早苗は、ウサギの目を見た。生のしるしである対光反射はあった。だが、そこからは、知性と認識の光がすっぽりと欠落している。赤く血液の透けた目は、ただ照明を反射してぎらぎらと輝いているだけだ。たとえ視力があったとしても、その目は何も見ていなかった。
発狂している……。早苗はそう確信した。やむを得ないことだとはわかっていても、動物実験に対するほとんど生理的な反発で、息苦しいような気分になった。
「あなたに見せたいのは、ウサギじゃない。これだ」
依田が、大声で言った。早苗のショックは、彼には全然伝わっていないようだ。依田の指の先には、大きめのケージに入ったサルがいた。落ち着かずに、そわそわとケージの中を歩き回っている。早苗の顔を見ると、歯を剥《む》き出して泣きっ面のような表情になった。体毛が灰色で尻尾《しつぽ》が長いことを除けば、ニホンザルによく似ている。
「カニクイザルだ。さっき言った、ブラジル脳線虫の感染実験をした」
早苗は、サルを実験に使う場合、最近では、かなり面倒な手続きが必要だと聞いたことがあった。「実験の許可は、どういう名目で取ったんですか?」
「取っていない」
「え。でも……」
「あなたが言ってるのは、実験動物として霊長類を用いる際の倫理規定のことだろう。アメリカの学会が勝手に定めたものだが、たしかに、事実上の国際的な規準になっている。だが、今の段階でブラジル脳線虫のことを大学に報告するわけにはいかない。だから、このサルは、私がペットショップから、ポケットマネーで購入した。ブラジル脳線虫を継代培養するには、どうしても必要だったからだ」
「でも、ペット用のサルじゃ、信頼の置けるデータは取れないんじゃないですか?」
実験用の動物には、何代にもわたって厳密な飼育条件が必要とされる。依田は、うなずいた。
「いずれは、きちんとした専門の機関に、実験を委託しようと思っているんだが」
カニクイザルが、早苗の前で頭を低くした。何気なく見ていて、彼女はどきりとした。サルの頭部に、うねうねと蛇行する白い筋が何本も走っているのが、毛皮を通してうっすらと透けて見えたのだ。
「爬行疹《はこうしん》だ。頭頂から、放射状に伸びている」
依田が、自分の頭に線を描くような仕草をした。早苗は、高梨らが殺したウアカリも、頭部に傷跡のような筋があったことを思い出した。
「脳へ侵入しようとして、誤って皮下に出たんでしょうか?」
「いや。硬膜と頭蓋骨《ずがいこつ》を突き抜けて外へ出るのは無理だ。おそらく、それとは別の経路を取った線虫だろう。これを見ていると、まるで、骨の下に脳があるのを知っていて、懸命に入り口を探した跡のような感じに見えないか?」
「ええ。それにもう一つ、別なものにも見えます」
「何?」
「髪の毛が蛇の、メドゥーサの首に」
依田は、口をぽかんと開けた。
「いやいや。驚いたな。その言葉が出てくるとは。ユングの言う共時性《シンクロニシテイ》というのは、実際にあるのかな?」
彼は、顕微鏡に試験管をセットした。ここにあるのは、同じ倒立式の位相差顕微鏡でも、『微生物培養室』にあったのとは違って、簡易型らしい。写真撮影などには向かないが、取り扱いが容易で、直接、試験管やシャーレの中を見ることができる。
「今度は、こっちを見てごらん」
早苗は、言われるままに接眼レンズに目を近づけた。
視界の中央に、ぼやけたボール状の物体が現れた。微動ハンドルを回して調節すると、くっきりと焦点を結ぶ。
それは、液体の中に浮遊している、たくさんの線虫が寄り集まってできた球体だった。
「このカニクイザルの血液中からは、こんなふうに凝集した線虫塊が、多数見つかっている。どれもブラジル脳線虫のI期幼虫で、成虫と比べるとはるかに小さく、400から800|μ m《マイクロメーター》ほどしかない」
「いったい何のために、こんなふうにボールみたいになってるんですか?」
「それも推測するしかないが、こういう行動を取る線虫は、他にも存在する。バンクロフト糸状虫などの幼虫であるミクロフィラリアが、血管内の流れの中を移動する時に、五十頭から百五十頭ほどが、血液中の繊維素などを中心にして尾の先端部でつながりあい、こういう球形の塊を作ることが知られている。形態がそれに酷似しているところを見ると、おそらくブラジル脳線虫の場合も、血流に乗ってすばやく体内を移動するためだろう」
