信一もいつのまにか、掌が真っ赤になるほど力を込めて、手を叩《たた》いていた。彼の心の中は、達成感と誇らしさでいっぱいだった。どうしようもないほどの生理的な拒否反応を、意志の力で克服することができたのだ。自分にそんなことができるなんて、これまで思ったこともなかった。
自分は変わりつつある。これから自分にとって、本当の意味での人生が始まるのだ。そう自分に言い聞かせるうちに、胃袋の不快感はすっかり消え去っていた。
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七章 鷲の翼
耳に飛び込んできた言葉は、危うく、そのまま素通りしてしまうところだった。早苗は、はっと顔を上げて、テレビの方を見た。
デイルームのテレビには、午後一時のNHKニュースが映っている。昼食を終えた入院患者たちが、ぼんやりと画面を眺めていた。
生真面目《きまじめ》を絵に描いたような風貌《ふうぼう》の男性アナウンサーが、事故の概要についてしゃべっている。
名前を。被害者の名前を、もう一度言って欲しい。まるで早苗のテレパシーが通じたかのように、アナウンサーは、事故に遭った人の名前を繰り返した。
「……小石川薬科大学の助教授で、植物学が専門の赤松靖さん、四十五歳とわかりました。赤松さんは、朝から一人で那須高原サファリパークに来ていたということですが、全身をトラに咬《か》まれており、依然、危険な状態が続いています。警察では、なぜ、赤松さんが禁止地域で車から降りたのかについて、サファリパーク側から、さらに詳しい事情を聞くことにしています。さて、中東を歴訪中だった……」
早苗は、車|椅子《いす》の押し手を握ったまま、硬直していた。心臓が、アフリカン・ドラムのように激しく鼓動を打っている。落ち着け、と自分に言い聞かす。状況は、はっきりしていない。事故かもしれないのだ。まだ、自殺と決まったわけではない。
だが、もし自殺だったとしたら……。アマゾン調査プロジェクトのメンバーのうち、短期間に、二人が自殺を図ったことになる。
もしかすると、偶然ではないのかもしれない。
気がつくと、上原康之が、じっと早苗を見上げていた。彼女の血相がただならないので、驚いているようだ。
「知ってる人なの?」
「ああ……ううん。人違いだった。気にしないで」
早苗は強いて笑顔を作ると、少年の乗った車椅子を押して、病室へ戻った。上原康之は、ここのところ病状が悪化して、歩くことも、ままならなくなっていた。どんなことであれ、これ以上彼に精神的な動揺を与えるようなことは、避けなければならない。
頭の中では、様々な考えが駆けめぐっていた。天使の囀《さえず》り。アマゾン。悪の憑依《ひようい》。そして、|復讐の女神たち《エウメニデス》。
昼間のワイドショーなら、事件をより詳細に伝えるだろう。だが、患者たちの手前、デイルームに行って、テレビにかじりつくわけにもいかなかった。
自室に帰ると、早苗は新聞社に電話をかけて、福家を呼び出してもらった。あいにく不在とのことだったが、社会部の記者なら、この時間は外に出ていて当然だろう。
早苗は、応対に出た女性社員に、福家の携帯電話の番号を教えてくれと頼もうとしたが、情報をもらおうとする立場で、そこまで厚かましく出るのもためらわれた。やむをえず、電話のあったことだけを伝えてもらうことにする。
タイミングがよかったらしい。ほとんど折り返しのような感じで、福家から電話がかかってきた。
現時点では、福家も、赤松の事件について、ニュースで報じられた以上の情報は持っていないようだった。近くまで来ているので、会えないかと言う。もうすぐ午後の回診の時間であることを伝えると、意外な申し出があった。明日、日曜日に、赤松の件について那須へ取材に行くので、同行してもらえないかというのである。
福家の真意は、よくわからなかった。だが、早苗の気持ちはすぐに決まった。赤松の件は、高梨の自殺と何らかの関係があるはずだ。すでに、そのことを確かめないでは、彼女の中では収まりがつかなくなっていた。幸い、日曜日なら時間がとれる。彼女にとっては、渡りに船だった。
