饭饭TXT > 海外名作 > 《天使の囀り(日文版)》作者:[日]贵志佑介/贵志祐介【完结】 > 【书香门第】天使の囀り@txtnovel.com.txt

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作者:日-贵志佑介/贵志祐介 当前章节:15363 字 更新时间:2026-6-16 03:23

「これを見ればわかる」

 早苗はトレイを受け取り、脳の矢状断面を観察した。大脳半球の内側面と脳梁《のうりよう》、脳幹、小脳は、それぞれ色合いが異なっており、はっきりと見分けることができる。依田はピンセットの先で、脳幹の部分を指した。

 目を凝らすと、脳幹の中央部に沿って、破線のような奇妙なパターンが走っているのが、かすかに認められた。トレイを傾けて光の当たる角度を変えると、今度は、はっきりと見えた。長さ四、五ミリの半透明な糸による|縫い目《ステイツチ》のようなものが、規則正しく続いている。|縫い目《ステイツチ》は、断面上に浮かんだり消えたりしており、何枚もの試料を連続して見ると、脳幹から大脳新皮質にかけて、緩やかな三次元曲線を描いているらしいことがわかる。さらに辿っていくと、パターンは一本だけで終わっているのではなく、途中で何本にも複雑に分岐していた。

 早苗は、模様のような線を凝視しているうちに、その|縫い目《ステイツチ》の一つ一つが、脳幹に深く食い込み、半ば周囲の組織と同化しかけている線虫であることに気がついた。

 思わず身震いする。これはいったい、何なの……。

「ここまで整然としているところを見ると、ブラジル脳線虫の遺伝子には、最初から、脳に侵入した後のフォーメーションがプログラムされているとしか思えないだろう?」

 早苗は、それ以上トレイに触れているのもおぞましくなってきて、机に置く。

「でも……何のために?」

「これから先はまだ仮説の段階だが、私より、むしろあなたの専門分野だと思う」

「どういうことですか?」

「数百頭の線虫が、整然と行列を作っているとすれば、もちろん、何らかの意味のある行動に違いない。その場所が人間の脳内であることを考えれば、脳に直接働きかけることによって、人間の行動に影響を及ぼすためではないかという推測が成り立つ」

「脳に? でも、人間の思考に干渉するなんていうことは、どう考えても……」

「思考ではない。ブラジル脳線虫の列が、どこを走っているか、よく見てくれ。一番中心になっているラインは、脳幹にある中脳を起点として、視床下部、大脳辺縁系を経て、前頭連合野と側頭葉にまで達している。つまり、ちょうどA10神経系の上をなぞるように走っているんだ」

 A10神経は、脳内を走る神経系の一つで、快楽神経《ヘドニツク・ナーブ》または恍惚神経《オイホロゲニツク・ナーブ》という別名のとおり、人間の快感を司《つかさど》るとされている。早苗は、昔読んだ医学雑誌の論文を思い出した。A10神経に電極を差し込み、微弱な電流を流すという実験に関するものである。被験者は例外なく、心が解放されたような静かな幸福感を感じたという。特に、側頭葉の内窩《ないか》皮質を刺激した実験では、非常な快感がもたらされたため、被験者が医師に対して恋愛感情を抱いていると錯覚した例が相次いだ。中には、男の子が男性の医師に求愛したケースすらあったという。

「ちょっと、待ってください。つまり、線虫が、快感によって、人間を操作していると言うんですか?」

「そうだ」

 早苗は、何か神聖な物を冒涜《ぼうとく》されたような気がして、依田に対し、怒りに近い感情を抱いた。

「そんな。いくら何でも、信じられません。こんな下等な……単純な生き物が、人間を操るなんて」

「私の仮説は、すべて、あなたから聞いた事実に基づいている。感染していたと思われる人々は、例外なく人格が変わったようになり、ふつうでは考えられないような方法で自殺している。そうだね? それと、今、あなたの目の前にある、脳の中で線虫が作っている規則正しいパターン。この二つを考え合わせた上で、ほかに納得のいくような解釈があれば、聞かせてもらいたい」

