秋の日影も稍(やや)傾(かたぶ)いて庭の梧桐(ごとう)の影法師が背丈を伸ばす三時頃、お政は独り徒然(つくねん)と長手の火鉢(ひばち)に凭(もた)れ懸ッて、斜(ななめ)に坐りながら、火箸(ひばし)を執(とっ)て灰へ書く、楽書(いたずらがき)も倭文字(やまともじ)、牛の角文字いろいろに、心に物を思えばか、怏々(おうおう)たる顔の色、動(ややと)もすれば太息(といき)を吐いている折しも、表の格子戸(こうしど)をガラリト開けて、案内もせず這入(はい)ッて来て、隔(へだて)の障子の彼方(あなた)からヌット顔を差出して、
「今日(こんち)は」
ト挨拶(あいさつ)をした男を見れば、何処(どこ)かで見たような顔と思うも道理、文三の免職になった当日、打連れて神田見附の裏(うち)より出て来た、ソレ中背の男と言ッたその男で。今日は退省後と見えて不断着の秩父縞(ちちぶじま)の袷衣(あわせ)の上へ南部の羽織をはおり、チト疲労(くたび)れた博多の帯に袂(たもと)時計の紐(ひも)を捲付(まきつ)けて、手に土耳斯(トルコ)形の帽子を携えている。
「オヤ何人(どなた)かと思ッたらお珍らしいこと、此間(こないだ)はさっぱりお見限りですネ。マアお這入(はいん)なさいナ、それとも老婆(ばばア)ばかりじゃアお厭(いや)かネ、オホホホホホ」
「イヤ結構……結構も可笑(おか)しい、アハハハハハ。トキニ何は、内海(うつみ)は居ますか」
「ハア居ますヨ」
「それじゃちょいと逢(あっ)て来てからそれからこの間の復讐(かたきうち)だ、覚悟をしてお置きなさい」
「返討(かえりうち)じゃアないかネ」
「違いない」
ト何か判(わか)らぬ事を言ッて、中背の男は二階へ上ッてしまッた。
帰ッて来ぬ間(ま)にチョッピリこの男の小伝をと言う可(べ)きところなれども、何者の子でどんな教育を享(う)けどんな境界(きょうがい)を渡ッて来た事か、過去ッた事は山媛(やまひめ)の霞(かすみ)に籠(こも)ッておぼろおぼろ、トント判らぬ事而已(のみ)。風聞に拠(よ)れば総角(そうかく)の頃に早く怙恃(こじ)を喪(うしな)い、寄辺渚(よるべなぎさ)の棚(たな)なし小舟(おぶね)では無く宿無小僧となり、彼処(あすこ)の親戚(しんせき)此処(ここ)の知己(しるべ)と流れ渡ッている内、曾(かつ)て侍奉公までした事が有るといいイヤ無いという、紛々たる人の噂(うわさ)は滅多に宛(あて)になら坂(ざか)や児手柏(このでがしわ)の上露(うわつゆ)よりももろいものと旁付(かたづけ)て置いて、さて正味の確実(たしか)なところを掻摘(かいつま)んで誌(しる)せば、産(うまれ)は東京(とうけい)で、水道の水臭い士族の一人(かたわれ)だと履歴書を見た者の噺(はな)し、こればかりは偽(うそ)でない。本田昇(のぼる)と言ッて、文三より二年前(ぜん)に某省の等外を拝命した以来(このかた)、吹小歇(ふきおやみ)のない仕合(しあわせ)の風にグットのした出来星(できぼし)判任、当時は六等属の独身(ひとりみ)ではまず楽な身の上。
昇は所謂(いわゆる)才子で、頗(すこぶ)る智慧(ちま)才覚が有ッてまた能(よ)く智慧才覚を鼻に懸ける。弁舌は縦横無尽、大道に出る豆蔵(まめぞう)の塁を摩して雄を争うも可なりという程では有るが、竪板(たていた)の水の流を堰(せき)かねて折節は覚えず法螺(ほら)を吹く事もある。また小奇用(こぎよう)で、何一ツ知らぬという事の無い代り、これ一ツ卓絶(すぐれ)て出来るという芸もない、怠(ずるけ)るが性分で倦(あき)るが病だといえばそれもその筈(はず)か。
