饭饭TXT > 海外名作 > 《天使の囀り(日文版)》作者:[日]贵志佑介/贵志祐介【完结】 > 【书香门第】天使の囀り@txtnovel.com.txt

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作者:日-贵志佑介/贵志祐介 当前章节:15389 字 更新时间:2026-6-16 03:23

 そうだ。不思議なことに、あれほどひどかった蜘蛛に対する恐怖心も、ほとんどなくなっていた。蜘蛛を見ると、心の奥ではまだ、かすかな嫌悪感と不安を感じるものの、同時に、すぐに克服できるという自信も湧いてくるのだ。

 ふと、今日こそ、完全に蜘蛛恐怖症《アラクノフオビア》を払拭《ふつしよく》してやろうと思い立った。そうだ。今がチャンスかもしれない。考えてみると、これは、人生における重大なチャレンジの一つだ。

 そう思うと、急に、いても立ってもいられなくなってきた。これまで経験がなかったが、血が騒ぐとは、こういうことを言うのだろうか。信一は興奮して、部屋の中をぐるぐる歩き回った。それから、意を決して外へ出た。

 近所の道や公園など、蜘蛛のいそうな場所を探して歩く。

 ところが、今日に限って、蜘蛛は一匹も見つからなかった。信一は、少なからずがっかりした。

 諦《あきら》めようかとも思ったが、一度火がついた彼の闘志は、容易なことでは消えそうもなかった。時計を見ると、まだたっぷり時間は残っている。

 信一は、一度部屋に戻って身支度を整えると、駅へ向かった。途中にあるペットショップで、プラスチックの虫籠《むしかご》五つと捕虫網を買う。こんなものを手にするのは、何年ぶりのことだろう。むしょうに懐かしかった。小学生のころは、虫取りに行くような暇は、ほとんどなかった。ただ、夏休みの宿題で昆虫採集をするときだけは、おおっぴらに野山に出かけることができたので嬉《うれ》しかった。青空の下、信じられないようなスピードで飛翔《ひしよう》するギンヤンマやアオスジアゲハを追いかけていた、あのときの気分と興奮が、よみがえってくる。目指す獲物は、当時とは少々違っていたが。

 信一が部屋に戻ってきたのは、それからおよそ三時間後のことだった。

 虫籠の中には、大型の蜘蛛がひしめき合っていた。胴体がやや細長く、水面に何種類もの絵の具を落として紙で掬《すく》い取ったような、複雑でサイケデリックな紋様のある方がジョロウグモ、ずんぐりとしていて、黄色地に黒い縞《しま》のあるのがコガネグモである。わざわざ、武蔵野にある寺の境内まで行って、捕獲してきたのだった。電車の中では、何人もの乗客が、彼の虫籠の中に目を留めては、ぎょっとした顔になった。だが、それすらも、なぜか信一を、勝ち誇ったような気分にさせてくれた。

 部屋の中で、あらためて戦果を確認すると、すでに縄張りを巡る戦いに敗れた数匹が、白い経帷子《きようかたびら》に包まれた骸《むくろ》と化していたが、それでもまだ、五つの虫籠で、合計二十匹近い蜘蛛が生き残っている。

 その様子を見ていると、うなじの毛がちりちりと焦げるようなスリルを感じるのと同時に、腹の底から、ぞくぞくするような勝利の快感がこみ上げてくる。自分は今、邪悪な蜘蛛どもを支配している。あれほど忌み嫌い、恐れていた、蜘蛛をだ……。だが、これではっきりした。こいつらは、いくらおぞましく見えようとも、しょせんはちっぽけな虫けらにすぎないのだ。生殺与奪の権利は、全部、自分が握っているのだ。

 もう、自分には、怖いものは何一つない。

 信一は、それから長い間、うっとりしながら、飽かずに蜘蛛を眺めていた。

 はっと気がつくと、いつのまにか夕方になっていた。そろそろ、コンビニへ行く用意をしなくてはならない。

 五つの虫籠は、ずらりと並べて窓際に吊《つる》す。赤く染まりつつある西日が射し込んできて、虫籠のシルエットを畳の上に投げかけた。まるで影絵を見ているように、籠だけでなく、蜘蛛の形まで弁別できた。緩慢な動作で、籠の中の縄張りに巣を張ろうとしている。

