知己を番町の家に訪えば主人(あるじ)は不在、留守居の者より翻訳物を受取ッて、文三が旧(も)と来た路(みち)を引返して俎橋(まないたばし)まで来た頃はモウ点火(ひとも)し頃で、町家では皆店頭洋燈(みせランプ)を点(とも)している。「免職に成ッて懐淋(ふところざみ)しいから、今頃帰るに食事をもせずに来た」ト思われるも残念と、つまらぬ所に力瘤(ちからこぶ)を入れて、文三はトある牛店へ立寄ッた。
この牛店は開店してまだ間もないと見えて見掛けは至極よかッたが、裏(なか)へ這入(はい)ッて見ると大違い、尤(もっと)も客も相応にあッたが、給事の婢(おんな)が不慣れなので迷惑(まごつ)く程には手が廻わらず、帳場でも間違えれば出し物も後(おく)れる。酒を命じ肉を命じて、文三が待てど暮らせど持て来ない、催促をしても持て来ない、また催促をしてもまた持て来ない、偶々(たまたま)持て来れば後から来た客の所へ置いて行く。さすがの文三も遂(つい)には肝癪(かんしゃく)を起して、厳しく談じ付けて、不愉快不平な思いをして漸(ようや)くの事で食事を済まして、勘定を済まして、「毎度難有(ありがとう)御座い」の声を聞流して戸外(おもて)へ出た時には、厄落(やくおと)しでもしたような心地がした。
両側の夜見世(よみせ)を窺(のぞ)きながら、文三がブラブラと神保町(じんぼうちょう)の通りを通行した頃には、胸のモヤクヤも漸く絶え絶えに成ッて、どうやら酒を飲んだらしく思われて、昇に辱(はずかし)められた事も忘れ、お勢の高笑いをした事をも忘れ、山口の言葉の気に障ッたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯(ただ)顔(かお)に当る夜風の涼味をのみ感じたが、シカシ長持はしなかッた。
宿所へ来た。何心なく文三が格子戸(こうしど)を開けて裏(うち)へ這入ると、奥坐舗(おくざしき)の方でワッワッと云う高笑いの声がする。耳を聳(そばだ)てて能(よ)く聞けば、昇の声もその中(うち)に聞える……まだ居ると見える。文三は覚えず立止ッた。「若(も)しまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ」ト思えば荐(しき)りに胸が浪(なみ)だつ。暫(しば)らく鵠立(たたずん)でいて、度胸を据(す)えて、戦争が初まる前の軍人の如くに思切ッた顔色(がんしょく)をして、文三は縁側へ廻(めぐ)り出た。
奥坐舗を窺いて見ると、杯盤狼藉(はいばんろうぜき)と取散らしてある中に、昇が背なかに円(まろ)く切抜いた白紙(しらかみ)を張られてウロウロとして立ている、その傍(そば)にお勢とお鍋が腹を抱えて絶倒している、が、お政の姿はカイモク見えない。顔を見合わしても「帰ッたか」ト云う者もなく、「叔母さんは」ト尋ねても返答をする者もないので、文三が憤々(ぷりぷり)しながらそのままにして行過ぎてしまうと、忽(たちま)ち後(うしろ)の方で、
(昇)「オヤこんな悪戯(いたずら)をしたネ」
(勢)「アラ私じゃ有りませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ」
(鍋)「アラお嬢さまですよ、オホホホホ」
(昇)「誰も彼も無い、二人共敵手(あいて)だ。ドレまずこの肥満奴(ふとっちょ)から」
(鍋)「アラ私(わたくし)じゃ有りませんよ、オホホホホ。アラ厭(いや)ですよ……アラー御新造(ごしんぞ)さアん引[#「引」は小書き右寄せ]」
ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタと云う足音も聞えた、オホホホと云う笑声も聞えた、お勢の荐(しき)りに「引掻(ひっかい)てお遣(や)りよ、引掻て」ト叫喚(わめ)く声もまた聞えた。
騒動(さわぎ)に気を取られて、文三が覚えず立止りて後方(うしろ)を振向く途端に、バタバタと跫音(あしおと)がして、避ける間もなく誰だかトンと文三に衝当(つきあた)ッた。狼狽(あわて)た声でお政の声で、
「オー危ない……誰だネーこんな所(とこ)に黙ッて突立ッてて」
「ヤ、コリャ失敬……文三です……何処(どこ)ぞ痛めはしませんでしたか」
お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ這入りて跡ピッシャリ。恨めしそうに跡を目送(みおく)ッて文三は暫らく立在(たたずん)でいたが、やがて二階へ上ッて来て、まず手探りで洋燈(ランプ)を点じて机辺(つくえのほとり)に蹲踞(そんこ)してから、さて、
「実に淫哇(みだら)だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格々々と口癖に云ッているお勢が、あんな猥褻(わいせつ)な席に連(つらな)ッている……しかも一所に成ッて巫山戯(ふざけ)ている……平生の持論は何処へ遣ッた、何の為(た)めに学問をした、先自侮而後人侮レ之(まずみずからあなどるしこうしてのちひとこれをあなどる)、その位の事は承知しているだろう、それでいてあんな真似を……実に淫哇(みだら)だ。叔父の留守に不取締(ふとりしまり)が有ッちゃ我(おれ)が済まん、明日(あした)厳しく叔母に……」
トまでは調子に連れて黙想したが、ここに至ッてフト今の我身を省みてグンニャリと萎(しお)れてしまい、暫らくしてから「まずともかくも」ト気を替えて、懐中して来た翻訳物を取出して読み初めた。
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical party. For over fifty years the party……
ドッと下坐舗でする高笑いの声に流読の腰を折られて、文三はフト口を鉗(つぐ)んで、
「チョッ失敬極まる。我(おれ)の帰ッたのを知ッていながら、何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も本田一人の相手に成ッてチヤホヤしていて、飯を喰ッて来たかと云う者も無い……アまた笑ッた、アリャお勢だ……弥々(いよいよ)心変りがしたならしたと云うが宜(いい)、切れてやらんとは云わん。何の糞(くそ)、我(おれ)だッて男児だ、心変(こころがわり)のした者に……」
ハッと心附(こころづい)て、また一越(おつ)調子高に、
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political……
フト格子戸の開く音がして笑い声がピッタリ止ッた。文三は耳を聳(そばだ)てた。(いそが)わしく縁側を通る人の足音がして、暫らくすると梯子段(はしごだん)の下で洋燈をどうとかこうとか云うお鍋の声がしたが、それから後は粛然(ひっそ)として音沙汰(おとさた)をしなくなった。何となく来客でもある容子(ようす)。
高笑いの声がする内は何をしている位は大抵想像が附たからまず宜かッたが、こう静(しずま)ッて見るとサア容子が解らない。文三些(すこ)し不安心に成ッて来た。「客の相手に叔母は坐舗へ出ている。お鍋も用がなければ可(よ)し、有れば傍に附てはいない。シテ見ると……」文三は起ッたり居たり。