東北新幹線『なすの』は、朝の八時台ということもあって、半分以上が空席だった。にもかかわらず、乗客が車両の前半分にぎっしりと詰め込まれているのは、指定席券の販売方法に問題があるからだろう。
早苗は、コーヒーを啜《すす》りながら、隣でうまそうに幕の内弁当をぱくついている男を見やった。さっき貰《もら》った名刺には、編集局社会部記者、福家満とあった。
高梨の死後、一度取材を受けているはずだが、気持ちが動転していたためか、ほとんど印象に残っていない。今日あらためて会ってみると、思っていた以上に小柄で、プラットフォームでは、ローヒールを履いた百五十九センチの早苗と、ほとんど目の高さが変わらなかった。しかも、大学生の中に混じっていてもさほど違和感がないような童顔である。自分で言わなければ三十三歳にはとても見えない。いやに自信満々な態度や、大きな声、きびきびした所作も、もしかすると、相手に舐《な》められないよう意図してのものかもしれなかった。
「福家さん。さしつかえなければ、どうして私を誘ったのか教えていただけませんか?」
「ご迷惑だったですかね?」
福家は、口一杯に頬張《ほおば》った飯を、お茶で流し込んでから答えた。
「いいえ。私も、赤松さんがどうしてあんなことをしたのかは、ぜひ知りたいと思いましたから」
福家は、弁当を食べ終えると、今度はポリ袋からサンドイッチを取り出した。小柄な割には、かなりの大食漢らしい。
「北島先生も、どうですか?」
早苗は、首を振った。朝食は食べていないが、今は、コーヒー以外は喉《のど》を通りそうもない。
「北島先生に同道してもらったのは、その方が取材がやりやすいと思ったからです。新聞記者に対して、協力的な人ばっかりじゃないですからね。相手によっては、お医者さんで、しかも赤松先生の知り合いっていう方が、よっぽど話を聞き出しやすい」
「それだけ?」
「そうすね。まあ、ついでに、先生からも、道々、お話を伺えたらなと思ったんですが」
「私は、特にお話しするほどのことは」
「そうですか?」
福家は、意味ありげな笑みを見せた。
「たしか、先生から、アマゾン調査プロジェクトについて問い合わせの電話をもらったのは、ずいぶん、前のことでしたよね。まだ、赤松先生も高梨さんも生きてた」
早苗は、むっとした。
「だから、何だって言うんですか?」
「いや、どういうことかは、今のところ、さっぱりわかりません。私の方がお聞きしたいというか。ただ、お二人ともこういうことになってしまった以上、もし先生が何かご存じだったら、教えて欲しいなあと思っただけですよ」
しばらく、会話が途切れた。福家のあてこすりのような言い方は不快だったが、客観的には、何か知っていると思われてもしかたのない状況かもしれない。
とにかく今は、この男にくっついて行って少しでも情報を仕入れるのが先決だと思い、我慢することにした。その後は、何となくお互いに牽制《けんせい》し合っているかのように、とりとめのない会話に終始した。
那須塩原駅で新幹線から東北本線に乗り換えて、黒磯《くろいそ》駅で降りた。赤松が入院している救急指定病院は、そこからタクシーに乗って数分の距離だった。
やはり、赤松は重体であり、面会は謝絶とのことだった。昨日から、さんざんメディアの襲来を受けたらしく、応対に出た中年の看護婦は、いかにも胡散《うさん》臭そうに福家を見ている。だが、福家の読み通り、早苗が名刺を出して、医師であり赤松の知人であると言うと、看護婦の態度が目に見えて軟化した。
日曜にもかかわらず、赤松の担当医師は病院に詰めているという。看護婦が名刺を持っていき、二人は、しばらくがらんとした病院のロビーで待たされた。
しばらくすると、黒縁眼鏡をかけ、だらしなく白衣を引っかけた長身の男が、大股《おおまた》でやってきた。
「どうも、お忙しいところを、申し訳ありません。私、東京でホスピス医をしております、北島早苗と申します」
早苗が丁寧に頭を下げると、男は、何かに驚いているように見えるぎょろりとした目で、早苗と手に持った名刺を何度も見比べた。