 そのとき、何かが聞こえた。

 信一は、一瞬、蜘蛛が鳴いているかのような錯覚に襲われた。だが、もちろん、蜘蛛は鳴かない。

 また、聞こえた。

 鳥の囀《さえず》りに似た音だ。信一は、耳を澄ませた。

 今度は、はっきりとわかった。ピッコロのような音色だが、音程が微妙に揺れている。絶えず、半音ずつ繰り上がったり、繰り下がったりしているのだ。不安定だが、不思議な魅力に溢《あふ》れている音で、思わず聞き惚《ほ》れてしまいそうだ。

 だが、どこから聞こえてくるのだろう。きょろきょろあたりを見回すが、位置も方向も、なかなか定まらない。上へ行ったかと思うと、急に下から聞こえてきたりするのだ。しかも、いくら目を凝らしても、何も目に入らない。

 やがて、囀りは、天井の一角に固定された。薄暗いが、どう見ても、何もない空間。だが、鳥の囀りのような音は、たしかに、そこから聞こえてくるのだ。か細く震えてはいるが、それでも、けっして途切れることなく囀り続けている。

 とうとう来た。

 信一の胸は、これまで一度も感じたことのないような感激で、いっぱいになっていた。

 間違いない。守護天使が、やって来たのだ。

 今まで、ずっと信じていた。ずっと待っていたのだ。だが、その甲斐《かい》はあった。これで、自分も、ようやく守護天使と一体になれるのだ。

 守護天使の囀りは、途中で何度も弱まり、消え入りそうになりながらも、健気《けなげ》に続いている。彼は心の中で、懸命にエールを送った。聞いているよ。安心して。ちゃんと、聞いているから。がんばれ。もっと元気よく鳴くんだ。負けるんじゃないぞ。

 頬《ほお》を暖かく濡《ぬ》らすものを、感じる。信一は、ふっと溜《た》め息をもらした。

 もう、だいじょうぶだ。これからは、守護天使が、ずっと自分と一緒なのだから。

 きっと、うまくいく。何も、心配しなくていい。

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九章 大地母神《ガイア》の息子

 早苗は、腕時計を見た。ちょうど午前十一時三十分を回ったところだった。すでに約束の時間は、三十分以上過ぎている。今頃、ホスピスでは、早苗の担当すべき回診を、誰かが代わりに行っているはずだった。そう思うと、こうして無為に座って時間を潰《つぶ》していることへの罪悪感がわいてくる。土肥美智子は、何も聞かずに行ってきなさいと言ってくれたのだが、自分を必要としている多くの患者たちのことを思うと、職場放棄の罪は重いと思う。

 おそらく、これから渡邊《わたなべ》教授に会ったところで、何か画期的な新事実が判明するというのは望み薄だった。実人生では、推理小説のように、すべての謎《なぞ》が明快に解き明かされる方が、むしろ稀《まれ》である。いずれ、時が経過し、偶然の僥倖《ぎようこう》によって真相が顕《あらわ》れるのに期待するよりないのだろうか。それに、かりに真相がすべてわかったとしても、それで高梨のことについて、完全に心の決着が付くというものでもないだろう。

 早苗は、もし今日も収穫がないようだったら、これで終わりにしようと思い始めていた。自分にはやるべき仕事があり、人生は常に進行形である。いくら高梨のことが忘れられないといっても、いつまでも、この問題にばかりかかずらっているわけにはいかない。

 彼のことは、生涯、自分の中で反芻《はんすう》していこうと思った。思い出として。そして、辛《つら》い負い目として。

 渡邊教授の部屋は、大学の中庭に面しているためか日が射し込まず、薄暗く陰気な感じだった。ソファの座面は低すぎ、背もたれの角度も大きすぎるので、後ろに寄りかかるとリクライニングシートに寝そべったような格好になってしまう。背筋をぴんと伸ばしているだけでも一苦労で、居心地が悪かった。ほかに見るものとてないので、早苗は、書架にある本の背表紙を眺めた。

 エッセンシャル法医学〔第2版〕、現代の法医学〔改訂第3版〕、標準法医学・医事法〔第4版〕……。

 同じ医者でありながら、なじみのないタイトルばかりである。インターンを終えてホスピス医となることを決めた時、彼女は、周囲からさんざん変わり者扱いされたものだった。人の命を救うことを本分とし、誇りともする医者の中で、患者をただ従容と死に向かわせるしかないホスピス医は、少なくとも、若く希望に燃えた人間の志望するものではないと思われていた。だが、それが法医学関係となると、さらに、奇人、変人のイメージが強く、あんなものは医者ではないなどと平気で公言する教授までいる始末だった。

