「心配しなくていい。別に、あなたを襲うつもりはないから」
依田は、彼女の心の中を見透かしたように言った。
「以前、文部省のひも付きでない研究費を得るために、素人相手にプレゼンテーションをしたことがある。もう、二度とやらんがね。これは、そのときに作ったスライドだ」
依田がいかにも旧式のプロジェクターらしい音を立ててスイッチを入れると、正面のホワイトボードに掛かったスクリーンに、光が当たった。依田は、最初のスライドをセットした。萎《しな》びかかったリンゴが映し出される。さらに、スライスしたリンゴの組織を拡大した写真も。そこには、線虫とおぼしき細長い輪郭をしたものが、ぎっしり詰まっていた。
「現在、線虫がいかに繁栄しているかは、その数を見れば一目瞭然《いちもくりようぜん》だ。線虫の個体数は、多細胞動物中では群を抜いて多い。中世の神学者は、針の頭で何人の天使がダンスできるか真剣に議論したらしいが、腐ったリンゴ一個の中に何頭の線虫がいるか、実際に数えた学者がいる。結果は、約九万頭ということだった。これが現在の世界記録だが、ほかにそんな暇人はいないから、もっと多い例があったとしてもおかしくない」
次のスライドは、畑のような場所だった。
「こちらは、虱潰《しらみつぶ》しに数えたわけではないだろうが、耕地一平方メートルあたりでは、だいたい十二億頭の線虫が存在するという推計がある」
地球の写真と円グラフ。
「いかに線虫の個体数が多くても、一頭あたりのサイズは非常に小さいので、ふだん目にする機会はほとんどない。そこで、ほかの生き物と比べて、どのくらい繁栄し、成功しているかの指標として、生物量《バイオマス》を計算してみる。これは通常、乾燥重量で比較するんだが、ある試算によれば、線虫の生物量《バイオマス》は、なんと、地球上の全動物の十五パーセントを占めるという」
今度は、海や砂漠、南極などの写真が次々に現れた。
「線虫の種類は、既知のものだけでも数万種ほど、地球上にはゆうに百万種以上が存在すると推定されている。その生活圏は、淡水、海水、動植物の内部から、南極の氷の下や、53℃の硫黄泉《いおうせん》、乾燥した砂漠や、酢の中にまで及んでいる。およそ生き物の存在できるところには、必ず線虫が存在していると言っても過言ではない。ゆえに、線虫を知るということは、地球を知ることに他ならない」
その次のスライドからは、様々な形の線虫の写真が出てきた。
「線虫の大きさは、自活性線虫では通常、〇 五から四ミリほどだが、海産種では、五センチに達するものもある。また、動物寄生性の線虫では、体長一ミリに満たないものから、腎虫やメジナ虫の雌のように体長一メートルを超えるもの、マッコウクジラの胎盤に寄生するパラセントネマ属のように、雄で二メートルから四メートル、雌は六メートルから九メートルに及ぶものまで存在する」
早苗は、四つ目に出てきた写真に圧倒された。サイズを比較するためか、にこやかに笑っている女性の背後に、線虫の標本が映っている。同じ寄生虫でも、サナダムシなどにはそのくらいの長さのものが存在することは知っていたが、これほど巨大な生き物が、ついさっき見た、糸屑《いとくず》のほつれのようなC エレガンスと同じ種類の生き物であるとは、驚きだった。九メートルといえば、蛇の最大種である、アナコンダやアミメニシキヘビとほぼ同じ長さだ。
その次は、C エレガンスによく似た線虫の写真だった。
「これがまあ、もっとも平均的な線虫の姿だ。これまでのところで、ほぼ、イメージはつかめたかな?」
「線虫の数が非常に多いこととか、大小いろんなサイズのものが存在することはわかりましたけど。でも、どういう生き物なのかは、今ひとつぴんときません」
「まあ、それも無理はない。普通の人は、日頃、ほとんどなじみがないからな」
線虫の解剖図が、映し出される。
「線虫というのは、もっとも原始的で、かつ、もっとも高級な動物だと言われている。換言すれば、動物の基本形だ。たとえば、ミミズは真っ二つになっても再生可能だが、線虫だと死んでしまう。体長一ミリに満たない線虫でも、脊椎《せきずい》以外は、我々人間とほとんど同じ器官を備えているんだ。実際、我々の先祖を辿《たど》っていけば、線虫にきわめて近い構造の生き物にまで行き着く」
