饭饭TXT > 海外名作 > 《浮云(日文版)》作者:[日]二叶亭四迷【完结】 > 浮云.txt

「アノ本田さんは(この男の事は第六回にくわしく)どうだッたエ」

「かの男はよう御座んした」

「オヤ善かッたかい、そうかい、運の善方(いいかた)は何方(どっち)へ廻ッても善(いい)んだネー。それというが全躰(ぜんたい)あの方は如才がなくッて発明で、ハキハキしてお出でなさるからだヨ。それに聞けば課長さんの所(とこ)へも常不断(じょうふだん)御機嫌伺いにお出でなさるという事(こっ)たから、必(きっ)とそれで此度(こんど)も善かッたのに違いないヨ。だからお前さんも私の言事(いうこと)を聴いて、課長さんに取り入ッて置きゃア今度もやっぱり善かッたのかも知れないけれども、人の言事をお聴きでなかッたもんだからそれでこんな事になっちまッたんだ」

「それはそうかも知れませんが、しかし幾程(いくら)免職になるのが恐(こわ)いと言ッて、私にはそんな鄙劣(ひれつ)な事は……」

「出来ないとお言いのか……フン我慢(やせがまん)をお言いでない、そんな了簡方だから課長さんにも睨(ねめ)られたんだ。マアヨーク考えて御覧、本田さんのようなあんな方でさえ御免になってはならないと思(おもい)なさるもんだから、手間暇かいで課長さんに取り入ろうとなさるんじゃアないか、ましてお前さんなんざアそう言ッちゃアなんだけれども、本田さんから見りゃア……なんだから、尚更(なおさら)の事だ。それもネー、これがお前さん一人の事なら風見(かざみ)の烏(からす)みたように高くばッかり止まッて、食うや食わずにいようといまいとそりゃアもうどうなりと御勝手次第サ、けれどもお前さんには母親(おっか)さんというものが有るじゃアないかエ」

 母親と聞いて文三の萎(しお)れ返るを見て、お政は好い責(せめ)道具を視付(みつ)けたという顔付、長羅宇(ながらう)の烟管(きせる)で席(たたみ)を叩(たた)くをキッカケに、

「イエサ母親さんがお可愛(かわい)そうじゃアないかエ、マア篤(とっく)り胸に手を宛(あ)てて考えて御覧。母親さんだッて父親(おとっ)さんには早くお別れなさるし、今じゃ便りにするなアお前さんばっかりだから、どんなにか心細いか知れない。なにもああしてお国で一人暮しの不自由な思いをしてお出でなさりたくもあるまいけれども、それもこれも皆(みんな)お前さんの立身するばッかりを楽(たのしみ)にして辛抱してお出でなさるんだヨ。そこを些(すこ)しでも汲分(くみわ)けてお出でなら、仮令(たと)えどんな辛いと思う事が有ッても厭(いや)だと思う事があッても我慢をしてサ、石に噛付(かじりつい)ても出世をしなくッちゃアならないと心懸なければならないとこだ。それをお前さんのように、ヤ人の機嫌を取るのは厭だの、ヤそんな鄙劣(しれつ)な事は出来ないのとそんな我儘気随(きまま)を言ッて母親さんまで路頭に迷わしちゃア、今日(こんにち)冥利(みょうり)がわりいじゃないか。それゃアモウお前さんは自分の勝手で苦労するんだから関(かま)うまいけれども、それじゃア母親さんがお可愛そうじゃアないかい」

 ト層(かさ)にかかッて極付(きめつけ)れど、文三は差俯向いたままで返答をしない。

「アアアア母親さんもあんなに今年の暮を楽しみにしてお出でなさるとこだから、今度(こんだ)御免にお成りだとお聞きなすったらさぞマア落胆(がっかり)なさる事だろうが、年を寄(と)ッて御苦労なさるのを見ると真個(ほんと)にお痛(いたわ)しいようだ」