依田は言葉を切って、含み笑いを漏らした。
「さっき、シンクロニシティと言ったのは、このボール状の物体に付けられた名前のことだ。ミクロフィラリアの場合は、"|Medusa head formation《メドウーサ ヘツド フオーメーシヨン》" と呼ばれているんだよ」
『メドゥーサ ヘッド フォーメーション』……。『メドゥーサの首隊形』とでも訳すのだろうか。早苗は、顕微鏡から目を離すことができなかった。線虫が、ボールのような塊から鎌首《かまくび》をもたげて、ゆらゆらと蠢《うごめ》いている様は、まさに怪物メドゥーサを彷彿《ほうふつ》とさせた。
そのとき、早苗は、別のことにも気がついた。カプランの手記にあった|復讐の女神《エウメニデス》も、メドゥーサと同じく、頭髪が蛇ではないか。もしかすると、カプランは、これと同じものを見たのだろうか。
「この、『メドゥーサの首』を調べていて、一つ実験に使う上での大きなメリットがあることがわかった。ブラジル脳線虫の成虫を、C エレガンスの幼虫と同じ手順を用いて凍結保存できないかと試みたんだが、残念ながら、解凍してみると、すべて死んでしまっていた。ところが、『メドゥーサの首』を、終濃度十五パーセントのグリセリン下でゆっくりと凍らせると、マイナス七十度で半永久的に保存できることがわかった。解凍後のⅠ期幼虫は、どれも以前と同じように活発に動き始めた」
依田の口調は、まるで、ブラジル脳線虫を愛《いと》おしんでいるかのようだった。早苗はふと、依田があげた寄生虫の名前に引っかかるものを感じた。
「さっき "Medusa head formation" を作る線虫の例として、バンクロフト糸状虫のミクロフィラリアと言われましたけど……」
「ああ。有名な象皮病の病原体だ。あなたの方が詳しいかもしれないが」
象皮病は、中南米、アフリカ、東南アジアから南太平洋など、世界中に蔓延《まんえん》している熱帯病だった。感染すると下肢や陰嚢《いんのう》などの皮膚が極端に腫脹《しゆちよう》し、まるで象のように見えることからこの名がある。日本でもかつては、九州、四国、南西諸島などに普通に見られ、西郷隆盛がこの病に悩んでいたというのは有名な話である。
「バンクロフト糸状虫は、アカイエカなどの蚊によって媒介されます」
「うん。ミクロフィラリアが『メドゥーサの首』を作るのは、血流に乗るのと同時に、蚊などの吸血昆虫に吸い込まれるのに都合がいいためとも考えられる。まあ、宝くじに当たるような確率だが、バンクロフト糸状虫は一日に数万個を産卵するから、それでも充分|伝播《でんぱ》できるんだろう」
「依田さん。もし、ブラジル脳線虫も蚊を通じて感染するのなら、またたくまに日本中に広がってしまいます!」
依田の態度があまりにものんびりとしているために、早苗は思わず厳しい声になった。
「……そうだな。まあ、バンクロフト糸状虫ほど数が多くないことと、ブラジル脳線虫のミクロフィラリアや『メドゥーサの首』は、バンクロフト糸状虫と比べるとずっと大きいから、うまく蚊の吻《ふん》を通り抜けられるかという問題はあるが、その可能性は、完全には否定できないな」
「だったら、すぐにでも、保健所を通じて警告を発するべきじゃないですか?」
「それはできない」
「なぜですか?」
「まだ、蚊によって感染するという、確たる証拠はないからだ」
「でも……」
「あなたもよく知っているはずだ。日本の学会では、いったん権威者が断を下したことは、よほどのことがないと覆せない」
それが真実であることは、薬害エイズ事件である教授が果たした役割や、日本の法医学の権威だった人物によって重大事件の鑑定が歪《ゆが》められた例などを見れば、明らかだった。
早苗も名前を知っている医学界の泰斗が、公式に『危険はない』としたのである。よほどはっきりとした証拠がないかぎり、厚生省のような役所が、彼の面子《メンツ》を潰《つぶ》すような形で、方針を変えるとは思えなかった。
