「秘密については、大事な原則がひとつある」と小松は真剣な声で言った。「秘密を知る人間は少なければ少ないほどいいということだ。今のところ世界で三人しかこの計画を知らない。君と俺とふかえりだ。できることならその数をあまり増やしたくない。わかるよな?」
「理論的には」と天吾は言った。
それから小松の声はまた柔らかくなった。「しかしいずれにせよ、ふかえりは君が原稿に手を加えることを了承した。なんと言ってもそれがいちばんの重大事だ。あとのことはなんとでもなる」
天吾は受話器を左手に持ち替えた。そして右手の人差し指でこめかみをゆっくりと押した。
「ねえ、小松さん、僕はどうも不安なんです。はっきりした根拠があって言うんじゃないけど、自分が今、何かしら<傍点>普通じゃないこと</傍点>に巻き込まれつつあるような気がしてならないんです。ふかえりって女の子と向かい合っているときには、とくに感じなかったんだけど、彼女と別れて一人になってから、そういう気持ちがだんだん強くなってきました。予感と言えばいいのか、虫の知らせなのか、でもとにかくここには何かしら奇妙なものがあります。普通ではないものです。頭でじゃなくて、身体でそう感じるんです」
「ふかえりに会って、それでそんな風に感じたのか?」
「かもしれない。ふかえりはたぶん本物だと思います。もちろん僕の直感に過ぎませんが」
「本物の才能があるってことか?」
「才能のことまではわかりません。会ったばかりだから」と天吾は言った。「ただ彼女は僕らの見ていないものを、実際に見ているのかもしれない。何かしら特殊なものを持っているのかもしれない。そのあたりがどうもひっかかるんです」
「頭がおかしいということか?」
「エキセントリックなところはあるけれど、頭はべつにおかしくないと思いますよ。話の筋はいちおう通っています」と天吾は言った。そして少し間を置いた。「ただ何かがひっかかるだけです」
「いずれにせよ彼女は、君という人間に興味を持った」と小松は言った。
天吾は適切な言葉を探したが、そんなものはどこにも見つからなかった。「そこまではわかりません」と彼は答えた。
「彼女は君に会い、少なくとも君には『空気さなぎ』を書き直す資格があると思った。つまり君のことを気に入ったということだ。実に上出来だよ、天吾くん。先のことは俺にもわからん。もちろんリスクはある。しかしリスクは人生のスパイスだ。今からすぐにでも『空気さなぎ』の改稿にとりかかってくれ。時間はない。書き直した原稿をなるたけ早く、応募原稿の山の中に戻さなくちゃならない。オリジナルと取り替えるんだよ。十日あれば書き上げられるか?」
天吾はため息をついた。「厳しいですね」
「なにも最終稿である必要はないんだよ。先の段階でまた少しは手を入れることができる。とりあえずのかっこうをつけてくれればいい」
天吾は頭の中で作業のおおまかな見積もりをした。「それなら十日あればなんとかなるかもしれません。大変なことには変わりありませんが」
「やってくれ」と小松は明るい声で言った。「彼女の目で世界を眺めるんだ。君が仲介になり、ふかえりの世界とこの現実の世界を結ぶ。君にはそれができる、天吾くん。俺には——」
そこで十円玉が切れた。