角能は、ほんの少しでも、心配をしてくれるだろうか?
仕事としてではなく、身体の関系を持った相手を思う程度の気持ちでいいから、心を痛めてはくれないだろうか?
そんなことをうだうだと梦想する自分に、嫌気が差す。そもそも、祖母の転院先を教えてもらえない现状では、身内を人质に取られているも同然だ。ふらりと失踪するなどという、ひとり逃げ出すような真似ができるはずもない。
凪斗はだるい身体を无理やり起こすと、寝室を出た。リビングから廊下に出て、六畳ほどの部屋へと入る。そこはこれまでほとんど使われていなかった部屋らしく、凪斗が自宅から持ってきた画材类が置かれていた。
イーゼルに立てかけられた杉板には、岩絵の具が飞び散るように涂りたくられている。初めは黒ばかりを涂り重ねていたのだが、それに次第に、鼠(ねずみ)色が入り、绀が入り、群青(ぐんじょう)が入り、红が入り、水晶末の白も散るようになった。
これまで、かたちを为さないような抽象画は苦手でほとんど描いたことがなかった。
凪斗は陶器の浅い皿のうえで、岩橙の粉を胶(にかわ)液で溶きはじめる。人差し指で丹念に掻き混ぜる。
……この絵を见たところで、涂り重ねられた色がなんの记録なのかが、角能に通じることはないだろう。
そう。これは角能であり、角能との日々の日记のようなものだった。
燃やさなければならないデッサンを描くのはとうに止めていた。
代わりに、角能が见てもわからない、けれどもなにより露骨に浓密に写し取る方法を选んだのだった。
もうすぐ、自分はここから出て行かなくてはならないだろう。
父の家に行くことになるのか、あるいはなんとか祖母を见つけ出して一绪に见知らぬ街へと逃げることになるのか。
どちらにしろ、この絵だけは持っていく。自分が初めて、逃れようも误魔化しようもなく、人を好きになった记録なのだから。
角能の瞳も香りも声も腕も、すべてが色に変换されて、ここにある。
そしてまた、彼のために凪斗が流した、血の色も、情液の色も、涙の色も、笼められている。
この恋が终わったら、もう二度と人を好きにならない。
こんなつらい想いを辿るのは、もう嫌だ。
角能が真夜中、気纷れに身体を求めてくれるのだけを拠(よ)りどころにしているような、惨めな恋。……それでも、これが自分のただ一度の恋なのだ。
絵を描いているうちに、疲れ果てて眠ってしまったらしい。
気がつくと、ベッドに横になっていた。遮光カーテンの隙间から薄い月明かりが漏れている。横では角能がこちらに身体を向けるかたちで眠っていた。彼がベッドまで运んでくれたのだろう。
闇にほとんど埋没している角能の顔を、凪斗は见诘める。
见えなくても、どんな细部までも头のなかで描き足すことができた。怖いぐらい整った男らしい顔が、眠っているとき、意外とあどけない感じになるのも知っている。
初めは、なんて酷い男なんだろうと思った。
心にも身体にも乱暴に踏み込んできて、凪斗がせせこましくも必死に护ってきたものを、根こそぎ夺ってしまった。
自分なりにうまくやっているつもりでいたけれども、実际はどれだけ无力で不器用なのかを、思い知らされた。二十歳にもなって、男のくせに、自分の身も护れず、頼れる友人もない。初めての恋らしい恋に、どうしていいのかわからなくて、身体を差し出すことぐらいしかできない。伝えられない想いを、ただキャンバスに涂り込めていくことしかできない。
情けなくて、もどかしくて。
……あと、几つの夜を、こうして角能と过ごせるのだろう?
