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     第九回 すわらぬ肚(はら)

作者:日-二叶亭四迷 当前章节:10601 字 更新时间:2026-6-16 03:24

 今日は十一月四日、打続いての快晴で空は余残(なごり)なく晴渡ッてはいるが、憂愁(うれい)ある身の心は曇る。文三は朝から一室(ひとま)に垂籠(たれこ)めて、独り屈托(くったく)の頭(こうべ)を疾(や)ましていた。実は昨日(きのう)朝飯(あさはん)の時、文三が叔母に対(むかっ)て、一昨日(おととい)教師を番町に訪うて身の振方を依頼して来た趣を縷々(るる)咄(はな)し出したが、叔母は木然(ぼくぜん)として情寡(すくな)き者の如く、「ヘー」ト余所事(よそごと)に聞流していてさらに取合わなかッた、それが未(いま)だに気になって気になってならないので。

 一時頃に勇(いさみ)が帰宅したとて遊びに参ッた。浮世の塩を踏まぬ身の気散じさ、腕押、坐相撲(すわりずもう)の噺(はなし)、体操、音楽の噂(うわさ)、取締との議論、賄方(まかないかた)征討の義挙から、試験の模様、落第の分疏(いいわけ)に至るまで、凡(およ)そ偶然に懐(むね)に浮んだ事は、月足らずの水子(みずこ)思想、まだ完成(まとまっ)ていなかろうがどうだろうがそんな事に頓着(とんじゃく)はない、訥弁(とつべん)ながらやたら無性に陳(なら)べ立てて返答などは更に聞ていぬ。文三も最初こそ相手にも成ていたれ、遂(つい)にはホッと精を尽かしてしまい、勇には随意に空気を鼓動さして置いて、自分は自分で余所事(よそごと)を、と云たところがお勢の上や身の成行で、熟思黙想しながら、折々間外(まはず)れな溜息(ためいき)噛交(かみま)ぜの返答をしていると、フトお勢が階子段(はしごだん)を上(のぼ)ッて来て、中途から貌(かお)而已(のみ)を差出して、

「勇」

「だから僕(ぼか)ア議論して遣(や)ッたんだ。ダッテ君、失敬じゃないか。『ボート』の順番を『クラッス』(級)の順番で……」

「勇と云えば。お前の耳は木くらげかい」

「だから何だと云ッてるじゃ無いか」

「綻(ほころび)を縫てやるからシャツをお脱ぎとよ」

 勇はシャツを脱ぎながら、

「『クラッス』の順番で定(き)めると云うんだもの、『ボート』の順番を『クラッス』の順番で定めちゃア、僕ア何だと思うな、僕ア失敬だと思うな。だって君、『ボート』は……」

「さッさとお脱ぎで無いかネー、人が待ているじゃ無いか」

「そんなに急がなくッたッて宜(いい)やアネ、失敬な」

「誰方(どっち)が失敬だ……アラあんな事言ッたら尚(な)お故意(わざ)と愚頭々々(ぐずぐず)しているよ。チョッ、ジレッタイネー、早々(さっさ)としないと姉さん知らないから宜(い)い」

「そんな事云うなら Bridle(ブライドル) path(パッス) と云う字を知てるか、I(アイ) was(ウォズ) at(エット) our(アワー) uncle's(アンクルス) ト云う事知てるか、I(アイ) will(ウィル) keep(キープ) your(ユアー)……」

「チョイとお黙り……」

 ト口早に制して、お勢が耳を聳(そばだ)てて何か聞済まして、忽(たちま)ち満面に笑(わらい)を含んでさも嬉(うれ)しそうに、

「必(きっ)と本田さんだよ」

 ト言いながら狼狽(あわ)てて梯子段(はしごだん)を駈下(かけお)りてしまッた。

「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば……オイ……ヤ失敬な、モウ往(いっ)ちまッた。渠奴(あいつ)近頃生意気になっていかん。先刻(さっき)も僕ア喧嘩(けんか)して遣たんだ。婦人(おんな)の癖に園田勢子と云う名刺(なふだ)を拵(こし)らえるッてッたから、お勢ッ子で沢山だッてッたら、非常に憤(おこ)ッたッけ」

「アハハハハ」

 ト今まで黙想していた文三が突然無茶苦茶に高笑を做出(しだ)したが、勿論(もちろん)秋毫(すこし)も可笑(おか)しそうでは無かッた。シカシ少年の議論家は称讃(しょうさん)されたのかと思ッたと見えて、

