「じゃあ、モンティ・パイソンは?」
「『おかまの大蛇』かな」
「何なに? おかまバーに行くのお? あたしも行きたーい」
すっかり出来上がった田端瑞恵が、晶子の言葉を小耳に挟んで、しなだれかかってきた。
晶子は、うるさそうに瑞恵の腕を外すと、手帳の文字に書き加えた。
『|P《・》|yth《・》on→|T《・》|yph《・》on』
「ただし、ギリシャ神話の中では、『Python』の名も別に伝わっていて、今では、『Typhon』とは別の大蛇、または『Typhon』の育ての親ともされてるわ」
晶子の説明によれば、スネークカルトの象徴でもあるテュポンは、最後はゼウスの雷によって滅ぼされたということだった。その身体は、無数の蠢く毒蛇が寄り集まってできた、異様なものだったという。
これで、『Typhon』という言葉の意味そのものはわかった。だが、早苗の中では、再度の疑問が生まれていた。
カプランは、この語によって、いったい何を伝えたかったのだろうか?
病院へ戻ると、九時半を過ぎていた。急患の搬送口から入ると、暗いロビーを抜けて、エレベーターで六階まで上がる。建物を空中で結ぶ回廊を通って緩和ケア病棟に入ると、土肥美智子医師の部屋から灯りが漏れているのに気がついた。
ノックすると、「どうぞ」という声がした。
ドアを開けると、美智子は、何か書き物をしていた。パソコン嫌いで、今でも、ほとんどの文書を手書きで作成しているのだ。
「まだ、お帰りじゃないんですか?」
「うん。ちょっと、警察へ呼ばれててね」
「警察?」
美智子は、眼鏡の上から早苗を眺めた。表情に、いつになく疲れが見える。
「私はどうも、警察では、今でも青少年の自殺に関する権威ってことになってるらしいのよ。以前は、よく警視庁に出入りして、研究のための便宜を図ってもらってたりしたからね。ご高説を賜りたいって下手に出られれば、今さら嫌とも言えないでしょう」
「誰かの自殺について、意見を求められたんですか?」
「そう」
美智子は、そう言ったまま押し黙った。どういうことなのか、早苗には事情がよくのみ込めなかった。今どき、青少年の自殺は日常茶飯事である。そのために、わざわざ精神科医を呼んで意見を聞くというのは、どうにも解せなかった。それに、美智子の態度も気になる。すっかり混乱し、考え込んでしまっているようだ。彼女をそうさせたのは、何だったんだろう。
「そういえば、あなたの周囲でも、最近、自殺があったわね?」
美智子は、ふいにそう言うと、早苗を見つめた。
「……ええ」
「いや。ごめんなさい。やめましょう。あなたには関係ない話だし」
美智子は、しきりに唇を舐《な》めていた。話すべきかどうか、迷っているようにも見える。
「先輩。もしよかったら、話していただけませんか?」
「『先輩』は、やめなさいっていうのに」
美智子はそう言って、早苗を睨《にら》んだが、表情は少し和らいでいた。
「でも……そうね。あなたの意見も、聞いてみたいし。どこか、その辺に座って」
早苗は、一人掛けのソファを美智子の方に向きを変えて、腰かけた。美智子は、眼鏡を折り畳んで机の上に置くと、天井を見上げる。
「自殺したのはね、二十五歳の男の子。成人はしていても、まだ、精神的には未熟で、子供のままなのよ。一応、家業を手伝ってはいたんだけど、きちんとした仕事を任されていたわけじゃないし、将来、跡を継ぐという気もなかったみたい。まあ、実家でアルバイトをしていたっていう程度の意識ね」
「家業っていうのは、何なんですか?」
「それがね……メッキ工場なの。江戸川区にある、畦上鍍金《あぜがみときん》工業っていうんだけど。あ。名前はまずかったかな。亡くなった子は、四、五歳のころ、そこで事故に遭ってるのよ。メッキ工場っていうのは、私もよく知らなかったんだけど、危険な薬品をたくさん使ってるのね。その子は、ふだんは工場に入るのを止められてたんだけど、誰も見ていないときに、たまたま入っちゃったの。そして、薬品の入った容器をひっくり返して、顔に大|火傷《やけど》を負ったということでね」
「じゃあ、今でも、その痕《あと》が残ってたんですか?」
美智子は、首を振った。
