饭饭TXT > 海外名作 > 《浮云(日文版)》作者:[日]二叶亭四迷【完结】 > 浮云.txt

 日曜日は近頃に無い天下晴れ、風も穏かで塵(ちり)も起(た)たず、暦を繰(くっ)て見れば、旧暦で菊月初旬(きくづきはじめ)という十一月二日の事ゆえ、物観遊山(ものみゆさん)には持(もっ)て来いと云う日和(ひより)。

 園田一家(いっけ)の者は朝から観菊行(きくみゆき)の支度(したく)とりどり。晴衣(はれぎ)の亘長(ゆきたけ)を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪(かんしゃく)と成て、廻りの髪結の来ようの遅いのがお鍋の落度となり、究竟(はて)は万古の茶瓶(きゅうす)が生れも付かぬ欠口(いぐち)になるやら、架棚(たな)の擂鉢(すりばち)が独手(ひとりで)に駈出(かけだ)すやら、ヤッサモッサ捏返(こねかえ)している所へ生憎(あやにく)な来客、しかも名打(なうて)の長尻(ながっちり)で、アノ只今(ただいま)から団子坂へ参ろうと存じて、という言葉にまで力瘤(ちからこぶ)を入れて見ても、まや薬ほども利(き)かず、平気で済まして便々とお神輿(みこし)を据(す)えていられる。そのじれッたさ、もどかしさ。それでも宜(よ)くしたもので、案じるより産むが易く、客もその内に帰れば髪結も来る、ソコデ、ソレ支度も調い、十一時頃には家内も漸(ようや)く静まッて、折節には高笑がするようになッた。

 文三は拓落失路(たくらくしつろ)の人、仲々以(もっ)て観菊などという空(そら)は無い。それに昇は花で言えば今を春辺(はるべ)と咲誇る桜の身、此方(こっち)は日蔭(ひかげ)の枯尾花、到頭(どうせ)楯突(たてつ)く事が出来ぬ位なら打たせられに行くでも無いと、境界(きょうがい)に随(つ)れて僻(ひが)みを起し、一昨日(おとつい)昇に誘引(さそわれ)た時既にキッパリ辞(ことわ)ッて行かぬと決心したからは、人が騒ごうが騒ぐまいが隣家(となり)の疝気(せんき)で関繋(かけかまい)のない噺(はなし)、ズット澄していられそうなもののさて居られぬ。嬉(うれ)しそうに人のそわつくを見るに付け聞くに付け、またしても昨日(きのう)の我が憶出(おもいいだ)されて、五月雨(さみだれ)頃の空と湿める、嘆息もする、面白くも無い。

 ヤ面白からぬ。文三には昨日お勢が「貴君(あなた)もお出(いで)なさるか」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか」ト平気で澄まして落着払ッていたのが面白からぬ。文三の心持では、成ろう事なら、行けと勧めて貰(もら)いたかッた。それでも尚(な)お強情を張ッて行かなければ、「貴君と御一所でなきゃア私も罷(よ)しましょう」とか何とか言て貰いたかッた……

「シカシこりゃア嫉妬(しっと)じゃアない……」

 と不図何か憶出(おもいだ)して我と我に分疏(いいわけ)を言て見たが、まだ何処(どこ)かくすぐられるようで……不安心で。

 行くも厭(いや)なり留(とど)まるも厭なりで、気がムシャクシャとして肝癪が起る。誰と云て取留めた相手は無いが腹が立つ。何か火急の要事が有るようでまた無いようで、無いようでまた有るようで、立てもいられず坐(すわっ)てもいられず、どうしてもこうしても落着かれない。

 落着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、書函(ほんばこ)の書物を手当放題に取出して読みかけて見たが、いッかな争(いか)な紛れる事でない。小むずかしい面相(かおつき)をして書物と疾視競(にらめくら)したところはまず宜(よかっ)たが、開巻第一章の一行目を反覆読過して見ても、更にその意義を解(げ)し得ない。その癖下坐舗(したざしき)でのお勢の笑声(わらいごえ)は意地悪くも善く聞えて、一回(ひとたび)聞けば則(すなわ)ち耳の洞(ほら)の主人(あるじ)と成ッて、暫(しば)らくは立去らぬ。舌鼓(したつづみ)を打ちながら文三が腹立しそうに書物を擲却(ほうりだ)して、腹立しそうに机に靠着(もたれかか)ッて、腹立しそうに頬杖(ほおづえ)を杖(つ)き、腹立しそうに何処ともなく凝視(みつ)めて……フトまた起直ッて、蘇生(よみがえ)ッたような顔色(かおつき)をして、

