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     第四回 言うに言われぬ胸の中(うち)

作者:日-二叶亭四迷 当前章节:10446 字 更新时间:2026-6-16 03:24

 さてその日も漸(ようや)く暮れるに間もない五時頃に成っても、叔母もお勢も更に帰宅する光景(ようす)も見えず、何時(いつ)まで待っても果てしのない事ゆえ、文三は独り夜食を済まして、二階の縁端(えんさき)に端居(はしい)しながら、身を丁字(ていじ)欄干に寄せかけて暮行く空を眺(なが)めている。この時日は既に万家(ばんか)の棟(むね)に没しても、尚(な)お余残(なごり)の影を留(とど)めて、西の半天を薄紅梅に染(そめ)た。顧みて東方(とうぼう)の半天を眺むれば、淡々(あっさり)とあがった水色、諦視(ながめつめ)たら宵星(よいぼし)の一つ二つは鑿(ほじ)り出せそうな空合(そらあい)。幽(かす)かに聞える伝通院(でんずういん)の暮鐘(ぼしょう)の音(ね)に誘われて、塒(ねぐら)へ急ぐ夕鴉(ゆうがらす)の声が、彼処此処(あちこち)に聞えて喧(やか)ましい。既にして日はパッタリ暮れる、四辺(あたり)はほの暗くなる。仰向(あおむい)て瞻(み)る蒼空(あおぞら)には、余残(なごり)の色も何時しか消え失(う)せて、今は一面の青海原、星さえ所斑(ところまだら)に燦(きらめ)き出(い)でて殆(と)んと交睫(まばたき)をするような真似(まね)をしている。今しがたまで見えた隣家の前栽(せんざい)も、蒼然(そうぜん)たる夜色に偸(ぬす)まれて、そよ吹く小夜嵐(さよあらし)に立樹の所在(ありか)を知るほどの闇(くら)さ。デモ土蔵の白壁はさすがに白(しろい)だけに、見透かせば見透かされる……サッと軒端(のきば)近くに羽音がする、回首(ふりかえ)ッて観る……何も眼(まなこ)に遮(さえぎ)るものとてはなく、唯(ただ)もう薄闇(うすぐら)い而已(のみ)。

 心ない身も秋の夕暮には哀(あわれ)を知るが習い、況(ま)して文三は糸目の切れた奴凧(やっこだこ)の身の上、その時々の風次第で落着先(おちつくさき)は籬(まがき)の梅か物干の竿(さお)か、見極めの附かぬところが浮世とは言いながら、父親が没してから全(まる)十年、生死(いきじに)の海のうやつらやの高波に揺られ揺られて辛(かろう)じて泳出(およぎいだ)した官海もやはり波風の静まる間がないことゆえ、どうせ一度は捨小舟(すておぶね)の寄辺ない身に成ろうも知れぬと兼て覚悟をして見ても、其処(そこ)が凡夫(ぼんぶ)のかなしさで、危(あやうき)に慣れて見れば苦にもならず宛(あて)に成らぬ事を宛にして、文三は今歳の暮にはお袋を引取ッて、チト老楽(おいらく)をさせずばなるまい、国へ帰えると言ッてもまさかに素手でも往(い)かれまい、親類の所への土産は何にしよう、「ムキ」にしようか品物にしようかと、胸で弾(はじ)いた算盤(そろばん)の桁(けた)は合いながらも、とかく合いかねるは人の身のつばめ、今まで見ていた廬生(ろせい)の夢も一炊(すい)の間に覚め果てて「アアまた情ない身の上になッたかナア……」

