さり気ない笑いをうかべながら、今夜の席の目的をじわりと切り出した。
「ほう、意見などと改まられて、一体、何のことですかねぇ」
永田大臣は脇息《きようそく》に体を寄せ、盃を口につけたまま、聞き返した。万俵は、床の間を背にして尊大な姿勢で坐っている男を見詰めながら、この男が、大蔵次官から政界入りした直後の或《あ》る一時期、時の総理の経済政策に徹底的に楯《たて》ついて、冷飯食いをしていた時のことを思い出した。娘婿の美馬と同県人であること、そして美馬が真底から尊敬し、将来は大蔵大臣になる人物ということで、美馬と一緒に、永田の家を訪ねたことがあった。その時、永田は縁《へり》のすりきれそうになった畳の部屋で、きりぎりすのように痩せた小さな体で肩をいからせ、開口一番、時の総理を“財政理念のない無学の輩《やから》”とこき下ろした。以後六年間、徹頭徹尾、それで貫き通し、今日の座を築き上げたのだった。その間、万俵は美馬を通して、先物買いの意味で、ずっと永田へ経済的援助を続けて来たのだった。その男が、今、一国の経済行政を握る実力大臣になって、自分の前に趺坐《あぐら》をかいている。
「このところ、とみに金融再編成の論議が高まり、金融制度調査会の特別委員会で答申案が練られていますが、大臣は、この問題に対して、どんな考えをお持ちなのか、それをお伺いしたいのですよ」
「さあねぇ、何しろ日本には銀行の数が必要以上に、多過ぎますからねぇ」
永田大臣は、煙草《たばこ》をくわえながら、微妙な笑いを三白眼に漂わせた。その一言は万俵の胸に鋭く響いたが、永田大臣は煙草の煙をふうっと吐き出し、
「それに目下、企業の大型合併を急ぐ時代になっているから、大型企業に資金供給をする銀行側も、業容を大きくして貰《もら》わないと、何かと不都合が起って来るわけで、銀行が再編成されて大型化することについては、政府も積極的な考えを持っています、それが今後の政策を進めるに当って基本的な考えですな」
献金を受けている手前、永田大臣の言葉遣いは概《おおむ》ね丁寧であったが、時々、尊大な言葉になって、権威をちらつかせる。
「しかし、大臣、そういう大義名分をおしたてられますと、片っ端《ぱし》から小は大に食われるという論法になり、さしずめ当行などのような資金量の低い銀行は、巨大資本の上位四行に食われてしまえということになりそうですね、それでは今の金融再編成は、上位四行と大蔵省による一種の“策謀”と云われても、致し方ないでしょうね」
「策謀ととるか、日本経済の前進と解釈するか、それは、立場の相違によってさまざまだね、しかし、銀行の再編成論議は、前大蔵大臣の頃から云われながら、実際になかなか進展をみなかった、それは銀行に対する長すぎた保護政策もさることながら、銀行間の合併は一般の企業の合併に比べて、いろいろと難かしい制約がある、一例をあげると、大友銀行と第三銀行が合併すると、規模の上ではマンモス銀行が出現することになるが、日本の二大ゴム会社の一方は大友、一方は第三銀行がメイン.バンクになっているから、二行の合併によって自動車のタイヤに必要なゴムの寡占度《かせんど》が五七パーセントにもなり、一つのマンモス銀行の意向で、ゴム業界が左右されることになる、そうなると消費者から厳しい批判が起り、国としての産業政策がやりにくくなる――」
大蔵省出身らしい話し方をすると、万俵はすかさず、
「そうすると、銀行の合併は、必ずしも規模の問題だけできまるというものではないわけですね」
大臣の言葉を抑え込むように云った。
「そりゃあそうですよ、銀行にはそれぞれの特質というものがあり、その特質が合併することによって効果を増すというものでなければねぇ、つまり銀行の合併には、規模の大小の問題と同時に、質の問題があるから、なかなか机上案《デスク.プラン》通りにはいかんものでね」
途端、万俵の眼が、きらりと動いた。机上案《デスク.プラン》という言葉が出るからには、大蔵省には既に、どの銀行とどの銀行を合併させよう、もしくはさせたいという具体的な青写真が用意されているということだろうか――。万俵は、永田大臣が云ったその言葉に、総毛だつような怖《おそ》れを覚えたが、平静な表情をつくろい、
