高い男と仮に名乗らせた男は、本名を内海文三(うつみぶんぞう)と言ッて静岡県の者で、父親は旧幕府に仕えて俸禄(ほうろく)を食(はん)だ者で有ッたが、幕府倒れて王政古(いにしえ)に復(かえ)り時津風(ときつかぜ)に靡(なび)かぬ民草(たみぐさ)もない明治の御世(みよ)に成ッてからは、旧里静岡に蟄居(ちっきょ)して暫(しば)らくは偸食(とうしょく)の民となり、為(な)すこともなく昨日(きのう)と送り今日と暮らす内、坐して食(くら)えば山も空(むな)しの諺(ことわざ)に漏(も)れず、次第々々に貯蓄(たくわえ)の手薄になるところから足掻(あが)き出したが、さて木から落ちた猿猴(さる)の身というものは意久地の無い者で、腕は真陰流に固ッていても鋤鍬(すきくわ)は使えず、口は左様(さよう)然(しか)らばと重く成ッていて見れば急にはヘイの音(ね)も出されず、といって天秤(てんびん)を肩へ当るも家名の汚(けが)れ外聞が見ッとも宜(よ)くないというので、足を擂木(すりこぎ)に駈廻(かけまわ)ッて辛(から)くして静岡藩の史生に住込み、ヤレ嬉(うれ)しやと言ッたところが腰弁当の境界(きょうがい)、なかなか浮み上る程には参らぬが、デモ感心には多(おおく)も無い資本を吝(おし)まずして一子文三に学問を仕込む。まず朝勃然(むっくり)起る、弁当を背負(しょ)わせて学校へ出(だし)て遣(や)る、帰ッて来る、直ちに傍近の私塾へ通わせると言うのだから、あけしい間がない。とても余所外(よそほか)の小供では続かないが、其処(そこ)は文三、性質が内端(うちば)だけに学問には向くと見えて、余りしぶりもせずして出て参る。尤(もっと)も途(みち)に蜻蛉(とんぼ)を追う友を見てフト気まぐれて遊び暮らし、悄然(しょんぼり)として裏口から立戻ッて来る事も無いではないが、それは邂逅(たまさか)の事で、ママ大方は勉強する。その内に学問の味も出て来る、サア面白くなるから、昨日(きのう)までは督責(とくせき)されなければ取出さなかッた書物をも今日は我から繙(ひもと)くようになり、随(したが)ッて学業も進歩するので、人も賞讃(ほめそや)せば両親も喜ばしく、子の生長(そだち)にその身の老(おゆ)るを忘れて春を送り秋を迎える内、文三の十四という春、待(まち)に待た卒業も首尾よく済だのでヤレ嬉しやという間もなく、父親は不図感染した風邪(ふうじゃ)から余病を引出し、年比(としごろ)の心労も手伝てドット床に就(つ)く。薬餌(やくじ)、呪(まじない)、加持祈祷(かじきとう)と人の善いと言う程の事を為尽(しつく)して見たが、さて験(げん)も見えず、次第々々に頼み少なに成て、遂(つい)に文三の事を言い死(じに)にはかなく成てしまう。生残た妻子の愁傷は実に比喩(たとえ)を取るに言葉もなくばかり、「嗟矣(ああ)幾程(いくら)歎いても仕方がない」トいう口の下からツイ袖(そで)に置くは泪(なみだ)の露、漸(ようや)くの事で空しき骸(から)を菩提所(ぼだいしょ)へ送りて荼毘(だび)一片の烟(けぶり)と立上らせてしまう。さて人(かせぎにん)が没してから家計は一方ならぬ困難、薬礼(やくれい)と葬式の雑用(ぞうよう)とに多(おおく)もない貯叢(たくわえ)をゲッソリ遣い減らして、今は残り少なになる。デモ母親は男勝(おとこまさ)りの気丈者、貧苦にめげない煮焚(にたき)の業(わざ)の片手間に一枚三厘の襯衣(シャツ)を縫(く)けて、身を粉(こ)にして了(かせ)ぐに追付く貧乏もないか、どうかこうか湯なり粥(かゆ)なりを啜(すすっ)て、公債の利の細い烟(けぶり)を立てている。