「ああ。それは、どうも。脇です。赤松さんの、お知り合いだそうですね。どうぞ、お掛けください」
ロビーの長椅子を指し示しながら、ちらっと福家にも目を向ける。
「福家といいます。今日は、付き添いで」
早苗の目からすると、福家は新聞記者以外の何者にも見えなかったが、幸い、脇医師はあまり関心を払わなかった。
「赤松さんはですね、『事故』以来、ずっと意識不明の重体が続いていまして、ICUに入っています」
脇医師は、長椅子に腰かけると長い脚を組んだ。
「ご家族の方は、どなたかいらっしゃってるんでしょうか?」
赤松と知り合いであるという嘘《うそ》がばれることはないだろうが、できれば、直接家族と顔を合わせるのは避けたかった。
「奥さんとお子さんたちが、昨日駆けつけてこられましたが、残念ながら面会はできませんでした。いったん川崎の自宅に戻ってから、今日の午後、また来ることになってると思います」
「それで、怪我《けが》の方は、相当重いんでしょうか?」
「そうですね。爪《つめ》で引っ掻《か》かれた傷もありますが、やっぱり、咬《か》まれた傷が問題でしょうね。特に、顔面と両腕、太腿《ふともも》の咬傷《こうしよう》がひどいんですよ」
「顔面ですか?」
福家が質問した。両手を胸の前で組み合わせ、さかんに指を動かしている。メモを取りたいのを必死に我慢しているといった風情だ。
「赤松さんは、二頭のトラに襲われて、仰向《あおむ》けになって抵抗したところを咬まれたそうです」
「でも、何だか妙ですね。ふつう、そういう場合、むしろ反射的にうつぶせになって、頭や顔を守ろうとはしませんか?」
脇医師は、顔をしかめた。
「そんなことを言われても、わかりませんよ。私は、トラに襲われた経験はないですから。それに、救急隊員からのまた聞きだし」
「トラの牙《きば》による咬傷というのは、私はまだ見たことがないんですが、どの程度のものなんでしょうか?」
早苗があわてて質問して、会話を引き取った。
「私も、初めてです。犬に咬まれた患者は、これまでにも何人か診たことがありますが、トラの牙というのは、やっぱり物凄《ものすご》いですね」
脇医師は、むしろ感心しているような口調だった。
「咬むというよりは、鋭利な円錐形《えんすいけい》のナイフを四本、上下から挟みつけるように突き刺す感じですね。右の上腕骨はほぼ両断されて、かろうじて筋肉だけでつながってる状態でしたし、大腿骨《だいたいこつ》にも、鉛筆が入るくらいの丸い穴が開いてました。それでもまだ、トラの方は遊び半分だったらしいんですね。不幸中の幸いでしたよ。もし、本気で首を咬まれていたら、間違いなく即死だったでしょうからね」
「すると、助かるんでしょうか?」
脇医師は、難しい顔になった。
「そうですね。今のところ、何とも申し上げられませんね。怪我も相当危険な状態なんですが、気になるのは、どうも傷口から細菌が入って、感染症を併発しているらしいことなんですよ。血液検査の結果では、好酸球の著増が見られました」
「こうさんきゅう、というのは何ですか?」
福家の質問に、脇医師がまた顔をしかめかけたので、早苗が割って入った。
「白血球の一種です。……あの、ふつう、急性感染症で、好酸球の増加が見られるのは、むしろ回復期じゃないんでしょうか?」
「ええ。まあ、しかし、ケースバイケースじゃないですか。好中球やリンパ球なども、増えてますからね」
脇医師も、その点はあまり自信がないようだった。早苗は、赤松の血液の検査結果について、もう少し探りを入れてみたが、アルコールその他の精神に影響を与えるような薬物は、検出されなかったということだった。
それ以上聞くこともなかったので、礼を言って、辞去した。脇医師は、名残惜しいような目で早苗を見ていた。
病院の建物を出ると、急に暑い日射しが照りつけてきた。病院の中は、どちらかというと肌寒かったが、高原らしく、日向《ひなた》と日陰ではかなりの温度差があるようだ。
先に立って歩いていた福家が、背広のポケットから小型のカセットレコーダーを取り出してスイッチを切った。
「さっきの会話、全部録音してたんですか?」