 俄(にわか)にパッと西の方(かた)が明るくなッた。見懸けた夢をそのままに、文三が振返ッて視遣(みや)る向うは隣家の二階、戸を繰り忘れたものか、まだ障子のままで人影が射(さ)している……スルトその人影が見る間にムクムクと膨れ出して、好加減(よいかげん)の怪物となる……パッと消失せてしまッた跡はまた常闇(とこやみ)。文三はホッと吐息を吻(つい)て、顧みて我家(わがいえ)の中庭を瞰下(みお)ろせば、所狭(ところせ)きまで植駢(うえなら)べた艸花(くさばな)立樹(たちき)なぞが、詫(わび)し気に啼(な)く虫の音を包んで、黯黒(くらやみ)の中(うち)からヌッと半身を捉出(ぬきだ)して、硝子張(ガラスばり)の障子を漏れる火影(ほかげ)を受けているところは、家内(やうち)を覘(うかが)う曲者かと怪まれる……ザワザワと庭の樹立(こだち)を揉(も)む夜風の余りに顔を吹かれて、文三は慄然(ぶるぶる)と身震をして起揚(たちあが)り、居間へ這入(はい)ッて手探りで洋燈(ランプ)を点(とぼ)し、立膝(たてひざ)の上に両手を重ねて、何をともなく目守(みつめ)たまま暫(しば)らくは唯茫然(ぼんやり)……不図手近かに在ッた薬鑵(やかん)の白湯(さゆ)を茶碗(ちゃわん)に汲取(くみと)りて、一息にグッと飲乾し、肘(ひじ)を枕(まくら)に横に倒れて、天井に円く映る洋燈(ランプ)の火燈(ほかげ)を目守めながら、莞爾(にっこ)と片頬(かたほ)に微笑(えみ)を含んだが、開(あい)た口が結ばって前歯が姿を隠すに連れ、何処(いずく)からともなくまた愁(うれい)の色が顔に顕(あら)われて参ッた。

「それはそうとどうしようかしらん、到底言わずには置けん事(こっ)たから、今夜にも帰ッたら、断念(おもいき)ッて言ッてしまおうかしらん。さぞ叔母が厭(いや)な面(かお)をする事(こっ)たろうナア……眼に見えるようだ……しかしそんな事を苦にしていた分には埒(らち)が明かない、何にもこれが金銭を借りようというではなし、毫(すこ)しも耻(はず)かしい事はない、チョッ今夜言ッてしまおう……だが……お勢がいては言い難(にく)いナ。若しヒョット彼(あれ)の前で厭味なんぞを言われちゃア困る。これは何んでも居ない時を見て言う事(こっ)た。いない……時を……見……何故(なぜ)、何故言難い、苟(いやしく)も男児たる者が零落したのを耻ずるとは何んだ、そんな小胆な、糞(くそ)ッ今夜言ッてしまおう。それは勿論(もちろん)彼娘(あれ)だッて口へ出してこそ言わないが何んでも来年の春を楽しみにしているらしいから、今唐突(だしぬけ)に免職になッたと聞いたら定めて落胆するだろう。しかし落胆したからと言ッて心変りをするようなそんな浮薄な婦人(おんな)じゃアなし、かつ通常の婦女子と違ッて教育も有ることだから、大丈夫そんな気遣いはない。それは決(け)してないが、叔母だて……ハテナ叔母だて。叔母はああいう人だから、我(おれ)が免職になッたと聞たら急にお勢をくれるのが厭になッて、無理に彼娘(あれ)を他(た)へかたづけまいとも言われない。そうなったからと言ッて此方(こっち)は何も確(かた)い約束がして有るんでないから、否(いや)そうは成りませんとも言われない……嗚呼(ああ)つまらんつまらん、幾程(いくら)おもい直してもつまらん。全躰(ぜんたい)何故我(おれ)を免職にしたんだろう、解らんナ、自惚(うぬぼれ)じゃアないが我(おれ)だッて何も役に立たないという方でもなし、また残された者だッて何も別段役に立つという方でもなし、して見ればやっぱり課長におべッからなかったからそれで免職にされたのかな……実に課長は失敬な奴だ、課長も課長だが残された奴等もまた卑屈極まる。僅(わず)かの月給の為めに腰を折ッて、奴隷(どれい)同様な真似をするなんぞッて実に卑屈極まる……しかし……待(まて)よ……しかし今まで免官に成ッて程なく復職した者がないでも無いから、ヒョッとして明日(あした)にも召喚状が……イヤ……来ない、召喚状なんぞが来て耐(たま)るものか、よし来たからと言ッて今度(こんだ)は此方(こっち)から辞してしまう、誰が何と言おうト関(かま)わない、断然辞してしまう。しかしそれも短気かナ、やっぱり召喚状が来たら復職するかナ……馬鹿奴(め)、それだから我(おれ)は馬鹿だ、そんな架空な事を宛にして心配するとは何んだ馬鹿奴。それよりかまず差当りエート何んだッけ……そうそう免職の事を叔母に咄(はな)して……さぞ厭な顔をするこッたろうナ……しかし咄さずにも置かれないから思切ッて今夜にも叔母に咄して……ダガお勢のいる前では……チョッいる前でも関(かま)わん、叔母に咄して……ダガ若し彼娘(あれ)のいる前で口汚たなくでも言われたら……チョッ関わん、お勢に咄して、イヤ……お勢じゃない叔母に咄して……さぞ……厭な顔……厭な顔を咄して……口……口汚なく咄(はな)……して……アア頭が乱れた……」

