第五回 胸算(むなさん)違いから見一無法(けんいちむほう)は難題
枕頭(まくらもと)で喚覚(よびさ)ます下女の声に見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽(うろたえ)た顔を振揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜めに射(さ)している。「ヤレ寐過(ねすご)したか……」と思う間もなく引続いてムクムクと浮み上ッた「免職」の二字で狭い胸がまず塞(ふさ)がる……(おんばこ)を振掛けられた死蟇(しにがいる)の身で、躍上(おどりあが)り、衣服を更(あらた)めて、夜の物を揚げあえず楊枝(ようじ)を口へ頬張(ほおば)り故手拭(ふるてぬぐい)を前帯に(はさ)んで、周章(あわて)て二階を降りる。その足音を聞きつけてか、奥の間で「文さん疾(はや)く為(し)ないと遅くなるヨ」トいうお政の声に圭角(かど)はないが、文三の胸にはぎっくり応(こた)えて返答にも迷惑(まごつ)く。そこで頬張ッていた楊枝をこれ幸いと、我にも解らぬ出鱈目(でたらめ)を句籠勝(くごもりがち)に言ッてまず一寸遁(いっすんのが)れ、匆々(そこそこ)に顔を洗ッて朝飯(あさはん)の膳(ぜん)に向ッたが、胸のみ塞がッて箸(はし)の歩みも止まりがち、三膳の飯を二膳で済まして、何時(いつ)もならグッと突出す膳もソッと片寄せるほどの心遣い、身体(からだ)まで俄(にわか)に小いさくなったように思われる。
文三が食事を済まして縁側を廻わり窃(ひそ)かに奥の間を覗(のぞ)いて見れば、お政ばかりでお勢の姿は見えぬ。お勢は近属(ちかごろ)早朝より駿河台辺(するがだいへん)へ英語の稽古(けいこ)に参るようになッたことゆえ、さては今日ももう出かけたのかと恐々(おそるおそる)座舗(ざしき)へ這入(はい)ッて来る。その文三の顔を見て今まで火鉢(ひばち)の琢磨(すりみがき)をしていたお政が、俄かに光沢布巾(つやぶきん)の手を止(とど)めて不思議そうな顔をしたもその筈(はず)、この時の文三の顔色(がんしょく)がツイ一通りの顔色でない。蒼(あお)ざめていて力なさそうで、悲しそうで恨めしそうで耻(はず)かしそうで、イヤハヤ何とも言様がない。
「文さんどうかお為(し)か、大変顔色がわりいヨ」
「イエどうも為ませぬが……」
「それじゃア疾(はや)くお為ヨ。ソレ御覧な、モウ八時にならアネ」
「エーまだお話し……申しませんでしたが……実は、ス、さくじつ……め……め……」
息気(いき)はつまる、冷汗は流れる、顔は※(あか)[#「赤+報のつくり」、50-8]くなる、如何(いか)にしても言切れぬ。暫(しば)らく無言でいて、更らに出直おして、
「ム、めん職になりました」
ト一思いに言放ッて、ハッと差俯向(さしうつむ)いてしまう。聞くと等しくお政は手に持ッていた光沢布巾(つやぶきん)を宙に釣(つ)るして、「オヤ」と一声(せい)叫んで身を反らしたまま一句も出(い)でばこそ、暫らくは唯(ただ)茫然(ぼうぜん)として文三の貌(かお)を目守(みつ)めていたが、稍(やや)あッて忙(いそが)わしく布巾を擲却(ほう)り出して小膝(こひざ)を進ませ、
「エ御免にお成りだとエ……オヤマどうしてマア」
「ど、ど、どうしてだか……私(わたくし)にも解りませんが……大方……ひ、人減(ひとべ)らしで……」
「オーヤオーヤ仕様がないネー、マア御免になってサ。ほんとに仕様がないネー」
ト落胆した容子(ようす)。須臾(しばらく)あッて、
「マアそれはそうと、これからはどうして往(い)く積(つもり)だエ」
「どうも仕様が有りませんから、母親(おふくろ)にはもう些(すこ)し国に居て貰(もら)ッて、私はまた官員の口でも探そうかと思います」
「官員の口てッたッてチョックラチョイと有りゃアよし、無かろうもんならまた何時(いつう)かのような憂(つら)い思いをしなくッちゃアならないやアネ……だから私(あたし)が言わない事(こっ)ちゃアないんだ、些(ち)イと課長さんの所(とこ)へも御機嫌(ごきげん)伺いにお出でお出でと口の酸ぱくなるほど言ッても強情張ッてお出ででなかッたもんだから、それでこんな事になったんだヨ」
「まさかそういう訳でもありますまいが……」
「イイエ必(きっ)とそうに違いないヨ。デなくッて成程(なんぼ)人減(しとへ)らしだッて罪も咎(とが)もない者をそう無暗(むやみ)に御免になさる筈がないやアネ……それとも何か御免になっても仕様がないようなわりい事をした覚えがお有りか」
「イエ何にも悪い事をした覚えは有りませんが……」
「ソレ御覧なネ」
両人とも暫らく無言。