「お勢ッ子で沢山だ、婦人の癖にいかん、生意気で」

 ト云いながら得々として二階を降りて往た。跡で文三は暫(しば)らくの間また腕を拱(く)んで黙想していたが、フト何か憶出(おもいだ)したような面相(かおつき)をして、起上(たちあが)ッて羽織だけを着替えて、帽子を片手に二階を降りた。

 奥の間の障子を開けて見ると、果して昇が遊(あそび)に来ていた。しかも傲然(ごうぜん)と火鉢(ひばち)の側(かたわら)に大胡坐(おおあぐら)をかいていた。その傍(そば)にお勢がベッタリ坐ッて、何かツベコベと端手(はした)なく囀(さえず)ッていた。少年の議論家は素肌(すはだ)の上に上衣(うわぎ)を羽織ッて、仔細(しさい)らしく首を傾(かし)げて、ふかし甘薯(いも)の皮を剥(む)いてい、お政は囂々(ぎょうぎょう)しく針箱を前に控えて、覚束(おぼつか)ない手振りでシャツの綻(ほころび)を縫合わせていた。

 文三の顔を視(み)ると、昇が顔で電光(いなびかり)を光らせた、蓋(けだ)し挨拶(あいさつ)の積(つもり)で。お勢もまた後方(うしろ)を振反ッて顧(み)は顧たが、「誰かと思ッたら」ト云わぬばかりの索然とした情味の無い面相(かおつき)をして、急にまた彼方(あちら)を向いてしまッて、

「真個(ほんとう)」

 ト云いながら、首を傾げてチョイと昇の顔を凝視(みつ)めた光景(ようす)。

「真個さ」

「虚言(うそ)だと聴きませんよ」

 アノ筋の解らない他人の談話(はなし)と云う者は、聞いて余り快くは無いもので。

「チョイと番町まで」ト文三が叔母に会釈(えしゃく)をして起上(たちあが)ろうとすると、昇が、

「オイ内海、些(すこ)し噺が有る」

「些(ち)と急ぐから……」

「此方(こっち)も急ぐんだ」

 文三はグット視下ろす、昇は視上げる、眼と眼を疾視合(にらみあ)わした、何だか異(おつ)な塩梅(あんばい)で。それでも文三は渋々ながら坐舗(ざしき)へ這入(はい)ッて坐に着いた。

「他の事でも無いんだが」

 ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。スルトお政はフト針仕事の手を止(とど)めて不思議そうに昇の貌(かお)を凝視(みつ)めた。

「今日役所での評判に、この間免職に成た者の中(うち)で二三人復職する者が出来るだろうと云う事だ。そう云やア課長の談話に些し思当る事も有るから、或(あるい)は実説だろうかと思うんだ。ところで我輩考えて見るに、君が免職になったので叔母さんは勿論お勢さんも……」

 ト云懸けてお勢を尻眼(しりめ)に懸けてニヤリと笑ッた。お勢はお勢で可笑(おか)しく下唇(したくちびる)を突出して、ムッと口を結んで、額(ひたえ)で昇を疾視付(にらみつ)けた。イヤ疾視付ける真似(まね)をした。

「お勢さんも非常に心配してお出(い)でなさるシ、かつ君だッてもナニモ遊(あす)んでいて食えると云う身分でも有るまいシするから、若(も)し復職が出来ればこの上も無いと云ッたようなもんだろう。ソコデ若し果してそうならば、宜(よろ)しく人の定(きま)らぬ内に課長に呑込(のみこ)ませて置く可(べ)しだ。がシカシ君の事(こっ)たから今更直付(じかづ)けに往(い)き難(にく)いとでも思うなら、我輩一臂(ぴ)の力を仮しても宜しい、橋渡(はしわたし)をしても宜しいが、どうだお思食(ぼしめし)は」

「それは御信切……難有(ありがた)いが……」

 ト言懸けて文三は黙してしまった。迷惑は匿(かく)しても匿し切れない、自(おのずか)ら顔色(がんしょく)に現われている。モジ付く文三の光景(ようす)を視て昇は早くもそれと悟ッたか、

「厭(いや)かネ、ナニ厭なものを無理に頼んで周旋しようと云うんじゃ無いから、そりゃどうとも君の随意サ、ダガシカシ……痩(やせ)我慢なら大抵にして置く方が宜かろうぜ」