暗い部屋の中で、投影された線虫の写真を見ているうちに、早苗の脳裏に、奇妙な映像が浮かんできた。基本的に我々とたいして異ならない構造の生命体が、気の遠くなるほどの数、暗黒の中に浮かんでいる……。それは、高梨の遺作である『|Sine Die《サイニーダイイー》』のイメージとダブった。もし輪廻転生《りんねてんしよう》が存在するとしたら、数から言って、ほとんどの魂は線虫に生まれ変わるに違いない。そして、光のない地下の世界で、いつ果てるともなく蠢《うごめ》き続ける……。
早苗は身震いしてから、頭を振って妄想じみた考えを振り払った。
次の写真は、再びC エレガンスだった。
「線虫は、必要最小限のシンプルな構造でできている。透明で強靭《きようじん》なクチクラの表皮で覆われた体は、先ほど述べたような、あらゆる環境に適応することができるんだ。まあ、これは余談だが、C エレガンスの体内にDNAを導入するためにガラスの針を刺そうとすると、角度によっては針が折れてしまうことがあるくらいだ」
「天敵は、いないんですか?」
早苗は質問した。
「いないどころじゃない。これだけ数が多い生物だ。まわり中、ほとんど天敵だらけと言ってもいい。次のスライドを見ればわかる」
線虫の写真を中心にして、たくさんの生き物の写真を放射状に配した図が現れた。多くは、捕食関係を示すらしい矢印が双方向に引かれている。
「土壌中の線虫は、数限りないライバルとの熾烈《しれつ》な生存競争を行っている。トビムシモドキ、クマムシ、ダニ、ヒメミミズ、プロトゾアなどは、すべて線虫を捕食する」
次は、細長い輪のような物が、線虫の胴中を締めつけている写真だった。
「カビなどの菌類も、線虫にとっては恐ろしい敵だ。鋭い槍《やり》状の分生胞子で線虫の体を貫いて、体内に菌糸を広げるカビや、さまざまな形の罠《わな》をしかける食肉カビなどが存在する。代表的なのは、絞め輪式のダクティラリア、トリモチ式のダクティレラ、蜘蛛《くも》の巣式のアルスロボトリスなどだ。生きた線虫に襲いかかる細菌もいるし、胞子虫類は、線虫に寄生して内部から食い尽くしてしまう。これに対し、線虫の側も、さまざまな対抗進化を遂げた。現在、線虫と、それ以外の微小動物やカビとは、お互いに捕食し合う関係にあると言える」
スクリーンには、いくつかの線虫の頭部を拡大したものが現れた。
「ぱっと見には、ほとんど同じように見える線虫の口頭部の形状は、食性によってそれぞれ異なっている。これが、分類の一つのポイントだ。一番左は、強大な口針を持つ植物寄生性線虫。その次が、対照的に短小な口針の食カビ線虫。最後が、頭部にストローのような構造の見られる食細菌線虫だ」
どちらかといえば無愛想な印象だったが、さすがに講義で慣れているらしく、依田は、しゃべるのは苦にはならないらしい。
「ここで、クイズを一つ。とは言っても、線虫のことはよく知らないだろうから、それよりは多少なじみのありそうな、蛇について聞こう。あなたは、蛇の食物の第一位は、何だと思いますか?」
早苗は、面食らった。
「ネズミですか?」
依田が期待したとおりの答えだったらしく、彼は低い声で笑った。
「そう思うかもしれないが、動物学者が、蛇が最もよく食べる餌《えさ》が何かと調べたところ、ほかの種類の蛇だということがわかった。裏を返せば、蛇の最大の天敵は、他の種類の蛇ということになる。成功した生き物の最大の敵は、しばしば捕食者に鞍替《くらが》えした同族他種であるという好例だ。これは、線虫にも当てはまる」
スクリーンには、さっきとは別の線虫の頭部が映し出された。続いて、小さな線虫を丸呑《まるの》みにしている大型の線虫の姿も。
「たとえばこれは、線虫の中のトラのような存在である、捕食性線虫モノンクスだ。写真で見るとおり、盃状《さかずきじよう》の口腔《こうこう》と内側に反り返った牙《きば》を持っている。シャーレの中で、ネコブセンチュウなど他の種類の線虫と一緒に入れておくと、一匹残らず貪《むさぼ》り食ったあげく、最後は共食いまで始める始末だ。『吸血鬼』ディプロガスターは、別の線虫に口針を突き刺して、養分を一滴残らず吸い尽くす。セイヌラ属も、小型ながら大型線虫を口針で刺し殺すことができる」
