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     第十四回

作者:日-二叶亭四迷 当前章节:3997 字 更新时间:2026-6-16 03:24

「気の毒気の毒」と思い寐(ね)にうとうととして眼を覚まして見れば、烏(からす)の啼声(なきごえ)、雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶(つるべ)を軋(きし)らせる響(ひびき)。少し眠足(ねた)りないが、無理に起きて下坐舗へ降りてみれば、只お鍋が睡むそうな顔をして釜(かま)の下を焚付(たきつ)けているばかり。誰も起きていない。

 朝寐が持前のお勢、まだ臥(ね)ているは当然の事、とは思いながらも、何となく物足らぬ心地がする。

 早く顔が視(み)たい、如何様(どん)な顔をしているか。顔を視れば、どうせ好い心地がしないは知れていれど、それでいて只早く顔が視たい。

 三十分たち、一時間たつ。今に起きて来るか、と思えば、肉癢(こそば)ゆい。髪の寐乱れた、顔の蒼(あお)ざめた、腫瞼(はれまぶち)の美人が始終眼前(めさき)にちらつく。

「昨日(きのう)下宿しようと騒いだは誰で有ッたろう」と云ッたような顔色(かおつき)……

 朝飯(あさはん)がすむ。文三は奥坐舗を出ようとする、お勢はその頃になッて漸々(ようよう)起きて来て、入ろうとする、――縁側でぴッたり出会ッた……はッと狼狽(うろた)えた文三は、予(かね)て期(ご)した事ながら、それに引替えて、お勢の澄ましようは、じろりと文三を尻眼(しりめ)に懸けたまま、奥坐舗へツイとも云わず入ッてしまッた。只それだけの事で有ッた。

 が、それだけで十分。そのじろりと視た眼付が眼の底に染付(しみつ)いて忘れようとしても忘れられない。胸は痞(つか)えた。気は結ぼれる。搗(か)てて加えて、朝の薄曇りが昼少し下(さが)る頃より雨となッて、びしょびしょと降り出したので、気も消えるばかり。

 お勢は気分の悪いを口実(いいだて)にして英語の稽古(けいこ)にも往かず、只一間に籠(こも)ッたぎり、音沙汰(おとさた)なし。昼飯(ひるはん)の時、顔を合わしたが、お勢は成りたけ文三の顔を見ぬようにしている。偶々(たまたま)眼を視合わせれば、すぐ首を据(す)えて可笑(おか)しく澄ます。それが睨付(にらみつけ)られるより文三には辛(つら)い。雨は歇(や)まず、お勢は済まぬ顔、家内も湿り切ッて誰とて口を聞く者も無し。文三果は泣出したくなッた。

 心苦しいその日も暮れてやや雨はあがる。昇が遊びに来たか、門口で華やかな声。お鍋のけたたましく笑う声が聞える。お勢はその時奥坐舗に居たが、それを聞くと、狼狽(うろた)えて起上ろうとしたが間に合わず、――気軽(きがろ)に入ッて来る昇に視られて、さも余義なさそうに又坐ッた。

 何も知らぬから、昇、例の如く、好もしそうな眼付をしてお勢の顔を視て、挨拶(あいさつ)よりまず戯言(ざれごと)をいう、お勢は莞爾(にっこり)ともせず、真面目な挨拶をする、――かれこれ齟齬(くいちが)う。から、昇も怪訝(けげん)な顔色(かおつき)をして何か云おうとしたが、突然お政が、三日も物を云わずにいたように、たてつけて饒舌(しゃべ)り懸けたので、つい紛(はぐ)らされてその方を向く。その間(ま)にお勢はこッそり起上ッて坐舗を滑り出ようとして……見附けられた。

「何処(どこ)へ、勢ちゃん?」

 けれども、聞えませんから返答を致しませんと云わぬばかりで、お勢は坐舗を出てしまッた。

 部屋は真の闇(やみ)。手探りで摺附木(マッチ)だけは探り当てたが、洋燈(ランプ)が見附らない。大方お鍋が忘れてまだ持ッて来ないので有ろう。「鍋や」と呼んで少し待ッてみて又「鍋や……」、返答をしない。「鍋、鍋、鍋」たてつけて呼んでも返答をしない。焦燥(じれ)きッていると、気の抜けたころに、間の抜けた声で、

「お呼びなさいましたか?」

「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものを」

「だッてお奥で御用をしていたンですものを」

「用をしていると返答は出来なくッて?」

「御免遊ばせ……何か御用?」

「用が無くッて呼びはしないよ……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるのがわかッ(分ら)なッかえッ?」

 二三度聞直して漸く分ッて洋燈(ランプ)は持ッて来たが、心無し奴(め)が跡をも閉めずして出て往ッた。

「ばか」

 顔に似合わぬ悪体を吐(つ)きながら、起上(たちあが)ッて邪慳(じゃけん)に障子を〆(しめ)切り、再び机の辺(ほとり)に坐る間もなく、折角〆た障子をまた開けて……己(おの)れ、やれ、もう堪忍(かんにん)が……と振り反ッてみれば、案外な母親。お勢は急に他所(よそ)を向く。