 ドアが開き、小柄な白髪の老人が入ってきた。早苗は立ち上がった。

「どうも、お待たせしました。急に解剖が入っちゃったんでね」

 渡邊教授は、立ったまま煙草に火を付けると、鼻と口から一緒に煙を吐き出した。いかにも、一仕事終えた後の満足げな一服のようだが、見ようによっては、鼻孔に染み付いた臭《にお》いを消そうとしているような感じもする。

「お忙しいところを、ご無理言って申し訳ありません」

「いや、いや」

 渡邊教授は、煙草をふかしながら座り、上機嫌に言った。

「北島さんは、田尻教授の門下生なんだって? 僕はね、田尻君とは昔、一緒に机を並べた仲なんですよ」

「ええ、うかがってます。先生は、たいへんな酒豪でいらっしゃったとか」

 渡邊教授が、たまたま、早苗の母校の系列である医大の出身だったことは、幸運だった。そうでなければ、これほど簡単に会うことはできなかったに違いない。

 しばらく、共通の知人である医者たちの噂話《うわさばなし》をした後、早苗は本題に入った。

「実は、今日うかがったのは、先生が執刀なさったご遺体のことで」

「うん。そうだったね。赤松さんと言ったかな?」

 心なしか、表情が曇ったような気がする。

「北島さんは、赤松さんとは、どういうご関係なの?」

「直接の面識は、ありませんでした。ただ、私の知り合いがアマゾン探検に参加したとき、赤松さんとご一緒でした」

 渡邊教授は、灰皿で煙草をにじり消し、肺に蓄えていた最後の紫煙を吐き出した。それとともに、笑顔も完全に消えてしまった。

「……それで、聞きたいというのは、どういうこと?」

「赤松さんのご遺体を解剖されたときに、何か不審なことがなかったかどうか、教えていただけないでしょうか?」

 早苗は、かすかな興奮を感じていた。渡邊教授の態度には、はっきりとした手応えがある。何かを知っているのだ。おそらく、遺体を解剖したときに、何か異状を発見したに違いない。

「そういうことは、いくら医局の紹介でも、軽々しく口にするわけにはいきませんね」

 渡邊教授は、二本目の煙草に卓上ライターで火を付けた。言葉とは裏腹に、そのあやふやな手つきは、心中に迷いがあることを示している。

「もちろん、さしつかえない範囲でけっこうです。プライバシーの問題は、重々承知しておりますので」

「しかしね……」

 渡邊教授は、煙草に意識を集中しているかのように、目を細めた。早苗は、教授が話し出すのを待った。

「まあ、それは、異常といえば異常な遺体でしたよ。トラに咬《か》まれたんだから。赤松さんには、全身に数ヶ所、骨まで達するひどい咬傷《こうしよう》がありました。それで、死因は、外傷による二次性ショックで、心不全を起こしたものと判断しました。だが、これは、救急病院の管理を責めるわけにはいかない。むしろ、あれだけの重傷を負いながら二日間も保った方が、奇跡に近いんだ」

 違う、と早苗は思った。渡邊教授が急に饒舌《じようぜつ》になったのは、故意に話をはぐらかそうとしているしるしだ。教授は、何かもっと、別のことを発見したに違いない。

 だが、いったい何を見つけたのか。

「先ほど申しましたとおり、赤松さんは、アマゾン探検隊に参加していました」

 早苗は、慎重に言葉を選びながらしゃべった。渡邊教授の表情を観察すると、かすかに動揺が走ったようだ。さっき、アマゾンという言葉を聞いたときと同じだ。やはり、何か思い当たる部分があるのだ。

「実は、同時期にアマゾンへ行って亡くなったのは、赤松さんだけではないんです」

 渡邊教授は、あやうく煙草を取り落としかけた。

「何だって?」

「ほかに、二人が亡くなっているんです」

「しかし、そんなことは……」

 渡邊教授の顔色が、蒼白《そうはく》になった。

 早苗は唾《つば》を飲み込んだ。どうやら、的中したらしい。渡邊教授は、司法解剖の際に、何かを見ている。

「渡邊先生。何か、お心当たりがあるんですね?」

 渡邊教授は無言だった。煙草を持った手が震えている。もう一押しだ。

「先生がご覧になったものは、赤松さんの直接の[#「直接の」に傍点]死因ではないかもしれません。ですが、その原因を作った可能性が高いんです」

「その、根拠は?」

 渡邊教授は、鋭い目で早苗を見た。

「赤松さんを含めて、三人とも自殺してるんです。しかも、常識では考えられないような方法でです」

「だからと言って……」

「うち一人は、私が直接診察しました。奇怪な幻聴や、幻覚、妄想などの精神症状が見られました。それも、精神分裂病などとは明らかに違います。今までに知られていなかったような種類の精神病なんです。しかも、これは、何らかの方法で伝染するのではないかと思われる節があります」