「モシ罷めになッたら……」

 ト取外(とりはず)して言いかけて倏忽(たちまち)ハッと心附き、周章(あわて)て口を鉗(つぐ)んで、吃驚(びっくり)して、狼狽(ろうばい)して、遂(つい)に憤然(やっき)となッて、「畜生」と言いざま拳(こぶし)を振挙げて我と我を威(おど)して見たが、悪戯(いたずら)な虫奴(め)は心の底でまだ……やはり……

 シカシ生憎(あいにく)故障も無かッたと見えて昇は一時頃に参ッた。今日は故意(わざ)と日本服で、茶の糸織の一ツ小袖(こそで)に黒七子(くろななこ)の羽織、帯も何か乙なもので、相変らず立(りゅう)とした服飾(こしらえ)。梯子段(はしごだん)を踏轟(ふみとどろ)かして上ッて来て、挨拶(あいさつ)をもせずに突如(いきなり)まず大胡坐(おおあぐら)。我鼻を視るのかと怪しまれる程の下眼を遣ッて文三の顔を視ながら、

「どうした、土左(どざ)的宜しくという顔色(がんしょく)だぜ」

「些(すこ)し頭痛がするから」

「そうか、尼御台(あまみだい)に油を取られたのでもなかッたか、アハハハハ」

 チョイと云う事からしてまず気(き)に障わる。文三も怫然(むっ)とはしたが、其処(そこ)は内気だけに何とも言わなかった。

「どうだ、どうしても往(い)かんか」

「まずよそう」

「剛情だな……ゴジョウだからお出(いで)なさいよじゃ無いか、アハハハ。ト独りで笑うほかまず仕様が無い、何を云ッても先様にゃお通じなしだ、アハハハ」

 戯言(ぎげん)とも附かず罵詈(ばり)とも附かぬ曖昧(あいまい)なお饒舌(しゃべり)に暫らく時刻を移していると、忽(たちま)ち梯子段の下にお勢の声がして、

「本田さん」

「何です」

「アノ車が参りましたから、よろしくば」

「出懸けましょう」

「それではお早く」

「チョイとお勢さん」

「ハイ」

「貴嬢(あなた)と合乗(あいのり)なら行ても宜(いい)というのがお一方(ひとかた)出来たが承知ですかネ」

 返答は無く、唯(ただ)バタバタと駆出す足音がした。

「アハハハ、何にも言わずに逃出すなぞは未(ま)だしおらしいネ」

 ト言ったのが文三への挨拶で、昇はそのまま起上(たちあが)ッて二階を降りて往った。跡を目送(みおく)りながら文三が、さもさも苦々しそうに口の中(うち)で、

「馬鹿奴(め)……」

 ト言ったその声が未だ中有(ちゅうう)に徘徊(さまよ)ッている内に、フト今年の春向島(むこうじま)へ観桜(さくらみ)に往った時のお勢の姿を憶出し、どういう心計(つもり)か蹶然(むっく)と起上り、キョロキョロと四辺(あたり)を環視(みまわ)して火入(ひいれ)に眼を注(つ)けたが、おもい直おして旧(もと)の座になおり、また苦々しそうに、

「馬鹿奴」

 これは自(みずか)ら叱責(しか)ったので。

 午後はチト風が出たがますます上天気、殊(こと)には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が道去り敢(あ)えぬばかり。イヤ出たぞ出たぞ、束髪も出た島田も出た、銀杏返(いちょうがえ)しも出た丸髷(まるまげ)も出た、蝶々(ちょうちょう)髷も出たおケシも出た。○○(なになに)会幹事、実は古猫の怪という、鍋島(なべしま)騒動を生(しょう)で見るような「マダム」某(なにがし)も出た。芥子(けし)の実ほどの眇少(かわいら)しい智慧(ちえ)を両足に打込んで、飛だり跳(はね)たりを夢にまで見る「ミス」某も出た。お乳母も出たお爨婢(さんどん)も出た。ぞろりとした半元服、一夫数妻(いっぷすさい)論の未だ行われる証拠に上りそうな婦人も出た。イヤ出たぞ出たぞ、坊主も出た散髪(ざんぎり)も出た、五分刈も出たチョン髷も出た。天帝の愛子(あいし)、運命の寵臣(ちょうしん)、人の中(うち)の人、男の中(なか)の男と世の人の尊重の的、健羨(けんせん)の府となる昔所謂(いわゆる)お役人様、今の所謂官員さま、後の世になれば社会の公僕とか何とか名告(なの)るべき方々も出た。商賈(しょうこ)も出た負販(ふはん)の徒も出た。人の横面(そっぽう)を打曲(はりま)げるが主義で、身を忘れ家を忘れて拘留の辱(はずかしめ)に逢(あ)いそうな毛臑(けずね)暴出(さらけだ)しの政治家も出た。猫も出た杓子(しゃくし)も出た。人様々の顔の相好(すまい)、おもいおもいの結髪風姿(かみかたち)、聞覩(ぶんと)に聚(あつ)まる衣香襟影(いこうきんえい)は紛然雑然として千態万状(ばんじょう)、ナッカなか以て一々枚挙するに遑(いとま)あらずで、それにこの辺は道幅(みちはば)が狭隘(せばい)ので尚お一段と雑沓(ざっとう)する。そのまた中を合乗で乗切る心無し奴(め)も有難(ありがた)の君が代に、その日活計(ぐらし)の土地の者が摺附木(マッチ)の函(はこ)を張りながら、往来の花観る人をのみ眺(なが)めて遂に真(まこと)の花を観ずにしまうかと、おもえば実に浮世はいろいろさまざま。