「いいえ。今は、皮膚移植や副腎皮質ホルモンによる治療技術が進んでるから、言われなければわからない程度にまで、きれいに治ってたのよ。私が見たのは、写真だけだけど。ところが、本人は、そのことをひどく気にしていたのね。自分の容貌《ようぼう》が、他人に不快感を与えるんじゃないかって、悩んでたみたい」
「醜形恐怖ですね」
「今の若い世代には、非常に多いらしいわね。ただ、この子の場合には、一応、それにも理由があったのよ。病院へ担ぎ込まれて、応急手当を受けた後、知らせを受けた母親が飛んできたのね。子供は、母親の顔を見て、抱きつこうとした。ところが、この子の顔がひどく爛《ただ》れていたために、母親の方がたじろいでしまったらしいの。母親は、それが、心の傷になって、醜形コンプレックスを引き起こす原因になったんじゃないかって、悔やんでるらしいわ」
それで、子供に自殺されてしまったのでは、親は堪《たま》ったものではないだろう。早苗は、自殺した青年よりも、むしろ残された両親に同情した。
「醜形コンプレックスが原因なのかどうかわからないけど、高校在学中から引きこもりがちになって、結局、中退してるわ。その後は、ずっと家でぶらぶらしてたんだけど、最近は、よく外出するようになったり、少し明るい兆しが出てきたんで、周囲もほっとしていたところだったらしいの」
鬱病《うつびよう》などでは、治りかけが最も自殺の危険性が高い。話の筋は、それなりに通っていた。だが、早苗は、『明るい兆し』というのに、妙に引っかかるものを感じた。
「それが、昨日の晩、突然自殺したのよ。まあ、そこまでは、気の毒だけど、よくある話だと思うの。だけど、その自殺の方法が、何とも異様なのよ」
どきりとした。
「どうやったんですか?」
自分の声が、掠《かす》れているのを自覚する。
「深夜、工場に忍び込んで、劇薬の溶液に顔を浸けて死んだのよ」
美智子は、立ち上がって窓際へ行き、外を眺めた。
「金属メッキなんかに使う、重クロム酸ナトリウムっていう薬でね。猛烈な酸化作用があるらしいの。もちろん、自殺した彼は、よく知っていたはずよ。工場には、水溶液をポリ容器に入れて保管してあったんだけど、それを大型の金盥《かなだらい》にあけて、顔を浸したということらしいわ。自殺の方法としてはあまりにも異常なことから、警察は一時、他殺の線も疑ったらしいんだけど、現場は一種の密室でね。自殺であることだけは間違いないということだったわ」
「でも……それは、すごい苦痛を伴うんじゃないですか?」
「そのはずよ。死因は、顔の組織を広範囲に損傷したことによる、火傷に類似した外傷性ショックなんだけどね。彼の顔は、皮膚だけでなく、結合組織や筋肉の一部まで、どろどろに溶けていたらしいわ」
「とても、信じられません」
早苗は、鳥肌が立つような気分に襲われていた。
「奇妙なことは、まだあるのよ。彼は、目だけを保護しようとしていたかのように、競泳用のゴーグルをつけていた形跡があるの。文字どおりの形跡ね……顔に、溶けたゴムの跡が黒く付いていたんだから。すぐにゴムとプラスチックが冒されたために外したらしくて、溶けかかったゴーグルは、足下に放り出してあったそうよ」
「何のために、そんなことをしたんでしょう?」
「それだけなら意味がわからないでしょうけど、そばには鏡もあったのよ」
「鏡?」
「盥の向こう側の、ちょうど顔が見えると思われる位置に、鏡が立てかけてあったの。ゴーグルのことも考え合わせると、どうしても、自分の顔が無惨に溶けるのを見たかったとしか考えられないのよ、実際に、のたうち回ってもがき苦しみながら、なおも懸命に鏡を見ようとしていた痕が……血まみれの指の痕が、あちこちに残っているの」
早苗は、絶句した。
ここにも、まったく理解不能な形の自殺があった。ちょうど、高梨光宏、赤松靖、白井真紀らのときと同じように。ここまで続くと、単なる偶然とは考えにくい。
だが、その青年がアマゾンへ行っていたとも思えない。もしそうなら、土肥美智子は、当然、警察から聞いているはずだ。
だとすると、どういうことになるのだろう。
早苗は、しだいに沸き上がってくる嫌な予感を、懸命になって否定した。人間の心というものは、時として、常識では思いもつかないような方向にねじ曲がってしまう。おそらくこれも、純粋に、精神病理的な現象にすぎないのだろう。
