饭饭TXT > 海外名作 > 《浮云(日文版)》作者:[日]二叶亭四迷【完结】 > 浮云.txt

 今年の仲の夏、或一夜(や)、文三が散歩より帰ッて見れば、叔母のお政は夕暮より所用あッて出たまま未(ま)だ帰宅せず、下女のお鍋(なべ)も入湯にでも参ッたものか、これも留守、唯(ただ)お勢の子舎(へや)に而已(のみ)光明(あかり)が射(さ)している。文三初(はじめ)は何心なく二階の梯子段(はしごだん)を二段三段登(あが)ッたが、不図立止まり、何か切(しき)りに考えながら、一段降りてまた立止まり、また考えてまた降りる……俄(にわ)かに気を取直して、将(まさ)に再び二階へ登らんとする時、忽(たちま)ちお勢の子舎の中(うち)に声がして、

「誰方(どなた)」

 トいう。

「私(わたくし)」

 ト返答をして文三は肩を縮(すく)める。

「オヤ誰方かと思ッたら文さん……淋(さみ)しくッてならないから些(ちっ)とお噺(はな)しにいらッしゃいな」

「エ多謝(ありがと)う、だがもう些(ちっ)と後(のち)にしましょう」

「何か御用が有るの」

「イヤ何も用はないが……」

「それじゃア宜(いい)じゃア有りませんか、ネーいらッしゃいヨ」

 文三は些(すこ)し躊躇(ためらっ)て梯子段を降果てお勢の子舎の入口まで参りは参ッたが、中(うち)へとては立入らず、唯鵠立(たたずん)でいる。

「お這入(はいん)なさいな」

「エ、エー……」

 ト言ッたまま文三は尚(な)お鵠立(たたずん)でモジモジしている、何か這入りたくもあり這入りたくもなしといった様な容子(ようす)。

「何故(なぜ)貴君(あなた)、今夜に限ッてそう遠慮なさるの」

「デモ貴嬢(あなた)お一人ッきりじゃア……なんだか……」

「オヤマア貴君にも似合わない……アノ何時(いつ)か、気が弱くッちゃア主義の実行は到底覚束ないと仰(おっ)しゃッたのは何人(どなた)だッけ」

 ト(しん)の首を斜(ななめ)に傾(か)しげて嫣然(えんぜん)片頬(かたほ)に含んだお勢の微笑に釣(つ)られて、文三は部屋へ這入り込み坐に着きながら、

「そう言われちゃア一言もないが、しかし……」

「些とお遣いなさいまし」

 トお勢は団扇(うちわ)を取出(とりいだ)して文三に勧め、

「しかしどうしましたと」

「エ、ナニサ影口がどうも五月蠅(うるさく)ッて」

「それはネ、どうせ些とは何とか言いますのサ。また何とか言ッたッて宜じゃア有りませんか、若(も)しお相互(たがい)に潔白なら。どうせ貴君、二千年来の習慣を破るんですものヲ、多少の艱苦(かんく)は免(のが)れッこは有りませんワ」

「トハ思ッているようなものの、まさか影口が耳に入ると厭(いや)なものサ」

「それはそうですヨネー。この間もネ貴君、鍋が生意気に可笑(おか)しな事を言ッて私にからかうのですよ。それからネ私が余(あんま)り五月蠅なッたから、到底解るまいとはおもいましたけれども試(こころみ)に男女交際論を説て見たのですヨ。そうしたらネ、アノなんですッて、私の言葉には漢語が雑(ま)ざるから全然(まるっきり)何を言ッたのだか解りませんて……真個(ほんと)に教育のないという者は仕様のないもんですネー」

「アハハハ其奴(そいつ)は大笑いだ……しかし可笑しく思ッているのは鍋ばかりじゃア有りますまい、必(きっ)と母親(おっか)さんも……」

「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから始終可笑しな事を言ッちゃアからかいますのサ。それでもネ、そのたんびに私が辱(はずか)しめ辱しめ為(し)い為いしたら、あれでも些とは耻(は)じたと見えてネ、この頃じゃアそんなに言わなくなりましたよ」