 さてまた団子坂の景況は、例の招牌(かんばん)から釣込む植木屋は家々の招きの旗幟(はた)を翩翻(へんぽん)と金風(あきかぜ)に飄(ひるがえ)し、木戸々々で客を呼ぶ声はかれこれからみ合て乱合(みだれあっ)て、入我我入(にゅうががにゅう)でメッチャラコ、唯逆上(のぼせあが)ッた木戸番の口だらけにした面(かお)が見える而已(のみ)で、何時(いつ)見ても変ッた事もなし。中へ這入(はい)ッて見てもやはりその通りで。

 一体全体菊というものは、一本(ひともと)の淋(さび)しきにもあれ千本八千本(ちもとやちもと)の賑(にぎわ)しきにもあれ、自然のままに生茂(おいしげ)ッてこそ見所の有ろう者を、それをこの辺の菊のようにこう無残々々(むざむざ)と作られては、興も明日(あす)も覚めるてや。百草の花のとじめと律義(りちぎ)にも衆芳に後(おく)れて折角咲いた黄菊白菊を、何でも御座れに寄集めて小児騙欺(こどもだまし)の木偶(でく)の衣裳(べべ)、洗張りに糊(のり)が過ぎてか何処へ触ッてもゴソゴソとしてギゴチ無さそうな風姿(とりなり)も、小言いッて観る者は千人に一人か二人、十人が十人まず花より団子と思詰めた顔色(がんしょく)、去りとはまた苦々しい。ト何処かの隠居が、菊細工を観ながら愚痴を滴(こぼ)したと思食(おぼしめ)せ。(看官)何だ、つまらない。

 閑話不題(ふうだい)。

 轟然(ごうぜん)と飛ぶが如くに駆来(かけきた)ッた二台の腕車(くるま)がピッタリと停止(とま)る。車を下りる男女三人の者はお馴染(なじみ)の昇とお勢母子(おやこ)の者で。

 昇の服装(みなり)は前文にある通り。

 お政は鼠微塵(ねずみみじん)の糸織の一ツ小袖に黒の唐繻子(とうじゅす)の丸帯、襦袢(じゅばん)の半襟(はんえり)も黒縮緬(ちりめん)に金糸でパラリと縫の入(い)ッた奴か何かで、まず気の利いた服飾(こしらえ)。

 お勢は黄八丈の一ツ小袖に藍鼠金入繻珍(あいねずみきんいりしゅちん)の丸帯、勿論(もちろん)下にはお定(さだま)りの緋縮緬(ひぢりめん)の等身(ついたけ)襦袢、此奴(こいつ)も金糸で縫の入(い)ッた水浅黄(みずあさぎ)縮緬の半襟をかけた奴で、帯上はアレハ時色(ときいろ)縮緬、統括(ひっくる)めて云えばまず上品なこしらえ。

 シカシ人足(ひとあし)の留まるは衣裳附(いしょうづけ)よりは寧(むし)ろその態度で、髪も例(いつも)の束髪ながら何とか結びとかいう手のこんだ束ね方で、大形の薔薇(ばら)の花挿頭(はなかんざし)を挿(さ)し、本化粧は自然に背(そむ)くとか云ッて薄化粧の清楚(せいそ)な作り、風格神(ぼうしん)共に優美で。

