大袈裟(おおげさ)な似非(えせ)関西弁のアクセントで八十岛が言うのに、凪斗は笑ってみせる。八十岛は角能と身长は同じぐらいで、体つきは角能よりがっしりしている。体格は立派だけれども、鹰扬(おうよう)な雰囲気のせいで威圧感はない。
「お、また絵ぇ描いてんのか」
八十岛が自身の手の外侧をつんつんと指で示すのに、凪斗は自分の右手を见た。真っ黒になっている。
「デッサン始めると、どうしてもこんなになっちゃうんです」
「はは。そのうち、俺と洸太のこと、死ぬほど男前に描いてくれよ」
「いいですよ。デフォルメは得意なんです」
たこ焼きが盛られた皿を手に、朗らかに軽口を交わす。
八十岛が帰ったあと、玄関の键をかけて、リビングへと戻る。歩きながら、爪杨枝の刺さったたこ焼きをひとつ頬张る。しっとりふっくらした生地と、なかのプリッとしたタコ。タレも甘辛くておいしい。
ローテーブルの横に座ってたこ焼きを黙々と三个食べてから、凪斗はクッションの下のスケッチブックを引っ张り出した。そして、六时间描きつづけたデッサンをスケッチブックから破り取り、立ち上がる。
キッチンスペースに入って、抽斗(ひきだし)からライターを取り出す。铅笔を涂り込められた纸の端に火を点(つ)ける。めらりめらりと赤い炎が纸に呑み込んでいく。凪斗は瞬きもせずに失われていく絵を见诘める。指に火が届きそうになってようやく、纸を手放した。シンクの底で、燃え尽きる。
灰は水で流した。
ひとりきりになると、どうしようもなく不安になる。
自分はこれからどうなるのだろう?
本当に岐柳组の四代目などというものにさせられてしまうのだろうか?
もう、普通の生活には戻れないのだろう?
本格的に絵を描くことは、もうないのだろうか?
美大もやめなければならないのだろうか?
祖母とは、いつ会えるのだろうか?
……角能とのこんな関系は、いつまで続くのだろう?
ひとつの心配をもぎ离しても、またぞろ次の心配が缠わりついてくる。
それから逃げるように、絵を描きつづける。自分ではない自分が、狂ったみたいに延々と线を引く。スランプに陥ってからというもの、こんなふうに我を忘れて絵に没头したことはなかった。描いているのはひとつの対象なのだけれども、まったく饱きることはなくて、热い浮かされたように铅笔を动かす。
でもそれは残しておいてはいけない絵だから、人に见られたら困る絵だから、燃やさなければならない。
一绪に、デッサンに费やされた时间も焼却されてしまう。
最後に残るのは、自伤めいたもの哀しさだった。
* * *
现在、岐柳组は三派に分裂している。
ひとつは、当代である岐柳久祯と、その第一の舎弟である桜沢宗平(さくらざわそうへい)をトップにしたグループ。もうひとつは久祯の息子である若头(わかがしら)、岐柳辰久をトップとするグループで、残りひとつは、久祯の二番手の舎弟で中立を保っている大沢(おおさわ)のグループだ。
辰久にとって父の弟分である桜沢は、一般の亲族関系に例えれば、叔父に当たる。その叔父と甥(おい)で四代目の座をめぐって、小竞(こぜ)り合いを缲り返している状态だ。
暴力団の迹目は、本来ならば、若头が継ぐのが顺当とされる。
しかし、当の辰久は数年前から违法ドラッグを常用しており、补佐役で会社では秘书を务める数井(かずい)という男に仕事を丸投げしているような有りさまだった。おべんちゃらを言うイエスマンしか可爱がらないから、下の者たちの心はかなり离れてしまっていた。
片や、今年で五十一歳になる桜沢はといえば、骨ばった体から抜き身の刃の如(ごと)き、ぎらりとした凄みを発している。それでいて、人情家らしい面倒见のよさも具(そな)えているから、下からの信望はひとかたならぬものがあった。
それだけの要素で见れば、军配がどちらに上がるかは明白だ。