キット思付いた、イヤ憶出(おもいいだ)した事が有る。今初まッた事では無いが、先刻から酔醒めの気味で咽喉(のど)が渇く。水を飲めば渇(かわき)が歇(と)まるが、シカシ水は台所より外には無い。しこうして台所は二階には附いていない。故(ゆえ)に若し水を飲まんと欲せば、是非とも下坐舗へ降りざるを得ず。「折が悪いから何となく何だけれども、シカシ我慢しているも馬鹿気ている」ト種々(さまざま)に分疏(いいわけ)をして、文三は遂(つい)に二階を降りた。
台所へ来て見ると、小洋燈(こランプ)が点(とぼ)しては有るがお鍋は居ない。皿小鉢(こばち)の洗い懸けたままで打捨てて有るところを見れば、急に用が出来て遣(つかい)にでも往たものか。「奥坐舗は」と聞耳を引立てれば、ヒソヒソと私語(ささや)く声が聞える。全身の注意を耳一ツに集めて見たが、どうも聞取れない。ソコで竊(ぬす)むが如くに水を飲んで、抜足をして台所を出ようとすると、忽ち奥坐舗の障子がサッと開いた。文三は振反(ふりかい)ッて見て覚えず立止ッた。お勢が開懸(あけか)けた障子に掴(つか)まッて、出るでも無く出ないでもなく、唯此方(こっち)へ背を向けて立在(たたず)んだままで坐舗の裏(うち)を窺(のぞ)き込んでいる。
「チョイと茲処(ここ)へお出(い)で」
ト云うは慥(たしか)に昇の声。お勢はだらしもなく頭振(かぶ)りを振りながら、
「厭サ、あんな事をなさるから」
「モウ悪戯(いたずら)しないからお出でと云えば」
「厭」
「ヨーシ厭と云ッたネ」
「真個(ほんと)か、其処(そこ)へ往(い)きましょうか」
ト、チョイと首を傾(かし)げた。
「ア、お出で、サア……サア……」
「何方(どっち)の眼で」
「コイツメ」
ト確に起上(たちあが)る真似。
オホホホと笑いを溢(こぼ)しながら、お勢は狼狽(あわ)てて駈出して来て危(あやう)く文三に衝当ろうとして立止ッた。
「オヤ誰……文さん……何時(いつ)帰ッたの」
文三は何にも言わず、ツンとして二階へ上ッてしまッた。
その後(あと)からお勢も続いて上ッて来て、遠慮会釈も無く文三の傍にベッタリ坐ッて、常よりは馴々(なれなれ)しく、しかも顔を皺(しか)めて可笑(おか)しく身体(からだ)を揺りながら、
「本田さんが巫山戯(ふざけ)て巫山戯て仕様がないんだもの」
ト鼻を鳴らした。
文三は恐ろしい顔色(がんしょく)をしてお勢の柳眉(りゅうび)を顰(ひそ)めた嬌面(かお)を疾視付(にらみつ)けたが、恋は曲物(くせもの)、こう疾視付けた時でも尚(な)お「美は美だ」と思わない訳にはいかなかッた。折角の相好(そうごう)もどうやら崩れそうに成ッた……が、はッと心附いて、故意(わざ)と苦々しそうに冷笑(あざわら)いながら率方(そっぽう)を向いてしまッた。
折柄(おりから)梯子段を踏轟(ふみとどろ)かして昇が上ッて来た。ジロリと両人(ふたり)の光景(ようす)を見るや否(いな)や、忽ちウッと身を反らして、さも業山(ぎょうさん)そうに、
「これだもの……大切なお客様を置去りにしておいて」
「だッて貴君(あなた)があんな事をなさるもの」
「どんな事を」
ト言いながら昇は坐ッた。
「どんな事ッて、あんな事を」
「ハハハ、此奴(こいつ)ア宜い。それじゃーあんな事ッてどんな事を、ソラいいたちこッこだ」
「そんなら云ッてもよう御座んすか」
「宜しいとも」
「ヨーシ宜しいと仰(おッ)しゃッたネ、そんなら云ッてしまうから宜い。アノネ文さん、今ネ、本田さんが……」