渡邊教授が発見した、あの線虫が、何らかのルートによって、その青年に感染したのでなければだが……。
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十一章 蜘 蛛
「おう。荻野くん。今、帰り?」
コーポ松崎に帰ると、松崎老人が、にこにこしながら声をかけてきた。
「はい。今日は、昼勤なんです」
信一も、愛想良く応じる。
「そうか。まあ、その方がいいかもしれんわなあ。この頃は、コンビニ強盗とか、いろいろ物騒だもんなあ」
松崎老人は、箒《ほうき》に体重をかけるようにして立ち、話し込む態勢を作った。これは、まずい。
「そうですねえ。まあ、この辺はまだ、だいじょうぶじゃないですか?」
「いやいや。油断してっと、危ないわ。何しろ、最近の若い奴《やつ》らはみんな、何すっかわかんねえからなあ。まったく、平気で万引きしたり、強盗したり、人を刺したり」
信一は、苦笑した。
「それは、人によりますよ」
「うん。まあ、荻野君は、そういうのとは違うけんどな」
松崎老人は、一人で納得しているように、うなずいた。
「だけど、ここんとこ、あんた、すごくよくなったわ。え? 立派んなった。やっぱ、人間的に、成長したんかなあ」
「そうですか?」
「うん。そりゃ、もう、間違いない。ちゃんと、挨拶《あいさつ》もできるようになったし、何よりかにより、顔つきが、もう全然違うわ。明るくなった」
「はあ……」
そのとき、信一の背負っているデイパックの中で、ごそごそと音がした。信一は、一瞬、松崎老人に聞かれたのではないかと思い、ひやりとする。
「この年んなって、最近つくづく思うんだけんど、人間、やっぱり、明るいのが一番だわなあ。え? 明るいのが一番。俺《おれ》らの同級生でも、もう、それこそ、いろんなのがいたんだわ。学校の成績のよかった奴とか、矢鱈《やたら》めったら才気走ってた奴とか、もう、滅茶苦茶に喧嘩《けんか》が強かった奴とか。え? だけんど、やっぱり、偉いもんだわなあ、今頃んなって、真価が出てきてるっちゅうか。今、青森で県会議員をやってる男がいるんだけんど、こいつが何で青森くんだりまで行ったかっちゅうと、まあ、これにもいろいろあるんだけんど、こいつなんか、本当に、昔は、全然目だたんかったんだわ。え? 勉強がそれほどできたっちゅうわけでもないし、番長だったわけでもない。ところがだわ。こいつの、たった一つだけ、偉かったことは……」
まるで老人の長話に閉口したかのように、デイパックの中では、暴動が発生し始めていた。背中に密着した部分で、ごそごそ動くだけではなく、ビニール袋を激しく蹴《け》るような微妙な振動が感じられる。ほとんど音は出ていないので、少し耳の遠い松崎老人に聞こえるはずもなかったが、それでも信一は、なるべく老人の方をまっすぐ向いて、デイパックが隠れるよう気を配っていた。
「……まあ、脱線したけど、荻野君が明るくなったっちゅうことは、いいこったわ」
「はあ。ありがとうございます」
「ただ、ちょっと顔色が悪いなあ。何か、その、真っ白けだぞ? え? もうちょっとお日様に当たった方が、いいんじゃないか?」
「そうですね。それじゃ、僕」
信一は頭を下げて、すばやく階段に避難した。
「そうだ。二階のゴミ、まだ、捨ててなかったかもしれん」
松崎老人がつぶやきながら、後ろから階段を上って追尾してくる。
まずい。どういうつもりだろう。
老人は、信一の部屋の前までついてきた。捨てなければならないゴミなど、どこにも見あたらない。
「あの、じゃあ、これで」
信一がドアの鍵《かぎ》を開けながら振り返ると、老人は、不審そうな目で、じっとデイパックを見つめていた。思わず、後ずさりしたくなる。
「何か、今、このナップサック、動いとったように見えたんだが」
「は? まさか、そんな」
「そうかなあ。俺《おりや》あまた、目だけはいいはずなんだがなあ。よく、年取ると順番に三つ駄目んなるって言うけんど、まだ、二っつは現役で、入れ歯だってそんなにないし、林檎《りんご》も囓《かじ》れる。……確か今、このナップサック、動いとりゃせんかったか?」
「いやあ、気のせいだと思いますよ」
信一は小さくドアを開けると、身体を滑り込ませた。
「そうかなあ」
