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     第十一回 取付く島

作者:日-二叶亭四迷 当前章节:9137 字 更新时间:2026-6-16 03:24

 翌朝朝飯の時、家内の者が顔を合わせた。お政は始終顔を皺(しか)めていて口も碌々(ろくろく)聞かず、文三もその通り。独りお勢而已(のみ)はソワソワしていて更らに沈着(おちつ)かず、端手(はした)なく囀(さえず)ッて他愛(たわい)もなく笑う。かと思うとフト口を鉗(つぐ)んで真面目(まじめ)に成ッて、憶出(おもいだ)したように額越(ひたえご)しに文三の顔を眺(なが)めて、笑うでも無く笑わぬでもなく、不思議そうな剣呑(けんのん)そうな奇々妙々な顔色(がんしょく)をする。

 食事が済む。お勢がまず起上(たちあが)ッて坐舗(ざしき)を出て、縁側でお鍋に戯(たわぶ)れて高笑をしたかと思う間も無く、忽(たちま)ち部屋の方で低声(ていせい)に詩吟をする声が聞えた。

 益々顔を皺めながら文三が続いて起上ろうとして、叔母に呼留められて又坐直(すわりなお)して、不思議そうに恐々(おそるおそる)叔母の顔色を窺(うかが)ッて見てウンザリした。思做(おもいなし)かして叔母の顔は尖(とが)ッている。

 人を呼留めながら叔母は悠々(ゆうゆう)としたもので、まず煙草(たばこ)を環(わ)に吹くこと五六ぷく、お鍋の膳(ぜん)を引終るを見済ましてさて漸(ようや)くに、

「他の事でも有りませんがネ、昨日(きのう)私がマア傍(そば)で聞てれば――また余計なお世話だッて叱(しか)られるかも知れないけれども――本田さんがアアやッて信切に言ておくんなさるものを、お前さんはキッパリ断ッておしまいなすッたが、ソリャモウお前さんの事(こっ)たから、いずれ先に何とか確乎(たしか)な見当(みあて)が無くッてあんな事をお言いなさりゃアすまいネ」

「イヤ何にも見当(みあて)が有ッてのどうのと云う訳じゃ有りませんが、唯(ただ)……」

「ヘー、見当も有りもしないのに無暗(むやみ)に辞(ことわ)ッておしまいなすッたの」

「目的なしに断わると云ッては或(あるい)は無考(むかんがえ)のように聞えるかも知れませんが、シカシ本田の言ッた事でもホンノ風評と云うだけで、ナニモ確に……」

 縁側を通る人の跫音(あしおと)がした。多分お勢が英語の稽古(けいこ)に出懸(でかけ)るので。改ッて外出をする時を除くの外は、お勢は大抵母親に挨拶(あいさつ)をせずして出懸る、それが習慣で。

「確にそうとも……」

「それじゃ何ですか、弥々(いよいよ)となりゃ御布告にでもなりますか」

「イヤそんな、布告なんぞになる気遣いは有りませんが」

「それじゃマア人の噂(うわさ)を宛(あて)にするほか仕様が無いと云ッたようなもんですネ」

「デスガ、それはそうですが、シカシ……本田なぞの言事は……」

「宛にならない」

「イヤそ、そ、そう云う訳でも有りませんが……ウー……シカシ……幾程(いくら)苦しいと云ッて……課長の所へ……」

「何ですとえ、幾程(いくら)苦しいと云ッて課長さんの所(とこ)へは往(い)けないとえ。まだお前さんはそんな気楽な事を言てお出(い)でなさるのかえ」

 トお政が層(かさ)に懸ッて極付(きめつ)けかけたので、文三は狼狽(あわ)てて、

「そ、そ、そればかりじゃ有りません……仮令(たとえ)今課長に依頼して復職が出来たと云ッても、とても私(わたくし)のような者は永くは続きませんから、寧(むし)ろ官員はモウ思切ろうかと思います」