 これが、駄目押しになったのがわかった。早苗は、逸《はや》る心を抑えながら沈黙を守った。渡邊教授が自分から話し出すのを、辛抱強く待つ。

「保健所には、一応、報告した」

 渡邊教授は、宙の一点を見つめながら、別人のような嗄《しわが》れた声で言った。

「しかし、私には、それ以上のことはできない。私は法医学者で、私が執刀するのは、司法解剖だ。遺体の死因を確認するのが仕事であり、それ以外のことは、それぞれの専門家に任せなくてはならない。だが、一応、注意は喚起しておいたんだ」

 日本で行われる遺体の解剖には、司法解剖、行政解剖、病理解剖の三種類があり、それぞれ目的が微妙に異なっている。犯罪や事件性の有無を調べる司法解剖では、ふつう、死因に関係のない身体疾患についてまで詳しく調べることはしない。

「保健所からは厚生省に報告が上がり、私はすぐにサンプルを送った。だが、厚生省から委嘱を受けたその道の第一人者という男が、問題なしという報告を出した。門外漢の私には、それ以上、口出しをする権限はない。それに、今度は、遺族からもクレームが来た。プライバシーだけじゃなく、差別問題まで絡んできたんだ。それで、以降はこのことについて口外することもできなくなった」

「先生。先生は、いったい、何を見つけられたんですか?」

 早苗は、たまりかねて訊《たず》ねた。

「トラックだ」

「トラック?」

「溝のことだ。遺体の脳を調べたら、表面に、ちょっと見には気がつかないくらいの、小さな溝があったんだ。私は、今でも、視力は二 〇だ。そこで、脳を輪切りにしてみた。すると、脳幹部に、微細な線虫が百匹以上も食い込んでいるのが見つかった。表面にあったのは、虫の這《は》った跡だったんだ」

 早苗は、受話器を取り上げたまま、考え込んでしまった。

 餅《もち》は餅屋である。本格的な調査をしようと思ったら、福家に頼むべきだろう。早苗には逆立ちしても知り得ないことも、新聞社のネットワークを使えば、瞬時に判明する場合もある。

 だが、これには、渡邊教授も言うように、微妙な問題が絡んでいた。

 赤松助教授の脳内から発見された線虫を調べたのは、寄生虫学が専門ではない、日本の医学界の有力者だった。

『回虫は、しばしば脳や眼球に迷入する。人体内に、ニクバエの幼虫や、シマミミズが寄生していた例さえあり、当該の線虫についても、たまたま脳内で見つかったからといって、ただちに危険なものと断定することはできない』

 早苗は、渡邊教授から見せてもらった厚生省からの文書の一節を思い出した。有力者の判断が、そのまま反映されたものらしい。現在の日本のシステムで、一医師がこれに楯突《たてつ》くのは容易なことではない。かりに早苗が失職覚悟で異議を申し立てたとしても、役所の方針が覆るとは思えなかった。しかも、この方針が百パーセント間違っていたとも言い切れないのだ。文書の最後には、たしか、こうあったはずだ。

『死亡との直接の因果関係は確認できず、プライバシーの問題もある。海外で偶然に罹患《りかん》した風土病と思われ、いまのところ流行の可能性は認められない以上、いたずらに不安を煽《あお》るのは望ましくない』

 いかにも役所らしい言いぐさではある。だが、一面の真実を衝《つ》いていることは否定できない。そして、その点が、早苗が福家に電話するのをためらう最大の理由なのである。

 もし福家に知らせれば、遅かれ早かれ、必ず記事になるだろう。そして、いったん公表された情報は、環境中に放出されたウイルスと同じで、後から抹消するのは不可能に近い。

 しかも、情報は、繰り返し誇張され、潤色され、歪曲《わいきよく》されながら報道されるうちに、どんどん形を変えていく。その速度はエイズウイルス以上である。そして、最終的に生き残るのは、ウイルスとまったく同様に、生き残りやすい形質を備えたものである。つまり、より人々の意識に刻み込まれやすい、センセーショナルで、恐怖という根元的な感情に直結しやすい『物語』である。