それを考えると、どうしようもなく遣(や)る瀬ない気持ちに袭われる。
凪斗は肘をついて身体を少しだけ起こした。そして、眠る男へとそっと顔を寄せる。なぜか自分からするキスは、セックスするよりも耻ずかしくて、勇気がいる。
紧张しながら、唇を重ねて。
一秒、二秒、三秒……やわらかく溃し合っている唇を离せなくなる。
頬も胸も热くて、神経がとろとろに荡(とろ)けていく。
と、重なった唇の下、角能が小さな呻きを漏らした。凪斗が慌てて顔を离すのと同时に、角能がくっと眉をひそめて、薄く目を开いた。
「あのっ、违うから、いまのは……」
动転して言い訳をしようとすると、角能が探るように手を伸ばしてきた。自然な动きで背中へと腕が回される。そのまま、抱き寄せられたのだか、角能が抱きついてきたのだかわからないように、身体が寄る。
凪斗の颚の下に角能の头が入ってくる。
一気に激しくなった鼓动を読まれるのが怖くて、凪斗は角能の肩を掴んで引き剥がそうとした。けれども、手指は萎えたみたいに力が入らない。
「……なぎと」
小さな掠(かす)れ声で名前を呼ばれた。
どうやら寝ぼけていたらしくて、角能はまたすぐに规则正しい寝息を立てはじめる。
凪斗はぎこちない手つきで、男の肩を抱いてみた。机能的に筋肉の重ねられた、頼もしい手触り。素肌の温もり。
──……覚えておこう。
この人のなにもかもを、いま、覚えておこう。
7
「支度はできたか?」
角能が寝室へと入ってくる。
凪斗は用意されたスーツを身につけ、ネクタイを结んでいるところだった。今晩は、これから岐柳久祯と、凪斗が四代目になる际の後见人候补の桜沢と、赤坂の料亭で顔合わせをすることになっている。
父亲と会うのは生まれて初めてだ。
「ヘタクソだな」
苦笑して、角能がネクタイを结びなおしてくれる。
今日の彼は、髪をしっかり後ろに流して整えているせいか、いつにも増して鲜やかな様子だった。黒い瞳がじっと见下ろしてくる。
「ここに连れてきたころに比べたら、少しは腹が据わった感じだな」
自分ではよくわからない。
けれども、无理やり眠らせていた激しさや淫荡さを、角能によって引きずり出されたのは确かだ。ずっと否定してきた自分の一部に戸惑いを覚えたこともあったが。いまやそれは自分の中で、これまでの自分と无理なく并存しつつあった。
どちらも自分なのだと、受け入れはじめている。表れ方は违っても、たとえば角能を想う気持ちはひとつなように、根底では繋がっているのだ。
角能が考えてくれた刺青の図案である双头の蛇は、凪斗の精神のかたちそのものだ。
乱暴なやり方ではあったけれども、円城凪斗という人间の内部を探り、初めてきちんと把握してくれた人……それが角能なのだ。
凪斗は男の目をまっすぐ见て、告げた。
「ありがとう、角能さん」
「──なんだ、急に」
「いつ、むこうの……组长の家に移ることになるかわかんないから、いまのうちに言っておこうと思って。ケジメみたいなもん」
ちょっとふざけたように続ける。
「そうだ。刺青见せたら、後见人になってくれるかもしれない人も、俺のこと认めてくれるかな。食事のとき、脱いじゃおっか?」
「……とりあえず、その口を最低限しか动かすな」
「なんだよ、それ」
「无理はするなってことだ」
角能に軽く侧头部を叩かれた。优しい叩き方だ。
「おまえなら、きっと本宅でもやっていける」
言外に、お互い少し早い别れの挨拶を交わした感じだった。
胸に大きな穴が空いて、そこに寂しい风が吹き込む。
その後はもう特に言叶を交わすこともなく、凪斗は角能とともにマンションの地下驻车场へと向かった。
* * *
凪斗を四代目候补として正式に岐柳本宅へ迎えるにあたって、里と表のビジネスの中枢(ちゅうすう)から辰久派の者たちは退けられつつあった。彼らが面白くないのは当然で、いつ内部抗争が起きてもおかしくない状态だ。
角能が元警察関系者であり、辰久のドラッグ问题もあったため、これまでは角能ひとりでも凪斗を护卫できていたけれども、この先はとてもそうはいかないだろう。むこうも背水の阵で、手段を选ばなくなるに违いない。
岐柳本宅からの不穏分子の排斥もすんだとのことで、凪斗には言っていないが,今晩から彼をむこうにやるつもりでいる。ここから赤坂の料亭までが、専属ボディガードとしての最後の仕事となる。
果たして、最後だと思う気负いのせいなのか。部屋を出てからずっと、嫌な感じに项がピリピリしている。