早苗は、咎《とが》め立てをするように言った。相手の承諾を得ずに録音するのは、ルール違反ではないのか。
「記者だと言ってないのに、堂々とメモを取るわけにもいかんでしょう」
福家は、悪びれた様子もない。
「でも、やっぱり北島先生に付いてきてもらったのは、正解でしたよ。一応、話は聞けましたからね」
福家が携帯電話で呼ぶと、二、三分でタクシーがやって来た。
次の取材場所である、那須高原サファリパークに到着すると、門のところに本日は休園しますという貼《は》り紙が出ており、扉が閉ざされていた。
本来、日曜日は書き入れ時なのだろうが、たとえサファリパーク側に落ち度がなかったとしても、昨日の今日では、営業は自粛せざるを得なかったのだろう。
チケット売場の小窓にもカーテンが下ろされていたが、福家がガラスを叩《たた》くと、中年の女性職員が顔を出した。
「あのー。申し訳ないですけど、今日は、休みなんですが」
「わかってます」
福家は名刺を出した。
「昨日の事件のことで、ちょっと、お話を聞かせてくれませんか? できれば、直接目撃なさった方に」
「はあ」
女性職員は、名刺を見て、怪訝《けげん》な顔をした。
「おたくの新聞は、たしか、昨日も取材に来ましたけど」
「ええ。追加取材なんで、悪いけど、もう一度お願いします」
女性職員は、合点のいかない顔で引っ込んだ。早苗は福家の顔を見たが、素知らぬ顔をしている。何となく聞くのもためらわれているうちに、ドアが開いて、作業服を着た若い男が出てきた。
「ああ。どうも、お忙しいところをすみません」
「いや。どうせ今日は、暇ですから」
男は、柔らかい訛《なまり》のある言葉で、仙波と名乗った。主にトラやライオンの世話と、猛獣ゾーンでの監視係をしているという。
「何度も同じことを聞かれてうんざりしてるかもしれないけど、昨日見たことを、もう一度、話してもらえませんか?」
「はあ。昨日のお客さんは、自家用車で来たんです。そんでー、ゲートをくぐったとば口[#「とば口」に傍点]んとこが猛獣ゾーンで、うちの売りもんのホワイト・タイガーがいるんですけど、そこで、車がぴたっと動かなくなってしまって……」
「故障したわけじゃないよね?」
「いや、そうじゃねーと思います」
「それで、どうしたの?」
「まあ、後から車が来《き》ねえときは、いくら見ててもいいんですけど。パークのバスが出る時間が近づいてきたんで、無線で、そろそろ前へ行ってくださいって頼んだんです。そしたら……」
仙波は、苦いものを舐《な》めたような顔になった。
「あのお客さんは、急にドアを開けて、外へ出ちゃって。おれは、無線で、やめれーって叫んだんだきっとも、そのまんま、ホワイト・タイガーの方へ歩って行っちゃって」
「トラは、赤松さんの方からも、はっきり見えてたの?」
「そりゃ、もう。すぐ目の前っていうか」
新聞には、自殺とも事故ともつかないような書き方がされていたが、だとすると、やはり自殺としか考えられない。
だが、これまでに早苗が見聞きした自殺とは、かなり異質と言わざるを得ない。肉食動物に自分を喰《く》わせるという自殺は、例がないわけではないが、やはり、きわめて稀《まれ》である。赤松助教授は、トラを目の前にしても、恐怖を感じなかったのだろうか。
そのとき、早苗は、別のことに思い当たった。高梨からのメールでは、赤松助教授は動物恐怖症だと書いてあった。ジャガーだけでなく、オセロットなどの比較的小型の山猫にさえ怯《おび》えていたという。早苗は、高梨がメールの中で書いていた赤松助教授の言葉を、はっきりと思いだした。高梨の死後、何度も読み返したので、記憶の中に焼き付いている。
『一度、奴《やつ》らの目を見たらわかりますよ。最初は、怒ってるのかと思った。でも、そうじゃないんだ。奴らは怒ってなんかいない。欲望で興奮してるんですよ。私を喰いたいという。それに気がついたとき、私は……』
赤松助教授は、どう考えても、常人にも増して激しい恐怖を感じていたはずなのだ。しかも、トラは、ジャガーと比べても、倍以上の大きさではないか。本来なら、サファリパークになど、近づくのも嫌なはずである。赤松助教授が何を考えていたのかは、ますます早苗の理解を絶してきた。