「でも、これ[#「これ」に傍点]には、ほとんど知能なんかないんでしょう?」

「まあ、線虫には、シャーレを叩《たた》いたときの『タップ反応』に、慣れによる閾値《いきち》の低下のような現象は見られるが、知能と呼べるほどのものはないな」

「それがどうして、人間を操作したりできるんですか?」

「医者でもその程度の認識とは、嘆かわしいな」

 依田は、呆《あき》れたように言った。

「あなたは、|脳 虫《ブレイン・ワーム》について聞いたことはないかな?」

「いいえ。さっき言われた、広東住血線虫なんかとは違うんですか?」

「|脳 虫《ブレイン・ワーム》は、人間の寄生虫ではない。たとえば、非常に有名な例としては、扁形《へんけい》動物門吸虫綱に属する、|Dicrocoelium《デイクロコエリウム》 |dentriticum《デントリテイクム》 が挙げられる。中間宿主はカタツムリとアリ、終宿主は羊で、必ず、順番にその三者の体内を経なければ、成熟することができない。カタツムリからアリへ移るのは比較的容易だろうが、アリの体から羊に乗り移るというのは、我々が考えても、かなりの難問だ。この吸虫は、アリの脳である食道下神経節に穿孔《せんこう》し、その行動を制御することによって、このネックを見事にクリアーしている」

「どうするんですか?」

「吸虫に感染したアリは、牧草の先端までよじ登ると、大顎《おおあご》で茎に噛《か》みついて、そのまま眠ったようにじっとしている。その結果、羊が牧草を食べるときに、一緒に喰《く》われる可能性が高くなる。吸虫は明らかに、アリの行動を操作しているわけだ。それも、かなり複雑なやり方で。だが、吸虫そのものには、知能など皆無だ。宿主であるアリとは比べようもないし、たぶん、線虫以下だろう」

「でも、アリの脳と、人間の脳とでは、複雑さが違いすぎます」

「脳がいくら大きくなっても、たいした障害にはならない」

 依田は、にべもなかった。

「現実に、哺乳類《ほにゆうるい》の脳が操作を受けている例は、珍しくない。狂犬病に感染した犬は、やたらにさまよい歩くようになり、相手かまわず噛みつこうとするだろう? これは、偶然にしては、狂犬病ウイルスにとって、都合の良すぎる行動だと思わないか?」

「でも、人間では……」

「それも、いくらでも例が挙げられる。あなたは精神科医だから、梅毒に感染した患者の性的行動が変化するのを、聞いたことはあるだろう? 梅毒スピロヘータは、明らかに感染者のリビドーを高め、性行為の回数を増やすよう仕向けている。もっと卑近な例では、風邪を引いた人間が、くしゃみをしてウイルスをまき散らすのも、ウイルスから一種の操作を受けていることになる」

 早苗は考え込んでしまった。

「ウイルスにはもちろん、思考能力も、意思も、意識もない。それどころか、自ら増殖したり、|恒常性を《ホメオスタシス》保ったりする能力さえないという点では、生物というよりは、フロッピーディスクに入ったチェスのプログラムに近い存在かもしれない。それでも、宿主を操るのに、何ら不都合はないんだ。寄生者は、宿主の持っている知的能力を借用すればいい[#「宿主の持っている知的能力を借用すればいい」に傍点]わけなんだから」

 たしかに、寄生者にとっては、宿主の身体や能力のすべては、利用可能な資源だろう。だが、そこに知的な能力まで含めるのは、早苗には抵抗があった。

「でも、だとすると、宿主の知能は、操作するのに障害になるどころか、高ければ高いほどいいんですか?」

「そういうことになるかな。さっき言った脳虫にしても、アリの神経系がもっと原始的だったら、うまく羊に喰われるよう仕向けるのには難渋したはずだ。……その意味では、人間の脳というのは、最新のコンピューターと同じで、最も快適な操作性を持っているのかもしれない」

「でも、それで行くと、寄生者は、あらかじめDNAに、あらゆる事態を想定した指示を書き込んでおかなくてはなりませんよね? 人間の行動は、アリと比べればはるかに複雑ですし、現実に出会う環境も千変万化です。とてつもなく膨大なプログラムが必要になってくるんじゃないでしょうか?」

 依田は、実験机の横にあるパソコンに手を触れた。使い込まれて筐体《きようたい》が黄ばんだマッキントッシュと、比較的新しいウィンドウズ機とが並んでいる。

「あなたは、パソコンでゲームをすることはありますか?」

「いいえ」

「私は、時間のかかる実験の結果を待っているときなど、よく暇つぶしにやる。囲碁のソフトは、まだ笑いを取りに来ている段階だが、将棋では、アマの二、三段は充分ある。これがチェスとなると、コンピューターの誕生と同時に研究が始まっただけあり、すでに洗練の極地に近い。史上最強のチャンピオンと呼ばれたロシアのカスパロフが、IBMのスーパーコンピューター『ディープ・ブルー』に敗れたのは、そんなに前のことじゃないが、現在、ふつうのアマチュアでパソコンに勝てる人間は、ほとんどいないはずだ。私も何度となく市販のソフトに挑戦したんだが、最強のレベルに設定すると、|引き分け《ドロー》に持ち込むことさえできない」