 ト、ブルブルと頭(かしら)を左右へ打振る。

 轟然(ごうぜん)と駆て来た車の音が、家の前でパッタリ止まる。ガラガラと格子戸(こうしど)が開(あ)く、ガヤガヤと人声がする。ソリャコソと文三が、まず起直ッて突胸(とむね)をついた。両手を杖(つえ)に起(たた)んとしてはまた坐り、坐らんとしてはまた起(た)つ。腰の蝶番(ちょうつがい)は満足でも、胸の蝶番が「言ッてしまおうか」「言難いナ」と離れ離れに成ッているから、急には起揚(たちあが)られぬ……俄に蹶然(むっく)と起揚ッて梯子段(はしごだん)の下口(おりぐち)まで参ッたが、不図立止まり、些(すこ)し躊躇(ためら)ッていて、「チョッ言ッてしまおう」と独言(ひとりごと)を言いながら、急足(あしばや)に二階を降りて奥坐舗(おくざしき)へ立入る。

 奥坐舗の長手の火鉢(ひばち)の傍(かたわら)に年配四十恰好(がっこう)の年増(としま)、些し痩肉(やせぎす)で色が浅黒いが、小股(こまた)の切上(きりあが)ッた、垢抜(あかぬ)けのした、何処ともでんぼう肌(はだ)の、萎(すが)れてもまだ見所のある花。櫛巻(くしま)きとかいうものに髪を取上げて、小弁慶(こべんけい)の糸織の袷衣(あわせ)と養老の浴衣(ゆかた)とを重ねた奴を素肌に着て、黒繻子(くろじゅす)と八段(はったん)の腹合わせの帯をヒッカケに結び、微酔機嫌(ほろえいきげん)の啣楊枝(くわえようじ)でいびつに坐ッていたのはお政で。文三の挨拶(あいさつ)するを見て、

「ハイ只今(ただいま)、大層遅かッたろうネ」

「全体今日(こんち)は何方(どちら)へ」

「今日はネ、須賀町(すがちょう)から三筋町(みすじまち)へ廻わろうと思ッて家(うち)を出たんだアネ。そうするとネ、須賀町へ往ッたらツイ近所に、あれはエート芸人……なんとか言ッたッけ、芸人……」