「色だ、ナニ夫婦サ」と法界悋気(ほうかいりんき)の岡焼連が目引袖引(めひきそでひき)取々に評判するを漏聞く毎(ごと)に、昇は得々として機嫌(きげん)顔、これ見よがしに母子(おやこ)の者を其処茲処(そこここ)と植木屋を引廻わしながらも片時と黙してはいない。人の傍聞(かたえぎき)するにも関(かま)わず例の無駄(むだ)口をのべつに並べ立てた。

 お勢も今日は取分け気の晴れた面相(かおつき)で、宛然(さながら)籠(かご)を出た小鳥の如くに、言葉は勿論歩風(あるきぶり)身体(からだ)のこなしにまで何処ともなく活々(いきいき)としたところが有ッて冴(さえ)が見える。昇の無駄を聞ては可笑(おか)しがッて絶えず笑うが、それもそうで、強(あなが)ち昇の言事(いうこと)が可笑しいからではなく、黙ッていても自然(おのず)と可笑しいからそれで笑うようで。

 お政は菊細工には甚(はなは)だ冷淡なもので、唯「綺麗だことネー」ト云ッてツラリと見亘(みわた)すのみ。さして眼を注(と)める様子もないが、その代りお勢と同年配頃の娘に逢えば、叮嚀(ていねい)にその顔貌風姿(かおかたち)を研窮(けんきゅう)する。まず最初に容貌(かおだち)を視て、次に衣服(なり)を視て、帯を視て爪端(つまさき)を視て、行過ぎてからズーと後姿(うしろつき)を一瞥(べつ)して、また帯を視て髪を視て、その跡でチョイとお勢を横目で視て、そして澄ましてしまう。妙な癖も有れば有るもので。

 昇等三人の者は最後に坂下の植木屋へ立寄ッて、次第々々に見物して、とある小舎(こや)の前に立止ッた。其処に飾付(かざりつけ)て在ッた木像(にんぎょう)の顔が文三の欠伸(あくび)をした面相(かおつき)に酷(よ)く肖(に)ているとか昇の云ッたのが可笑しいといって、お勢が嬌面(かお)に袖を加(あ)てて、勾欄(てすり)におッ被(かぶ)さッて笑い出したので、傍(かたわら)に鵠立(たたずん)でいた書生体(てい)の男が、俄(にわか)に此方(こちら)を振向いて愕然(がくぜん)として眼鏡越しにお勢を凝視(みつ)めた。「みッともないよ」ト母親ですら小言を言ッた位で。

 漸くの事で笑いを留(とど)めて、お勢がまだ莞爾々々(にこにこ)と微笑のこびり付ている貌(かお)を擡(もた)げて傍(そば)を視ると、昇は居ない。「オヤ」ト云ッてキョロキョロと四辺(あたり)を環視(みま)わして、お勢は忽ち真面目(まじめ)な貌をした。

 と見れば後(あと)の小舎(こや)の前で、昇が磬折(けいせつ)という風に腰を屈(かが)めて、其処に鵠立(たたずん)でいた洋装紳士の背(せなか)に向ッて荐(しき)りに礼拝していた。されども紳士は一向心附かぬ容子(ようす)で、尚お彼方(あちら)を向いて鵠立(たたずん)でいたが、再三再四虚辞儀(からじぎ)をさしてから、漸くにムシャクシャと頬鬚(ほおひげ)の生弘(はえひろが)ッた気むずかしい貌を此方(こちら)へ振向けて、昇の貌を眺め、莞然(にっこり)ともせず帽子も被ッたままで唯鷹揚(おうよう)に点頭(てんとう)すると、昇は忽ち平身低頭、何事をか喃々(くどくど)と言いながら続けさまに二ツ三ツ礼拝した。

 紳士の随伴(つれ)と見える両人(ふたり)の婦人は、一人は今様おはつとか称(とな)える突兀(とっこつ)たる大丸髷、今一人は落雪(ぼっとり)とした妙齢の束髪頭、孰(いず)れも水際(みずぎわ)の立つ玉揃(ぞろ)い、面相(かおつき)といい風姿(ふうつき)といい、どうも姉妹(きょうだい)らしく見える。昇はまず丸髷の婦人に一礼して次に束髪の令嬢に及ぶと、令嬢は狼狽(あわて)て卒方(そっぽう)を向いて礼を返えして、サット顔を※(あから)[#「赤+報のつくり」、87-7]めた。