「大臣のおっしゃるように、規模の大小だけで、銀行間の合併はきめられるものではないとすると、たとえば、その銀行の業容次第によっては、小が大を食う場合もあり得るということですね」
ぴたりと永田大臣に視線を向けて云った。永田は一瞬、三白眼を動かし、その言葉の意味を探るように万俵の顔を見返したが、
「まあ、そういうことも、あり得る話かもしれませんな、しかし、それにはせめて預金順位がシングルになっていないとねぇ、あっはっはっはっ」
不意に天井に響くような高笑いをした。めったに声を出して笑わない万俵も、笑った。しかし、二人の眼だけは、互いに笑っていなかった。
永田大臣の胸中には、冷飯食いの時代から今日まで一通りでない金銭的な借りがあり、何か容易ならざることを考えているらしい万俵大介に、片棒を担《かつ》がされるかもしれぬという警戒心があったし、万俵大介には、これで大臣と意思の疎通《そつう》が出来たとはいえ、預金順位がシングルになっていないと、と云う大臣の言葉は、都市銀行十二行中、十位の阪神銀行では問題外という意味なのか、預金量を増やして九位になれば考えてみてもいいという意味なのか、確たる言質《げんち》を得るに至らない焦《あせ》りがあった。
ルーム.ライトを消した車のシートに、万俵大介は体を埋め、フロント.ガラスを見詰めていた。いつの間にか、小雨《こさめ》が降りはじめている。
少し疲れていたが、万俵の頭は、妙に冴《さ》え冴《ざ》えとして、さっき会った永田大蔵大臣の凄味《すごみ》のある三白眼と、薄い唇から出た一語、一語を思い返していた。
大蔵大臣が、銀行合併に対して積極的な考えを持っていたことは、阪神銀行の今後を左右する重大な事柄であった。しかし、亡父の代に一介の地方銀行から発足して、営々と築き上げ、自分の代になって都市銀行にまで発展させた阪神銀行を、国家の金融行政のためという大義名分で、むざむざと上位銀行に吸収合併されてなるものかという思いが、万俵の気持の中ではっきりとした形をとって強まってきた。たとえ今日の席で確たる答えを得られなくとも、暗黙のうちに永田大臣と意思の疎通を交わした以上、どんな手段を尽しても巨大銀行に呑《の》まれることを防ぎ、阪神銀行に有利な合併の相手を秘密裡《り》に考え、その布石をしておこうと決意した。
大介の脳裡に、父の敬介の顔がうかんだ。あの豪放磊落《らいらく》な父もこうした厳しい経営者の試練に耐え、それを乗り越えて銀行を中核とした今日の万俵コンツェルンの基礎を築き上げたのだろうか――、大介はそう考えると、万俵コンツェルンの総帥《そうすい》であり、阪神銀行の頭取としての重味が、両肩にぐいと食い込んで来るような息苦しさを感じた。
フロント.ガラスを真正面から叩《たた》く雨の音で、大介は窓外へ眼を遣《や》った。車はもう砧《きぬた》をすぎ、世田谷の成城にある美馬の家まで間もなくであった。美馬は大臣との会談が終った頃、麹町《こうじまち》の行邸《こうてい》へ伺うと云ったのだったが、大介は行邸で会うより、久しぶりに娘の家を訪ねてやりたいと思ったのだった。
生垣に囲まれた二百坪程の敷地に、和洋折衷の建物が建っている美馬の家の前で車が停まった。運転手が扉《ドア》を開け、助手席にのせていた手土産の包みを抱えて、先に門のベルを押した。門を開ける人の気配がし、
「お父さま、お待ちしておりましたわ」
和服姿の一子《いちこ》が、傘を父にさしかけて出迎えた。玄関へ入ると、
「お祖父《じい》ちゃま、いらっしゃい!」
慶応幼稚舎に通っている宏《ひろし》が、可愛《かわい》いお辞儀をした。
「遅いのに起きていてくれたのかね、潤はもう寝《やす》んでいるんだろう? これはお土産だ、潤には明日《あした》、お兄ちゃまから渡しておやり」
孫を膝《ひざ》の上に抱いたことのない万俵であったが、運転手から包みを受け取り、宏の手に渡した。
「有難う、これ、約束の電気自動車?」
「そうだ、欲しがってたドイツ製のだよ」
「ほんとう? 凄いや、お祖父ちゃまはどうせパパと大切なお話があるんでしょ、ぼく、お部屋で動かしてみるよ」
こましゃくれた口調で云い、ばたばたと廊下を走り、子供部屋へ駈《か》けて行った。