「ヘーからかう、どんな事を仰しゃッて」

「アノーなんですッて、そんなに親しくする位なら寧(むし)ろ貴君と……(すこしもじもじして言かねて)結婚してしまえッて……」

 ト聞くと等しく文三は駭然(ぎょっ)としてお勢の顔を目守(みつめ)る。されど此方(こなた)は平気の躰(てい)で

「ですがネ、教育のない者ばかりを責める訳にもいけませんヨネー。私の朋友(ほうゆう)なんぞは、教育の有ると言う程有りゃアしませんがネ、それでもマア普通の教育は享(う)けているんですよ、それでいて貴君、西洋主義の解るものは、二十五人の内に僅(たった)四人(よったり)しかないの。その四人(よったり)もネ、塾にいるうちだけで、外(ほか)へ出てからはネ、口程にもなく両親に圧制せられて、みんなお嫁に往(い)ッたりお婿(むこ)を取ッたりしてしまいましたの。だから今までこんな事を言ッてるものは私ばッかりだとおもうと、何だか心細(こころぼそく)ッて心細ッてなりません。でしたがネ、この頃は貴君という親友が出来たから、アノー大変気丈夫になりましたわ」

 文三はチョイと一礼して

「お世辞にもしろ嬉(うれ)しい」

「アラお世辞じゃア有りませんよ、真実(ほんとう)ですよ」

「真実なら尚お嬉しいが、しかし私にゃア貴嬢(あなた)と親友の交際は到底出来ない」

「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出来ませんエ」

「何故といえば、私には貴嬢が解からず、また貴嬢には私が解からないから、どうも親友の交際は……」

「そうですか、それでも私には貴君はよく解ッている積りですよ。貴君の学識が有ッて、品行が方正で、親に孝行で……」

「だから貴嬢には私が解らないというのです。貴嬢は私を親に孝行だと仰しゃるけれども、孝行じゃア有りません。私には……親より……大切な者があります……」

 ト吃(どもり)ながら言ッて文三は差俯向(さしうつむ)いてしまう。お勢は不思議そうに文三の容子を眺(なが)めながら

「親より大切な者……親より……大切な……者……親より大切な者は私にも有りますワ」

 文三はうな垂れた頸(くび)を振揚げて

「エ、貴嬢にも有りますと」

「ハア有りますワ」

「誰(だ)……誰れが」

「人じゃアないの、アノ真理」

「真理」

 ト文三は慄然(ぶるぶる)と胴震(どうぶるい)をして唇(くちびる)を喰(く)いしめたまま暫(しば)らく無言(だんまり)、稍(やや)あッて俄(にわか)に喟然(きぜん)として歎息して、

「アア、貴嬢は清浄なものだ潔白なものだ……親より大切なものは真理……アア潔白なものだ……しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を愚(ぐ)にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあえだり揉(もん)だりして玩弄(がんろう)する。玩弄されると薄々気が附きながらそれを制することが出来ない。アア自分ながら……」

 ト些(すこ)し考えて、稍ありて熱気(やっき)となり、

「ダガ思い切れない……どう有ッても思い切れない……お勢さん、貴嬢は御自分が潔白だからこんな事を言ッてもお解りがないかも知れんが、私には真理よりか……真理よりか大切な者があります。去年の暮から全半歳(まるはんとし)、その者の為(た)めに感情を支配せられて、寐(ね)ても寤(さ)めても忘らればこそ、死ぬより辛(つら)いおもいをしていても、先では毫(すこ)しも汲んでくれない。寧ろ強顔(つれ)なくされたならば、また思い切りようも有ろうけれども……」