文三は父親の存生中(ぞんじょうちゅう)より、家計の困難に心附かぬでは無いが、何と言てもまだ幼少の事、何時(いつ)までもそれで居られるような心地がされて、親思いの心から、今に坊がああしてこうしてと、年齢(とし)には増せた事を言い出しては両親に袂(たもと)を絞らせた事は有(あっ)ても、又何処(どこ)ともなく他愛(たわい)のない所も有て、浪(なみ)に漂う浮艸(うきぐさ)の、うかうかとして月日を重ねたが、父の死後便(たより)のない母親の辛苦心労を見るに付け聞くに付け、小供心にも心細くもまた悲しく、始めて浮世の塩が身に浸(し)みて、夢の覚たような心地。これからは給事なりともして、母親の手足(たそく)にはならずとも責めて我口だけはとおもう由(よし)をも母に告げて相談をしていると、捨る神あれば助(たすく)る神ありで、文三だけは東京(とうけい)に居る叔父の許(もと)へ引取られる事になり、泣(なき)の泪(なみだ)で静岡を発足(ほっそく)して叔父を便(たよ)って出京したは明治十一年、文三が十五に成た春の事とか。
叔父は園田孫兵衛(そのだまごべえ)と言いて、文三の亡父の為めには実弟に当る男、慈悲深く、憐(あわれ)ッぽく、しかも律義(りちぎ)真当(まっとう)の気質ゆえ人の望(う)けも宜いが、惜(おしい)かな些(ち)と気が弱すぎる。維新後は両刀を矢立(やたて)に替えて、朝夕算盤(そろばん)を弾(はじ)いては見たが、慣れぬ事とて初の内は損毛(そんもう)ばかり、今日に明日(あす)にと喰込(くいこん)で、果は借金の淵(ふち)に陥(は)まり、どうしようこうしようと足掻(あが)き(もが)いている内、不図した事から浮み上(あがっ)て当今では些とは資本も出来、地面をも買い小金をも貸付けて、家を東京に持ちながら、その身は浜のさる茶店(さてん)の支配人をしている事なれば、左而已(さのみ)富貴(ふっき)と言うでもないが、まず融通(ゆとり)のある活計(くらし)。留守を守る女房のお政(まさ)は、お摩(さす)りからずるずるの後配(のちぞい)、歴(れっき)とした士族の娘と自分ではいうが……チト考え物。しかしとにかく如才のない、世辞のよい、地代から貸金の催促まで家事一切独(ひとり)で切って廻る程あって、万事に抜目のない婦人。疵瑕(きず)と言ッては唯(ただ)大酒飲みで、浮気で、しかも針を持つ事がキツイ嫌(きら)いというばかり。さしたる事もないが、人事はよく言いたがらぬが世の習い、「あの婦人(おんな)は裾張蛇(すそっぱりじゃ)の変生(へんしょう)だろう」ト近辺の者は影人形を使うとか言う。夫婦の間に二人の子がある。姉をお勢(せい)と言ッて、その頃はまだ十二の蕾(つぼみ)、弟(おとと)を勇(いさみ)と言ッて、これもまた袖で鼻汁(はな)拭(ふ)く湾泊盛(わんぱくざか)り(これは当今は某校に入舎していて宅には居らぬので)、トいう家内ゆえ、叔母一人の機(き)に入ればイザコザは無いが、さて文三には人の機嫌(きげん)気褄(きづま)を取るなどという事は出来ぬ。唯心ばかりは主(しゅう)とも親とも思ッて善く事(つか)えるが、気が利(き)かぬと言ッては睨付(ねめつ)けられる事何時も何時も、その度ごとに親の難有(ありがた)サが身に染(し)み骨に耐(こた)えて、袖に露を置くことは有りながら、常に自ら叱(しか)ッてジット辛抱、使歩行(つかいある)きをする暇(いとま)には近辺の私塾へ通学して、暫(しばら)らく悲しい月日を送ッている。