昇はまた頗る愛嬌(あいきょう)に富でいて、極(きわめ)て世辞がよい。殊(こと)に初対面の人にはチヤホヤもまた一段で、婦人にもあれ老人にもあれ、それ相応に調子を合せて曾てそらすという事なし。唯(ただ)不思議な事には、親しくなるに随(したが)い次第に愛想(あいそ)が無くなり、鼻の頭(さき)で待遇(あしらっ)て折に触れては気に障る事を言うか、さなくば厭(いや)におひゃらかす。それを憤(いか)りて喰(くっ)て懸れば、手に合う者はその場で捻返(ねじかえ)し、手に合わぬ者は一時(じ)笑ッて済まして後(のち)、必ず讐(あだ)を酬(むく)ゆる……尾籠(びろう)ながら、犬の糞(くそ)で横面(そっぽう)を打曲(はりま)げる。
とはいうものの昇は才子で、能く課長殿に事(つか)える。この課長殿というお方は、曾て西欧の水を飲まれた事のあるだけに「殿様風」という事がキツイお嫌(きら)いと見えて、常に口を極めて御同僚方の尊大の風を御誹謗(ひぼう)遊ばすが、御自分は評判の気むずかし屋で、御意(ぎょい)に叶(かな)わぬとなると瑣細(ささい)の事にまで眼を剥出(むきだ)して御立腹遊ばす、言わば自由主義の圧制家という御方だから、哀れや属官の人々は御機嫌(ごきげん)の取様に迷(まごつ)いてウロウロする中に、独り昇は迷(まごつ)かぬ。まず課長殿の身態(みぶり)声音(こわいろ)はおろか、咳払(せきばら)いの様子から嚔(くさめ)の仕方まで真似(まね)たものだ。ヤそのまた真似の巧(たくみ)な事というものは、あたかもその人が其処(そこ)に居て云為(うんい)するが如くでそっくりそのまま、唯相違と言ッては、課長殿は誰の前でもアハハハとお笑い遊ばすが、昇は人に依ッてエヘヘ笑いをする而已(のみ)。また課長殿に物など言懸けられた時は、まず忙わしく席を離れ、仔細(しさい)らしく小首を傾けて謹(つつしん)で承り、承り終ッてさて莞爾(にっこり)微笑して恭(うやうや)しく御返答申上る。要するに昇は長官を敬すると言ッても遠ざけるには至らず、狎(な)れるといっても涜(けが)すには至らず、諸事万事御意の随意々々(まにまに)曾て抵抗した事なく、しかのみならず……此処が肝賢要(かなめ)……他の課長の遺行を数(かぞえ)て暗に盛徳を称揚する事も折節はあるので、課長殿は「見所のある奴じゃ」ト御意遊ばして御贔負(ごひいき)に遊ばすが、同僚の者は善く言わぬ。昇の考では皆法界悋気(ほうかいりんき)で善く言わぬのだという。
ともかくも昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る活溌(かっぱつ)で、他人の一日分沢山(たっぷり)の事を半日で済ましても平気孫左衛門、難渋そうな顔色(かおつき)もせぬが、大方は見せかけの勉強態(ぶり)、小使給事などを叱散(しかりち)らして済まして置く。退省(ひけ)て下宿へ帰る、衣服を着更(きかえ)る、直ぐ何処(いずれ)へか遊びに出懸けて、落着て在宿していた事は稀(まれ)だという。日曜日には、御機嫌伺いと号して課長殿の私邸へ伺候し、囲碁のお相手をもすれば御私用をも達(た)す。先頃もお手飼に狆(ちん)が欲しいと夫人の御意、聞(きく)よりも早飲込み、日ならずして何処で貰(もら)ッて来た事か、狆の子一疋(ぴき)を携えて御覧に供える。