手渡されたパッケージ
「こちらにきてわたしをだいて」とふかえりは言った。「ふたりでいっしょにもういちどネコのまちにいかなくてはならない」
「君を抱く?」と天吾は言った。
「わたしをだきたくない」とふかえりは疑問符抜きで尋ねた。
「いや、そういうわけじゃなくて、ただ——それがどういうことなのか、意味がよくわからなかったから」
「オハライをする」、彼女は抑揚を欠いた声でそう告げた。「こちらにきてわたしをだいて。あなたもパジャマにきがえてあかりをけして」
天吾は言われたように寝室の天井の明かりを消した。服を脱ぎ、自分のパジャマを出して、それに着替えた。いちばん最近このパジャマを洗濯したのはいつだっけ、と天吾は着替えながら考えた。思い出せないところをみると、かなり前のことなのだろう。でもありがたいことに汗の匂いはしなかった。天吾はもともとあまり汗をかかない。体臭も強い方ではない。とはいえパジャマはもっと頻繁に洗っておくべきだと、天吾は反省した。この不確かな人生においては、いつ何が起こるかわかったものではない。パジャマをこまめに洗濯しておくのも、それに対する方策のひとつだ。
彼はベッドの中に入り、ふかえりの身体におそるおそる腕をまわした。ふかえりは頭を天吾の右腕に載せた。そしてそのまま、まるで冬眠をしかけている生き物のようにじっと静かにしていた。彼女の身体は温かく、無防備なまでに柔らかかった。でも汗はかいていない。
雷鳴は更に激しさを増していた。今では雨も降り始めていた。雨は怒りに狂ったみたいに横殴りに窓ガラスを叩き続けている。空気はべっとりとして、世界が暗い終末に向けてひたひたと近づいているような気配が感じられた。ノアの洪水が起こったときも、あるいはこういう感じだったのかもしれない。もしそうだとしたら、こんな激しい雷雨の中で、サイのつがいやら、ライオンのつがいやら、ニシキヘビのつがいやらと狭い方舟に乗り合わせているのは、かなり気の滅入ることであったに違いない。それぞれに生活習慣がずいぶん違うし、意思伝達の手段も限られているし、体臭だって相当なものであったはずだ。
<傍点>つがい</傍点>という言葉は天吾に、ソニーとシェールを思い出させた。しかしノアの方舟にヒトの<傍点>つがい</傍点>の代表としてソニーとシェールを乗せるのは、妥当な選択とは言えないかもしれない。不適切とは言わないまでも、サンプルとしてより適切なカップルがほかにいるはずだ。
天吾のパジャマを着ているふかえりを、天吾がこうしてベッドの中で抱いているのは、なにかしら妙な心持ちのするものだった。まるで自分の一部を抱いているような気さえする。血肉を分け、体臭を共有し、意識を繋げたものを抱いているみたいだ。
ソニーとシェールの代わりに、自分たちが<傍点>つがい</傍点>として選ばれ、ノアの方舟に乗せられているところを天吾は想像した。でもそれだって、人類の適切なサンプルであるとはとても言えそうにない。だいたい我々がベッドの中でこうして抱き合っていること自体、どう考えても適切とは言えない。それを思うと、天吾は落ち着いた気持ちになれなかった。彼は頭を切り換えて、ソニーとシェールが方舟の中で、ニシキヘビのつがいと仲良くなるところを想像した。まったく意味のない想像だったが、そうすることで身体の緊張をわずかながら解くことができた。
ふかえりは天吾に抱かれたまま何も言わなかった。身動きもせず、口も開かなかった。天吾も何も言わなかった。ベッドの中でふかえりを抱いていても、天吾は性欲というものをほとんど感じなかった。天吾にとって性欲とは、基本的にはコミュニケーションの方法の延長線上にあるものだ。だからコミュニケーションの可能性のないところに性欲を求めるのは、彼にとって適切とは言いがたい行為だった。そしてふかえりが求めているのが彼の性欲ではないことも、おおむね理解していた。天吾には<傍点>何かべつのもの</傍点>が求められているのだ——それが何であるのかはよくわからないけれど。