「実に母親(おふくろ)には面目(めんぼく)が御座んせん」

「当然(あたりまえ)サ、二十三にも成ッて母親さん一人さえ楽に養(すご)す事が出来ないんだものヲ。フフン面目が無くッてサ」

 ト、ツンと済まして空嘯(そらうそぶ)き、烟草(たばこ)を環(わ)に吹(ふい)ている。そのお政の半面(よこがお)を文三は畏(こわ)らしい顔をして佶(きっ)と睨付(ねめつ)け、何事をか言わんとしたが……気を取直して莞爾(にっこり)微笑した積(つもり)でも顔へ顕(あら)われたところは苦笑い、震声(ふるいごえ)とも附かず笑声(わらいごえ)とも附かぬ声で、

「ヘヘヘヘ面目は御座んせんが、しかし……出……出来た事なら……仕様が有りません」

「何だとエ」

 トいいながら徐(しず)かに此方(こなた)を振向いたお政の顔を見れば、何時しか額に芋(いもむし)ほどの青筋を張らせ、肝癪(かんしゃく)の眥(まなじり)を釣上げて唇(くちびる)をヒン曲げている。

「イエサ何とお言いだ。出来た事なら仕様が有りませんと……誰れが出来(でか)した事(こっ)たエ、誰れが御免になるように仕向けたんだエ、皆自分の頑固(かたいじ)から起ッた事(こっ)じゃアないか。それも傍(はた)で気を附けぬ事か、さんざッぱら人(しと)に世話を焼かして置て、今更御免になりながら面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有ませんとは何の事(こっ)たエ。それはお前さんあんまりというもんだ、余(あんま)り人(しと)を踏付けにすると言う者(もん)だ。全躰マア人(しと)を何だと思ッてお出(い)でだ、そりゃアお前さんの事(こっ)たから鬼老婆(おにばばあ)とか糞老婆(くそばばあ)とか言ッて他人にしてお出でかも知れないが、私ア何処(どこ)までも叔母の積だヨ。ナアニこれが他人で見るがいい、お前さんが御免になッたッて成らなくッたッて此方(こっち)にゃア痛くも痒(かい)くも何とも無い事(こっ)たから、何で世話を焼くもんですか。けれども血は繋(つなが)らずとも縁あッて叔母となり甥(おい)となりして見れば、そうしたもんじゃア有りません。ましてお前さんは十四の春ポッと出の山出しの時から、長の年月(としつき)、この私が婦人(おんな)の手一ツで頭から足の爪頭(つまさき)までの事を世話アしたから、私はお前さんを御迷惑かは知らないが血を分けた子息(むすこ)同様に思ッてます。ああやッてお勢や勇という子供が有ッても、些しも陰陽(かげしなた)なくしている事がお前さんにゃア解らないかエ。今までだッてもそうだ、何卒(どうぞ)マア文さんも首尾よく立身して、早く母親(おっか)さんを此地(こっち)へお呼び申すようにして上げたいもんだと思わない事は唯の一日も有ません。そんなに思ッてるとこだものヲ、お前さんが御免にお成りだと聞いちゃア私(あたし)は愉快(いいこころもち)はしないよ、愉快(いいこころもち)はしないからアア困ッた事に成ッたと思ッて、ヤレこれからはどうして往く積だ、ヤレお前さんの身になったらさぞ母親さんに面目があるまいと、人事(しとごと)にしないで歎(なげ)いたり悔(くやん)だりして心配してるとこだから、全躰なら『叔母さんの了簡に就(つ)かなくッて、こう御免になって実(まこと)に面目が有りません』とか何とか詫言(わびこと)の一言でも言う筈のとこだけれど、それも言わないでもよし聞たくもないが、人(しと)の言事を取上げなくッて御免になりながら、糞落着に落着払ッて、出来た事なら仕様が有りませんとは何の事(こっ)たエ。マ何処を押せばそんな音(ね)が出ます……アアアアつまらない心配をした、此方ではどこまでも実の甥と思ッて心を附けたり世話を焼たりして信切を尽していても、先様じゃア屁(へ)とも思召(おぼしめ)さない」