「もう一つだけ聞きたいんですけど、赤松さんは、トラに襲われてから、どんな姿勢になってました?」
「それが……」
仙波は口ごもった。興奮すると、ますます訛が強くなってくる。
「警察の人にも言ったんだきっとも、とーど動かねかったんです」
「動かない?」
「こう、仰向けんなったまんま、じっとして」
脇医師から聞いたことも、間違いではなかったらしい。赤松助教授は、トラに対してまったく無抵抗で、仰向けに寝そべって、なすがままになっていたのだ。ことによると、かえってそのために、トラの攻撃性を最小限しか誘発せず、致命傷を受けずにすんだのかもしれない。
だが、通常の神経で、はたしてそんなことが可能なのだろうか。
二人は、待たせてあったタクシーで、那須街道を南に戻った。黒磯市内に着いた時には、すでに午後一時近くになっていた。早苗もようやく空腹を感じていたので、黒磯駅のそばの喫茶店で簡単な昼食を取った。
それからすぐに、今度は地元の警察署に向かう。日曜日だというのに、あらかじめ支局の記者から取材の約束を取り付けてあったため、年輩の制服警官が応対してくれた。だが、ここではほとんど収穫はなかった。自殺の見込みが極めて大であるものの、不注意による事故という可能性も、まだ捨ててはいないという。
最後に、福家は、赤松が所持していた物を見せて欲しいと、警官に頼み込んだ。警官は、なんの関係があるのかという顔をしていたが、親切にビニールの袋に入った細々とした品物を持ってきて、見せてくれた。
財布。小銭入れ。大きなハンカチ。サラ金の広告の入ったティッシュペーパー。プラスチックの櫛《くし》。禁煙パイプ。口臭除去剤。B5版くらいの大きさの紙切れ。
福家は、一つ一つじっくりと眺めていたが、最後の紙切れまで来た時、少し目を細めた。黙って、早苗に手渡す。そこには、このように印刷されていた。
[#ここから2字下げ]
*できるだけ作品から離れて、ファインダー越しか、片目をつぶってご覧になると、効果的です。
*写真を撮られるときは、フラッシュが反射しないように斜めの角度から撮影してください。
*同じ作品も、見る位置によって別物に見える場合があるので、ご注意を。
*以下は、番号の付された作品を鑑賞する際のガイドです。
①作品の左右に立って、見比べてみてください。ヴィーナスの表情が変わります。
[#地付き](ヴィーナスの誕生
アレクサンドル カバネル)
②まず作品の左に立って見て、それから、ゆっくりと右に移動してみてください。ヨハネの読んでいる本のページが動きます。
[#地付き](瞑想する神学者ヨハネ
ネクタリー クリュクシン)
③絵の中に入ってみてはいかがですか? 正面の壇に腰掛けて、一息入れてください。
[#地付き](聖母戴冠
ジョヴァンニ ベリーニ)
[#2字下げ]④追われている男の側に立つと、天使が表情を変えます。一方、天使の側に立つと、男は足の向きを変えます。
[#地付き](罪悪を追う正義と崇高な復讐
ピエール ポール プリュードン)
⑤できるだけ低い姿勢で作品を見上げて、伸び上がるようにしてください。光のトンネルの中に、祝福された魂が吸い込まれていきます。
[#地付き](天上界への上昇
ヒエロニムス ボス)
ご来館ありがとうございました。
[#ここで字下げ終わり]
「この紙、何ですかね?」
「さあ。わからねえなあ」
警官は、ほとんど興味がない様子だった。
福家が、コピーさせてもらえないかと頼むと、警官は最初のうち、一応は証拠品だからと難色を示していたが、結局、何かわかったら知らせるという条件で、警察署のコピー機を使わせてくれた。
警察署を出て、またタクシーを拾った。福家は運転手に、さっきの紙のコピーを見せた。
「これ、何だかわかりませんか?」
初老の、朴訥《ぼくとつ》そうな運転手は、ちらりと紙に目をやり、「こりゃー、どっかの美術館の案内じゃねえかな」と言う。
「美術館ですか。どこだか、わかりませんか?」
「うーん。このあたりにゃあ、山ほどあっからなあ」