応接間へ入ると、ストーブで部屋が温められ、酒と果物の用意が整えられていたが、美馬の姿は見えない。
「つい先程、美馬から電話があったところですの、どうしても、うまく宴席がぬけられなくて、三十分ばかり帰宅が遅れるから、お父さまによくお詫《わ》びしてほしいということですわ」
「中君も、何かと忙しいのだね、しかし、高級官僚たる者、夜のお座敷がかからないようでは駄目だよ、相変らず遅いのかい」
「ええ、毎晚十一時より早く帰宅することはありませんし、日曜だってゴルフでしょう、子供たちと夕食を共にするのは、月に一、二度ですわ」
と応えたが、別段、不足がましい口振りではなく、静かな声で話した。万俵にしても月に数回、上京するが、仕事に追われ、美馬の家へ来るのは、年に一、二度であったから、娘の一子とゆっくり話し合うことなどはなかったが、三人の娘の中で、一子が一番、母親の寧子に似ていた。色白の細面に一重の張りのある眼とつぼむような小さな口もとが、寧子の若い時とそっくりであった。
「中君が忙しい上に、子供が幼稚園や学校へ行くようになると、若い女中だけでは、大へんだろう」
「ええ、そりゃあもう、でも、子供はやはり、母親自身の手で……」
と云いかけ、一子は言葉を跡切《とぎ》らせた。それ以上云えば、自分たちが母の手で育てられず、家庭教師の高須相子によって育てられたことを恨むことにしかならない。
「お父さま、何かお召し上りになります?」
「いや、中君が帰ってからにしよう、そのお冷水《ひや》だけ貰おう」
一子はテーブルの上の氷水を入れたポットを取って、グラスに注ぎ、
「この間は、久し振りに岡本の家で、お母さまや妹たちとお喋《しやべ》りをして、のびのびさせて戴《いただ》きましたわ、子供たちも、お祖父ちゃまのところはお庭が広くていいって、大喜びでしたわ」
「近いと、ちょいちょい来られるのだがねぇ、しかし、ここも、そろそろ手狭になったんじゃないか」
大介は、一子が美馬と結婚する時に建ててやった、十畳の応接間の他《ほか》に五室ある四十坪程の家を見廻すように云った。
「いいえ、主計局の中で美馬が、いま一番、広い家におりますのよ、殆《ほとん》どの方は3DKの公務員宿舎か、持家でもだいたい百坪の敷地に三十坪ぐらいのお家の方が多うございますのよ、それにお手伝いさんを使っていらっしゃるお宅など、まずないのですって――」
主計局次長で手取り、十四、五万円ほどのものであったから、それが普通の生活であった。
「別にかまわないじゃないか、この応接室のカーペットも少し古くなっているから、北欧風のフックになったのと替えることだ、それにこの絵も、いつも同じじゃないか、今度、ビュッフェか、何か持って来るから、かけ替えることだね」
万俵は、まるで自分の家の模様替えをするように、次々と云った。
「でも、お父さまがあまりなさると、かえって美馬が喜ばないのですわ――」
「どうしてだい、父親が、娘の家の世話をやいたっておかしくないじゃないか」
万俵大介のような育ちの者には、茨城県の田舎寺の息子に生れ、東大を出、大蔵省に入って、銀行の頭取の娘を娶《めと》り、その援助を受けている美馬の屈折した心理は解《わか》らなかった。
車が停まる音がし、お手伝いが門を開ける気配がすると、一子もすぐ出迎えた。美馬は慌《あわただ》しい足音で、応接室へ入って来るなり、
「お舅《とう》さん、お待たせして申しわけございません、今夜の大臣とのお話は如何《いかが》でしたか?」
気懸《きがか》りそうに聞いた。
「うむ、大臣はやはり本腰で、銀行合併を考えている様子だね」
「そりゃあ、その大臣の任期中に一つでも銀行の合併を実現させれば、その大臣の大へんな点数ですからねぇ」
「大臣の口から、机上案《デスク.プラン》という言葉が出たんだが、銀行局で考えていそうな銀行合併のカードの組合せは、どんなものだろうねぇ」
もと銀行課長から近畿《きんき》財務局長、理財局次長を経て、主計局次長になり、今もなお銀行局の情報を知り得る美馬に聞いた。
「大臣がそんな言葉を滑らせましたか、じゃあ、銀行合併の具体案は相当、深く潜行して進んでいるようですね」
と云い、美馬はちょっと言葉を切ってから、