 ト些し声をかすませて、

「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は……どうも……どう有ッても思い……」

「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」

 庭の一隅(いちぐう)に栽込(うえこ)んだ十竿(ともと)ばかりの繊竹(なよたけ)の、葉を分けて出る月のすずしさ。月夜見の神の力の測りなくて、断雲一片の翳(かげ)だもない、蒼空(あおぞら)一面にてりわたる清光素色、唯亭々皎々(ていていきょうきょう)として雫(しずく)も滴(した)たるばかり。初は隣家の隔ての竹垣に遮(さえぎ)られて庭を半(なかば)より這初(はいはじ)め、中頃は縁側へ上(のぼ)ッて座舗(ざしき)へ這込み、稗蒔(ひえまき)の水に流れては金瀲(きんれんえん)、簷馬(ふうりん)の玻璃(はり)に透(とお)りては玉(ぎょく)玲瓏(れいろう)、座賞の人に影を添えて孤燈一穂(すい)の光を奪い、終(つい)に間(あわい)の壁へ這上(はいのぼ)る。涼風一陣吹到る毎(ごと)に、ませ籬(がき)によろぼい懸る夕顔の影法師が婆娑(ばさ)として舞い出し、さてわ百合(ゆり)の葉末にすがる露の珠(たま)が、忽ち蛍(ほたる)と成ッて飛迷う。艸花(くさばな)立樹(たちき)の風に揉(も)まれる音の颯々(ざわざわ)とするにつれて、しばしは人の心も騒ぎ立つとも、須臾(しゅゆ)にして風が吹罷(ふきや)めば、また四辺(あたり)蕭然(ひっそ)となって、軒の下艸(したぐさ)に集(すだ)く虫の音(ね)のみ独り高く聞える。眼に見る景色はあわれに面白い。とはいえ心に物ある両人(ふたり)の者の眼には止まらず、唯お勢が口ばかりで

「アア佳(いい)こと」

 トいって何故(なにゆえ)ともなく莞然(にっこり)と笑い、仰向いて月に観惚(みと)れる風(ふり)をする。その半面(よこがお)を文三が窃(ぬす)むが如く眺め遣(や)れば、眼鼻口の美しさは常に異(かわ)ッたこともないが、月の光を受けて些し蒼味を帯(お)んだ瓜実顔(うりざねがお)にほつれ掛ッたいたずら髪、二筋三筋扇頭(せんとう)の微風に戦(そよ)いで頬(ほお)の辺(あたり)を往来するところは、慄然(ぞっ)とするほど凄味(すごみ)が有る。暫らく文三がシケジケと眺めているト、やがて凄味のある半面(よこがお)が次第々々に此方(こちら)へ捻(ねじ)れて……パッチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれていた眼とピッタリ出逢(であ)う。螺(さざい)の壺々口(つぼつぼぐち)に莞然(にっこ)と含んだ微笑を、細根大根に白魚(しらうお)を五本並べたような手が持ていた団扇で隠蔽(かく)して、耻(はず)かしそうなしこなし。文三の眼は俄に光り出す。

「お勢さん」

 但(ただ)し震声(ふるいごえ)で。

「ハイ」

 但し小声で。

「お勢さん、貴嬢(あなた)もあんまりだ、余(あんま)り……残酷だ、私がこれ……これ程までに……」

 トいいさして文三は顔に手を宛(あ)てて黙ッてしまう。意(こころ)を注(とど)めて能(よ)く見れば、壁に写ッた影法師が、慄然(ぶるぶる)とばかり震えている。今一言(ひとこと)……今一言の言葉の関を、踰(こ)えれば先は妹背山(いもせやま)、蘆垣(あしがき)の間近き人を恋い初(そ)めてより、昼は終日(ひねもす)夜は終夜(よもすがら)、唯その人の面影(おもかげ)而已(のみ)常に眼前(めさき)にちらついて、砧(きぬた)に映る軒の月の、払ッてもまた去りかねていながら、人の心を測りかねて、末摘花(すえつむはな)の色にも出さず、岩堰水(いわせくみず)の音にも立てず、独りクヨクヨ物をおもう、胸のうやもや、もだくだを、払うも払わぬも今一言の言葉の綾(あや)……今一言……僅(たった)一言……その一言をまだ言わぬ……折柄(おりから)ガラガラと表の格子戸(こうしど)の開(あ)く音がする……吃驚(びっくり)して文三はお勢と顔を見合わせる、蹶然(むっく)と起上(たちあが)る、転げるように部屋を駆出る。但しその晩はこれきりの事で別段にお話しなし。