しょっちゅう、観光客を運んでいるのだろう。運転手は、すらすらといくつかの名前を挙げた。そのうちの一つに、早苗は、はっとした。
「その、最後の名前、もう一度言ってもらえませんか?」
「『天使のけいかん[#「けいかん」に傍点]美術館』け?」
「それだわ」と、早苗はつぶやいた。
「ここさ、行ってみっか?」
「お願いします」
ぽかんとしている福家を後目《しりめ》に、早苗は行き先を指示する。
「どうして、そこだってわかるんです?」
福家は、狐につままれたような顔だった。
「ただの勘なんですけど。でも、この案内書きにタイトルの出ている絵は、どれも天使が描かれているものなんです」
「ほう」
本当は、そこにタイトルが出ている絵など、早苗はどれも聞いたこともなかったのだが、福家はかなり感心したようだった。
タクシーはJRの線路を越えると、再びサファリパークヘの道順である那須街道に戻り、少し行ったところで右折した。
道に沿って、ファミリーレストランを大きくしたような建物が、いくつも並んでいるのが見えてきた。どれも、かなり広い駐車場が付いている。おそらく、これが全部、美術館なのだろう。
「ほら、ここなんだけどね」
タクシーが止まった。運転手が指し示した先には、『天使の荊冠《けいかん》美術館』という立て看板が立っていた。
早苗と福家は、タクシーを降りた。単に『天使』という言葉に触発されただけで、嘘《うそ》までついて、ここへやってきたのだが、本当にここが赤松の訪れた場所であるのかどうか、早苗は不安だった。
まわりを見回して点在する立て看板を見ると、同じ敷地内には、入館者がトリック写真を撮影できるフォトスタジオや、恐竜をテーマにした美術館などがあるらしい。そこには、『トリック アート』をテーマにした美術館ばかり、何棟も集まっているようだった。
『天使の荊冠美術館』の入り口で入場券を買うと、パンフレットと一緒に小さな紙切れを渡された。
一瞥《いちべつ》して、コピーを取った赤松の遺品と同じであることがわかる。早苗は、ぎゅっと拳《こぶし》を握った。福家の方を見ると、黙ってうなずく。
建物の内部の結構は、ふつうの美術館とさほど変わらなかった。通路の壁に沿って額装された絵画が展示され、目立たぬように配置されたスタジオライトが上方から照らしている。唯一の違いは照明だろう。光量がぎりぎりまで落とされているため、建物の中は映画館並みの薄暗さだった。たぶん、騙《だま》し絵を見るには、このくらいが好都合なのだろうと、早苗は思った。
休日ということもあり、中途半端な時間にもかかわらず何組かの入館者がいた。大部分が若い男女のカップルである。早苗の前を歩いていた二十歳くらいの女の子が、絵の前にしゃがんでポーズを取ると、一緒にいた男がフラッシュを焚《た》いた。
少し離れたところから見ると、女の子の右手は、絵の中から飛び出している人物の脚を握っているように見えた。だが、近寄ってからよく見ると、額のように見えるものも、そこから飛び出している脚も、実は、直接ペンキで壁に描かれた絵の一部なのだった。念の入ったことに、壁に映った脚の影まで描き込まれている。あたかもそれを掴《つか》んでいるような格好で手をのせると、トリック写真が撮れるわけである。肉眼ならともかく、写真になると、立体なのか平面なのか見分けがつかないだろう。
さらに前の方には、身じろぎもせずに絵に見入っている男女がいた。ところが、いざ近づいてみると、それもまた、壁に描かれた絵の一部なのだった。床に立っているように見えた男女の足下の部分も、壁に描き込まれているのだ。いっさいハイテクの類を使わず、絵だけで床と壁の境界が巧みに粉飾してあるのに、早苗は感心した。
福家は、先程から一言も発せず、真剣な表情で順番に絵を眺めている。どうして赤松がここにやって来たのか、しきりに思いを巡らせているようでもあった。
展示されているのは、宗教画風の天使の絵ばかりだった。『天使の荊冠美術館』というのは、天使をモチーフとした騙し絵を集めているところから付けられた名前らしい。頭上を見上げると、無数の天使たちが乱舞する天井画があった。周囲の壁面が鏡になっているので、巨大な暗い礼拝堂の中にいるような錯覚を覚える。