老人は、信一に続いて、ドアの前にやってきた。奥の六畳間に続く引き戸は閉めてあるが、台所にも見せたくないものはいろいろあった。そんなに目がいいのなら、部屋の中を覗《のぞ》き込まれると、厄介なことになるかもしれない。信一は、慌てて背筋を伸ばし、自分の身体で老人の視線をブロックした。
「それじゃあ、失礼します」
老人に二の句を継がせないように、頭を下げ、すばやくドアを閉めた。そのまま、息を殺して外の気配を窺《うかが》う。
老人は、しばらくドアの前に佇《たたず》んでいたようだが、やがて、諦《あきら》めて立ち去る足音がした。危いところだった。こちらから、お茶でもどうですかと言い出すのを期待していたのだろうか。どうも、あの様子からすると、最初から上がり込む腹だったのかもしれない。大家である以上、万が一、部屋の点検をしたいなどと言い出されれば、断る理由に窮するところだった。
信一は、台所の灯りをつけると、デイパックから大きなビニール袋を出した。
かざして見ると、中では、たくさんの黒い昆虫が、押し合いへし合いしている。エンマコオロギだ。コンビニからの帰り道にあるペットショップで、爬虫類《はちゆうるい》の餌《えさ》用に売られているものである。量り売りなので、何匹いるかは彼にも見当がつかない。全体に、よく太っていて、クリーム色の腹部には汁気がたっぷり詰まっていそうだ。
あのペットショップでは、ここのところ定期的に大量のエンマコオロギを購入しているので、信一がかなりの爬虫類マニアだと思われていることは確実だろう。そんな噂《うわさ》が老人の耳に入らないように、別の店も開拓しておいた方がいいかもしれない。信一は、自戒した。コーポ松崎では、ペットを飼うことが禁止されていたからだ。
信一は、袋入りのエンマコオロギの三分の二くらいを、台所に置いてある六つの大型の水槽に振り分けた。中には黒土が敷かれ、キャベツやキュウリなどの野菜|屑《くず》も入れてある。ときどき、霧吹きで湿り気を与えてやれば、自然繁殖までは望めなくても、当分の間は生きているはずだった。
老人の長話に付き合わされていた間の暴れぶりからすると、すでに相当数が仲間によって噛《か》み殺されたり、圧死したりしているのではないか。信一は、ひそかにそう心配していたのだが、幸いなことに、ほとんどのエンマコオロギはまだ元気だった。さかんに触覚を震わせながら、険のある真っ黒い目で、新しい住まいの住み心地を検分しようとしている。
冷蔵庫の上には、もう一つ、水槽が置いてあった。上部には、赤外線ランプが設《しつら》えられ、中には砂が敷き詰められていて、中央には平べったい岩がある。一見、生き物の姿はどこにも見あたらない。信一は、こちらにも、三匹のエンマコオロギを落とし込んだ。心なしか、ほかの水槽に入れられた仲間よりも不安そうに見え、さかんに歩き回ったり、岩の上で跳ねたりしながら、あたりの様子を窺っていた。
エンマコオロギが見晴らし台にしている岩の下には、シャロンと名付けた、南米産の巨大なトリトリグモが眠っている。こちらは、つい最近、都心の大きなペットショップで購入してきたものだった。目玉が飛び出そうな値段だったが、国産の蜘蛛《くも》とは比較にならない偉容に一目惚《ひとめぼ》れしたのである。しかし、日本の気候が合わないのか、ここへ連れてきて以来シャロンの動作は不活発で、大部分の時間を岩の下で過ごしているのには失望した。ここに入ったエンマコオロギも、シャロンの機嫌と運さえ良ければ、かなりの長期間生き延びるかもしれない。
信一は、ビニール袋の口を掴《つか》んで立ち上がった。袋の中に残された三分の一のエンマコオロギは、水槽組と比べて、より過酷な運命が待ち受けていることを予知したかのように、再び、さかんに暴れ始めた。
奥の六畳間に通じる引き戸を、静かに開ける。正面にかかっている安物のカーテンから、赤味がかった西日が、かすかに滲《にじ》み出していた。だが、部屋全体は、ぼんやりと薄暗い。
天井からは、まるで巨大な鍾乳石《しようにゆうせき》のように見える、なめらかな円錐形《えんすいけい》の物体が、何本も垂れ下がっている。そのため、部屋の空間は著しく圧迫を受け、場所によっては、床から一メートル半ほどの高さしかない。