件(くだん)の狆を御覧じて課長殿が「此奴(こいつ)妙な貌(かお)をしているじゃアないか、ウー」ト御意遊ばすと、昇も「左様で御座います、チト妙な貌をしております」ト申上げ、夫人が傍(かたわら)から「それでも狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト仰(おっ)しゃると、昇も「成程夫人(おくさま)の仰(おおせ)の通り狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト申上げて、御愛嬌にチョイト狆の頭を撫(な)でて見たとか。しかし永い間には取外(とりはず)しも有ると見えて、曾て何かの事で些(すこ)しばかり課長殿の御機嫌を損ねた時は、昇はその当坐一両日(いちりょうにち)の間、胸が閉塞(つかえ)て食事が進まなかッたとかいうが、程なく夫人のお癪(しゃく)から揉(もみ)やわらげて、殿さまの御肝癖も療治し、果は自分の胸の痞(つかえ)も押さげたという、なかなか小腕のきく男で。
下宿が眼と鼻の間の所為(せい)か、昇は屡々(しばしば)文三の所へ遊びに来る。お勢が帰宅してからは、一段足繁くなって、三日にあげず遊びに来る。初とは違い、近頃は文三に対しては気に障わる事而已(のみ)を言散らすか、さもなければ同僚の非を数えて「乃公(おれ)は」との自負自讃、「人間地道(じみち)に事をするようじゃ役に立たぬ」などと勝手な熱を吐散らすが、それは邂逅(たまさか)の事で、大方は下坐敷でお政を相手に無駄(むだ)口を叩(たた)き、或る時は花合せとかいうものを手中に弄(ろう)して、如何(いかが)な真似をした上句(あげく)、寿司(すし)などを取寄せて奢散(おごりち)らす。勿論(もちろん)お政には殊(こと)の外気に入ッてチヤホヤされる、気に入り過ぎはしないかと岡焼をする者も有るが、まさか四十面(づら)をさげて……お勢には……シッ跫音(あしおと)がする、昇ではないか……当ッた。
「トキニ内海はどうも飛だ事で、実に気の毒な、今も往(いっ)て慰めて来たが塞切(ふさぎき)ッている」
「放擲(うっちゃっ)てお置きなさいヨ。身から出た錆(さび)だもの、些(ちっ)とは塞ぐも好(いい)のサ」
「そう言えばそんなような者だが、しかし何しろ気の毒だ。こういう事になろうと疾(はや)くから知ていたらまたどうにか仕様も有たろうけれども、何しても……」
「何とか言ッてましたろうネ」
「何を」
「私の事をサ」
「イヤ何とも」
「フム貴君(あなた)も頼もしくないネ、あんな者(もん)を朋友(ともだち)にして同類(ぐる)にお成んなさる」
「同類(ぐる)にも何にも成りゃアしないが、真実(ほんとう)に」
「そう」
ト談話(はなし)の内に茶を入れ、地袋の菓子を取出して昇に侑(すす)め、またお鍋を以(もっ)てお勢を召(よ)ばせる。何時(いつ)もならば文三にもと言うところを今日は八分(ぶ)したゆえ、お鍋が不審に思い、「お二階へは」ト尋ねると、「ナニ茶がカッ食(くら)いたきゃア……言(いわ)ないでも宜(いい)ヨ」ト答えた。これを名(なづ)けて Woman's(ウーマンス) revenge(レヴェンジ)(婦人の復讐(ふくしゅう))という。
「どうしたんです、鬩(いじ)り合いでもしたのかネ」
「鬩合(いじりあ)いなら宜がいじめられたの、文三にいじめられたの……」
「それはまたどうした理由(わけ)で」
「マア本田さん、聞ておくんなさい、こうなんですヨ」