 エイズのときもそうだったが、脳に巣くう寄生虫というイメージには、より生々しく人の生理的な嫌悪感に訴えるものがある。デフォルメされた情報が広まる過程で、無意味なパニックやバッシング、いじめ、差別問題などが引き起こされる可能性は高かった。今の時点で、そこまでの犠牲を払ってまで警戒を呼びかけるべきなのかどうかは、とても判断できない。

 さらに、公表を恐れる赤松助教授の遺族の意向も、故なしとは言えなかった。

 赤松助教授の出身地方の村落には、古代から連綿と続く、ある『憑《つ》き物』に関する迷信が存在しているのだという。

 早苗は、さっき黒木晶子に電話をかけて、『憑き物』に関するレクチャーを受けたばかりだった。それによると、村の中で特に羽振りがよかったり、隣の田と比べて稲がよく実ったりする場合に、

「あの家は『憑き筋だ』」などと噂されるのだという。狐などの妖怪変化《ようかいへんげ》が『憑く』ことによって、周囲の家から密《ひそ》かに財宝を奪い取り、その家の繁栄を助けているという『物語』である。日本人特有の陰湿な嫉妬《しつと》の感情によるものだろうが、噂された方では、縁談に支障が出るなどの実害を被り、極端な場合は、村八分のような目に遭うことさえあるらしい。

『憑き物』に関する迷信は、関東から中部地方、中国、四国にまで広く分布している。狐を自在に操るという『飯綱《いづな》使い』などは、十三世紀の天福年間に、狐にまたがった荼枳尼天《だきにてん》への信仰から始まったとされているが、その真のルーツは遥《はる》かに古く、ほとんど有史以前の信仰にまで遡《さかのぼ》るらしい。

 これもまた、病原性ウイルスと同じように有害な情報の一種である。早苗は、そうした馬鹿げた迷信はとうに絶滅したのかと思っていたが、地域によっては、今日でも根強く生き残っているらしかった。むしろ、オカルト ブームや、非合理的なものを無責任に肯定してしまうテレビ番組などの影響によって、復活する傾向にすらあるのだという。

 そうした中で、ただでさえ奇怪な自殺を遂げたために噂になっているであろう、赤松助教授の頭の中から、わけのわからない「虫が出てきた」などということになれば、田舎にいる親族は、単に肩身が狭いだけではすまないことになるのかもしれない。そのあたりの感覚は、東京に住んでいる早苗には、想像することさえ難しかった。

 早苗は、いったん置いた受話器を、もう一度取り上げた。福家の協力を仰げないとなれば……。早苗は手帳を開き、渡邊教授から聞いた番号をプッシュした。その相手が協力者となってくれることを、強く念じながら。

 渡邊教授の友人というので、もっと年輩の人物を想像していたのだが、依田《よだ》健二は、どう見ても、まだ四十代の前半のようだった。けっして大柄ではないが、引き締まった男臭さを感じさせる風貌《ふうぼう》で、視線は剃刀《かみそり》のように鋭い。

「お忙しいところを、お邪魔して申し訳ありません」

 早苗の挨拶《あいさつ》に、依田は、鼻からフンと息を吐いて応えた。

「お忙しいように見えますか? 日本の大学の教授なんてものは、企業とタイアップした研究でもしてなければ、一年中ヒマなんだよ」

 早苗は面食らった。

「でも、渡邊先生からは、この分野の第一人者だと伺ってます」

「その、この分野[#「この分野」に傍点]っていうのが、くせ者なんでね。誰もやらないような、たとえば、金魚の糞《ふん》がどういう連なり方をしてるかという研究でもしてれば、第一人者には簡単になれますよ」

「ご謙遜《けんそん》を……」

 依田は、ポケットからティッシュを出すと、大きな音を立てて鼻をかんだ。

「失礼。花粉症でね」

「でも、もう夏ですよ」

「花粉っていうのは、杉ばかりじゃない。一年中、何かしらあるんですよ。私のIgE抗体は、あらゆる花粉を敵だと誤解して認識している。放置しておくと、やがて芽を出して、身体を乗っ取られるという妄想でも抱いているらしい」