 文三は血相を変えた……

「そんな事仰(おっ)しゃるが無駄(むだ)だよ」

 トお政が横合から嘴(くちばし)を容(い)れた。

「内の文さんはグッと気位が立上ってお出でだから、そんな卑劣(しれつ)な事ア出来ないッサ」

「ハハアそうかネ、それは至極お立派な事(こっ)た。ヤこれは飛(とん)だ失敬を申し上げました、アハハハ」

 ト聞くと等しく文三は真青(まっさお)に成ッて、慄然(ぶるぶる)と震え出して、拳(こぶし)を握ッて歯を喰切(くいしば)ッて、昇の半面をグッと疾視付(にらみつ)けて、今にもむしゃぶり付きそうな顔色をした……が、ハッと心を取直して、

「エヘヘヘヘ」

 何となく席がしらけた。誰も口をきかない。勇がふかし甘薯(いも)を頬張(ほおば)ッて、右の頬を脹(ふく)らませながら、モッケな顔をして文三を凝視(みつ)めた。お勢もまた不思議そうに文三を凝視めた。

「お勢が顔を視ている……このままで阿容々々(おめおめ)と退(しりぞ)くは残念、何か云ッて遣りたい、何かコウ品の好(い)い悪口雑言、一言(ごん)の下(もと)に昇を気死(きし)させる程の事を云ッて、アノ鼻頭(はなづら)をヒッ擦(こす)ッて、アノ者面(しゃッつら)を※(あか)[#「赤+報のつくり」、117-7]らめて……」トあせるばかりで凄(すご)み文句は以上見附からず、そしてお勢を視れば、尚(な)お文三の顔を凝視めている……文三は周章狼狽(どぎまぎ)とした……

「モウそ……それッきりかネ」

 ト覚えず取外して云って、我ながら我音声の変ッているのに吃驚(びっくり)した。

「何が」

 またやられた。蒼(あお)ざめた顔をサッと※[#「赤+報のつくり」、117-12]らめて文三が、

「用事は……」

「ナニ用事……ウー用事か、用事と云うから判(わか)らない……さよう、これッきりだ」

 モウ席にも堪えかねる。黙礼するや否(いな)や文三が蹶然(けつぜん)起上(たちあが)ッて坐舗を出て二三歩すると、後(うしろ)の方でドッと口を揃(そろ)えて高笑いをする声がした。文三また慄然(ぶるぶる)と震えてまた蒼ざめて、口惜(くちお)しそうに奥の間の方を睨詰(にらみつ)めたまま、暫らくの間釘付(くぎづ)けに逢(あ)ッたように立在(たたずん)でいたが、やがてまた気を取直おして悄々(すごすご)と出て参ッた。

 が文三無念で残念で口惜しくて、堪え切れぬ憤怒の気がカッとばかりに激昂(げっこう)したのをば無理無体に圧着(おしつ)けた為めに、発しこじれて内攻して胸中に磅(ほうはく)鬱積する、胸板が張裂ける、腸(はらわた)が断絶(ちぎ)れる。

 無念々々、文三は耻辱(ちじょく)を取ッた。ツイ近属(ちかごろ)と云ッて二三日前までは、官等に些(ち)とばかりに高下は有るとも同じ一課の局員で、優(まさ)り劣りが無ければ押しも押されもしなかッた昇如き犬自物(いぬじもの)の為めに耻辱を取ッた、然(しか)り耻辱を取ッた。シカシ何の遺恨が有ッて、如何(いか)なる原因が有ッて。

 想(おも)うに文三、昇にこそ怨(うらみ)はあれ、昇に怨みられる覚えは更にない。然るに昇は何の道理も無く何の理由も無く、あたかも人を辱(はずかし)める特権でも有(もっ)ているように、文三を土芥(どかい)の如くに蔑視(みくだ)して、犬猫の如くに待遇(とりあつか)ッて、剰(あまつさ)え叔母やお勢の居る前で嘲笑(ちょうしょう)した、侮辱した。

 復職する者が有ると云う役所の評判も、課長の言葉に思当る事が有ると云うも、昇の云う事なら宛(あて)にはならぬ。仮令(よし)それ等は実説にもしろ、人の痛いのなら百年も我慢すると云う昇が、自家(じぶん)の利益を賭物(かけもの)にして他人の為めに周旋しようと云う、まずそれからが呑込めぬ。

