「ほんのちらりとしか見なかったけど、どこかしらうす気味の悪い人だった」
天吾は名刺を財布に入れた。「時間をかけて見ても、その印象はたぶん変わらないと思うな」
「私は常々、見かけだけで人を判断したくないと思ってるの。それで失敗して後悔したことが前にあるから。でもあの人は一目見て、こいつは信用できないって気がした。そして今でもそう思っている」
「そう思うのは君一人じゃない」と天吾は言った。
「そう思うのは私ひとりじゃない」、彼女はその構文の精度を確認するみたいに反復した。
「そのジャケットは素敵だ」と天吾は言った。相手の機嫌をとるための褒め言葉ではなく、あくまで素直な感想だった。牛河のしわだらけの安物のスーツを目にしたあとでは、その洒落たカットの亜麻のジャケットは、風のない昼下がりに天国から降ってきた美しい織物のように見えた。
「ありがとう」と彼女は言った。
「しかしそこに電話をかけて誰かが出たからといって、『新日本学術芸術振興会』が実在するとは限らない」と天吾は言った。
「それはそうね。もちろん手の込んだインチキかもしれない。電話を一本引いて、電話番を雇っておけばいいだけだから。映画の『スティング』みたいに。でもどうしてそこまでやるわけ。天吾くんは、こう言ってはなんだけど、搾り取れるほどのお金を持ちあわせているとは見えない」
「何も持ち合わせてないよ」と天吾は言った。「魂のほかには」
「なんだかメフィストの出てくる話みたい」と彼女は言った。
「この住所に足を運んで、そのオフィスが実際にあるかどうかを確かめた方がいいかもしれない」
「結果がわかったら教えてね」、彼女は目を細めて爪のマニキュアを点検しながらそう言った。
「新日本学術芸術振興会」は実際に存在した。講義が終わったあと電車で四ツ谷まで行き、そこから麹町まで歩いた。名刺の住所を訪ねてみると、四階建てビルの入り口に「新日本学術芸術振興会」という金属のプレートが出ていた。オフィスは三階にある。そのフロアにはほかに「御木本音楽出版」と「幸田会計事務所」が入っていた。ビルの規模からいって、それほど広いオフィスではないはずだ。見かけからすると、どれもさして繁盛しているようにも見えなかった。しかしもちろん外から見ただけでは内実はわからない。天吾はエレベーターに乗って三階に上がってみることも考えた。どんなオフィスなのか、ドアだけでも見てみたかった。しかし廊下で牛河と顔を合わせたりするといささか面倒なことになる。
天吾は電車を乗り換えて家に帰り、小松の会社に電話をかけた。珍しく小松は会社にいて、すぐに電話に出た。
「今はちとまずい」と小松は言った。いつもより早口で、いくらか声のトーンが高くなっていた。
「悪いけど、今ここでは何も話せそうにない」
「とても大事なことなんです、小松さん」と天吾は言った。「今日、予備校に奇妙な人物がやってきました。その男は僕と『空気さなぎ』の関係について何か知っているようでした」
小松は電話口で数秒黙り込んだ。「二十分後にこちらから電話できると思う。今はうちにいるのか?」
そうだ、と天吾は言った。小松は電話を切った。天吾は電話を待つあいだに砥石を使って二本の庖丁を研ぎ、湯をわかして紅茶をいれた。ぴったり二十分後に電話のベルが鳴った。小松にしては珍しいことだ。
電話口の小松は、さっきよりずっと落ち着いた口調になっていた。どこか静かなところに移って、そこから電話をかけているらしい。天吾は牛河が応接室で語ったことを、短く縮めて小松に話した。
「新日本学術芸術振興会? 聞いたことないな。三百万円の助成金を天吾くんにくれるってのも、わけのわからん話だ。もちろん天吾くんに作家としての将来性があることは俺だって認めるさ。しかしまだひとつの作品も活字になってないんだぜ。あり得ない話だ。こいつは何か裏があるな」
「それがまさに僕の考えたことです」
「少し時間をくれ。その『新日本学術芸術振興会』なるものを俺の方でちょっと調べてみる。何かわかったらこちらから連絡する。しかしその牛河という男はとにかく、天吾くんがふかえりと繋がりのあることを知っているんだな」
「そのようです」
「そいつはいささか面倒だな」
「何かが動き出しています」と天吾は言った。「挺子を使って岩を持ち上げたのはいいけれど、とんでもないものがそこから這い出してきたような雰囲気があります」
小松は電話口でため息をついた。「こっちもかなり追いまくられている。週刊誌が騒いでいる。テレビ局もやってくる。今日は朝から警察が社に来て、事情を聴取された。彼らはふかえりと『さきがけ』との関わりもつかんでいる。もちろん行方のわからない両親のことも。メディアもその周辺のことを書き立てるだろう」
「戎野先生はどうしています?」
「先生とは少し前から連絡がとれなくなっている。電話が繋がらないし、連絡も来ない。あちらも大変なことになっているのかもな。それともまた何かをこっそり企んでいるのか」
「ところで小松さん、話はちょっと違うんですが、僕が今長編小説を書いていることを誰かに言いました?」
「いや、そんなことは誰にも言ってない」と小松はすぐに言った。「いったい誰にそんなことを言う必要があるんだ?」
「じゃあいいんです。ただ訊いただけです」
小松は少し黙り込んだ。「天吾くん、今さら俺がこんなことを言い出すのはなんだけど、ひょっとして俺たちはどこかまずいところに足を踏み入れてしまったのかもな」
「どこに足を踏み入れたにせよ、今さら後戻りができないということだけは確かなようですね」
「後戻りができなければ、何はともあれ先に進むしかなさそうだ。たとえ君の言う<傍点>とんでもないもの</傍点>が出てきたとしてもな」
「シートベルトを締めた方がいい」と天吾は言った。
「そういうことだ」と小松は言って電話を切った。
長い一日だった。天吾はテーブルに座り、冷めた紅茶を飲みながらふかえりのことを考えた。彼女はその隠れ場所に一人で閉じこもって、一日何をしているのだろう? しかしもちろん、ふかえりが何をするかなんて誰にもわかりっこない。
リトル?ピープルの知恵や力は先生やあなたに害を及ぼすかもしれない、ふかえりはテープの中でそう語っていた。<b>もりのなかではきをつけるように。</b>天吾は思わずあたりを見回した。そう、森の奥は<傍点>彼らの世界</傍点>なのだ。