 暫らく立在(たたずん)での談話(はなし)、間(あわい)が隔離(かけはな)れているに四辺(あたり)が騒がしいのでその言事は能(よ)く解らないが、なにしても昇は絶えず口角(くちもと)に微笑を含んで、折節に手真似をしながら何事をか喋々(ちょうちょう)と饒舌り立てていた。その内に、何か可笑しな事でも言ッたと見えて、紳士は俄然(がぜん)大口を開(あ)いて肩を揺ッてハッハッと笑い出し、丸髷の夫人も口頭(くちもと)に皺(しわ)を寄せて笑い出し、束髪の令嬢もまた莞爾(にっこり)笑いかけて、急に袖で口を掩(おお)い、額越(ひたえごし)に昇の貌を眺めて眼元で笑った。身に余る面目に昇は得々として満面に笑いを含ませ、紳士の笑い罷(や)むを待ッてまた何か饒舌り出した。お勢母子(おやこ)の待ッている事は全く忘れているらしい。

 お勢は紳士にも貴婦人にも眼を注(と)めぬ代り、束髪の令嬢を穴の開く程目守(みつ)めて一心不乱、傍目(わきめ)を触らなかった、呼吸(いき)をも吻(つ)かなかッた、母親が物を言懸けても返答もしなかった。

 その内に紳士の一行がドロドロと此方(こちら)を指して来る容子を見て、お政は茫然(ぼうぜん)としていたお勢の袖を匆(いそが)わしく曳揺(ひきうご)かして疾歩(あしばや)に外面(おもて)へ立出で、路傍(みちばた)に鵠在(たたずん)で待合わせていると、暫らくして昇も紳士の後(しりえ)に随って出て参り、木戸口の所でまた更に小腰を屈(かが)めて皆それぞれに分袂(わかれ)の挨拶(あいさつ)、叮嚀に慇懃(いんぎん)に喋々しく陳(の)べ立てて、さて別れて独り此方(こちら)へ両三歩来て、フト何か憶出したような面相をしてキョロキョロと四辺(あたり)を環視(みま)わした。

「本田さん、此処だよ」

 ト云うお政の声を聞付けて、昇は急足(あしばや)に傍(そば)へ歩寄(あゆみよ)り、

「ヤ大(おおき)にお待遠う」

「今の方は」

「アレガ課長です」

 ト云ってどうした理由(わけ)か莞爾々々(にこにこ)と笑い、

「今日来る筈(はず)じゃ無かッたんだが……」

「アノ丸髷に結(い)ッた方は、あれは夫人(おくさま)ですか」

「そうです」

「束髪の方は」

「アレですか、ありゃ……」

 ト言かけて後を振返って見て、

「妻君の妹です……内で見たよりか余程(よっぽど)別嬪(べっぴん)に見える」

「別嬪も別嬪だけれども、好いお服飾(こしらえ)ですことネー」

「ナニ今日はあんなお嬢様然とした風をしているけれども、家(うち)にいる時は疎末(そまつ)な衣服(なり)で、侍婢(こしもと)がわりに使われているのです」

「学問は出来ますか」

 ト突然お勢が尋ねたので、昇は愕然として、

「エ学問……出来るという噺(はなし)も聞かんが……それとも出来るかしらん。この間から課長の所に来ているのだから、我輩もまだ深くは情実(ようす)を知らないのです」

 ト聞くとお勢は忽ち眼元に冷笑の気を含ませて、振反って、今将(まさ)に坂の半腹(ちゅうと)の植木屋へ這入ろうとする令嬢の後姿を目送(みおく)ッて、チョイと我帯を撫(な)でてそしてズーと澄ましてしまッた。

 坂下(さかじた)に待たせて置た車に乗ッて三人の者はこれより上野の方へと参ッた。

 車に乗ッてからお政がお勢に向い、

「お勢、お前も今のお娘(こ)さんのように、本化粧にして来りゃア宜かッたのにネー」

「厭(いや)サ、あんな本化粧は」

「オヤ何故(なぜ)え」

「だッて厭味ッたらしいもの」

「ナニお前十代の内なら秋毫(ちっと)も厭味なこたア有りゃしないわネ。アノ方が幾程(いくら)宜か知れない、引立(ひッたち)が好くッて」

「フフンそんなに宜きゃア慈母(おッか)さんお做(し)なさいな。人が厭だというものを好々(いいいい)ッて、可笑しな慈母さんだよ」

「好と思ッたから唯好じゃ無いかと云ッたばかしだアネ、それをそんな事いうッて真個(ほんと)にこの娘は可笑しな娘だよ」

 お勢はもはや弁難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言わずに黙してしまッた。それからと云うものは、塞(ふさ)ぐのでもなく萎(しお)れるのでもなく、唯何となく沈んでしまッて、母親が再び談話(はなし)の墜緒(ついしょ)を紹(つご)うと試みても相手にもならず、どうも乙な塩梅(あんばい)であったが、シカシ上野公園に来着いた頃にはまた口をきき出して、また旧(もと)のお勢に立戻ッた。