スクリーンを眺めながら、早苗は、まるでSFホラー映画を見ているような気分になった。人間の気づかない場所では、常に生き残るための壮絶な戦いが行われている。だが、線虫類は、新たな環境に適応して様々な進化を遂げることによって勝ち残り、繁栄を謳歌《おうか》してきたのだろう。
「ここで、少し固い話もしておこうか。線虫学の現況についてだ。興味がなければ、聞き流してくれてもかまわない」
依田は、咳払《せきばら》いをした。
「かつて、コッブという学者により、動物寄生性線虫についての研究は、吸虫類や条虫類と一緒に蠕虫学《ぜんちゆうがく》(helminthology)に入れられてしまった経緯がある。一方、自活性線虫は、土壌生態系の中で最も重要な要素の一つだが、その方面の研究は全く進んでいない。明らかに農学部の領分のはずなんだが、最近は、金になる研究にしか予算が出ないという傾向が顕著で、分子生物学、動物学、農学などは、ほとんど同じようなDNAの実験ばかり行っている。私がC エレガンスを使った、フェロモンの感覚情報処理という研究テーマを選んだのも、煎《せん》じ詰めれば、科研費のためだ。昔ながらの博物学や分類学的な手法による研究は、現在の日本では、誰一人やっていない」
依田は、くしゃみをして、大きな音を立てて鼻をかんだ。
「つまり、線虫を総合的に研究する線虫学(nematology)という学問は、事実上存在しない。だが、将来、地球上から人類が一掃されることがあっても、線虫が絶滅することなどあり得ない。我々は、今後ともずっと彼らと共存していかなければならないわけだ。にもかかわらず、線虫について我々が知っていることは、あまりにも少ない」
再び、プロジェクターを操作する音。スクリーンには、線虫の進化を示すらしい複雑な系統図が映った。
「線虫が地球上に現れたのは、約五億年前の前カンブリア紀からだ。現在の地球の土壌が作られたのは、線虫の働きによるところが大きい」
だとすると、線虫こそが大地母神《ガイア》の子供と呼ぶにふさわしいのではないか。そんな考えが、早苗の中で生まれた。
「線虫の祖型《プロトタイプ》は海洋型だが、海洋から淡水、陸上へ、そして再び海洋に戻るなどという、かなり複雑な進化を経てきた。その後、地球上に動植物の体内という新しい環境が生まれたことで、海洋型、淡水型、陸上型の線虫から、幾度となく寄生への適応が繰り返された。そのため、現在の線虫の系統はきわめて入り組んでおり、分類が非常に難しい」
今度は、とぼけた顔をした牛の漫画が出てきた。体内の各臓器には、それぞれ特化した線虫が棲《す》んでいる。
「土壌などにおける生存競争がどれだけ厳しいのかは、すでに見てきたとおりだ。それと比較すると、人間を含めた動物の体内は、いっさい外敵が存在しない、理想に近い栖《すみか》だ。彼らにとって、どれほど魅力的かは、明らかだろう。そのために、線虫類は、数え切れないほどしばしば、寄生への適応を繰り返してきたんだ」
成功し、繁栄している生き物は、当然のことながら、捕食者や寄生者に狙《ねら》われやすい。早苗の頭には、常に暖かく、ふんだんな水と栄養に満ちた、五十億の袋のイメージが浮かんでいた。線虫の側から見た、我々人間の姿である。
「動物寄生性線虫の形態はまちまちだが、馬には六十九種、羊で六十三種など、動物ごとに数十種程度、固有の寄生性線虫が存在する。大型の動物だけでなく、蚊やナメクジなどの小動物についても、同様に、必ず固有の寄生性線虫が存在する。人体に寄生する線虫は五十種存在し、回虫を始め、蟯虫《ぎようちゆう》、鉤虫《こうちゆう》、鞭虫《べんちゆう》、旋毛虫、バンクロフト糸状虫、日本住血吸虫、アニサキス虫などが有名だ」
続いて、人体に寄生している線虫の写真がいくつか出てきた。早苗は、目をそむけた。医師ではあっても、この手の生き物は、昔から苦手だった。
「まあ、線虫に関する基礎知識としては、こんなところだな」
依田は、部屋の灯りをつけた。早苗は、眩《まぶ》しさに目を瞬いた。