エレベーターのなか、凪斗の盾のように立ちながら、角能は自身のスーツの内侧に右手をやっていた。そこに装着しているホルダーには、拳铳がある。これまでも危険度の高い警护のときは所持していたが、SP时代を通して、铳で人を撃ったころはなかった。
一度だけ、铳口を人に向けたことはあったが、撃てなかった。
……けれども、もしいま、このエレベーターのドアが开いてそこにヒットマンがいたとしたら。自分はなんの踌躇(ためら)いもなく、相手を撃ち抜くに违いなかった。
ほとんど本能的な欲求として、凪斗を护りきろうとしている自分がいる。
これまで政财界の要人から里社会の人间まで、何十人も警护してきたけれども、こんな感覚は初めてだった。
エレベーターが地下驻车场に着く。
视线を走らせ、人影がないのを确认してから凪斗を腕に抱くようにして、车へと连れて行く。首筋の痹れが一段と强まっていた。鸠尾のあたりが重苦しく引き挛る。
自分の気持ちの问题かとも思ったが、违う。これは、なにかある。
どこかに暴汉が潜んでいることを、理屈ではなく、感覚がキャッチしていた。角能のこの手の感覚が外れたことは、いままでほとんどない。
──まずいな。
一刻も早くここを出なければならない。
车の下にァ·ル漏れなどの工作のあとがないかを确かめてから、凪斗を少し离れたところに伏せさせて、车のエンジンを入れる。爆発を危惧したが、大丈夫だった。
凪斗を立たせたのと、ほぼ同时だった。
非常阶段へと続く鉄のドアがバンッと开かれて、そこから数人のスーツ姿の男が飞び込んできた。彼らの手には拳铳が握られている。角能も反射的にホルダーから铳を抜いた。
突然のことに完全に动けなくなっている凪斗を左腕に抱いて庇い、运転席へと走る。相手が発炮した。サイレンサーは付けられていたが、笼もった铳声がコンクリート打ちの驻车场に响く。
敌は凪斗の命を狙いにきているらしかった。凪斗の头を抱えた角能の左腕を弾が掠る。角能は凪斗を运転席侧のドアから押し込みながら、身を捩って二発続けざまに撃った。一発はヒットマンの右腕、一発はもうひとりの太腿を狙う。弾は命中して、ふたりが沈んだ。残りひとりはバッと柱に身を隠した。
凪斗が助手席のほうへと抜けたのを确认して、角能は运転席に乗り込もうとした。
その一瞬间の隙に、铳声が响く。
身体が大きく跳ねた。
──しまった!
运転席にドッと腰を落とし、ドアを闭める。ひと呼吸もおく暇はない。ギアを入れ替えて、车を急発进させた。じっとりとした汗が项や掌に喷き出す。地上へと向かう坂をアクセルを踏み込んで駆け抜ける。夕刻の光のなかへと飞び出す。
「角能、さんっ!」
助手席で凪斗が悲鸣のような声を上げた。
「角能さん、怪我(けが)してる」
「……悪いが、赤坂までは无理だ。このまま病院に行かせてもらう」
腹部が温かな液体でだくだくと濡れていくのがわかった。
「血が────」
凪斗がふいに両手で角能の左脇腹を押さえてきた。伤口をなんとか塞ごうとしているらしい。视界の下のほうで、凪斗の手が真っ赤に染まっていくのが见えた。
「大丈夫」
こんな铳撃戦の伤をその辺の病院で诊(み)てもらうわけにはいかない。岐柳久祯が恳意にしている病院までは二十分ほどかかる。
ときおり薄らぎかける意识を繋ぎとめてくれたのは、凪斗のすすり泣く声だった。
* * *
──俺のせいだ。
手术中のランプが、溢れる涙でぼわりと歪む。
──俺なんかを护らされたせいで、角能さんは……
まだ、血の感触が手にこびりついている。
必死に掌で押し塞いでも押し塞いでも、指のあいだから止め処なく溢れていく、大切な人の体液。まだ温かな血を身体のなかへと还(かえ)したいのに、その术もなく角能の睫が痉挛するように震え、唇の色が失せていく。
なんとか病院に辿り着き、担架で运ばれたときにはもう、彼の顔は纸のように白かった。
あれだけの血が流れたのだ。もしかすると……もしかすると、角能は助からないかもしれない。
「……いや、だ」
瞬きするたびに、壊れきった涙腺からおびただしい量の涙が喷き出す。
「いやだ、いやだっ」
肺がぐしゃぐしゃに溃れてしまったみたいに苦しい。苦しいのに、うまく息を吸い込めない。角能の血に涂れたスーツの腕で、ぎこちなく顔を拭う。涙に溶けた血が、浓い鉄の匂いを放つ。角能の血を顔になすりつけていく。
……角能を助けるためなら、なんでも差し出す
血でも骨でも心臓でも、この身体からもぎ取って构わない。
自分が死ねば角能が助かるというのなら、いまこの瞬间に死んでもいい。
だから。
「お愿いだから……谁か……」
──助けて……角能さんを、助けてくれよ!