 早苗は、依田が何を言いたいのかわからずに、とまどった。

「ところが、私のチェスのソフトは、悪魔のように巧妙に立ち回って、人間を翻弄《ほんろう》するにもかかわらず、わずか1・5|MB《メガバイト》ほどのサイズしかないんだ」

「……フロッピーディスク一枚分ですか」

「巧妙に設計されたプログラムには、それほどサイズを必要としないということだよ。一方、ブラジル脳線虫の遺伝子《ゲノム》のサイズを調べると、異常なまでに大きいことがわかった。C・エレガンスと比べると十三倍以上にあたる、1300|Mb《メガベース》もある。つまり、最低限必要な体の設計図などの分を差し引いても、1200|Mb《メガベース》以上の余裕があることになる。……念のため言うと、1|Mb《メガベース》は百万塩基対だ。塩基対には四種類あるから、1200|Mb《メガベース》というのは、4の1200|M《メガ》乗の情報量だ。従って、イコール2の2400M乗、2400Mビットで、1バイトは8ビットだから、2400÷8=3300|MB《メガバイト》となる。単純にサイズで比較すると、さっきのチェスのプログラムの二百倍だ。まあ、実際には、DNAでは複数のコドンが同じアミノ酸に対応しているし、イントロンやジャンクDNA、重複配列なども考慮に入れなきゃならないので、同列には比較できないがね」

「そこに、人間を操るためのプログラムが入っていると言うんですか?」

「たとえ、巨大な霊長類の脳を操作するために、どれだけ複雑な戦略が必要であるとしても、それを組み込むだけの余地は充分にあるということだ」

 早苗は、頭がくらくらしてきた。

「……線虫以外の動物のゲノムは、どのくらいの情報量を持っているんですか?」

「大腸菌ゲノムがおよそ4700|Kb《キロベース》だから、今と同様な換算を行うと……だいたい、1・2|MB《メガバイト》かな。これもほぼ、フロッピー一枚分だ。ヒトのゲノムは、大ざっぱに言って大腸菌の千倍程度だから、情報量としては、1|GB《ギガバイト》強というところだろう。つまり、人間の本質とも言うべき情報のすべてが、パソコンのハードディスクに、簡単に入ってしまうわけだ」

 早苗は、あらためて顕微鏡の戴物台の上を見やった。1GBと、300MB……。こんなに小さな線虫が人間の三割もの情報量を必要とするというのは、たしかに異常としか思えない。

「ブラジル脳線虫にこれほど長大なゲノムが必要な理由は、まだ、よくわからない。今言ったようなプログラムが組み込まれているのかもしれないが、それがすべてだとも思えない。ゲノムが大きくなれば、それだけ核や細胞のサイズも必要になるし、放熱の問題も出てくる。いいことばかりではないんだ。まあ、ちっぽけな上に細長い線虫は、出来の悪いパソコンのチップセットみたいに熱暴走する心配はないだろうがね」

 早苗はまだ、半信半疑の状態だった。SFではあるまいし、線虫が人間を操るなどということが、現実にあり得るのだろうか。

「でも、ブラジル脳線虫は、どうやって脳に快感を与えているんですか?」

「それはまだわからない。すべては仮説の段階だ。まあ、ふつうに考えれば、脳内麻薬に似た化学物質を分泌しているか、電気的な刺激を与えているかの、どちらかだろう。ただ、素人《しろうと》目には、これは電気的な回路のように映る」

 依田は、赤松の脳の薄片を指し示した。こうして距離を置いて見ると、|縫い目《ステイツチ》は、単なる脂肪か膠質《にかわしつ》の筋のようにしか見えない。その一方では、人為的にマーキングしたとしか思えないほど規則的なために、整然と並ぶマイナスの符号を連想させる。

 神経系そのものが一種の電気回路であり、神経電流は、神経線維に沿って次々に発生する、『発火』と呼ばれる放電によって伝えられる……。昔、教科書で読んだだけの知識だったが。

