お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡(およ)そ二時間ばかりも、何か諄々(くどくど)と教誨(いいきか)せていたが、爾後(それから)は、どうしたものか、急に母子(おやこ)の折合が好(よく)なッて来た。取分けてお勢が母親に孝順(やさしく)する、折節には機嫌(きげん)を取るのかと思われるほどの事をも云う。親も子も睨(ね)める敵(かたき)は同じ文三ゆえ、こう比周(したしみあ)うもその筈(はず)ながら、動静(ようす)を窺(み)るに、只(ただ)そればかりでも無さそうで。
昇はその後ふッつり遊びに来ない。顔を視(み)れば鬩(いが)み合う事にしていた母子ゆえ、折合が付いてみれば、咄(はなし)も無く、文三の影口も今は道尽(いいつく)す、――家内が何時(いつ)からと無く湿ッて来た。
「ああ辛気(しんき)だこと!」と一夜(あるよ)お勢が欠(あく)びまじりに云ッて泪(なみだ)ぐンだ。
新聞を拾読(ひろいよみ)していたお政は眼鏡越しに娘を見遣(みや)ッて、「欠びをして徒然(つくねん)としていることは無(ない)やアね。本でも出して来てお復習(さらい)なさい」
「復習(さらえ)ッて」とお勢は鼻声になッて眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。
「明日(あした)の支度(したく)はもう済してしまッたものを」
「済ましッちまッたッて」
お政は復(また)新聞に取掛ッた。
「慈母(おっか)さん」とお勢は何をか憶出して事有り気に云ッた。「本田さんは何故(なぜ)来ないンだろう?」
「何故だか」
「憤(おこ)ッているのじゃないのだろうか?」
「そうかも知れない」
何を云ッても取合わぬゆえ、お勢も仕方なく口を箝(つぐ)んで、少(しばら)く物思わし気に洋燈(ランプ)を凝視(みつめ)ていたが、それでもまだ気に懸ると見えて、「慈母さん」
「何だよ?」と蒼蠅(うるさ)そうにお政は起直ッた。
「真個(ほんとう)に本田さんは憤ッて来ないのだろうか?」
「何を?」
「何をッて」と少し気を得て、「そら、この間来た時、私が構わなかったから……」
と母の顔を凝視た。
「なに人(ひと)」とお政は莞爾(にっこり)した、何と云ッてもまだおぼだなと云いたそうで。「お前に構ッて貰(もら)いたいンで来なさるンじゃ有るまいシ」
「あら、そうじゃ無いンだけれどもさ……」
と愧(はず)かしそうに自分も莞爾(にっこり)。
おほんという罪を作ッているとは知らぬから、昇が、例の通り、平気な顔をしてふいと遣ッて来た。
「おや、ま、噂(うわさ)をすれば影とやらだよ」とお政が顔を見るより饒舌(しゃべ)り付けた。「今貴君(あなた)の噂をしていた所(とこ)さ。え? 勿論(もちろん)さ、義理にも善くは云えないッさ……ははははは。それは情談だが、きついお見限りですね。何処(どこ)か穴でも出来たンじゃないかね? 出来たとえ? そらそら、それだもの、だから鰻男(うなぎおとこ)だということさ。ええ鰌(どじょう)で無くッてお仕合せ? 鰌とはえ? ……あ、ほンに鰌と云えば、向う横町に出来た鰻屋ね、ちょいと異(おつ)ですッさ。久し振りだッて、奢(おご)らなくッてもいいよ。はははは」
皺延(しわの)ばしの太平楽、聞くに堪えぬというは平日の事、今宵(こよい)はちと情実(わけ)が有るから、お勢は顔を皺(しか)めるはさて置き、昇の顔を横眼でみながら、追蒐(おっか)け引蒐(ひっか)けて高笑い。てれ隠(かく)しか、嬉(うれ)しさの溢(こぼ)れか当人に聞いてみねば、とんと分からず。