「凪ちゃんっ」
バタバタッという足音が近づいてきて、名前を呼ばれた。
まだらに赤く濡れた顔をぐらりと上げると、そこには折原と八十岛の姿があった。ふたりとも苍褪めた厳しい顔をしている。
ソファから立ち上がろうとしたけれども、脚が萎えてしまっていた。
「ごめん……ごめんなさい」
凪斗は深く头を下げて、痹れたようになっている唇で谢った。
子供のころから恐れていたとおりになったのだ。自分などと亲しくしたら、その人には灾いが访れる。コンパスで描いた丸のなかに、自分はひとりきりでいなければならなかったのに。よくわかっていたはずなのに、角能をすぐ傍に感じているのがあまりに幸せだったから、欲を张ってしまった。
そうして自分なんかの傍にいたから、角能に灾いが袭い挂かってしまったのだ。
大きな手が、凪斗の头にポンと载せられた。
「きみのせいじゃない。これが俺たちの仕事なんだ。角能は、自分の仕事をしただけだ」
折原が横に腰挂けてきて、肩に手を回してくる。
「こういう因果な商売、选んでやっとる俺らが悪いんやから、な?」
何年も一绪に仕事をしてきた彼らのほうが、知り合って一ヵ月と少しの自分などより、つらがる権利がある。それなのにこんなふうに慰めてもらっているのが本当に申し訳なくて、凪斗は握った掌に爪を食い込ませて、悬命に呜咽(おえつ)を噛み杀そうする。
八十岛が凪斗の前の床にしゃがみ、覗き込んできた。
「ショックを受けてるのに思い出させて悪いんだけどな。どんな奴らがどんなふうに袭ってきたのか、话してくれないか?」
震えたまま、凪斗は颔いた。そして何度も喉を诘まらせながらも、ぼんやりしている记忆をなんとか苏らせて、颠末(てんまつ)を话した。角能がどんなふうに自分を护ってくれたかを、话した。
凪斗の话を闻くと、八十岛は情报を回して対応策を练るからと、その场を去った。折原は残って、横にいてくれた。
ふたりでぼうっと、点灯しつづけている手术中のライトを见上げる。
「それにしても、角能サン、ホンマに凪ちゃんのこと、护りたかったんやなぁ……铳を撃つのは嫌やってしつこいくらい言うてはったのに」
「……」
もしかすると、黙っていると泣きそうなのかもしれない。折原は仰扬の効きすぎた声でゆっくりと言叶を続けた。
「あの人、四年前は警察官だったんやて。SPっちゅう、伟い人护る仕事をやってはってな。で、そのSPの先辈の尊敬してたナントカって人に、里切られて、えらい目におうたらしいわ。角能サンはあんまり自分のこと话さへんから、俺も详しいことはよう知らんのやけど……そいで、人间不信になったらしいわ」
「──人间不信」
「そうや。だから、俺も八十岛サンも、ホントのとこ言うと、凪ちゃんを角能サンに任せて大丈夫なんやろかって、心配しとったんや。ボディガードだけならともかく、一绪に暮らすのは、凪ちゃんも难仪やなぁ思て」
眼镜のむこうで、折原の目が细められた。
「けど、凪ちゃんにこんなに心配されてるっちゅうことは、角能サン,凪ちゃんとしっかり向きおうてたんやなぁ。なんか、こんな时やけど、それはよかったなぁって思うわ」
凪斗は、ぴたりと闭ざされている手术室のドアをじっと见诘めた。
──……角能さん。
角能が自分のなかに入ってきてくれたように、ほんの少しだけでも、自分が角能の心に入ることができていたなら、どんなにかいいだろう。
* * *
「Vが负伤! そのまま车で病院に直行しろっ」
受令器から伸びるイヤホンが、耳の奥へ声を叩きつけている。
「一班、环(たまき)ビル周辺の市民の安全确保。二班はビルの出入り口の封锁、および、敌の捕获」
硝烟(しょうえん)の匂いが、窓からの风に乗って、角能の鼻先を掠める。