信一は、頭を低くして障害物を避けながら、奥へと入って行った。頬《ほお》にそよそよと、天使の羽根を思わせるほど軽い物体が触れる。鼻孔がむず痒《がゆ》くなった。
カーテンを閉め切ったまま、大型の太陽光ランプのスイッチを入れた。とたんに、異様な光景が、眩《まぶ》しいばかりの光に照らし出される。
そこは、繭《まゆ》の中を思わせるような場所だった。鍾乳石のような物体の正体は、鴨居《かもい》や天井の横木から張り渡されている何十本もの白いポリエチレンの紐《ひも》である。紐は、それぞれ緩やかな懸垂曲線を描いて垂れ下がり、さらに複数の紐の間はびっしりと蜘蛛の巣で埋め尽くされて、漏斗状になっている。反対側からランプの光を透かして見ると、まるで巨大な提灯《ちようちん》のようだった。壁面や天井、さらにまわりの家具類までもが、紗《うすぎぬ》かベールのような蜘蛛の巣で幾重にも覆われている。
ここは、何百、何千という蜘蛛の巣が集まり、融合した集合住宅《コンドミニアム》だった。太陽光ランプの強い光を受けて、巣の一本一本の糸が、きらきらと光って見える。白い飾り帯のついた比較的シンプルなのは、コガネグモの巣である。それに対して、より複雑で立体的な構造を持つジョロウグモの巣の糸は、目もあやな金色に輝いていた。
最初に蜘蛛を捕まえてきて以来、信一は、暇さえあれば、せっせと郊外へ足を運んで、採集を続けていた。この部屋は、その努力の結晶なのである。並外れた情熱を傾けた結果、回を重ねるごとに、捕獲方法にも熟達した。今では、電車の窓から見ただけで、大型の蜘蛛が群棲《ぐんせい》していそうな場所には鼻が利くようになった。また、保冷剤とアイスボックスを利用するようになってから、蜘蛛を生かしたまま連れ帰る歩留《ぶど》まりも大幅に改善した。彼が訪れた場所では、大型の蜘蛛を根こそぎ攫《さら》って来てしまったので、この夏、害虫の大発生に悩む地域があるかもしれない。
もし、現在の首都圏における大型の蜘蛛類の生息マップを作ったとしたら、極小の一点、わずか六畳のスペースに、ドットが異常な集中を見せることになるだろう。統計上意味を持つほどの数の個体が、すし詰めになって暮らしている六畳間では、蜘蛛たちが、新しい環境に対して見事なまでの適応力を見せていた。餌をふんだんに与えているせいか、互いに殺し合うような現象もほとんど見られず、かつての香港の九龍城のように一つに融合した巣の上では、二種類の蜘蛛たちが平和に共存している。
信一は、最近では、夜も台所で寝袋に入って寝るようにしており、奥の間は、蜘蛛たちの聖域《サンクチユアリ》となっていた。普段は、彼らの平穏を妨げるものは、何一つ存在しない。
信一にとって驚きだったのは、脳などほとんどないように見える蜘蛛たちにも、ちゃんとした学習能力があるということだった。引き戸を開けて、太陽光ランプをつけると、食事の時間になったことを察知して、巣の奥の方から、大きな蜘蛛たちが続々と這《は》い出してくる。
今、信一の目の前で、金の糸を伝って出てきたのは、ナンシーという名前の、この部屋でも最大級のジョロウグモだった。黄色と水色と鮮紅色の入り交じった美しい胴体は、ぷりぷりとして弾《はじ》けんばかりである。
本来、コガネグモは夏、ジョロウグモは秋に成熟する蜘蛛なのだが、採集してきて以来、昼夜を問わず太陽光ランプを当てて、栄養価の高いエンマコオロギを頻繁に与えていた結果、すでに、どの個体もフルサイズにまで成長していた。中には、自然状態ではまず見られないほどの大きさに達しているものもいる。
現在ここにいるのは、すべて雌ばかりだが、もう二、三週間もすれば、痩《や》せこけて見栄えのしない雄蜘蛛も採集して来るつもりだった。そうすれば、夏の終わりから秋には、小袋のような卵嚢《らんのう》が山ほど産み落とされて、数限りない子蜘蛛が生まれてくるに違いない。信一はそれを、今から待ちきれないほど楽しみにしていた。
いつのまにか、数え切れない蜘蛛が、信一の周囲の空間、上下左右を取り巻くようにしていた。後ろの四本の肢《あし》で身体を支え、前の四本を持ち上げて、しきりに貧乏揺すりのような動作を繰り返している。信一の背筋に、わくわくするような戦慄《せんりつ》が走った。
「よしよし。いい子だね。お腹がすいちゃったねえ。今、ごはんを上げるからね」