「官員はモウ思切る、フン何が何だか理由(わけ)が解りゃしない。この間お前さん何とお言いだ。私がこれからどうして行く積だと聞いたら、また官員の口でも探そうかと思ッてますとお言いじゃなかッたか。それを今と成ッて、モウ官員は思切る……左様(さよう)サ、親の口は干上ッても関(かま)わないから、モウ官員はお罷(や)めなさるが宜いのサ」

「イヤ親の口が干上ッても関わないと云う訳じゃ有りませんが、シカシ官員ばかりが職業でも有りませんから、教師に成ッても親一人位は養えますから……」

「だから誰もそうはならないとは申しませんよ。そりゃお前さんの勝手だから、教師になと車夫(くるまひき)になと何になとお成(なん)なさるが宜いのサ」

「デスガそう御立腹なすッちゃ私(わたくし)も実に……」

「誰が腹を立(たっ)てると云いました。ナニお前さんがどうしようと此方(こっち)に関繋(くいあい)の無い事だから誰も腹も背も立ちゃしないけれども、唯本田さんがアアやッて信切に言ッておくンなさるもんだから、周旋(とりもっ)て貰(もら)ッて課長さんに取入ッて置きゃア、仮令(よし)んば今度の復職とやらは出来ないでも、また先へよって何ぞれ角(か)ぞれお世話アして下さるまいものでも無いトネー、そうすりゃ、お前さんばかしか慈母(おっか)さんも御安心なさる事(こっ)たシ、それに……何だから『三方四方』円く納まる事(こっ)たから(この時文三はフット顔を振揚げて、不思議そうに叔母を凝視(みつ)めた)ト思ッて、チョイとお聞き申したばかしさ。けれども、ナニお前さんがそうした了簡方(りょうけんかた)ならそれまでの事サ」

 両人共暫(しば)らく無言。

「鍋」

「ハイ」

 トお鍋が襖(ふすま)を開けて顔のみを出した。見れば口をモゴ付かせている。

「まだ御膳(ごぜん)を仕舞わないのかえ」

「ハイ、まだ」

「それじゃ仕舞ッてからで宜(い)いからネ、何時(いつ)もの車屋へ往ッて一人乗一挺(いっちょう)誂(あつ)らえて来ておくれ、浜町(はまちょう)まで上下(じょうげ)」

「ハイ、それでは只今(ただいま)直(じき)に」

 ト云ッてお鍋が襖を閉切(たてき)るを待兼ねていた文三が、また改めて叔母に向って、

「段々と承ッて見ますと、叔母さんの仰(おっ)しゃる事は一々御尤(ごもっとも)のようでも有るシ、かつ私(わたくし)一個(ひとり)の強情から、母親(おふくろ)は勿論(もちろん)叔母さんにまで種々(いろいろ)御心配を懸けまして甚(はなは)だ恐入りますから、今一応篤(とく)と考えて見まして」

「今一応も二応も無いじゃ有りませんか、お前さんがモウ官員にゃならないと決めてお出でなさるんだから」

「そ、それはそうですが、シカシ……事に寄ッたら……思い直おすかも知れませんから……」

 お政は冷笑しながら、

「そんならマア考えて御覧なさい。だがナニモ何ですよ、お前さんが官員に成ッておくんなさらなきゃア私どもが立往かないと云うんじゃ無いから、無理に何ですよ、勧めはしませんよ」

「ハイ」

「それから序(ついで)だから言ッときますがネ、聞けば昨夕(ゆうべ)本田さんと何だか入組みなすったそうだけれども、そんな事が有ッちゃ誠に迷惑しますネ。本田さんはお前さんのお朋友(ともだち)とは云いじょう、今じゃア家(うち)のお客も同前の方だから」

