お勢母子(ぼし)の者の出向いた後(のち)、文三は漸(ようや)く些(すこ)し沈着(おちつい)て、徒然(つくねん)と机の辺(ほとり)に蹲踞(うずくま)ッたまま腕を拱(く)み顋(あご)を襟(えり)に埋めて懊悩(おうのう)たる物思いに沈んだ。
どうも気に懸る、お勢の事が気に懸る。こんな区々たる事は苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気に懸ってならぬ。
凡(およ)そ相愛(あいあい)する二ツの心は、一体分身で孤立する者でもなく、又仕ようとて出来るものでもない。故(ゆえ)に一方(かたかた)の心が歓ぶ時には他方(かたかた)の心も共に歓び、一方(かたかた)の心が悲しむ時には他方(かたかた)の心も共に悲しみ、一方(かたかた)の心が楽しむ時には他方(かたかた)の心も共に楽み、一方(かたかた)の心が苦しむ時には他方(かたかた)の心も共に苦しみ、嬉笑(きしょう)にも相感じ怒罵(どば)にも相感じ、愉快適悦、不平煩悶(はんもん)にも相感じ、気が気に通じ心が心を喚起(よびおこ)し決して齟齬(そご)し扞格(かんかく)する者で無い、と今日が日まで文三は思っていたに、今文三の痛痒(つうよう)をお勢の感ぜぬはどうしたものだろう。
どうも気が知れぬ、文三には平気で澄ましているお勢の心意気が呑込(のみこ)めぬ。
若(も)し相愛(あいあい)していなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉遣いを改め起居動作(たちいふるまい)を変え、蓮葉(はすは)を罷(や)めて優に艶(やさ)しく女性(にょしょう)らしく成る筈(はず)もなし、又今年の夏一夕(いっせき)の情話に、我から隔(へだて)の関を取除(とりの)け、乙な眼遣(めづかい)をし麁匆(ぞんざい)な言葉を遣って、折節に物思いをする理由(いわれ)もない。
若し相愛(あいあい)していなければ、婚姻(こんいん)の相談が有った時、お勢が戯談(じょうだん)に托辞(かこつ)けてそれとなく文三の肚(はら)を探る筈もなし、また叔母と悶着(もんちゃく)をした時、他人同前(どうぜん)の文三を庇護(かば)って真実の母親と抗論する理由(いわれ)もない。
「イヤ妄想(ぼうそう)じゃ無い、おれを思っているに違いない……ガ……そのまた思ッているお勢が、そのまた死なば同穴と心に誓った形の影が、そのまた共に感じ共に思慮し共に呼吸生息する身の片割が、従兄弟(いとこ)なり親友なり未来の……夫ともなる文三の鬱々(うつうつ)として楽まぬのを余所(よそ)に見て、行(ゆ)かぬと云ッても勧めもせず、平気で澄まして不知顔(しらぬかお)でいる而已(のみ)か、文三と意気(そり)が合わねばこそ自家(じぶん)も常居(つね)から嫌(きら)いだと云ッている昇如き者に伴われて、物観遊山(ものみゆさん)に出懸けて行く……
「解らないナ、どうしても解らん」
解らぬままに文三が、想像弁別の両刀を執ッて、種々(さまざま)にしてこの気懸りなお勢の冷淡を解剖して見るに、何か物が有ってその中(うち)に籠(こも)っているように思われる、イヤ籠っているに相違ない。が、何だか地体は更に解らぬ。依てさらに又勇気を振起して唯この一点に注意を集め、傍目(わきめ)も触らさず一心不乱に茲処(ここ)を先途(せんど)と解剖して見るが、歌人の所謂(いわゆる)箒木(ははきぎ)で有りとは見えて、どうも解らぬ。文三は徐々(そろそろ)ジレ出した。スルト悪戯(いたずら)な妄想奴(ぼうそうめ)が野次馬に飛出して来て、アアでは無いかこうでは無いかと、真赤な贋物(にせもの)、宛事(あてこと)も無い邪推を掴(つか)ませる。