しかし、ここに円城凪斗というダークホースが加わるわけだから、少しややこしい。
久祯に心底惚れ込んで従ってきた桜沢は、久祯が推す凪斗の後见に回る心积もりがあるようだが、いかんせん凪斗は若辈者(じゃくはいもの)の素人だ。组员たちからの拒絶反応は火を见るより明らかだった。
こうしていま、组本部で桜沢と対面し、辰久一派への対応策を练りながらも、角能は头が痛かった。
凪斗が人を魅了する妖しい血を秘めているのは确かだ。けれど、それは絵のなかか、性交の最中にしか现われない。
普段はやはり、よくも悪くもいまどきの若者といった感じだ。拗(す)ねたり怒ったり照れたりという普通の面も、惯れてくれば、まぁ可爱らしくもある。しかし、极道の世界の人间たちが、そんなもので动かされるわけもない。
「组长が、四代目候补をおまえに预けるって言い出したとき、本当のところ、わたしは反対したんだ」
重厚なトーンで调えられた応接室、向かいのソファでダブルのスーツに身を包んだ桜沢が、口の横に深い皱を刻んで苦笑した。
「俺が昔、警察にいたからですか?」
「そうだ。そもそも、八十岛の警备会社におまえが入るのも、わたしは反対だった」
これまでも桜沢と対面する机会はあったが、彼は常に角能に対して厚い壁を张り巡らせていたから、こんなふうにストレートに言叶を投げられるのは初めてだった。喋り方は坚気で通るほど整っているが、张りのある声音には硬质の迫力がある。
「当然だと思います。いつ元の同僚たちに、岐柳组の里情报を流すか知れないわけですから」
「ああ。なのに组长は、おまえに端(はな)から目をかけて、自分のボディガードまで任せた。おかしな行动を见せたら、わたしがこの手でおまえを杀(と)ってやろうと思ってた」
そう言いながら、桜沢は上着のうえから自身の腰のあたりを叩いた。おおかた、そこにドスだかハジキでも常备しているのだろう。
「おまえが组长の盾になって、刺客の刃を腹で受けたのも、全部、示し合わせの演技なんじゃないかと思ってたぐらいだ」
ずいぶんな疑り深さだが、岐柳久祯のような敌の多い男を护るのには、そのぐらいで丁度いいのだろう。
「しかしな。このあいだ、おまえが凪斗坊ちゃんの件で落とし前をつけさせるために、ひとりで若头のとこに乗り込んだってのを闻いて、まぁ少しは信じてやってもいい気になった。おまえ、前身を胁しに使うなんて、いい根性をしてるじゃないか」
角能は苦笑した。
凪斗を助け出し、抱いた、翌日。
角能は岐柳久祯にも、八十岛たちにも、谁にも相谈せずに辰久が社长を务める金融会社に乗り込んだ。このァ≌ィスには久祯のボディガードとして何度か访れたことがあったから、社长室が十一阶の最上阶にあることもわかっている。
受付を通さずにエレベーターに向かうと、すぐにまともなスーツを着ているだけで、いかにもヤクザ然としたプロレスラー级の大男が飞んできた。おそらく角能は辰久グループの警备のブラックリストにでも载っているのだろう。言叶もなく羽交い缔めにしてこようとする男の丸太のような腕を掴み、背中へと捻り上げた。柔道で関节技は叩き込まれていたから、最小限の动きと力で相手を封じる。
あっという间に、角能の周りにダークスーツの人垣ができる。角能は彼らを睥睨(へいげい)した。
すると人垣のなかから、スマートな印象の眼镜をかけた长身の男が现われ、数歩の距离で立ち止まる。辰久の右腕の数井だった。
「お久しぶりです、角能さん。今日はどういったご用件で?」
状况に不似合いな落ち着いた様子で讯いてくる。
「若头に、话がある」
「申し訳ありませんが、社长はただいま会议中でして……お话なら、わたくしが伺わせていただきますが」
「何度も言わせるな。俺が用があるのは若头だ。どうしても通さないって言うんなら、俺が掴んでる若头のネタがどっちに流れていっても仕方ないな」