ト昨日(きのう)文三にいじめられた事を、おまけにおまけを附着(つけ)てベチャクチャと饒舌(しゃべ)り出しては止度(とめど)なく、滔々蕩々(とうとうとうとう)として勢い百川(ひゃくせん)の一時に決した如くで、言損じがなければ委(たる)みもなく、多年の揣摩(ずいま)一時の宏弁(こうべん)、自然に備わる抑揚頓挫(とんざ)、或(あるい)は開き或は闔(と)じて縦横自在に言廻わせば、鷺(さぎ)も烏(からす)に成らずには置かぬ。哀(あわれ)むべし文三は竟(つい)に世にも怖(おそ)ろしい悪棍(わるもの)と成り切ッた所へ、お勢は手に一部の女学雑誌を把持(も)ち、立(たち)ながら読み読み坐舗(ざしき)へ這入て来て、チョイト昇に一礼したのみで嫣然(にっこり)ともせず、饒舌(しゃべり)ながら母親が汲(くん)で出す茶碗(ちゃわん)を憚(はばか)りとも言わずに受取りて、一口飲で下へ差措(さしおい)たまま、済まアし切ッて再(また)復(ふたた)び読みさした雑誌を取り上げて眺(なが)め詰めた、昇と同席の時は何時でもこうで。
「トいう訳でツイそれなり鳧(けり)にしてしまいましたがネ、マア本田さん、貴君(あなた)は何方(どっち)が理屈だとお思なさる」
「それは勿論内海が悪い」
「そのまた悪(わり)い文三の肩を持ッてサ、私(あたし)に喰ッて懸ッた者があると思召(おぼしめ)せ」
「アラ喰ッて懸りはしませんワ」
「喰ッて懸らなくッてサ……私はもうもう腹が立て腹が立て堪(たま)らなかッたけれども、何してもこの通り気が弱いシ、それに先には文三という荒神(こうじん)様が附てるからとても叶(かな)う事(こっ)ちゃア無いとおもって、虫を殺ろして噤黙(だまっ)てましたがネ……」
「アラあんな虚言(うそ)ばッかり言ッて」
「虚言じゃないワ真実(ほんと)だワ……マなんぼなんだッて呆(あき)れ返るじゃ有りませんか。ネー貴君、何処の国にか他人の肩を持ッてサ、シシババの世話をしてくれた現在の親に喰ッて懸るという者(もん)が有るもんですかネ。ネー本田さん、そうじゃア有りませんか。ギャット産れてからこれまでにするにア仇(あだ)や疎(おろそ)かな事(こっ)じゃア有りません。子を持てば七十五度(たび)泣くというけれども、この娘(こ)の事(こっ)てはこれまで何百度泣たか知れやアしない。そんなにして養育(そだて)て貰ッても露程も有難いと思ッてないそうで、この頃じゃ一口いう二口目にゃ速(す)ぐ悪たれ口だ。マなんたら因果でこんな邪見な子を持ッたかと思うとシミジミ悲しくなりますワ」
「人が黙ッていれば好気(いいき)になってあんな事を言ッて、余(あんま)りだから宜(いい)ワ。私は三歳の小児じゃないから親の恩位は知ていますワ。知ていますけれども条理……」
「アアモウ解ッた解ッた、何にも宣(のたも)うナ。よろしいヨ、解ッたヨ」
ト昇は憤然(やっき)と成ッて饒舌り懸けたお勢の火の手を手頸(てくび)で煽(あお)り消して、さてお政に向い、
「しかし叔母さん、此奴(こいつ)は一番失策(しくじ)ッたネ、平生の粋(すい)にも似合わないなされ方、チトお恨みだ。マア考えて御覧(ごろう)じろ、内海といじり合いが有ッて見ればネ、ソレ……という訳が有るからお勢さんも黙ッては見ていられないやアネ、アハハハハ」
ト相手のない高笑い。お勢は額(ひたえ)で昇を睨(にら)めたまま何(なに)とも言わぬ、お政も苦笑いをした而已(のみ)でこれも黙然(だんまり)、些(ち)と席がしらけた趣き。