「たしか、A10神経は、鞘《さや》のない『無髄神経』だったと思います。つまり、どの場所も、まったく絶縁されてないんです。したがって、ブラジル脳線虫の側からすると、有髄神経の場合のように髄鞘《ずいしよう》の切れ目を探さないですむだけ、取り付きやすいかもしれません」

 依田はうなずき、卓上にあったメモ帳を引き寄せると、乱暴に線虫の神経系の模式図らしきものを書き殴った。

「線虫の神経系は、ヒトと比べれば非常にシンプルだ。消化管を取り巻いているのが、非常に原始的な脳である神経環で、あとは、体に沿って一本の腹部神経索が伸びているだけだ。脳に侵入したブラジル脳線虫は、もはや運動する必要はないから、自前の神経系は用済みになる。いわば廃物利用で、自ら神経線維を異常興奮させて『発火』を起こし、体の両端にある口針と感覚毛を通じて、A10神経系に電気的な刺激を伝えるのかもしれない。生きた発電器兼導線というわけだ。おそらく、一頭あたりの発電能力はきわめて微小なんだろうが、こいつらは全部が直列につながっている。数百頭が同調《シンクロ》してパルスを出せば、もともと電流に敏感なA10神経を操作することくらいは、可能かもしれない」

 依田は、早苗に向き直った。

「もしそうだとすると、あなたの言っていた『天使の羽音』や『囀《さえず》り』という幻聴には、説明がつくかな?」

「そうですね。もちろん、脳を直接刺激するのであれば、どんなことでも可能なんでしょうが……」

 早苗は、少し目を閉じて考えた。

「ブラジル脳線虫が広東《カントン》住血線虫と同じように脳へ侵入すると考えると、もしかすると、『羽音』と『囀り』は、別物じゃないかという気がしてきました。聞こえて来る時期も違いますし、単なる物理的な音である『羽音』と、言葉に変化して聞こえたりする『囀り』とでは、性格が異なるように思えるんです」

「ほう。どういうことかな?」

 すべては、現時点では、単なる思いつきと憶測の域を出るものではない。だが、依田とのブレイン・ストーミングは、早苗のインスピレーションを強く刺激した。

「つまり、『天使の羽音』という、鳥の羽搏《はばた》きを思わせるような音は、虫が脳幹へ到達する前に、小脳を経由して、内耳の迷路《ラビリンス》に入って起こすんじゃないでしょうか。それに対して、『天使の囀り』の方は、脳幹でのフォーメーションがある程度完成してから、聴覚情報を伝える中脳の蝸牛《かぎゆう》神経核を刺激した結果とも考えられます。精神分裂病の幻聴と妙に似た感じなのは、線虫が、言語を司《つかさど》る前頭葉の補足運動野にも影響を与えているせいかもしれません」

「だとすると、問題は、何のためにそんな幻聴を起こすのかだな」

 依田が、機嫌のよい猫のように目を細めながら言った。

「何のため?」

「ブラジル脳線虫が、無意味な幻聴を聞かせているとは思えない。特に、わざわざ内耳にまで寄り道しているとすれば。そうすることによって、必ず、何らかの利益を得ているはずなんだ」

 利益……。早苗は、そのときになって、まだ肝心なことを聞いていないのに気がついた。

「依田さん。ブラジル脳線虫は、人間を操って、いったい何をさせようとしている[#「何をさせようとしている」に傍点]んですか?」

 ファミリーレストラン、『ヴェルダーデ』は、家族連れやカップル、背広姿のサラリーマンなどで賑《にぎ》わっていた。

 メニューを見ながら、早苗は溜《た》め息をついた。和洋中エスニックと、節操なく何でもあるのだが、注文したいものは、ほとんど見つからなかった。大きな肉片のようなものは、とても喉《のど》を通りそうになかったし、麺類《めんるい》やパスタなどの細長いものも、どうしても嫌な連想が働くから、パスである。寿司などの生魚も、ふだんは好物だが、今日に限っては食べる気が起きなかった。

 情緒的には、食欲はすっかり失《う》せているのに、頭を酷使したせいか、切迫した飢餓感だけはあるという妙な状態だった。いつもここで夕食を済ませるのだという依田の誘いで、大学のすぐそばにあるファミリーレストランまでついてきたのだが、何一つ、食べたいものが思い浮かばない。端末を持ったウェイトレスがやってきた。しかたがないので、クロワッサンのサンドイッチとコーンポタージュを頼む。