「基本的には、五菱、大友などの財閥系銀行を核として、それに非財閥系銀行をくっつける組合せになりますが、財閥系銀行との合併は、いくら対等合併だと云っても、うしろに大きな財閥がひかえているので、みな恐怖心を持ち、相手行《こう》の幹部、行員間に強い反撥《はんぱつ》があって、なかなか巧《うま》く行かないらしいですよ」
「そりゃあそうだ、銀行の合併が、財閥強化策になっては、金融再編成の大義名分を失ってしまうからね」
「その点、非財閥系銀行の上位、つまり東京の富国銀行や、大阪の五和銀行などに、適当な中下位銀行を組み合せる方式は、比較的やりやすいでしょう、具体的には富国銀行と埼玉相銀、五和銀行と第三銀行などが云われています」
と云うと、万俵は一子の運んで来た熱いほうじ茶を飲みながら、
「つまり、完全な弱肉強食型だな」
「まあ、そういうところでしょうね」
美馬は、こともなげに云った。無意識に出る言葉の裏に、永田大蔵大臣と共通した官僚独特の酷薄さがあった。
「それから俗に“大蔵銀行”とか“日銀銀行”とかと陰口を叩《たた》かれている日銀出身の頭取がいる都市銀行同士、または大蔵省出身の頭取がいる都市銀行同士の合併という問題になると、一概に何とも云えませんね」
「しかし都市銀行で合併のトップをきるのはどこかな、今日の大同銀行のパーティで、銀行局長と日本自動車の専務と、妙にひそひそと仲間うちのように歓談しているのをみかけたが、特に懇意なのかね」
「ええ、春田銀行局長は、威勢のいい金融再編成論をぶってはいますが、日本自動車の社長の姪《めい》を貰っていますから、そこのメイン.バンクである五菱銀行に都合の悪いカードは、まず組めないでしょうね」
「ふうむ、銀行合併に閨閥《けいばつ》が絡《から》む要素もあるというわけだね、なるほどねぇ――」
万俵が言外に君だってそのためじゃないかという意味合いを籠《こ》めて云うと、美馬は酔いざめしたような冷えた表情で、
「だからと云って、あまり露骨なことは出来ませんよ、大蔵省銀行局という大きな機構の中で決定することですから、そう一人や二人の思惑通りに参るものではありませんよ」
釘《くぎ》をさすように云ってから、
「お舅さんは、何か思惑でも、おありなんですか?」
美馬は、頻《しき》りに銀行合併のカードの組合せを知りたがる舅《しゆうと》に眼を向けた。
「いや、思惑など、別に――」
万俵の真底で秘《ひそ》かに考えていることを、まだ美馬などに話す段階ではなかった。
「それより中君、今後、カードの組合せの読みを間違えないよう、充分なアンテナを張って貰いたい」
「おっしゃるまでもありません、それは私とて充分、心得ておりますから――」
慇懃《いんぎん》な言葉で応《こた》えた。
*
四日間の上京を終えて、万俵頭取が阪神銀行本店へ帰って来たのは、午後一時過ぎであった。
帰る早々、二組の来客との応対をすませ、頭取室で一息つくと、万俵は秘書の速水がさし出すコップを受け取り、ビタミン剤と消化剤を一気にのみ下した。
「医者の息子を秘書にするものじゃないな、薬を飲むことまで予定に入れられるんだから」
口もとを拭《ぬぐ》いながら云ったが、口ほどでもない証拠には表情が柔らかい。
「頭取のご健康に留意致しますのも、私の職務の一つでございますから」
速水は澄んだ眼《まな》ざしで云い、
「渋野常務が、太平スーパーの件で、取り急ぎの報告があるそうです」
と伝え、融資担当の渋野が入って来た。
「どうだったのかね、調査の結果は?」
シガー.ケースから葉巻を取り出しながら、万俵が聞くと、渋野は、
「貸付担当の万俵課長と調査部員二名が太平スーパーの本店へ出向き、徹底的に帳簿を洗いましたところ、昨年五月から本年の一月までに、不良在庫を含めると、五億円の赤字を出しながら、粉飾決算で従来通りの利益を計上し、当行はじめ、サブの神戸相互から、融資を引き出していることが判明致しました」
「去年の五月から、そんな粉飾を続けられて、どうして今まで見抜けなかったのだね、担当者は、一体、何をしていたのだ」
万俵は、直接の貸付担当者が自分の息子の銀平であるだけに、よけい苛《いら》だたしい不機嫌な声で云った。