「イヤ決してそう言う訳じゃア有りませんが、御存知の通り口不調法なので、心には存じながらツイ……」

「イイエそんな言訳は聞きません。なんでも私(あたし)を他人にしてお出でに違いない、糞老婆(くそばばあ)と思ッてお出でに違いない……此方はそんな不実な心意気の人(しと)と知らないから、文さんも何時までもああやッて一人(しとり)でもいられまいから、来年母親さんがお出でなすったら篤(とっく)り御相談申して、誰と言ッて宛(あて)もないけれども相応なのが有ッたら一人(しとり)授けたいもんだ、それにしても外人(ほかびと)と違ッて文さんがお嫁をお貰いの事たから黙ッてもいられない、何かしら祝ッて上げなくッちゃアなるまいからッて、この頃じゃア、アノ博多(はかた)の帯をくけ直おさして、コノお召縮緬(ちりめん)の小袖(こそで)を仕立直おさして、あれをこうしてこれをこうしてと、毎日々々勘(かんが)えてばッかいたんだ。そうしたら案外で、御免になるもいいけれども、面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有りませぬと済まアしてお出でなさる……アアアアもういうまいいうまい、幾程(いくら)言ッても他人にしてお出(いで)じゃア無駄(むだ)だ」

 ト厭味文句を並べて始終肝癪の思入(おもいいれ)。暫らく有ッて、

「それもそうだが、全躰その位なら昨夕(ゆうべ)の中(うち)に、実はこれこれで御免になりましたと一言(しとこと)位言ッたッてよさそうなもんだ。お話しでないもんだから此方(こっち)はそんな事とは夢にも知らず、お弁当のお菜(かず)も毎日おんなじ物(もん)ばッかりでもお倦(あ)きだろう、アアして勉強してお勤にお出の事たからその位な事は此方で気を附けて上げなくッちゃアならないと思ッて、今日のお弁当のお菜(かず)は玉子焼にして上げようと思ッても鍋には出来ず、余儀所(よんどころ)ないから私が面倒な思いをして拵(こし)らえて附けましたアネ……アアアア偶(たま)に人(しと)が気を利(き)かせればこんな事(こ)ッた……しかし飛んだ余計なお世話でしたヨネー、誰れも頼みもしないのに……鍋」