 上野公園の秋景色、彼方此方(かなたこなた)にむらむらと立駢(なら)ぶ老松奇檜(ろうしょうきかい)は、柯(えだ)を交じえ葉を折重ねて鬱蒼(うっそう)として翠(みどり)も深く、観る者の心までが蒼(あお)く染りそうなに引替え、桜杏桃李(おうきょうとうり)の雑木(ざつぼく)は、老木(おいき)稚木(わかぎ)も押なべて一様に枯葉勝な立姿、見るからがまずみすぼらしい。遠近(おちこち)の木間(このま)隠れに立つ山茶花(さざんか)の一本(ひともと)は、枝一杯に花を持ッてはいれど、々(けいけい)として友欲し気に見える。楓(もみじ)は既に紅葉したのも有り、まだしないのも有る。鳥の音(ね)も時節に連れて哀れに聞える、淋しい……ソラ風が吹通る、一重桜は戦栗(みぶるい)をして病葉(びょうよう)を震い落し、芝生の上に散布(ちりし)いた落葉は魂の有る如くに立上りて、友葉(ともば)を追って舞い歩き、フトまた云合せたように一斉(いっせい)にパラパラと伏(ふさ)ッてしまう。満眸(まんぼう)の秋色蕭条(しょうじょう)として却々(なかなか)春のきおいに似るべくも無いが、シカシさびた眺望(ながめ)で、また一種の趣味が有る。団子坂へ行く者皈(かえ)る者が茲処(ここ)で落合うので、処々に人影(ひとかげ)が見える、若い女の笑い動揺(どよ)めく声も聞える。

 お勢が散歩したいと云い出したので、三人の者は教育博物館の前で車を降りて、ブラブラ行きながら、石橋を渡りて動物園の前へ出(い)で、車夫には「先へ往ッて観音堂の下辺(したあたり)に待ッていろ」ト命じて其処から車に離れ、真直(まっすぐ)に行ッて、矗立千尺(ちくりゅうせんせき)、空(くう)を摩(な)でそうな杉の樹立の間を通抜けて、東照宮の側面(よこて)へ出た。

 折しも其処の裏門より Let(レット) us(アス) go(ゴー) on(オン)(行こう)ト「日本の」と冠詞の付く英語を叫びながらピョッコリ飛出した者が有る。と見れば軍艦羅紗(ラシャ)の洋服を着て、金鍍金(きんめっき)の徽章(きしょう)を附けた大黒帽子を仰向けざまに被(かぶ)った、年の頃十四歳ばかりの、栗虫のように肥(ふと)った少年で、同遊(つれ)と見える同じ服装(でたち)の少年を顧みて、

「ダガ何か食(くい)たくなったなア」

「食たくなった」

「食たくなってもか……」

 ト愚痴ッぽく言懸けて、フトお政と顔を視合わせ、

「ヤ……」

「オヤ勇(いさみ)が……」

 ト云う間もなく少年は駈(かけ)出して来て、狼狽(あわ)てて昇に三ツ四ツ辞儀をして、サッと赤面して、

「母親(おっか)さん」

「何を狼狽(あわ)てて[#「狼狽(あわ)てて」は底本では「狼狙(あわ)てて」]いるんだネー」

「家(うち)へ往ったら……鍋に聞いたら、文さんばッかだッてッたから、僕ア……それだから……」

「お前、モウ試験は済んだのかえ」

「ア済んだ」

「どうだッたえ」

「そんな事よりか、些(すこ)し用が有るから……母親さん……」

 ト心有気(こころありげ)に母親の顔を凝視(みつ)めた。

「用が有るなら茲処(ここ)でお言いな」

 少年は横目で昇の顔をジロリと視て、

「チョイと此方(こっち)へ来ておくれッてば」

「フンお前の用なら大抵知れたもんだ、また『小遣いが無い』だろう」

「ナニそんな事(こっ)ちゃない」

 ト云ッてまた昇の顔を横眼で視て、サッと赤面して、調子外れな高笑いをして、無理矢理に母親を引張ッて、彼方(あちら)の杉の樹の下(もと)へ連れて参ッた。

 昇とお勢はブラブラと歩き出して、来るともなく往(ゆ)くともなしに宮の背後(うしろ)に出た。折柄(おりから)四時頃の事とて日影も大分傾(かたぶ)いた塩梅、立駢(たちなら)んだ樹立の影は古廟(こびょう)の築墻(ついじ)を斑(まだら)に染めて、不忍(しのばず)の池水は大魚の鱗(うろこ)かなぞのように燦(きら)めく。ツイ眼下に、瓦葺(かわらぶき)の大家根(おおやね)の翼然(よくぜん)として峙(そばだ)ッているのが視下される。アレハ大方馬見所(ばけんじょ)の家根で、土手に隠れて形は見えないが車馬の声が轆々(ろくろく)として聞える。

