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     第十六回

作者:日-二叶亭四迷 当前章节:2522 字 更新时间:2026-6-16 03:24

 あれほどまでにお勢母子(おやこ)の者に辱(はずかし)められても、文三はまだ園田の家を去る気になれない。但(た)だ、そのかわり、火の消えたように、鎮(しず)まッてしまい、いとど無口が一層口を開(き)かなくなッて、呼んでも捗々(はかばか)しく返答をもしない。用事が無ければ下へも降りて来ず、只(ただ)一間(ま)にのみ垂れ籠(こ)めている。余り静かなので、つい居ることを忘れて、お鍋が洋燈(ランプ)の油を注がずに置いても、それを吩咐(いいつ)けて注がせるでもなく、油が無ければ無いで、真闇(まっくら)な坐舗(ざしき)に悄然(しょんぼり)として、始終何事をか考えている。

 けれど、こう静まッているは表相(うわべ)のみで、乞の胸臆(きょうおく)の中(うち)へ立入ッてみれば、実に一方(ひとかた)ならぬ変動。あたかも心が顛動(てんどう)した如くに、昨日(きのう)好いと思ッた事も今日は悪く、今日悪いと思う事も昨日は好いとのみ思ッていた。情慾の曇が取れて心の鏡が明かになり、睡入(ねい)ッていた智慧(ちえ)は俄(にわか)に眼を覚まして決然として断案を下し出す。眼に見えぬ処(ところ)、幽妙の処で、文三は――全くとは云わず――稍々(やや)変生(うまれかわ)ッた。

 眼を改めてみれば、今まで為(し)て来た事は夢か将(は)た現(うつつ)か……と怪しまれる。

 お政の浮薄、今更いうまでも無い。が、過(あや)まッた文三は、――実に今まではお勢を見謬(みあや)まッていた。今となッて考えてみれば、お勢はさほど高潔でも無(ない)。移気、開豁(はで)、軽躁(かるはずみ)、それを高潔と取違えて、意味も無い外部の美、それを内部のと混同して、愧(はず)かしいかな、文三はお勢に心を奪われていた。

 我に心を動かしていると思ッたがあれが抑(そもそ)も誤まりの緒(いとぐち)。苟(かりそ)めにも人を愛するというからには、必ず先(ま)ず互いに天性気質を知りあわねばならぬ。けれども、お勢は初(はじめ)より文三の人と為(な)りを知ッていねば、よし多少文三に心を動かした如き形迹(けいせき)が有(あれ)ばとて、それは真に心を動かしていたではなく、只ほんの一時感染(かぶ)れていたので有ッたろう。

 感受の力の勝つ者は誰しも同じ事ながら、お勢は眼前に移り行く事や物やのうち少しでも新奇な物が有れば、眼早くそれを視て取ッて、直ちに心に思い染(し)める。けれども、惜しいかな、殆(ほとん)ど見たままで、別に烹煉(ほうれん)を加うるということをせずに、無造作にその物その事の見解を作ッてしまうから、自(おのずか)ら真相を看破(あきら)めるというには至らずして、動(やや)もすれば浅膚(せんぷ)の見(けん)に陥いる。それゆえ、その物に感染(かぶ)れて、眼色(めいろ)を変えて、狂い騒ぐ時を見れば、如何(いか)にも熱心そうに見えるものの、固(もと)より一時の浮想ゆえ、まだ真味を味(あじわ)わぬうちに、早くも熱が冷めて、厭気になッて惜し気もなく打棄ててしまう。感染(かぶ)れる事の早い代りに、飽きる事も早く、得る事に熱心な代りに、既に得た物を失うことには無頓着(むとんじゃく)。書物を買うにしても、そうで、買いたいとなると、矢も楯(たて)もなく買いたがるが、買ッてしまえば、余り読みもしない。英語の稽古(けいこ)を初めた時も、またその通りで、初めるまでは一日(じつ)をも争ッたが、初めてみれば、さほどに勉強もしない。万事そうした気風で有てみれば、お勢の文三に感染(かぶ)れたも、また厭(あ)いたも、その間にからまる事情を棄てて、単にその心状をのみ繹(たず)ねてみたら、恐らくはその様な事で有ろう。

 かつお勢は開豁(はで)な気質、文三は朴茂(じみ)な気質。開豁が朴茂に感染れたから、何処(どこ)か仮衣(かりぎ)をしたように、恰当(そぐ)わぬ所が有ッて、落着(おちつき)が悪かッたろう。悪ければ良くしようというが人の常情で有ッてみれば、仮令(たと)え免職、窮愁、耻辱(ちじょく)などという外部の激因が無いにしても、お勢の文三に対する感情は早晩一変せずにはいなかッたろう。

 お勢は実に軽躁(かるはずみ)で有る。けれども、軽躁で無い者が軽躁な事を為(し)ようとて為得ぬが如く、軽躁な者は軽躁な事を為まいと思ッたとて、なかなか為(し)ずにはおられまい。軽躁と自(みずか)ら認めている者すら、尚おこうしたもので有ッてみれば、況(ま)してお勢の如き、まだ我をも知らぬ、罪の無い処女が己(おのれ)の気質に克(か)ち得ぬとて、強(あなが)ちにそれを無理とも云えぬ。若(も)しお勢を深く尤(とが)む可(べ)き者なら、較(くら)べて云えば、稍々(やや)学問あり智識ありながら、尚お軽躁(けいそう)を免がれぬ、譬(たと)えば、文三の如き者は(はれやれ、文三の如き者は?)何としたもので有ろう?

 人事(ひとごと)で無い。お勢も悪るかッたが、文三もよろしく無かッた。「人の頭の蠅(はえ)を逐(お)うよりは先ず我頭のを逐え」――聞旧(ききふる)した諺(ことわざ)も今は耳新しく身に染(し)みて聞かれる。から、何事につけても、己(おのれ)一人(いちにん)をのみ責めて敢(あえ)て叨(みだ)りにお勢を尤(とが)めなかッた。が、如何に贔負眼(ひいきめ)にみても、文三の既に得た所謂(いわゆる)識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁(けいそう)と心附かねばこそ、身を軽躁に持崩しながら、それを憂(う)しとも思わぬ様子※[#白ゴマ点、190-1]醜穢(しゅうかい)と認めねばこそ、身を不潔な境に処(お)きながら、それを何とも思わぬ顔色(かおつき)。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢覚めて燈(ともしび)冷(ひやや)かなる時、想(おも)うてこの事に到れば、毎(つね)に悵然(ちょうぜん)として太息(たいそく)せられる。

 して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが甞(な)め足りぬそうな!

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