お勢は一旦(いったん)は文三を仂(はした)なく辱(はずかし)めはしたものの、心にはさほどにも思わんか、その後はただ冷淡なばかりで、さして辛(つら)くも当らん※[#白ゴマ点、207-16]が、それに引替えて、お政はますます文三を憎んで、始終出て行けがしに待遇(もてな)す。何か用事が有りて下座敷へ降りれば、家内中寄集(よりこぞ)りて、口を解(ほど)いて面白そうに雑談(ぞうだん)などしている時でも、皆云い合したように、ふと口を箝(つぐ)んで顔を曇らせる、といううちにも取分けてお政は不機嫌(ふきげん)な体(てい)で、少し文三の出ようが遅ければ、何を愚頭々々(ぐずぐず)していると云わぬばかりに、此方(こちら)を睨(ね)めつけ、時には気を焦(いら)ッて、聞えよがしに舌鼓(したつづみ)など鳴らして聞かせる事も有る。文三とても、白痴でもなく、瘋癲(ふうてん)でもなければ、それほどにされんでも、今ここで身を退(ひ)けば眉(まゆ)を伸べて喜ぶ者がそこらに沢山あることに心附かんでも無いから、心苦しいことは口に云えぬほどで有る、けれど、尚(な)お園田の家を辞し去ろうとは思わん。何故(なにゆえ)にそれほどまでに園田の家を去りたくないのか、因循な心から、あれほどにされても、尚おそのような角立った事は出来んか、それほどになっても、まだお勢に心が残るか、抑(そもそ)もまた、文三の位置では陥り易(やす)い謬(あやまり)、お勢との関繋(かんけい)がこのままになってしまッたとは情談らしくてそうは思えんのか? 総(すべ)てこれ等の事は多少は文三の羞(はじ)を忍んで尚お園田の家に居る原因となったに相違ないが、しかし、重な原因ではない。重な原因というは即(すなわ)ち人情の二字、この二字に覊絆(しばら)れて文三は心ならずも尚お園田の家に顔を皺(しか)めながら留(とどま)ッている。
心を留(とど)めて視(み)なくとも、今の家内の調子がむかしとは大(おおい)に相違するは文三にも解る。以前まだ文三がこの調子を成す一つの要素で有ッて、人々が眼を見合しては微笑し、幸福といわずして幸福を楽んでいたころは家内全体に生温(なまぬる)い春風が吹渡ッたように、総て穏(おだやか)に、和いで、沈着(おちつ)いて、見る事聞く事が尽(ことごと)く自然に適(かな)ッていたように思われた。そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、我も人も皆何か不足を感じながら、強(あなが)ちにそれを足そうともせず、却(かえ)って今は足らぬが当然と思っていたように、急(せ)かず、騒がず、優游(ゆうゆう)として時機の熟するを竢(ま)っていた、その心の長閑(のどか)さ、寛(ゆるやか)さ、今憶(おも)い出しても、閉じた眉が開くばかりな……そのころは人々の心が期せずして自(おのずか)ら一致し、同じ事を念(おも)い、同じ事を楽んで、強(あなが)ちそれを匿(か)くそうともせず、また匿くすまいともせず※[#白ゴマ点、209-6]胸に城郭を設けぬからとて、言って花の散るような事は云わず、また聞こうともせず、まだ妻でない妻、夫でない夫、親で無い親、――も、こう三人集ッたところに、誰が作り出すともなく、自らに清く、穏な、優しい調子を作り出して、それに随(つ)れて物を言い、事をしたから、人々があたかも平生の我よりは優(まさ)ったようで、お政のような婦人でさえ、尚お何処(どこ)か頼もし気な所が有ったのみならず、却ってこれが間に介(はさ)まらねば、余り両人(ふたり)の間が接近しすぎて穏さを欠くので、お政は文三等の幸福を成すに無(なく)て叶(かな)わぬ人物とさえ思われた。が、その温(あたたか)な愛念も、幸福な境界(きょうがい)も、優しい調子も、嬉(うれ)しそうに笑う眼元も口元も、文三が免職になッてから、取分けて昇が全く家内へ立入ったから、皆突然に色が褪(さ)め、気が抜けだして、遂(つい)に今日この頃のこの有様となった……