「親睦(しんぼく)会」

「それそれその親睦会が有るから一所に往こうッてネお浜さんが勧めきるんサ。私は新富座(しんとみざ)か二丁目ならともかくも、そんな珍木会(ちんぼくかい)とか親睦会とかいう者(もん)なんざア七里々(しちりしちり)けぱいだけれども、お勢(せ)……ウーイプー……お勢が往(いき)たいというもんだから仕様事(しようこと)なしのお交際(つきやい)で往(いっ)て見たがネ、思ッたよりはサ。私はまた親睦会というから大方演じゅつ会のような種(たち)のもんかしらとおもったら、なアにやっぱり品(しん)の好い寄席(よせ)だネ。此度(こんだ)文さんも往ッて御覧な、木戸は五十銭だヨ」

「ハアそうですか、それでは孰(いず)れまた」

 説話(はなし)が些し断絶(とぎ)れる。文三は肚(はら)の裏(うち)に「おなじ言うのならお勢の居ない時だ、チョッ今言ッてしまおう」ト思い決(さだ)めて今将(まさ)に口を開かんとする……折しも縁側にパタパタと跫音(あしおと)がして、スラリと背後(うしろ)の障子が開(あ)く、振反(ふりかえ)ッて見れば……お勢で。年は鬼もという十八の娘盛り、瓜実顔(うりざねがお)で富士額、生死(いきしに)を含む眼元の塩にピンとはねた眉(まゆ)で力味(りきみ)を付け、壺々口(つぼつぼぐち)の緊笑(しめわら)いにも愛嬌(あいきょう)をくくんで無暗(むやみ)には滴(こぼ)さぬほどのさび、背(せい)はスラリとして風に揺(ゆら)めく女郎花(おみなえし)の、一時をくねる細腰もしんなりとしてなよやか、慾にはもうすこし生際(はえぎわ)と襟足(えりあし)とを善くして貰(もら)いたいが、何(な)にしても七難を隠くすという雪白の羽二重肌、浅黒い親には似ぬ鬼子(おにっこ)でない天人娘。艶(つや)やかな黒髪を惜気もなくグッと引詰(ひっつ)めての束髪、薔薇(ばら)の花挿頭(はなかんざし)を(さ)したばかりで臙脂(べに)も甞(な)めねば鉛華(おしろい)も施(つ)けず、衣服(みなり)とても糸織の袷衣(あわせ)に友禅と紫繻子の腹合せの帯か何かでさして取繕いもせぬが、故意(わざ)とならぬ眺(ながめ)はまた格別なもので、火をくれて枝を撓(た)わめた作花(つくりばな)の厭味(いやみ)のある色の及ぶところでない。衣透姫(そとおりひめ)に小町の衣(ころも)を懸けたという文三の品題(みたて)は、それは惚(ほ)れた慾眼の贔負沙汰(ひいきざた)かも知れないが、とにもかくにも十人並優れて美くしい。坐舗へ這入りざまに文三と顔を見合わして莞然(にっこり)、チョイと会釈をして摺足(すりあし)でズーと火鉢の側(そば)まで参り、温藉(しとやか)に坐に着く。

 お勢と顔を見合わせると文三は不思議にもガラリ気が変ッて、咽元(のどもと)まで込み上げた免職の二字を鵜呑(うの)みにして何喰(く)わぬ顔色(がんしょく)、肚の裏(うち)で「もうすこし経(た)ッてから」

「母親(おっか)さん、咽が涸(かわ)いていけないから、お茶を一杯入れて下さいナ」

「アイヨ」

 トいってお政は茶箪笥(ちゃだんす)を覗(のぞ)き、

「オヤオヤ茶碗が皆(みんな)汚れてる……鍋」

 ト呼ばれて出て来た者を見れば例の日の丸の紋を染抜いた首の持主で、空嘯(そらうそぶ)いた鼻の端(さき)へ突出された汚穢物(よごれもの)を受取り、振栄(ふりばえ)のあるお尻(いど)を振立てて却退(ひきさが)る。やがて洗ッて持ッて来る、茶を入れる、サアそれからが今日聞いて来た歌曲の噂(うわさ)で、母子(おやこ)二(ふたつ)の口が結ばる暇なし。免職の事を吹聴(ふいちょう)したくも言出す潮(しお)がないので、文三は余儀なく聴きたくもない咄(はなし)を聞て空(むな)しく時刻を移す内、説話(はなし)は漸くに清元(きよもと)長唄(ながうた)の優劣論に移る。