 お勢は大榎(おおえのき)の根方(ねがた)の所で立止まり、翳(さ)していた蝙蝠傘(こうもりがさ)をつぼめてズイと一通り四辺(あたり)を見亘(みわた)し、嫣然(えんぜん)一笑しながら昇の顔を窺(のぞ)き込んで、唐突に、

「先刻(さっき)の方は余程(よっぽど)別嬪でしたネー」

「エ、先刻の方とは」

「ソラ、課長さんの令妹とか仰(おっ)しゃッた」

「ウー誰の事かと思ッたら……そうですネ、随分別嬪ですネ」

「そして家で視たよりか美しくッてネ。それだもんだから……ネ……貴君(あなた)もネ……」

 ト眼元と口元に一杯笑いを溜(た)めてジッと昇の貌を凝視(みつ)めて、さてオホホホと吹溢(ふきこ)ぼした。

「アッ失策(しま)ッた、不意を討たれた。ヤどうもおそろ感心、手は二本きりかと思ッたらこれだもの、油断も隙(すき)もなりゃしない」

「それにあの嬢(かた)も、オホホホ何だと見えて、お辞儀する度(たんび)に顔を真赤にして、オホホホホホ」

「トたたみかけて意地目(いじめ)つけるネ、よろしい、覚えてお出でなさい」

「だッて実際の事ですもの」

「シカシあの娘が幾程(いくら)美しいと云ッたッても、何処かの人にゃア……とても……」

「アラ、よう御座んすよ」

「だッて実際の事ですもの」

「オホホホ直ぐ復讐(ふくしゅう)して」

「真(しん)に戯談(じょうだん)は除(の)けて……」

 ト言懸ける折しも、官員風の男が十(とお)ばかりになる女の子の手を引いて来蒐(きかか)ッて、両人(ふたり)の容子を不思議そうにジロジロ視ながら行過ぎてしまッた。昇は再び言葉を続(つ)いで、

「戯談は除けて、幾程美しいと云ッたッてあんな娘にゃア、先方(さき)もそうだろうけれども此方(こッち)も気が無い」

「気が無いから横目なんぞ遣いはなさらなかッたのネー」

「マアサお聞きなさい。あの娘ばかりには限らない、どんな美しいのを視たッても気移りはしない。我輩には『アイドル』(本尊)が一人有るから」

「オヤそう、それはお芽出度う」

「ところが一向お芽出度く無い事サ、所謂(いわゆる)鮑(あわび)の片思いでネ。此方(こっち)はその『アイドル』の顔が視たいばかりで、気まりの悪いのも堪(こら)えて毎日々々その家へ遊びに往けば、先方(さき)じゃ五月蠅(うるさい)と云ッたような顔をして口も碌々(ろくろく)きかない」

 トあじな眼付をしてお勢の貌をジッと凝視(みつ)めた。その意を暁(さと)ッたか暁らないか、お勢は唯ニッコリして、

「厭な『アイドル』ですネ、オホホホ」

「シカシ考えて見れば此方(こっち)が無理サ、先方(さき)には隠然亭主と云ッたような者が有るのだから。それに……」

「モウ何時でしょう」

「それに想(おもい)を懸けるは宜く無い宜く無いと思いながら、因果とまた思い断(き)る事が出来ない。この頃じゃ夢にまで見る」

「オヤ厭だ……モウ些(ちっ)と彼地(あっち)の方へ行て見ようじゃ有りませんか」

「漸(ようや)くの思いで一所に物観遊山に出るとまでは漕付(こぎつけ)は漕付たけれども、それもほんの一所に歩く而已(のみ)で、慈母(おっか)さんと云うものが始終傍(そば)に附ていて見れば思う様に談話(はなし)もならず」