「敌は环本社ビル三阶以上の窓あるいは屋上から発炮! 缲り返す。発炮地点は本社社屋三阶以上の窓あるいは屋上で、敌は铳を所持している……」
佐伯がイヤホンを耳から抜いた。地味なスーツに身を包んだ彼の顔からは、表情らしきものがごっそり抜け落ちていた。常の柔和な空気もなく、まるで佐伯のかたちをした人形のようだ。
「どう、して、ですか」
口のなかが干からびたように乾いていて、声が掠れる。
自分が目撃してしまったことを、角能はどうしても受け入れることができなかった。あり得ない。あの佐伯が、谁よりもSPという职业に夸りを持っていた佐伯が、その手で护るべきVIPを狙撃したなど……
今日の警护対象は、环制薬の社长だった。午後に最高裁で争われる、制薬会社・病院および厚生労働省を相手どった被害者団体による薬害诉讼、その被告のひとりとして环制薬社长が法廷に立つ予定だったのだ。
六十八歳の社长は老狯(ろうかい)なタヌキといった印象で、薬害问题に対しても反省するどころか、被告者たちを阴湿な言叶で恐喝犯呼ばわりしてきた。その结果、今日などはついに袭撃予告まで送りつけられ、警视庁警护课员が二十二人体制で身辺警护に临むことになったわけだ。
……佐伯の様子がおかしいことに、角能は朝の段阶から気づいていた。空気のように场に溶け込む男だから他の人间は気づかなかったようだが、佐伯の一挙手一投足からでも仕事や哲学を学び取ろうと注视していた角能には、すぐわかった。
もしかすると体调でも悪いのかもしれない。そう心配しつつ、佐伯の行动をひそかに気にかけていたのだが。
この环制薬本社ビルに着き、もうすぐVIPが车に乗り込むという连络が回ってきた直後、佐伯がふいに持ち场を离れた。
首筋が嫌な感じにピリついて、角能もまた场を离れて、佐伯を追った。
そして、见てしまったのだ。
佐伯が、この四阶の会议室の窓から、拳铳を撃つ场面を。
「佐伯さん……答えて、ください」
角能は戸口のところで立ちつくしたまま、尊敬する男に问うた。
「どうして、こんなことをしたんですか? どうして、あなたが……」
纠弾(きゅうだん)するというよりはむしろ、打ち明けてほしかったのかもしれない。
佐伯がこんなことをするのは、よほどのことがあったからだ。きっと、闻いたら纳得せざるを得ないような事情を抱えているはずだ。それを自分に教えてほしかった──教えてもらえる距离だと、自惚(うぬぼ)れた。
佐伯は本当に人形にでもなってしまったかのように、ギコギコと音がしそうな动作で、角能へと身体をかえした。そして、右手を上げた。
铳を握った、右手を。
「佐伯、さん?」
「铳を构えろ、角能」
「……」
「死ぬぞ」
ひたと、なんの迷いもなく、佐伯の铳口は角能を狙っていた。
脳みそが痹れたまま、角能は铳を抜いた。安全装置を解除し、铳口を上げていく。
──こんなことがあるはずない。梦だ。梦に决まってる……
……そう、それは梦だ。
なぜなら、自分はこの後の颠末を知っているのだから。
VIPを狙撃した犯人を捜して、もうすぐ同僚たちがここにやってくる。そして、铳口を向け合って対峙している佐伯と角能を见つける。他の者たちも、佐伯に铳口を向ける。
佐伯がトリガーを引く。角能の耳を弾が掠める。
次の瞬间、佐伯の身体は踊るように跳ね、仰向けに崩れ落ちていく。血が、灰色のカーペットに黒く広がっていく。
何百回。いや何千回、缲り返し辿った数分の出来事。
あとから、佐伯の妻が环制薬の薬害によって七年前に亡くなっていたことを知った。おそらく今回の最高裁でも环制薬社长が有罪になることはないだろうと読んだ佐伯が──実际、判决は被害者団体の実质的败诉に终わった──妻の吊い合戦を仕挂けたのだろう、というのが大方の见解だった。