「そんなものでいいんですか?」

 依田は、意外そうに眉《まゆ》を上げると、ワインと三百グラムのガーリック・ステーキを注文し、「レアで」と付け加えた。

 このくらいの神経でなければ、研究者は務まらないのかもしれない。早苗は、あらためて依田の顔を見た。

 あらためて、不思議に思う。今回のように、これまで経験したことのないような恐ろしい事件が次々と出来《しゆつたい》してきた時に、自分が、初めて何もかも打ち明けてパートナーに選んだのは、信頼している先輩の土肥美智子でもなく、大新聞という強力なバックを持つ福家記者でもなく、この、一見無愛想で取っつきにくそうな、一匹狼の研究者だった。理由は、自分でもわからない。

 依田に会うのは今日で二回目だが、非常に頭の切れる人間だという印象は変わらなかった。高梨より、ずっと男性的な感じだが、シニカルなユーモアのセンスには、共通するものがあるかもしれない。

 依田には、ほかにも、高梨を思い起こさせるものがある。繊細でいて、力強そうな指も、その一つだ。それから……。

 いつのまにか、依田を高梨と比較していることに気がついて、早苗は驚いた。

「さっきの質問の答えなんだが、脳に侵入する線虫は、いわば特攻隊だ」

 依田が、急に話し始めた。特に声をひそめるわけでもない。

「さっきも見たとおり、彼らは、脳の神経系の一部に同化して、そのまま死を迎えることになる。脳の膠《グリア》細胞を食べてエネルギーにするかもしれないが、自ら繁殖することはできない。だが、その代わりに、彼らのクローンたちが、体の各部分で発育する。あなたは、芽殖孤虫《がしよくこちゆう》という寄生虫を知ってますか?」

「いいえ」

 早苗は首を振った。そのとき、依田と高梨の、もう一つの共通点がわかった。あの目だ。持ち主の旺盛《おうせい》な精神的活動を裏付けるように、絶えず輝きが変化する、薄茶色の目。

「いまだに感染経路も不明なら、分類学上の位置づけすらわかっていない、謎《なぞ》の寄生虫だ。人体内では薄い嚢《ふくろ》に包まれているが、大きさが一ミリから十センチまでと、まちまちなだけでなく、形も、一頭一頭|出鱈目《でたらめ》に作ったとしか思えないくらい、滅茶苦茶だ。ずんぐりした芋虫のようなものや、発芽した球根のようなもの、細長い紐《ひも》状のもの、無数の突起を伸ばしているもの……。増殖するときは、それぞれの虫体から芽が出て、その先に新しい嚢ができる。そうして、芽殖孤虫は、皮膚、筋肉、肺、腸、腎臓、脳など、あらゆる場所で際限なく増殖していく。薬は効かないし、数が多すぎるために、外科的に摘出することも不可能だ。その結果、感染者の全身の組織は虫だらけになって……」

「依田さん」

 早苗は、あわてて小声で依田を制した。依田の後ろの席にいるカップルが、こちらを睨《にら》んでいた。

「レストランでする話じゃないと……」

「そうか。食事中の人もいるんだな」

 依田は、悪びれた様子もなかった。

 しばらく、沈黙が続く。『ヴェルダーデ』の店内は禁煙のため、依田は、手持ち無沙汰《ぶさた》で落ち着かないようだった。

 早苗は、何か無難な話題を見つけようとした。

「いつも、ここでお食事なさってるんですか?」

「週に二日くらいかな。実験で遅くなるときだけだが」

「奥様は、何もおっしゃいません?」

「妻は、亡くなった」

 依田の表情が暗転し、早苗は質問したことを後悔した。

「もう、五年になるかな。……交通事故だった」

「すみません。立ち入ったことをお聞きして」

「いや」

 そういったきり、依田は黙り込んだ。そのとき、ちょうど料理が運ばれてきた。

「さあ。食べましょう。腹が減っていては、頭も働かない」

 依田は強いて明るい声を出すと、ステーキにナイフを入れ、黙々と食べ始めた。

 強気で冷静な科学者の仮面《ペルソナ》の下で、依田は、真っ黒な絶望と虚無とを引きずっていた。胸が痛むような気がする。

 早苗は、サンドイッチを食べながら、どうにかして、彼の助けになれないだろうかと考えていた。

 食事を終えて大学に戻ると、午後八時過ぎだった。理科系の学部や大学院の入っている建物には、まだ、皓々《こうこう》と電気がついていた。文系の学部の建物の大半が、早くも真っ暗になっているのとは好対照である。

 農学部棟の生物化学工学のセクションには、学生や院生らしい、Tシャツにジーンズというラフな格好の若者が何人もいた。夕方来たときより、むしろその数は増えているような気がする。