だとすれば、残された道はただ一つだった。依田と協力し、一日も早くブラジル脳線虫の本当の感染機序を確かめるしかない。
早苗は、落ち着かずに動き回っている、頭に白い爬行疹のあるカニクイザルを見た。
脳幹にまで侵入されてしまえば、現代医学では、もはや打つ手はない。
自殺を防ぐために拘束衣を着せ、独房にでも監禁する以外には。
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十三章 歯と爪
八月も終わりに近づいていた。日本列島全体の気温は、平年と比べてさほど高めではなかったが、ビルや工場、車などから生み出される廃熱の坩堝《るつぼ》である首都圏は、衛星からの赤外線写真でもひときわ輝く、巨大な|熱の島《ヒート・アイランド》と化していた。
ホスピスのエアコンも朝からフル稼働していたのだが、少しも涼しくならない。早苗は、うんざりして窓の外を眺めた。見渡す限りのビルが、すべてエアコンのスイッチを最強に入れっぱなしなのは間違いない。その電力需要の総計たるや莫大《ばくだい》なものだろう。そのために、政府や電力会社は、危険を覚悟で原発を増設してきたのだろうが、結果として、その電力で、いっせいに冷房をかけて、外気温の上昇に拍車をかけるという悪循環に陥っている。
毎年、夏になると思うことだったが、年を追うごとに、温暖化が加速しているような気がする。日本は、今や、完全に亜熱帯化したと言ってもいいのかもしれない。かつては、日本の西南部にはマラリアが普通に見られたらしい。やがて再汚染が起きるのは、時間の問題ではないだろうか。しかも、今度は東京を中心にした人口密集地に、広い範囲にわたって……。
電話の呼び出し音が鳴った。
「もしもし」
「どうも。福家《ふくや》です」
受話器から聞こえてきた声に、早苗は妙な懐かしさを感じた。
「こんにちは。北島です。その後、何かわかりましたか?」
「いや。赤松さんの件は、あいかわらず進展ないすね。今日は別件……ていうか、ひょっとすると、関連があるかもしれないんですが」
福家は、耳障りな声で咳払《せきばら》いした。
「最近、妙な自殺が続いてることに、関連してるんですが」
早苗は唇をなめてから、慎重に答えた。
「妙な自殺って言いますと?」
「今朝の新聞、ご覧になってないですかねえ? 昨日の晩、ナイフで目を刺して死んだ女性がいたんですが。各紙とも、かなり大きく扱ってたはずですけど」
「ちょっと、待ってください」
早苗は、カバンから新聞を取りだした。今朝は出勤前に枯れそうになっていたベゴニアの世話をしていて忙しかったので、読んでいる暇がなかった。あった。すばやく記事に目を走らせる。
亡くなったのは、東京都北区の主婦、吉原逸子さん(43)。昨晩遅く、果物ナイフで自分の右目を突いて自殺。傷は、脳にまで達する深いもの。部屋の内部には、無数の薔薇《ばら》の花が飾ってあったほか、なぜか、ナイフやフォークなどの鋭い先端を持つものばかり百個以上が、椅子《いす》の背やドアノブなどにくくりつけてあった。逸子さんは、最近、精神的に極度に不安定になっており、夫と子供は、逸子さん一人を残して一時的に実家に戻っていたという……。
この暑さにもかかわらず、早苗は、うそ寒いような感覚に襲われた。深呼吸してから、もう一度受話器を取り上げる。
「……もしもし。記事、見ました」
「その件と、それから、こないだ江戸川区のメッキ工場で、青年が顔を劇薬に浸けて死んだ一件では、おたくの土肥先生が、アドバイザーとして警視庁に呼ばれたそうですよね?」
さすがに新聞記者だと早苗は思った。
「ええ。そのことは聞いてます」
「どちらも、理解に苦しむような方法を採っているっていう点では、赤松さんや白井さん、高梨さんたちの自殺と共通するものがあると思うんすよ。妙な話ですが、高梨さんの小説、ありましたよね? 私、あれを思い出しましたよ。『|Sine Die《サイニーダイイー》』でしたっけ、自殺マニアの手記みたいな感じの話。……まあ、それはともかく、今朝早く、また一件ありましてね」
心臓が跳ね上がった。
「誰なんですか?」