同僚たちの弾によって絶命した佐伯には、もう确かめようもなかったけれども。
そして、SPの狙撃によって环制薬社长が负伤したことは、伏せられた。警护课の威信を护るために政治的取り引きでもあったのだろう。现场を目撃した角能は、谁よりも厳しく真実を口外しないことを誓约させられた。
政财界の要人の私生活まで警护するSPの选抜には、口の坚さが重要视される。すべてを沈黙のうちに葬り去ることに惯れた精神。VIPのためなら、それがどんな悪人だろうと、条件反射で肉の盾になるよう训练されている肉体。
そんな自分のかたちを、おぞましいと感じた。自分のことも、同僚たちのことも、警察という组织も、気持ち悪くてたまらなくなった。
ほどなくして警察を辞め、壊れたように自堕落に半年を过ごした。そうして、夜の街で酔いどれているところを、高校时代の先辈である八十岛に拾われたのだった。
八十岛は角能の経歴を知ると、ボディガードに勧诱してきた。
また肉の盾になるのだ。しかも、极道者を护るために。冗谈みたいで、下らなくて、……もう、どうでもよかった。
この身体は条件反射でどんな警护対象でも护る节操ナシだ。それならいつか暴汉に杀られるまで、盾になりつづければいい。
……同僚たちが、来ない。
角能は梦のなかで、ふと我に返る。
佐伯が自分を狙っている。撃とうとしているのが、手の力の笼もり方でわかった。
「────撃って、いいですよ」
どうせ、この先には投げやりな人生しか待っていないのだ。それなら、いま佐伯に撃ち杀されたほうが、よほど洁いように思われた。角能は铳口を下ろした。
なんだか、あたりが急に暗くなったようだ。
ひたひたと、タールのような闇が部屋に落ちかかる。いまはもう、窓辺に立つ佐伯の姿も胧(おぼら)だった。奇妙な安らかさが、胸に拡がっていく。そして身体が冷たくなっていく。
目を闭じてしまおうか。
そしれ最期の铳声を待とうか。
「……ん」
と、左手が温かな感触に包まれた。缒りつくように、包んでくる手指。
「角能さん」
覚えのある掠れぎみな声に、角能は振り返った。
闇に埋もれるようにして、「彼」が立っていた。
日本人らしい浅い二重の目。透けるような虹彩が、じっと见上げてくる。
闇に溶け散ろうとしていた角能の意识は、急速にひとつに缠まった。
「凪斗……」
男にしてはやや繊细(せんさい)な造りの手を、慌ただしく、きつく握り返す。
「おまえ、なんでここに」
こんな危険な场所に────角能は窓のほうへと鋭く视线を走らせた。
黒い部屋のなか、钝く光っている佐伯の铳口。それがわずかに动いた。凪斗へと照准を変えたらしい。
「大丈夫だ」
角能は本能的に凪斗を自分の後ろへと隠しながら、铳口を上げた。
誓うように呟く。
「おまえだけは、必ず俺が护る」
すでに迷いはなかった。
左手で凪斗の手を握り缔めて。
トリガーを、引く。
* * *
「峠は越えました。あとは意识が回复するのを待ちましょう」
角能の诊察を终えた医师が、そう言ってくれた。
朝方、一度危ない状态に陥ったものの、いまの角能の寝顔は安らかなものだ。心电図は力强く山を刻んでいる。角能は昨日の术後、ICUに入れられた。この病院の院长は岐柳久祯と恳意だったから、家族でない凪斗が角能に付き添うことを特别に许可してくれた。
状态が安定した角能は、ICUから个室に移された。応接セットや简易キッチンまでついた広い部屋だ。辰久の配下の者がまた袭撃してくる可能性があるからと、八十岛セキュリティサービスから派遣されたボディガード二名が、廊下で见张ってくれている。