「慈母さんと云えば何を做(し)ているんだろうネー」

 ト背後(うしろ)を振返ッて観た。

「偶(たまたま)好機会が有ッて言出せば、その通りとぼけておしまいなさるし、考えて見ればつまらんナ」

 ト愚痴ッぽくいッた。

「厭ですよ、そんな戯談を仰しゃッちゃ」

 ト云ッてお勢が莞爾々々(にこにこ)と笑いながら此方(こちら)を振向いて視て、些(すこ)し真面目(まじめ)な顔をした。昇は萎(しお)れ返ッている。

「戯談と聞かれちゃ填(う)まらない、こう言出すまでにはどの位苦しんだと思いなさる」

 ト昇は歎息した。お勢は眼睛(め)を地上に注いで、黙然(もくねん)として一語をも吐かなかッた。

「こう言出したと云ッて、何にも貴嬢(あなた)に義理を欠かして私(わたくし)の望(のぞみ)を遂げようと云うのじゃア無いが、唯貴嬢の口から僅(たッた)一言、『断念(あきら)めろ』と云ッて戴(いただ)きたい。そうすりゃア私もそれを力に断然思い切ッて、今日ぎりでもう貴嬢にもお眼に懸るまい……ネーお勢さん」

 お勢は尚お黙然としていて返答をしない。

「お勢さん」

 ト云いながら昇が項垂(うなだ)れていた首を振揚げてジッとお勢の顔を窺(のぞ)き込めば、お勢は周章狼狽(どぎまぎ)してサッと顔を※(あか)[#「赤+報のつくり」、96-9]らめ、漸く聞えるか聞えぬ程の小声で、

「虚言(うそ)ばッかり」

 ト云ッて全く差俯向(さしうつむ)いてしまッた。

「アハハハハハ」

 ト突如(だしぬけ)に昇が轟然(ごうぜん)と一大笑を発したので、お勢は吃驚(びっくり)して顔を振揚げて視て、

「オヤ厭だ……アラ厭だ……憎らしい本田さんだネー、真面目くさッて人を威(おど)かして……」

 ト云ッて悔しそうにでもなく恨めしそうにでもなく、謂(い)わば気まりが悪るそうに莞爾(にっこり)笑ッた。

「お巫山戯(ふざけ)でない」

 ト云う声が忽然(こつぜん)背後(うしろ)に聞えたのでお勢が喫驚(びっくり)して振返ッて視ると、母親が帯の間へ紙入を挿(はさ)みながら来る。

「大分(だいぶ)談判が難(むずかし)かッたと見えますネ」

「大きにお待ち遠うさま」

 ト云ッてお勢の顔を視て、

「お前、どうしたんだえ、顔を真赤にして」

 ト咎(とが)められてお勢は尚お顔を赤くして、

「オヤそう、歩いたら暖(あった)かに成ッたもんだから……」

「マア本田さん聞ておくんなさい、真個(ほんと)にあの児の銭遣(ぜにづか)いの荒いのにも困りますよ。此間(こないだ)ネ試験の始まる前に来て、一円前借して持ッてッたんですよ。それを十日も経たない内にもう使用(つか)ッちまって、またくれろサ。宿所(うち)ならこだわりを附けてやるんだけれども……」

「あんな事を云ッて虚言(うそ)ですよ、慈母(おっか)さんが小遣いを遣りたがるのよ、オホホホ」

 ト無理に押出したような高笑をした。

「黙ッてお出で、お前の知ッた事(こっ)ちゃない……こだわりを附けて遣るんだけれども、途中だからと思ッてネ黙ッて五十銭出して遣ッたら、それんばかじゃ足らないから一円くれろと云うんですよ。そうそうは方図が無いと思ッてどうしても遣らなかッたらネ、不承々々に五十銭取ッてしまッてネ、それからまた今度は、明後日(あさって)お友達同志寄ッて飛鳥山(あすかやま)で饂飩会(うどんかい)とかを……」

「オホホホ」

 この度(たび)は真に可笑しそうにお勢が笑い出した。昇は荐(しき)りに点頭(うなず)いて、

「運動会」

「そのうんどうかいとか蕎麦(そば)買いとかをするからもう五十銭くれろッてネ、明日(あした)取りにお出でと云ッても何と云ッても聞かずに持ッて往きましたがネ。それも宜いが、憎い事を云うじゃ有りませんか。私(あたし)が『明日お出でか』ト聞いたらネ、『これさえ貰えばもう用は無い、また無くなってから行く』ッて……」

「慈母さん、書生の運動会なら会費と云ッても高が十銭か二十銭位なもんですよ」

「エ、十銭か二十銭……オヤそれじゃ三十銭足駄を履かれたんだよ……」

 ト云ッて昇の顔を凝視(みつ)めた。とぼけた顔であッたと見えて、昇もお勢も同時に

「オホホホ」

「アハハハ」

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