「今夜は大分御機嫌だが」と昇も心附いたか、お勢を調戯(なぶり)だす。「この間はどうしたもンだッた? 何を云ッても、『まだ明日(あした)の支度をしませんから』はッ、はッ、はッ、憶出すと可笑(おか)しくなる」
「だッて、気分が悪かッたンですものを」と淫哇(いやら)しい、形容も出来ない身振り。
「何が何だか、訳が解りゃアしません」
少ししらけた席の穴を填(うめ)るためか、昇が俄(にわ)かに問われもせぬ無沙汰(ぶさた)の分疏(いいわけ)をしだして、近ごろは頼まれて、一夜(よ)はざめに課長の所へ往(いっ)て、細君と妹に英語の下稽古をしてやる、という。「いや、迷惑な」と言葉を足す。
と聞いて、お政にも似合わぬ、正直な、まうけに受けて、その不心得を諭(さと)す、これが立身の踏台になるかも知れぬと云ッて。けれども、御弟子が御弟子ゆえ、飛だ事まで教えはすまいかと思うと心配だと高く笑う。
お勢は昇が課長の所へ英語を教えに往くと聞くより、どうしたものか、俄かに萎(しお)れだしたが、この時母親に釣(つ)られて淋(さび)しい顔で莞爾(にっこり)して、「令妹の名は何というの?」
「花とか耳とか云ッたッけ」
「余程出来るの?」
「英語かね? なアに、から駄目だ。Thank(サンク) you(ユー) for(フォア) your(ユアー) kind(カインド) だから、まだまだ」
お勢は冷笑の気味で、「それじゃアア……」
I(アイ) will(ウィル) ask(アスク) to(ツー) you(ユー) と云ッて今日教師に叱(しか)られた、それはこの時忘れていたのだから、仕方が無い。
「ときに、これは」と昇はお政の方を向いて親指を出してみせて、「どうしました、その後?」
「居ますよまだ」とお政は思い切りて顔を皺(しか)めた。
「ずうずうしいと思ッてねえ!」
「それも宜(いい)が、また何かお勢に云いましたッさ」
「お勢さんに?」
「はア」
「どんな事を?」
おッとまかせと饒舌(しゃべ)り出した、文三のお勢の部屋へ忍び込むから段々と順を逐(お)ッて、剰(あま)さず漏さず、おまけまでつけて。昇は顋(あご)を撫(な)でてそれを聴いていたが、お勢が悪たれた一段となると、不意に声を放ッて、大笑に笑ッて、「そいつア痛かッたろう」
「なにそン時こそ些(ちっと)ばかし可怪(おかし)な顔をしたッけが、半日も経(た)てば、また平気なものさ。なンと、本田さん、ずうずうしいじゃア有りませんか!」
「そうしてね、まだ私の事を浮気者だなンぞッて」
「ほんとにそんな事も云たそうですがね、なにも、そんなに腹がたつなら、此所(ここ)の家に居ないが宜じゃ有りませんか。私ならすぐ下宿か何かしてしまいまさア。それを、そんな事を云ッて置きながら、ずうずうしく、のべんくらりと、大飯を食らッて……ているとは何所(どこ)まで押(おし)が重(おもた)いンだか数(すう)が知れないと思ッて」
昇は苦笑いをしていた。暫時(しばらく)して返答とはなく、ただ、「何しても困ッたもンだね」
「ほんとに困ッちまいますよ」
困ッている所へ勝手口で、「梅本でござい」。梅本というは近処の料理屋。「おや家(うち)では……」とお政は怪しむ、その顔も忽(たちま)ち莞爾々々(にこにこ)となッた、昇の吩咐(いいつけ)とわかッて。
