを頼んでしまっているのを早速、取り消すわ、危うく、セーフね」
大《おお》真面目《まじめ》に云った。二子たちは思わず失笑したが、その失笑の中に、笑えぬ真実があった。
さっきから女たちのおしゃべりをよそに、インク.ブルーの誘導燈が明滅する滑走路を眺め、煙草《たばこ》をくゆらせていた銀平は、くるりと二子の方を振り向き、
「ピッツバーグは、お前の知っているボストンのような静かな街じゃあないよ、多くの大製鉄工場が集まった鉄鋼都市だ、そこにある世界的なUSスチールの技術開発研究所で一之瀬四々彦君は、新しい鉄鋼作りの研究開発に励み、一日の仕事が終れば、郊外のアパートへ帰る、その妻は健康で何の不安も、疑惑もない倖せな家庭を営み、アメリカ社会の中へ溶け込んで行く――、それも一つの生き方だろう、祝福するよ」
二子の肩を軽く叩《たた》くと、
「銀平兄さまは、これからどうなさるの」
一カ月前、銀平は万樹子と正式に離婚してしまっているのだった。
「さあ、僕かい――、僕のことは鉄平兄さんの一周忌がすんでから考えることにするよ」
曖昧《あいまい》に言葉を濁しながら、妹たちは知るよしもないが、兄の鉄平が死に至る過程を自分が傍観していたことが、深い心の傷になっている銀平は、すべては心の傷が癒《い》えてから考えてみようと思っているのだった。
「アテンション.プリーズ!」
搭乗《とうじよう》案内がはじまった。
「パン.アメリカン一八五便、二十一時二十分羽田発、サンフランシスコ、シカゴ経由、ニューヨーク行きの便にご搭乗のお客様はお急ぎ下さい」
ラウンジにいた人々は、それぞれに別れの言葉を交わし、搭乗客はガラスに囲まれた搭乗者専用の待合室へ入って行った。
「じゃあ、行って参ります、お父さまとお母さまには、向うについたらすぐお手紙を出しますからご心配なくと、お伝えしてね」
二子は、羽田まで見送るという両親の希望を固辞して来たのだった。一子はみるみる涙ぐんだが、三子は、
「お姉さま、お倖せに――、この夏に遊びに行くかもしれないわ」
二子の方へ手をさしのべて握手し、銀平は、
「じゃあ、体に気をつけて――、デッキから見送ってやるよ」
と云い、送迎用のデッキの方へ足を向けた。デッキのそこここには見送る人たちが手を振り、投光器の光の輪が、あかあかとパン.アメリカン機を照らし出し、前から十番目の窓ガラスに、二子らしい顔が覗《のぞ》いた。
やがてジェット機のエンジンがかかりはじめた。銀平、一子、三子は、デッキから体を乗り出し、思いきり手を振った。十番目の窓から白い蘭の花が振られるのが見えた。見送る方の眼にも、見送られる方の眼にも、涙が溢《あふ》れていた。鉄平の死は、万俵家の弟妹たちに、何らかの再出発を促し、意味しているようであった。
赤坂のナイト.クラブ『サンブラ』の踊りの輪の中で、相子は美馬中に体をゆだね、スロー.テンポのステップを踏みながら、右手の腕時計を見た。
「二十一時二十分――、万俵二子は遂《つい》に発ってしまったわ」
相子のステップが乱れ、苛《いら》だちが顔に出た。美馬はぐいと相子の腰を締めつけ、
「そうこだわるなよ、君らしくもない――」
気持を和《やわ》らげるように云ったが、相子は踊るのをやめ、ボックスの席へ戻り、ハイボールを注文し、あおるように飲んだ。飲むほどに二子と細川一也との破談が思い返され、煮えくり返る思いがした。