でも目的が何であれ、十七歳の美しい少女の身体を腕に抱いていること自体は、とくに悪い気持ちのするものではなかった。ときどき彼女の耳が彼の頬に触れた。彼女の吐く温かい息が彼の首筋にかかった。彼女の乳房は、そのほっそりとした身体に比べるとどきつとするくらい大きく、しっかりしていた。胃のちょうど上のあたりに、その緊密さを感じることができた。そして彼女の肌からは素敵な匂いがした。形成の途上にある肉体にしか発することのできない、とくべつな生命の匂いだ。朝露のかかった夏の盛りの花のような匂いだ。小学生のころ、朝早くラジオ体操に行く道すがら、そんな匂いをよく嗅いだ。
勃起しなければいいのだが、と天吾は思った。もし勃起したら、位置的な関係から言って彼女にはすぐにそれがわかるはずだ。そんなことになったら、いささか居心地の悪い状況がもたらされることになる。たとえ直接的な性欲に駆られていなくても、時として勃起は起こるのだという事実を、十七歳の少女に向かってどのような言葉と文脈で説明すればいいのだろう。しかしありがたいことに今のところまだ勃起はしていない。その徴候もない。匂いについて考えるのはよそう。セックスとはなるべく関係のない事象に頭を巡らせなくては、と天吾は思った。
ソニーとシェールとニシキヘビのつがいとの交流について、更にひとしきり考えた。彼らは共通する話題を持っているだろうか。もしあるとしたら、それはどんなものだろう? そこで歌は歌われるのだろうか? やがて嵐の中での方舟に関する想像力が尽きてしまうと、頭の中で三桁と三桁のかけ算をした。彼は年上のガールフレンドとセックスするとき、よくそれをやった。そうすることによって射精の瞬間を遅らせることはできた(彼女は射精の瞬間についてはきわめて厳格だった)。それが勃起を収めることにも効果を発揮するかどうかまでは、天吾にはわからない。しかし何もしないよりはましだ。何かをしなくてはならない。
「かたくなってもかまわない」とふかえりは彼の心を見透かしたように言った。
「かまわない?」
「それはわるいことじゃない」
「悪いことじゃない」と天吾は彼女の言葉を繰り返した。まるで性教育を受けている小学生みたいだな、と天吾は思った。勃起するのは決して恥ずかしいことではありませんし、悪いことでもありません。しかしもちろん時と場合を選ばなくてはなりません。
「それで、つまり、オハライはもう始まっているのかな?」と天吾は話題を変えるために質問した。
ふかえりはそれには答えなかった。彼女の小さな美しい耳は相変わらず、雷鳴のとどろきの中に何かを聞き取ろうとしているようだった。天吾にはそれがわかった。だから彼はそれ以上何も言わないことにした。天吾は三桁と三桁のかけ算を続けることをやめた。硬くなってもふかえりがかまわないのなら、硬くなったっていいじゃないか、と天吾は思った。しかしいずれにせよ、彼のペニスは勃起する徴候を見せなかった。それは今のところ安寧の泥の中に静かに身を横たえていた。
「あなたのおちんちんが好きよ」と年上のガールフレンドが言った。「かたちも色も大きさも」
「僕はそんなに好きでもないけど」と天吾は言った。
「どうして?」、彼女は天吾の勃起していないペニスを、眠り込んだペットを扱うみたいに手のひらに載せて、その重さを量りながら尋ねた。
「わからないな」と天吾は言った。「たぶん自分で選んだものじゃないからだろう」
「変な人」と彼女は言った。「変な考え方」
大昔の話だ。ノアの大洪水が起こる以前の出来事だ。たぶん。
ふかえりは静かな温かい息を、一定のリズムをたもちながら、天吾の首筋に吹きかけていた。天吾は電気時計の微かな緑色の光で、あるいはようやく光り始めた時折の雷光を受けて、彼女の耳を目にすることができた。その耳は柔らかな秘密の洞窟のように見えた。もしこの少女が自分の恋人であったとしたら、飽きることなく何度もそこに口づけをすることだろうと、天吾は思った。セックスをし、彼女の中に入りながら、その耳に唇をつけ、軽く噛み、舌で舐め、息を吐きかけ、匂いを嗅ぐことだろう。今<傍点>そうしたい</傍点>というわけではない。それはあくまで、<傍点>もし彼女が自分の恋人であったらきっとそうするだろう</傍点>という、純粋な仮定に基づいた、状況的な想像だった。倫理的に恥じるべきところはない——おそらく。