「ご叱責《しつせき》はごもっともですが、太平スーパーはもともと、社長がああした叩き上げの人物だけに、経理については極度の秘密主義で、順調な時でさえ、なかなか実情を話さないほどですから、不振に陥ってから、よけいに実情を洩《も》らさぬよう、あの術《て》この術で胡麻化《ごまか》しにかかったのです、もし万俵課長が、高步《たかぶ》業者からの金融手形を見破らなければ、もっと深みに落ちこむまで、はっきりとした実態が掴《つか》めなかったのではないかと思い、むしろ私としては、万俵課長の緻密《ちみつ》さに驚いているくらいです」
万俵銀平の手落ちどころか、功績であることを強調したが、万俵はにこりともせず、黙って葉巻をくわえた。渋野はさらに言葉を続けた。
「それで五億の赤字の内訳ですが、おおよその推定では経常損失が約三億円、換金不能の不良在庫が二億円程度と思われます、太平はこの五億円の穴を、比較的最近、当行およびサブの神戸相互から借り入れた二億円と、高步業者から借りた七千万円、そしてこの二月二十日の支払手形を落すためと云って、依頼して来た二億円で、何とかカムフラージュしようとしていた様子です」
そこまで云った時、突然、廊下から昂《たかぶ》った濁声《だみごえ》が聞えて来た。
「――頭取がいはるのやったら、五分や十分、会わしてくれてもええやないか、あかん! 頭取やないと話にならん!」
太平スーパーの社長の声で、速水がおし宥《なだ》めている気配がした。咳《しわぶき》一つ憚《はばか》られるように静まり返った頭取室に続く廊下には、不似合いで下卑《げび》た声であったが、二億円の手形決済を間近に迫られているだけに、緊迫した響きがあった。万俵の顔に、嫌悪《けんお》の色が奔《はし》った。
「ちょっと、私が出て参りましょう」
渋野がたちかけると、
「いや、速水が適当にあしらうだろう」
平然と云い、話を続けた。
「それで君としては、太平スーパーの始末をどうつけるつもりでいるのかね、あそこには、今までに十億円程の貸出しがあるだろう」
渋野は、やっと静まった廊下の方へちらっと視線を向け、
「如何《いか》に早期発見とはいえ、かなり重症のところまで進んでおりますので、さし当って二月二十日の面倒をみてやったとしても、一時しのぎにしかなりませんから、これを機会に根本的な対策を考えねばならぬと思っております、まず第一案は二月二十日の二億円の手形決済資金は、他行から工面させることにして、もしそれが駄目なら不渡りを出させる強硬手段です、当行としては非常に大きな犠牲になりますが、担保は一応、充分ですから最終的には貸出しの取立ては可能です、第二案は、如何《いか》に経営不振に陥ったとはいえ、太平スーパーのブランドは地元で通っており、九カ店のうち半数以上の店舗の立地条件がかなりいい点など、まだ見るべきところも多分に残っていますので、この際、資金を注ぎ込んで再建を図ること、第三案は――」
渋野は、俄《にわ》かに声を落した。
「第三案は、この際、思い切って東京の百貨店系の富士ストアに、太平スーパーをひっつけてしまうことです、富士ストアとしても、西宮店の成功に勢いを得て、関西進出を大々的におし進めてくるであろうというのが、業界の専《もつぱ》らの噂《うわさ》ですから、太平スーパーなら、咽喉《のど》から手が出るほど欲しいところだと思うのです、この場合、当行としては、太平スーパーは失うものの、十億円の貸金は富士ストアに肩替りさせて、債権保全が完全に出来ますし、さらにもう一つ、これを機に東京系の富士ストアとの取引が開始出来、私としてはこの案が最善の策と考えます」
債権の保全に関して、渋野は融資担当役員らしい業《わざ》を策した。
「太平スーパーの再建は、見込みないのだね?」
万俵は、念を押すように聞いた。
「経営の三要素は、人、物、金で、中でも経営者の能力が最も大きな要素ですが、太平スーパーの場合、その点が致命的だと云えます、大阪丼池《どぶいけ》の丁稚《でつち》奉公から一代で叩き上げた人物だけに、商才はかなり認められますが、所詮《しよせん》は古いタイプの商人で、今日のスーパーのように、画期的な仕入技術や斬新《ざんしん》な商品センスを必要とする量販システムにはかなりのズレ[#「ズレ」に傍点]があるように思います、なにしろ、最近の大手スーパーは、日本の家電メーカーと対抗して、香港《ホンコン》製の扇風機を国内コストを下廻る値段で仕入れて、廉価《れんか》販売したり、また生鮮食品にしても、自社で牧場経営からはじめるというようなアイデアが実際に行われる時代なんですから」