万俵家の閨閥作りとしてはこれ以上ないと思われる総理夫人の甥《おい》である細川一也との縁組を考え、仲人《なこうど》の小泉夫人との度重《たびかさ》なる交渉、総理夫人を招いての京都嵯峨《さが》での豪奢《ごうしや》な見合い、結納、挙式の日取りの取定《とりき》めなどのために、東京.神戸間を何度、往復したことか――。しかも、二子が無断で細川一也自身に婚約解消を申し入れたことで、小泉夫人から唇が裂けそうなほど屈辱的な非難の言葉を浴びせられても、ひたすらに陳謝し、収拾策に駈《か》けめぐったのは、万俵家の閨閥の枝を拡《ひろ》げることによって、万俵家における閨閥推進役としての自分の立場を、より確固としたものにしておくためであった。しかし、その努力も、鉄平の自殺によって、打ち砕かれてしまった。上流階級の常識として、自殺者の係累《けいるい》のある家との縁談は忌避されるのが通例であったから、鉄平の初七日があけて早々に、その旨《むね》を小泉夫人を通して細川家へ伝えると、細川家もこじれていた縁談のきれ目と思ったのか、すんなりと受け入れたのだった。相子はまたハイボールをあけた。
「そう荒れるなよ、まだ次に三子ちゃんの結婚があるじゃないか」
「駄目よ、鉄平さんが死んでからというものは、万俵家には何か眼に見えない変化が起っているみたい――」
ほの暗いキャンドルの灯《あか》りの下で、相子は吐息をつくように云った。
「君の思い過しだよ、細川家との婚約解消も円満に方《かた》がつき、この件にかかわっていた君も、僕も、別にどうってことはないじゃないか」
美馬はあっさり云ったが、一カ月前、銀平が万樹子と正式に離婚という苦杯を舐《な》めさせられている相子は、やり場のない敗北感を噛《か》みしめ、
「あなたはいいわね、大蔵官僚として万俵家を牛耳《ぎゆうじ》る仕事は、今度の大同、阪神銀行の合併のように、りっぱに残って行くのですもの」
と云い、グラスの中の琥珀《こはく》色の液体を淋《さび》しげに見入った。
「君だって、今まで万俵家の閨閥作りを画策し、万俵家は君と僕という二人の他人によって、外と内とを支えて来たんじゃないか、それに鉄平君の死によって、万俵家の総領になった銀平君の再婚という大きな問題が残っているよ」
「そうねぇ、でも何だか疲れたわ、暫《しばら》くは何もしたくないみたい――」
「ま、それもいいだろうね、ところで舅《おやじ》さんたち、岡本の邸《やしき》から麹町《こうじまち》へは、いつ、引っ越して来るの」
四月一日から新銀行である東洋銀行が発足するにあたり、頭取の万俵大介の本邸も、麹町の行邸へ移すことになっているのだった。
「行邸の改装が遅れているようなので、新銀行の披露パーティぎりぎりになりそうよ」
「じゃあ、君は結局、どうするつもりなんだい、岡本の邸に残るって聞いたけど、時折、東京へも来るのだろう」
美馬は相子の方に顔を寄せて聞いた。岡本の天王山を背にした一万坪の邸の中なればこそ、妻妾《さいしよう》同居の生活も世間に洩《も》れることなく営めるが、東京の麹町の邸では不可能のことであり、相子は岡本の邸に、神戸店勤務の銀平と残ることになっているのだった。万俵自身も月のうちの一週間ぐらいは神戸へ出張して岡本の邸に泊ることでもあり、一抹《いちまつ》の淋しさはあるにしろ、大介との生活を世間に知られずに長続きさせるためには、岡本に残ることに、さしてこだわりはなかった。
相子は、ハイボールのグラスに口をつけ、
「私のこれからのことなど、どうしてそんな風にお聞きになるの」
「老婆心《ろうばしん》からだよ、君の話では、岡本の邸で、今まで通りの生活をするということだけど、世間の眼がことのほかうるさい時、あの用心深い舅《おやじ》さんが、ほんとにその気でいるのかな、難かしいんじゃないか――」
疑わしげに美馬が云うと、
「とんでもない、万俵は、私なしではすまされない人ですわ」
妻妾同衾《どうきん》という異様な生活を営んで来た相子は、自分に対する大介の執着を充分、知っていた。
「大へんな自信だね、だが、これを機会に君自身、もっと自由な生活を娯《たの》しむべきだと思うねぇ」
美馬はそう云うなり、女のように白い手を、相子の手に絡《から》めた。
「ふっふっふっ……とてもご親切なアドバイスだけど、美馬さんとこれ以上、自由を娯しんで、もし万俵に見つかったら、どうなさるおつもり?」