「母親さんは自分が清元が出来るもんだからそんな事をお言いだけれども、長唄の方が好(いい)サ」

「長唄も岡安(おかやす)ならまんざらでもないけれども、松永は唯つッこむばかりで面白くもなんとも有りゃアしない。それよりか清元の事サ、どうも意気でいいワ。『四谷(よつや)で始めて逢(お)うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の糸車』」

 ト中音で口癖の清元を唄(うた)ッてケロリとして

「いいワ」

「その通り品格がないから嫌(きら)い」

「また始まッた、ヘン跳馬(じゃじゃうま)じゃアあるまいし、万古に品々(しんしん)も五月蠅(うるさ)い」

「だッて人間は品格が第一ですワ」

「ヘンそんなにお人柄(しとがら)なら、煮込(にこ)みのおでんなんぞを喰(たべ)たいといわないがいい」

「オヤ何時私がそんな事を言ました」

「ハイ一昨日(おとつい)の晩いいました」

「嘘(うそ)ばっかし」

 トハ言ッたが大(おおき)にへこんだので大笑いとなる。不図お政は文三の方を振向いて

「アノ今日出懸けに母親さんの所(とこ)から郵便が着たッけが、お落掌(うけとり)か」

「ア真(ほん)にそうでしたッけ、さっぱり忘却(わすれ)ていました……エー母からもこの度は別段に手紙を差上げませんが宜(よろ)しく申上げろと申ことで」

「ハアそうですか、それは。それでも母親さんは何時(いつ)もお異(かわん)なすったことも無くッて」

「ハイ、お蔭(かげ)さまと丈夫だそうで」

「それはマア何よりの事(こっ)た。さぞ今年の暮を楽しみにしておよこしなすったろうネ」

「ハイ、指ばかり屈(おっ)ていると申てよこしましたが……」

「そうだろうてネ、可愛(かわい)い息子さんの側へ来るんだものヲ。それをネー何処(どこ)かの人(しと)みたように親を馬鹿にしてサ、一口(しとくち)いう二口目には直(じき)に揚足を取るようだと義理にも可愛いと言われないけれど、文さんは親思いだから母親さんの恋しいのもまた一倍サ」

 トお勢を尻目(しりめ)にかけてからみ文句で宛(あて)る。お勢はまた始まッたという顔色(かおつき)をして彼方(あちら)を向てしまう、文三は余儀なさそうにエヘヘ笑いをする。

「それからアノー例の事ネ、あの事をまた何とか言ッてお遣(よこ)しなすッたかい」

「ハイ、また言ッてよこしました」

「なんッてネ」

「ソノー気心が解らんから厭だというなら、エー今年の暮帰省した時に、逢ッてよく気心を洞察(みぬい)た上で極めたら好かろうといって遣しましたが、しかし……」

「なに、母親さん」

「エ、ナニサ、アノ、ソラお前にもこの間話したアネ、文さんの……」

 お勢は独り切(しき)りに点頭(うなず)く。

「ヘーそんな事を言ッておよこしなすッたかい、ヘーそうかい……それに附けても早く内で帰ッて来れば好(いい)が……イエネ此間(こないだ)もお咄し申た通りお前さんのお嫁の事に付ちゃア内でも些(ちい)と考えてる事も有るんだから……尤(もっと)も私も聞て知てる事(こっ)たから今咄してしまってもいいけれども……」

