「ええ」
「昨日行ったのは、支局の連中なんです。私は、今回の事件を、特命で、非公式に調べてるんですよ」
「非公式って、どういうことなんですか?」
「うちの社で主催したアマゾン調査プロジェクトなんですが、参加した人間の自殺が相次いでるんですよ」
探るような視線で、早苗の顔を見る。
「ええ。二人目ですよね。高梨さんに続いて」
「いや。これで三人目なんですよ」
早苗は、どきりとして福家を見た。彼は目をつぶって、眉間《みけん》を揉《も》んでいる。
「短期間に、三人もばたばたと自殺したんで、社内では大問題になってましてね。しかも、どういうわけか、ふつうでは考えにくいような妙な状況ばかりという……。他紙でこの関連に気がついたところは、まだないようだけど、抜かれでもしたら一大事です。それで、あんまり目だたないように、私が調べてるんです」
「もう一人というのは、誰なんです?」
「たぶん先生は知らないと思いますよ。白井真紀という、三十二歳の女性カメラマンです」
ぎょっとした。その名前も、高梨のメールで見た覚えがある。
「その方は、どうやって死んだんですか?」
「中央線の水道橋駅で、飛び込んだんですよ。ほんの一週間ほど前に。実名は伏せられてましたけど、新聞でも報道されてます。六歳になる娘を道連れにしての無理心中でした」
そう言われれば、その記事も読んだような気がした。
「でも、どうして?」
「動機は、今もって不明です。ただ、その兆候は、少し前からあったということです。夫の話では、アマゾンから帰った直後は精神的にも安定していたようなんですが、自殺するしばらく前からは、何となく様子がおかしかったと言うんです」
白井真紀も、高梨と同じような経過をたどったということだろうか。
「それにですね、彼女の様子がおかしくなったことは、娘も感じていたようなんです」
「どんなふうにですか?」
「『お母さんが蛇になる』という悪夢にうなされるようになったというんですよ」
不気味な話だった。六歳の娘は、自分の運命を予知したのかもしれないと思う。幼児には、他人が気づかないような母親のちょっとした変化も、敏感に感じられるものだ。幼い少女は、母親の中に何を見たのだろうか。
「どんな夢だったかは、お聞きになりましたか?」
「いいえ。父親も、たかが子供の夢だと思い、相手にしなかったそうなんです。だけど、娘はそのうち、起きてるときにも、変なことを言い出すようになったそうなんです。父親は、そのとき子供を叱《しか》ったことを、今でもひどく悔やんでましてね」
「変なことと言うと?」
「入浴したときに、母親の髪の毛が蛇になっていたのを見たとか」
早苗の全身に、ぞっと寒気が走った。
蛇の髪を持つ悪鬼。まるで、カプランの手記にあった、|復讐の女神《エウメニデス》そのままではないか。これが、偶然の暗合としてすまされるだろうか。六歳の子供に、ギリシャ神話に関する知識があったとは思えないし、人の髪の毛が蛇になるなどという異様なイメージを自分で考え出したとは、さらに信じがたい。
「まあ、白井真紀は、以前から精神科やカウンセラーの心理療法に通っていたということで、結局は、ノイローゼによる発作的な無理心中ということになりました。報道が匿名だったのも、そのためです」
適当なレッテルを貼《は》っただけの、安易な決着だった。だが、ほかに説明が付かなければ、そうやって片づけるよりないのかもしれない。
「ただ、現場を目撃した人の話を聞いてみると、何だか妙なんですよ」
「妙って?」
「白井真紀が、プラットフォームに立ったまま、放心した様子で宙を見上げていたので、その目撃者は、不審に思ったそうなんです。すると、特急電車が入って来る直前に、真紀は、突然激情の発作に駆られたように、娘を抱え上げて、線路に投げ落としたんです」
|子殺し《メーデイア》コンプレックス。早苗の脳裏には、凄惨《せいさん》な光景が浮かんだ。そして、それ以上に荒涼としていたに違いない、母親自身の心象風景も。