ト言懸けて昇の顔を凝視(みつ)めて、
「オホホホ、マアかにして上げましょう」
「ハハハ言えないのか、それじゃー我輩が代ッて噺(はな)そう。『今ネ本田さんがネ……』」
「本田さん」
「私の……」
「アラ本田さん、仰しゃりゃー承知しないから宜い」
「ハハハ、自分から言出して置きながら、そうも亭主と云うものは恐(こわ)いものかネ」
「恐かア無いけれども私の不名誉になりますもの」
「何故(なぜ)」
「何故と云ッて、貴君に凌辱(りょうじょく)されたんだもの」
「ヤこれは飛でも無いことを云いなさる、唯チョイと……」
「チョイとチョイと本田さん、敢て一問を呈す、オホホホ。貴方は何ですネ、口には同権論者だ同権論者だと仰しゃるけれども、虚言(うそ)ですネ」
「同権論者でなければ何だと云うんでゲス」
「非同権論者でしょう」
「非同権論者なら」
「絶交してしまいます」
「エ、絶交してしまう、アラ恐ろしの決心じゃなアじゃないか、アハハハ。どうしてどうして我輩程熱心な同権論者は恐らくは有るまいと思う」
「虚言(うそ)仰しゃい。譬(たと)えばネ熱心でも、貴君のような同権論者は私ア大嫌(だいきら)い」
「これは御挨拶(ごあいさつ)。大嫌いとは情ない事を仰しゃるネ。そんならどういう同権論者がお好き」
「どう云うッてアノー、僕の好きな同権論者はネ、アノー……」
ト横眼で天井を眺(なが)めた。
昇が小声で、
「文さんのような」
お勢も小声で、
「Yes(イエス)……」
ト微(かす)かに云ッて、可笑しな身振りをして、両手を貌(かお)に宛(あ)てて笑い出した。文三は愕然(がくぜん)としてお勢を凝視(みつ)めていたが、見る間に顔色を変えてしまッた。
「イヨー妬(やけ)ます引[#「引」は小書き右寄せ]羨(うらや)ましいぞ引[#「引」は小書き右寄せ]。どうだ内海、エ、今の御託宣は。『文さんのような人が好きッ』アッ堪(たま)らぬ堪らぬ、モウ今夜家(うち)にゃ寝られん」
「オホホホホそんな事仰しゃるけれども、文さんのような同権論者が好きと云ッたばかりで、文さんが好きと云わないから宜いじゃ有りませんか」
「その分疏(いいわけ)闇(くら)い闇い。文さんのような人が好きも文さんが好きも同じ事で御座います」
「オホホホホそんならばネ……アこうですこうです。私はネ文さんが好きだけれども、文さんは私が嫌いだから宜(いい)じゃ有りませんか。ネー文さん、そうですネー」
「ヘン嫌いどころか好きも好き、足駄(あしだ)穿(は)いて首ッ丈と云う念の入ッた落(おッ)こちようだ。些(すこ)し水層(みずかさ)が増そうものならブクブク往生しようと云うんだ。ナア内海」
文三はムッとしていて莞爾(にっこり)ともしない。その貌をお勢はチョイと横眼で視て、
「あんまり貴君が戯談(じょうだん)仰しゃるものだから、文さん憤(おこ)ッてしまいなすッたよ」
「ナニまさか嬉(うれ)しいとも云えないもんだから、それであんな貌をしているのサ。シカシ、アア澄ましたところは内海も仲々好男子だネ、苦味ばしッていて。モウ些しあの顋(あご)がつまると申分がないんだけれども、アハハハハ」
「オホホホ」
ト笑いながらお勢はまた文三の貌を横眼で視た。
「シカシそうは云うものの内海は果報者だよ。まずお勢さんのようなこんな」
ト、チョイとお勢の膝(ひざ)を叩(たた)いて、