 二人は、依田の研究室のある二階に上るのではなく、地階へと降りていった。

『微生物培養室』という札のかかっている部屋に入る。依田は部屋の電気をつけると、早苗を椅子に座らせた。

「私の研究室は機材が充分じゃないんで、時々こちらのを拝借させてもらってる」

 室内は薄緑色で統一され、部屋の中央に対面式のクリーンベンチが置かれているほか、高圧滅菌器、乾熱滅菌器、遮蔽《しやへい》冷蔵庫などがぎっしりと壁際を埋めている。作業台の上にも、細胞培養のための回転ドラムや震盪《しんとう》装置、倒立式位相差顕微鏡などがずらりと並んでいた。たしかに、依田の研究室と比べると設備は充実しているようだった。

「面白いものを見せてあげよう」

 依田は、炭酸ガス孵卵機《インキユベータ》の中から、底の尖《とが》った円筒形の培養瓶を取り出した。瓶の内側は、白い網目模様で覆われている。

「何ですか?」

 培養瓶を受け取りながら、早苗は訊《たず》ねた。依田は、にやにや笑って答えない。妙に幾何学的な模様に顔を近づけて眺め、早苗は顔から血の気が引くような感じがした。白い模様は、ガラスの壁面に集まった無数の線虫が形成しているのだ。一頭一頭は透明に近いのだが、大量に寄り集まると白っぽく見える。

「線虫類にはなぜか共通して、奇妙な性質がある。フラスコや培養瓶の中で大量に飼育していると、いつのまにか、ガラスの壁面の線虫がよじ登ってきて、こういう独特の網目模様を作るんだ。模様は、線虫の種類によってそれぞれ異なっている。ブラジル脳線虫の作る模様は、なかなか複雑で優雅だと思わないか?」

「これが全部、ブラジル脳線虫……? 短時間に、こんなに大量に培養するのに成功したんですか?」

「そう。とは言っても、まだ継代培養まで成功したわけじゃない。渡邊先生から送られてきた脳以外の組織のサンプルから、大量の虫卵が見つかったんだ」

 ファミリーレストランで聞いた芽殖孤虫の話を思い出して、早苗は、背筋がぞくりとした。

「おかげで、ブラジル脳線虫の行動をいろいろ観察することができた。乾燥した環境下に置いたり強い紫外線を照射したりすると、寄り集まってボール状の塊になる。これは、他の種類の線虫にもよく見られる、|集 合《アグリゲーシヨン》と呼ばれる防御行動だ。また、密集しながら、より好適な環境の場所へ移動したりもする。こちらは|群 遊《スウオーミング》という。それから、これもまた、スウォーミングの変形だ」

 依田は、今度は直径が十センチくらいある大きなシャーレを出してきた。

「運がいいな。ちょうど今、活発に動いているところだ」

 シャーレの中には、百頭くらいのブラジル脳線虫が入れられていた。だが、培養瓶の中の仲間たちと違うところは、そのすべてが直立し、ゆらゆらと揺れているところだった。

「尾部で立ち、頭を上にして群集しているだろう? 突起物などがあれば、その上に集まってきて、同じ行動を取る。これは、動物寄生性の線虫だけに顕著に見られる行動だ。こうやって、宿主に出会い、寄生する機会を窺《うかが》っているんだ」

 早苗は、立ち上がって揺れているブラジル脳線虫に目を近づけて見ているうちに、彼らもまた、自分を認識しているような気がし始めた。線虫と人間とが構造的には意外に近いことを知ったせいか、直立しているというだけで、はっきりとした意思を持った存在のように感じられてならなかった。

 今、彼らと自分とを隔てているのは、ガラスの蓋《ふた》一枚にすぎない。早苗は、まるで線虫を刺激するのを恐れるように、そっとシャーレを実験台に置いた。

「……これが、ブラジル脳線虫が宿主に感染する方法なんですか?」

 早苗は訊ねた。もしそうだとしたら、たとえば野原を歩いているときなど踝《くるぶし》のあたりにちくりとした痛みを感じ、気づかないうちにブラジル脳線虫の宿主になっているなどということがあり得るのだろうか。