「妙だって言うのは、その後です。一瞬、彼女は、仰向けに横たわって泣き叫んでいる我が子の顔を見ながら茫然《ぼうぜん》自失していたそうですが、今度は急に我に返ったようになって、自分も線路に飛び降りたというんですよ。娘の後を追って死のうとしたというよりは、むしろ、必死になって娘を助けようとしているように見えたと、その目撃者は言ってるんです」
白井真紀の気持ちの振幅の大きさは、早苗の理解を超えていた。なぜ、いったんは我が子を殺そうとし、そして、次には命を賭《か》けて助けようとしたのか。一時的な錯乱。次いで我に返り、母性本能を取り戻した。そんなものではない。もっと別の理由があるはずだ。
「何しろ特急の車輪に轢《ひ》き潰されたために、遺体は二つとも、バラバラになって飛び散ってしまって、検死も困難だったようです。真紀が娘を救おうとしていたって証言しているのは、その目撃者だけなんでね。ところが、調べてみると、もう少し別のこともわかりました」
福家は、背広の内ポケットから煙草を取り出したが、禁煙席であることを思い出したのか、また元にしまった。
「白井真紀は、以前、乳幼児突然死症候群《SIDS》で、長男を失《な》くしていたんです。SIDSというのは……ああ、先生はお医者さんだから、当然よく知ってますよね」
早苗はうなずいた。何の前触れもなく赤ん坊が突然死んでしまうという、痛ましい現象のことである。統計上、生後六ヶ月以内の男児に多く、また、寒い季節の夜間に死亡する例が多いという。急性心不全や、窒息などが原因として考えられてはいるが、それまではまったく健康な赤ん坊だったというケースが多く、はっきりした発生機序は現在でも解明されていない。
「私は精神科医ですから、SIDSのメカニズムについては、よくわかりませんけど、今一番問題になっているのは、両親、特に母親が深刻な精神的外傷《トラウマ》を負ってしまうことですね。子供を亡くしたショックに加えて、母親は、自分の育て方や管理が悪かったんじゃないかという、自責の念を感じてしまうことが多いんです」
「白井真紀も、まったくその通りでした」
福家は急に、何物かに憤っているような表情になった。
「彼女にとっては、最愛の子供を亡くすということ自体、過酷な体験だったはずですよね。世界が崩壊するにも等しいような。ところが、その直後に、さらに追い打ちをかけるような出来事がありましてね。SIDSについてはまったく無知、無理解な警察官から、まるで彼女が殺したと言わんばかりの、ひどい取り調べを受けたそうなんです。その後、白井真紀は、かなりの期間にわたって深刻な鬱《うつ》状態に落ち込み、自分が子供を殺してしまったという罪の意識に苦しんでいたらしいです。しかし、優しく辛抱強い夫の励ましで、ようやくそこから立ち直り、六年前に長女を出産したというわけです」
だとすると……。福家は、早苗の表情を読んだようにうなずいた。
「そうなんですよ。そこが、この事件の不可解なところです。白井真紀は、何よりも、子供を失うことを恐れていたはずだ。なのに、どうして、自ら子供の命を絶つような真似をしてしまったのか?」
そのとき、何かが閃《ひらめ》いた。ほんのわずか立ち位置を変えるだけで、騙《だま》し絵は、まったく異った主題を見せる。早苗の中で、一見バラバラの様相を呈していた二つの事件の共通点が、突然、くっきりと浮かび上がってきたのだ。
早苗が口に手を当てたのを見て、福家は身を乗り出した。
「何か、気がついたことでもあるんですか?」
「ええ。……どう言ったらいいのかしら。赤松さんも白井さんも、もしかすると、自分が日頃から一番恐れていたことを、顕在化というか、実現してしまったんじゃないでしょうか?」
「一番恐れていること? 白井真紀にとっては、たしかに、子供を失うということですね」
「たぶん、赤松助教授には、それが肉食獣に襲われるということなんです」
早苗は、高梨のメールにあったエピソードについて、思い出せる限り説明した。
福家の目が、ぎらぎらと輝き始めた。ポケットからメモを取り出して、すごい勢いで書き殴り始める。
「その話は、今初めて聞きました。猫科の動物を怖がっていた、ですか。すると、もしかして高梨さんにも、同じようなことがあったんですか?」