ト或る時、某学校で生徒の召募があると塾での評判取り取り、聞けば給費だという。何も試しだと文三が試験を受けて見たところ、幸いにして及第する、入舎する、ソレ給費が貰(もら)える。昨日(きのう)までは叔父の家とは言いながら食客(いそうろう)の悲しさには、追使われたうえ気兼苦労而已(のみ)をしていたのが、今日は外(ほか)に掣肘(ひかれ)る所もなく、心一杯に勉強の出来る身の上となったから、ヤ喜んだの喜ばないのと、それはそれは雀躍(こおどり)までして喜んだが、しかし書生と言ッてもこれもまた一苦界(ひとくがい)。固(もと)より余所(よそ)外(ほか)のおぼッちゃま方とは違い、親から仕送りなどという洒落(しゃれ)はないから、無駄遣(むだづか)いとては一銭もならず、また為(し)ようとも思わずして、唯(ただ)一心に、便(たより)のない一人の母親の心を安めねばならぬ、世話になった叔父へも報恩(おんがえし)をせねばならぬ、と思う心より、寸陰を惜んでの刻苦勉強に学業の進みも著るしく、何時の試験にも一番と言ッて二番とは下(さが)らぬ程ゆえ、得難い書生と教員も感心する。サアそうなると傍(はた)が喧(やか)ましい。放蕩(ほうとう)と懶惰(らんだ)とを経緯(たてぬき)の糸にして織上(おりあがっ)たおぼッちゃま方が、不負魂(まけじだましい)の妬(ねた)み嫉(そね)みからおむずかり遊ばすけれども、文三はそれ等の事には頓着(とんじゃく)せず、独りネビッチョ除(の)け物と成ッて朝夕勉強三昧(ざんまい)に歳月を消磨する内、遂に多年蛍雪(けいせつ)の功が現われて一片の卒業証書を懐(いだ)き、再び叔父の家を東道(あるじ)とするように成ッたからまず一安心と、それより手を替え品を替え種々(さまざま)にして仕官の口を探すが、さて探すとなると無いもので、心ならずも小半年ばかり燻(くすぶ)ッている。その間始終叔母にいぶされる辛らさ苦しさ、初(はじめ)は叔母も自分ながらけぶそうな貌(かお)をして、やわやわ吹付けていたからまず宜(よか)ッたが、次第にいぶし方に念が入ッて来て、果は生松葉(なままつば)に蕃椒(とうがらし)をくべるように成ッたから、そのけぶいことこの上なし。文三も暫らくは鼻をも潰(つぶ)していたれ、竟(つい)には余りのけぶさに堪え兼て噎返(むせかえ)る胸を押鎮(おししず)めかねた事も有ッたが、イヤイヤこれも自分が不甲斐(ふがい)ないからだと、思い返してジット辛抱。そういうところゆえ、その後或人の周旋で某省の准(じゅん)判任御用係となッた時は天へも昇る心地がされて、ホッと一息吐(つ)きは吐いたが、始て出勤した時は異(おつ)な感じがした。まず取調物を受取って我坐になおり、さて落着て居廻りを視回(みまわ)すと、仔細(しさい)らしく頸(くび)を傾(かたぶ)けて書物(かきもの)をするもの、蚤取眼(のみとりまなこ)になって校合(きょうごう)をするもの、筆を啣(くわ)えて忙(いそがわ)し気に帳簿を繰るものと種々さまざま有る中に、ちょうど文三の真向うに八字の浪を額に寄せ、忙(いそがわ)しく眼をしばたたきながら間断(たゆみ)もなく算盤を弾(はじ)いていた年配五十前後の老人が、不図手を止(とど)めて珠へ指ざしをしながら、「エー六五七十の二……でもなしとエー六五」ト天下の安危この一挙に在りと言ッた様な、さも心配そうな顔を振揚げて、その癖口をアンゴリ開いて、眼鏡(めがね)越しにジット文三の顔を見守(みつ)め、「ウー八十の二か」ト一越(いちおつ)調子高な声を振立ててまた一心不乱に弾き出す。