 ト些し考えて

「何時返事をお出しだ」

「返事はもう出しました」

「エ、モー出したの、今日」

「ハイ」

「オヤマア文さんでもない、私になんとか一言(しとこと)咄してからお出しならいいのに」

「デスガ……」

「それはマアともかくも、何と言ッてお上げだ」

「エー今は仲々婚姻どころじゃアないから……」

「アラそんな事を言ッてお上げじゃア母親さんが尚(な)お心配なさらアネ。それよりか……」

「イエまだお咄し申さぬから何ですが……」

「マアサ私の言事(いうこと)をお聞きヨ。それよりかアノ叔父も何だか考えがあるというからいずれ篤(とっく)りと相談した上でとか、さもなきゃア此地(こっち)に心当りがあるから……」

「母親(おっかア)さん、そんな事を仰(おっ)しゃるけれど、文さんは此地(こっち)に何(なん)か心当りがお有(あん)なさるの」

「マアサ有ッても無くッても、そう言ッてお上げだと母親さんが安心なさらアネ……イエネ、親の身に成ッて見なくッちゃア解らぬ事(こっ)たけれども、子供一人身を固めさせようというのはどんなに苦労なもんだろう。だからお勢みたようなこんな親不孝な者(もん)でもそう何時までもお懐中(ぽっぽ)で遊(あす)ばせても置(おけ)ないと思うと私は苦労で苦労でならないから、此間(こないだ)も私(あたし)がネ、『お前ももう押付(おっつけ)お嫁に往かなくッちゃアならないんだから、ソノーなんだとネー、何時までもそんなに小供の様な心持でいちゃアなりませんと、それも母親さんのようにこんな気楽な家へお嫁に往かれりゃアともかくもネー、若(も)しヒョッと先に姑(しゅうとめ)でもある所(とこ)へ往(いく)んで御覧、なかなかこんなに我儘(わがまま)気儘をしちゃアいられないから、今の内に些(ちっ)と覚悟をして置かなくッちゃアなりませんヨ』と私が先へ寄ッて苦労させるのが可憐(かわい)そうだから為をおもって言ッて遣りゃアネ文さん、マア聞ておくれ、こうだ。『ハイ私(わたくし)にゃア私の了簡が有ります、ハイ、お嫁に往こうと往くまいと私の勝手で御座います』というんだヨ、それからネ私が『オヤそれじゃアお前はお嫁に往かない気かエ』と聞たらネ、『ハイ私は生一本(きいっぽん)で通します』ッて……マア呆(あき)れかえるじゃアないかネー文さん、何処の国にお前、尼じゃアあるまいし、亭主(ていし)持たずに一生暮すもんが有る者(もん)かネ」

 これは万更(まんざら)形のないお噺(はなし)でもない。四五日前(ぜん)何かの小言序(こごとついで)にお政が尖(とが)り声で「ほんとにサ戯談(じょうだん)じゃアない、何歳(いくつ)になるとお思いだ、十八じゃアないか。十八にも成ッてサ、好頃(いいころ)嫁にでも往こうという身でいながら、なんぼなんだッて余(あんま)り勘弁がなさすぎらア。アアアア早く嫁にでも遣りたい、嫁に往ッて小喧(こやかま)しい姑でも持ッたら、些たア親の難有味(ありがたみ)が解るだろう」

 ト言ッたのが原因(もと)で些(ちと)ばかりいじり合をした事が有ッたが、お政の言ッたのは全くその作替(つくりかえ)で、

「トいうが畢竟(つま)るとこ、これが奥だからの事(こつ)サ。私共がこの位の時分にゃア、チョイとお洒落(しゃらく)をしてサ、小色(こいろ)の一ツも了(かせい)だもんだけれども……」

「また猥褻(わいせつ)」

 トお勢は顔を皺(しか)める。

「オホオホオホほんとにサ、仲々小悪戯(こいたずら)をしたもんだけれども、この娘(こ)はズー体(たい)ばかり大くッても一向しきなお懐(ぽっぽ)だもんだから、それで何時まで経ッても世話ばッかり焼けてなりゃアしないんだヨ」