高梨は生前、何を最も恐れていただろうか。考えるまでもないことだった。早苗は、一瞬声を詰まらせた。
「彼は……自分がいつか死ぬということを、何よりも怖がっていました」
福家は、しばらく呆気《あつけ》にとられたような顔をしていたが、自分の頭を拳《こぶし》で叩《たた》いた。
「なるほど。だったら、符合するな。死ぬのが怖いというのは当たり前すぎて、言われなければ気がつきにくいかもしれない。たしかに、そういう人間が自ら死を選ぶということは、常識では考えられないですね。北島先生。そんなふうに、自分の一番恐れているものを招き寄せてしまうというのは、いったいどういうことなんですか? 何かの精神病か、神経症の一種とか?」
「わかりません」
早苗は首を振った。
「ある種の強迫観念のために、自分が意識的には望んでいないことを、無意識にやってしまうというケースはあります。ですが、それが死に至るほどエスカレートしてしまうというような症例は、一度も聞いたことがありません。それに、心の病気は[#「心の病気は」に傍点]、伝染しません[#「伝染しません」に傍点]。今回のように、複数の人間に、相次いで同じような症状が現れるというのは、精神医学や心理学では、とうてい説明不能です」
「そうですか」
身を乗り出していた福家は、がっかりしたように後ろにもたれ込んだ。早苗も、たしかにヒントを掴《つか》んだと思ったのだが、結局は、何もわかっていないのと同じだった。
「福家さん。でも、どうしてそんなことを、私に教えてくれたんですか?」
早苗は、福家に聞いた。
「そんなことと言うと?」
「秘密に調査していることです。万一よそへ漏れたら、大問題なのに」
「北島先生なら、だいじょうぶだと思ったんです。人を見れば、信頼できるかどうかはわかりますよ」
福家は、どこまで本気なのかわからないことを言う。
「それに、これには賭《かけ》の意味もありましてね。私には、どうも、先生が何か知っているという気がしてならないんですよ。だから、あえて、こちらの手札をさらしたんです」
無意識にらしく、福家の手は、また煙草を掴みだしていた。一本抜き出しかけてから、途中で気がつき、忌々しそうにポケットに納める。
「正直言って、行き詰まってるんですよ。どうにも、お手上げに近い。これには、私みたいな素人《しろうと》じゃなくて、絶対に、専門家の知識が必要だと思うんです。ところが、何の専門家が適役なのかさえ、わからない。しかも、事情が事情なだけに、やたらに聞き回るわけにもいかない」
大げさに、溜《た》め息をついてみせる。だが、芝居がかった態度とは裏腹に、困っているのは本当のようだった。
「どうですかね。先生。何でもいいんです。知ってることがあれば、話してもらえないでしょうか? あとで迷惑をかけるようなことはないと、約束しますから」
「知ってることと言われても……」
福家に向かって、天使や復讐の女神に関する妄想や怪談めいた話をしても、しかたがないだろう。正気を疑われるのが落ちだ。だが、向こうが手の内をオープンにした以上、こちらも応えるのが、礼儀だろう。
早苗は福家に、高梨はアマゾンヘ渡航する以前から死恐怖症《タナトフオビア》に冒されていたことを話した。高梨と赤松、白井を含めた五人が同じ班で行動していたこと、そして、『呪《のろ》われた沢』へ行ったメンバーであることも。
「『呪われた沢』ですか……」
福家は、手帳に書き込みながら、眉間《みけん》にしわを寄せていた。
「やはり、この五人という話か。だとすると、それも何かの手がかりになるかもしれませんね」
「やはりというのは、どういう意味ですか?」
「残りの二人、文化人類学者の蜷川《にながわ》武史教授と霊長類学者の森豊助手なんですけどね、森助手がもう一度ブラジルへ渡航していることまではわかったんですが、その後は、二人とも連絡がつかない状態なんです……つまり、行方《ゆくえ》不明なんですよ」
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八章 守護天使
目覚まし時計のアラームが鳴る前に、手が伸びて、解除のボタンを押した。