「何か、質問はありますか?」
「ええ。おかげさまで、線虫がどんな生き物かというのは、だいたいわかりました。それで、渡邊先生が、人間の脳の中から発見した線虫についてなんですが」
「残念ながら、あれについては、まだ何もわからない。はっきりしているのは、新種だということだけだ」
「実際に、ご覧になったんですか?」
「今、『微生物培養室』で育てているところだ」
早苗は驚いた。
「本当ですか?」
「脳で見つかったのは成虫だけだが、渡邊先生から送ってもらった遺体の各部、筋肉組織や血液などのサンプルからは、かなりの数の虫卵が発見された。そこから線虫を孵化《ふか》させ、シャーレの中で継代飼育を試みているところだ」
渡邊教授は、依田のことを、線虫の研究にかけては日本でナンバーワンであり、飼育にも他の追随を許さない職人的な技量を持っていると言っていた。だからこそ、こっそりと試料を彼の元に送ったのだろう。
「渡邊先生は、あの虫について、相当強い危機感を抱いておられました」
依田は、じろりと早苗を見た。
「あなたは医者だから、当然、よく知っているだろう。戦後、日本の衛生状態が改善するに従って、多くの大学で、寄生虫学の講座がばたばたと閉鎖されてしまった。そのために、最近の医師は、寄生虫についてほとんど何も知らない。だが、最近では、再び寄生虫症が増加しつつある。それも、既知のものに限らず、急速な国際化によって、これまでに見たこともない外国の寄生虫が、ある日突然、日本に上陸するケースも珍しくない」
「おっしゃるとおりです」
「だから、今度は、私が教えてもらいたい。なぜ、精神科医のあなたが、この線虫に興味を持っているのか。そしてもう一つ、死亡した人間は、どこで、どうやって、あの線虫に感染したのか」
早苗は、深く息を吸ってから、「わかりました」と言った。
[#改ページ]
十章 テュポン
同窓会の会場である西新宿の寿司屋は、すぐにわかった。座敷に通されると、十数人の目が早苗を注視する。誰だろうかと訝《いぶか》るような色。一瞬間をおいて、歓声が彼女を包んだ。口々に、「何だ、北島。元気にしてたか?」などと言っている。
ここに集まっているほとんどの面々とは、高校卒業以来の対面になる。当時からクラスで幅を利かせていた連中が、今日もしっかり上座の方に陣取っていた。早苗を自分たちの仲間に入れようとしきりに手招きしている。座を見渡すと、隅の方で黒木晶子が目で合図を送っていたので、彼女の隣に緊急避難する。
「よく来れたね。忙しいんじゃないの?」
「まあね。怠けてたつけが回って、書類仕事《ペーパーワーク》が溜《た》まってるから。でも、どうせ晩御飯を食べなきゃなんないから、気分転換に、ちょっとだけ顔出そうと思って」
「じゃあ、また病院へ帰んの?」
晶子は、呆《あき》れたように言った。
「北島。久しぶりだな。まあ、一杯」
ワイシャツを肘《ひじ》の上まで捲《まく》り上げた、よく太って血色のいい男が、ビールの瓶を持って早苗の横ににじり寄ってきた。
「え? 藤沢君?」
「そう。だけど、何だよ。その、えって言うのは?」
「たぶん、あんたが、見る影もないってことじゃない?」
晶子が、辛辣《しんらつ》な調子で口を挟んだ。
「俺《おれ》は、そんなに変わってないぜえ。野球やめてから、ちょっと太ったけどな」
藤沢は、早苗のグラスにビールを注《つ》いだ。泡を立てすぎないところに、サラリーマンとしての習熟がうかがえる。
「ありがとう」
「早苗え。久しぶりい」
田端瑞恵がやって来た。声の出し方などは高校時代とまったく変わらないのだが、顔を見ると、もうすっかりおばさんになっていた。愕然《がくぜん》としたのを悟られないようにするのに苦労する。さっき、全員が一瞬だけ沈黙したときも、自分の姿はすっかり見違えられてしまったのだろうか。歳月の積み重ねは、思った以上にはっきりと顔に刻まれているのかもしれない。
「早苗、全然変わってないねえ。元気してたあ? お医者さんになったってえ?」
「うん。瑞恵も、そんなに変わってないね」
「やだあ。あたしなんか、もう、完全におばさんよお」