「……」
眼镜の奥の目が细められた。
「わかりました。少々、お持ちください」
数井は上着の内ポケットから携帯电话を取り出した。辰久にかけたらしく、角能の访问と社长室に通す旨を手短に伝える。确かまだ二十代のはずだが、数井の横顔には、冴えた贯禄のようなものが渗んでいた。あのしょうもない若头を支えているうちに、自然と具わってしまったのかもしれない。
「社长室に、ご案内いたします……うちの社员を放していただけませんか?」
角能は用心しながら、捩じ上げていた男の腕を放した。
「皆さん、业务に戻ってください」
数井が告げると、人だかりが瓦解していく。角能は数井とともにエレベーターに乗った。互いに无言のまま、十一阶へと着く。背中を见せるのが嫌だったから、角能は数井の勧めを断って、あとからエレベーターを降りた。
本能的な部分で、数井には少しも隙を见せるべきではないと感じていた。辰久より、よほど厄介な男だ。
辰久は社长室のソファにぐったりと腰挂けていた。
いかにも适当に见缮いをしたらしくネクタイは歪み、シャツの裾はスラックスから出ている。髪は寝乱れたあとのようだ。この阶には、休息室という名のキングサイズのベッドを入れた部屋があるから、どうせそこで女としけこんでいたのだろう。
ドラッグ特有の甘ったるい匂いが、ほのかにしていた。
「俺になんの用だぁ?」
辰久がだるそうに伸びをして、生欠伸(あくび)をする。目はどろりと浊っていた。
どうやら、加速度的に薬物渍けになっているようだ。三年半前、角能が岐柳组のボディガードをやり始めたころの辰久は、こんなではなかった。なるほどこれが岐柳组の若头か、と纳得させるだけの精彩を放っていたものだ。
これでは、凪斗の存在があってもなくても、辰久に迹目を継がせるわけにはいかないと组长が考えるのも无理はない。
数井に勧められたソファには座らず、角能は立ったまま辰久を见下ろした。
「昨日みたいなことは、二度となしにしてもらう」
「きのう?」
辰久は目に落ちかかってくる髪がうざったいらしく、何度も乱暴に掻き上げる。
「ああ、凪斗のことか。角能、おまえが逃がしたんだってなぁ? SS(セキュリティサービス)の盾风情(ふぜい)がよくもやってくれたじゃねぇか」
「四代目候补を护るのが、组长から与えられた仕事だ」
四代目候补、という言叶に、辰久の厚みのある唇がぶるっと震えた。
「ハッ、あんな素人のガキを饰って、お人形さんごっこかよ」
「……円城凪斗に危害を加えたら、あんたのクスリ好きとその入手経路を、俺の昔の同僚に流す。岐柳组では、ドラッグはご法度(はっと)だ。组长もあんたのことを护ってはくれないだろうな。むしろ塀のなかでしっかりヤク抜きしてこいと、喜んで送り出すかな」
辰久の目に、ブツブツと怒りの泡が弾けた。
「てめぇっ、やっぱりいまでもサツとつるんでんだなっ!?」
怒鸣りながら立ち上がり、角能に飞び挂かろうとする。それを制したのは、ソファの横で控えていた数井だった。
「お话のほうは、承りました。今日のところはお引取りください」
……角能とて、まさか自分の前身を利用して、あんな胁しをかける日が来ようとは思っていなかった。けれども胁しには説得力があったらしく、この一周间、辰久サイドに目立った动きはない。
「おまえもいまじゃ、すっかり涡中(かちゅう)の人物だな」
桜沢が叶巻をくゆらせて、目で笑う。角能は苦笑を返した。
深みに嵌まっていっているのは、自覚している。
凪斗のボディガードは引き受けるしかなかったにしても、女のように抱いてしまったのは计算外のうえに、まずかった。
最初のセックスは催淫剤の中和という理由があったからで、二度とは抱かないつもりだった。実际、翌日も、その次の日も、同じベッドで休んでもなにもしなかった。
けれども、なんだろう?