文字盤を見ると、本当に、ぎりぎりの直前だったことがわかる。ここのところ、毎朝、ずっとそうだった。自分には、超能力があるのかもしれないと思う。
荻野信一は、床を這《は》い出て、大きく伸びをした。窓の柵《さく》に、布団を干す。南に建っているマンションの陰になって、ほとんど日が当たらないが、気は心である。それから歯を磨き、顔を洗った。
目覚めの気分は、爽快《そうかい》そのものだった。しかも、これはプロザックの類の脳内薬品のせいでないことだけは、はっきりしていた。研修を終えて以来、薬は一度も服用していないのである。にもかかわらず、幸せな気分は持続しているばかりか、日ごとに強くなっていくようだった。
ただし、カフェインに対する依存度だけは、若干高まっていたかもしれない。
ここのところ、朝はまず、何をおいてもコーヒーを淹《い》れなくてはならなかった。以前は、いちいち、そんな面倒なことはしてられないと思っていたが、今では、一日たりともコーヒーなしではいられなくなっていた。信一は、手動のミルで、がりがりとコーヒー豆を挽《ひ》いた。近所のスーパーで買ってきた安物の豆だったが、部屋全体がかぐわしい香りで包まれる。粗挽きにした粉をドリッパーにのせて、上から少量ずつ熱湯を注ぐ。
その間に、オーブントースターでトーストを焼き、手早く、トマト・サラダとスクランブルド・エッグを作った。トマトは、切るときに押し潰《つぶ》して、大部分種が流れ出てしまったし、スクランブルド・エッグの方は、コーヒーに気を取られているうちに、焦がしてしまった。だが、どちらも食べられないというほどのこともない。
きちんとした朝食を取ると、『気』というのだろうか、一日を過ごすためのエネルギーが、自然に身体に満ちてくるのがわかる。しかも、これで原価はいくらでもない。要は、ほんの少しの労を惜しまなければいいのだ。
信一は、旺盛《おうせい》な食欲で朝食を平らげながら、昨日のコンビニでの出来事を思い出していた。
「あのー。荻野さん?」
レジにやって来る客が一段落した時、新しくアルバイトに入ったばかりの斉藤美奈代が、信一に声をかけた。
「今度、暇なときでいいんですけどー、どっか飲みにとか行きません?」
「え? 僕を、誘ってるの?」
「そうですけどー」
信一は、面食らった。斉藤美奈代は、二十歳のフリーターということだったが、それまでは、特に意識したことはなかった。ばさばさの茶髪は彼の好みではなかったし、可愛《かわい》らしくもない。目は細すぎるし、脚は太すぎ、頬《ほお》には、いくつもニキビの跡がある。パソコンゲームの美少女たちとは、はなから比べるよしもなかった。同じ3Dでも、『美登里』ちゃんのことを思い浮かべると、大きく見劣りした。
しかし、少なくとも、これまでの人生においては、生身の女の子から誘いを受けるなどというのは、空前絶後の出来事と言ってもよい。
「でも……何で?」
「えー。理由とか、別にないですけどー。理由なかったら、だめなんですかー?」
「そんなことないよ」
「じゃあー、オッケーなんですかー?」
いいかげんに間延びしたしゃべり方はやめろと言いたかったが、そのかわりに、信一は、「いいけど」とだけ答えていた。
美奈代が自分を誘った理由は、見当がつかないこともなかった。たぶん、彼女がレジを打ち間違えて困っていた時に、助けてやったからだろう。あるいは、自己紹介の時にフリーライターだと言ったので、興味を持ったのかもしれない。何となく、そんな顔をしていた。
だが、彼女の笑顔を見ると、本当に自分と飲みに行きたかったらしい。信一は、狐につままれたような気分だった。
そういえば、昨日は、ほかにも嬉《うれ》しいことがあった。交代の時間が近づいてきて、店長が出勤してきた時だった。「荻野くん。お疲れさん」と言って、彼の肩をぽんと叩《たた》いたのだった。