言ってることが少しも冗談になってないので、早苗は曖昧《あいまい》に笑ってごまかした。
「もう、二人の子持ちなんだから。上の子は、今年小学校。早苗は結婚は?」
「まだ」
「ええ? まだなのお?」
どうせ聞かれることになるとは覚悟していたが、開始のゴング早々、いきなりパンチを浴びせられた気分だった。
「何だ。北島、まだ、シングルか?」
「えー。そうなのかよ。俺にもまだ、チャンス、あるかな?」
「あんたなんかじゃ、だめよ。早苗に釣り合うのは、もっと頭のいい人じゃないと」
「北島のタイプってさ、太宰治みたいな暗めのやつだろう?」
「やっぱり、並の男じゃだめか。でも、いつまでもそんなこと言ってると、そのうち、即身成仏だぜ」
今度は、まわり中から雨霰《あめあられ》と砲弾が降り注ぐ。座には、ほかにも二、三人、独身女性がいるはずだったが、早苗を援護してくれるどころか、彼女だけが注目を浴びていることが不愉快だというような表情で、そっぽを向いている。
早苗は、鍛え抜かれた笑顔と、「私、仕事と結婚してますから」というお決まりのセリフを弾除《たまよ》けに使い、ひたすら一斉攻撃が途絶えるのを待った。
「あいつらはみんな馬鹿なだけだからね。気にしない方がいいよ」
ようやく座の関心が早苗から離れたとき、晶子が言った。
この中で高梨のことを知っているのは、彼女だけである。
気づかってくれているのがわかり、早苗は微笑《ほほえ》んだ。
「気になんか、するもんですか」
「それにしても、あんたが同窓会に顔出したがらない理由、今わかったような気がする」
晶子は、刺身を醤油《しようゆ》に浸しながら、しみじみと言った。
「別に、出たくないわけじゃなかったのよ。だけど、なかなか時間がとれなくて」
「そうだろうね。あ、そうだ。|復讐の女神《エウメニデス》に追いかけられてたおじさん、元気にしてる?」
「え?」
「ほら。電話で聞いてきたじゃない? そういう妄想に悩まされてるおじさんがいるって。おじさんとは言ってなかったかな。忘れたの?」
「ああ」
早苗は、狼狽《ろうばい》を隠すためにビールに口を付けた。親友に対して作り話をしたのを、すっかり忘れていた。
「症状は……まあ、今のとこ、安定してるわ」
「そりゃ、なによりだわ」
ふと、晶子に、天使のことを聞いてみようかという気になった。
「天使ってさあ、背中に羽根が生えてるよね」
「はあ?」
晶子は、ぽかんとした顔をした。
「あれって、ワシの羽根なんでしょ?」
「ワシねえ。まあ、そうかもしんない。だいたい、宗教画なんかの天使の姿っていうのは、もろにギリシャ神話のキューピッドからきてるからね」
「どういうこと?」
早苗は、興味を引かれるのを感じた。
「天使にせよ、|復讐の女神《エウメニデス》にせよ、有翼の神々というのは、新しい宗教が世界中で古代のスネークカルトを駆逐していった、名残なのよ」
「なーにこむずかしいこと、言ってんだよ?」
早くも酔っぱらった男が、両手にビール瓶とグラスを持って、早苗と晶子の間に割って入ってきた。さっき、上座から早苗を呼ぼうとしていた、小村という男だった。
「うるさいわね。あっち行きなさい」
晶子は、小村を邪険に押しのけた。
「ねーえ。あんたたちって、高校の時から、いつもべったり一緒じゃない? もしかして、レズじゃないの?」
テーブルの反対側から、早苗たちとは仲の悪かった荏原《えばら》京子が声をかけてきた。昔と寸分変わらぬ底意地の悪そうな声音に、早苗は呆《あき》れた。少しアルコールが入っただけで、これだ。皆、外見だけ老けても、中身は高校時代からまったく進歩していないのではないか。
「スネークカルトって、どういうものなの?」
しばらく我慢して、ようやく邪魔がなくなってから、早苗は訊《たず》ねた。
「有史以前に世界中に広く分布していた、蛇を崇拝する宗教よ」
「世界中ってことは、日本にも?」
「もちろん」
早苗がビールを注ぐと、晶子は、うまそうに飲んだ。
「日本の原文化は、自然と共生するアニミズムの文化だったからね。スネークカルトの本場の一つだったかもしんない。たとえば、注連縄《しめなわ》。もう見慣れちゃってるから、誰も何とも思わないけど、よく見ると奇妙な形でしょう? あれはもともと、交尾のために絡み合った二匹の蛇を象《かたど》ったものなのよ。縄文時代っていう言葉の元となった縄文土器の文様だって、蛇を図案化したものだしね」