「お勢」と小声ながらに力瘤(ちからこぶ)を込めて、お政は呼ぶ。此方(こちら)はなに返答をするものかと力身(りきん)だ面相(かおつき)。

「何だと云ッて、あんなおかしな処置振りをお為(し)だ? 本田さんが何とか思いなさらアね。彼方(あっち)へお出でよ」

 と暫(しば)らく待ッていてみたが、動きそうにも無いので、又声を励まして、

「よ、お出でと云ッたら、お出でよ」

「その位ならあんな事云わないがいい……」

 と差俯向(さしうつむ)く、その顔を窺(のぞ)けば、おやおや泪(なみだ)ぐんで……

「ま呆(あき)れけえッちまわア!」と母親はあきれけエッちまッた。「たンとお脹(ふく)れ」

 とは云ッたが、又折れて、

「世話ア焼かせずと、お出でよ」

 返答なし。

「ええ、も、じれッたい! 勝手にするがいい!」

 そのまま母親は奥坐舗へ還(かえ)ってしまった。

 これで坐舗へ還る綱も截(き)れた。求めて截ッて置きながら今更惜しいような、じれッたいような、おかしな顔をして暫く待ッていてみても、誰も呼びに来てもくれない。また呼びに来たとて、おめおめ還られもしない。それに奥坐舗では想像(おもいやり)のない者共が打揃(うちそろ)ッて、噺(はな)すやら、笑うやら……肝癪(かんしゃく)紛れにお勢は色鉛筆を執ッて、まだ真新しなすういんとんの文典の表紙をごしごし擦(こす)り初めた。不運なはすういんとんの文典!

 表紙が大方真青になッたころ、ふと縁側に足音……耳を聳(そばだ)てて、お勢ははッと狼狽(うろた)えた……手ばしこく文典を開けて、倒(さか)しまになッているとも心附かで、ぴッたり眼で喰込んだ、とんと先刻から書見していたような面相(かおつき)をして。

 すらりと障子が開(あ)く。文典を凝視(みつ)めたままで、お勢は少し震えた。遠慮気もなく無造作に入ッて来た者は云わでと知れた昇。華美(はで)な、軽い調子で、「遁(に)げたね、好男子(いろおとこ)が来たと思ッて」

 と云わして置いて、お勢は漸く重そうに首を矯(あ)げて、世にも落着いた声で、さもにべなく、

「あの失礼ですが、まだ明日(あした)の支度(したく)をしませんから……」

 けれども、敵手(あいて)が敵手だから、一向利(き)かない。

「明日(あした)の支度? 明日の支度なぞはどうでも宜いさ」

 と昇はお勢の傍(そば)に陣を取ッた。

「本統にまだ……」

「何をそう拗捩(すね)たンだろう? 令慈(おっかさん)に叱(しか)られたね? え、そうでない。はてな」

 と首を傾(かたぶ)けるより早く横手を拍(う)ッて、

「あ、ああわかッた。成(な)、成(な)、それで……それならそうと早く一言云えばいいのに……なンだろう大方かく申す拙者奴(め)に……ウ……ウと云ッたような訳なンだろう? 大蛤(おおはまぐり)の前じゃア口が開(あ)きかねる、――これやア尤(もっとも)だ。そこで釣寄(つりよ)せて置いて……ほんありがた山の蜀魂(ほととぎす)、一声漏らそうとは嬉(うれ)しいぞえ嬉しいぞえ」

 と妙な身振りをして、

「それなら、実は此方(こっち)も疾(とう)からその気ありだから、それ白痴(こけ)が出来合靴(ぐつ)を買うのじゃないが、しッくり嵌(は)まるというもンだ。嵌まると云えば、邪魔の入らない内だ。ちょッくり抱(だ)ッこのぐい極(ぎ)めと往きやしょう」

 と白らけた声を出して、手を出しながら、摺寄(すりよ)ッて来る。

「明日の支度が……」

 とお勢は泣声を出して身を縮ませた。

「ほい間違ッたか。失敗、々々」

 何を云ッても敵手(あいて)にならぬのみか、この上手を附けたら雨になりそうなので、さすがの本田も少し持あぐねたところへ、お鍋が呼びに来たから、それを幸いにして奥坐舗へ還ッてしまッた。

 文三は昇が来たから安心を失(な)くして、起ッて見たり坐ッて見たり。我他彼此(がたびし)するのが薄々分るので、弥以(いよいよもって)堪(たま)らず、無い用を拵(こしら)えて、この時二階を降りてお勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳を聳て、抜足をして障子の間隙(ひずみ)から内を窺(のぞい)てはッと顔※[#白ゴマ点、178-15]お勢が伏臥(うつぶし)になッて泣……い……て……

「Explanation(エキスプラネーション)(示談(はなしあい))」と一時に胸で破裂した……

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