しかし倫理的に問題があるにせよないにせよ、彼はそんなことを考えるべきではなかったのだ。天吾のペニスは背中を指でとんとんとつつかれ、泥の中での穏やかな眠りから目覚めたようだった。それはひとつあくびをし、そろそろと頭をもたげ、徐々に硬度を増していった。そしてやがて、まるでヨットが北西の方向から吹いてくる確かな順風を受けてキャンバスの帆を張るように、留保のない完全な勃起に至った。その結果、天吾の硬くなったペニスは否応なく、ふかえりの腰のあたりに押しつけられることになった。天吾は心の中で深くため息をついた。年上のガールフレンドが消えてしまってから、彼はもう一ヶ月以上セックスをしていない。たぶんそのせいだ。ずっと三桁のかけ算を続けているべきだったのだ。
「きにしなくていい」とふかえりは言った。「かたくなるのはシゼンなことだから」
「ありがとう」と天吾は言った。「でもリトル?ピープルがどこかから見ているかもしれない」
「みているだけでなにもできない」
「それはよかった」と天吾は落ち着かない声で言った。「でも見られていると思うと、なんとなく気になるな」
再び雷が古いカーテンでも裂くみたいに空を二つに分断し、雷鳴が窓ガラスを激しく震わせた。彼らは本気でガラスを打ち破ろうとしているみたいだった。あるいはそのうちにガラスは実際に割れてしまうかもしれない。アルミサッシのかなり丈夫な窓だったが、そのような猛々しい揺さぶりが続けば、長くはもたないかもしれない。大きな硬い雨粒が鹿を撃つ散弾のように、窓ガラスをばらばらと叩き続けていた。
「雷はさっきからほとんど移動してないみたいだ」と天吾は言った。「普通こんなに長く雷が続くことはないんだけど」
ふかえりは天井を見上げた。「しばらくどこにもいかない」
「しばらくってどれくらい?」
ふかえりはそれには返事をしなかった。天吾は答えの与えられない質問と、行くあてのない勃起を抱えたまま、ふかえりの身体を恐る恐る抱き続けていた。
「もういちどネコのまちにいく」とふかえりは言った。「だからねむらなくてはならない」
「でも、うまく眠れるかな。こんなに雷も鳴っているし、まだ九時過ぎだし」と天吾は心許なげに言った。
彼は頭の中に数式を並べてみた。長い複雑な数式に関する設問だったが、その解答は既にわかっていた。どれだけ早く、どれだけ短いルートでその解答にたどり着けるものか、それが与えられた課題だった。彼は頭を素早く回転させた。それは純粋な頭脳の酷使だった。しかしそれでも、彼の勃起は収まらなかった。かえってますます硬度を増したような気さえする。
「ねむることができる」とふかえりが言った。
彼女の言うとおりだった。激しく降り続く豪雨と、建物を揺さぶるような雷鳴に包囲され、落ち着かぬ心と強固な勃起を抱え込んだまま、それでも天吾は知らないうちに眠りに落ちてしまった。そんなことが可能だとはとても思えなかったのだが……。
すべてが混沌としている、と眠りにつく前に彼は思った。解答への最短距離をなんとか見つけなくてはならない。時間は制約されている。そして与えられた答案用紙のスペースはあまりに狭い。こちこちこちこち、と時計が律儀に時を刻んでいる。
気がついたとき、彼は裸になっていた。そしてふかえりもやはり裸になっていた。まるっきりの裸だった。なにひとつ身にまとってはいない。彼女の乳房はみごとに完全な半球を描いていた。けちのつけようもない半球だ。乳首はそれほど大きくない。それはまだ柔らかく、来るべき完成形をそこで静かに模索している。乳房だけが大きく、すでに成熟を遂げている。そしてなぜか重力の影響をほとんど受けていないように見える。ふたつの乳首はきれいに上を向いている。陽光を求める蔓{つる}性植物の新しい芽のように。次に天吾が気がついたのは、彼女に陰毛がないことだった。本来陰毛があるべき場所には、つるりとしたむき出しの白い肌があるだけだった。肌の白さがその無防備を余計に強調していた。彼女は脚を開いていたので、その奥に性器を目にすることができた。耳と同じく、それはついさっき作られたばかりのもののように見えた。<傍点>実際に</傍点>それはついさっき作られたばかりなのかもしれない。できたばかりの耳と、できたばかりの女性性器はとてもよく似ている、と天吾は思った。それらは宙に向けて、注意深く何かを聞き取ろうとしているみたいに見えた。たとえば遠くで鳴っているかすかなベルの音のようなものを。