まさか、自分が、そんなことで嬉しいと感じるようになるとは、思いもよらなかった。信一は、人から認められたいとか、仲間扱いされたいなどという欲望だけは無縁だと思っていた。居酒屋などで、若いサラリーマンが、上司からちょっと褒められただけで有頂天になっているのを見ると、ひそかに軽蔑《けいべつ》を感じたものだった。可愛い女の子ならともかく、あんなおやじに好かれたって、気持ち悪いだけじゃないか。だが、実際には、妙な口髭《くちひげ》を生やし額の禿《は》げ上がりかけた男に、笑顔でねぎらいの言葉をかけられると、信一は疲れが吹っ飛ぶような幸せを感じたのだった。
満ち足りた気分は、帰り道もずっと持続していた。そして、羽搏《はばた》きの音が聞こえた。
最初は、鳥かと思った。だが、もうすっかり暗くなっていて、鳥が飛んでいるはずはなかった。
羽搏きは、二度、三度と、彼の後頭部を掠《かす》めるようにして聞こえた。
ぐるぐると頭《こうべ》を巡らしているうちに、羽音は、外からではなく、彼の頭の内側から聞こえてくるような感じがし始めた。眩暈《めまい》に襲われる。
しばらくすると、羽搏きは聞こえなくなった。
帰ろうとしかけた時、信一はようやく、さっきの羽搏きは、セミナーで言っていた守護天使が現れたのではなかったかと気がついた。
再び歩き出した時には、彼は、我知らず、口笛を吹こうとしていた。十年ぶりくらいで吹く、へたくそな口笛で、『School days』のメロディを一生懸命になぞっていたのだった。
朝食が終わると、信一は、流しに運んだ食器をさっさと洗い、布巾《ふきん》できれいに拭《ふ》いて、水屋にしまった。それから、三杯目のコーヒーを片手に、パソコンを起動して、メールをチェックする。
三通、来ていた。全部、『地球《ガイア》の子供たち』の関連である。その後の心身の調子を尋ねる、いつものセミナー事務局からのレター。これには、最近の体調や、心の状態などについてのアンケートに答えなくてはならない。それから、セミナーの会員有志からの、会報を作ることになったので、寄稿してほしいという依頼。入会した時に、フリーライターだと自己申告したからだろうか。錯覚だとはわかっていても、何だか、新しい自分が世間的に認知されたようで、いい気分だった。
もう一通は、見慣れないアドレスからだった。二、三行読みかけて、信一はどきりとした。『トライスター』こと、『美登里《みどり》ちゃん』からだ。
信一は最近、合宿での自分の態度は不真面目《ふまじめ》だったと、反省するようになっていた。以前なら、とても考えられなかったような心境の変化である。だが、彼女の本名も住所も知らないため、今まで謝る機会がなかった。何度か、セミナーのチャット・ルームや掲示板にメッセージを入れようと思ったのだが、ほかの会員の話を聞いていなかったと公然と告白するのは気が引けて、二の足を踏んでいたのだ。『美登里ちゃん』は、たぶん、信一のメールアドレスをセミナーに問い合わせたのだろう。自分にも、そのくらいの積極性と勇気があったらなと思う。
幸いなことに、文章を読む限り、『美登里ちゃん』は、もう怒ってないらしかった。信一は、ほっとした。
内容は、特に、これといったほどのものではなかった。合宿以来、彼女も、すべてがうまくいっているらしい。
「あれから、何もかも、すごく順調です。あんなに、あれこれ悩んでいたことが、嘘《うそ》みたい。そちらは、どうですか? わたしは、機会があったら、また、合宿に参加しようと思っています。めめんとさんの話では、同じ人が何度でも、参加してかまわないそうなんです。それに、次回からは、リピーターのために、より発展したクラスを設けることを、検討中だとか。わたしも、参加するたびに新しく得るものがありそうで、今からわくわくしています」
メールは、ついで彼女の近況に触れ、長い間目標にしてきたことを、もうすぐ達成できそうだと書いてあった。あれから、『ファントム』君や『憂鬱《ゆううつ》な薔薇《ばら》』おばさんとは、何度かメールを交換しているのだという。二人とも非常に元気で、どうやら、上昇機運は、セミナーの会員たち全員の上に等しく訪れているようだった。
「みなさん、自分の目標に向かって、着々と進んでいるんですね。サオリストさんは、どうですか? サオリちゃんのハートは、つかめましたか?」