信一は優しく囁《ささや》くと、ビニール袋からエンマコオロギを掴みだして、一匹ずつ、まわりの巣の上に置いていった。
網の上に落ちたエンマコオロギは、腹が糸にくっついてしまったことに気づくと、必死でもがいて、逃れようとした。それがかえって命取りになることなど、知る由もない。
網を伝わってくる振動を感じた蜘蛛たちは、すばやく、獲物の方へと移動した。饗宴《きようえん》の始まりである。
一つの獲物の発する振動は、糸を伝って四方八方へと走り、巨大な巣全体を揺るがす。蜘蛛たちは、いっせいに興奮状態に陥り、巧みに糸の上を走って、獲物の方へと集まってきた。
最愛の蜘蛛たちが、獲物を巡って同士討ちをしたりしないよう、信一は、エンマコオロギを掴んでは、できるだけ均等に散らばるよう振りまいた。数匹のエンマコオロギが床に落ちて、逃走を図っていたが、大部分は、うまい具合に網に引っかかっている。
その間にも、しっかりと獲物を確保した蜘蛛は、自分の体長よりも大きなエンマコオロギを手際よく回転させながら、糸をかけ、死の繭にくるんでいった。
信一は、魅入られたように、蜘蛛がエンマコオロギを捕食する様を眺めていた。ぞくぞくするような戦慄と、えもいわれぬ多幸感が同時に沸き上がってくる。
だが、ふと、何かが間違っているという気がした。もともと自分は、蜘蛛にはひどい嫌悪感を抱いていたはずだ。こんなことに喜びを覚えるのは、変じゃないか。自分は、もしかすると、こんなことをしてはいけないのではないだろうか。
信一は、ちらりと視線を壁際に向けた。あれほど熱中していたはずのパソコンや、大切だったゲームの入った本箱までもが、今では分厚い蜘蛛の巣で覆われている。胸の奥の方に、茫漠《ぼうばく》とした、悲しみに似た感情が湧《わ》き起こった。
しかし、それも、快楽への期待が高まる中、いつのまにか忘れてしまう。
信一は、しだいに酔っぱらったようになって、無我夢中でエンマコオロギを蒔《ま》いていた。気がつくと、右手は、すでにすっかり空になったビニール袋の底を、引っ掻《か》くようにまさぐる動作を繰り返している。
信一は、しばらくの間、呆《ほう》けたように立ちつくしていた。
すると、どこからか聞こえてきた。
天使の囀《さえず》り声。一つの声に呼応するようにして、たくさんの声が響きわたる。
来た……。来た、来た、来た。
信一は、その場にへたり込んだ。両膝《りようひざ》を抱え、天井を見上げる姿勢で、うっとりと目を閉じる。
無数の天使が現れて、囀りながら、六畳間の中を輪舞している。家具も蜘蛛の巣も突き抜けて、ぐるぐる回転しながら、飛び続けている。まるで、部屋の中に、百万羽の雀が舞い込んだかのようだった。
天使の囀りは、やがて、群衆のざわめきのように変化し始めた。歌うような、奇妙な節回しの中に、ときおり、信一に対する嘲《あざけ》りや、分裂症的な意味不明の喃語《なんご》も混じって聞こえる。
おまえは、**ではないのか。信一に向かって、執拗《しつよう》な問いかけが続く。おまえは、本当に、**ではないのか。おまえは、本当は、ずっと、**だったのではないのか。
信一は懸命に耳を澄ませたが、どうしても、肝心な部分だけが、何と言っているのか聞き取れない。
明日、電線が爆発する。明日、電線が、止まったまま爆発する。ずっと止まったまま、爆発し続けるだろう。止まったまま、ずっと、爆発し続ける。
時計は、これ以上、膨らまさない方がいい。時計は、膨らまさないで、貯めておくことだ。時計を、これ以上、膨らましてはいけない。なぜ、時計を膨らませるのか。
かつて、黒点と呼ばれていた。かつて、黒点と呼ばれていたこともある。それは何だ。かつて黒点と呼ばれていたものは、何だ。なぜ、かつて、黒点と呼ばれたのか。なぜだ。それは、なぜだ。
信一は、ずっと、何かを拒絶するかのように首を振り続けていた。涙があふれ、目尻《めじり》を伝って、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
だが、それは、恐怖や悲しみではなく、随喜の涙だった。
身体の芯《しん》が燃えるように熱く、頭は空白で、ふわふわと浮遊しているようだった。