 仮りに一歩を譲ッて、全く朋友(ほうゆう)の信実心からあの様な事を言出したとしたところで、それならそれで言様(いいよう)が有る。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦(れいていこく)、みすぼらしい身に成ッたと云ッて文三を見括(みくび)ッて、失敬にも無礼にも、復職が出来たらこの上が無かろうト云ッた。

 それも宜しいが、課長は昇の為めに課長なら、文三の為めにもまた課長だ。それを昇は、あだかも自家(うぬ)一個(ひとり)の課長のように、課長々々とひけらかして、頼みもせぬに「一臂(び)の力を仮してやろう、橋渡しをしてやろう」と云ッた。

 疑いも無く昇は、課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕(ぬぼく)に措く如き信用を得ていると云ッて、それを鼻に掛けているに相違ない。それも己(うぬ)一個(ひとり)で鼻に掛けて、己(うぬ)一個(ひとり)でひけらかして、己(うぬ)と己(うぬ)が愚(ぐ)を披露(ひろう)している分の事なら空家で棒を振ッたばかり、当り触りが無ければ文三も黙ッてもいよう、立腹もすまいが、その三文信用を挟(さしはさ)んで人に臨んで、人を軽蔑して、人を嘲弄(ちょうろう)して、人を侮辱するに至ッては文三腹に据(す)えかねる。

 面と向ッて図(ず)大柄(おおへい)に、「痩我慢なら大抵にしろ」と昇は云ッた。

 痩我慢々々々、誰が痩我慢していると云ッた、また何を痩我慢していると云ッた。

 俗務をおッつくねて、課長の顔色を承(う)けて、強(しい)て笑ッたり諛言(ゆげん)を呈したり、四(よつ)ン這(ばい)に這廻わッたり、乞食(こつじき)にも劣る真似をして漸(ようや)くの事で三十五円の慈恵金(じえきん)に有附いた……それが何処(どこ)が栄誉になる。頼まれても文三にはそんな卑屈な真似は出来ぬ。それを昇は、お政如き愚痴無知の婦人に持長(もちちょう)じられると云ッて、我程(おれほど)働き者はないと自惚(うぬぼれ)てしまい、しかも廉潔(れんけつ)な心から文三が手を下げて頼まぬと云えば、嫉(ねた)み妬(そね)みから負惜しみをすると臆測(おくそく)を逞(たくましゅ)うして、人も有ろうにお勢の前で、

「痩我慢なら大抵にしろ」

 口惜しい、腹が立つ。余(よ)の事はともかくも、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。

「しかも辱められるままに辱められていて、手出(てだし)もしなかッた」

 ト何処でか異(おつ)な声が聞えた。

「手出がならなかッたのだ、手出がなっても為得(しえ)なかッたのじゃない」

 ト文三憤然(やっき)として分疏(いいわけ)を為出(しだ)した。

「我(おれ)だッて男児だ、虫も有る胆気も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉(かとんぼ)とも思ッていぬが、シカシあの時憖(なま)じ此方(こっち)から手出をしては益々向うの思う坪に陥(はま)ッて玩弄(がんろう)されるばかりだシ、かつ婦人の前でも有ッたから、為難(しにく)い我慢もして遣ッたんだ」

 トは知らずしてお勢が、怜悧(れいり)に見えても未惚女(おぼこ)の事なら、蟻(あり)とも螻(けら)とも糞中(ふんちゅう)の蛆(うじ)とも云いようのない人非人、利の為(た)めにならば人糞をさえ甞(な)めかねぬ廉耻(れんち)知らず、昇如き者の為めに文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出をもせず阿容々々(おめおめ)として退(しりぞ)いたのを視て、或(あるい)は不甲斐(ふがい)ない意久地が無いと思いはしなかッたか……仮令(よし)お勢は何とも思わぬにしろ、文三はお勢の手前面目ない、耻(はず)かしい……

「ト云うも昇、貴様から起ッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ」

 ト憤然(やっき)として文三が拳を握ッて歯を喰切(くいしば)ッて、ハッタとばかりに疾視付(にらみつ)けた。疾視付けられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立止ッて不思議そうに文三の背長(せたけ)を眼分量に見積ッていたが、それでも何とも言わずにまた彼方(あちら)の方へと巡行して往ッた。

 愕然(がくぜん)として文三が、夢の覚めたような面相(かおつき)をしてキョロキョロと四辺(あたり)を環視(みま)わして見れば、何時(いつ)の間にか靖国(やすくに)神社の華表際(とりいぎわ)に鵠立(たたずん)でいる。考えて見ると、成程俎橋(まないたばし)を渡ッて九段坂を上ッた覚えが微(かすか)に残ッている。