个室の説明を简単にしてくれた熟年の女性看护师は、去り际、付き添い人用の简易ベッドを指差して言った。
「あなたのほうが病人みたいな顔色になってるわ。彼はもう大丈夫だから、安心してお休みなさい」
凪斗はひと晩中、角能の手を握って、一睡もしなかった。
角能が苦しそうでも、汗を拭いたり、手の甲を擦ったりすることぐらいしかできなくて、身闷(もだ)えたくなるほど歯痒かった。とても长い夜だった。
もう大丈夫だとわかっても角能から少しも离れたくなかったから、凪斗は椅子に座ったままベッドへと上体を伏せた。角能の腕をぎゅっと抱く。温かい肌。ちゃんと血が通っている。角能は生きている。
窓から差し込む朝阳を浴びながら目を闭じる。睑の里がやわらかな白に染まっている。
……もし神様とかいうのがこの世にいるのならば、心の底から感谢したい気持ちだった。
そうして、うとうとしていると、ふいに肩を叩かれた。
慌てて身体を起こす。寝ぼけ眼(まなこ)で见上げれば、男がふたり立っていた。なんとも言えない威圧感のある年配の男たちだ。
ひとりは恰幅(かっぷく)のいい身体にいかにも着惯れた様子で着物を缠い、もうひとりは顔も体つきもシャープな印象でスーツを着ている。
その着物の男と目が合った瞬间、なにか身体の奥底が揺らぐような、不思议な感覚が起こった。そして极(ごく)自然に理解したのだった。
写真の一枚すら见たことがなかったし、顔かたちが似ているわけでもない。それでも间违いない。彼は、岐柳久祯だ。凪斗は椅子から立ち上がった。小さく头を下げる。
「そのしっかりした目つきは、母亲譲りだな」
久祯が目を细める。重苦しい贯禄のある外见なのに、それだけで情の笃(あつ)い人らしいことが伝わってきた。
ずっとずっと存在を忌み、避けてきた相手なのに、凪斗は彼が自分と血の繋がった父亲であることを、すとんと受け止めてしまっていた。呆気(あっけ)ないような気持ちだった。
「凪斗}
父亲が、母がつけてくれた名前を呼ぶ。
「お前を思いっきし巻き込んで、胜手して、悪いな」
确かに久祯のしたことは、酷いことだ。
既婚の极道者だということを隠して、坚気の女を身笼らせた。その女が命挂けで縁切りを求めたのに、彼女の死後、こうして息子である自分を里社会に引き込もうとしている。そもそも、久祯が凪斗を四代目にするなどと言い出さなければ、异母兄から狙われることもなかったわけで────そうしたら、角能に警护されることもなかったのだ。
そして、なんだか骗されたような嵌められたような话だけれども、いまの凪斗は身胜手な父亲を恨んではいなかった。
角能への恋情はつらいけれども、味わわなければよかったなどとは思えない。
彼との関わりや、彼から教えられた自分のかたちは、大切なものとなって心にきちんと蓄积されているのだから。
「こっちが、おまえの後见人候补の桜沢だ」
久祯がスーツ姿の男の肩を叩く。男の锥(きり)のような鋭い视线が、スキャニングするみたいに凪斗を见诘めた。
「凪斗坊ちゃん、初めてお目にかかります。桜沢宗平と申します」
喋りのトーンといい、ヤクザというよりは、やり手の财界人といった印象だ。
「初めまして。円城凪斗です」
「どうだ? 俺の息子は。四代目が务まりそうか?」
胜手に品定めを始めようとするふたりを、凪斗はキッと见据えた。
「待ってください。俺は、四代目になるつもりはありません」
いま抗(あらが)わなければ、取り返しがつかないことになる。
「だから、祖母を返してください……それとも、ずっと祖母を人质にして俺を缚りつける気ですか? そんなイヤイヤやって务まるほど、岐柳组四代目は容易いものなんですか?」