「ハイ」

「文さんのお弁当は打開(ぶちあ)けておしまい」

 お鍋女郎(じょろう)は襖(ふすま)の彼方(あなた)から横幅(よこはば)の広い顔を差出(さしいだ)して、「ヘー」とモッケな顔付。

「アノネ、内の文さんは昨日(きのう)御免にお成りだッサ」

「ヘーそれは」

「どうしても働のある人(しと)は、フフン違ッたもんだヨ」

 ト半(なかば)まで言切らぬ内、文三は血相を変てツと身を起し、ツカツカと座舗(ざしき)を立出でて我子舎(へや)へ戻り、机の前にブッ座ッて歯を噛切(くいしば)ッての悔涙(くやしなみだ)、ハラハラと膝へ濫(こぼ)した。暫(しば)らく有ッて文三は、はふり落ちる涙の雨をハンカチーフで拭止(ぬぐいと)めた……がさて拭ッても取れないのは沸返える胸のムシャクシャ、熟々(つらつら)と思廻(おもいめぐ)らせば廻らすほど、悔しくも又口惜(くちお)しくなる。免職と聞くより早くガラリと変る人の心のさもしさは、道理(もっとも)らしい愚痴の蓋(ふた)で隠蔽(かく)そうとしても看透(みす)かされる。とはいえそれは忍ぼうと思えば忍びもなろうが、面(まの)あたりに意久地なしと言わぬばかりのからみ文句、人を見括(みくび)ッた一言(いちごん)ばかりは、如何(いか)にしても腹に据(す)えかねる。何故(なぜ)意久地がないとて叔母がああ嘲(あざけ)り辱(はずかし)めたか、其処(そこ)まで思い廻らす暇がない、唯もう腸(はらわた)が断(ちぎ)れるばかりに悔しく口惜しく、恨めしく腹立たしい。文三は憤然として「ヨシ先がその気なら此方(こっち)もその気だ、畢竟(ひっきょう)姨(おば)と思えばこそ甥と思えばこそ、言たい放題をも言わして置くのだ。ナニ縁を断(き)ッてしまえば赤の他人、他人に遠慮も糸瓜(へちま)もいらぬ事だ……糞ッ、面宛(つらあて)半分に下宿をしてくれよう……」ト肚(はら)の裏(うち)で独言(ひとりごと)をいうと、不思議やお勢の姿が目前にちらつく。「ハテそうしては彼娘(あれ)が……」ト文三は少しく萎(しお)れたが……不図又叔母の悪々(にくにく)しい者面(しゃっつら)を憶出(おもいいだ)して、又憤然(やっき)となり、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト何時(いつ)にない断念(おもいきり)のよさ。こう腹を定(き)めて見ると、サアモウ一刻も居るのが厭になる、借住居かとおもえば子舎(へや)が気に喰わなくなる、我物でないかと思えば縁(ふち)の欠けた火入まで気色(きしょく)に障わる。時計を見れば早十一時、今から荷物を取旁付(とりかたづ)けて是非とも今日中には下宿を為よう、と思えば心までいそがれ、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト口癖のように言いながら、熱気(やっき)となって其処らを取旁付けにかかり、何か探そうとして机の抽斗(ひきだし)を開け、中(うち)に納(い)れてあッた年頃五十の上をゆく白髪たる老婦の写真にフト眼を注(と)めて、我にもなく熟々(つらつら)と眺(なが)め入ッた。これは老母の写真で。御存知の通り文三は生得(しょうとく)の親おもい、母親の写真を視て、我が辛苦を甞(な)め艱難(かんなん)を忍びながら定めない浮世に存生(なが)らえていたる、自分一個(ひとり)の為(ため)而已(のみ)でない事を想出(おもいいだ)し、我と我を叱(しか)りもし又励しもする事何時も何時も。今も今母親の写真を見て文三は日頃喰付(たべつ)けの感情をおこし覚えずも悄然(しょうぜん)と萎れ返ッたが、又悪々(にくにく)しい叔母の者面(しゃっつら)を憶出して又熱気(やっき)となり、拳(こぶし)を握り歯を喰切(くいしば)り、「糞ッ止めて止まらぬぞ」ト独言(ひとりごと)を言いながら再び将(まさ)に取旁付(とりかたづけ)に懸らんとすると、二階の上り口で「お飯(まんま)で御座いますヨ」ト下女の呼ぶ声がする。故(ことさ)らに二三度呼ばして返事にも勿躰(もったい)をつけ、しぶしぶ二階を降りて、気むずかしい苦り切ッた怖(おそ)ろしい顔色をして奥坐舗(おくざしき)の障子を開けると……お勢がいるお勢が……今まで残念口惜しいと而已(のみ)一途に思詰めていた事ゆえ、お勢の事は思出したばかりで心にも止めず忘れるともなく忘れていたが、今突然可愛らしい眼と眼を看合わせ、しおらしい口元で嫣然(にっこり)笑われて見ると……淡雪(あわゆき)の日の眼に逢(あ)ッて解けるが如く、胸の鬱結(むすぼれ)も解けてムシャクシャも消え消えになり、今までの我を怪しむばかり、心の変動、心底(むなそこ)に沈んでいた嬉(うれ)しみ有難みが思い懸けなくもニッコリ顔へ浮み出し懸ッた……が、グッと飲込んでしまい、心では笑いながら顔ではフテテ膳に向ッた。さて食事も済む。二階へ立戻ッて文三が再び取旁付に懸ろうとして見たが、何となく拍子抜(ひょうしぬ)けがして以前のような気力が出ない。ソッと小声で「大丈夫」と言ッて見たがどうも気が引立(ひった)たぬ。依(よっ)て更に出直して「大丈夫」ト熱気(やっき)とした風(ふり)をして見て、歯を喰切(くいしば)ッて見て、「一旦思い定めた事を変(へん)がえるという事が有るものか……しらん、止めても止まらんぞ」

 と言ッて出て往(ゆ)けば、彼娘(あれ)を捨てなければならぬかと落胆したおもむき。今更未練が出てお勢を捨るなどという事は勿躰(もったい)なくて出来ず、と言ッて叔母に詫言(わびごと)を言うも無念、あれも厭(いや)なりこれも厭なりで思案の糸筋が乱(もつ)れ出し、肚の裏(うち)では上を下へとゴッタ返えすが、この時より既にどうやら人が止めずとも遂(つい)には我から止まりそうな心地がせられた。「マアともかくも」ト取旁付に懸りは懸ッたが、考えながらするので思の外暇取り、二時頃までかかって漸(ようや)く旁付終りホッと一息吐いていると、ミシリミシリと梯子段(はしごだん)を登る人の跫音(あしおと)がする。跫音を聞たばかりで姿を見ずとも文三にはそれと解ッた者か、先刻飲込んだニッコリを改めて顔へ現わして其方(そなた)を振向く。上ッて来た者はお勢で、文三の顔を見てこれもまたニッコリして、さて坐舗を見廻わし、