彼はベッドの上に仰向けになり、天井に顔を向けていた。ふかえりはその上にまたがるように乗っていた。天吾の勃起はまだ持続していた。雷もまだ続いていた。いったいいつまで雷が鳴り続けるんだろう? こんなに雷が続いていて、空は今ごろずたずたに寸断されてしまっているのではあるまいか。それを修復することはもう誰にもできないのではないだろうか。
おれは眠っていたんだ、と天吾は思い出した。勃起したまま眠りについた。そして今でもまだしっかり勃起している。眠っているあいだも勃起はずっと持続していたのだろうか? それともこれは、一度おさまったあとで、新たに立ち上げられた勃起なのだろうか?「第二次なんとか内閣」みたいに。だいたいどれくらい長く眠っていたのだろう。いや、そんなことはどうでもいい、と天吾は思った。とにかく(中断があったにせよなかったにせよ)今もこうして勃起が続いているし、それが収まりそうな徴候はどこにも見えない。ソニーとシェールも、三桁のかけ算も、複雑な数式もそれを収める役には立たない。
「かまわない」とふかえりは言った。彼女は脚を開いて、そのできたての性器を彼の腹部に押し当てていた。それを恥ずかしがっている様子は見受けられなかった。「かたくなるのはわるいことじゃない」と彼女は言った。
「身体がうまく動かせない」と天吾は言った。それは本当だった。起き上がろうと努力しているのだが、指一本持ち上げることはできない。身体の感覚はある。ふかえりの身体の重みを感じることができた。自分が硬く勃起しているという感覚もあった。しかし彼の身体は何かで固定されてしまったみたいに、重くこわばりついていた。
「うこかすヒツヨウはない」とふかえりは言った。
「動かすヒツヨウはある。これは僕の身体だから」と天吾は言った。
ふかえりはそれに対しては何も言わなかった。
だいたい自分の言っていることがまともな音声として空気を震わせているのかどうか、天吾にはそれすら定かではなかった。口のまわりの筋肉が意図した通りに動き、言葉がそこにかたちつくられているという実感がないのだ。彼の言いたいことは、ふかえりにはいちおう伝わっているようだ。しかし二人のコミュニケーションには、接続の悪い長距離電話で会話をしているようなあやふやさがあった。少なくとも聞く必要のないことを、聞かないですませることがふかえりにはできた。天吾にはそれはできない。
「しんぱいしなくていい」とふかえりは言った。そして身体をゆっくりと下にずらせていった。その動作が意味するところは明白だった。彼女の目にはこれまで見たこともない色あいの光が宿っていた。
そんなできたての小さな性器に、彼の大人のペニスが入るとはとても思えなかった。大きすぎるし、硬すぎる。痛みは大きいはずだ。しかし気がついたとき、彼は既に隅から隅までふかえりの中に入っていた。抵抗らしい抵抗はなかった。ふかえりはそれを挿入するとき、顔色ひとつ変えなかった。呼吸が少し乱れ、上下する乳房のリズムが五秒か六秒のあいだ微妙に変化しただけだった。それを別にすれば、何もかもすべて自然で、当たり前のことであり、日常の一部だった。
ふかえりは天吾を深く受け入れ、天吾はふかえりに深く受け入れられたまま、そこにじっとしていた。天吾は相変わらず身体を動かすことができなかったし、ふかえりは目を閉じ、天吾の上で避雷針みたいに身体を直立させたまま、動きをとめていた。口は軽く半開きになり、唇がさざ波のように微かに動いているのが見える。それは何かの言葉を形作ろうと宙を模索していた。しかしそのほかには動きらしきものはなかった。彼女はその体勢のまま何かが起こるのを待ち受けているようだった。