今の家内の有様を見れば、もはや以前のような和いだ所も無ければ、沈着(おちつ)いた所もなく、放心(なげやり)に見渡せば、総て華(はなや)かに、賑(にぎや)かで、心配もなく、気あつかいも無く、浮々(うかうか)として面白そうに見えるものの、熟々(つらつら)視れば、それは皆衣物(きもの)で、体(はだかみ)にすれば、見るも汚(けがら)わしい私欲、貪婪(どんらん)、淫褻(いんせつ)、不義、無情の塊(かたまり)で有る。以前人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢(あか)を洗った愛念もなく、人々己(おのれ)一個の私(わたくし)をのみ思ッて、己(おの)が自恣(じし)に物を言い、己が自恣に挙動(たちふるま)う※[#白ゴマ点、210-4]欺(あざむ)いたり、欺かれたり、戯言(ぎげん)に託して人の意(こころ)を測ッてみたり、二つ意味の有る言(こと)を云ってみたり、疑ッてみたり、信じてみたり、――いろいろさまざまに不徳を尽す。
お政は、いうまでもなく、死灰(しかい)の再び燃えぬうちに、早く娘を昇に合せて多年の胸の塊を一時におろしてしまいたいが、娘が、思うように、如才なくたちまわらんので、それで歯癢(はがゆ)がって気を揉(も)み散らす。昇はそれを承知しているゆえ、後(のち)の面倒を慮(おも)って迂濶(うかつ)に手は出さんが、罠(わな)のと知りつつ、油鼠(あぶらねずみ)の側(そば)を去られん老狐(ふるぎつね)の如くに、遅疑しながらも、尚おお勢の身辺を廻って、横眼で睨(にら)んでは舌舐(したねぶ)りをする(文三は何故か昇の妻となる者は必ず愚(おろか)で醜い代り、権貴な人を親に持った、身柄(みがら)の善い婦人とのみ思いこんでいる)。お政は昇の意(こころ)を見抜いてい、昇もまたお政の意を見抜いている※[#白ゴマ点、210-12]しかも互に見抜れていると略(ほ)ぼ心附いている。それゆえに、故(ことさ)らに無心な顔を作り、思慮の無い言(こと)を云い、互に瞞着(まんちゃく)しようと力(つと)めあうものの、しかし、双方共力は牛角(ごかく)のしたたかものゆえ、優(まさり)もせず、劣(おとり)もせず、挑(いど)み疲れて今はすこし睨合(にらみあい)の姿となった。総てこれ等の動静(ようす)は文三も略(ほ)ぼ察している。それを察しているから、お勢がこのような危い境に身を処(お)きながら、それには少しも心附かず、私欲と淫欲とが爍(れき)して出来(でか)した、軽く、浮いた、汚(けがら)わしい家内の調子に乗せられて、何心なく物を言っては高笑(たかわらい)をする、その様子を見ると、手を束(つか)ねて安座していられなくなる。
お勢は今甚(はなは)だしく迷っている、豕(いのこ)を抱(いだ)いて臭きを知らずとかで、境界(きょうがい)の臭みに居ても、おそらくは、その臭味がわかるまい。今の心の状(さま)を察するに、譬(たと)えば酒に酔ッた如くで、気は暴(あれ)ていても、心は妙に昧(くら)んでいるゆえ、見る程の物聞く程の事が眼や耳やへ入ッても底の認識までは届かず、皆中途で立消をしてしまうであろう※[#白ゴマ点、211-5]また徒(た)だ外界と縁遠くなったのみならず、我内界とも疎(うと)くなったようで、我心ながら我心の心地はせず、始終何か本体の得知れぬ、一種不思議な力に誘(いざな)われて言動作息(さそく)するから、我(われ)にも我が判然とは分るまい、今のお勢の眼には宇宙は鮮(あざや)いで見え、万物は美しく見え、人は皆我一人(われいちにん)を愛して我一人のために働いているように見えよう※[#白ゴマ点、211-9]若(も)し顔を皺(しか)めて溜息(ためいき)を吐(つ)く者が有れば、この世はこれほど住みよいに、何故人はそう住み憂(う)く思うか、殆(ほとん)どその意(こころ)を解し得まい※[#白ゴマ点、211-10]また人の老やすく、色の衰え易いことを忘れて、今の若さ、美しさは永劫(えいごう)続くように心得て未来の事などは全く思うまい、よし思ッたところで、華かな、耀(かがや)いた未来の外は夢にも想像に浮ぶまい。昇に狎(な)れ親んでから、お勢は故(もと)の吾を亡(な)くした、が、それには自分も心附くまい※[#白ゴマ点、211-13]お勢は昇を愛しているようで、実は愛してはいず、只昇に限らず、総て男子に、取分けて、若い、美しい男子に慕われるのが何(なに)となく快いので有ろうが、それにもまた自分は心附いていまい。