「オヤ大変片付たこと」

「余りヒッ散らかっていたから」

 ト我知らず言ッて文三は我を怪んだ。何故虚言(そらごと)を言ッたか自分にも解りかねる。お勢は座に着きながら、さして吃驚(びっくり)した様子もなく、

「アノ今母親さんがお噺(はな)しだッたが、文さん免職におなりなすったとネ」

「昨日(きのう)免職になりました」

 ト文三も今朝とはうって反(かわ)ッて、今は其処どころで無いと言ッたような顔付。

「実に面目は有りませんが、しかし幾程(いくら)悔んでも出来た事は仕様が無いと思ッて今朝母親さんに御風聴(ごふいちょう)申したが……叱られました」

 トいって歯を囓切(くいしば)ッて差俯向(さしうつむ)く。

「そうでしたとネー、だけれども……」

「二十三にも成ッて親一人楽に過す事の出来ない意久地なし、と言わないばかりに仰(おっ)しゃッた」

「そうでしたとネー、だけれども……」

「成程私は意久地なしだ、意久地なしに違いないが、しかしなんぼ叔母甥の間柄(あいだがら)だと言ッて面と向ッて意久地なしだと言われては、腹も立たないが余(あんま)り……」

「だけれどもあれは母親さんの方が不条理ですワ。今もネ母親さんが得意になってお話しだったから、私が議論したのですよ。議論したけれども母親さんには私の言事(いうこと)が解らないと見えてネ、唯(ただ)腹ばッかり立てているのだから、教育の無い者は仕様がないのネー」

 ト極り文句。文三は垂れていた頭(こうべ)をフッと振挙げて、

「エ、母親さんと議論を成(な)すった」

「ハア」

「僕の為めに」

「ハア、君の為めに弁護したの」

「アア」

 ト言ッて文三は差俯向いてしまう。何(なん)だか膝(ひざ)の上へボッタリ落ちた物が有る。

「どうかしたの、文さん」

 トいわれて文三は漸く頭(こうべ)を擡(もた)げ、莞爾(にっこり)笑い、その癖(まぶち)を湿(うる)ませながら、

「どうもしないが……実に……実に嬉れしい……母親さんの仰しゃる通り、二十三にも成ッてお袋一人さえ過しかねるそんな不甲斐(ふがい)ない私をかばって母親さんと議論をなすったと、実に……」

「条理を説ても解らない癖に腹ばかり立てているから仕様がないの」

 ト少し得意の躰(てい)。

「アアそれ程までに私(わたくし)を……思ッて下さるとは知らずして、貴嬢(あなた)に向ッて匿立(かくしだ)てをしたのが今更耻(はず)かしい、アア耻かしい。モウこうなれば打散(ぶちま)けてお話してしまおう、実はこれから下宿をしようかと思ッていました」

「下宿を」

「サ為(し)ようかと思ッていたんだが、しかしもう出来ない。他人同様の私をかばって実の母親さんと議論をなすった、その貴嬢の御信切を聞ちゃ、しろと仰しゃッてももう出来ない……がそうすると、母親さんにお詫(わび)を申さなければならないが……」

「打遣(うっちゃ)ッてお置きなさいヨ。あんな教育の無い者が何と言ッたッて好う御座んさアネ」

「イヤそうでない、それでは済まない、是非お詫を申そう。がしかしお勢さん、お志は嬉しいが、もう母親さんと議論をすることは罷(や)めて下さい、私の為めに貴嬢を不孝の子にしては済まないから」