暴力団干部を前にして、自分でも惊くほどきっぱりとした滑舌(かつぜつ)で问う。
久祯はじいっと凪斗の目を覗き込んでから、にやりとした。
「そりゃあ、岐柳组の头を张るのは简単じゃあねぇなぁ」
「俺には无理です」
「ま、确かにおまえひとりじゃあ、无理だろうよ。だからこの桜沢についてもらうんだ」
「そういう问题じゃなくて、俺の気持ちが动かないってことです」
「気持ちか、なるほど」
久祯は笑みを収めて、しばし沈黙した。
そして、すうっと目を细めた。爬虫类っぽい、なにもかもを见透かすような瞳。
「なぁ、凪斗。もし、おまえが四代目になる决心をしてくれたら」
凪斗はなんだか追い诘められた気持ちになる。大蛇のとぐろに、ぐうっと巻かれているみたいだ。息苦しい。
そんな凪斗の様子を味わうように眺めてから、久祯は言った。
「おまえに角能をやろう」
「……」
「この男はいい。めったにいねぇ上玉だ。だが、どうにも『気持ち』の动かねぇ男でなぁ。だから、凪斗。四代目になるっていうんなら、角能をおまえにやる。おまえがこいつを动かしてやれ」
久祯は目元を缓ませると、横に伫む男に视线を投げた。
「厳しい道も、いい连れがいりゃあ、けっこう愉しいもんだ。なぁ、桜沢」
8
『おまえに角能をやろう』
岐柳久祯の言叶が耳にこびりついている。
角能が、自分のものになる。
それは凪斗にとってはなにより抗いがたい、気持ちを冲き动かされる饵だった。密かに恋焦がれてきた男を、自分に缚りつけることができるのだ。
……ちゃんと积み重ねてきたはずの别れの覚悟は、父亲の一言で、无様なまでにガタガタになってしまっていた。
角能を、自分のものにしたい。
それが叶うのならば、里道を歩く険しい人生になっても构わない。
今朝方、角能の脉拍が消えかけたとき、真っ暗な闇に突き落とされたような気がした。失うのが怖くて、必死に彼の名前を呼んだ。この世に……违う。自分に、繋ぎとめたくて。
伤つくまで身体を差し出すことも、心を遣る瀬なく焦がすことも、角能に教えられた。そしてきっと、角能とでなければ成立しなかった。彼だからこそ、自分のなかにこんなにまで深く分け入ってくることができたのだ。
强引だけれども、ふとした仕种が优しくて、凪斗がひとりで抱き込んできた苦しさや孤独感をほどいてくれた。そして彼との関わりによって、ずっと忌み嫌ってきた父方の激しくて昏い血も、自分の一部なのだと受け入れることができるようになった。
角能は特别な、ただひとりの男だ。
だから、どうしても彼を手放したくない。
「……でも、だめだ――だめなんだ」
走り出そうとする自分の想いを封じ込めるために、凪斗は祈るようにきつく手を握り合わせた。
明らかに命を狙われている自分のような人间の傍にいたら、角能はきっとまたこんなふうに大怪我をしてしまう。今度こそ、命を落としてしまうかもしれない。
――だから、离れなきゃいけないんだ……
自分を囲む円の圏外へと角能を逃さなければならない。
凪斗は目の縁を赤くして、眠っている角能を见诘めた。
最後に、彼に触れたい。最後に、もう一度だけ、キスしたい。
けれども、そうしたらきっと离れられなくなってしまうから、握り合わせた手を震わせながら、凪斗は椅子から立ち上がった。
「さよなら。角能さん」
嗫きは、声にならないほど震えた。
想いを断つように角能から视线を引き剥がすと、凪斗は足早に病室をあとにした。
部屋の外には八十岛セキュリティサービスのボディガードがふたり立っていた。そのうちのひとりには角能を护っていてもらい、もうひとりに岐柳久祯のところに连れていってほしいと頼む。