 乃(すなわ)ち社内へ進入(すすみい)ッて、左手の方の杪枯(うらが)れた桜の樹の植込みの間へ這入ッて、両手を背後に合わせながら、顔を皺(しか)めて其処此処(そこここ)と徘徊(うろつ)き出した。蓋(けだ)し、尋ねようと云う石田の宿所は後門(うらもん)を抜ければツイ其処では有るが、何分にも胸に燃す修羅苦羅(しゅらくら)の火の手が盛(さかん)なので、暫らく散歩して余熱(ほとぼり)を冷ます積りで。

「シカシ考えて見ればお勢も恨みだ」

 ト文三が徘徊(うろつ)きながら愚痴を溢(こぼ)し出した。

「現在自分の……我(おれ)が、本田のような畜生に辱められるのを傍観していながら、悔しそうな顔もしなかッた……平気で人の顔を視ていた……」

「しかも立際に一所に成ッて高笑いをした」ト無慈悲な記臆が用捨なく言足(いいたし)をした。

「そうだ高笑いをした……シテ見れば弥々(いよいよ)心変りがしているかしらん……」

 ト思いながら文三が力無さそうに、とある桜の樹の下(もと)に据え付けてあッたペンキ塗りの腰掛へ腰を掛ける、と云うよりは寧(むし)ろ尻餅(しりもち)を搗(つ)いた。暫らくの間は腕を拱(く)んで、顋(あご)を襟(えり)に埋(うず)めて、身動きをもせずに静(しずま)り返ッて黙想していたが、忽(たちま)ちフッと首を振揚げて、

「ヒョットしたらお勢に愛想(あいそ)を尽かさして……そして自家(じぶん)の方に靡(な)びかそうと思ッて……それで故意(わざ)と我(おれ)を……お勢のいる処で我を……そういえばアノ言様(いいざま)、アノ……お勢を視た眼付き……コ、コ、コリャこのままには措けん……」

 ト云ッて文三は血相を変えて突起上(つったちあが)ッた。

 がどうしたもので有ろう。

 何かコウ非常な手段を用いて、非常な豪胆を示して、「文三は男児だ、虫も胆気もこの通り有る、今まで何と言われても笑ッて済ましていたのはな、全く恢量大度(かいりょうたいど)だからだぞ、無気力だからでは無いぞ」ト口で言わんでも行為(ぎょうい)で見付(みせつ)けて、昇の胆(たん)を褫(うば)ッて、叔母の睡(ねぶり)を覚まして、若し愛想を尽かしているならばお勢の信用をも買戻して、そして……そして……自分も実に胆気が有ると……確信して見たいが、どうしたもので有ろう。

 思うさま言ッて言ッて言いまくッて、そして断然絶交する……イヤイヤ昇も仲々口強馬(くちごわうま)、舌戦は文三の得策でない。と云ッてまさか腕力に訴える事も出来ず、

「ハテどうしてくれよう」

 ト殆(ほと)んど口へ出して云いながら、文三がまた旧(もと)の腰掛に尻餅を搗いて熟々(つくづく)と考込んだまま、一時間ばかりと云うものは静まり返ッていて身動きをもしなかッた。

「オイ内海君」

 ト云う声が頭上(とうじょう)に響いて、誰だか肩を叩(たた)く者が有る。吃驚(びっくり)して文三がフッと貌(かお)を振揚げて見ると、手摺(てず)れて垢光(あかびか)りに光ッた洋服、しかも二三カ所手痍(てきず)を負うた奴を着た壮年の男が、余程酩酊(めいてい)していると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿(じゅくし)臭い香(におい)をさせながら、何時の間にか目前に突立ッていた。これは旧(も)と同僚で有ッた山口某(なにがし)という男で、第一回にチョイト噂(うわさ)をして置いたアノ山口と同人で、やはり踏外し連の一人。

「ヤ誰かと思ッたら一別以来だネ」

「ハハハ一別以来か」

「大分御機嫌(ごきげん)のようだネ」

「然り御機嫌だ。シカシ酒でも飲まんじゃー堪(たま)らん。アレ以来今日で五日になるが、毎日酒浸しだ」

 ト云ッてその証拠立の為めにか、胸で妙な間投詞を発して聞かせた。

「何故(なぜ)またそう Despair(デスペヤ) を起したもんだネ」

「Despair じゃー無いが、シカシ君面白く無いじゃーないか。何等の不都合が有ッて我々共を追出したんだろう、また何等の取得が有ッてあんな庸劣(やくざ)な奴ばかりを撰(えら)んで残したのだろう、その理由が聞いて見たいネ」