『美登里ちゃん』が突然メールをくれた理由は、何となく、彼にも理解できた。長い間、辛《つら》いことに耐えてきた人間は、いったんその悩みが解消されて、物事がよい方向へと回転し出すと、誰彼かまわず、その喜びを分かち合いたくなる。気前がよくなり、博愛主義的になり、そして、人の過ちにも寛大になれるのだ。それはそのまま、信一の現在の心境にも当てはまった。
信一は、すぐに返事を書くことにした。まず、セミナーのアンケートから片づけ、会報の原稿依頼には、多忙なので少し考えさせてくれと答える。それから、いよいよ『美登里ちゃん』への返信だった。
だが、そこで、ぴたっとキーを打つ手が止まってしまった。
自分は、目標のために、いったい何をしているだろうか。たしかに、以前よりは生活に張りが出てきたのは、事実である。だが、『美登里ちゃん』と引き比べると、どうしても我が身のふがいなさを感じずにはいられない。
そうだ。自分は、ライターになるのではなかったのか。そのためには、書くしかない。自分が本当に書きたいこと、訴えたいことを、文字にするんだ。
そう決心すると、武者震いのようなものが起きた。
信一は、正直に、自分がまだ、将来の目標への糸口すら、つかんでいないことを書いた。だが、自分もやはり、合宿以来、すべてが上向いている感じがする。ものを書きたいというのが自分の目標なので、そのために、これから精一杯の努力をするつもりだと。まだ将来の見通しは立たないが、自分では、悲観も楽観もしていない。
「悲観も楽観もしていない」というのは、信一のお得意のセリフだった。ストレートに「何も考えていない」と書くのが恥ずかしい時には、たいへん重宝する。
最後に、『サオリちゃん』の攻略は完了したと書こうかと思ったが、向こうでは、彼女を実在の人間だと思っているはずなので、あらぬ誤解を与えないために割愛することにした。
三通のメールへの返信を送ってしまうと、信一は、ワープロソフトを起動した。
もう、悠長に、構想を練ってからなどと考えている場合ではない。それでは、いつまでたっても、何一つ書けないだろう。今すぐ書くんだ。想いがほとばしるままに。自分が、心の底から表現したいと思っていることを。
これまでは、そうは思っても、真っ白な画面を見ると、つい怖気《おじけ》づいていた。本当は、自分には何一つ書けないことを、はっきりと思い知らされそうで、非常に不安だった。だが、不思議なことに、ひと呼吸すると、もやもやした気持ちは自然に消えていった。だいじょうぶ。書ける。とにかく、キーを叩いてみよう。
信一にとって、今すぐ書きたいこと、書けそうなことは、ただ一つしかなかった。ゲームのことだ。
まず、タイトルを決めなくてはならない。『ヴァーチャルな世界が人類にもたらす癒《いや》しについて』とした。なかなかいい。続いて、書き出しの部分は、すぐに出てきた。
ゲームを、百害あって一利なしと攻撃するのは、例外なく、一度もゲームをしたことのない大人たちなのである。
ここで信一は、ちょっと違和感を感じて、手を止めた。年齢からすると、自分もすでに充分すぎるくらい大人であることに、突然気がついたのである。だが、不当に虐げられている子供たちの代弁をしているんだからと、自らを納得させる。
だが、自分が、一度も経験したことのないものを、どうしてそんなに、あっさりと切り捨てることができるのだろうか? あんたらは、そんなに、神のような判断力を持っているのか? 絶対に間違わないのか? 特に思い上がりも甚だしいのは、功利主義の権化のような『お受験ママ』たちなのである。彼女らにしてみれば、ゲームは、目を悪くするだけの時間の無駄にしか見えないらしいのだ。彼女らの決まり文句は、そんな暇があったら、せめて身体でも鍛えた方が……なのである。
ふざけるな。人間はロボットじゃないんだ。誰も、そんなに、『効率的』なことばっかりして生きられないのだ。人生には、余裕とか、遊びとか、無駄な時間とかいうものが、絶対に必要なのである。
ちょっと、聞きたいんだけどな。あんたら、自分たちが子供のころ、本当に、そんだけ毎日、勉強ばっかりやってられたのか? やってて、今程度の大人にしかなれなかったのかよ?