贋物だ邪推だと必ずしも見透かしているでもなく、又必ずしも居ないでもなく、ウカウカと文三が掴(つか)ませられるままに掴んで、あえだり揉(もん)だり円めたり、また引延ばしたりして骨を折て事実(もの)にしてしまい、今目前にその事が出来(しゅったい)したように足掻(あが)きつ(もが)きつ四苦八苦の苦楚(くるしみ)を甞(な)め、然(しか)る後フト正眼(せいがん)を得てさて観ずれば、何の事だ、皆夢だ邪推だ取越苦労だ。腹立紛れに贋物を取ッて骨灰微塵(こっぱいみじん)と打砕き、ホッと一息吐(つ)き敢えずまた穿鑿(せんさく)に取懸り、また贋物を掴ませられてまた事実(もの)にしてまた打砕き、打砕いてはまた掴み、掴んではまた打砕くと、何時(いつ)まで経(た)っても果(はて)しも附かず、始終同じ所に而已(のみ)止ッていて、前へも進まず後へも退(しりぞ)かぬ。そして退いて能(よ)く視(み)れば、尚お何物だか冷淡の中(うち)に在ッて朦朧(もうろう)として見透かされる。
文三ホッと精を尽かした。今はもう進んで穿鑿する気力も竭(つ)き勇気も沮(はば)んだ。乃(すなわ)ち眼を閉じ頭顱(かしら)を抱えて其処(そこ)へ横に倒れたまま、五官を馬鹿にし七情の守(まもり)を解いて、是非も曲直も栄辱も窮達も叔母もお勢も我の吾(われ)たるをも何もかも忘れてしまって、一瞬時なりともこの苦悩この煩悶を解脱(のが)れようと力(つと)め、良(やや)暫(しば)らくの間というものは身動もせず息気(いき)をも吐かず死人の如くに成っていたが、倏忽(たちまち)勃然(むっく)と跳起(はねお)きて、
「もしや本田に……」
ト言い懸けて敢て言い詰めず、宛然(さながら)何か捜索(さがし)でもするように愕然(がくぜん)として四辺(あたり)を環視(みまわ)した。
それにしてもこの疑念は何処(どこ)から生じたもので有ろう。天より降ッたか地より沸いたか、抑(そもそ)もまた文三の僻(ひが)みから出た蜃楼海市(しんろうかいし)か、忽然(こつぜん)として生じて思わずして来(きた)り、恍々惚々(こうこうこつこつ)としてその来所(らいしょ)を知るに由(よ)しなしといえど、何にもせよ、あれ程までに足掻(あが)きつ(もが)きつして穿鑿しても解らなかった所謂(いわゆる)冷淡中の一物(ぶつ)を、今訳もなく造作もなくツイチョット突留めたらしい心持がして、文三覚えず身の毛が弥立(よだ)ッた。
とは云うものの心持は未(いま)だ事実でない。事実から出た心持で無ければウカとは信を措(お)き難い。依て今までのお勢の挙動(そぶり)を憶出(おもいいだ)して熟思審察して見るに、さらにそんな気色(けしき)は見えない。成程お勢はまだ若い、血気も未(いま)だ定らない、志操も或(あるい)は根強く有るまい。が、栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)から馨(こう)ばしく、蛇(じゃ)は一寸にして人を呑む気が有る。文三の眼より見る時はお勢は所謂女豪(じょごう)の萌芽(めばえ)だ。見識も高尚(こうしょう)で気韻も高く、洒々落々(しゃしゃらくらく)として愛すべく尊(たっと)ぶべき少女であって見れば、仮令(よし)道徳を飾物にする偽君子(ぎくんし)、磊落(らいらく)を粧(よそお)う似而非(えせ)豪傑には、或は欺(あざむ)かれもしよう迷いもしようが、昇如きあんな卑屈な軽薄な犬畜生にも劣った奴に、怪我にも迷う筈はない。さればこそ常から文三には信切でも昇には冷淡で、文三をば推尊していても昇をば軽蔑(けいべつ)している。相愛は相敬の隣に棲(す)む、軽蔑しつつ迷うというは、我輩人間の能く了解し得る事でない。
「シテ見れば大丈夫かしら……ガ……」