「いや。それが、まだ身元不明らしいんですよ。若い女性なんですがね。十代後半から、二十代前半くらいの。もしかしてと思って電話したんですが、心当たり、ありませんか?」
「いいえ」
年齢からすると、アマゾン探検隊のメンバーではないだろうし、それ以外に、特に思い当たる人間はいなかった。だが、もし、ブラジル脳線虫が、蚊などの吸血昆虫によって媒介されるとしたら……。早苗は、唾《つば》を飲み込んだ。
「ほかに、何か特徴はありますか?」
「そうすね。……歯が悪かったことくらいかな」
「悪いというと?」
「歯が全部、溶けたようにぼろぼろになってたんですよ。特に、前歯なんかが。よっぽど、甘いものが好きだったんですかね」
早苗は、はっとした。そう聞いて、一人、思い出す少女がいたのだ。だが、病院へ来ていた時期がまったく違うし、高梨と接点があったとは思えない。別人の可能性が高いが、違っていたとしても、身元を特定する手がかりにはなるかもしれない。
「それで、どんな方法で自殺したんですか?」
「入水《じゆすい》自殺です。それがですね、どうにも不可解なんですよ。場所は、千葉県の手賀沼《てがぬま》なんですが……」
聞いた限りでは、自殺の方法として特に奇妙だとも思えない。だが、早苗は、すでに決断していた。
「私、ご遺体を見せていただきたいんですが、どちらへ伺えばいいですか?」
「え? そうですか。何か、心当たりがあったんすね?」
「それはまだ、わかりませんけど」
「じゃあ、案内しますよ。私、今、現地に来てますので。上野から常磐線に乗って我孫子《あびこ》で成田線に乗り換え東我孫子の駅まで来てもらえますか? そこから電話もらえば、すぐ迎えに行きます」
早苗は、福家の携帯電話の番号をメモした。
受話器を置いたときには、早苗はすでに、ホスピスを抜け出す口実について考えを巡らせていた。
早苗は、手賀沼を一目見たとき、ここで入水自殺をするのが不可解だと福家が言っていた理由を、すぐに理解した。
水面は、まるで、べっとりとした緑色のペンキを流したようだった。その周囲に、油膜のような筋が、幾重にも取り巻いている。あたりには、不快な悪臭が漂っていた。
「ひどいもんでしょう。今年は例年に比べても、特にひどい。水温が高かったせいすかね」
「これって、何なんですか? ヘドロ?」
早苗は、鼻をつまみながら訊《たず》ねた。
「アオコですよ。別名を『水の華』とも言いますが」
「アオコ?」
「藍藻《らんそう》の一種。ミクロキスチスとか、アナベナ、アナベノップシスなんかですね」
福家は、歩きながら手帳を開いて、舌を噛《か》みそうな名前をすらすらと口にした。
「以前に、水質汚染の特集で記事にしたことがありましてね。私が取材したのは琵琶湖《びわこ》だったんですが、一九八三年に南湖で最初にアオコが観察されて以来、比較的きれいだと言われていた北湖にも広がり、以来、毎年発生を繰り返してます。同じ滋賀県では、かつては透明度の高い水で『鏡湖』と呼ばれ、羽衣伝説でも有名な余呉湖でも、アオコやカンテンコケムシの大量発生を見ています。行政は躍起になって、一台数億円もするエアーポンプを使って水に酸素を吹き込んだりしてますが、水質は、逆に悪化する一方のようですね」
「原因は、何なんですか?」
「アオコは、窒素やリンなどの栄養塩類が大量に流れ込んで水の富栄養化が進むと繁殖するんです。最大の原因は、周辺の住宅から流れ込む生活排水だと言われてますね。手賀沼も面積が六・五平方キロあって、これは東京ディズニーランドの約十四倍だから決して小さな湖じゃないんですが、生活排水を垂れ流しにしていたら、琵琶湖ですら自浄能力が追いつかないんですよ。しかも、手賀沼で深刻なのは、周辺の人口密度が琵琶湖の約七倍もあることです。かつては『千古の明鏡』とうたわれ、志賀直哉や武者小路実篤など、多くの文人墨客が湖畔に居を構えていたそうですがね。今じゃ、環境庁による河川・湖沼水質調査では、二十三年連続でぶっちぎりのワーストワンですよ」
福家は、西の方に見える、丸い塔がそびえている立派な建物を指さした。
「そこで、ついに千葉県が立ち上がったというわけです。多額の税金を投じて、あそこにある『水の館』を建設したんですよ」
「何ですか、それ?」