もっとむかつくのは、子供に勉強ばっかりやらせようとするくせに、今の子供たちは自然と接することが少ないからダメだの、ひ弱だの、もやしだのと言いやがることである。子供たちのまわりから、自然を奪い取ったのは、大人たちじゃないか。自然を奪われたから、今の子供たちにとっては、ヴァーチャルな空間が、貴重な心のオアシスになってるんじゃないか。
最近、青少年の凶悪犯罪が多いが、そうすると、『有識者』たちが、必ず引き合いに出すのが、テレビゲームとの関連性なのである。ゲームに熱中している者は、それだけで人間性を失っているみたいに見なされるのである。それが、暗黙の了解になっているのである。だが、人間をモノ扱いしているのは、どっちだ? 『お受験ママ』たちこそ、自分の子供を使って、ひたすら数値を上げるゲームに、血道を上げているじゃないか。ゲームをしてる人間は、モノを人間扱いしているのである。
本当のことを、教えてやろう。実は、ゲームというのは、子供の心を『癒す』ために、すごく大切な働きをしているのだな。これは、実際に少しでもゲームをプレイしたことのある人間なら、誰しもわかることなのである。
パチンコ、煙草、カラオケにも、ちょっと前は、同じようなヒーリングの効果があったのである。だが、パチンコは、金権主義から、ギャンブル性が高くなりすぎたので、本来の目的を失ってしまったのである。煙草は、健康に悪い。カラオケも、曲が難しくなりすぎて、癒しとは全然無関係になりつつあるのである。
大人も、一度、ゲームをしてみればいいのである。格好を付けたり、恥ずかしがっていると、損をするのだ。ロールプレーイング、格闘ゲーム、シミュレーション、なごみ系、H系など、様々なジャンルがあるよ。激しいストレスは、ヴァーチャルな戦闘で発散されるし、寂しさを癒してくれるゲームなんかもあるのだ。今の時代、優秀な人材は、字を書いたりなんかしてないで、みんなゲーム作家になっているのである。
ゲームばかりやっていて、人間同士の付き合いが稀薄《きはく》になってしまうのが問題だとかほざく評論家ども。現実の人間関係っていうのは、そんなに大事なものなのか? 殺伐としてて、容赦がなくて、恋愛にしたって、やたらと即物的で、情緒なんか、全然ないじゃないか? 心優しい人間は、引くよ。当然である。あたりまえだ。
それなのに、現実の中では対象が見つからなかった真実の愛を、ヴァーチャル・ヒロインに向かって注ぐことが、そんなにおかしいのか? 彼女たちは、現代の現実の女性から失われてしまった、美しい要素全部の集大成なのである。それなのに、誰にも迷惑なんかかけてないのに、なんで、おたくとか、変態呼ばわりされなければならないのだ? 生身の人間とゲーム感覚で恋愛をして、簡単に捨てたり裏切ったりして、深く深く相手を傷つけても平気なような奴《やつ》らから、どうして、人を傷つける怖さを知っている人間が、見下されなくてはならないのだ?
今こそ、我々は、ゲームから学ばなくてはならない。いじめなどで心に傷を負った子供は、ゲームによって癒されるべきである。学校の教師とか、カウンセラーとか、医者とかは、みんな認識不足なのである。ゲームの持っている潜在的な可能性を、しっかり勉強するべきなのである。そして、とっとと本格的な『癒しゲー』を開発すべきなのである。
『お受験ママ』どもも、自分の虚栄心を満足させるために、他人の人生を支配しようとするのはやめろ! 奴らには、専用の『育てゲー』を作ってやればいいのである。新感覚の育成シミュレーション・アドベンチャーゲーム、『ジ・アルティメット・お受験』だ。ヴァーチャル・チャイルドたちの学力パラメーターを上げ、入試や面接でフラグを立てて、見事、難関小学校に合格させよう。その後は、難関中学編、難関高校編、難関大学編、難関企業就職編、難関結婚編と続くのだ。もし扱い方を間違えると、グレたり、変になったり、死んだりするよ。それでも、本当の子供がそうなるよりは、いいじゃないか?