「いや。そうじゃない。寄生性生物は、機会主義者《オポチユニスト》だ。体外へ放り出されれば、一応、こうして寄生のチャンスを窺う。だが、それが成功する見込みは、万に一つもない。小さな生き物たちが生存競争を行っている環境というものは、我々には想像がつかないくらい厳しい。たいていは、目指す宿主を見つける前に他の生物に捕食されてしまうだろうし、信じられないような幸運で巡り合えたとしても、その体内にうまく侵入できる確率は、ほとんどゼロだ。実際に実験を行ってみた。小さな箱にヌードマウスを入れ、十頭ほどのブラジル脳線虫と一緒にしてみたんだ。彼らは侵入を試みていたようだったが、結果、ヌードマウスの皮膚を突き破るのに成功したブラジル脳線虫は、一頭もいなかった。これが、固くて毛で覆われたサルの皮膚では、さらに難しいだろう」

「でも、それじゃあ、いくら機会主義者《オポチユニスト》でも無意味じゃないですか?」

「もう一つ、別の実験もやってみた。カニクイザルを動けないようにストラップで固定して、皮膚に傷を付け、そこにブラジル脳線虫をのせてみた。その場合は、見事に体内に潜り込んだよ。それから、眼球や内耳、粘膜などからも侵入する能力があることがわかった。つまり、交尾時などに、個体間を移動する可能性はあるわけだ」

「だとすると、ブラジル脳線虫症は、今後、性病《STD》として扱うべきなんでしょうか?」

 早苗は押し殺した声で訊ねた。沸き上がってくるパニックに圧倒されそうになる。高梨とは、アマゾンから帰国した直後、一度だけベッドを共にしているのだ。

「まあ、可能性はあるという程度だな。特に、コンドームをつけている場合は、感染するリスクは、エイズよりはるかに低いだろう」

「だったら、彼らは本来、どうやって宿主の体内に入るんですか?」

 依田の答えに、早苗は安堵《あんど》した。それに、もし自分が感染していたとすれば、今ごろはもう、何らかの症状が出ているはずだろう。

「あなたにも、もう見当がついているだろう。高梨氏、赤松氏、それにおそらく白井女史は、同時期にアマゾンで感染している。しかも、ずっと行動を共にしていた蜷川《にながわ》、森の両氏も行方《ゆくえ》不明だという。全員が一時に感染したとすれば、食べ物を通じてとしか考えられない」

「じゃあ、やっぱり、呪《のろ》われた沢で食べたっていうサルが……」

「ウアカリだな。私も、その可能性が最も高いと思う」

 依田は、ブラジル脳線虫が網目模様を描いている培養瓶を持ち上げて、無表情に眺めた。

「別の理由からも、ブラジル脳線虫の本来の終宿主は、ウアカリなどのオマキザルの仲間だと考えられる。おそらく、そこへ至るまでに複数の中間宿主が存在するはずだ。霊長類学をやってる友人に聞いてみたんだが、ウアカリは、基本的には草食だが、昆虫なども食べるそうだ」

「その、別の理由というのは、何ですか?」

「脳だ。ブラジル脳線虫がヒトに感染したのは偶然だろうが、脳幹に辿《たど》り着いて、あれほど完璧《かんぺき》なフォーメーションを組むことができたところを見ると、本来の宿主も、かなり大きな脳を持った生き物であるはずだ。オマキザルは、一説では、チンパンジーに匹敵する知能を持つらしい。南米には、他に、そんな生物はいない」

 早苗は、食事に出る前にした質問の答えを、まだ貰《もら》っていないことを思い出した。

「ブラジル脳線虫は、サルに、何をさせるんですか?」

|「《ブ》|脳 虫《ブレイン・ワーム》アリにすることと同じだ。捕食者に喰《く》われるよう仕向けるんだよ」

 依田は、こともなげに答えた。早苗は、背筋が寒くなった。

「ブラジル脳線虫は、ウアカリなどのサルの体内に侵入すると、脳幹を支配して、快感を与えることによってその行動を操作する。さっき言いかけたが、脳へ侵入した個体は、子孫を残すことはできない。だが、その代わりに、彼らと一卵性のクローンたちが、身体の各部に広がって産卵するんだろう。その卵は、脳を操っている線虫にとっても、直接の子孫と同じことになる」

「とても、信じられません……」

 理論的にはあり得ても、とても現実の話とは思えない。過酷な世界を生きる微小生物の論理が、人類と最も近い生き物であるサルにまで及んでいるというのは。まるで、街角でゴキブリが犬や猫を捕らえて、むしゃむしゃ食べているのを目撃したような気分だった。