「大丈夫、僕が大蔵省のエリート官僚である間は、舅《おやじ》さんはたとえ僕たちの現場に出くわしたって、一言も、何も云えようはずがないよ」
美馬は、平然と云った。大蔵省サイドのトップ.シークレットを自分から得ている万俵大介は、相子との情事に気付いても、見て見ぬ振りをするしか仕方がないと高をくくり、情事をも官僚的な感覚で処するいやらしさがあった。
「じゃあ、今までこうして何度も会っているのに、どうして?」
「君をその気にさせるのに、手間どっただけだよ、だけど麹町の行邸が改装中なら、今晚はホテルだろう?」
誘い込むような湿った声で、囁《ささや》いた。
「もし今晚、万俵が上京していなかったら、ツインのお部屋を予約していたと思うわ、でも、どうやら情事だけは計算通りには運ばないもののようね」
さり気なく、美馬の手をはずし、
「じゃあ、これで――」
と、たち上った。
相子は、心の中で、何度も情事を持ちそうになっては、そのチャンスを逸してきたが、今となってみれば、美馬のような男との情事は、体のぬくもりにも、心のぬくもりにもならず、ただうそ寒さだけが残るだろうと思った。
相子が麹町の行邸へ帰ったのは、十時をかなり廻っていた。背中を露《あら》わにしたカクテル.ドレスの上に、きちんと上衣《うわぎ》を重ね、口紅《ルージユ》を薄く落すと、相子は美しいが、地味で聡明《そうめい》な女執事の顔に変り、内玄関のベルを押した。
「お帰りなさい、二子お嬢さまは、ご無事にお発《た》ちですか」
迎えに出た書生が聞いた。相子は、二子を羽田空港へ見送りに行ったことになっているのだった。
「ええ、予定通りご無事に――、頭取はお帰りですか」
「はい、つい先程、お帰りになり、今、バスを使っておられますが、高須さんが帰られたら、お嬢さまの出発の様子を聞きたいからと、おっしゃってました」
書生はそう伝えると、退《さが》って行った。
二週間後には万俵家の本邸となる家の中は、壁面を明るく塗り直し、絨毯《じゆうたん》が敷き替えられて、以前にはない明るさと温か味が感じられる。しかし、自分が住むところでなくなった邸の明るさと温か味は、かえって相子の心を傷つけた。相子は、居間に入れた渋い木目を生かした北欧調の椅子に腰を下ろしたが、いたたまれぬ思いでたち上り、自室に使っていた一階東端の部屋へ足を向けた。
部屋の灯りを点《つ》けた途端、相子は、はっと体を硬《こわ》ばらせた。そこには自分が上京して来た時に使っていた机、椅子、ドレッサーなどすべての調度類が取り片付けられ、深々とした絨毯の上に真新しいマホガニーのベッドが二台、並んでいる。一見して、万俵大介と寧子のための寝室であった。相子は、焔《ほむら》のような嫉妬《しつと》を覚え、ぎりっと歯ぎしりした。
「相子、ここにいたのかい」
背後で万俵の声がしたが、相子は振り返らなかった。ガウンを羽織った万俵は、相子の前に廻り、
「はじめの予定では、今まで通り二階の寝室を使うつもりだったんだが、改装の設計者の意見で、ここへ移したんだよ」
「ご自由ですわ、どう遊ばそうと――、居間の方へ参りましょうか」
つとめて平静に云うと、
「ふむ、実は相子に話があるから、居間の方がいい」
先にたって、居間に戻った。
「急に改まってお話など、何ですの、二子さんの出発のことでしたら、私は頭からお見送りを断わられましたから、存じあげませんわよ」
「二子とは、昼間、銀行で会って話しした、そして出発の模様は、さっき一子からの電話で聞いたよ」
と云い、万俵は一瞬、言葉を跡切《とぎ》らせてから、
「話というのは、ほかでもない、新銀行の頭取としての今後の私の在《あ》り方なんだ、新銀行の発足と同時に私の財界人としての舞台は東京へ移った、東京では公私の生活がガラス張りになり、その上“小が大を食う”合併を成し遂げた時だけに、マスコミ、その他、周囲の眼がすべて私に集中している、それでなくとも、都市銀行第五位の新銀行の頭取になったからには、それに相応する経営者としての社会的責任とモラルを自らに課さねばならない」