トまた引懸りが有る、まだ決徹(さっぱり)しない。文三周章(あわ)ててブルブルと首を振ッて見たが、それでも未(ま)だ散りそうにもしない。この「ガ」奴(め)が、藕糸孔中(ぐうしこうちゅう)蚊睫(ぶんしょう)の間にも這入(はい)りそうなこの眇然(びょうぜん)たる一小「ガ」奴(め)が、眼の中(うち)の星よりも邪魔になり、地平線上に現われた砲車一片の雲よりも畏(おそ)ろしい。
然り畏ろしい。この「ガ」の先にはどんな不了簡(ふりょうけん)が竊(ひそ)まッているかも知れぬと思えば、文三畏ろしい。物にならぬ内に一刻も早く散らしてしまいたい。シカシ散らしてしまいたいと思うほど尚お散り難(かね)る。しかも時刻の移るに随(したが)ッて枝雲は出来る、砲車雲(もとぐも)は拡(ひろ)がる、今にも一大颶風(ぐふう)が吹起りそうに見える。気が気で無い……
国許(もと)より郵便が参ッた。散らし薬には崛竟(くっきょう)の物が参ッた。飢えた蒼鷹(くまだか)が小鳥を抓(つか)むのはこんな塩梅(あんばい)で有ろうかと思う程に文三が手紙を引掴(ひっつか)んで、封目(ふうじめ)を押切ッて、故意(わざ)と声高(こわだか)に読み出したが、中頃に至ッて……フト黙して考えて……また読出して……また黙して……また考えて……遂(つい)に天を仰いで轟然(ごうぜん)と一大笑を発した。何を云うかと思えば、
「お勢を疑うなんぞと云ッて我(おれ)も余程(よっぽど)どうかしている、アハハハハ。帰ッて来たら全然(すっかり)咄(はな)して笑ッてしまおう、お勢を疑うなんぞと云ッて、アハハハハ」
この最後の大笑で砲車雲(ほうしゃうん)は全く打払ッたが、その代り手紙は何を読んだのだか皆無(かいむ)判(わか)らない。
ハッと気を取直おして文三が真面目(まじめ)に成ッて落着いて、さて再び母の手紙を読んで見ると、免職を知らせた手紙のその返辞で、老耋(としよって)の悪い耳、愚痴を溢(こぼ)したり薄命を歎(なげ)いたりしそうなものの、文(ふみ)の面(おもて)を見ればそんなけびらいは露程もなく、何もかも因縁(いんねん)ずくと断念(あきら)めた思切りのよい文言(もんごん)。シカシさすがに心細いと見えて、返えす書(がき)に、跡で憶出して書加えたように薄墨で、
こう申せばそなたはお笑い被成候(なされそうろう)かは存じ不申(もうさず)候えども、手紙の着きし当日より一日も早く旧(もと)のようにお成り被成(なされ)候ように○○(どこそこ)のお祖師さまへ茶断(ちゃだち)して願掛け致しおり候まま、そなたもその積りにて油断なく御奉公口をお尋ね被成度(なされたく)念じ※(まいらせそろ)[#「参らせ候」のくずし字、103-14]。
文三は手紙を下に措(お)いて、黙然(もくぜん)として腕を拱(く)んだ。
叔母ですら愛想(あいそ)を尽かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがいないと云ッて愚痴をも溢さず茶断までして子を励ます、その親心を汲分(くみわ)けては難有泪(ありがたなみだ)に暮れそうなもの、トサ文三自分にも思ッたが、どうしたものか感涙も流れず、唯何(なに)となくお勢の帰りが待遠しい。
「畜生、慈母(おっか)さんがこれ程までに思ッて下さるのに、お勢なんぞの事を……不孝極まる」
ト熱気(やっき)として自ら叱責(しか)ッて、お勢の貌(かお)を視るまでは外出(そとで)などを做(し)たく無いが、故意(わざ)と意地悪く、
「これから往って頼んで来よう」
ト口に言って、「お勢の帰って来ない内に」ト内心で言足しをして、憤々(ぷんぷん)しながら晩餐(ばんさん)を喫して宿所を立出(たちい)で、疾足(あしばや)に番町(ばんちょう)へ参って知己を尋ねた。
知己と云うは石田某(なにがし)と云って某学校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋(あいだがら)、曾(かつ)て某省へ奉職したのも実はこの男の周旋で。