下半身に苦痛を覚え、自分が、破裂しそうなほど昂《たかぶ》っていることに気づく。最近、太ったせいか、ジーンズがひどく窮屈になっていた。信一は、服を脱ぎ捨てた。一糸まとわぬ裸になると、蜘蛛の巣の中に右腕を突っ込んだ。さらに、ぐるぐる回転しながら、綿菓子を作る要領で、身体全体に蜘蛛の糸を絡め取っていく。
蜘蛛の巣と一緒に、何十匹もの蜘蛛が、彼の身体にまとわりついた。せっかくの食事を中断させられて怒った蜘蛛は、信一の首筋や腕にところかまわず噛《か》みつく。
おぞましさや痛みまでもが無上の喜びに感じられるのは、なぜだろう。
恍惚《こうこつ》感の火花が、頭の中で弾ける。信一は、そのまま仰向《あおむ》けに床の上に寝そべった。背中の下で、次々と蜘蛛が潰《つぶ》れていく感触。その瞬間、彼は射精していた。
後ろめたさ。罪悪感。すべて、嵐《あらし》のような快感の前では、彩りを増すだけの存在でしかない。信一は、涎《よだれ》を垂らしながら首を振る。全身が痙攣《けいれん》し、再び激しく勃起《ぼつき》している。
そのとき、耳をつんざかんばかりの天使たちの囀りに混じって、かすかに別の音が聞こえてきた。音楽……『School days』のメロディだった。
信一の脳裏に、大好きだった歌詞がよみがえった。
School days. もう一度、君と過ごしたい。胸躍った、あの季節を。争いも、妬《ねた》みも、苦しみもない世界で。
School days. もう一度、君に来てほしい。夢がかなう、あの教室へ。大事なのは、素直な心、ただそれだけ。
『紗織里《さおり》ちゃん』が、どこか遠い場所から、じっと彼を見ている。なぜか、ひどく悲しげな瞳《ひとみ》になって。
School days. ああ。地上に訪れた、この奇跡の時間《とき》。君を待っている、制服の天使たち。放課後の図書室。蝉《せみ》の鳴くプール。文化祭の校庭。そして、夕暮れの校門で。
きっと、どこかにあるはずだよ。Another time, another place. 天使たちの降り立つ場所が。
彼は、いつしか平静に戻って、しゃくり上げていた。滂沱《ぼうだ》と涙が流れる。今度は、喜びなどではなく、心からの後悔と懺悔《ざんげ》の涙だった。自分では気がつかないうちに、ひどく遠いところへ来てしまった。もう一度、あのころに戻れたらと、心の底から願う。
しかし、それも一刹那《いつせつな》の出来事にすぎなかった。再び、圧倒的な快感の波が押し寄せてくる。もはや、抗するすべはない。
「紗織里ちゃん。ごめん……」
そうつぶやいたとき、ぐるぐると回りながら昇天していくような幻想が、彼を包んだ。激しい眩暈《ヴアーテイゴ》を感じるほどの快感に翻弄《ほんろう》され、信一は鮭のように身を震わせ、連続して放出する。
彼は呻《うめ》いて、霞《かす》む目を見開いた。すぐ横の床を、大きなジョロウグモが這っているのが目に入った。ナンシーだ。
信一は、顔いっぱいに微笑《ほほえ》みを浮かべ、そっと手を伸ばして、優しく蜘蛛を捕まえた。目のすぐそばまで近づけて、惚《ほ》れ惚《ぼ》れと眺める。夢中になって頬《ほお》ずりやキスを繰り返すうちに、自分の口が自らの意志に反して、独立した生き物のように勝手に動き始めた。
気がつくと、口の中がねばねばした液体でいっぱいになっている。自分がナンシーを食べていることに気がついて、彼は茫然《ぼうぜん》とした。
だが、今度も、めくるめくような喜びに、信一は、白目を剥《む》いて打ち震える。
しばらくたってから、彼の両手は、次の蜘蛛を求めてゆっくりと周囲を探り始めた。
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十二章 メドゥーサの首
高い位置にある窓から、血のように真っ赤な夕日が射し込んできている。薄暗いコンクリートの校舎の中は、がらんどうの廃屋のようで、人影も見えない。
ヒールの音を響かせて階段を上りながら、早苗は、心臓の鼓動が徐々に早まるのを感じていた。
これから、依田の研究室で、いったい何を見せられるのだろうか。そう思うと、掌《てのひら》が汗ばんでくるような感じだった。それが、高梨らの異常な死を解き明かすことになることを期待しながらも、依田の研究室が近づくにつれ、逃げ出したいような気持ちが高まってくる。