万俵の声は、いつにない昂《たかぶ》りを帯びていた。そこには年来の企業的野心をようやく遂げ、それを軌道に乗せて行くためにはあらゆる面で一分《いちぶ》の隙《すき》もない、完璧《かんぺき》さを備えておかねばならぬという気負いがあった。
「そうなると、相子とのこれまでの生活は、岡本の邸ででも続けて行くことは不可能だ――」
「なんですって、それじゃあ、お話が違うじゃありませんか、岡本の邸でなら世間の眼を遮《さえぎ》られるからと私を説得なさったのは、今日のようなお話に持って行くための一時的な方便だったのですか」
「そうじゃない、新銀行合併直後の時点では、それで充分、乗りきれるつもりだったんだ、だが、鉄平の死後、いろいろとあらぬ噂《うわさ》をたてられ、家族関係が詮索《せんさく》され出し、このままの状態では、乗りきれなくなり、考えに考え、迷いに迷ったあげくの結論だ……」
万俵は一言、一言、区切るように云った。
「だからといって、すぐ別れるなど――、その気になれば、どんな方法、形だって考えられるはずですわ」
「だが、芥川の話では、去年、当行の銀行検査を行なった森永主任検査官に感付かれているらしい」
「でも、あの時のことは、難なくおさまっていたはずじゃありませんか」
銀行検査の最終日に頭取面接を終えた森永検査官が「美馬さんの奥さんは、洋装の似合う日本人ばなれした方ですね」と褒めたのに対して、万俵はそれが一子ではなく相子の間違いだと解《わか》ったが、訂正すれば、相子の説明をしなければならぬから、娘が聞けば喜ぶでしょうと応《こた》え、ことなきを得たのだった。
「ところがこの間、森永検査官が新宿の大蔵官舎から美馬の家の近くに転居して来、その挨拶《あいさつ》の時に一子とも顔を合わせ、嘘《うそ》だということが解ったらしい」
苦々しげに云った。
「じゃあ、私は美馬さんのガール.フレンドということで、あなたの愛人ってことまでどうして気付かれましたの」
「むろん、そこまでは知れようはずがない、だが万一、相子の存在を知られてしまえば、取り返しのつかない致命傷になる、この際、名実ともに身辺をきれいにしておかねばならない――」
と云い、万俵は白い封筒を相子の前に置いた。相子は訝《いぶか》しげにその封筒を取り上げ、指先に触れた途端、
「あなた、これは……」
開いてみるまでもなく、現金の入った包みであった。
「あなた、こんなもので、十何年間のあなたと私の間が清算できるとお考えなの?」
相子の眼に、憤《いきどお》りの色が漲《みなぎ》った。
「しかし、今となっては、こうした形を取るしか仕方がない……」
万俵が口ごもると、
「私をお金で解決のつく女だと思っていらっしゃるなら、とんでもない間違いですことよ」
「じゃあ、どうしろと云うのかね」
「どうなすっても、私はあなたとはお別れしませんわ」
激しく首を振った。
「だが、新銀行にはかえられない――」
「それが、あなたにとってどんなにお大切であっても、私の出方一つで、大へんなことになりかねませんでしょう?」
「脅かす気かねぇ、相子はそんなくだらん女ではないはずだ、ここに現金で一千万入っている、そして住まいの方は、万俵不動産で大阪近郊のマンションを物色させている」
「それでも、絶対、応じられないと申し上げたら?」
と云うと、万俵の眼に冷やかな光が帯びた。
「相子、あまり強気を云うものじゃないよ、森永検査官に不審をもたれたのも、もとはといえば、お前が派手に美馬と出步いた、いわば身から出た錆《さび》じゃないか」
「ですが私は、何も美馬さんとやましい間柄ではありませんわ」
「当然じゃないか、私が云いたいのは、そんな自分の手ぬかりを棚に上げて、あまり高飛車に出るものじゃないと云っているんだ、その一千万は、そうしたあらゆることを積算した上で弾《はじ》き出した数字だ、まさかその額に不満はないだろう」