毎日毎分毎秒、とろとろと、自分の身体の奥底に蓄积されていく、甘くて浓厚な蜜のようなもの。
それが溢れた。
ふたたび、凪斗を抱いた。それからまた三日後に、堪えきれなくなって、抵抗を押さえ込んで、舐め、犯した。
同性の性器を脚のあいだに咥え込んでくねる、细身の身体。女よりも脂质の少ない肌が、刷かれた汗にぬめる。逃げを打つ腰を捕まえて。肌に指を喰い込ませ、自分の腰へと引き寄せる。
息も絶え絶えに肌を上気させ、朦胧となりながらも、凪斗はその粘膜を复雑で淫らな蠕动(ぜんどう)で満たし、角能のペニスを虏(とりこ)にする。これまで谁とのセックスでも感じたことのない、热いねっとりとした泥水に果てなく引きずり込まれていくような感覚。
三日に一度は、溜まりきった重ったるい欲を、凪斗の身体にめいっぱい注がずにはいられない……
「円城凪斗は、わたしの眼镜に适(かな)いそうか?」
桜沢に寻ねられて、角能は甘苦しい记忆を远ざけた。
「组长が见込んだだけの特殊な资质はあると思いますが、なにぶんにも、ずっと普通の生活をしてきた子です。――この世界で通用する説得力をつけるには、どうすればいいものかと考えているんですが」
「説得力か。手っ取り早いのは、あれだろう」
「あれと申しますと?」
桜沢は自身の肩のうしろのほうを掌で叩いた。
「モンモンのひとつも入れてやればいい。気の弱い女だって、あれを入れれば、少しは度胸が据わるもんだ」
刺青。
どんな図案を入れるかはおまえが决めていいと、组长から言われていたことを思い出す。
あの凪斗のなめらかな肌に、墨が沈められる。
そうしたらもう、凪斗は、彼がずっと护り通してきた普通の生活には戻れない。
* * *
手元が见えなくなって、我に返った。
窓の外は、すでに夕闇が落ちている。
また何时间、絵を描きつづけてしまったのだろう。凪斗は强张った右手の指を、左手で一本ずつ开いていった。握り缔めていた铅笔が落ちて、カラカラとフローリングの床を転がっていく。
スケッチブックから、纸を二枚破り取って、立ち上がる。昼食を食べるのも忘れていたから、血糖値が异常に低くなっているのだろう。ふらふらする。耳鸣りもしていた。
暗い部屋を过って、キッチンへと行く。抽斗から手探りでライターを出す。
薄闇のなか、ボッと火を点(とも)し、一枚目の纸を燃やした。铅笔で描かれた人のかたち、その引き缔まった逞しい腰のラインが火に舐められていくのを、ぼんやりと见る。燃え尽きると、もう一枚の纸の端にライターを寄せた。
と、ふいにあたりがパアッと明るくなった。
凪斗はびっくりして振り返り、冻りつく。今日は帰りが遅くなると言っていたはずの角能が立っていたのだ。
「电気も点けないで、どうした?」
カウンターを回って、角能がキッチンスペースへと入ってくる。凪斗の手からシンクへと纸が落ちた。
「なにを燃やしてるんだ?」
「なんでも…っ」
凪斗はシンクの底を慌てて覗いた。
燃えるデッサン画。火のなかから自分を见诘めている、真っ黒な瞳。铅笔で何度も何度も何度も黒を涂り重ねて作った瞳だ。
角能が覗き込もうとするから、凪斗はめらめらと燃えている纸を掴んだ。热いとか痛いとかはわからなかった。絵を下に向けて引っ缲り返す。さらにそれを両の掌で押さえつけようとした。どうしても角能にだけは见られたくなくて。
「っ、马鹿か! なにしてるんだっ」
角能に両手首を掴まれた。蛇口からザーッと流れる水で、手を冷やされる。
水で火も冷えてしまったけれども、纸はほぼ燃え尽きていた。
「凪斗!」
横から厳しい声をかけられて目を上げると、角能が强い眼差しで自分を见ていた。
角能が自分を见ている――见てくれている。铅笔で创り出す角能のように、じっと自分だけを见诘めてくれる。
……凪斗がずっと描きつづけていたのは、角能だった。
网膜に焼きついている彼の肢体や顔を、纸のうえになぞっていたのだ。漆黒の髪や瞳をなんとか再现しようと、丹念に铅笔の黒を涂り重ねていくのに、どうしても现実の彼には至らなくて、もどかしくて。
角能を构成するすべての线が、凪斗には奇迹のように完璧に思えた。スケッチブックに髪の流れの一筋でも満足のいくように再现できたときは、その场で蹲(うずくま)ってしまうぐらい幸せな気持ちになれた。
――……しあわせ?