「手賀沼の水質問題に関する、いろんな常設展示を行ってるんです。美しかったころの手賀沼の写真とか、啓発ビデオ、あと、環境問題に関するクイズの機械なんかね。上には、プラネタリウムや展望台もありますよ。それに、『親水広場』の芝生には、手賀沼を模した池だとか……。まあ、ハコもの大好きの、お役人にしかできない発想でしょうね。私も一度だけ取材に行って、職員にアオコの写真があったら見せて欲しいと頼んだんだけど、非常に迷惑そうな顔をされただけで、結局、一枚も見つかりませんでしたよ。あんな馬鹿げたものを建てて、大勢の職員を置く金があったら、少しでも下水道を整備したらどうかと思うんですがねえ」
『手賀沼フィッシィングセンター』という建物を横目に見て歩いていくと、小さなコンクリートの橋があった。
「これが手賀曙橋《てがあけぼのばし》。自殺現場は、この下でね」
緊張が走る。警察官がいないかと見回したが、現場検証などはすでに終わっているらしく、まったく人影は見えなかった。狭い橋なので、袂《たもと》で向こうから来た車をやり過ごす。少し行ったところに鉄梯子《てつばしご》があり、そこから橋脚の張り出しの上に降りられるようになっていた。
梯子を下ると、異臭はますますひどくなってきた。あたりの岸には、役人に代わって水質浄化の重責を託された葦《あし》の群落が生い茂っていたが、もはや、それくらいでは、とても追いつかないのだろう。
「ちょうど、このあたりかな」
福家が指し示した場所を見て、早苗は気分が悪くなった。このあたりでは、手賀沼は川のように細くなっている。しかも、コンクリートの堰《せき》の間で水が淀《よど》んでいるところが、とりわけアオコの発生条件に好適だったのに違いない。
水面は、浮き滓《スカム》状に盛り上がったアオコにすっかり覆われていた。おそらく、大発生したアオコが死んで、この高温下で、その死骸《しがい》が細菌によって分解されているのだろう。鼻が曲がるような強烈な腐敗臭が立ちこめ、涙が出てくるほどだった。早苗は、ハンカチを出して鼻を押さえた。
「これは、酸欠で死んだのかしら?」
早苗は、分厚いアオコの塊の間に点々と浮いている、白い腹を見せた魚の死骸を指さした。
「そうかもしんないすね。アオコは、夜になると光合成ができませんから、水の中の酸素を消費し尽くしてしまうんですよ。赤潮みたいに。それで魚が窒息して死ぬんです。ただ、もしかすると、アオコそのものの毒素によるという可能性もありますね」
「アオコって、有毒なんですか?」
再び福家は手帳を開いた。
「かなりね。肝臓毒のミクロシスティンや、ノデュラリンなど、五十種類以上が確認されてます。どちらも、肝細胞を破壊するだけじゃなく、強い発ガン性もあるっていうことですよ」
専門外とはいえ、早苗は、不勉強を恥じた。
「私が取材した中では、兵庫県西宮市高座町の新池で、カルガモなど多くの水鳥が死んでいたっていう例があります。一九九五年の夏だったんだけど、阪神大震災の影響で用水路が塞《ふさ》がり、池に河川からの新鮮な水が入らなくなった上に、今度は生活排水が大量に流入して、アオコが異常発生してましてね。カルガモを解剖した結果、肝臓が壊死《えし》していたそうです。たぶん、カルガモは、餌《えさ》である水草と一緒に、アオコも吸い込んでしまったんでしょうね。海外では、池の水を飲んだだけで、牛が死んだケースまであるそうですよ。なんでも、北米のアオコは、肝臓毒だけじゃなくて、アナトキシンとか、サナトキシンといった神経毒まで作り出すそうでね」
だとすると、この中に飛び込んでアオコを吸い込めば、溺死《できし》しなくても、中毒死する可能性もあるのではないか。
「WHOの報告では、海外では、アオコの毒素が家庭用水道水やミネラルウォーターに混入し、人が死んだ例も少なからずあるそうでね。厚生省は、例によって、『ミクロシスティンは浄水場で分解されるので、水道水に濃度の高いミクロシスティンが混入する恐れは低い[#「濃度の高いミクロシスティンが混入する恐れは低い」に傍点]』とかコメントなさっていて、調査をする気もないようですがね」
「……それにしても、本当に、ここで入水自殺をしたのかしら?」