深い無力感が天吾をとらえた。これから何かが起ころうとしているのに、それが何であるのかわからないし、自分の意思でそれをコントロールすることができない。身体には感覚がない。身動きもできない。しかしペニスには感覚はある。いや、それは感覚というよりも、むしろ観念に近いかもしれない。いずれにせよ<傍点>それ</傍点>は彼がふかえりの中に入っていることを告げている。勃起が完全なものであることを告げている。コンドームをつけなくていいのだろうか、と天吾は不安になった。妊娠したりすると面倒なことになる。年上のガールフレンドは避妊についてもきわめて厳格だった。天吾もその厳格さに慣らされていた。
何かほかのことを考えようと懸命に試みたが、実際には何も考えられなかった。彼は混沌の中にいた。その混沌の中では時間は止まってしまっているようだった。しかし時間が止まるわけはない。そんなことは原理的にあり得ない。おそらくただ不均一になっているだけだ。長い期間をとおしてみれば、時間は定められた速度で前に進んでいる。それは間違いないところだ。しかし特定の部位を取り上げてみれば、それは不均一になる可能性を持っている。そういう時間の局部的な緩みの中にあっては、ものごとの順序や蓋然性などほとんど何の価値も持たなくなってしまう。
「テンゴくん」とふかえりは言った。彼女がそんな呼び方をするのは初めてのことだった。「テンゴくん」と彼女は繰り返した。外国語の単語の発音を練習するみたいに。どうして急におれを名前で呼んだりするのだろうと天吾は不思議に思った。それからふかえりはゆっくり前屈みになり、彼の顔に顔を近づけ、天吾の唇に唇をつけた。半開きだった唇が大きく開き、彼女の柔らかい舌が天吾の口の中に入ってきた。良い香りのする舌だった。言葉にならない言葉を、そこに刻まれた秘密のコードをそれは執拗に探し求めた。天吾の舌も無意識のうちにその動きに応えていた。まるで冬眠から目覚めたばかりの二匹の若い蛇が、互いの匂いを頼りに春の草原で絡み合い、貧り合うみたいに。
それからふかえりは右手を伸ばし、天吾の左手を握った。強くしっかりと、包み込むように彼女は天吾の手を握った。小さな爪が彼の手のひらに食い込んだ。そして激しい口づけを終え、身体を起こした。「めをとじて」
天吾は言われたとおり両目を閉じた。目を閉じると、そこには奥行きのある、薄暗いスペースがあった。とても深い奥行きだ。地球の中心まで延びているみたいに見える。その空間には薄暮を思わせる暗示的な光が差し込んでいた。長い長い一日の末に訪れた、心優しく懐かしい薄暮だ。細かい切片のようなものが数多く、その光の中に浮かんでいるのが見えた。ほこりかもしれない。花粉かもしれない。あるいはほかの何かかもしれない。それからやがて、その奥行きが徐々に縮んでいった。光が明るくなり、まわりにあるものがだんだん見えるようになってきた。
気がつくと彼は十歳で、小学校の教室にいた。それは本物の時間で、本物の場所だった。本物の光で、本物の十歳の彼自身だった。彼はそこにある空気を実際に吸い込み、ニスの塗られた木材の匂いや、黒板消しについたチョークの匂いを嗅ぐことができた。教室にいるのは彼とその少女の二人きりだ。ほかの子供たちの姿は見えない。彼女はそんな偶然の機会を素早く大胆にとらえたのだ。あるいは彼女はずっとそんな機会を待ち続けていたのかもしれない。いずれにせよ、少女はそこに立ち、右手を伸ばして天吾の左手を握りしめていた。彼女の瞳は天吾の目をじつとのぞき込んでいた。
口の中はからからになっていた。すべての潤いがそこから消えていた。それはあまりに突然の出来事だったので、何をすればいいのか、何を言えばいいのか、彼には見当もつかなかった。ただそこに立ち、その少女に手を握られていた。やがて腰の奥の方にかすかな、しかし深いうずきがあった。これまで経験したことのない感覚だった。遠くから聞こえてくる海鳴りのようなうずきだ。それと同時に現実の音も耳に届いた。開いた窓から飛び込んでくる子供たちの叫び声。サッカーボールが蹴られる音。野球のバットがソフトボールを打つ音。何かを訴える下級生の女の子の甲高い叫び声。リコーダーがたどたどしく『庭の千草』を合奏練習している。放課後だ。