「なるほど、そこまで急テンポで進んでいる今日のスーパー業界では、あの社長による再建策はもはや無意味だね」
ぷかりと葉巻をくゆらせて云い、
「それなら君の云うようにこの際、太平スーパーを思いきって切り捨て、巧く富士ストアにくっつける策が、当行にとっても望ましいだろうが、手形決済はこの二十日だから、それまでに、今の案を最上の策とは決めつけてしまわず、さらに検討して貰《もら》いたい」
万俵が、何かもっと巧妙な方策を求めているらしい様子を感じ取ると、渋野はかしこまりましたと応えた。
「さてと、時間が少しあるな、オリエンタル.ホテルの地下で、整髪して来よう」
万俵は、くわえている葉巻を消し、回転椅子《いす》からたち上ると、渋野は自分の来客を待たせている斜め向いの部屋へ慌しく入って行った。
万俵は車の用意を云いつけ、廊下の真ん中を、上半身をまっすぐに伸ばして、ゆったりとした足取りで步いた。それは人目のあるなしにかかわらず、自然に身についた美しい洗練されたポーズだった。しかし役員応接室の角を曲った途端、万俵は、足を止めた。廊下の向うから太平スーパーの社長が、せかせかとした足取りで、やって来る。
「あっ、頭取、やっぱり、頭取――」
太平社長は廊下中に聞えるような大きな声で云い、背の低い肥《ふと》った体で、万俵に走り寄り、
「ああ、よろしおました、なんとしても頭取にお目にかかりとうて、昨日《きのう》、一昨日《おととい》と二度伺い、今日また、さっき伺うたんだすけど、お客さんやったそうで、実は――」
廊下の真ん中であることもかまわず、憔悴《しようすい》の滲《にじ》み出たどす黯《ぐろ》い顔に、成金趣味の金縁眼鏡だけが異様に光り、思い詰めた表情で切り出しかけた。
「いや、伺ってます、二月二十日の手形の件ですね、しかし、私は今から重要な会があって、下で車を待たせていますからお話は後日、伺いましょう」
「ちょ、ちょっと待って下さい、うちが粉飾して、おたくさんを胡麻化してたのは、たしかに悪うおます、けど、これにはわけがおまして、何とか二十日の融資はお願いします――」
取り縋《すが》るように云った。万俵はそれには応えず、
「粉飾の件は、大へん遺憾《いかん》に思っています、しかしおたくの今後については、できるだけおたくの立場を考慮するという方針で、善処方を検討しておりますから、何かそちらにご要望の旨《むね》があれば、担当者にお申しつけ戴《いただ》くことです」
万俵は、体《てい》よく太平社長を振りきり、エレベーターへ向った。
調髪をすませてきた万俵は、一際《ひときわ》、端正な顔だちでブラック.コーヒーのカップを右手に持ち、窓際にたっていた。そこからは神戸港の中突堤にある赤いポート.タワーが望まれた。今は向い側の建物に遮《さえぎ》られてポート.タワーしか見えないが、初代頭取である父が健在であった時は、この同じ窓から、遠くの沖に碇泊《ていはく》している外国船が眺められた。
万俵はゆっくりと視線を窓と反対の壁面に移した。そこには初代頭取である亡父の肖像写真が掲げられている。十三代続いた播州《ばんしゆう》の地主の出らしい大振《おおぶ》りな目鼻だちと精悍《せいかん》な眼光で、室内を睥睨《へいげい》するような表情であった。
机の上の直通電話のベルが鳴った。受話器を取ると、相子のよく通る声が聞えて来た。
「お帰り遊ばせ、お疲れでございましたでしょう、お仕事中、申しわけないのですけれど、大阪重工の安田さまのことで、取り急いだ用がございましたので――」
銀行にいる万俵にはなるべくよけいな電話をしないことにしていたから、相子は気を遣うように云った。
「今ならいい、どういうことなんだい?」
「実は、今、お仲人《なこうど》さまの方からご連絡がございまして、お見合いの日取りは来週の土曜日ぐらいで如何《いかが》でしょうか、お場所はご希望があれば、ということですの――」