 翌朝に至りて両人(ふたり)の者は始めて顔を合わせる。文三はお勢よりは気まりを悪がッて口数をきかず、この夏の事務の鞅掌(いそがし)さ、暑中休暇も取れぬので匆々(そうそう)に出勤する。十二時頃に帰宅する。下坐舗(したざしき)で昼食(ちゅうじき)を済して二階の居間へ戻り、「アア熱かッた」ト風を納(い)れている所へ梯子バタバタでお勢が上(あが)ッて参り、二ツ三ツ英語の不審を質問する。質問してしまえばもはや用の無い筈(はず)だが、何かモジモジして交野(かたの)の鶉(うずら)を極めている。やがて差俯向いたままで鉛筆を玩弄(おもちゃ)にしながら

「アノー昨夕(ゆうべ)は貴君どうなすったの」

 返答なし。

「何だか私が残酷だッて大変憤(おこ)ッていらしったが、何が残酷ですの」

 ト笑顔(えがお)を擡(もた)げて文三の顔を窺(のぞ)くと、文三は狼狽(あわて)て彼方(あちら)を向いてしまい

「大抵察していながらそんな事を」

「アラそれでも私にゃ何だか解りませんものヲ」

「解らなければ解らないでよう御座んす」

「オヤ可笑しな」

 それから後は文三と差向いになる毎に、お勢は例の事を種にして乙(おつ)うからんだ水向け文句、やいのやいのと責め立てて、終(つい)には「仰しゃらぬとくすぐりますヨ」とまで迫ッたが、石地蔵と生れ付たしょうがには、情談のどさくさ紛れにチョックリチョイといって除(の)ける事の出来ない文三、然(しか)らばという口付からまず重くろしく折目正しく居すまッて、しかつべらしく思いのたけを言い出だそうとすれば、お勢はツイと彼方(あちら)を向いて「アラ鳶(とんび)が飛でますヨ」と知らぬ顔の半兵衛模擬(もどき)、さればといって手を引けば、また意(こころ)あり気な色目遣い、トこうじらされて文三は些(ち)とウロが来たが、ともかくも触らば散ろうという下心の自(おのずか)ら素振りに現われるに「ハハア」と気が附て見れば嬉しく難有(ありがた)く辱(かたじ)けなく、罪も報(むくい)も忘れ果てて命もトントいらぬ顔付。臍(へそ)の下を住家として魂が何時の間にか有頂天外へ宿替をすれば、静かには坐ッてもいられず、ウロウロ座舗を徘徊(まごつ)いて、舌を吐たり肩を縮(すく)めたり思い出し笑いをしたり、又は変ぽうらいな手附きを為たりなど、よろずに瘋癲(きちがい)じみるまで喜びは喜んだが、しかしお勢の前ではいつも四角四面に喰いしばって猥褻(みだり)がましい挙動(ふるまい)はしない。尤(もっと)も曾(かつ)てじゃらくらが高じてどやぐやと成ッた時、今まで(うれ)しそうに笑ッていた文三が俄かに両眼を閉じて静まり返えり何と言ッても口をきかぬので、お勢が笑らいながら「そんなに真面目(まじめ)にお成(なん)なさるとこう成(す)るからいい」とくすぐりに懸ッたその手頭(てさき)を払らい除けて文三が熱気(やっき)となり、「アア我々の感情はまだ習慣の奴隷だ。お勢さん下へ降りて下さい」といった為めにお勢に憤られたこともあッたが……しかしお勢も日を経(ふ)るままに草臥(くたび)れたか、余りじゃらくらもしなくなって、高笑らいを罷(や)めて静かになッて、この頃では折々物思いをするようには成ッたが、文三に向ッてはともすればぞんざいな言葉遣いをするところを見れば、泣寐入りに寐入ッたのでもない光景(ようす)。

 アア偶々(たまたま)咲懸ッた恋の蕾(つぼみ)も、事情というおもわぬ沍(いて)にかじけて、可笑しく葛藤(もつ)れた縁(えにし)の糸のすじりもじった間柄、海へも附かず河へも附かぬ中ぶらりん、月下翁(むすぶのかみ)の悪戯(たわむれ)か、それにしても余程風変りな恋の初峯入り。

