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第24章 天吾.2

作者:日-村上春树 当前章节:4621 字 更新时间:2026-6-16 01:35

 さなぎの中にはいったい何があるのだろう?

 それは彼に何を見せようとしているのだろう?

 小説『空気さなぎ』では、主人公の少女は自分自身の分身をそこに見出す。ドウタだ。そして少女はドウタをあとに残して、一人でコミュニティーを飛び出す。でも天吾の空気さなぎ(おそらくそれは<傍点>彼自身の</傍点>空気さなぎなのだ、と天吾は直感的に判断した)の中には、いったい何が入っているのだろう。それは善きものなのだろうか、あるいは悪しきものなのだろうか。彼をどこかに導くものなのだろうか、それとも彼を損ない妨げるものなのだろうか? そしていったい誰がこの空気さなぎをここに送り届けてきたのだろう?

 自分に行動が求められていることは、天吾にもよくわかっていた。しかし立ち上がってさなぎの内側をのぞき込むだけの勇気が、どうしてもかき集められなかった。天吾は恐れていた。そのさなぎの中にある何かは、自分を傷つけるかもしれない。自分の人生を大きく変えてしまうかもしれない。そう思うと小さなスツールの上で、天吾の身体は逃げ場を失った人のように硬くこわばった。そこにあるのは、彼に父母の戸籍を調べさせなかったり、あるいは青豆の行方を捜させたりしなかったのと同じ種類の怯えだった。自分のために用意された空気さなぎの中に何が入っているか、彼はそれを<傍点>知りたくなかった</傍点>。知らないままで済ませられるものなら、済ませてしまいたかった。できることならこの部屋からすぐに出て行って、そのまま電車に乗って東京に戻ってしまいたかった。そして目をつぶり、耳を塞ぎ、自分だけのささやかな世界に逃げ込んでしまいたかった。

 しかしそれができないことは、天吾にもわかっていた。もしその中にあるものの姿を目にしないままここを立ち去ってしまったら、俺は一生そのことを後悔するに違いない。その<傍点>何か</傍点>から目を背けたことで、おそらくいつまでも自分自身を赦すことができないだろう。

 どうすればいいのかわからないまま、天吾はスツールに長いあいだ腰掛けていた。前に進むこともできず、後ろにさがることもできなかった。膝の上で両手を組み、ベッドの上の空気さなぎを見つめ、ときどき逃がれるように窓の外に目をやった。日はすでに落ち、淡い夕闇がゆっくりと松林を包んでいった。相変わらず風はない。波の音も聞こえない。不思議なくらい静かだ。そして部屋が暗さを増していくにつれて、その白い物体が発する光はより深く、より鮮やかになっていった。天吾にはそれ自体が生きているもののように感じられた。そこには生命の穏やかな輝きがあった。固有の温もりがあり、密やかな響きがあった。

 天吾はようやく心を決めてスツールから立ち上がり、ベッドの上に身を屈めた。このまま逃げ出すわけにはいかない。いつまでも怯えた子供のように、前にあるものごとから目を背けて生きていくことはできない。真実を知ることのみが、人に正しい力を与えてくれる。それがたとえどのような真実であれ。

 空気さなぎの裂け目はさっきと変わりなくそこにあった。その隙間は前に比べて大きくも小さくもなっていない。目を細めて隙間からのぞき込んでみたが、中に何があるのか見届けることはできなかった。中は暗く、途中に薄い膜がかかっているみたいだ。天吾は呼吸を整え、指先が震えていないことを確かめた。それからその二センチほどの空間に指を入れ、両開きの扉を開くときのように、ゆっくりと左右に押し広げた。これという抵抗もなく、音もなく、それは簡単に開いた。まるで彼の手で開かれるのを待ち受けていたみたいに。

 今では空気さなぎ自身が発する光が、雪明かりのように内部を柔らかく照らし出していた。十分な光量とは言えないにせよ、中にあるものの姿を認めることはできた。

 天吾がそこに見出したのは、美しい十歳の少女だった。

 少女は眠り込んでいた。寝間着のようにも見える装飾のない簡素な白いワンピースを着て、平らな胸の上に小さな両手を重ねて置いている。それが誰なのか、天吾には一目でわかった。顔がほっそりとして、唇は定規を使って引いたような一本の直線を描いている。かたちの良い滑らかな額に、まっすぐに切りそろえられた前髪がかかっている。何かを求めるようにこっそりと宙に向けられた小さな鼻。その両脇にある頬骨はいくらか横に張っている。まぶたは閉じられているが、それが開いたときそこにどんな一対の瞳が現れるのか、彼にはわかっていた。わからないわけがない。彼はこの二十年間、その少女の面影をずっと胸に抱いて生きてきたのだ。