「頗(すこぶ)る付きの別品、しかも実の有るのに想(おも)い附かれて、叔母さんに油を取られたと云ッては保護(ほうご)して貰(もら)い、ヤ何だと云ッては保護して貰う、実に羨ましいネ。明治年代の丹治(たんじ)と云うのはこの男の事だ。焼(やい)て粉(こ)にして飲んでしまおうか、そうしたら些(ちっ)とはあやかるかも知れん、アハハハハ」
「オホホホ」
「オイ好男子、そう苦虫を喰潰(くいつぶ)していずと、些(ちっ)と此方(こっち)を向いてのろけ給(たま)え。コレサ丹治君。これはしたり、御返答が無い」
「オホホホホ」
トお勢はまた作笑いをして、また横眼でムッとしている文三の貌を視て、
「アー可笑しいこと。余(あんま)り笑ッたもんだから咽喉が渇いて来た。本田さん、下へ往ッてお茶を入れましょう」
「マアもう些と御亭主さんの傍(そば)に居て顔を視せてお上げなさい」
「厭(いや)だネー御亭主さんなんぞッて。そんなら入れて茲処(ここ)へ持ッて来ましょうか」
「茶を入れて持て来る実が有るなら寧(いっ)そ水を持ッて来て貰いたいネ」
「水を、お砂糖入れて」
「イヤ砂糖の無い方が宜い」
「そんならレモン入れて来ましょうか」
「レモンが這入(はい)るなら砂糖気(け)がチョッピリ有ッても宜いネ」
「何だネーいろんな事云ッて」
ト云いながらお勢は起上(たちあが)ッて、二階を降りてしまッた。跡には両人(ふたり)の者が、暫(しば)らく手持無沙汰(ぶさた)と云う気味で黙然(もくぜん)としていたが、やがて文三は厭に落着いた声で、
「本田」
「エ」
「君は酒に酔ッているか」
「イイヤ」
「それじゃア些(すこ)し聞く事が有るが、朋友(ほうゆう)の交(まじわり)と云うものは互に尊敬していなければ出来るものじゃ有るまいネ」
「何だ、可笑しな事を言出したな。さよう、尊敬していなければ出来ない」
「それじゃア……」
ト云懸けて黙していたが、思切ッて些し声を震わせて、
「君とは暫らく交際していたが、モウ今夜ぎりで……絶交して貰いたい」
「ナニ絶交して貰いたいと……何だ、唐突千万な。何だと云ッて絶交しようと云うんだ」
「その理由は君の胸に聞て貰おう」
「可笑しく云うな、我輩少しも絶交しられる覚えは無い」
「フン覚えは無い、あれ程人を侮辱して置きながら」
「人を侮辱して置きながら。誰が、何時、何と云ッて」
「フフン仕様が無いな」
「君がか」
文三は黙然(もくねん)として暫らく昇の顔を凝視(みつ)めていたが、やがて些し声高(こわだか)に、
「何にもそうとぼけなくッたッて宜いじゃ無いか。君みたようなものでも人間と思うからして、即(すなわ)ち廉耻(れんち)を知ッている動物と思うからして、人間らしく美しく絶交してしまおうとすれば、君は一度ならず二度までも人を侮辱して置きながら……」
「オイオイオイ、人に物を云うならモウ些(ちっ)と解るように云って貰いたいネ。君一人位友人を失ッたと云ッてそんなに悲しくも無いから、絶交するならしても宜しいが、シカシその理由も説明せずして唯(ただ)無暗(むやみ)に人を侮辱した侮辱したと云うばかりじゃ、ハアそうかとは云ッておられんじゃないか」
「それじゃ何故先刻(さっき)叔母やお勢(カズン)のいる前で、僕に『痩(やせ)我慢なら大抵にしろ』と云ッた」
「それがそんなに気に障ッたのか」
「当前(あたりまえ)サ……何故今また僕の事を明治年代の丹治即ち意久地なしと云ッた」
「アハハハ弥々(いよいよ)腹筋(はらすじ)だ。それから」
「事に大小は有ッても理に巨細(こさい)は無い。痩我慢と云ッて侮辱したも丹治と云ッて侮辱したも、帰するところは唯(ただ)一の軽蔑(けいべつ)からだ。既に軽蔑心が有る以上は朋友の交際は出来ないものと認めたからして絶交を申出(プロポーズ)したのだ。解ッているじゃないか」