早苗は、湖面を見渡しながら、信じがたい思いでいっぱいだった。通常、自殺をするには、かなりの精神力が必要であり、そのため、多くの人間は、酒や薬の助けを借りることになる。若い女性によく見られるのは、自ら悲劇のヒロインとなる陶酔感によって、恐怖をカバーするというパターンだった。そのためには舞台装置は、幻想を壊さないように、極力ロマンチックであることが望ましい。
だが、その意味では、ここは、ヘドロの海や肥溜《こえだ》めよりひどいではないか。
「私も最初は信じられなかったんだけど、目撃者がいるんですよ。地元の高校生のカップルなんですがね」
「その子たちは、一部始終を見てたの?」
「はあ。唖然《あぜん》として見てたそうなんですが、声をかけても反応がないし、止めようがなかったということです。それで、フィッシングセンターに人を呼びに行って、職員と一緒に戻ってきたときには、もう死んでたらしくて」
「亡くなった人は、橋の上から飛び込んだんですか?」
「いや。ちょうどこの場所から、ゆっくりと水に入って行ったそうでね。それも、まるで水浴びでもするみたいに、アオコをすくい上げて、こう、身体に擦《こす》り付けてたって言うんだけど……」
福家も、しゃべりながら顔をしかめていた。自分で取材した事実に、どうにも納得がいかないのだろう。
通常の精神状態による自殺ではない。そのことだけは、現場を見て確信が持てた。だとすれば、今回の自殺者も、ブラジル脳線虫に脳をコントロールされていたのだろうか。だが、それでもまだ、うまく説明ができない部分が残る。依田の仮説によれば、ブラジル脳線虫が宿主に与えるのは、『捕食者に喰《く》われろ』という命令であるはずだ。それが、どうして、汚水の中で死ぬことにつながるのだろう。
考え込んでいる早苗に、福家は、もう上がりませんかと言った。悪臭は、瘴気《しようき》のように水面から立ち上ってくる。たしかに、それ以上、その場にとどまるのは、彼女ならずとも耐え難いものがあった。
そこから千葉県警東我孫子署までは、タクシーでほんの数分の距離だった。
遺体は身元不明であるので、司法解剖のために千葉大学に送られるまで、警察署の霊安室に安置されているという。
いきなり行って死体を見せてくれというのは無謀かと思ったが、今回も、福家の新聞記者証以上に、早苗の医師という肩書きが役立ったようだ。東我孫子署の担当官は、すぐに二人を、地階の霊安室に案内してくれた。
「どうですか?」
遺体の被布をめくって、担当官は、早苗の顔色をうかがった。
違う。早苗は、ひとまず安堵《あんど》の溜《た》め息をもらした。数年前、ピンチヒッターで、土肥美智子医師の患者だった少女のカウンセリングを行ったことがあった。面談したのはわずか数回だったが、それでも、顔立ちははっきり記憶していた。今、目の前に横たわっている細面の少女とは、まったく似ていない。
それにしても、整った顔立ちの子だった。生前は、きっと可愛《かわい》らしかったことだろう。それがなぜ、こんなに若くして、死を選ばなくてはならなかったのか。
「違います。私の知っている女の子とは別人でした」
担当官は、がっかりした顔になった。
「でも、ちょっと、歯を見せていただけませんか? 身元を発見する手がかりになると思うんです」
「それは、まあ、かまいませんが」
担当官は気が進まない様子でゴム手袋を持ってきた。早苗は手を出して、呆気《あつけ》にとられた表情の担当官から手袋を受け取ると、自分で遺体の口を開けようとした。死体強直は、まず顎《あご》から始まるため、すでにかなり固くなっていて、ほとんど開かせることはできない。結局、唇をめくってみることにした。
やはり、そうだ。まず、間違いないだろう……。
そのとき、霊安室の扉が開き、白衣を着た小柄な中年男性が入ってきた。福家より、まだ背が低く、黒縁眼鏡をかけて、髪を七三にぴったり分けていた。担当官が、ぱっと挙手の礼をする。
「こちらは、どなたですか?」
男は、早苗を見て、少しむっとした口調で言う。
「東京からはるばる、遺体の確認に来られたんですが」
「北島早苗と申します」
早苗は、身分を明らかにして自己紹介した。