余りの可笑(おか)しさに堪えかねて、文三は覚えずも微笑したが、考えて見れば笑う我と笑われる人と余り懸隔のない身の上。アア曾(かつ)て身の油に根気の心(しん)を浸し、眠い眼を睡(ね)ずして得た学力(がくりき)を、こんなはかない馬鹿気た事に使うのかと、思えば悲しく情なく、我になくホット太息(といき)を吐(つ)いて、暫らくは唯茫然(ぼうぜん)としてつまらぬ者でいたが、イヤイヤこれではならぬと心を取直して、その日より事務に取懸(とりかく)る。当座四五日は例の老人の顔を見る毎に嘆息而已(のみ)していたが、それも向う境界(きょうがい)に移る習いとかで、日を経る随(まま)に苦にもならなく成る。この月より国許の老母へは月々仕送をすれば母親も悦(よろこ)び、叔父へは月賦で借金済(な)しをすれば叔母も機嫌を直す。その年の暮に一等進んで本官になり、昨年の暑中には久々にて帰省するなど、いろいろ喜ばしき事が重なれば、眉(まゆ)の皺(しわ)も自ら伸び、どうやら寿命も長くなったように思われる。ここにチト艶(なまめ)いた一条のお噺(はなし)があるが、これを記(しる)す前に、チョッピリ孫兵衛の長女お勢の小伝を伺いましょう。
お勢の生立(おいたち)の有様、生来(しょうらい)子煩悩(こぼんのう)の孫兵衛を父に持ち、他人には薄情でも我子には眼の無いお政を母に持ッた事ゆえ、幼少の折より挿頭(かざし)の花、衣(きぬ)の裏の玉と撫(な)で愛(いつくし)まれ、何でもかでも言成(いいなり)次第にオイソレと仕付けられたのが癖と成ッて、首尾よくやんちゃ娘に成果(なりおお)せた。紐解(ひもとき)の賀の済(すん)だ頃より、父親の望みで小学校へ通い、母親の好みで清元(きよもと)の稽古(けいこ)、生得(うまれえ)て才(さい)溌(はじけ)の一徳には生覚(なまおぼ)えながら飲込みも早く、学問、遊芸、両(ふたつ)ながら出来のよいように思われるから、母親は眼も口も一ツにして大驩(おおよろこ)び、尋ねぬ人にまで風聴(ふいちょう)する娘自慢の手前味噌(みそ)、切(しき)りに涎(よだれ)を垂らしていた。その頃新(あらた)に隣家へ引移ッて参ッた官員は家内四人活計(ぐらし)で、細君もあれば娘もある。隣ずからの寒暄(かんけん)の挨拶が喰付きで、親々が心安く成るにつれ娘同志も親しくなり、毎日のように訪(とい)つ訪(とわ)れつした。隣家の娘というはお勢よりは二ツ三ツ年層(としかさ)で、優しく温藉(しとやか)で、父親が儒者のなれの果だけ有ッて、小供ながらも学問が好(すき)こそ物の上手で出来る。いけ年を仕(つかまつっ)てもとかく人真似(まね)は輟(や)められぬもの、況(まし)てや小供という中(うち)にもお勢は根生(ねおい)の軽躁者(おいそれもの)なれば尚更(なおさら)、忽(たちまち)その娘に薫陶(かぶ)れて、起居挙動(たちいふるまい)から物の言いざままでそれに似せ、急に三味線(しゃみせん)を擲却(ほうりだ)して、唐机(とうづくえ)の上に孔雀(くじゃく)の羽を押立る。お政は学問などという正坐(かしこま)ッた事は虫が好かぬが、愛(いと)し娘の為(し)たいと思ッて為(す)る事と、そのままに打棄てて置く内、お勢が小学校を卒業した頃、隣家の娘は芝辺のさる私塾へ入塾することに成ッた。サアそう成るとお勢は矢も楯(たて)も堪(たま)らず、急に入塾が仕たくなる。何でもかでもと親を責(せ)がむ、寝言にまで言ッて責がむ。