これを要するに、お勢の病(やまい)は外(ほか)から来たばかりではなく、内からも発したので、文三に感染(かぶ)れて少し畏縮(いじけ)た血気が今外界の刺激を受けて一時に暴(あ)れだし、理性の口をも閉じ、認識の眼を眩(くら)ませて、おそろしい力を以(もっ)て、さまざまの醜態に奮見するので有ろう。若しそうなれば、今がお勢の一生中で尤(もっと)も大切な時※[#白ゴマ点、212-2]能(よ)く今の境界を渡り課(おお)せれば、この一時(ひととき)にさまざまの経験を得て、己の人と為(な)りをも知り、所謂(いわゆる)放心を求め得て始て心でこの世を渡るようになろうが、若し躓(つまず)けばもうそれまで、倒(たおれ)たままで、再び起上る事も出来まい。物のうちの人となるもこの一時(ひととき)、人の中(うち)の物となるもまたこの一時※[#白ゴマ点、212-5]今が浮沈の潮界(しおざかい)、尤も大切な時で有るに、お勢はこの危い境を放心(うっかり)して渡ッていて何時(いつ)眼が覚めようとも見えん。
このままにしては置けん。早く、手遅れにならんうちに、お勢の眠(ねぶ)った本心を覚まさなければならん、が、しかし誰がお勢のためにこの事に当ろう?
見渡したところ、孫兵衛は留守、仮令(たとい)居たとて役にも立たず、お政は、あの如く、娘を愛する心は有りても、その道を知らんから、娘の道心を縊殺(しめころ)そうとしていながら、しかも得意顔(したりがお)でいるほどゆえ、固(もと)よりこれは妨(さまたげ)になるばかり、ただ文三のみは、愚昧(ぐまい)ながらも、まだお勢よりは少しは智識も有り、経験も有れば、若しお勢の眼を覚ます者が必要なら、文三を措いて誰(たれ)がなろう?
と、こうお勢を見棄(みすて)たくないばかりでなく、見棄ては寧(むし)ろ義理に背(そむ)くと思えば、凝性(こりしょう)の文三ゆえ、もウ余事は思ッていられん、朝夕只この事ばかりに心を苦めて悶苦(もだえくるし)んでいるから、あたかも感覚が鈍くなったようで、お政が顔を皺(しか)めたとて、舌鼓を鳴らしたとて、その時ばかり少し居辛(いづら)くおもうのみで、久しくそれに拘(かかずら)ってはいられん。それでこう邪魔にされると知りつつ、園田の家を去る気にもなれず、いまに六畳の小座舗(こざしき)に気を詰らして始終壁に対(むか)ッて歎息(たんそく)のみしているので。
歎息のみしているので、何故なればお勢を救おうという志は有っても、その道を求めかねるから。「どうしたものだろう?」という問は日に幾度(いくたび)となく胸に浮ぶが、いつも浮ぶばかりで、答を得ずして消えてしまい、その跡に残るものは只不満足の三字。その不満足の苦を脱(のが)れようと気をあせるから、健康(すこやか)な智識は縮んで、出過た妄想(ぼうそう)が我から荒出(あれだ)し、抑えても抑え切れなくなッて、遂にはまだどうしてという手順をも思附き得ぬうちに、早くもお勢を救い得た後(のち)の楽しい光景(ありさま)が眼前(めさき)に隠現(ちらつ)き、払っても去らん事が度々有る。
しかし、始終空想ばかりに耽(ふけ)ッているでも無い※[#白ゴマ点、213-9]多く考えるうちには少しは稍々(やや)行われそうな工夫を付ける、そのうちでまず上策というは、この頃の家内(かない)の動静(ようす)を詳く叔父の耳へ入れて父親の口から篤(とく)とお勢に云い聞かせる、という一策で有る。そうしたら、或はお勢も眼が覚めようかと思われる。が、また思い返せば、他人の身の上なればともかくも、我と入組んだ関繋の有るお勢の身の上をかれこれ心配してその親の叔父に告げると何(なに)となく後めだくてそうも出来ん。仮使(たとい)思い切ッてそうしたところで、叔父はお勢を諭(さと)し得ても、我儘(わがまま)なお政は説き伏せるをさて置き、却(かえ)ッて反対にいいくるめられるも知れん、と思えば、なるべくは叔父に告げずして事を収めたい。叔父に告げずして事を収めようと思えば、今一度お勢の袖(そで)を扣(ひか)えて打附(うちつ)けに掻口説(かきくど)く外、他に仕方もないが、しかし、今の如くに、こう齟齬(くいちが)ッていては言ったとて聴きもすまいし、また毛を吹いて疵(きず)を求めるようではと思えば、こうと思い定めぬうちに、まず気が畏縮(いじ)けて、どうもその気にもなれん。