もしかすると、赤松もまた、これを見ながら、天使の囀《さえず》りを聞いていたのではないか。ふと、そんな思いにとらわれた。
絵画の脇《わき》には、簡単な説明が書かれたプレートがあった。早苗は、何気なくそのうちの一つに目をやった。そこには、天使の『翼』について解説した文章があった。
おそらく、早苗がじっとそのプレートを見つめていたためだろう。先に立って歩いていた福家が、引き返してきた。
「どうかしました?」
「いえ、全然、たいしたことじゃないんです。ちょっと意外だったもので」
早苗は、プレートを指さした。そこには、宗教画などに描かれている天使の翼は、主にワシやタカなどの猛禽《もうきん》類のものを模していると書かれている。
「ああ……なるほどね。知りませんでした?」
「福家さんは、前からご存じだったんですか?」
福家は、さほど意外そうな顔でもなかった。早苗は、不審の目で彼を見た。どう見ても、宗教画に詳しいようなタイプには見えない。
「いや、ご存じってほどでもないですけどね。ただ、私、模型飛行機を作るのが趣味なんで、飛行力学とか、翼の構造とかには、けっこう詳しいんですよ。まあ、絵を見れば、どんな鳥の翼をモデルにしてるかぐらいは、だいたいわかりますね」
「鳥の翼って、種類によって、そんなに違うんですか?」
得意の分野らしく、福家は絵を指さしながら、得々として説明を始めた。
「鳥の翼にはですね、大きく分けて、丸翼、細翼、長翼、広翼の四種類があるんです。こういうやつは、典型的な広翼ですね」
「こうよく?」
「そう。広い翼って書きます。まあ、丸翼とか細翼は基本的に小鳥の羽根ですからね。人間の背中にくっつけて、ある程度物理的なリアリティを感じさせる絵にしようと思ったら、どうしても、大形の鳥の羽根にする必要があるでしょうね。そうすると、画家の選択肢は、アホウドリのような長翼、つまり長い翼か、ワシのような広翼しかないわけですよ。北島先生は、ハイソアラーとローグライダーの違いって、わかります?」
「いえ、全然」
「ハイソアラーっていうのは、トンビみたいに帆翔《はんしよう》する鳥のことです。陸地で暖められた上昇気流に乗って、螺旋《らせん》を描きながら高度を上げ下げするわけですね。車のソアラっていう名前も、ここから来てます。一方、ローグライダーは、動的滑空を行います。つまり、アホウドリやミズナギドリのように、海面すれすれまで急降下しながらスピードを上げて、その反動で一気に上昇するんですね。飛び方を見ていれば、輪を描くのが水平か垂直かで見分けがつきますよ」
「はあ……」
「要するに、長翼は、カモメやグンカンドリのような海上生活をするローグライダーに、広翼は、陸上で滑翔《かつしよう》するワシやタカなどのハイソアラーに、それぞれ一番適した形というわけです」
「天使っていうのは、その、ハイソアラーなんですか?」
早苗の声は、自分で聞いても疑わしそうな響きを帯びていた。
「いや、そうじゃないすよ」
福家は苦笑した。
「要するに、絵になるかどうかっていう話です。ワシやタカは、単に滑空してればいいわけじゃなくて、急降下して獲物を襲わなきゃなりませんから、スピードを出すための初列風切羽は命なんです。ほら、この部分なんですけど、かなり長く発達してるのがわかるでしょう? しかも、ふだんは比較的低速で飛ぶんで、失速して墜落するのを防ぐために、先端が指のように広がる構造になってるんです。だから、この絵のように、ちょうど大きな手みたいな格好になって、たとえば天使が翼で相手を抱擁するという図にも、ぴったりくるじゃないですか。それに、かなり重い獲物でも、仕留めた後は巣まで運んでかなきゃなりませんから、揚力を得るための次列風切羽も、特別幅が広くなってるんですよ。絵で言うと、ちょうど、ここの部分ですね」
早苗の頭の中に、アマゾンのジャングルでサルをさらっていく、巨大な鳥のことが浮かんだ。
「まあ、長翼は構造がシンプルすぎるし、これほど嵩《バルク》がありませんから。こっちの絵みたく大きく広げたところを描いても、見栄えがしないんだと思いますよ」