この男は曾て英国に留学した事が有るとかで英語は一通り出来る。当人の噺(はなし)に拠(よ)れば彼地(あちら)では経済学を修めて随分上出来の方で有ったと云う事で、帰朝後も経済学で立派に押廻わされるところでは有るが、少々仔細(しさい)有ッて当分の内(七八年来の当分の内で)、唯の英語の教師をしていると云う事で。
英国の学者社会に多人数(たにんず)知己が有る中に、かの有名の「ハルベルト?スペンセル」とも曾て半面の識が有るが、シカシもう七八年も以前の事ゆえ、今面会したら恐らくは互に面忘(おもわす)れをしているだろうと云う、これも当人の噺(はなし)で。
ともかくもさすがは留学しただけ有りて、英国の事情、即(すなわ)ち上下(じょうか)議院の宏壮(こうそう)、竜動府(ロンドンふ)市街の繁昌、車馬の華美、料理の献立、衣服杖履(じょうり)、日用諸雑品の名称等、凡(すべ)て閭巷猥瑣(りょこうわいさ)の事には能(よ)く通暁(つうぎょう)していて、骨牌(かるた)を弄(もてあそ)ぶ事も出来、紅茶の好悪(よしあし)を飲別ける事も出来、指頭で紙巻烟草(シガレット)を製する事も出来、片手で鼻汁(はな)を拭(ふ)く事も出来るが、その代り日本の事情は皆無解らない。
日本の事情は皆無解らないが当人は一向苦にしない。啻(ただ)苦にしないのみならず、凡そ一切の事一切の物を「日本の」トさえ冠詞が附けば則(すなわ)ち鼻息でフムと吹飛ばしてしまって、そして平気で済ましている。
まだ中年の癖に、この男はあだかも老人の如くに過去の追想而已(のみ)で生活している。人に逢(あ)えば必ず先(ま)ず留学していた頃の手柄噺(てがらばなし)を咄(はな)し出す。尤(もっと)もこれを封じてはさらに談話(はなし)の出来ない男で。
知己の者はこの男の事を種々(さまざま)に評判する。或(あるい)は「懶惰(らんだ)だ」ト云い、或は「鉄面皮(てつめんぴ)だ」ト云い、或は「自惚(うぬぼれ)だ」ト云い、或は「法螺吹(ほらふ)きだ」と云う。この最後の説だけには新知故交統括(ひっくる)めて総起立、薬種屋の丁稚(でっち)が熱に浮かされたように「そうだ」トいう。
「シカシ、毒が無くッて宜(いい)」と誰だか評した者が有ッたが、これは極めて確評で、恐らくは毒が無いから懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くので、ト云ッたら或は「イヤ懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くから、それで毒が無いように見えるのだ」ト云う説も出ようが、ともかくも文三はそう信じているので。
尋ねて見ると幸い在宿、乃(すなわ)ち面会して委細を咄して依頼すると、「よろしい承知した」ト手軽な挨拶(あいさつ)。文三は肚(はら)の裏(うち)で、「毒がないから安請合をするが、その代り身を入れて周旋はしてくれまい」と思ッて私(ひそか)に嘆息した。
「これが英国だと君一人位どうでもなるんだが、日本だからいかん。我輩こう見えても英国にいた頃は随分知己が有ったものだ。まず『タイムス』新聞の社員で某(それがし)サ、それから……」
ト記憶に存した知己の名を一々言い立てての噺、屡々(しばしば)聞いて耳にタコが入(い)ッている程では有るが、イエそのお噺ならもう承りましたとも言兼ねて、文三も始めて聞くような面相(かおつき)をして耳を借している。そのジレッタサもどかしさ、モジモジしながらトウトウ二時間ばかりというもの無間断(のべつ)に受けさせられた。その受賃という訳でも有るまいが帰り際(ぎわ)になって、
「新聞の翻訳物が有るから周旋しよう。明後日(あさって)午後に来給(きたま)え、取寄せて置こう」
トいうから文三は喜びを述べた。