彼は少女の手を、同じくらいの強さで握り返したいと思った。しかし手に力が入らない。少女の力があまりにも強すぎたということがある。しかしそれと同時に、天吾の身体は思うように動かすことができなくなっていた。どうしてだろう、指一本動かせないのだ。まるで金縛りにあったみたいに。
時間が止まってしまったみたいだ、と天吾は思った。天吾は静かに呼吸をし、自分の呼吸に耳を澄ませた。海鳴りは続いていた。気がつくと、現実のすべての音は消えていた。そして腰の奥のうずきは、より限定されたべつのかたちへと移行していった。そこには独特の痺れが混じっていた。その痺れは細かい粉のようになって赤く熱い血液に混じり、働き者の心臓が提供するふいごの力によって、血管をつたって全身へと誠実に送り届けられた。胸の中に緊密な小さな雲のようなものが形成されていった。それは呼吸のリズムを変え、心臓の鼓動をより堅いものにした。
きっといつか、もっとあとになって、自分はこの出来事の意味や目的を理解できるようになるのだろう、と天吾は思った。そのためにはこの瞬間をできるだけ正確に、明瞭に意識にとどめておく必要がある。今の彼はただ数学が得意なだけの、十歳の少年に過ぎない。新しい扉を目の前にしているが、その奥で何が自分を待ち受けているのかを知らない。無力であり無知であり、感情的に混乱し、少なからず怯えてもいる。自分でもそれはわかっていた。そして少女も、今ここで理解されることを期待してはいない。彼女が求めているのは、自分の感情を天吾にしっかり送り届けるという、ただそれだけのことだ。それは小さな固い箱に詰められ、清潔な包装紙にくるまれ、細い紐できつく結ばれている。そのようなパッケージを彼女は天吾に手渡していた。
そのパッケージを今ここで開く必要はない、と少女は無言のうちに語っていた。その時がくれば開けばいい。あなたは今これをただ受け取るだけでいい。
<傍点>彼女はいろんなことをすでに知っている</傍点>、と天吾は思った。彼はまだそれを知らない。その新しいフィールドでは彼女が主導権を持っていた。そこには新しいルールがあり、新しいゴールと新しい力学があった。天吾は何も知らない。<傍点>彼女は知っている</傍点>。
やがて少女は天吾の左手を握っていた右手を放し、何も言わず、振り返ることもなく、足早に教室を出て行った。天吾は広い教室の中に一,人だけで残された。開いた窓からは子供たちの声がきこえた。
次の瞬間、天吾は自分が射精していることを知った。激しい射精がひとしきり続いた。多くの精液が強く放出された。いったいどこに射精しているんだろう、と天吾は混乱した頭で考えた。小学校の放課後の教室でこんな風に射精するのは適切なことではない。誰かに見られたら困ったことになる。でもそこはもう小学校の教室ではなかった。気がついたとき、天吾はふかえりの中にいて、彼女の子宮に向けて射精をしていた。そんなことはしたくなかった。しかしそれを止めることはできなかった。すべては彼の手の届かないところでおこなわれていた。
「しんぱいすることはない」とふかえりは少し後で、いつもの平板な声で言った。「<傍点>わたしは</傍点>ニンシンしない。わたしにはセイリがないから」
天吾は目を開けてふかえりを見た。彼女は天吾の上にまたがったまま、彼を見下ろしていた。理想的なかたちをした彼女の一対の乳房が彼の目の前にあった。その乳房は穏やかな規則的な呼吸を繰り返していた。
これが猫の町に行くことなのか、と天吾は尋ねたかった。猫の町とはいったいどのような場所のことなのだ? 実際に言葉に出してみようと試みた。しかし口の筋肉はぴくりとも動かなかった。
「ヒツヨウなことだった」とふかえりは天吾の心を読んだように言った。それは簡潔な答えだった。そして何の答えにもなっていない。いつもと同じように。
天吾はもう一度目を閉じた。彼は<傍点>そこ</傍点>に行って、射精をして、そしてまた<傍点>ここ</傍点>に戻ってきた。それは現実の射精であり、そこで放出されたのは現実の精液だった。それがヒツヨウなことだったとふかえりがいうのなら、それはたぶん必要なことだったのだろう。天吾の肉体はまだ痺れて感覚を失ったままだった。そして射精のあとの気だるさが、彼の身体を薄い膜のように包んでいた。