万俵は、すぐ予定表を見た。
「銀平の都合がよければ、私は来週の土曜日で結構だ、場所は女性の方はいろいろと身支度の時間がかかるだろうから、安田さんの都合のいい方でいいよ」
「じゃあ、このあとすぐ銀平さんに連絡をとって、あちらさまにお返事致しておきます」
相子は、てきぱきとした口調で用件を話し終えると、急に声を柔らげ、
「お帰りは、いつものお時間でおよろしゅうございますのね?」
「うむ」
「お料理は、何かお好みのものがございましたら――」
「任せるよ、相子に――」
と応えながら、万俵の声も柔らいだ。電話を通して、留守中も銀平の縁談を進行させ、家内《いえうち》をきり廻している相子の生き生きとした動きと豊満な肢体が感じ取られたからであった。
電話をきり、コーヒーを飲み終えると、
「お父さん、お邪魔します」
阪神特殊鋼の専務をしている長男の鉄平が、頭取室へ入って来た。
「ああ、鉄平か、このところ顔を合わせていないが、相変らず忙しそうだね」
万俵は自分の前のソファを眼で指した。鉄平は、浅黒い精悍な顔に白い歯を見せながら、
「忙しいのは、お父さんも同じでしょう、少しお時間を戴きたいのですが――」
「いいよ、少し早いが、軽く食事に出てもいいよ」
「ところが、六時から宴会があるものですから――、今日は、融資の件でお願いに上ったんですよ」
改まった口調で云った。
「例の今年の設備拡張の件かね?」
鉄平の向いのソファに腰を下ろすと、万俵は、父の顔から頭取の顔に戻った。
「ええ、いろいろ検討したのですが、二年前に一度、ご相談したことのある高炉建設を、今年、思い切ってやりたいと思うのです」
「なに、高炉建設――、あれは断念したのではなかったのかね、第一、二年前とちがって、今から建てるとなると、建設資金は二百億を超えるだろう?」
あまりに突然で、直截《ちよくせつ》な申し出に、万俵は愕《おどろ》きと不快の入り混じった気持で応じた。
「そうですね、付帯設備を含め、二百五十億ほどかかる見込みで、そのうち半分ほどを、阪神銀行で面倒みて戴きたいと思っています、もちろん半分と云っても、三年間の延べ払いです、事業計画書は、今、階下《した》で営業部長のところへ提出して来ましたから、あとでゆっくりお目通し戴き、ご諒承《りようしよう》を得たいのです」
鉄平は分厚な肩を前に乗り出し、一途《いちず》な熱っぽい表情で頼んだ。
「しかし、高炉建設などという社運を左右するような計画をそんな性急に定《き》めるなど、無謀じゃないかね、社内の意見はどうなんだ?」
「経理と営業は消極的です、しかし、自動車、航空機、機械産業の成長とともに、これからますます特殊鋼の需要は伸びるし、量産のためには、高炉建設よりほかに抜本的な解決策はないのです」
鉄平はさらに高炉建設の必要を説くうち、ソファからたち上り、室内をぐるぐると步き出した。気持が昂ったり、焦《あせ》ったりする時の癖で、大介がどんな時にも感情を露《あら》わにしないタイプであるのに対して、猪突《ちよとつ》猛進型の鉄平は、すぐ体の動きで感情を表に出してしまう。鉄平は部屋の正面の頭取机のところまで来ると、皮張りの大きな回転椅子にかけ、机の上のメモ用紙をビリッと破り、高炉と付帯設備、それによる生産量を手早くボールペンで書き出した。
「僕の計画では、大体、この程度の規模でやろうと思っているのですよ」
大介はそのメモを受け取ろうとして、思わずはっと息を呑《の》んだ。頭取机の回転椅子に坐っている鉄平の顔と、その上に掲っている亡父敬介の顔が重なり合うように眼に映った。太い眉《まゆ》、精悍な眼、浅黒い肌、分厚な肩の感じが亡父に酷似している。鉄平は回転椅子の両腕に肘《ひじ》をかけて、設備の規模の説明をしながら、椅子を回転させた。そうすると、まるで亡父の敬介がそこに坐り、仕事をしているような生々《なまなま》しささえ迫って来る。