「あなたからファックスで送ってもらった、カプランという学者の手記も、裏付けになってるんだよ」

 最愛の妻を殺害し、自らも壮絶な焼身自殺を遂げたカプラン……。彼の悲痛な手記のことを思い出したとき、早苗の心に鈍痛のようなものが走った。高梨を失った心の痛手が、いまだに癒《い》えていないことを自覚する。

「『隠者《ハーミツト》』と呼ばれる個体に関して記述した部分だ。ブラジル脳線虫の感染初期には、宿主の食欲や性欲が異常に増進するようだ。これも、操作によるものと考えて間違いないだろう。食欲は、線虫のために充分な養分を得るためだろうし、群れの中で乱交的行動に及ぼうとするのは、性行為による感染の機会を増やそうとしているのだと思う。こうした個体を群れから放逐するのは、ウアカリの側が、ブラジル脳線虫の感染を避けるような対抗進化を遂げたからだろう。そして、最終的には、ブラジル脳線虫は、ウアカリにオウギワシやジャガーなどの捕食者に食われるよう操作する。そうすれば、ウアカリの全身の組織に産みつけられた卵は、捕食者の体内で孵化《ふか》し、糞《ふん》を経由して、次の宿主へと向かうことができる」

 早苗の脳裏には、わずか数ミリの寄生虫に操作を受け、自ら天敵に喰われてしまう、哀れな猿のイメージが浮かんだ。

「……じゃあ、人間が感染した場合は、どうなるんですか?」

「さっき、あなたが訊ねた質問だな。ブラジル脳線虫がウアカリに感染した場合のことも推論でしかないが、その答えは、さらに推論に推論を重ねたものになる。だが、少なくとも、このことだけは言えると思う。ブラジル脳線虫の側は、ヒトに感染した場合も、ウアカリに対するのと同じ指令を発しているはずだ。つまり、『捕食者に喰われろ』ということだ」

 サファリパークでトラに近づいていく赤松の姿が、早苗の頭に浮かんだ。依田の顔を見ると、彼も同じことを考えているらしい。

「……でも、たしかに赤松さんのことは、それで説明が付くかもしれませんが、高梨さんは睡眠薬自殺です。それに、白井さんの心中事件でも、どうして子供を道連れにしなければならなかったのかが、わかりません」

「そのあたりは、私よりも、あなたのような心の専門家の方が、的確な推理ができるんじゃないかな。ストレートに考えれば、感染者は、捕食者に喰われるのと類似した形で自殺を図ろうとするんだと思われる。だが、人間の心はサルよりはるかに複雑だ。ブラジル脳線虫の指令が、人間の心にあるさまざまな抑圧やコンプレックスにより、デフォルメされて現れるのかもしれない。実際、我々の周囲には、人間を捕食できるような生き物は、めったに見られない。したがって、ブラジル脳線虫の最終指令は、彼らの本来の『意図』とは違った形になることが多いだろうが、その前の段階の、食欲や性欲の増進については、ウアカリの場合とほとんど変わらないはずだ」

 早苗は、目を伏せた。依田が高梨のことを指して言っているのはわかっていた。だが、高梨が、あんなちっぽけな寄生虫に脳を支配されて、死ななければならなかったと考えるのは、とても耐え難かった。

「……ブラジル脳線虫が感染するのに、他のルートは、考えられないんでしょうか?」

「どういうことかな?」

 早苗は、依田に、メッキ工場で自殺したという青年のことを話した。手段の異様さにおいて、高梨らの一連の自殺と共通するものがあるような気がしてならない。万が一、それがブラジル脳線虫によるものだとすれば、二次感染が起きていることになる。

 依田は、腕を組んで考え込んだ。

「もう一つ、あなたに見せたいものがある」

 ややあって、依田はそう言うと、立ち上がって部屋を出ていった。早苗も、あわてて後に続いた。

 暗い廊下を歩いて、依田は、『小動物飼育室』という札のかかったドアを開けた。

 中は、空調の柔らかい音が響く十畳くらいの部屋だった。今まで見たどの部屋よりも、メタリックで無機質な感じがする。よく見ると、部屋のほとんどが銀色のステンレス板で覆われているのだ。右側の壁は全面が作りつけの飼育棚だった。棚の高さは、自由に調節できるようになっているようだ。

 一番手前に並んでいたのは、ウサギだった。ブロイラーのように、ぶくぶくに肥満して、体とほとんど変わらない大きさのケージに押し込められている。体のあちこちに、抜け毛が汚らしくまとわりついていた。早苗が近づいても、まったく生き物らしい反応を示さない。

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