から、また思い詰めた心を解(ほご)して、更に他にさまざまの手段を思い浮べ、いろいろに考え散してみるが、一つとして行われそうなのも見当らず、回(めぐ)り回ッてまた旧(もと)の思案に戻って苦しみ悶(もだ)えるうちに、ふと又例の妄想(もうそう)が働きだして無益な事を思わせられる。時としては妙な気になッて、総てこの頃の事は皆一時(じ)の戯(たわぶれ)で、お勢は心から文三に背(そむ)いたのでは無くて、只背いた風(ふり)をして文三を試ているので、その証拠には今にお勢が上って来て、例の華かな高笑で今までの葛藤(もだくだ)を笑い消してしまおうと思われる事が有る※[#白ゴマ点、214-8]が、固より永くは続かん※[#白ゴマ点、214-8]無慈悲な記憶が働きだしてこの頃あくたれた時のお勢の顔を憶い出させ、瞬息の間(ま)にその快い夢を破ってしまう。またこういう事も有る※[#白ゴマ点、214-10]ふと気が渝(かわ)って、今こう零落していながら、この様な薬袋(やくたい)も無い事に拘(かかずら)ッて徒(いたずら)に日を送るを極(きわめ)て愚(ぐ)のように思われ、もうお勢の事は思うまいと、少時(しばらく)思の道を絶ッてまじまじとしていてみるが、それではどうも大切な用事を仕懸けて罷(や)めたようで心が落居(おちい)ず、狼狽(うろたえ)てまたお勢の事に立戻って悶え苦しむ。
人の心というものは同一の事を間断なく思ッていると、遂に考え草臥(くたびれ)て思弁力の弱るもので。文三もその通り、始終お勢の事を心配しているうちに、何時からともなく注意が散って一事(ひとこと)には集らぬようになり、おりおり互に何の関係をも持たぬ零々砕々(ちぎれちぎれ)の事を取締(とりしめ)もなく思う事も有った。曾(か)つて両手を頭(かしら)に敷き、仰向けに臥(ふ)しながら天井を凝視(みつ)めて初は例の如くお勢の事をかれこれと思っていたが、その中(うち)にふと天井の木目(もくめ)が眼に入って突然妙な事を思った※[#白ゴマ点、215-2]「こう見たところは水の流れた痕(あと)のようだな」、こう思うと同時にお勢の事は全く忘れてしまった、そして尚お熟々(つくづく)とその木目に視入って、「心の取り方に依っては高低(たかびく)が有るようにも見えるな。ふふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」。ふと文三等に物理を教えた外国教師の立派な髯(ひげ)の生えた顔を憶い出すと、それと同時にまた木目の事は忘れてしまった。続いて眼前(めさき)に七八人の学生が現われて来たと視れば、皆同学の生徒等で、或は鉛筆を耳に挿(はさ)んでいる者も有れば、或は書物を抱えている者も有り又は開いて視ている者も有る。能く視れば、どうか文三もその中(うち)に雑(まじ)っているように思われる。今越歴(エレキ)の講義が終ッて試験に掛る所で、皆「えれくとりある、ましん」の周囲(まわり)に集って、何事とも解らんが、何か頻(しき)りに云い争いながら騒いでいるかと思うと、忽(たちま)ちその「ましん」も生徒も烟(けぶり)の如く痕迹(あとかた)もなく消え失(う)せて、ふとまた木目が眼に入った。「ふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」と云って、何故(なにゆえ)ともなく莞爾(にっこり)した。「『いるりゅうじょん』と云えば、今まで読だ書物の中でさるれえの「いるりゅうじょんす」ほど面白く思ったものは無いな。二日一晩に読切ってしまったっけ。あれほどの頭にはどうしたらなるだろう。余程組織が緻密(ちみつ)に違いない……」。さるれえの脳髄とお勢とは何の関係も無さそうだが、この時突然お勢の事が、噴水の迸(ほとばし)る如くに、胸を突いて騰(あが)る。と、文三は腫物(はれもの)にでも触(さわ)られたように、あっと叫びながら、跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もうその事は忘れてしまッた、何のために跳ね起きたとも解らん。久く考えていて、「あ、お勢の事か」と辛(から)くして憶い出しは憶い出しても、宛然(さながら)世を隔てた事の如くで、面白くも可笑(おかしく)も無く、そのままに思い棄てた、暫(しばら)くは惘然(ぼうぜん)として気の抜けた顔をしていた。