「ハイ」

 トは云ッたが、文三実は叔母が何を言ッたのだかよくは解らなかッた、些(すこ)し考え事が有るので。

「そりゃアア云う胸の広(しろ)い方だから、そんな事が有ッたと云ッてそれを根葉に有(も)ッて周旋(とりもち)をしないとはお言いなさりゃすまいけれども、全体なら……マアそれは今言ッても無駄(むだ)だ、お前さんが腹を極(き)めてからの事にしよう」

 ト自家撲滅(ぼくめつ)、文三はフト首を振揚げて、

「ハイ」

「イエネ、またの事にしましょう、と云う事サ」

「ハイ」

 何だかトンチンカンで。

 叔母に一礼して文三が起上ッて、そこそこに部屋へ戻ッて、室(しつ)の中央に突立(つった)ッたままで坐りもせず、良(やや)暫くの間と云うものは造付(つくりつ)けの木偶(にんぎょう)の如くに黙然としていたが、やがて溜息(ためいき)と共に、

「どうしたものだろう」

 ト云ッて、宛然(さながら)雪達磨(だるま)が日の眼に逢(あ)ッて解けるように、グズグズと崩れながらに坐に着いた。

 何故(なぜ)「どうしたものだろう」かとその理由(ことわけ)を繹(たず)ねて見ると、概略(あらまし)はまず箇様(こう)で。

 先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途(いちず)に叔母を薄情な婦人と思詰めて恨みもし立腹もした事では有るが、その後沈着(おちつ)いて考えて見るとどうやら叔母の心意気が飲込めなくなり出した。

 成程叔母は賢婦でも無い、烈女でもない、文三の感情、思想を忖度(そんたく)し得ないのも勿論の事では有るが、シカシ菽麦(しゅくばく)を弁ぜぬ程の痴女子(ちじょし)でもなければ自家独得の識見をも保着(ほうちゃく)している、論事矩(ロジック)をも保着している、処世の法をも保着している。それでいて何故アア何の道理も無く何の理由もなく、唯文三が免職に成ッたと云うばかりで、自身も恐らくは無理と知り宛(つつ)無理を陳(なら)べて一人で立腹して、また一人で立腹したとてまた一人で立腹して、罪も咎(とが)も無い文三に手を杖(つ)かして謝罪(わび)さしたので有ろう。お勢を嫁(か)するのが厭(いや)になってと或時(あのとき)は思いはしたようなものの、考えて見ればそれも可笑(おか)しい。二三分時(ぷんじ)前までは文三は我女(わがむすめ)の夫、我女は文三の妻と思詰めていた者が、免職と聞くより早くガラリ気が渝(かわ)ッて、俄(にわか)に配合(めあわ)せるのが厭に成ッて、急拵(きゅうごしらえ)の愛想尽(あいそづ)かしを陳立(ならべた)てて、故意に文三に立腹さしてそして娘と手を切らせようとした……どうも可笑しい。

 こうした疑念が起ッたので、文三がまた叔母の言草、悔しそうな言様、ジレッタそうな顔色を一々漏らさず憶起(おもいおこ)して、さらに出直おして思惟(しゆい)して見て、文三は遂(つい)に昨日(きのう)の非を覚(さと)ッた。

 叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを楽みにしていたに相違ない。来年の春を心待に待ていたに相違ない。アノ帯をアアしてコノ衣服をこうしてと私(ひそか)に胸算用をしていたに相違ない。それが文三が免職に成ッたばかりでガラリト宛(あて)が外れたので、それで失望したに相違ない。凡(およ)そ失望は落胆を生み落胆は愚痴を生む。「叔母の言艸(いいぐさ)を愛想尽(あいそづ)かしと聞取ッたのは全く此方(こちら)の僻耳(ひがみみ)で、或は愚痴で有ッたかも知れん」ト云う所に文三気が附いた。

 こう気が附(つい)て見ると文三は幾分か恨(うらみ)が晴れた。叔母がそう憎くはなくなった、イヤ寧(むし)ろ叔母に対して気の毒に成ッて来た。文三の今我(こんが)は故吾(こご)でない、シカシお政の故吾も今我でない。