これまでも、絵を描けば恍惚(こうこつ)となったけれども、ああいう満たされた幸福を感じたことはなかった。
――俺は角能さんを描けたら、幸せなんだ?
「赤くなってるな。痛むか?」
角能が意外なほど优しい手付きで凪斗の濡れた手を掬(すく)い上げ、両の掌を覗き込む。
彼の表情のなかに心配する色を见つけたとたん、胸が急に热くなった。
热くて、ぎゅうっと苦しくなる。
なんだかまるで、典型的な恋の症状みたいだ。
「……」
――……恋、って……
自分が角能に恋爱感情を抱くなど、あり得ない。なにを考えてるんだと鼻で笑おうとするけれども、胸がドキドキするばかりで。角能の瞬きする睫を见ているだけで、酩酊(めいてい)感が访れる。こんなふうになるのは、生まれて初めてのことだった。
いよいよ、否定できなくなってくる。
――俺が角能さんのこと、……好き?
いくら自分を护ってくれているとはいえ、角能は凪斗がこの世でもっとも関わりたくない暴力団の人间だ。
嫌だと言うのにセックスを强いるような、身胜手でいやらしい男だ。
――まさか、セックスしたから好きになったとかじゃ……
初めて体験したのが角能とだったから、キスやセックスを一から彼に教えられたから、心と身体の线引きがわからなくなってしまったのかもしれない。
凪斗は自分の心のあまりの不条理さに混乱し、情けなくなる。
角能は凪斗の手をよく冷やすと、赤く水膨(ぶく)れを起こしている掌に丁宁に软膏を涂ってガーゼを载せ、包帯を巻いてくれた。
角能の手指が手に触れるたびに、胸が甘苦しくなる。震える溜め息が零れた。
どんどん激しくなっていく心臓の鼓动に合わせて、掌の火伤(やけど)が、ズキリズキリと重く疼いた。
6
角能がどうしても连れて行きたいところがあると言うから、凪斗は半月ぶりに外に出た。いつ异母兄の手下の者が袭ってくるかと恐ろしかったけれども、きっと角能が护ってくれるはずだと信じて、车の後部座席に乗った。
着いたのは、なんの変哲もない一轩家だった。住宅街に溶け込むようにして建っている家の驻车场に车が入れられる。
角能は车を降りると、あたりに鋭い视线を一巡させ、それから凪斗を车内に残したままインターホンを鸣らした。ドアが开けられて、五十代ぐらいの作务衣(さむえ)姿の男が姿を现す。角能が戻ってきて、凪斗を车から降ろす……角能が当然のように背に掌を当ててエスコートするみたいにしてくる。それが、ボディガードとしての安全确保のためのスタイルだとわかっていても、凪斗の胸は高鸣る。
どうやら自分が角能に恋爱感情を持ってしまったらしいと気付いたのは一昨日のことだ。それ以来、ちょっとした接触でもこんなふうに动悸(どうき)がする。自覚が出てからはまだ角能に抱かれていないけれども、セックスなどしたら、冗谈ではなく心不全でも起こしてしまいそうだ。
ぼうっとしながら民家に入った凪斗はしかし、その家主らしい男の作务衣の袖から出ている腕を见て、ハッと目を见开いた。
その腕には、手首まで模様が刻まれていたのだ。
青黒い水流を行く、赤い鲤(こい)。红叶(もみじ)も降っている。刺青だ。
「三代目・雕滝(ほりたき)を名乗っております。お见知りおきを」
がっしりした壮年の男が、殷懃(いんぎん)に头を下げる。
角能が、凪斗の背に掌を当てたまま言い添える。
「雕滝さんは、手雕りの神と言われてる方だ」
美大の知人にも小さなタトゥーを入れている者はけっこういるし、また日本画専攻ということもあって、凪斗は少しだけ刺青の知识があった。
刺青を入れるのには、手雕りと机械雕りと二种类あるらしい。
机械雕りのほうは文字どおり机械を使い、痛みは少なく、かかる时间も短い。ただし、肌の浅い部分に色が入るので色褪せしやすい。
手雕りのほうは、手作业で针を皮肤の奥まで通すから、痛みはかなりのもので、时间もかかる。しかも、肌の深部に色を沈めるから、あとからレーザーを使って焼き取るのも容易でないという。
……しかし、どうして刺青师のところになど连れてこられたのだろう?