 依田は、突然くるりと背を向けると、どんどん歩いていく。早苗は、一瞬迷ったが、黙って、ついていくことにした。

 依田は、木のドアを開けて、研究室に入った。早苗も後に続く。

「どう思います?」

 依田は、急に振り返って、早苗に聞いた。

「何が、ですか?」

「この部屋」

 早苗は、雑然と実験器具が置かれた部屋を見渡した。とりあえず褒めようと思ったのだが、何一つ、褒めるべきところが見つからなかった。しかたなく、「すてきなお部屋ですね」などと言う。

「すてき? あなた、目はだいじょうぶですか?」

 依田は、鼻をかみながら言った。

 早苗は、ホスピスにいる間に、突っかかるような攻撃的な物言いをする人には慣れている。言葉と内心は、裏腹のことが多いのだ。できるだけ、にこやかに答える。

「大きくはないけど、逆に、こぢんまりとしていて、使い勝手が良さそうです」

「なるほど。ものは言いようだ」

 依田は、初めてにやりと笑顔を見せた。

「しかし、実際には、使い勝手も全然よくない。機械や設備は老朽化してるが、新しいものを買う金もない。未《いま》だにDNAシークエンサーも、プロテイン シークエンサーもないし、炭酸ガス孵卵機《インキユベータ》は、ここ十年ほど、毎年買い換えの希望を出し続けている。遮蔽《しやへい》冷蔵庫に至っては、学生の下宿にある冷蔵庫の方が高性能なくらいだ。今年、ここで私が使える科研費がいくらか、わかりますか?」

「カケン費って何ですか?」

「科学研究補助費。文部省から与えられる予算のことだ」

「さあ……」

 依田が口に出した金額は、信じられないほど少なかった。大卒の新入社員の年収にも満たないだろう。

「まあ、それが、欧米の大学のように、きちんとしたシステムで査定された結果なら、しかたがないと思いますがね。しかし、日本では、科研費が認められるかどうかは、密室で、わけのわからない恣意《しい》的な理由によって決められるんです。学術審議会というところが判断するんだが、ここもご多分に漏れず、少数のボスが何もかも仕切っていてね。結局は、彼らの匙《さじ》加減一つというわけだ」

「はあ」

 よく似た体質の大学の医局というものを知っている早苗には、さもありなんと思える話だった。

「しかも、四月以降の科研費が認められるかどうか判明するのは、五月になってからだから、それまでは、自腹を切る覚悟でもない限り、動きがとれない。その上、実際に金が銀行に振り込まれるのは、七月になってからでね。そのため、やむを得ず、前年度分の科研費の一部を、表面上は使った形にして出入りの業者に預けている。まあ、一種の裏金だ。必要に応じて、それを小出しにして使うんだ。おそらく、国公立の研究機関では、どこでも似たようなことをしてるはずです」

「それは、たいへんですね」

「ところが、最近になって、金をプールしていることを、検査、摘発しようとする動きが出てきた。市役所なんかでやってる一連の裏金づくりと、同列に見ているわけだろうね。この間も、どこかの役人がやってきて、ねちねちと嫌味を言って帰って行ったよ。だが、こっちは何も、好きこのんで、こんなやり方をしているわけじゃない。ランニングコストを賄うための校費というものは、あるにはあるが、雀の涙だ。金が入るまで待ってたら、四月から七月までは、本当に何一つできないんだ。文部省は、三ヶ月もの間、我々に遊んでいろとでも言うつもりなのかね? それに、そもそも、本当に暴くべき不正は、もっとほかにあるはずだとは思いませんか?」

「はい、思います」

 依田の鋭い眼光と勢いに押されるように、早苗は答えた。依田は、急に我に返ったような苦笑を見せた。

「いや、失礼しました。あなたに文句を言ったって、しかたがないですね」

「どんどん、言ってください。私の仕事は、人の悩みを聞くことですから」

 依田は、しばらくぽかんとした顔をしていたが、笑い出した。

「あなたは、なかなか面白い人ですね」

「お褒めにあずかったものと、解釈しておきます」

 早苗は、三眼顕微鏡や、小さなプラスチックのシャーレなどが置いてある机の上に目をやった。

「渡邊先生から伺ったんですが、依田先生は……」

 依田は、顔をしかめた。

「先生っていうのは、やめませんか。こっちもあなたを先生と呼ばなきゃならなくなる。小学校の職員室じゃあるまいし、お互いに『先生』、『先生』と呼び合うのは滑稽《こつけい》だ」