トいってまだ年端(としは)も往かぬに、殊(こと)にはなまよみの甲斐なき婦人(おんな)の身でいながら、入塾などとは以(もって)の外、トサ一旦(いったん)は親の威光で叱り付けては見たが、例の絶食に腹を空(すか)せ、「入塾が出来ない位なら生ている甲斐がない」ト溜息(ためいき)噛雑(かみま)ぜの愁訴、萎(しお)れ返ッて見せるに両親も我を折り、それ程までに思うならばと、万事を隣家の娘に托(たく)して、覚束(おぼつか)なくも入塾させたは今より二年前(ぜん)の事で。
お勢の入塾した塾の塾頭をしている婦人は、新聞の受売からグット思い上りをした女丈夫(じょじょうぶ)、しかも気を使ッて一飯の恩は酬(むく)いぬがちでも、睚眥(がいさい)の怨(えん)は必ず報ずるという蚰蜒魂(げじげじだましい)で、気に入らぬ者と見れば何かにつけて真綿に針のチクチク責をするが性分。親の前でこそ蛤貝(はまぐりがい)と反身(そっくりかえ)れ、他人の前では蜆貝(しじみがい)と縮まるお勢の事ゆえ、責(さいな)まれるのが辛らさにこの女丈夫に取入ッて卑屈を働らく。固より根がお茶ッぴいゆえ、その風には染り易いか、忽(たちまち)の中に見違えるほど容子(ようす)が変り、何時しか隣家の娘とは疎々(うとうと)しくなッた。その後英学を初めてからは、悪足掻(わるあがき)もまた一段で、襦袢(じゅばん)がシャツになれば唐人髷(とうじんわげ)も束髪に化け、ハンケチで咽喉(のど)を緊(し)め、鬱陶(うっとう)しいを耐(こら)えて眼鏡を掛け、独(ひとり)よがりの人笑わせ、天晴(あっぱれ)一個のキャッキャとなり済ました。然るに去年の暮、例の女丈夫は教師に雇われたとかで退塾してしまい、その手に属したお茶ッぴい連も一人去り二人去(さり)して残少(のこりずく)なになるにつけ、お勢も何となく我宿恋しく成ッたなれど、まさかそうとも言い難(か)ねたか、漢学は荒方(あらかた)出来たと拵(こし)らえて、退塾して宿所へ帰ッたは今年の春の暮、桜の花の散る頃の事で。
既に記した如く、文三の出京した頃はお勢はまだ十二の蕾、幅の狭(せば)い帯を締めて姉様(あねさま)を荷厄介(やっかい)にしていたなれど、こましゃくれた心から、「あの人はお前の御亭主さんに貰(もら)ッたのだヨ」ト坐興に言ッた言葉の露を実(まこと)と汲(くん)だか、初の内ははにかんでばかりいたが、小供の馴(なじ)むは早いもので、間もなく菓子一(ひとつ)を二ツに割ッて喰べる程睦(むつ)み合ッたも今は一昔。文三が某校へ入舎してからは相逢(あいあ)う事すら稀(まれ)なれば、況(まし)て一(ひとつ)に居た事は半日もなし。唯今年の冬期休暇にお勢が帰宅した時而已(のみ)、十日ばかりも朝夕顔を見合わしていたなれど、小供の時とは違い、年頃が年頃だけに文三もよろずに遠慮勝でよそよそしく待遇(もてな)して、更に打解けて物など言ッた事なし。その癖お勢が帰塾した当坐両三日は、百年の相識に別れた如く何(なに)となく心淋(さび)しかッたが……それも日数(ひかず)を経(ふ)る随(まま)に忘れてしまッたのに、今また思い懸けなく一ッ家に起臥(おきふし)して、折節は狎々(なれなれ)しく物など言いかけられて見れば、嬉しくもないが一月(げつ)が復(ま)た来たようで、何にとなく賑(にぎや)かな心地がした。人一人殖えた事ゆえ、これはさもあるべき事ながら、唯怪しむ可(べ)きはお勢と席を同(おなじゅう)した時の文三の感情で、何時も可笑しく気が改まり、円めていた脊(せ)を引伸して頸を据え、異(おつ)う済して変に片付る。