この場ででっち上げた説明にしては、福家の話には、それなりに筋が通っている。しかし、早苗の心には、いわく言いがたい不安のようなものが生じていた。あどけない子供の顔をしながら獰猛《どうもう》な肉食鳥の翼を持った天使という存在が、にわかに不気味なものに思えてきたのだ。むろん、天使が実在しないことはわかっているし、ふつうの精神状態であれば、たまたま目にしたわずか一行の記述に、ここまで不吉なものを感じることもなかっただろう。
もしかすると自分は、高梨が死んだ今になって、彼の妄想にとらわれかかっているのかもしれないと思った。
早苗の目の前には、『エゼキエルの幻視』と題された絵があった。天使と猛禽、有翼の怪物などが一つの画面の中に描かれている。福家から得た予備知識を持って見ると、たしかに三者とも、同じ形の翼を持っていた。
その次の絵は、『羊飼いの礼拝』というタイトルだった。この絵の天使は、どことなく陰険で、不可解な悪意を感じさせる目をしていた。解説を読むと、作者であるグイード レーニは、天使を気まぐれで残酷な天の死者として描いているということだった。早苗は、プレートの指示通りに、絵の前で立ち位置を変えてみたが、どこから見ても、天使の目は、にやにや笑いながら彼女を追ってくるように見えた。
館内に流れるテープの説明が、彼女の耳に入ってきた。
「……天使は、完全なる善性の体現者です。そのため、必ずしも常に人間の味方であるとは限りません。旧約聖書によれば、天使は、神の命によって、何度も人類に苛烈《かれつ》きわまりない懲罰を加えているのです。たとえば、神意に背いたというかどで、アッシリアの兵士、十八万五千人が、一夜にして天使に皆殺しにされたという記述があります。また、人間と家畜とを問わず、エジプト全土の長子が、天使によって抹殺された例なども……」
高梨もまた、残酷な天使の生《い》け贄《にえ》になったのだろうか。そんな不吉でとりとめのない考えばかりが、頭の中をぐるぐると駆けめぐっていた。
館内の絵を一通り見るのに、だいたい二十分というところだった。外へ出ると、日射しがやけに眩《まぶ》しく感じられる。
「赤松さんが、なぜこの美術館に立ち寄ったか、わかりますかね?」
福家が、早苗の方を振り返りながら言った。
「さあ。私には、よく……」
早苗は、空とぼけた。福家には、まだ高梨のことを打ち明けるわけにはいかない。だが、赤松がここへ来た理由は、おぼろげに想像がついていた。
福家は立ち止まって、携帯電話を出した。さっきの警官に、約束通り、紙切れの正体を教えるためだろう。
やはり赤松も、高梨と同じように、天使の囀《さえず》りを聞くようになっていたのではないか。根拠のない憶測に過ぎないが、この場合、そう考えることは、それほど不自然ではないように思われた。車に乗って、偶然、美術館の前を通りかかり、天使という名前に惹《ひ》かれて、ふと、中を覗《のぞ》いてみる気になった……。
だが、どうも不自然な気がする。東北自動車道の那須インターチェンジを出ると、那須高原サファリパークは、那須街道に沿って北西の方角にあるが、『天使の荊冠《けいかん》美術館』へ行くには、そのはるか手前を右折しなければならないのだ。那須街道沿いにも美術館の看板くらいは出ているのかもしれないが、それだけの理由で、わざわざ脇道《わきみち》に入って行くというのも、何となく、しっくりこない感じがした。
休日を半日|潰《つぶ》して那須へ来てはみたものの、帰りの新幹線『やまびこ』に乗り込んだときには、残ったのは疲労だけという気分だった。まったく収穫がなかったわけではない。調べれば調べるほど、赤松の行動の不可解さは明らかになっていった。だが、それを合理的に説明できるような仮説は、何一つ思いつかない。
隣を見ると、福家も、さっきまでの口数の多さもどこかへ行ってしまったように、黙って何事かを考え込んでいる。疲れたような表情を見ると、早苗は、急に彼が気の毒に思えてきた。すると、ふいに福家が口を開いた。
「……さっき、サファリパークで、変だと思ったんじゃないですか? 昨日もうちの社から取材が行ったと言ってたでしょう」