「それは戯談(じょうだん)だがネ、全体叔母さん余り慾が深過るヨ、お勢さんの様なこんな上出来な娘を持ちながら……」
「なにが上出来なもんですか……」
「イヤ上出来サ。上出来でないと思うなら、まず世間の娘子(むすめっこ)を御覧なさい。お勢さん位の年恰好(かっこう)でこんなに縹致(きりょう)がよくッて見ると、学問や何かは其方退(そっちの)けで是非色狂いとか何とか碌(ろく)な真似はしたがらぬものだけれども、お勢さんはさすがは叔母さんの仕込みだけ有ッて、縹致は好くッても品行は方正で、曾て浮気らしい真似をした事はなく、唯一心に勉強してお出でなさるから漢学は勿論出来るシ、英学も……今何を稽古(けいこ)してお出でなさる」
「『ナショナル』の『フォース』に列国史(スイントン)に……」
「フウ、『ナショナル』の『フォース』、『ナショナル』の『フォース』と言えば、なかなか難(むつか)しい書物だ、男子でも読(よめ)ない者は幾程(いくら)も有る。それを芳紀(とし)も若くッてかつ婦人の身でいながら稽古してお出でなさる、感心な者だ。だからこの近辺じゃアこう言やア失敬のようだけれども、鳶(とび)が鷹(たか)とはあの事だと言ッて評判していますゼ。ソレ御覧、色狂いして親の顔に泥(どろ)を塗(ぬ)ッても仕様がないところを、お勢さんが出来が宜いばっかりに叔母さんまで人に羨(うらや)まれる。ネ、何も足腰按(さす)るばかりが孝行じゃアない、親を人に善く言わせるのも孝行サ。だから全体なら叔母さんは喜んでいなくッちゃアならぬところを、それをまだ不足に思ッてとやこういうのは慾サ、慾が深過ぎるのサ」
「ナニ些(ち)とばかりなら人様(しとさま)に悪く言われても宜(いい)からもう些(すこ)し優しくしてくれると宜(いいん)だけれども、邪慳(じゃけん)で親を親臭いとも思ッていないから悪(にく)くッて成りゃアしません」
ト眼を細くして娘の方を顧視(みかえ)る。こういう眺(にら)め方も有るものと見える。
「喜び叙(ついで)にもう一ツ喜んで下さい。我輩今日一等進みました」
「エ」
トお政は此方(こなた)を振向き、吃驚(びっくり)した様子で暫(しば)らく昇の顔を目守(みつ)めて、
「御結構が有ッたの……ヘエエー……それはマア何してもお芽出度(めでとう)御座いました」
ト鄭重(ていちょう)に一礼して、さて改めて頭(こうべ)を振揚げ、
「ヘー御結構が有ッたの……」
お勢もまた昇が「御結構が有ッた」と聞くと等しく吃驚した顔色(かおつき)をして些(すこ)し顔を※(あか)[#「赤+報のつくり」、74-9]らめた。咄々(とつとつ)怪事もあるもので。
「一等お上(あがん)なすッたと言うと、月給は」
「僅(たった)五円違いサ」
「オヤ五円違いだッて結構ですワ。こうッ今までが三十円だッたから五円殖えて……」
「何ですネー母親(おっか)さん、他人の収入を……」
「マアサ五円殖えて三十五円、結構ですワ、結構でなくッてサ。貴君(あなた)どうして今時高利貸したッて月三十五円取ろうと言うなア容易な事(こっ)ちゃア有りませんヨ……三十五円……どうしても働らき者(もん)は違ッたもんだネー。だからこの娘(こ)とも常不断(じょうふだん)そう言ッてます事サ、アノー本田さんは何だと、内の文三や何(なん)かとは違ッてまだ若くッてお出(い)でなさるけれども、利口で気働らきが有ッて、如才が無くッて……」
「談話(はなし)も艶消(つやけ)しにして貰(もらい)たいネ」