「それから」
「但(ただ)しこうは云うようなものの、園田の家と絶交してくれとは云わん。からして今までのように毎日遊びに来て、叔母と骨牌(かるた)を取ろうが」
ト云ッて文三冷笑した。
「お勢(カズン)を芸娼妓(げいしょうぎ)の如く弄(もてあす)ぼうが」
ト云ッてまた冷笑した。
「僕の関係した事でないから、僕は何とも云うまい。だから君もそう落胆イヤ狼狽(ろうばい)して遁辞(とんじ)を設ける必要も有るまい」
「フフウ嫉妬(しっと)の原素も雑(まざ)ッている。それから」
「モウこれより外に言う事も無い。また君も何にも言う必要も有るまいから、このまま下へ降りて貰いたい」
「イヤ言う必要が有る。冤罪(えんざい)を被(こうぶ)ッてはこれを弁解する必要が有る。だからこのまま下へ降りる事は出来ない。何故痩我慢なら大抵にしろと『忠告』したのが侮辱になる。成程親友でないものにそう直言したならば侮辱したと云われても仕様が無いが、シカシ君と我輩とは親友の関繋(かんけい)じゃ無いか」
「親友の間にも礼義は有る。然(しか)るに君は面と向ッて僕に『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッた。無礼じゃないか」
「何が無礼だ。『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッたッけか、『大抵にした方がよかろうぜ』と云ッたッけか、何方(どっち)だッたかモウ忘れてしまッたが、シカシ何方(どっち)にしろ忠告だ。凡(およ)そ忠告と云う者は――君にかぶれて哲学者振るのじゃアないが――忠告と云う者は、人の所行を非と認めるから云うもので、是(ぜ)と認めて忠告を試みる者は無い。故(ゆえ)に若(も)し非を非と直言したのが侮辱になれば、総(すべて)の忠告と云う者は皆君の所謂(いわゆる)無礼なものだ。若しそれで君が我輩の忠告を怒(いか)るのならば、我輩一言もない、謹(つつしん)で罪を謝そう。がそうか」
「忠告なら僕は却(かえっ)て聞く事を好む。シカシ君の言ッた事は忠告じゃない、侮辱だ」
「何故」
「若し忠告なら何故人のいる前で言ッた」
「叔母さんやお勢さんは内輪の人じゃないか」
「そりゃ内輪の者サ……内輪の者サ……けれども……しかしながら……」
文三は狼狽した。昇はその光景(ようす)を見て私(ひそ)かに冷笑した。
「内輪な者だけれども、シカシ何にもアア口汚く言わなくッても好じゃないか」
「どうも種々に論鋒(ろんぽう)が変化するから君の趣意が解りかねるが、それじゃア何か、我輩の言方即ち忠告の Manner(マンナア) が気に喰(く)わんと云うのか」
「勿論(もちろん) Manner も気に喰(くわ)んサ」
「Manner が気に喰わないのなら改めてお断り申そう。君には侮辱と聞えたかも知れんが我輩は忠告の積りで言ッたのだ、それで宜かろう。それならモウ絶交する必要も有るまい、アハハハ」
文三は何と駁(ばく)して宜いか解らなくなッた、唯ムシャクシャと腹が立つ。風が宜ければさほどにも思うまいが、風が悪いので尚お一層腹が立つ。油汗を鼻頭(はなさき)ににじませて、下唇(したくちびる)を喰締めながら、暫らくの間口惜(くちお)しそうに昇の馬鹿笑いをする顔を疾視(にら)んで黙然としていた。
お勢が溢(こぼ)れるばかりに水を盛ッた「コップ」を盆に載せて持ッて参ッた。
「ハイ本田さん」
「これはお待遠うさま」
「何ですと」
「エ」
「アノとぼけた顔」