 青豆、と天吾は口に出した。

 少女は深い眠りに就いていた。どこまでも深い自然な眠りのようだ。呼吸もほんの微かなものでしかなかった。彼女の心臓は人の耳には届かないほどのはかない鼓動しか打っていなかった。そのまぶたを持ちあげるだけの力は、彼女の中にはなかった。まだ<傍点>そのとき</傍点>が来ていないのだ。彼女の意識はここではない、どこか遠い場所に置かれていた。しかしそれでも、天吾の口にした言葉は少女の鼓膜をわずかに震わせることができた。それは彼女の名前だった。

 青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする。天吾くん、と彼女は思う。はっきりとそう口にも出す。しかしその言葉が、空気さなぎの中にいる少女の唇を動かすことはない。そして天吾の耳に届くこともない。

 天吾は魂を奪われた人のように、ただ浅い呼吸を繰り返しながら、飽くことなく少女の顔を見つめていた。少女の顔はとても安らかに見えた。そこには哀しみや苦しみや不安の影はいささかもうかがえなかった。小さな薄い唇は今にもそっと動き出し、何か意味ある言葉をつくり出しそうに見えた。そのまぶたは今にも開けられそうに見えた。天吾はそうなることを心から祈った。正確な祈りの言葉こそ持たなかったけれど、彼の心はかたちのない祈りを宙に紡ぎ出していた。しかし少女には眠りから目覚める気配は見えなかった。

 青豆、ともう一度天吾は呼びかけてみた。

 青豆に言わなくてはならないことがいくつもあった。伝えなくてはならない気持ちもあった。彼はそれを長い歳月にわたって抱えて生きてきたのだ。しかし今ここで天吾にできるのは、ただ名前を口にすることだけだ。

 青豆、と彼は呼びかけた。

 それから思い切って手を伸ばし、空気さなぎの中に横たわっている少女の手に触れた。そこに自分の大きな大人の手をそっと重ねた。その小さな手がかつて、十歳の天吾の手を堅く握りしめたのだ。その手が彼をまっすぐに求め、彼に励ましを与えた。淡い光の内側で眠っている少女の手には、紛れもない生命の温もりがあった。青豆はその温もりをここまで伝えに来てくれたのだ。天吾はそう思った。それが彼女が二十年前に、あの教室で手渡してくれたパッケージの意味だった。彼はようやくその包みを開き、中身を目にすることができたのだ。

 青豆、と天吾は言った。<傍点>僕は必ず君をみつける</傍点>。

 空気さなぎが輝きを徐々に失って夕闇の中に吸い込まれるように消え、少女である青豆の姿が同じように失われてしまったあとでも、それが現実に起こったことなのかどうかうまく判断できなくなったあとでも、天吾の指にはまだ小さな手の感触と、親密な温もりが残されていた。

 それが消えることはおそらく永遠にないだろう。天吾は東京に向かう特急列車の中でそう思った。これまでの二十年間、天吾はその少女の手が残していった感触の記憶とともに生きてきた。これからも同じように、この新たな温もりとともに生きていくことができるはずだ。

 山の迫った海岸線に沿って、特急列車が大きなカーブを描いたとき、空に並んで浮かんだ二個の月が見えた。静かな海の上に、それらはくっきりと浮かんでいた。大きな黄色い月と、小ぶりな緑色の月。輪郭はあくまで鮮やかだが、距離感がつかめない。その光を受けて海面の小波{さざなみ}が、割れて散ったガラスのように神秘的に光った。二つの月はそれから、カーブにあわせて窓の外をゆっくりと移動して、その細かな破片を無言の示唆として残し、やがて視野から消えていった。

 月が見えなくなると、もう一度胸に温もりが戻ってきた。それは旅人の行く手に見える小さな灯火のような、ほのかではあるが約束を伝える確かな温もりだった。

 これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。それがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうとしているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はない。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしなければ、この心を失いさえしなければ。

 彼は長いあいだそのまま目をつぶっていた。やがて目を開き、窓の外にある初秋の夜の暗闇を見つめた。海はもう見えなくなっていた。

 青豆をみつけよう、と天吾はあらためて心を定めた。何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと。

〈BOOK2 終り〉

本作品には、一九八四年当時にはなかった語句も使われています。

本作品は書下ろし作品です。

1Q84

〈イチ?キュウ?ハチ?ヨン〉

BOOK 2

発行/2009年5月30日

18刷/2009年8月10日

著者/村上春樹

(むらかみはるき)

発行者/佐藤隆信

発行所/株式会社新潮社

郵便番号 162-8711 東京都新宿区矢来町71

電話 編集部 03(3266)5411?読者係 03(3266)5111

http://www.shinchosha.co.jp

印刷所/二光印刷株式会社

製本所/大口製本印刷株式会社

(C) Haruki Murakami 2009, Printed in Japan

ISBN 978-4-10-353423-5 C0093

乱丁?落丁本は、ご面倒ですが小社読者係宛お送り下さい。

送料小社負担にてお取替えいたします。

価格はカバーに表示してあります。

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附:【本作品来自互联网,本人不做任何负责】内容版权归作者所有!

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