涌き上がってくる不安と不信に、凪斗は角能を见上げた。
「――――ここに、なんの用があるんだよ?」
见返してくる角能の目に、感情は见えない。
「刺青の図案のほうは、俺が用意した。安心して雕滝さんに任せればいい」
凪斗は苍褪めた。
――嘘、だろ……そんな。
「まさか、刺青、を?」
「四代目としての嗜(たしな)みだ」
凪斗は呆然としたまま、雕滝の腕を改めて见る。あんなふうに、この身体を刺青で埋め尽くされてしまうのだろうか。肌に针を刺されて……
「……嫌だ」
「勘违いするな。おまえに选択権はない」
「俺は、刺青なんて入れない!」
凪斗は身を翻(ひるがえ)すと、包帯を巻かれた手で玄関ドアのノブを掴んだ。火伤が痛む。外に逃げ出そうとする凪斗の肘を角能が掴んだ。
「雕滝さん、奥で待ってらっしゃってください」
そう刺青师に声をかけると、角能は暴れる凪斗の身体をうしろから抱きすくめた。角能の强い腕、角能の寂しいようなフレグランスの香り。体温。吐息。
心臓が、震えた。
「凪斗」
耳に寄せられた唇が嗫いてくる。
「大丈夫だ。おまえを引き立てるための刺青だ」
角能の声に、ぞくりと肌が粟立つ。凪斗は深く俯いた。
头がぼんやりしてしまって、思考がうまく回らない。
「嫌だ……あんな刺青されたら……夏でも长袖着てなきゃ、いけないし」
「そんなに大きいのは入れない。背中から胸へ、少し雕るだけだ」
「……」
角能の片手がそっと凪斗の背中を抚で上げた。
「その刺青を入れたおまえは、きっと、ずごく绮丽だ」
凪斗はギュッと目を闭じる。駄目だ。この甘い言叶や腕に骗されてはいけない。いまの自分はまともな判断を失っている。ここで折れたら最後、肌に取り返しのつかない极道の印を刻まれてしまうのだ。
そう必死に自分に言い闻かせる凪斗の耳に、角能の声が忍び込む。
「俺がおまえのために用意した絵を、この肌に入れさせてくれ」
それだけのフレーズで、充分に毒だった。
甘ったるい毒が、鼓膜の奥から体内にじくりと染み込んでくる。それを拒もうと、凪斗は首を横に振った。
「やめて、くれよ……お愿いだから」
声が震える。
角能が、抱き缔める腕の力を强めた。自分をいくらでも翻弄できる、逞しい腕。凪斗はその腕に両手をかけた。引き剥がそうとするのに、手に力が入らない。泣きたくなる。
「刺青なんて酷いこと、やめてくれよっ」
搾り出した恳愿を、しかし角能は无视する。
「少しだけだから、いいだろう? 凪斗」
まるでセックスの最中のように。
无理をねだる、ずるい声音。
こんな声で好きな相手に乞われたら、どうしても心が弱ってしまう。
――駄目なのに……
胸が毒に浸されていくのを、止めることができない。
意识が揺らぎ、心の轮郭が荡かされていく。
――……どんな絵、なんだろう?
痹れる头で思う。
それを见れば、角能が自分をどんなふうに见ているか、知ることができるのだろうか?