「お勢」

 ト下坐舗の方でお政の呼ぶ声がする。

「アラ母親さんが呼んでお出でなさる」

「ナアニ用も何にも有るんじゃアないの」

「お勢」

「マア返事を為(な)さいヨ」

「お勢お勢」

「ハアイ……チョッ五月蠅(うるさい)こと」

 ト起揚(たちあが)る。

「今話した事は皆(みんな)母親さんにはコレですよ」

 ト文三が手頭(てくび)を振ッて見せる。お勢は唯点頭(うなずい)た而已(のみ)で言葉はなく、二階を降りて奥坐舗へ参ッた。

 先程より疳癪(かんしゃく)の眥(まなじり)を釣(つ)り上げて手ぐすね引て待ッていた母親のお政は、お勢の顔を見るより早く、込み上げて来る小言を一時にさらけ出しての大怒鳴(おおがなり)。

「お……お……お勢、あれ程呼ぶのがお前には聞えなかッたかエ、聾者(つんぼ)じゃアあるまいし、人(しと)が呼んだら好加減に返事をするがいい……全躰マア何の用が有ッて二階へお出でだ、エ、何の用が有ッてだエ」

 ト逆上(のぼせ)あがッて極(き)め付けても、此方(こなた)は一向平気なもので、

「何(な)にも用は有りゃアしないけれども……」

「用がないのに何故お出でだ。先刻(さっき)あれほど、もうこれからは今までのようにヘタクタ二階へ往ッてはならないと言ッたのがお前にはまだ解らないかエ。さかりの附た犬じゃアあるまいし、間(ま)がな透(すき)がな文三の傍(そば)へばッかし往きたがるよ」

「今までは二階へ往ッても善くッてこれからは悪いなんぞッて、そんな不条理な」

「チョッ解らないネー、今までの文三と文三が違います。お前にゃア免職になった事が解らないかエ」

「オヤ免職に成ッてどうしたの、文さんが人を見ると咬付(かみつ)きでもする様になったの、ヘーそう」

「な、な、な、なんだと、何とお言いだ……コレお勢、それはお前あんまりと言うもんだ、余(あんま)り親をば、ば、ば、馬鹿にすると言うもんだ」

「ば、ば、ば、馬鹿にはしません。ヘー私は条理のある所を主張するので御座います」

 ト唇を反らしていうを聞くや否(いな)や、お政は忽(たちま)ち顔色を変えて手に持ッていた長羅宇(ながらう)の烟管(きせる)を席(たたみ)へ放り付け、

「エーくやしい」

 ト歯を喰切(くいしば)ッて口惜(くちお)しがる。その顔を横眼でジロリと見たばかりで、お勢はすまアし切ッて座舗を立出でてしまッた。

 しかしながらこれを親子喧嘩(げんか)と思うと女丈夫の本意に負(そむ)く。どうしてどうして親子喧嘩……そんな不道徳な者でない。これはこれ辱(かたじけ)なくも難有(ありがた)くも日本文明の一原素ともなるべき新主義と時代後(おく)れの旧主義と衝突をするところ、よくお眼を止めて御覧あられましょう。

 その夜文三は断念(おもいき)ッて叔母に詫言をもうしたが、ヤ梃(てこ)ずったの梃ずらないのと言てそれはそれは……まずお政が今朝言ッた厭味に輪を懸け枝を添えて百万陀羅(まんだら)并(なら)べ立てた上句(あげく)、お勢の親を麁末(そまつ)にするのまでを文三の罪にして難題を言懸ける。されども文三が死だ気になって諸事お容(ゆ)るされてで持切ッているに、お政もスコだれの拍子抜けという光景(きみ)で厭味の音締(ねじめ)をするように成ッたから、まず好しと思う間もなく、不図又文三の言葉尻(じり)から燃出して以前にも立優(たちまさ)る火勢、黒烟(くろけぶり)焔々(えんえん)と顔に漲(みなぎ)るところを見てはとても鎮火しそうも無かッたのも、文三が済(すみ)ませぬの水を斟尽(くみつく)して澆(そそ)ぎかけたので次第々々に下火になって、プスプス燻(いぶり)になって、遂に不精々々に鎮火(しめ)る。文三は吻(ほっ)と一息、寸善尺魔(せきま)の世の習い、またもや御意の変らぬ内にと、挨拶(あいさつ)も匆々(そこそこ)に起ッて坐敷を立出で二三歩すると、後(うしろ)の方(かた)でお政がさも聞えよがしの独語(ひとりごと)、

「アアアア今度(こんだ)こそは厄介(やっかい)払いかと思ッたらまた背負(しょい)込みか」

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