「では、依田さんは、『線虫』の専門家と伺ったんですが」

「ある意味では、そのとおりだが……。あなたは、線虫については、どの程度ご存じですか?」

「ほとんど何も。一応、大学で寄生虫病に関する講義は受けましたが」

 依田は、また、鼻を鳴らした。

「最近の医学部では、まだ、講座があるだけましだな。じゃあ、まず、私がふだん研究に使ってる線虫を、見せましょう」

 依田は、机の上からシャーレをひとつ取ると、早苗に手渡した。依田は、強面《こわもて》の風貌《ふうぼう》にもかかわらず、意外に白くきれいな指をしていると思う。

 早苗はシャーレを手に取って目を凝らしたが、空にしか見えなかった。

「どこにいるんですか?」

「中央に、小さな糸屑《いとくず》のような物が見えるでしょう?」

 さらにシャーレに目を近づけると、長さ一ミリほどの、髪の毛よりもずっと細い物体が見えた。かすかに動いているのがわかる。蓋《ふた》の閉まった容器の中だから、空気の振動によるものではない。

「線虫って、こんなに小さいものなんですか?」

「まあ、種類にもよるんだが」

 依田は、ピポットでシャーレの中身をスライドガラスに移すと、顕微鏡の戴物台《ステージ》にセットした。

「これなら、もっとよくわかるはずだ」

 早苗は、接眼レンズに目を当てて、顕微鏡を覗《のぞ》き込んだ。細長い、半透明の生き物が、しきりに身をくねらせている。

「本当だ。動いてます」

「これが、C エレガンスだ」

「エレガンス? 可愛《かわい》い名前ですね」

「正しくは、|Caenorhabditis《シノラブダイテイス》 |elegans《エレガンス》 と言う。雌雄同体と、雄の二種類の個体がいる。今見ているのは、雌雄同体の方。土壌の中で主に大腸菌を食べている、自活性の線虫なんだが、遺伝子《ゲノム》が多細胞生物の中では最小の部類である上に、実験に使いやすい利点がいくつかあってね、現在、世界中で、最も広く研究に使われている」

 早苗は、顕微鏡を見ながら身体の向きを変えようとした時に、床に置いてあった、何か大きな物に躓《つまず》きそうになった。

「おい、気をつけて!」

 早苗は、あわてて足下を見た。高さが八十センチほどある、金属製の瓶《かめ》のような形の物体である。保温のためらしいビニールのカバーから、細くなった口の部分と、その両脇《りようわき》にある二つの持ち手が覗いていた。早苗は、昔牧場で見た、搾《しぼ》ったばかりのミルクを入れる容器を思い出した。

「まったく、どこの大馬鹿野郎だ? こんな物を出しっぱなしにしてるのは」

 依田は低い声で唸《うな》った。どうやら、怒りの矛先は、早苗に向けられているわけではないらしい。

「これ、何ですか?」

「液体窒素」

 依田は不機嫌そうに言った。

「何に使うんですか?」

「さっき言った、C エレガンスが実験に都合がいいという最大の理由は、冷凍保存が容易なことだ。終濃度十五パーセントのグリセリン下でゆっくりと凍結させると、後は液体窒素でマイナス七十度に保ってやれば、半永久的に保存することができる」

 容器の口の部分をよく見ると、かすかな煙が漏れ出ているのに気がついた。金属製の蓋は、上に載せてあるだけのようだ。

「口が、ちゃんと閉まってないようですけど」

 依田は、ふんと鼻を鳴らした。

「液体窒素は、常温では気化し続ける。口を密閉なんかしたら、数分で大爆発だよ」

 そんなこともわからないのかという口調に、早苗は赤面した。

「だから、今も危ないところだったんだ。蓋が緩いから、ひっくり返したら、隙間《すきま》から液体窒素が流れ出てくる。もし、直接、脚の皮膚にでもかかったら、ひどい火傷《やけど》になったかもしれない」