「へえ」
最も得意とする分野の話だけあって、晶子の舌は滑らかに回り始めた。
「だいたい、西洋よりは東洋の方が、スネークカルトに寛容だったかもしんない。新しい宗教に駆逐されてからも、蛇への信仰は、龍に形を変えて生き延びたからね」
「その、スネークカルトが駆逐されたっていうのは、どうして?」
「そりゃあ、あんた。それが、自然の成り行きってもんなのよ」
晶子は、早苗が注ぎ足すビールを飲みながら、滔々《とうとう》と説明した。
元来、スネークカルトというのは、大地の豊饒《ほうじよう》を人格化した大地母神《ガイア》信仰と一体であり、その起源は、旧石器時代末期のオーリニャック期にまで遡《さかのぼ》るという。クレタ島のクノッソスなどからは、大蛇を体にぐるぐる巻きにしたり、両手に蛇を持っている大地母神《ガイア》の像が出土しているらしい。
その後、各地で、新しい民族の流入と征服に伴って、新しい神々による古い神々の駆逐という現象が起きた。蛇を信仰し、自然と共生していた古代宗教が、大空の神をあがめ、鉄器を使って文明を作り出した新しい宗教によって滅ぼされていったのだ。
「つまり、父性原理を代表する天空の神が、母性原理である大地母神《ガイア》に取って代わったわけね。それ以来よ、この腐った男社会が始まったのは」
晶子は眉《まゆ》をしかめて、大騒ぎしている上座の連中を見やった。
「神話を詳しく分析すれば、その過程は明らかだわね。ほら、多くの神話で、新しい神々が古い神々と戦って打ち負かすというエピソードがあるでしょう? これは、宗教間の争いを、ダイレクトに神々の戦いとして表現してるわけなの」
「ふうん。つまり、神や天使が翼を持っているのは、大地に対する天空の優越を表しているっていうこと?」
「さすがに、理解が早いね。でも、それに加えて、翼を持つということには、『蛇を殺す者』という意味もあるの。鳥類は、一般的に蛇の天敵だからね。さっき、天使はワシの翼を持っているって言ってたけど、そういう理由もあるのかもしれない。ギリシャ神話は、エジプト神話から大きな影響を受けてるんだけど、エジプトには、ヘビクイワシという蛇を専門に食べるワシがいて、古代から神聖視されているのよ」
「そうすると、スネークカルトっていうのは、完全に消滅してしまったわけ?」
「ところが、これが、そうじゃないんだなあ。そこが面白いところなんだけどね」
晶子は、豪快にビールをあおった。早苗は、注ぎ足そうとして、ビール瓶が空になっていることに気づき、遠慮がちに幹事に追加の注文を頼んだ。
「……宗教が宗教を駆逐するときには、しばしば、敗れた方の神話の要素が吸収されるという現象が起きるの。ほら、仏教なんか、その典型的な例でしょう? 広まっていく過程でさまざまな異教の神々が取り込まれ、仏法を守護する役割を担わされている。スネークカルトも、完全に消滅しちゃったんじゃなく、新しい宗教の中に融合されたのよ。たとえば、それね」
晶子は早苗のハンドバッグを指さした。一瞬、意味不明に思えたが、すぐに、エルメスのマークを指していることがわかった。
「ギリシャ神話のヘルメス、ローマ神話のマーキュリーは、天空と地上との仲立ちをする役を担った神なのよ。つまり、象徴的に、天空の神と大地母神《ガイア》の間を取り持っているの。ヘルメスの格好は、どっかで見たことあるでしょう? 羽の生えたサンダルを履き、二匹の蛇の巻き付いた杖《つえ》を持っている。それから、有翼で髪の毛が蛇という、例の|復讐の女神《エウメニデス》もそうね。どちらも、本来なら対立するはずの、天の鳥と地の蛇の要素を併せ持っている。これは、スネークカルトと新しい宗教の不思議な混淆《こんこう》を示すものなのよ。逆に、龍なんかは、蛇の方が出世して、大空を飛ぶ能力を身につけた姿なわけね」
早苗はそのとき、スネークカルトについて、最近読んだおぼえがあるのを思い出した。
「アマゾンの古代文明が、蛇を崇拝していたっていう説があるんだけど」