「だから母親さんは厭ヨ、些(ちい)とばかりお酒に酔うと直(じき)に親子の差合いもなくそんな事をお言いだものヲ」

「ヘーヘー恐れ煎豆(いりまめ)はじけ豆ッ、あべこべに御意見か。ヘン、親の謗(そしり)はしりよりか些と自分の頭の蠅(はえ)でも逐(お)うがいいや、面白くもない」

「エヘヘヘヘ」

「イエネこの通り親を馬鹿にしていて、何を言ッてもとても私共の言事(いうこと)を用いるようなそんな素直なお嬢さまじゃアないんだから、此度(こんだ)文さんヨーク腹に落ちるように言ッて聞かせておくんなさい、これでもお前さんの言事なら、些(ちっ)たア聞くかも知れないから」

 トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも紙襖(ふすま)一ツ隔ててお鍋の声として、

「あんな帯留め……どめ……を……」

 此方(こなた)の三人は吃驚(びっくり)して顔を見合わせ「オヤ鍋の寐言(ねごと)だヨ」と果ては大笑いになる。お政は仰向いて柱時計を眺(なが)め、

「オヤもう十一時になるヨ、鍋の寐言を言うのも無理はない、サアサア寝ましょう寝ましょう、あんまり夜深しをするとまた翌日(あした)の朝がつらい。それじゃア文さん、先刻(さっき)の事はいずれまた翌日(あした)にも緩(ゆっく)りお咄しましょう」

「ハイ私も……私も是非お咄し申さなければならん事が有りますが、いずれまた明日(みょうにち)……それではお休み」

 ト挨拶(あいさつ)をして文三は座舗(ざしき)を立出(たちい)で梯子段(はしごだん)の下(もと)まで来ると、後(うしろ)より、

「文さん、貴君(あなた)の所(とこ)に今日の新聞が有りますか」

「ハイ有ります」

「もうお読みなすッたの」

「読みました」

「それじゃア拝借」

 トお勢は文三の跡に従(つ)いて二階へ上る。文三が机上に載せた新聞を取ッてお勢に渡すと、

「文さん」

「エ」

 返答はせずしてお勢は唯(ただ)笑ッている。

「何です」

「何時(いつう)か頂戴(ちょうだい)した写真を今夜だけお返し申ましょうか」

「何故(なぜ)」

「それでもお淋(さみ)しかろうとおもって、オホオホ」

 ト笑いながら逃ぐるが如く二階を駆下りる。そのお勢の後姿を見送ッて文三は吻(ほっ)と溜息(ためいき)を吐(つ)いて、

「ますます言難(いいにく)い」

 一時間程を経て文三は漸(ようや)く寐支度をして褥(とこ)へは這入(はい)ッたが、さて眠られぬ。眠られぬままに過去(こしかた)将来(ゆくすえ)を思い回(めぐ)らせば回らすほど、尚お気が冴(さえ)て眼も合わず、これではならぬと気を取直し緊(きび)しく両眼を閉じて眠入(ねい)ッた風(ふり)をして見ても自ら欺(あざむ)くことも出来ず、余儀なく寐返りを打ち溜息を吻(つ)きながら眠らずして夢を見ている内に、一番鶏(どり)が唱(うた)い二番鶏が唱い、漸く暁(あけがた)近くなる。

「寧(いっ)そ今夜(こよい)はこのままで」トおもう頃に漸く眼がしょぼついて来て額(あたま)が乱れだして、今まで眼前に隠見(ちらつい)ていた母親の白髪首(しらがくび)に斑(まばら)な黒髯(くろひげ)が生えて……課長の首になる、そのまた恐(こわ)らしい髯首が暫(しば)らくの間眼まぐろしく水車(みずぐるま)の如くに廻転(まわっ)ている内に次第々々に小いさく成ッて……やがて相恰(そうごう)が変ッて……何時の間にか薔薇(ばら)の花掻頭(はなかんざし)を挿(さ)して……お勢の……首……に……な……

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