「こちらの福家さんから事件のことを聞いて、もしかしたら私の患者さんだった方かもしれないと思い、やって参りました。でも、違って、少しほっとしてます」
早苗の笑顔を見て、その男も態度を和らげた。
「そうですか。それは、わざわざ。私は、天王台で内科医をやってます墨田です」
それで、相手の見当がついた。墨田医師は、開業医ながら、ふだんから警察に協力をしているに違いない。たぶん、東京や横浜など六大都市圏の監察医に相当する仕事をしているのだろう。
「ところで、私の患者さんではなかったんですが、この方は、精神科か心療内科などにかかっていた可能性があると思います」
「えっ。それは、なぜですか?」
そばにいた担当官が、急に色めき立った。
早苗は、遺体の歯を墨田医師と担当官に見せた。
「この方は、若年にもかかわらず、歯はほとんど溶けてなくなっています。おそらく、かつて拒食症だったことがあるんじゃないでしょうか」
早苗がかつてカウンセリングをした少女も、そうだった。思春期特有の精神病理によって、ふとしたきっかけから|過食と《ビンジ・》嘔吐《バージ》を繰り返すようになり、その過程で、精神も肉体もぼろぼろになっていく。
「これは、慢性的な嘔吐《おうと》によって歯が胃酸にさらされ、切歯内側のエナメル質の崩壊をきたした結果だと思います」
早苗は、溶けた前歯を指し示しながら、説明した。
「拒食症の好発年齢は、思春期から二十代前半くらいで、そのほとんどが女性です。亡くなった方の年格好とも一致します。ただ、現在の栄養状態は良好のようですので、おそらく、どこかで治療を受けたんだと思います」
「なるほど。拒食症か。最近、多いとは聞いていたが」
墨田医師はうなった。
「手配してきます」
早苗の話をメモしていた担当官が、張り切って部屋を出ていった。
「先生。この方の死因は、溺死《できし》なんでしょうか?」
早苗は訊ねた。
「まあ、解剖してみないとわからないが、溺死の可能性が高いでしょう。ただ、手賀沼は平均水深が九十センチ足らずしかなく、現場も、おそらく足の立つ深さだったはずなんです。それに、沼の水を飲んでいたという目撃情報もあるんですよ。それが事実とすれば、アオコの毒素による急性中毒の可能性もあると思います」
あの水を飲んでいた……。早苗は、胸がむかつくような気がした。
「ちょっと、ご遺体の手を見てもよろしいでしょうか?」
「ああ、どうぞ。何か気づいたことがあれば、言ってください」
墨田医師は、早苗に気を許したらしく、すっかり協力的になっていた。
早苗は、これもすでに死体強直を起こしている、少女の手を見た。
強迫的な手洗いのために、手の皮膚ががさがさになっているのではないかと予想していたが、特に異常な点は見られなかった。やはり、きちんとした病院で治療を受けて、死の直前には、心の病は快方に向かっていたのかもしれない。だが、だとすると、なぜ、死を選ばなければならなかったのか。
早苗は、少女の右手を離そうとして、人差し指に目を惹《ひ》きつけられた。腕が曲がらないので、その場にしゃがみ込んで目を近づけ、爪《つめ》の様子を検分する。
「何か、あったんすか?」
福家が、気がかりそうな声音で訊《たず》ねた。
「ええ。ちょっと変わったことが」
早苗は、少女の爪を指した。
「本来の爪の上に、透明なプラスチックの義爪《ぎそう》を貼《は》りつけてあるんです」
墨田医師も、覗《のぞ》き込んだ。
「うーん。これも、気がつかなかったな。いやいや……女性ならではの視点ですな」
「最近女子高生なんかに流行してる、付け爪ってやつですか?」
福家が訊ねる。
「いいえ。違うと思います。だってほら、この、一本だけなの。右手の人差し指だけ。それに、お洒落《しやれ》のための付け爪だったら、もっとカラフルにするのが普通でしょう? これは無色で、ほかの指と見分けがつきにくいようにしてあるんです。たぶん、切りすぎたり割れてしまった爪を隠すために使う、人工爪《スカルプチユア》だと思います」
墨田医師の方を向く。
「先生。この人工爪《スカルプチユア》を、剥《は》がしてみてよろしいでしょうか?」
「……かまいませんが」
「それ、無理やり剥がすんすか?」