 ト真黒に成ッてまくし立てた。その貌を見て、傍(そば)を通りすがッた黒衣の園丁らしい男が冷笑した。文三は些(すこ)し気まりが悪くなり出した。

「君もそうだが、僕だッても事務にかけちゃー……」

「些し小いさな声で咄(はな)し給(たま)え、人に聞える」

 ト気を附けられて俄(にわか)に声を低めて、

「事務に懸けちゃこう云やア可笑(おか)しいけれども、跡に残ッた奴等に敢(あえ)て多くは譲らん積りだ。そうじゃないか」

「そうとも」

「そうだろう」

 ト乗地(のりじ)に成ッて、

「然るに唯(ただ)一種事務外の事務を勉励しないと云ッて我々共を追出した、面白く無いじゃないか」

「面白く無いけれども、シカシ幾程(いくら)云ッても仕様が無いサ」

「仕様が無いけれども面白く無いじゃないか」

「トキニ、本田の云事だから宛にはならんが、復職する者が二三人出来るだろうと云う事だが、君はそんな評判を聞いたか」

「イヤ聞かない。ヘー復職する者が二三人」

「二三人」

 山口は俄に口を鉗(つぐ)んで何か黙考していたが、やがてスコシ絶望気味(やけぎみ)で、

「復職する者が有ッても僕じゃ無い、僕はいかん、課長に憎まれているからもう駄目だ」

 ト云ッてまた暫らく黙考して、

「本田は一等上ッたと云うじゃないか」

「そうだそうだ」

「どうしても事務外の事務の巧(たくみ)なものは違ッたものだネ、僕のような愚直なものにはとてもアノ真似は出来ない」

「誰にも出来ない」

「奴の事だからさぞ得意でいるだろうネ」

「得意も宜いけれども、人に対(むか)ッて失敬な事を云うから腹が立つ」

 ト云ッてしまッてからアア悪い事を云ッたと気が附いたが、モウ取返しは附かない。

「エ失敬な事を、どんな事をどんな事を」

「エ、ナニ些し……」

「どんな事を」

「ナニネ、本田が今日僕に或人の所へ往ッてお髯(ひげ)の塵(ちり)を払わないかと云ッたから、失敬な事を云うと思ッてピッタリ跳付(はねつ)けてやッたら、痩我慢と云わんばかりに云やアがッた」

「それで君、黙ッていたか」

 ト山口は憤然として眼睛(ひとみ)を据えて、文三の貌を凝視(みつ)めた。

「余程(よっぽど)やッつけて遣ろうかと思ッたけれども、シカシあんな奴の云う事を取上げるも大人気(おとなげ)ないト思ッて、赦(ゆる)して置てやッた」

「そ、そ、それだから不可(いかん)、そう君は内気だから不可」

 ト苦々しそうに冷笑(あざわら)ッたかと思うと、忽ちまた憤然として文三の貌を疾視(にら)んで、

「僕なら直ぐその場でブン打(なぐ)ッてしまう」

「打(な)ぐろうと思えば訳は無いけれども、シカシそんな疎暴(そぼう)な事も出来ない」

「疎暴だッて関(かま)わんサ、あんな奴(やつ)は時々打(な)ぐッてやらんと癖になっていかん。君だから何だけれども、僕なら直ぐブン打ッてしまう」

 文三は黙してしまッてもはや弁駁(べんばく)をしなかッたが、暫らくして、

「トキニ君は、何だと云ッて此方(こっち)の方へ来たのだ」

 山口は俄かに何か思い出したような面相(かおつき)をして、

「アそうだッけ……一番町に親類が有るから、この勢でこれから其処へ往ッて金を借りて来ようと云うのだ。それじゃこれで別れよう、些(ち)と遊びに遣ッて来給え。失敬」

 ト自己(おの)が云う事だけを饒舌(しゃべ)り立てて、人の挨拶(あいさつ)は耳にも懸けず急歩(あしばや)に通用門の方へと行く。その後姿を目送(みおく)りて文三が肚の裏(うち)で、

「彼奴(あいつ)まで我(おれ)の事を、意久地なしと云わんばかりに云やアがる」

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