「それだからこの息子は可愛(かわい)いよ」。片腹痛い言(こと)まで云ッてやがて下女が持込む岡持の蓋(ふた)を取ッて見るよりまた意地の汚い言(こと)をいう。それを、今夜に限(かぎっ)て、平気で聞いているお勢どのの心持が解らない、と怪しんでいる間も有ればこそ、それッと炭を継(つ)ぐ、吹く、起こす、燗(かん)をつけるやら、鍋(なべ)を懸けるやら、瞬(またた)く間に酒となッた。
あいのおさえのという蒼蠅(うるさ)い事の無(ない)代(かわ)り、洒落(しゃれ)、担(かつ)ぎ合い、大口、高笑、都々逸(どどいつ)の素(す)じぶくり、替歌の伝受等(など)、いろいろの事が有ッたが、蒼蠅(うるさ)いからそれは略す。
刺身は調味(つま)のみになッて噎(おくび)で応答(うけこたえ)をするころになッて、お政は、例の所へでも往きたくなッたか、ふと起(た)ッて坐舗(ざしき)を出た。
と両人(ふたり)差向いになッた。顔を視合わせるとも無く視合わして、お勢はくすくすと吹出したが、急に真面目になッてちんと澄ます。
「これアおかしい。何がくすくすだろう?」
「何でも無いの」
「のぼる源氏のお顔を拝んで嬉しいか?」
「呆(あき)れてしまわア、ひょッとこ面(づら)の癖に」
「何だと?」
「綺麗(きれい)なお顔で御座いますということ」
昇は例の黙ッてお勢を睨(ね)め出す。
「綺麗なお顔だというンだから、ほほほ」と用心しながら退却(あとすざり)をして、「いいじゃア……おッ……」
ツと寄ッた昇がお勢の傍(そば)へ……空(くう)で手と手が閃(ひらめ)く、からまる……と鎮(しず)まッた所をみれば、お勢は何時(いつ)か手を握られていた。
「これがどうしたの?」と平気な顔。
「どうもしないが、こうまず俘虜(いけどり)にしておいてどッこい……」と振放そうとする手を握りしめる。
「あちちち」と顔を皺(しか)めて、「痛い事をなさるねえ!」
「ちッとは痛いのさ」
「放して頂戴(ちょうだい)よ。よう。放さないとこの手に喰付(くいつき)ますよ」
「喰付たいほど思えども……」と平気で鼻歌。
お勢はおそろしく顔を皺(しか)めて、甘たるい声で、「よう、放して頂戴と云えばねえ……声を立てますよ」
「お立てなさいとも」
と云われて一段声を低めて、「あら引[#「引」は小書き右寄せ]本田さんが引[#「引」は小書き右寄せ]手なんぞ握ッて引[#「引」は小書き右寄せ]ほほほ、いけません、ほほほ」
「それはさぞ引[#「引」は小書き右寄せ]お困りで御座いましょう引[#「引」は小書き右寄せ]」
「本統に放して頂戴よ」
「何故(なぜ)? 内海に知れると悪いか?」
「なにあんな奴に知れたッて……」
「じゃ、ちッとこうしてい給(たま)え。大丈夫だよ、淫褻(いたずら)なぞする本田にあらずだ……が、ちょッと……」と何やら小声で云ッて、「……位(ぐら)いは宜かろう?」
するとお勢は、どうしてか、急に心から真面目になッて、「あたしゃア知らないからいい……私(わた)しゃア……そんな失敬な事ッて……」
昇は面白そうにお勢の真面目くさッた顔を眺(なが)めて莞爾々々(にこにこ)しながら、「いいじゃないか? ただちょいと……」
「厭(いや)ですよ、そんな……よッ、放して頂戴と云えばねえッ」
一生懸命に振放そうとする、放させまいとする、暫時争ッていると、縁側に足音がする、それを聞くと、昇は我からお勢の手を放(はなし)て大笑に笑い出した。
ずッとお政が入ッて来た。
「叔母さん叔母さん、お勢さんを放飼(はなしがい)はいけないよ。今も人を捉(つかま)えて口説(くど)いて口説いて困らせ抜いた」
「あらあらあんな虚言(うそ)を吐(つ)いて……非道(ひど)い人だこと!……」
昇は天井を仰向いて、「はッ、はッ、はッ」