こう心の乱れるまでに心配するが、しかし只心配するばかりで、事実には少しも益が無いから、自然は己(おの)が為(す)べき事をさっさっとして行ってお勢は益々深味へ陥る。その様子を視て、さすがの文三も今は殆ど志を挫(くじ)き、とても我力にも及ばんと投首(なげくび)をした。
が、その内にふと嬉しく思い惑う事に出遇(であ)ッた。というは他の事でも無い、お勢が俄(にわか)に昇と疎々(うとうと)しくなった、その事で。それまではお勢の言動に一々目を注(つ)けて、その狂う意(こころ)の跟(あと)を随(した)いながら、我も意(こころ)を狂わしていた文三もここに至って忽(たちま)ち道を失って暫く思念の歩(あゆみ)を留(とど)めた。あれ程までにからんだ両人(ふたり)の関繋が故なくして解(ほつ)れてしまう筈(はず)は無いから、早まって安心はならん。けれど、喜ぶまいとしても、喜ばずにはいられんはお勢の文三に対する感情の変動で、その頃までは、お政程には無くとも、文三に対して一種の敵意を挟(さしはさ)んでいたお勢が俄に様子を変えて、顔を※(あか)[#「赤+報のつくり」、216-13]らめ合(あっ)た事は全く忘れたようになり、眉(まゆ)を皺(しか)め眼の中(うち)を曇らせる事はさて置き、下女と戯(たわぶ)れて笑い興じている所へ行きがかりでもすれば、文三を顧みて快気(こころよげ)に笑う事さえ有る。この分なら、若し文三が物を言いかけたら、快く返答するかと思われる。四辺(あたり)に人眼が無い折などには、文三も数々(しばしば)話しかけてみようかとは思ったが、万一(ばんいち)に危む心から、暫く差控ていた――差控ているは寧(む)しろ愚に近いとは思いながら、尚お差控ていた。
編物を始めた四五日後の事で有った、或日の夕暮、何か用事が有って文三は奥座敷へ行(ゆ)こうとて、二階を降りてと見ると、お勢が此方(こちら)へ背を向けて縁端(えんばな)に佇立(たたず)んでいる。少しうなだれて何か一心に為(し)ていたところ、編物かと思われる。珍らしいうちゆえと思いながら、文三は何心なくお勢の背後(うしろ)を通り抜けようとすると、お勢が彼方(あちら)向いたままで、突然「まだかえ?」という。勿論人違(ひとたがえ)と見える。が、この数週(すしゅう)の間妄想(ぼうそう)でなければ言葉を交(まじ)えた事の無いお勢に今思い掛なくやさしく物を言いかけられたので、文三ははっと当惑して我にも無く立留る、お勢も返答の無いを不思議に思ってか、ふと此方(こちら)を振向く途端に、文三と顔を相視(みあわ)しておッと云って驚いた、しかし驚きは驚いても、狼狽(うろたえ)はせず、徒(ただ)莞爾(にっこり)したばかりで、また彼方(あちら)向いて、そして編物に取掛ッた。文三は酒に酔った心地、どう仕ようという方角もなく、只茫然(ぼうぜん)として殆ど無想の境に彷徨(さまよ)ッているうちに、ふと心附いた、は今日お政が留守の事。またと無い上首尾。思い切って物を言ってみようか……と思い掛けてまたそれと思い定めぬうちに、下女部屋の紙障(しょうじ)がさらりと開く、その音を聞くと文三は我にも無く突(つ)と奥座敷へ入ッてしまった――我にも無く、殆ど見られては不可(わるい)とも思わずして。奥座敷へ入ッて聞いていると、やがてお鍋がお勢の側(そば)まで来て、ちょいと立留ッた光景(けはい)で「お待遠うさま」という声が聞えた。お勢は返答をせず、只何か口疾(くちばや)に囁(ささや)いた様子で、忍音(しのびね)に笑う声が漏れて聞えると、お鍋の調子外(はずれ)の声で「ほんとに内海(うつ)……」「しッ!……まだ其所(そこ)に」と小声ながら聞取れるほどに「居るんだよ」。お鍋も小声になりて「ほんとう?」「ほんとうだよ」