「ああ。知ってる。『バーズ・アイ』に出てたやつでしょう? 古代|麻薬文明《ドラツグ・カルチヤー》の何とかってやつ。読んだわ」
晶子は、しごくあっさりと言った。
「アマゾンあたりだと、まだ、有史以前のスネークカルトが生き残っていても、おかしくないわね。アマゾンには、フェルドランスやブッシュマスターなんていう物凄《ものすご》い毒蛇がいるから、きっと原住民の精神文化にも大きな影響を及ぼしているはずだと思うわ。私は、いずれ、オーストラリアのアボリジニの神話を調べてみたいと思ってるのよ。あっちには、タイガースネークとか、タイパンとか、世界で最も恐ろしい蛇がいるからね。これは単なる想像だけど、危険な毒蛇の分布というのは、きっと、スネークカルトの発祥にも大きな影響を及ぼしているんじゃないかな。うん」
早苗の頭に、蛇に似た形の別の生き物のことが浮かんだ。
「もしかしたら、線虫っていうのは、小さな蛇に見えるんじゃないかしら」
思わずつぶやいた言葉に、晶子は怪訝《けげん》な顔をした。
「センチュウって、なによ?」
さすがに、博覧強記で鳴る晶子といえども、知らないことはあるらしい。早苗は、ほとんど依田から受け売りの説明をした。
途中で、上座の方の話し声が、早苗の耳に届いた。さっきから、ネクタイをだらしなく弛《ゆる》めたり頭にまいたりした男たちが、大声で笑ったり喚《わめ》いたりしていたが、いつのまにやら話が湿っぽくなって、今度は悲憤慷慨《ひふんこうがい》が始まっていた。リストラとか不況とか倒産とかいう言葉が、頻繁に聞かれる。「いまさら給料カットなんて、やってらんねえよ」と、吐き捨てるような声もした。
テーブルの反対側では、女たちが硬い表情で、男性優位の社会の理不尽について話し合っていた。同じ部屋の中で、早苗と晶子だけが、現実と遊離したまったく異質な会話を交わしているようである。
「線虫ねえ。たしかに、ほとんどの民族で、蛇と同じような細長い形をした生き物は、同類だと見なされてたでしょうね。日本語にも『長虫』なんていう表現があるし。古事記には、イザナギが黄泉《よみ》で見たイザナミの死体には、無数の蛆《うじ》とともに四肢にはイカツチが絡まり蠢《うごめ》いていたとあるんだけど、このイカツチっていうのは、蛇だと解されてるのよ。つまり蛇は、ウジ虫や、その他細長い生き物の親玉っていうわけね」
古代人が、もしマッコウクジラの胎盤に寄生する長さ九メートルの線虫を見ていれば、こちらを長虫の王に推したかもしれない。
晶子は、にぎり寿司を頬張《ほおば》ると、割り箸《ばし》を振り立てて話し始めた。
「さっき、ヘルメスの話をしたけど、よく考えたら、あんたの病院の名前になってる、『聖アスクレピオス』だってそうなんだよ」
たしかにそうだと早苗は思った。古代ギリシャの医学の神であるアスクレピオスのシンボルは、蛇だった。アスクレピオスが持っている蛇の巻き付いた杖は、WHOや医師会のマークにもなっている。医者への道を志しながら、今まで疑問に思ったことは一度もなかったのだが。
「でも、なんで、蛇が医学のシンボルになったのかしら?」
「いろんな理由があるわ。ポール・デイエルなんかは、生命の木を象徴する杖に巻き付く蛇は、征服され、支配された悪しき心を意味するなんて言ってるけどね。でも、それは、スネークカルトを否定したヨーロッパ人のこじつけよ。もともとの意味では、蛇が脱皮を繰り返すことから、物事を新しく変える象徴になったという面もあるし、一部の地域では、蛇の毒そのものを治療に使っていたからという事情もある。だけど、一番大きな理由は、夢でしょうね」
「夢?」
「古代ギリシャ人は、夢のお告げを何よりも重視したの。実際に、夢によって病気の診断を下していたこともあったし、夢が人間の心を癒《いや》すという作用についても知っていたらしいわ。その夢は、夜ごと、地下の世界からやってくると信じていたのね。あんたの詳しい心理学では、たぶん、地表が意識で、地中は広大な無意識の世界ということになるんじゃない? そして、蛇は古来から大地母神《ガイア》の息子とされていて、地中にすむ生き物の代表格だったのよ。その結果、当然のなりゆきとして、蛇が、夢によって人間を癒す神様のシンボルとなったわけ」