苦心|惨憺《さんたん》して、文章をひねり出していくうちに、今までは漠然としていた物事の本質や筋道が、はっきりと見えてきた。信一は、自分が評論家になるべく生まれついた人間だったことに、ようやく確信が持てた。
ここまで打つのに、たっぷり二時間以上かかっている。だが、読み返してみても、我ながらいい出来映えだと思う。これまでの人生で、ここまで自分の思ったことを的確に表現できたことはなかった。
まだまだ、書きたいことは、山のようにあった。いずれ完成した暁には、どこかへ投稿しようと思う。だが、彼の初めての評論が載る媒体として、どんな雑誌が適当なのかについては、まったくノーアイデアだった。なにしろ、信一が日頃読む雑誌といえば、パソコン美少女ゲームの専門誌である『電脳天使』、『萌《も》え萌えウィンドウズ』、『PCガールズ』、『アイ・ラブ・SLG』などに限られていたからだ。どれも、一応、読者の投稿欄というものは設けてはいるが、長文の評論を掲載するような感じでもない。
とはいえ、朝から一仕事した爽快《そうかい》感は格別だった。発表の目処こそなかったが、ようやく、フリーライター兼ゲーム評論家としての第一歩を踏み出した実感があった。
さて、仕事もしたし、今度は、自分へのご褒美の時間だった。彼のお気に入りは、相変わらず、『天使が丘ハイスクール』である。ときどき、ほかのHゲーに浮気することはあったが、結局、このゲームに戻ってくる。
ゲームのテーマソングを聴き、『紗織里《さおり》ちゃん』の顔を見るだけで、心の底からほっとするのも、以前と変わらなかった。
『しんいちー。待ってよー。 ▼』
『おせーんだよ。何やってんだ? 遅刻すんだろうが。 ▼』
『しんいちー。足、早いんだもん。追いつけないよう。シクシク。 ▼』
『ほらあ。カバン、持ってやっから。 ▼』
『ラッキー。しんいちって、あんがい優しいじゃん。 ▼』
『うるせー。とっとと歩け。 ▼』
信一は心の底からリラックスして、マウスをクリックする。すでに、『紗織里ちゃん』を含め、十人の女の子の攻略を完了しており、ゲームの完全制覇の日も近かった。もはや、攻略マニュアルを見なくても、会話のリズムだけで、正しい選択肢を選べるまでになっている。『天使が丘ハイスクール』の世界は、彼にとっては、自分の部屋と同じくらい、なじみ深い場所だった。
だが、その反面、以前ほどには、ゲームにのめり込んでいけない自分を意識することもあった。いじめも、対立も、葛藤《かつとう》もない世界。少し前までなら、ひたすら心地よく思ったはずなのに、今はなぜか、逆に物足りなさを感じてしまう。
唐突に、『美登里ちゃん』のことが、頭に浮かんだ。
あの子なら、ゲームの中の美少女にもひけは取らないだろう。知的で、清楚《せいそ》で、優しくて、しかも美人だ。やっぱり、3Dにも、あんないい子がいるんだ。自分には、とうてい手が届かないとばかり思い込んでいたが、今日は、なんと向こうからメールをくれたのだ。マイナスイメージしか持たれていないと思っていたのは、もしかすると勘違いだったのかもしれない。まあ、でも、現実には、やっぱり高嶺《たかね》の花なのかもしれない……。よく考えてみたら、まだ、本名だって知らないわけだし。
それから、斉藤美奈代だって、けっして悪い子じゃないと思う。少なくとも、自分に対して、好意というか関心を示してくれた。それだけでも、得点は大幅にアップする。選《え》り好みできる立場じゃないことを考えると、こっちが本命かなとも思う。
いずれにせよ、二十八歳にして、ようやくヴァーチャル世界のヒロインを卒業して、生身の人間を相手にする時期に来たのかもしれない。
だが、たとえそうなったとしても、『紗織里ちゃん』のことは永遠に忘れないぞと心に誓う信一だった。これまで、自分を支えてきてくれたことには、いくら感謝してもし足りない。今から何十年か先、ついに最後の瞬間を迎えようとする時に、『紗織里ちゃん』との想い出は、人生で最も美しかった出来事として、鮮やかに心によみがえるに違いない。
ディスプレイ上での女の子とのイベントが一段落すると、信一は、データをセーブして、ゲームを終了させた。もう少しパソコンをいじっていたい気もしたが、きっぱり思いを断って、ウィンドウズも終了させ、電源を落とした。今日はコンビニに行くまで時間がある。久しぶりに、少し、外へ出てみようかと思っていた。
鏡を見ながら、髪の毛をきれいに梳《と》かした。規則正しい生活をしているせいか、顔色もよく、額や眉間《みけん》のあたりには光沢があった。何だか、オーラを発しているような感じさえする。顔の造作には変わりはなくても、少し前までとは、印象が一変しているのだ。自分でもそう思うくらいだから、他人には、なおさらだろう。
急に、将来の展望が明るく開けたような気持ちが湧《わ》いてきた。つくづく、あのセミナーに巡り合ったことは、自分の人生の転機だったと思う。思い切って参加してみて、やっぱり正解だったのだ。
さて、どこへ行こうか。信一は、同年代の若者が遊びに行くような場所には疎かった。だが、別に遠くへ行かなくてもいい。近所を散歩するだけでも、充分楽しいに違いない。大きな蜘蛛《くも》が巣を張っている道でも、わざわざ避けて通る必要はないし。