 文三の某省へ奉職したは昨日(きのう)今日のように思う間に既に二年近くになる。年頃節倹の功が現われてこの頃では些(すこ)しは貯金(たくわえ)も出来た事ゆえ、老(としよ)ッたお袋に何時までも一人住(ひとりずみ)の不自由をさせて置くも不孝の沙汰(さた)、今年の暮には東京(こっち)へ迎えて一家を成して、そうして……と思う旨(むね)を半分報知(しら)せてやれば母親は大悦(おおよろこ)び、文三にはお勢という心宛(こころあて)が出来たことは知らぬが仏のような慈悲心から、「早く相応な者を宛(あて)がって初孫(ういまご)の顔を見たいとおもうは親の私としてもこうなれど、其地(そっち)へ往ッて一軒の家を成(なす)ようになれば家の大黒柱とて無くて叶(かな)わぬは妻、到底(どうせ)貰(もら)う事なら親類某(なにがし)の次女お何(なに)どのは内端(うちば)で温順(おとなし)く器量も十人并(なみ)で私には至極機(き)に入ッたが、この娘(こ)を迎えて妻(さい)としては」と写真まで添えての相談に、文三はハット当惑の眉(まゆ)を顰(ひそ)めて、物の序(ついで)に云々(しかじか)と叔母のお政に話せばこれもまた当惑の躰(てい)。初めお勢が退塾して家に帰ッた頃「勇(いさみ)という嗣子(あととり)があッて見ればお勢は到底(どうせ)嫁に遣らなければならぬが、どうだ文三に配偶(めあわ)せては」と孫兵衛に相談をかけられた事も有ッたが、その頃はお政も左様(さよう)さネと生返事、何方(どっち)附かずに綾(あや)なして月日を送る内、お勢の甚(はなは)だ文三に親しむを見てお政も遂(つい)にその気になり、当今では孫兵衛が「ああ仲が好(よい)のは仕合わせなようなものの、両方とも若い者同志だからそうでもない心得違いが有ッてはならぬから、お前が始終看張(みは)ッていなくッてはなりませぬぜ」といっても、お政は「ナアニ大丈夫ですよ、また些(ちっ)とやそッとの事なら有ッたッて好う御座んさアネ、到底(どうせ)早かれ晩(おそ)かれ一所にしようと思ッてるとこですものヲ」ト、ズット粋(すい)を通し顔でいるところゆえ、今文三の説話(はなし)を听(きい)て当惑をしたもその筈の事で。「お袋の申通り家(うち)を有(も)つようになれば到底(とうてい)妻(さい)を貰わずに置けますまいが、しかし気心も解らぬ者を無暗(むやみ)に貰うのは余りドットしませぬから、この縁談はまず辞(ことわ)ッてやろうかと思います」ト常に異(かわ)ッた文三の決心を聞いてお政は漸(ようや)く眉を開いて切(しき)りに点頭(うなず)き、「そうともネそうともネ、幾程(いくら)母親(おっか)さんの機に入ッたからッて肝腎のお前さんの機に入らなきゃア不熟の基(もと)だ。しかしよくお話しだッた。実はネお前さんのお嫁の事に就(つい)ちゃア些(ち)イと良人(うち)でも考えてる事があるんだから、これから先き母親さんがどんな事を言ッておよこしでも、チョイと私に耳打してから返事を出すようにしておくんなさいヨ。いずれ良人(うち)でお話し申すだろうが、些イと考えてる事があるんだから……それはそうと母親さんの貰いたいとお言いのはどんなお子だか、チョイとその写真をお見せナ」といわれて文三はさもきまりの悪るそうに、「エ写真ですか、写真は……私の所には有りません、先刻(さっき)アノ何が……お勢さんが何です……持ッて往ッておしまいなすった……」

 トいう光景(ありさま)で、母親も叔父夫婦の者も宛(あて)とする所は思い思いながら一様に今年の晩(く)れるを待詫(まちわ)びている矢端(やさき)、誰れの望みも彼れの望みも一ツにからげて背負ッて立つ文三が(話を第一回に戻して)今日思懸けなくも……諭旨免職となった。さても星(まわりあわせ)というものは是非のないもの、トサ昔気質(むかしかたぎ)の人ならば言うところでも有ろうか。

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