魂が裳抜(もぬけ)れば一心に主(しゅう)とする所なく、居廻りに在る程のもの悉(ことごと)く薄烟(うすけぶり)に包れて虚有縹緲(きょうひょうびょう)の中(うち)に漂い、有るかと思えばあり、無いかと想(おも)えばない中(なか)に、唯一物(あるもの)ばかりは見ないでも見えるが、この感情は未(ま)だ何とも名(なづ)け難い。夏の初より頼まれてお勢に英語を教授するように成ッてから、文三も些(すこ)しく打解け出して、折節は日本婦人の有様、束髪の利害、さては男女交際の得失などを論ずるように成ると、不思議や今まで文三を男臭いとも思わず太平楽を並べ大風呂敷を拡(ひろ)げていたお勢が、文三の前では何時からともなく口数を聞かなく成ッて、何処ともなく落着て、優しく女性(にょしょう)らしく成ッたように見えた。或一日(いちじつ)、お勢の何時になく眼鏡を外して頸巾(くびまき)を取ッているを怪んで文三が尋ぬれば、「それでも貴君(あなた)が、健康な者には却(かえっ)て害になると仰(おっしゃ)ッたものヲ」トいう。文三は覚えずも莞然(にっこり)、「それは至極好(い)い事(こつ)だ」ト言ッてまた莞然。
お勢の落着たに引替え、文三は何かそわそわし出して、出勤して事務を執りながらもお勢の事を思い続けに思い、退省の時刻を待詫(まちわ)びる。帰宅したとてもお勢の顔を見ればよし、さも無ければ落脱(がっかり)力抜けがする。「彼女(あれ)に何したのじゃアないのかしらぬ」ト或時我を疑(うたぐ)ッて、覚えずも顔を※(あか)[#「赤+報のつくり」、22-13]らめた。
お勢の帰宅した初より、自分には気が付かぬでも文三の胸には虫が生(わい)た。なれどもその頃はまだ小さく場(ば)取らず、胸に在ッても邪魔に成らぬ而已(のみ)か、そのムズムズと蠢動(うごめ)く時は世界中が一所(ひとところ)に集る如く、又この世から極楽浄土へ往生する如く、又春の日に瓊葩綉葉(けいはしゅうよう)の間、和気(かき)香風の中(うち)に、臥榻(がとう)を据えてその上に臥(ね)そべり、次第に遠(とおざか)り往く虻(あぶ)の声を聞きながら、眠(ねぶ)るでもなく眠らぬでもなく、唯ウトウトとしているが如く、何ともかとも言様なく愉快(こころよか)ッたが、虫奴(め)は何時の間にか太く逞(たくま)しく成ッて、「何したのじゃアないか」ト疑ッた頃には、既に「添(そい)たいの蛇(じゃ)」という蛇(へび)に成ッて這廻(はいまわ)ッていた……寧(むし)ろ難面(つれな)くされたならば、食すべき「たのみ」の餌(えさ)がないから、蛇奴も餓死(うえじに)に死んでしまいもしようが、憖(なまじい)に卯(う)の花くだし五月雨(さみだれ)のふるでもなくふらぬでもなく、生殺(なまごろ)しにされるだけに蛇奴も苦しさに堪え難(か)ねてか、のたうち廻ッて腸(はらわた)を噛断(かみちぎ)る……初の快さに引替えて、文三も今は苦しくなッて来たから、窃(ひそ)かに叔母の顔色(がんしょく)を伺ッて見れば、気の所為(せい)か粋(すい)を通して見て見ぬ風をしているらしい。「若(も)しそうなればもう叔母の許(ゆるし)を受けたも同前……チョッ寧(いっ)そ打附(うちつ)けに……」ト思ッた事は屡々(しばしば)有ッたが、「イヤイヤ滅多な事を言出して取着かれぬ返答をされては」ト思い直してジット意馬(いば)の絆(たづな)を引緊(ひきし)め、藻(も)に住む虫の我から苦んでいた……これからが肝腎要(かなめ)、回を改めて伺いましょう。