「フン新聞か……日本の新聞は英国の新聞から見りゃ全(まる)で小児(こども)の新聞だ、見られたものじゃない……」
文三は狼狽(あわ)てて告別(わかれ)の挨拶を做直(しな)おして々(そこそこ)に戸外(おもて)へ立出で、ホッと一息溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
早くお勢に逢いたい、早くつまらぬ心配をした事を咄してしまいたい、早く心の清い所を見せてやりたい、ト一心に思詰めながら文三がいそいそ帰宅して見るとお勢はいない。お鍋に聞けば、一旦(いったん)帰ってまた入湯に往ったという。文三些(すこ)し拍子抜(ひょうしぬ)けがした。
居間へ戻ッて燈火を点じ、臥(ね)て見たり起きて見たり、立て見たり坐ッて見たりして、今か今かと文三が一刻千秋の思いをして頸(くび)を延ばして待構えていると、頓(やが)て格子戸(こうしど)の開く音がして、縁側に優しい声がして、梯子段(はしごだん)を上る跫音(あしおと)がして、お勢が目前に現われた。と見れば常さえ艶(つや)やかな緑の黒髪は、水気(すいき)を含んで天鵞絨(びろうど)をも欺むくばかり、玉と透徹る肌(はだえ)は塩引の色を帯びて、眼元にはホンノリと紅(こう)を潮(ちょう)した塩梅(あんばい)、何処やらが悪戯(いたずら)らしく見えるが、ニッコリとした口元の塩らしいところを見ては是非を論ずる遑(いとま)がない。文三は何もかも忘れてしまッて、だらしも無くニタニタと笑いながら、
「お皈(かえん)なさい。どうでした団子坂は」
「非常に雑沓(ざっとう)しましたよ、お天気が宜(いい)のに日曜だッたもんだから」
ト言いながら膝(ひざ)から先へベッタリ坐ッて、お勢は両手で嬌面(かお)を掩(おお)い、
「アアせつない、厭(いや)だと云うのに本田さんが無理にお酒を飲まして」
「母親(おっか)さんは」
ト文三が尋ねた、お勢が何を言ッたのだかトント解らないようで。
「お湯から買物に回ッて……そしてネ自家(じぶん)もモウ好加減に酔てる癖に、私が飲めないと云うとネ、助(す)けて遣(や)るッてガブガブそれこそ牛飲(ぎゅういん)したもんだから、究竟(しまい)にはグデングデンに酔てしまッて」
ト聞いて文三は満面の笑を半(なかば)引込ませた。
「それからネ、私共を家へ送込んでから、仕様が無いんですものヲ、巫山戯(ふざけ)て巫山戯て。それに慈母(おっか)さんも悪いのよ、今夜だけは大眼に看て置くなんぞッて云うもんだから好気(いいき)になって尚お巫山戯て……オホホホ」
ト思出し笑をして、
「真個(ほんと)に失敬な人だよ」
文三は全く笑を引込ませてしまッて腹立しそうに、
「そりゃさぞ面白かッたでしょう」
ト云ッて顔を皺(しか)めたが、お勢はさらに気が附かぬ様子。暫(しば)らく黙然として何か考えていたが、頓(やが)てまた思出し笑をして、
「真個に失敬な人だよ」
つまらぬ心配をした事を全然(すっぱり)咄(はな)して、快よく一笑に付して、心の清いところを見せて、お勢に……お勢に……感信させて、そして自家(じぶん)も安心しようという文三の胸算用は、ここに至ッてガラリ外れた。昇が酒を強(し)いた、飲めぬと云ッたら助(す)けた、何でも無い事。送り込んでから巫山戯(ふざけ)た……道学先生に聞かせたら巫山戯させて置くのが悪いと云うかも知れぬが、シカシこれとても酒の上の事、一時の戯(たわむれ)ならそう立腹する訳にもいかなかッたろう。要するにお勢の噺(はなし)に於(おい)て深く咎(とが)むべき節も無い。がシカシ文三には気に喰わぬ、お勢の言様(いいよう)が気に喰わぬ。「昇如き犬畜生にも劣ッた奴の事を、そう嬉(うれ)しそうに『本田さん本田さん』ト噂(うわさ)をしなくても宜さそうなものだ」トおもえばまた不平に成ッて、また面白く無くなッて、またお勢の心意気が呑込(のみこ)めなく成ッた。文三は差俯向(さしうつむ)いたままで黙然(もくねん)として考えている。