「艶じゃア無い、真個(ほんと)にサ。如才が無くッてお世辞がよくッて男振も好けれども、唯物喰(ものぐ)いの悪(わり)いのが可惜(あったら)瑜(たま)に疵(きず)だッて、オホホホホ」
「アハハハハ、貧乏人の質(しち)で上げ下げが怖ろしい」
「それはそうと、孰(いず)れ御結構振舞いが有りましょうネ。新富(しんとみ)かネ、但(ただ)しは市村(いちむら)かネ」
「何処(いずれ)へなりとも、但し負(おん)ぶで」
「オヤそれは難有(ありがた)くも何ともないこと」
トまた口を揃(そろ)えて高笑い。
「それは戯談(じょうだん)だがネ、芝居はマア芝居として、どうです、明後日(あさって)団子坂(だんござか)へ菊見という奴は」
「菊見、さようさネ、菊見にも依りけりサ。犬川(いぬかわ)じゃア、マア願い下げだネ」
「其処にはまた異(おつ)な寸法も有ろうサ」
「笹(ささ)の雪じゃアないかネ」
「まさか」
「真個(ほんと)に往きましょうか」
「お出でなさいお出でなさい」
「お勢、お前もお出ででないか」
「菊見に」
「アア」
お勢は生得の出遊(である)き好き、下地は好きなり御意(ぎょい)はよし、菊見の催(もよおし)頗(すこぶ)る妙だが、オイソレというも不見識と思ッたか、手弱く辞退して直ちに同意してしまう。十分ばかりを経て昇が立帰ッた跡で、お政は独言(ひとりごと)のように、
「真個(ほんと)に本田さんは感心なもんだナ、未(ま)だ年齢(とし)も若いのに三十五円月給取るように成んなすった。それから思うと内の文三なんざア盆暗(ぼんくら)の意久地なしだッちゃアない、二十三にも成ッて親を養(すご)すどこか自分の居所(いど)立所(たちど)にさえ迷惑(まごつい)てるんだ。なんぼ何だッて愛想(あいそ)が尽きらア」
「だけれども本田さんは学問は出来ないようだワ」
「フム学問々々とお言いだけれども、立身出世すればこそ学問だ。居所(いど)立所(たちど)に迷惑(まごつ)くようじゃア、些(ちっ)とばかし書物(ほん)が読めたッてねっから難有味(ありがたみ)がない」
「それは不運だから仕様がないワ」
トいう娘の顔をお政は熟々(しけじけ)目守(みつ)めて、
「お勢、真個(ほんと)にお前は文三と何にも約束した覚えはないかえ。エ、有るなら有ると言ておしまい、隠立(かくしだて)をすると却(かえっ)てお前の為にならないヨ」
「またあんな事を言ッて……昨日(きのう)あれ程そんな覚えは無いと言ッたのが母親(おっか)さんには未だ解らないの、エ、まだ解らないの」
「チョッ、また始まッた。覚えが無いなら無いで好やアネ、何にもそんなに熱くならなくッたッて」
「だッて人をお疑(うたぐ)りだものヲ」
暫らく談話(はなし)が断絶(とぎ)れる、母親も娘も何か思案顔。
「母親(おっか)さん、明後日(あさって)は何を衣(き)て行こうネ」
「何なりとも」
「エート、下着は何時(いつ)ものアレにしてト、それから上着は何衣(どれ)にしようかしら、やッぱり何時もの黄八丈(きはちじょう)にして置こうかしら……」
「もう一ツのお召縮緬(ちりめん)の方にお為(し)ヨ、彼方(あのほう)がお前にゃア似合うヨ」
「デモあれは品が悪いものヲ」
「品(しん)が悪(わり)いてッたッて」
「アアこんな時にア洋服が有ると好のだけれどもナ……」
「働き者(もん)を亭主(ていし)に持ッて、洋服なとなんなと拵(こせ)えて貰うのサ」
トいう母親の顔をお勢はジット目守(みつ)めて不審顔。
[#改丁]
第二編