 悶着(もんちゃく)以来まだ五日にもならぬに、お政はガラリその容子(ようす)を一変した。勿論以前とてもナニモ非常に文三を親愛していた、手車に乗せて下へも措かぬようにしていたト云うでは無いが、ともかくも以前は、チョイと顔を見る眼元、チョイと物を云う口元に、真似て真似のならぬ一種の和気を帯びていたが、この頃は眼中には雲を懸けて口元には苦笑(にがわらい)を含んでいる。以前は言事がさらさらとしていて厭味気(いやみけ)が無かッたが、この頃は言葉に針を含めば聞て耳が痛くなる。以前は人我(にんが)の隔歴が無かッたが、この頃は全く他人にする。霽顔(せいがん)を見せた事も無い、温語をきいた事も無い。物を言懸ければ聞えぬ風(ふり)をする事も有り、気に喰わぬ事が有れば目を側(そばだ)てて疾視付(にらみつ)ける事も有り、要するに可笑しな処置振りをして見せる。免職が種の悶着はここに至ッて、沍(い)ててかじけて凝結し出した。

 文三は篤実温厚な男、仮令(よし)その人と為(な)りはどう有ろうとも叔母は叔母、有恩(うおん)の人に相違ないから、尊尚親愛して水乳(すいにゅう)の如くシックリと和合したいとこそ願え、決して乖背(かいはい)し離(きり)したいとは願わないようなものの、心は境に随(したが)ッてその相を顕(げん)ずるとかで、叔母にこう仕向けられて見ると万更好い心地もしない。好い心地もしなければツイ不吉な顔もしたくなる。が其処(そこ)は篤実温厚だけに、何時も思返してジッと辛抱している。蓋(けだ)し文三の身が極まらなければお勢の身も極まらぬ道理、親の事ならそれも苦労になろう。人世の困難に遭遇(であっ)て、独りで苦悩して独りで切抜けると云うは俊傑(すぐれもの)の為(す)る事、並(なみ)や通途(つうず)の者ならばそうはいかぬがち。自心に苦悩が有る時は、必ずその由来する所を自身に求めずして他人に求める。求めて得なければ天命に帰してしまい、求めて得(う)れば則(すなわ)ちその人を嫉(ぼうしつ)する。そうでもしなければ自(みずか)ら慰める事が出来ない。「叔母もそれでこう辛(つら)く当るのだな」トその心を汲分(くみわ)けて、どんな可笑しな処置振りをされても文三は眼を閉(ねむ)ッて黙ッている。

「が若(も)し叔母が慈母(おふくろ)のように我(おれ)の心を噛分(かみわ)けてくれたら、若し叔母が心を和(やわら)げて共に困厄(こんやく)に安んずる事が出来たら、我(おれ)ほど世に幸福な者は有るまいに」ト思ッて文三屡々(しばしば)嘆息した。依(よっ)て至誠は天をも感ずるとか云う古賢(こげん)の格言を力にして、折さえ有れば力(つと)めて叔母の機嫌(きげん)を取ッて見るが、お政は油紙に水を注ぐように、跳付(はねつ)けて而已(のみ)いてさらに取合わず、そして独りでジレている。文三は針の筵(むしろ)に坐ッたような心地。

 シカシまだまだこれしきの事なら忍んで忍ばれぬ事も無いが、茲処(ここ)に尤も心配で心配で耐(たえ)られぬ事が一ツ有る。他(ほか)でも無い、この頃叔母がお勢と文三との間を関(せく)ような容子が徐々(そろそろ)見え出した一事(じ)で。尤も、今の内は唯お勢を戒めて今までのように文三と親しくさせないのみで、さして思切ッた処置もしないからまず差迫ッた事では無いが、シカシこのままにして捨置けば将来何等(どん)な傷心恨(かなしい)事が出来(しゅったい)するかも測られぬ。一念ここに至る毎(ごと)に、文三は我(が)も折れ気も挫(く)じけてそして胸膈(むね)も塞(ふさ)がる。