「アハハハハ、シカシ余り遅かッたじゃないか」
「だッて用が有ッたんですもの」
「浮気でもしていやアしなかッたか」
「貴君(あなた)じゃ有るまいシ」
「我輩がそんなに浮気に見えるかネ……ドッコイ『課長さんの令妹』と云いたそうな口付をする。云えば此方(こっち)にも『文さん』ト云う武器が有るから直ぐ返討だ」
「厭な人だネー、人が何にも言わないのに邪推を廻わして」
「邪推を廻わしてと云えば」
ト文三の方を向いて、
「どうだ隊長、まだ胸に落んか」
「君の云う事は皆遁辞(とんじ)だ」
「何故」
「そりゃ説明するに及ばん、Self(セルフ)-evident(エヴィデント) truth(ツルース) だ」
「アハハハ、とうとう Self-evident truth にまで達したか」
「どうしたの」
「マア聞いて御覧なさい、余程面白い議論が有るから」
ト云ッてまた文三の方を向いて、
「それじゃその方の口はまず片が附たと。それからしてもう一口の方は何だッけ……そうそう丹治丹治、アハハハ何故丹治と云ッたのが侮辱になるネ、それもやはり Self-evident truth かネ」
「どうしたの」
「ナニネ、先刻(さっき)我輩が明治年代の丹治と云ッたのが御気色(みけしき)に障ッたと云ッて、この通り顔色まで変えて御立腹だ。貴嬢(あなた)の情夫(いろ)にしちゃア些(ち)と野暮天すぎるネ」
「本田」
昇は飲かけた「コップ」を下に置いて、
「何でゲス」
「人を侮辱して置きながら、咎(とが)められたと云ッて遁辞を設けて逃るような破廉耻(はれんち)的の人間と舌戦は無益と認める。からしてモウ僕は何にも言うまいが、シカシ最初の『プロポーザル』(申出)より一歩も引く事は出来んから、モウ降りてくれ給え」
「まだそんな事を云ッてるのか、ヤどうも君も驚く可(べ)き負惜しみだな」
「何だと」
「負惜しみじゃないか、君にももう自分の悪かッた事は解ッているだろう」
「失敬な事を云うな、降りろと云ッたら降りたが宜じゃないか」
「モウお罷(よ)しなさいよ」
「ハハハお勢さんが心配し出した。シカシ真(しん)にそうだネ、モウ罷した方が宜い。オイ内海、笑ッてしまおう。マア考えて見給え、馬鹿気切ッているじゃないか。忠告の仕方が気に喰わないの、丹治と云ッたが癪(しゃく)に障るのと云ッて絶交する、全(まる)で子供の喧嘩(けんか)のようで、人に対して噺(はな)しも出来ないじゃないか。ネ、オイ笑ッてしまおう」
文三は黙ッている。
「不承知か、困ッたもんだネ。それじゃ宜ろしい、こうしよう、我輩が謝まろう。全くそうした深い考(かんがえ)が有ッて云ッた訳じゃないから、お気に障ッたら真平(まっぴら)御免下さい。それでよかろう」
文三はモウ堪え切れない憤(いか)りの声を振上げて、
「降りろと云ッたら降りないか」
「それでもまだ承知が出来ないのか。それじゃ仕様がない、降りよう。今何を言ッても解らない、逆上(のぼせあが)ッているから」
「何だと」
「イヤ此方の事だ。ドレ」
ト起上(たちあが)る。
「馬鹿」
昇も些しムッとした趣きで、立止ッて暫らく文三を疾視付(にらみつ)けていたが、やがてニヤリと冷笑(あざわら)ッて、
「フフン、前後忘却の体(てい)か」
ト云いながら二階を降りてしまッた。お勢も続いて起上ッて、不思議そうに文三の容子(ようす)を振反ッて観ながら、これも二階を降りてしまッた。
跡で文三は悔しそうに歯を喰切(くいしば)ッて、拳(こぶし)を振揚げて机を撃ッて、
「畜生ッ」
梯子段(はしごだん)の下あたりで昇とお勢のドッと笑う声が聞えた。