 早苗は、おやという気がした。依田の顔を見ると、そっぽを向く。態度はぶっきらぼうだが、案外、繊細で優しい人間ではないかという気がした。

 そのとき、液体窒素を置きっぱなしにしていた張本人らしい学生が、くしゃくしゃのハンカチで手を拭《ふ》きながら、研究室に入ってきた。早苗を見て、驚いたような顔つきで立ち止まる。依田は、低くドスの利いた声で、液体窒素は使ったらすぐに保冷庫に戻せと言った。早苗がいなかったら、たぶん、雷が落ちていたのだろう。学生は、すっかり恐縮したようだった。ぺこぺこと何度も頭を下げながら、容器を台車に載せて運んでいく。取っ手をつかんで持ち上げる時に、ふらついていたところを見ると、かなりの重さがあるようだ。

「依田さんは、今、C エレガンスで、どういう研究をなさってるんですか?」

 早苗が訊《たず》ねると、依田は少し仏頂面を和らげた。

「いろいろだが、今は、フェロモンの感覚情報処理をテーマにしている。C エレガンスは、一生を通じて、常に一種のフェロモンを出し続けていてね。このフェロモンは、amphid という感覚器官にある四種類の感覚神経で受容される。そして、フェロモンによって、個体密度がある一定の線を越えたのを感知すると、耐性《ダウアー》幼虫と呼ばれる三齢の幼虫に変化する。要するに、飢餓に備えて、生き残ろうとするわけです。そのために、表皮のクチクラ層が厚くなり、餌《えさ》を取る必要のなくなった口まで覆ってしまう。代謝の水準が下がり、動きは不活発になるが、奇妙なことに、nictating と呼ばれる、尾端を支えにして立ち上がり、激しく体を揺らす活動だけは、逆に活発になる……」

 早苗が素人《しろうと》だということを忘れてしまったのか、依田の説明はしだいに熱を帯び、専門的な領域へと分け入っていった。

「……このため、C エレガンスを変異誘起剤である、メタンスルホン酸エチル《EMS》溶液に浸けることにより、寸詰まりや表皮のねじれなどのある異常個体や、運動、走化性などに異状のある変異体を作り出せるわけで、しかも」

「あの、依田さん」

「ん?」

「少しお話が難しすぎて」

 早苗がそう言うと、依田はようやく気がついて苦笑いした。

「そうか。失礼。何となく、あなたが大学院生みたいな気になっていた」

「そんなに若く見てもらえたのは、嬉《うれ》しいですけど」

「それに、あなたが知りたいのは、C エレガンスのことじゃなかったね。例の、渡邊先生からの一件でしょう?」

「ええ」

 依田は、しばらく考え込むような目になった。

「そもそも、線虫というものが動物分類学上どこに位置するのか、わかりますか?」

「いいえ」

 早苗は、ここへ来る前に、もう少し予習をしておけばよかったと後悔した。

「まあ、いい。どうせ今はヒマだから、レクチャーしてあげよう」

 そう言うと、また、突然、すたすたと歩き出す。部屋を出ると、早苗が小走りにならないと追いつけないくらいのスピードで廊下を歩いていった。

「線虫を定義すれば、袋型《たいけい》動物門線虫綱 |Nematoda《ネマトーダ》 に属する、生物の総称ということになる。形状は、読んで字のごとく細長い線形をしている。有名どころを挙げれば、長く松枯れの原因とされていたマツノザイセンチュウとか、犬の死因の第一位であるフィラリアもそうだ。それに、あなたが腸の中で飼っている回虫なんかも、立派な線虫の仲間だ」

 早苗は、少しむっとした。

「私は、そんなもの、飼っていません」

 依田は『遺伝子保存室』、『小動物飼育室』、『微生物培養室Ⅰ、Ⅱなどという部屋の前を足早に通り過ぎ、『セミナー室』というプレートのついたドアを開けながら、振り返った。

「あなたは、線虫などというものは、まったく取るに足らない生き物だと思っているはずだ。違いますか?」

「いいえ、そんなことは。そもそも、取るに足らない生き物というものは、地球上に存在しないと思います。すべての生物が何らかの役割を担って、バランスの取れた生態系を作り上げているわけでしょうから」

「なるほど。優等生の答えだな」

 依田は、早苗を招き入れた。中は、階段状の教室のような部屋だった。

「だが、まだまだ認識が甘い。地球上で最も繁栄している多細胞生物は、人間でも昆虫でもない。線虫だ。線虫こそが地球の本当の支配者だと言っても、過言ではない」

「本当ですか?」

 早苗は依田の顔を見たが、とても冗談を言っているようには見えなかった。

 彼女が部屋の中程まで進み出たとき、ぱちんと音がして、部屋の明かりが消えた。早苗は、ぎょっとして振り返った。

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