こう成(なっ)て見ると、もう潜(ひそまッ)ているも何となく極(きまり)が悪くなって来たから、文三が素知らぬ顔をしてふッと奥座敷を出る、その顔をお鍋は不思議そうに眺(なが)めながら、小腰を屈(ひく)めて「ちょいとお湯へ」と云ッてから、ふと何か思い出して、肝(きも)を潰(つぶ)した顔をして周章(あわて)て、「それから、あの、若し御新造(ごしんぞ)さまがお帰(かえん)なすって御膳(ごぜん)を召上(めしやが)ると仰(おッしゃ)ッたら、お膳立をしてあの戸棚(とだな)へ入れときましたから、どうぞ……お嬢さま、もう直(すぐ)宜(よ)うござんすか? それじゃア行ってまいります」。お勢は笑い出しそうな眼元でじろり文三の顔を掠(かす)めながら、手ばしこく手で持っていた編物を奥座敷へ投入れ、何やらお鍋に云って笑いながら、面白そうに打連れて出て行った。主従とは云いながら、同程(おなじほど)の年頃ゆえ、双方とも心持は朋友(ほうゆう)で、尤(もっと)もこれは近頃こうなッたので、以前はお勢の心が高ぶっていたから、下女などには容易に言葉をもかけなかった。
出て行くお勢の後姿を目送(みおく)って、文三は莞爾(にっこり)した。どうしてこう様子が渝(かわ)ったのか、それを疑っているに遑(いとま)なく、ただ何となく心嬉しくなって、莞爾(にっこり)した。それからは例の妄想(もうそう)が勃然(ぼつぜん)と首を擡(もた)げて抑えても抑え切れぬようになり、種々(さまざま)の取留(とりとめ)も無い事が続々胸に浮んで、遂には総(すべ)てこの頃の事は皆文三の疑心から出た暗鬼で、実際はさして心配する程の事でも無かったかとまで思い込んだ。が、また心を取直して考えてみれば、故無くして文三を辱(はずかし)めたといい、母親に忤(さから)いながら、何時しかそのいうなりに成ったといい、それほどまで親かった昇と俄に疏々(うとうと)しくなったといい、――どうも常事(ただごと)でなくも思われる。と思えば、喜んで宜いものか、悲んで宜いものか、殆ど我にも胡乱(うろん)になって来たので、あたかも遠方から撩(こそぐ)る真似をされたように、思い切っては笑う事も出来ず、泣く事も出来ず、快と不快との間に心を迷せながら、暫く縁側を往きつ戻りつしていた。が、とにかく物を云ったら、聞いていそうゆえ、今にも帰ッて来たら、今一度運を試して聴かれたらその通り、若し聴かれん時にはその時こそ断然叔父の家を辞し去ろうと、遂にこう決心して、そして一(ひ)と先(まず)二階へ戻った。
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底本:「浮雲」新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年12月15日初版発行
1997(平成9)年4月10日81刷
初出:「新編浮雲」金港堂
1887(明治20)年6月発行
※「」と「匆」、「」と「耋」、「掻頭」と「挿頭」、「座舗」と「坐舗」の混在は底本通りです。
入力:佐野暢之、任天堂
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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[#…]は、入力者による注を表す記号です。
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「参らせ候」のくずし字 13-8、13-9、13-11、13-12、103-14
「赤+報のつくり」 22-13、50-8、74-9、87-7、96-9、117-7、117-12、162-17、205-14、216-13
白ゴマ点 169-10、178-15、181-17、190-1、199-16、199-17、200-17、202-5、206-14、207-16、209-6、210-4、210-12、211-5、211-9、211-10、211-13、212-2、212-5、213-9、214-8、214-8、214-10、215-2
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