福家が、たじろいだ様子で言った。
「まさか」
早苗は、ハンドバッグから、マニキュア用の除光液を出した。
「付け爪用のグルーなら、たぶん、これで取れるはずよ」
少女の人差し指を持って、爪の間に除光液を染み込ませる。しばらくすると、人工爪《スカルプチユア》はぐらぐら動くようになり、やがて、簡単に取り除くことができた。
下から現れた爪は、短く切ってあった。
「なんともないすね」
福家の言葉に、早苗は首を振った。
「いいえ。やっぱり、人工爪《スカルプチユア》が必要だったんです。ほら、よく見てください」
早苗は、手袋を脱ぐと、自分の爪で、さらに一枚の薄いシートを引き剥がした。
「何ですか、それは?」
墨田医師が、仰天したような声を上げた。
「弱った爪を補修するための、シルク製のシートです。以前、野茂投手の爪が割れたときに、新聞にも報道されて、けっこう有名になったんですけど。普通は、このシートを貼った上から|ヤスリ《フアイル》をかければ、ほとんど目だたないようになるはずなんですが、さらに、その上から人工爪《スカルプチユア》を付けてたということは、よっぽど気にしてたんでしょうね」
早苗は、ようやく現れた少女本来の爪を、じっと見つめた。すっかり摩耗して薄くなり、ぺらぺらの状態である。これなら、若い女の子が気にするのはわかる。だが、いったいどういう理由で、右手の人差し指の爪だけが磨《す》り減ったのだろう。
「福家さん。一本だけ指の爪が磨り減る職業とか、ご存じありませんか?」
「さあ……」
さすがの福家も、首を捻《ひね》るばかりだった。
「遺留品が、いくつかあったんだが」
墨田医師は、そう言って部屋を出ると、紙の箱を持って戻ってきた。早苗は、緊張しながら中を見た。だが、そこにあったのは、財布、ハンカチ、目薬、それに小振りの扇子と、それらが入っていたらしい安物のポーチだけだった。若い女性に扇子というのは少し奇異な感じがしないでもないが、特に身元を確認できるようなものはなく、爪が磨り減っているわけを示すような手がかりも見つからなかった。
早苗は、もう一度、少女の死体を見やった。
そして、ぎくりと硬直する。
少女の水に濡《ぬ》れた髪の毛の間からは、蛇行する白いミミズ腫《ば》れのような跡が、何本も覗いていた。
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十四章 カラスとサギ
早苗は、ホスピスの患者たちの間を回診している間もずっと、手賀沼で死んだ少女のことが、頭から離れなかった。
あのたくさんの小さな蛇のような爬行疹《はこうしん》には、疑う余地はない。彼女もまた、ブラジル脳線虫に感染していたのだ。だが、年齢から考えても、アマゾン調査プロジェクトに直接関係があったとは思えない。あとで福家が調べたところでも、該当するような女性は見つからなかった。
だとすると、この日本のどこかで、二次感染が起こっているのだ。おそらく、メッキ工場で劇薬に顔を浸けて死んだ青年、畦上《あぜがみ》友樹もそうだったのだろう。
だが、どうやって?
その謎《なぞ》を解くためには、まず、あの少女の身元を特定しなくてはならない。すでに、東京都内の主だった精神科や心療内科の病院に電話をかけて、拒食症で通院していた患者に該当しそうな女の子がいなかったかどうか問い合わせていたが、いまだ、はかばかしい答えは得られていなかった。それに、考えてみると、警察でも、より組織的に同じ調査をしているはずである。それでもまだ、身元はわかっていないのだ。
早苗は、廊下を歩きながら、自分の右手の人差し指の爪《つめ》を見つめた。亡くなった少女の、もう一つの際だった身体的特徴……。
どうすれば、たった一本の爪だけが摩耗するだろう。何か、手先を酷使するような特殊な職業に就いていたのだろうか。たとえば、人差し指の背側で、何かを擦《こす》るとか。ずっと想像を巡らせているのだが、いまだに何も思いつかなかった。人差し指の上に中指を交差させてみる。こうやって、いつも二本の指で何かを挟んでいたとしたら、人差し指の爪は減るのではないか。いや、それも不自然だ。何であれ、人差し指と親指とで挟んだ方がずっと安定するはずだし。