長いあいだふかえりはそのままの姿勢を続け、蜜を吸う虫のように、天吾の精液を最後まで効果的に搾り取った。文字通り一滴残らず。それから天吾のペニスを静かに抜き取り、何も言わずにベッドを出て、浴室に行った。気がついたとき、雷は止んでいた。あの激しい雨もいつの間にかあがっていた。あれほど執拗にアパートの頭上にとどまっていた雷雲は、あとかたもなく消えてしまった。あたりは非現実的なまでに<傍点>しん</傍点>としている。浴室でふかえりがシャワーを浴びている音がわずかに聞こえてくるだけだ。天吾は天井を眺めたまま、肉体に本来の感覚が戻ってくるのを待った。勃起は射精のあともまだ持続していたが、硬度はさすがに減っているようだった。
彼の心の一部はまだ小学校の教室の中にあった。彼の左手には、少女の指の感触が鮮やかに残っていた。手をあげて見ることはできないが、左の手のひらにはおそらく爪のあとが赤くなってついているはずだ。心臓の鼓動は興奮のあとをまだいくらかとどめていた。胸の中の緊密な雲は消えていたものの、そのかわりに心臓のすぐ近くにある架空の部分が心地よく鈍い痛みを訴えていた。
<傍点>青豆</傍点>、と天吾は思った。
青豆に会わなくてはならない、と天吾は思った。彼女を捜し出さなくてはならない。そんなわかりきったことに、どうしてたった今まで思い当たらなかったのだろう? 彼女はその大事なパッケージを差し出してくれたのだ。どうしておれはそれを開けることなく、そのまま放り出しておいたのだろう? 彼は首を振ろうと思った。しかし首を振ることはまだできなかった。肉体はまだ痺れから回復していなかった。
しばらくしてふかえりが寝室に戻ってきた。彼女はバスタオルに身をくるんで、ベッドの端にしばらく腰掛けていた。
「リトル?ピープルはもうさわいではいない」、と彼女は言った。まるで前線の報告をするクールで有能な斥候{せっこう}兵みたいに。そして空中に指先でするりと小さな円を描いた。ルネッサンス期のイタリア人画家が教会の壁に描くような、美しい完壁な円だった。始まりもなく、終わりもない円だ。その円はしばらくのあいだ空中に浮かんでいた。「もうおわった」
そう言うと、少女は身体に巻いていたバスタオルをとって裸になり、何も身につけず、そのまましばらくそこに立っていた。動きのない空気の中で、湿り気を残した身体を、静かに自然に乾燥させているみたいに。それはとても美しい眺めだった。つるりとした乳房と、陰毛のない下腹部。
それから身をかがめて床に落ちたパジャマを拾い上げ、下着をつけずにじかにそれを身にまとった。ボタンを留め、腰の紐を結んだ。天吾はその様子を薄闇の中でぼんやりと眺めていた。まるで昆虫が変身をしていくプロセスを目にしているみたいだった。天吾のパジャマは彼女には大きすぎたが、彼女はその大きさによく馴染んでいた。それからふかえりはベッドの中にするりと潜り込み、狭いベッドの中で自分の位置を定め、頭を天吾の肩に載せた。彼は裸の肩の上に、彼女の小さな耳のかたちを感じることができた。喉もとにその温かい呼吸を感じることができた。それにあわせて身体の痺れは、時間がきて潮が引くみたいに少しずつ遠のいていった。
空中に湿気は残っていたが、それはもうべっとりとした不快な湿っぽさではなかった。窓の外では虫が鳴き始めていた。勃起は今ではすっかり収まり、彼のペニスは再び安寧の泥の中に身を沈めようとしていた。ものごとはしかるべき段階をたどって循環し、ようやくひとつのサイクルを終えたようだった。空中に完壁な円がひとつ描かれたのだ。動物たちは方舟からおりて、懐かしい地上に散っていった。すべての<傍点>つがい</傍点>はそれぞれのあるべき場所に戻っていった。
「ねむったほうがいい」と彼女は言った。「とてもふかく」
とても深く眠る、と天吾は思った。眠り、そして目覚める。明日になったとき、そこにいったいどんな世界があるのだろう?
「それはだれにもわからない」、ふかえりは彼の心を読んで言った。