その声は、冷徹な銀行家の声以外の何ものでもなかった。
「あなたって怖《おそ》ろしい人ね、ご自分の企業的野心を満たすためには、親子の絆《きずな》のみならず、男女の絆も、ご用済みとなれば、平然と切っておしまいになるのね」
相子は、許し難いように云い、眼の前の封筒を万俵の方へおし返した。
「別れない! 意地でも別れてさし上げない!」
万俵は瞬《またた》きもせず、相子を凝視し、
「妻でもなく、まして子供もない仲で、意地でも別れないなどというのはおかしいじゃないかねぇ、相子らしくない取り乱し方だ」
ぷつんと断ち切るように云った。相子の耳に、万俵の言葉が酷薄に響いた。妻、子供、そのいずれも相子が潜在的に、心の底で望んでいたことであった。惨《みじ》めな敗北感が雪崩《なだれ》のように相子の心を押し潰《つぶ》した。耐えがたい思いで、万俵に背を向けた。はじめて相子の顔が歪《ゆが》み、涙が噴き出した。だが、振り払うように涙を拭《ぬぐ》うと、ぐっと感情を抑えた表情で、万俵の方へ向き直り、
「あなたにとって、私は単なる愛人ではなかったはずですわ、これは十何年間の退職金として戴きますわ」
辛うじて、自らの体面を支えるように云った。
*
四月一日、午後一時半過ぎから、日比谷通りは、おびただしい高級車の列が数珠《じゆず》繋《つな》ぎになり、帝国ホテルまで長く停滞していた。阪神、大同銀行の合併によって誕生した新銀行の披露パーティに招かれた人たちの車の列であった。
帝国ホテルの孔雀《くじやく》の間《ま》の入口には、金《きん》屏風《びようぶ》を背にして、新銀行の頭取である万俵大介、副頭取の綿貫千太郎以下、二十八名の役員がモーニングに威儀を正し、上気した顔で来賓を迎えている。
万俵大介は、喜びの中にも抑制のきいた微笑を端正な顔にうかべていたが、綿貫千太郎は一躍、都市銀行第五位の新銀行の副頭取になり得た嬉《うれ》しさを隠しきれず、赭《あか》ら顔をまっ赤《か》に上気させ、答礼する度に、吹き出る汗を、拭っていた。
「新銀行のご披露、おめでとうございます」
全国銀行協会会長である富国銀行の巌《いわお》頭取が、万俵の前で足を止めて祝った。
「これは巌頭取、今後とも何かとよろしくご指導の程を――」
万俵は、鄭重《ていちよう》に答礼しながら、今までは望むべくもなかった全国銀行協会会長という銀行家最高の名誉職も、これからは腕の振るいよう次第で、掌中にし得るのだと、新たな野心を膨《ふく》らませた。
来賓の顔ぶれは、時がたつにつれ、華やかさを加えた。総理の出席は得られなかったが、政界からは通産大臣、経済企画庁長官、自由党の党三役、衆参両院の大蔵委員が続々と現われ、官界からは両行合併の陰の立役者である春田銀行局長をトップに大蔵、通産次官をはじめ各局長、日銀からは煮え湯をのまされたとはいえ、副総裁、理事が早々に姿を見せている。
「万俵さん、おめでとうございます、新銀行誕生を機に一層のお近づきを――」
財界人の中では、早くも新銀行の豊富な資金に目をつけた大企業の役員たちが、以前にはない親近感をみせて、挨拶して行く。日経連や経団連の要職を兼ねるそれら中央財界の社長、専務たちの挨拶は、万俵の心を快く揺すぶった。
万俵の会心の思いは、松平日銀総裁の出席によって、さらに高まった。秘書役を伴い、あたりを睥睨《へいげい》するような眼光を湛《たた》えて近付いて来ると、万俵は自ら一步、前へ進み出て、
「ご来駕《らいが》、恐縮に存じます」
恭《うやうや》しく迎えると、松平総裁は、鷲《わし》のような鋭い眼で目礼を返したきり、さっと会場へ入ってしまった。歴代、日銀の天下り先である大同銀行を食われてしまった歯噛《はが》みがありありと見て取れ、白けた気配が漂ったが、万俵はいいようのない勝利感が咽喉《のど》もとにこみ上げて来るのを覚えた。