大介の胸に、健在な頃の父の姿が思い出された。毎朝起きると、真っ先に庭下駄を履いて、池の前にたち、ぽんぽんと手を叩《たた》いて鯉《こい》を呼ぶ。その音で三十数尾の鯉が群れるように集まり、敬介の投げ与える餌《えさ》を争うように食べたが、敬介が“将軍”と呼んでいる吉野川産の五十年を経た体長八十センチの錦鯉《にしきごい》だけは、池の鯉が群れ集まったあとから悠々と姿を現わし、敬介の手から直接、餌を受け入れる。そして敬介が池の中へ手を入れて、その背中をさするのを待って再び池の底へ沈み、あとは誰が手を叩いても決して姿を見せなかった。その錦鯉は、不思議なことに鉄平が手を叩くと、姿を現わすのだった。顔だち、気性ばかりでなく、手を叩く音まで、祖父似なのだろうか。もしや、鉄平は――? 大介はこれまでにも、時々、自分の心の中で頭を擡《もた》げ、自分を苦しめてきた鉄平の出生に関する疑念が心を掠《かす》めた。
「お父さん、僕の説明を聞いていて下さるのですか」
鉄平の大きな声がしたが、大介は殆《ほとん》ど耳に入っておらず、黙って頷《うなず》いていた。
「じゃあ、お父さん、よろしくお願いします」
鉄平は時間を気にするように、大股《おおまた》な足どりで部屋を出て行った。大介は、そのうしろ姿を凝然と見詰めた。
万俵家のダイニング.ルームでは、東京出張から帰って来た万俵大介を囲んで、久しぶりに揃《そろ》って晚餐《ばんさん》がとられていた。
二十畳ほどの部屋の中央にがっしりとした樫《かし》の大テーブルが置かれ、天井にシャンデリアが点《つ》いていた。テーブルの正面には、大介が坐り、その左側の席に、今夜は妻の寧子が坐り、右側に相子、そして寧子の隣の銀平の席は空《あ》いたままで、二子と三子が向い合って坐っている。二人の女中の給仕で料理が運ばれて来た。
「まあ、嬉《うれ》しい、今夜は久しぶりでスペイン料理なのね」
三子が、はしゃぐように云うと、相子は、
「そう、まず、オードブルは、しらすうなぎのアングーラス.ア.ラ.カスエラなのよ」
宴会続きの東京で、きまりきった日本料理ばかりに辟易《へきえき》している大介の味覚を配慮して、相子が女中たちに指図して作らせたメニューであった。アングーラス.ア.ラ.カスエラは、しらすのように小さく透き通った生きたうなぎの稚魚をさっと湯通しし、オリーブ油で軽くいため、にんにくと唐がらしを加えた料理で、世界の三大珍味の一つともいわれる。
スペイン風の鮮やかな青磁の皿の上に、しらすうなぎがよそい分けられると、一同はきちんと背筋をのばした姿勢でフォークの音もたてずに食べ終えた。三子はナプキンで口もとを軽くおさえながら、父の方を見、
「東京のお姉さまに、銀平兄さまのこと、お話しになりましたのん?」
「うむ、大阪重工の安田さんのお嬢さんの方にきめたことを云うと、お前たちと同窓だし、気心が知れて、いろんな意味で好都合ですねと云っていたよ」
「そうなの、安田万樹子《まきこ》さんは、私と同じ英文科だったから、よく存じ上げているわ、大へんなスキーヤーで、学生時代から冬休みには、フランスのモンブランへ滑りに出かけたりする方やから、よく目だったわ」
二子が云うと、三子も、
「そうね、美人やけど、少しばかりお派手なようやわね」
相槌《あいづち》を打ちかけると、相子があとの言葉を遮った。
「でも、見目《みめ》ほどではございませんのよ、お仲人の芦屋の伊東さまのお話でも、万樹子さまは一見、お派手に見えるけれど、何といっても、母方のお実家《さと》が大阪の旧家のご一族だけに、あれでなかなか昔風の地道なお考えも持っていらっしゃると云っておられましたわ、それに上流階級の婚姻に必要な五つの条件のどれ一つとして欠けていらっしゃいませんわ」
「まあ、五つの条件ってなあに?」
三子は、好奇心に溢《あふ》れた声で聞いた。
「そう、この際、三子さんたちにも覚えておいて戴かなくては――、それは、家柄、係累《けいるい》、資産、父親の履歴と社会的地位、本人の履歴の五つです、安田さまの場合は、三代に遡《さかのぼ》ってごりっぱなご係累ばかりで、大阪重工の規模と業容については、誰よりも阪神銀行の頭取でいらっしゃるお父さまがご存知ですから、問題ないわけ――」
縁談のことを話す時の相子は、大きな眼が輝き、豊かな胸もとまで生き生きと息づくようだった。そして、事実、相子が云うように大阪重工は、明治二十八年創業の造船と機械部門を主体とする重工業会社であり、資本金九十億、年商二千億、一割の配当を出す一流企業であった。