昨晩、土肥美智子から聞かされたメッキ工場で自殺した青年の話も、まだ、心の片隅に澱《おり》のようにわだかまっている。無関係かもしれない。だが、もしそうでないとするなら、自分の行く手には危険が存在していることになる。自分もいつ、彼らと同じ運命を辿《たど》るか予測がつかない。
依田の研究室のドアが、すぐ目の前にあった。心を決めて、静かにノックする。ややあって、ドアが開いた。依田と目が合う。
「どうぞ。入って」
依田は、言葉少なに早苗を導き入れた。
「お邪魔します」
早苗は、息をつめて、まわりの様子を見回した。一歩研究室に入った瞬間から、寒気のような、圧迫感のようなものが、ひしひしと押し寄せてきた。この部屋の中に、高梨らを殺したものがいる。そう思っただけで、鳥肌が立つようだった。
「これだ。見てごらん」
依田は、単刀直入に言った。早苗は、彼が指し示した顕微鏡を覗《のぞ》く。
レンズの向こうに見えたのは、何の変哲もない線虫の姿だった。両端の尖《とが》った細長い半透明の姿。きわめて緩慢に蠢《うごめ》いている。この前来た時に見せてもらったC・エレガンスよりは大きいようだったが、形状はほとんど変わらない。
だが、なぜか早苗は、一目見ただけで確信していた。これが、すべての元凶となったものだ。顕微鏡から目を上げると、依田がうなずいた。
「とりあえず、|Cerebrinema《セレブリネーマ》 |brasiliensis《ブラジリエンシス》、ブラジル脳線虫と命名した。まだ、どこにも報告はしていないがね。これが、『天使』の正体だよ」
戴物台の上のスライドガラスに目をやったが、肉眼では、わずか四、五ミリのちっぽけな虫にすぎない。本当に、こんなもののために、高梨らは死んでしまったのか。そう思うと、身体から力が抜けるようだった。
「動物寄生性の線虫は、自活性の線虫などと比べると、形態はバリエーションに富んでいるが、ブラジル脳線虫は、見てのとおり、非常にオーソドックスな形をしている。そのため、外見から系統を類推することはできないが、おそらく、広東《カントン》住血線虫やコスタリカ住血線虫などに近縁の種だと思う」
早苗は、うなずいた。今まで、自分の線虫症に関する知識はといえば、エイズの日和見《ひよりみ》感染症の一つである糞《ふん》線虫症などに限られていた。だが、今朝早い時間に、久しぶりに学生時代に使った医学書を紐解《ひもと》き、線虫が原因である主な病気について復習してきていた。広東住血線虫などは、人間の体内に侵入してから、脳や脊髄《せきずい》などの中枢神経を冒すことで知られている寄生虫である。
「私は医者じゃないから、このあたりは専門外なんだが、広東住血線虫などは、末梢《まつしよう》神経枝をさかのぼって脊髄に入り、さらに脳幹を上行して頭蓋《ずがい》内に侵入するらしい。脳へ達するルートは、そんなにいくつもないから、おそらく、ブラジル脳線虫も似たような経路を辿るはずだ。だとすれば、感染した人間の髄液から虫体そのものを見つけられるかもしれない」
早苗は、具体的な作業を思い浮かべてみた。16ゲージ以上の太い穿刺《せんし》針で、髄液を採取すれば……。
「でも、タイミングの問題もありますから、実際には難しいと思います」
「だとすると、確定診断は、どうやってするのかな?」
「それはやはり、髄液中の好酸球数を見るしか……」
早苗は、はっとした。なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。好酸球数の増多は、多くの寄生虫感染に共通する兆候ではないか。赤松の搬送された救急病院の医師は、はっきりと、好酸球が増えていると言っていたのに。
「いずれにせよ、広東住血線虫は、中枢神経内で発育後、肺に向かうが、ブラジル脳線虫の場合は、終宿主の脳幹が最終目的地ではないかと思われる」
「どうしてですか?」
依田は、黙って机の上に置いてあった大きな金属製のトレイを取り上げ、早苗の前に置いた。縦に薄くスライスされた脳の試料が、数枚並べられている。白っぽい肌色をした表面は、うっすらと濡《ぬ》れ光っていた。ホルマリン臭が鼻を突く。たった今、隣にあるガラス瓶から出したばかりらしい。渡邊《わたなべ》教授から送られてきた、赤松の脳の試料であることは、説明を要しなかった。