「何をそんなに塞(ふさ)いでお出でなさるの」
「何も塞いじゃいません」
「そう、私はまたお留(とめ)さん(大方老母が文三の嫁に欲しいと云ッた娘の名で)とかの事を懐出(おもいだ)して、それで塞いでお出でなさるのかと思ッたら、オホホホ」
文三は愕然としてお勢の貌を暫らく凝視(みつ)めて、ホッと溜息を吐いた。
「オホホホ溜息をして。やっぱり当ッたんでしょう、ネそうでしょう、オホホホ。当ッたもんだから黙ッてしまッて」
「そんな気楽じゃ有りません。今日母の所から郵便が来たから読(よん)で見れば、私のこういう身に成ッたを心配して、この頃じゃ茶断して願掛けしているそうだシ……」
「茶断して、慈母さんが、オホホホ。慈母さんもまだ旧弊だ事ネー」
文三はジロリとお勢を尻眼(しりめ)に懸けて、恨めしそうに、
「貴嬢(あなた)にゃ可笑(おか)しいか知らんが私(わたくし)にゃさっぱり可笑しく無い。薄命とは云いながら私の身が定(きま)らんばかりで、老耋(としよ)ッた母にまで心配掛けるかと思えば、随分……耐(たま)らない。それに慈母さんも……」
「また何とか云いましたか」
「イヤ何とも仰(おっ)しゃりはしないが、アレ以来始終気不味(きまず)い顔ばかりしていて打解けては下さらんシ……それに……それに……」
「貴嬢(あなた)も」ト口頭(くちさき)まで出たが、どうも鉄面皮(あつかま)しく嫉妬(じんすけ)も言いかねて思い返してしまい、
「ともかくも一日も早く身を定(き)めなければ成らぬと思ッて、今も石田の所へ往ッて頼んでは来ましたが、シカシこれとても宛にはならんシ、実に……弱りました。唯私一人苦しむのなら何でもないが、私の身が定(きま)らぬ為めに『方々(ほうぼう)』が我他彼此(がたぴし)するので誠に困る」
ト萎(しお)れ返ッた。
「そうですネー」
ト今まで冴(さ)えに冴えていたお勢もトウトウ引込まれて、共に気をめいらしてしまい、暫らくの間黙然としてつまらぬものでいたが、やがて小さな欠伸(あくび)をして、
「アア寐(ね)むく成ッた、ドレもう往ッて寐ましょう。お休みなさいまし」
ト会釈(えしゃく)をして起上(たちあが)ッてフト立止まり、
「アそうだッけ……文さん、貴君はアノー課長さんの令妹(おいもとご)を御存知」
「知りません」
「そう、今日ネ、団子坂でお眼に懸ッたの。年紀(とし)は十六七でネ、随分別品(べっぴん)は……別品だッたけれども、束髪の癖にヘゲル程白粉(おしろい)を施(つ)けて……薄化粧なら宜けれども、あんなに施けちゃア厭味ッたらしくッてネー……オヤ好気なもんだ、また噺込(はなしこ)んでいる積りだと見えるよ。お休みなさいまし」
ト再び会釈してお勢は二階を降りてしまッた。
縁側で唯今帰ッたばかりの母親に出逢ッた。
「お勢」
「エ」
「エじゃないよ、またお前二階へ上ッてたネ」
また始まッたと云ッたような面相(かおつき)をして、お勢は返答をもせずそのまま子舎(へや)へ這入(はい)ッてしまッた。
さて子舎へ這入ッてからお勢は手疾(てばや)く寐衣(ねまき)に着替えて床へ這入り、暫らくの間臥(ね)ながら今日の新聞を覧(み)ていたが……フト新聞を取落した。寐入ッたのかと思えばそうでもなく、眼はパッチリ視開(みひら)いている、その癖静まり返ッていて身動きをもしない。やがて、
「何故(なぜ)アア不活溌(ふかっぱつ)だろう」
ト口へ出して考えて、フト両足(りょうそく)を蹈延(ふみの)ばして莞然(にっこり)笑い、狼狽(あわ)てて起揚(おきあが)ッて枕頭(まくらもと)の洋燈(ランプ)を吹消してしまい、枕に就いて二三度臥反(ねかえ)りを打ッたかと思うと間も無くスヤスヤと寐入ッた。