 こう云う矢端(やさき)には得て疑心も起りたがる。縄麻(じょうま)に蛇相(じゃそう)も生じたがる、株杭(しゅこう)に人想(にんそう)の起りたがる。実在の苦境(くぎょう)の外に文三が別に妄念(もうねん)から一苦界(くがい)を産み出して、求めてその中(うち)に沈淪(ちんりん)して、あせッて(もが)いて極大(ごくだい)苦悩を甞(な)めている今日この頃、我慢勝他(しょうた)が性質(もちまえ)の叔母のお政が、よくせきの事なればこそ我から折れて出て、「お前さんさえ我(が)を折れば、三方四方円く納まる」ト穏便をおもって言ッてくれる。それを無面目にも言破ッて立腹をさせて、我から我他彼此(がたびし)の種子(たね)を蒔(ま)く……文三そうは為(し)たく無い。成ろう事なら叔母の言状を立ててその心を慰めて、お勢の縁をも繋(つな)ぎ留めて、老母の心をも安めて、そして自分も安心したい。それで文三は先刻も言葉を濁して来たので、それで文三は今又屈托(くったく)の人と為(な)ッているので。

「どうしたものだろう」

 ト文三再び我と我に相談を懸けた。

「寧(いっ)そ叔母の意見に就いて、廉耻も良心も棄ててしまッて、課長の所へ往ッて見ようかしらん。依頼さえして置けば、仮令(たと)えば今が今どうならんと云ッても、叔母の気が安まる。そうすれば、お勢さえ心変りがしなければまず大丈夫と云うものだ。かつ慈母(おッか)さんもこの頃じゃア茶断(ちゃだち)して心配してお出でなさるところだから、こればかりで犠牲(ヴィクチーム)に成ッたと云ッても敢て小胆とは言われまい。コリャ寧(いッ)そ叔母の意見に……」

 が猛然として省思すれば、叔母の意見に就こうとすれば厭でも昇に親まなければならぬ。昇とあのままにして置いて独り課長に而已(のみ)取入ろうとすれば、渠奴(きゃつ)必ず邪魔を入れるに相違ない。からして厭でも昇に親まなければならぬ。老母の為お勢の為めなら、或は良心を傷(きずつ)けて自重の気を拉(とりひし)いで課長の鼻息を窺(うかが)い得るかも知れぬが、如何(いか)に窮したればと云ッて苦しいと云ッて、昇に、面と向ッて図(ず)大柄(おおへい)に「痩我慢なら大抵にしろ」ト云ッた昇に、昨夜も昨夜とて小児の如くに人を愚弄して、陽(あらわ)に負けて陰(ひそか)に復(かえ)り討に逢わした昇に、不倶戴天(ふぐたいてん)の讎敵(あだ)、生ながらその肉を啖(くら)わなければこの熱腸が冷されぬと怨みに思ッている昇に、今更手を杖(つ)いて一着(ちゃく)を輸(ゆ)する事は、文三には死しても出来ぬ。課長に取入るも昇に上手を遣(つか)うも、その趣きは同じかろうが同じく有るまいが、そんな事に頓着(とんじゃく)はない。唯是もなく非もなく、利もなく害もなく、昇に一着を輸する事は文三には死しても出来ぬ。

 ト決心して見れば叔母の意見に負(そむ)かなければならず、叔母の意見に負くまいとすれば昇に一着を輸さなければならぬ。それも厭なりこれも厭なりで、二時間ばかりと云うものは黙坐して腕を拱(く)んで、沈吟して嘆息して、千思万考、審念熟慮して屈托して見たが、詮(せん)ずる所は旧(もと)の木阿弥(もくあみ)。

「ハテどうしたものだろう」

 物皆終あれば古筵(ふるむしろ)も鳶(とび)にはなりけり。久しく苦しんでいる内に文三の屈托も遂にその極度に達して、忽ち一ツの思案を形作ッた。所謂(いわゆる)思案とは、お勢に相談して見ようと云う思案で。