蛇が、夢を作り出して人を癒す。古代ギリシャ人が作り上げたイメージには、奇妙でありながら、強く人の想像力を喚起するものがあると思った。
しかし、真に大地母神《ガイア》の息子と呼ぶなら、蛇ではなくミミズの方が、そしてミミズより地中いたるところに蠢く線虫こそ、よりふさわしいような気がする。そう思うのは、依田から受けたレクチャーの影響かもしれなかったが。
晶子の講義は、さらに続いた。アスクレピオスは、女神アテネから死者を蘇生《そせい》させる力を持つメドゥーサの血を貰《もら》い受けて、多くの英雄を生き返らせたという。
「ほら。メドゥーサの髪も蛇だよね? 蛇は大地母神《ガイア》の息子だから、生命力と豊饒のシンボルでもあるのよ」
アスクレピオスは、その力を恐れるゼウスに雷で殺され、天に昇って『へびつかい座』となったという。これもまた、古代ギリシャで、スネークカルトが新しい宗教に吸収されていった過程を示すものらしい。
「ええ。宴も酣《たけなわ》ではございますが」
幹事の藤沢が、喧噪《けんそう》に負けないように大きな声を張り上げた。
「次の予約が入ってるそうなので、あと十分くらいで、お開きとしたいと思います。本日は、ご参加ありがとうございました。まだ参加費をお払いになっていない方は、私、藤沢まで。なお、引き続き、有志による二次会を行いますので、特に女性は、こぞってご参加ください」
まばらな拍手が起きた。早くも数人が帰り支度を始め、座は急に、ざわざわと落ち着かない雰囲気になった。
「どうすんの? やっぱり、これから帰って残業?」
晶子の質問に、早苗はうなずいた。
「じゃあ、しっかり食べといた方がいいよ。まだ、ほとんど残ってるじゃない」
そうだった。晶子の話に夢中になっていて、食べる方がおろそかになっていた。早苗は座り直すと、しゃりが乾いてぱさつき始めた寿司を食べ、寿司屋独特の濃い緑色のお茶でのみ下した。
テーブルの上に目をやると、特に上座の方は食い散らかしてあって、ひどい有様だった。『台風一過』という言葉が浮かぶ。この場合には、そぐわないかもしれないが……。
「ねえねえ。『台風』って、ギリシャ神話で、何か意味があったっけ?」
早苗は、口いっぱいに寿司を詰め込んだまま、不明瞭《ふめいりよう》な発音で訊ねた。
「台風? 台風という言葉の語源はアラビア語のtufanで、ぐるぐる回る風っていう意味らしいけどね。ギリシャ神話には、特に関係ないんじゃないかな」
「そう」
早苗は咳《せ》き込み、お茶を飲んだ。カプランの手記にあった最後の言葉にも、もしかしたら神話的な意味があるんじゃないかという思いつきだったのだが、はずれだったようだ。
「だけど、タイフーンじゃなくて、テュポンだったら、ギリシャ神話に出てくるよ」
「え?」
晶子は、バッグから手帳を出すと、万年筆でこう書いた。
『Typhoon=Typhon』
「これ、何のこと?」
そう言いながら、早苗は、カプランの手記には、『Typhoon』ではなく、『Typhon』と書いてあったのを思い出した。自分が勝手に、スペルミスだと思いこんでいただけなのだ。
「|Typhon《テユポン》 っていうのは、ギリシャ神話に登場する化け物の名前なの。エジプト神話の古代神 Seth と同一だとも考えられてるんだけどね」
「化け物って、どんな?」
「テュポンもまた大地母神《ガイア》の息子で、太古に存在していた恐ろしい怪物神の一人だったとされてるわ。いわば、打ち負かされた大地母神《ガイア》の呪《のろ》いを一身に背負った復讐者《ふくしゆうしや》ってとこね。テュポンって、なんだか変な名前だけど、太陽神アポロと戦ったときに、どうしてだか名前の子音が入れ替わって伝えられたことに由来するの。一説では、あまりに恐ろしい怪物だったんで、その名を発音するのを忌み嫌ったためだということね」
晶子は、さっきの手帳のぺージに、『Python』と書いた。
「これが、その元々の名前」
「パイソン?」
「そう。ギリシャ語ではピュトンだけど。モンティ・パイソンの、パイソン。現代の英語では、大蛇とか、悪魔っていう意味ね」