それを雕ることを许せば、角能は自分を特别に想ってくれるようになるのだろうか? ほんの少しでいいから、自分のことを――――。
项が燃えるように热くて、胸が割り裂けそうに痛い。
両手に巻かれている包帯の下で、火伤が掻き毟りたいほど、狂おしく疼く。
「さあ、奥に行こう」
あたかも甘美な褥(しとね)に诱うかのように、角能が嗫く。
――どうして、こんな……
凪斗は、自分の心が抗う力を失っていくのを感じていた。そして、改めて知る。
――俺には本当に、选択肢なんて、ないんだ。
角能の许を离れては、おのれの身を护ることもできない。
いまはもうそんなに强い力ではないのに、角能の腕を振りほどくことができない。
それどころか。
もし肌を伤つけることで角能が自分に少しでも好意を持ってくれるなら、それも构わないと、本気で思ってしまっている。角能を埋め込まれるように、墨を深く埋め込まれて。そうやって角能のものになれるのならば……
濡れそぼった睫を、手の甲で拭う。
そして凪斗は、角能に导かれて、刺青师の待つ奥の部屋へと入っていったのだった。
背中に火を载せられているかのようだった。
车の後部座席で、シートに背を凭せることもできず、凪斗は身を伏せていた。
三时间にわたって、肌を雕られた。
刺青师の家の和室で、凪斗はまず全裸になるように言われた。雕滝は、所在なく伫む凪斗の线の细い裸身を、前から後ろから舐めるように眺めた。腕を持ち上げられたり、脚を开かされたりした。
「练り绢のような、実にいい肌质ですな。雕り心をそそられる。いただいた図案がよく映(は)えるでしょう」
部屋の片隅で座していた角能に、雕滝が润みを含んだ声でそう告げた。
それから凪斗は、裸のまま畳床に敷かれた紫色の布のうえに、小ぶりの抱き枕を抱えるかたちでうつ伏せにさせられた。
……三时间は、痛みの连続だった。去ったかと思えば、すぐにまた痛みが访れる。
奥深くまで挿し込まれた针が、皮肤の下で跳ね上げられたり、ひねられたりする。そのたびに、反射的に身体の筋が引き挛り、脳天まで痛みが突き抜ける。凪斗は途中からはもう枕の端を噛んで、耐えた。
今日雕られたのは背中だけだったから、凪斗は自分の身体がどんな有り様になっているかわからなかった。镜で背中を见るかと问われたけれども、首を横に振って、服を着た。雕られる前は、角能が自分のために用意したという図案を知りたいと思ったけれども、痛みに苛まれ、消耗(しょうもう)しきった凪斗には、伤めつけられた自分の背中を见る勇気がなかった。
凪斗の弱りぶりに、角能も多少、哀れみを覚えたのかもしれない。
なにか欲しいものはないかと寻ねられた。凪斗が自宅マンションに寄って画材一式を取ってきたいと答えると、角能は了解してくれた。だから车はいま、凪斗の家へと向かっている。约三周间ぶりの我が家だ。
三周间。たったの三周间だ。
そのあいだに、凪斗の「普通の人生」はすっかり様変わりしてしまった。
命を狙われ、岐柳组四代目になることを宣告され、男に抱かれることを教えられた。そして今日、极道者の证を肌に刻まれた。
こんなふうに身を伤つけてまで気に入られたいと思うほど、角能のことを好きになってしまった……
でも、これはまともな恋心なのだろうか?
ただ大きな流れに呑み込まれるしかなくて、その流れのなかで、缒るように角能を好きになっただけではないのか?
角能は仕事だから自分を护っているのに、それを个人的な行为だと勘违いして、好ましく思ってしまっているのではないか?
あるいはさもしく、角能に好きになってもらえれば身を护れると、无意识に计算しているのだろうか?