 蓋し文三が叔母の意見に負きたくないと思うも、叔母の心を汲分けて見れば道理(もっとも)な所もあるからと云い、叔母の苦(にが)り切ッた顔を見るも心苦しいからと云うは少分(しょうぶん)で、その多分は、全くそれが原因(もと)でお勢の事を断念(おもいき)らねばならぬように成行きはすまいかと危ぶむからで。故(ゆえ)に若しお勢さえ、天は荒れても地は老ても、海は枯(か)れても石は爛(ただ)れても、文三がこの上どんなに零落しても、母親がこの後どんな言(こと)を云い出しても、決してその初(はじめ)の志を悛(あらた)めないと定(きま)ッていれば、叔母が面(つら)を脹(ふく)らしても眼を剥出(むきだ)しても、それしきの事なら忍びもなる。文三は叔母の意見に背(そむ)く事が出来る。既に叔母の意見に背く事が出来れば、モウ昇に一着を輸する必要もない。「かつ窮して乱するは大丈夫の為(す)るを愧(はず)る所だ」

 そうだそうだ、文三の病原はお勢の心に在る。お勢の心一ツで進退去就を決しさえすればイサクサは無い。何故最初から其処に心附かなかッたか、今と成ッて考えて見ると文三我ながら我が怪しまれる。

 お勢に相談する、極めて上策。恐らくはこれに越す思案も有るまい。若しお勢が、小挫折に逢ッたと云ッてその節を移さずして、尚お未(いま)だに文三の智識で考えて、文三の感情で感じて、文三の息気(いき)で呼吸して、文三を愛しているならば、文三に厭な事はお勢にもまた厭に相違は有るまい。文三が昇に一着を輸する事を屑(いさぎよし)と思わぬなら、お勢もまた文三に、昇に一着を輸させたくは有るまい。相談を懸けたら飛だ手軽ろく「母が何と云おうと関(かま)やアしませんやアネ、本田なんぞに頼む事はお罷(よ)しなさいよ」ト云ッてくれるかも知れぬ。またこの後(ご)の所を念を押したら、恨めしそうに、「貴君(あなた)は私をそんな浮薄なものだと思ッてお出でなさるの」ト云ッてくれるかも知れぬ。お勢がそうさえ云ッてくれれば、モウ文三天下に懼(おそ)るる者はない。火にも這入(はい)れる、水にも飛込める。況(いわ)んや叔母の意見に負く位の事は朝飯前の仕事、お茶の子さいさいとも思わない。

「そうだ、それが宜い」

 ト云ッて文三起上(たちあが)ッたが、また立止ッて、

「がこの頃の挙動(そぶり)と云い容子(ようす)と云い、ヒョッとしたら本田に……何してはいないかしらん……チョッ関わん、若しそうならばモウそれまでの事だ。ナニ我(おれ)だッて男子だ、心渝(こころがわり)のした者に未練は残らん。断然手を切ッてしまッて、今度こそは思い切ッて非常な事をして、非常な豪胆を示して、本田を拉(とりひ)しいで、そしてお勢にも……お勢にも後悔さして、そして……そして……そして……」

 ト思いながら二階を降りた。

 が此処が妙で、観菊行(きくみゆき)の時同感せぬお勢の心を疑ッたにも拘(かかわ)らず、その夜帰宅してからのお勢の挙動(そぶり)を怪んだのにも拘らず、また昨日(きのう)の高笑い昨夜(ゆうべ)のしだらを今以(もっ)て面白からず思ッているにも拘らず、文三は内心の内心では尚おまだお勢に於て心変りするなどと云うそんな水臭い事は無いと信じていた。尚おまだ相談を懸ければ文三の思う通りな事を云って、文三を励ますに相違ないと信じていた。こう信ずる理由が有るからこう信じていたのでは無くて、こう信じたいからこう信じていたので。

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