わからない。
岐柳组の血がいつか灾厄を呼ぶことを恐れて、ずっと恋をしないように、自分に枷(かせ)をつけてきた。だから、人を本気で好きになったことがなくて、この恋がどういう种类のどんなものなのかを量ることすらできない。
无性に怖くて、でも心を止められなくて。
まるで、轰々(ごうごう)と流れる浊流のなかを上下もなく、くるくると転がり流されていくかのようだ。そしていつか、押し流されるまま大きな岩にぶつかって、骨まで砕け散る。
凪斗が恐ろしいビジョンに栗いているうちに、车はマンション近くの路肩に驻められた。
角能に助けられながら降车し、マンションへと入っていく。なんだかずいぶんと长い旅行をして帰ってきたみたいな感じだ。
角能は凪斗から没収していた键でドアを开けると、凪斗の肩を抱いて玄関へと入る。ドアを闭めて键をかけた。
「なかが安全か调べてくるから、ここで待ってろ」
そう言うと、角能は家のなかへと入っていく。
初めて会ったときは土足で踏み込んだのに、今日はちゃんと靴を脱いで上がってくれた。
凪斗はなかの确认が终わるのを待ちながら、廊下に落ちている歪んだビニール伞をぼんやりと见る。角能を撃退しようとして振りまわしたものだ。角能にすぐに取り上げられて、伞は壁に叩きつけられた。壁にはその时に伤が刻まれていた。
――……壁にはピンも留めないようにして、绮丽に使ってたのにな。
どんなにせせこましく注意して大切にしても、壊されるときは、一瞬で壊されてしまう。
もう三周间前の生活には戻れないのだということが、実感となって圧し挂かってきた。
重ったるい睑で瞬きをすると、ぐらっと视界が揺らいだ。眩晕がする。
背中が异様に热くて。头も热いみたいだった。息が切れる。
身体がひどく重く感じられて、凪斗はその场にしゃがみ込んでしまった。
「凪斗、どうした?」
戻ってきた角能を见上げて诉える。
「あつい……」
角能が额に掌を载せてきた。
「热が出てるな。针を入れたあとはよくあることだ。白血球が活発になるからな……ベッドで休んでいくか?」
靴を脱がせようとしてくる角能の手から、凪斗は逃げた。そして、土足のまま廊下に上がった。
母亲と祖母と自分が筑いてきた穏やかな生活を、みずから踏み汚す。
そして、角能に背を向けたまま、Tシャツの裾を掴んだ。一気に卷り上げて、脱ぎ舍てる。廊下のむこうのリビングの窓から射し込む夕阳を浴びながら、无数の针を刺されて引き挛れている背を、角能に晒す。
「ちゃんと、雕れてる?」
まだ判断できるほど刺青が入っていないのはわかっている。
それでも、讯かずにはいられなかった。
「ちゃんと……あんたが思ったとおりに」
刺青が仕上がるまで、これから何回もあの地狱の三时间を越えなければならない。ひと针ごと、激痛をともなって、悪い病のように刺青は皮肤を覆っていく。それを受け入れるのに、せめて角能の望むとおりになっているという保证が欲しかった。
角能が近づいてくる。
そして、背中に掌をそっと当てた。発热している分だけ、角能の手はひんやりと感じられた。
「俺の用意した絵は、ここに初めからあったものだ」
角能の掌が伤めつけられた皮肤を抚でるのに、凪斗は少し首を伸ばして、溜め息をつく。
「おまえのなかで穷屈に眠っていたものを、解放してやるだけだ。怖がらなくていい」
角能の手が脇腹を流れて、凪斗のジーンズの前に触れた。ジッパーに添って、中指が上下を缲り返す。もどかしい刺激に、凪斗のものはすぐに强张りだす。
角能に诱导されて、凪斗は廊下の壁に向かって立たされた。火伤した掌はつけないから、肘から先の腕で壁に缒る。バックルが外される音。ジーンズと下着が一绪くたに、膝まで下ろされる。
角能が掌を背中から右の臀部へ、そして右脚の付け根の内侧へと这い込ませた。
「こんな场所まで、雕られるんだ」
衣类が膝に络んだまま、脚を少し开かされる。
右手で际どい腿の奥を抚でまわしながら、角能は左手で凪斗の双丘を开いた。
「脚の付け根を雕られるとき、おまえはあの雕り师の前で、うつ伏せのまま脚を开く。この孔を见られながら、针を入れられるんだ」
角能の言叶のままに淫らな光景を想像して、凪斗は首を弱く横に振る。
「その时、赤く肿れてるように、前の日に俺がいっぱい犯してやろう」
男の指で弄られている窄まりの襞が、羞耻に震えた。
「この内腿がすんだら、腿の前を雕られる。さんざんいやらしい孔を见られたあとで身体を仰向けにされるんだ。おまえのペニスはどうなってるだろうな?」
想像のなかの自分が、あの和室の紫色の布のうえで仰向けになっている。刺青师と角能の前で、屹立している茎。もしかすると濡れているかもしれない。それを放置されたまま、针を入れられていく。针が肌に刺さるたびに、ひくっとペニスは蠢き……