そのまま指をクロスして絡み合わせると、欧米で幸運を祈るときにする仕草になる……。
早苗は、頭を振って気分を切り替えると、青柳の病室に入った。
「おはよう。どう? 気分は」
「別に、いつもと変わりゃしねえよ」
青柳は、早苗の方にアイパッチをした顔を向けた。頭をつるつるに剃《そ》り上げた容貌魁偉《ようぼうかいい》な大男で、入院してきたときには怖いような印象すらあったのだが、ここのところ憔悴《しようすい》の度が一気に進んだようだった。体重も、最も太っていたときと比べると半分くらいになり、皮膚から脂気と一緒に精気が抜けてしまったように見える。
「先生。今日も美人だな。惚《ほ》れ直したよ」
「ありがとう」
早苗は笑って答えたが、青柳の心中を思いやると胸が痛んだ。すでに彼の目には、早苗の顔は、薄ぼんやりとした輪郭にしか見えていないに違いない。
青柳からすでに右目を奪ったサイトメガロウイルスは、彼の左目の端に出現して以来、じわじわと視界を蚕食《さんしよく》してきていた。少しでも進行を食い止めようと思えば、抗ウイルス剤の点滴の量を増やさねばならないが、そうすることは、今の彼の腎臓には負担が大きすぎる。すでにほとんど失われている視力と腎臓とでは、腎臓を優先せざるを得ないのだ。
「何か、不自由なこととかない?」
青柳は、ベッドに横たわったまま薄く笑った。
「別に不自由はねえけどさ……。ああ。もう一度だけ、将棋を指してえよ」
「あら。青柳さん、将棋が得意だったの?」
「得意だったの、だあ? 聞くに事欠いて、何てこといいやがる。空中戦の青柳って言やあ、御徒町《おかちまち》近辺じゃあ、知らない奴《やつ》あ、いなかったんだぜ」
「空中戦?」
「ああ。後手番で、相手に横歩を取らせんだけどな……今の8五飛車戦法の走りみたいな……まあ、説明は面倒だ。とにかく、青柳さんは、ツボにはまりゃあ、県代表クラスって言われたもんだ。その代わり、ドツボにはまって、あっさり潰《つぶ》されちまうのもしょっちゅうだったけどな」
彼は、ときおり顔をしかめながら、口をつぐんだ。カンジダというカビに、咽喉《いんとう》の一部を冒されているのだ。唾《つば》を飲み込むだけでも、痛みが走るのだろう。
それでも、青柳は、いつになく饒舌《じようぜつ》に話した。話している内容は半分もわからなかったが、早苗は微笑《ほほえ》みながら聞いていた。もっと早く、趣味の話をしてみればよかったと思いながら。
「……とにかく全盛期にゃあ、どんな相手でも、一発パンチさえ入れば、こっちのもんだったんだ。元奨励会っていう有名な強豪に、六十手の短手数で快勝したこともあった。あんときの華麗な捌《さば》きにゃあ、見物人が沸いた沸いた。龍と馬を叩《たた》き切って寄せに入ったときにゃあ、拍手まで起きたくらいでね。……畜生。俺《おりや》あ、まだ五十三なんだぜ。本当なら、まだまだこれから強くなったんだ。米長だって、名人取ったのは、ほとんど五十んなってからだろう。それがよお、石田|検校《けんぎよう》じゃあるめえし、俺にゃあ、目隠し将棋なんてできねえよ」
青柳は、何かを求めるように、宙に右手を伸ばした。
まるで幸運のまじないのように、彼の中指が人差し指の上に重ねられるのを見て、早苗は、はっとした。
二本の指の間に駒《こま》を挟んで、発止と打ちつける仕草。
早苗の脳裏に、少女の遺品の映像が浮かび上がった。扇子……。
彼女は、息を詰めて、青柳の指先を凝視していた。
聖アスクレピオス会病院から、日本棋院のある市ヶ谷までは、目と鼻の先だった。
「うちの社の学芸部に、囲碁と将棋の両方を担当したことのある、ベテラン観戦記者がいましてね。さっきつかまえて、話を聞いてみたんすよ」
タクシーの中で、福家が早苗に説明した。
「そうすると、たぶん、将棋より囲碁の方が、可能性が高いんじゃないかって言うんでね」
「どうして?」
「碁石も、将棋の駒も、人差し指の爪と中指の間に挟んで持つんで、どうしても人差し指の爪が磨《す》り減るらしいんだけど、木製の駒と石とじゃ、減り方が違うってことなんすよ。それも、つるつるした蛤《はまぐり》でできた白石よりも、表面がざらざらした那智《なち》黒石の方が、爪を削るらしくて」
「ふうん。……よくわかりませんけど、将棋のプロと囲碁のプロって、同じようなものなんですか?」
「まあ、組織や棋戦の仕組みなんかは微妙に違うんだけどね。日本棋院は財団法人で、日本将棋連盟は社団法人とか。でも、棋士の身分は、だいたい似たようなもんだと思っていいっすよ。ただ、一番違うのは、数かな」
「どっちが多いんですか?」
「ちょっと意外だったんだけど、これは、圧倒的に囲碁の棋士の方が多いんです。四百五十人対百五十人で、ほぼ三倍。まあこれは、将棋のプロが四段以上なのに対して、囲碁のプロは初段からということも、多少は関係してるのかな。そのうち女流棋士が何人いるかはわからないけど、将棋では、男子と同じ資格の女性プロがいまだに誕生していないのに対して、囲碁棋士では大勢いますからね。このことからも、囲碁の方が可能性が高いだろうって言ってましたよ。ただ、自殺した子は、まだ年齢が若いことと、爪が薄くなるくらい毎日熱心に稽古《けいこ》していたことを考えると、まだ正式のプロになっていない、院生なんじゃないかって……」
早苗は、痛ましくてならなかった。青春を囲碁にかけて、黙々と努力を積み重ねていた少女。それがなぜ、ブラジル脳線虫に感染して、死へ追いやられなくてはならなかったのか。どうしても、その理由を確かめなくてはならなかった。
電話でアポイントを取っておいたため、日本棋院に着くと、すぐに応接室に通された。二人に応対してくれたのは、三十代後半の、眉《まゆ》が濃く人の良さそうな顔をした男だった。名刺には、日本棋院棋士、九段、喜屋武《きやん》雅弘とあった。現在、東京本院の院生師範も務めているという。
あらかじめ二人の用件を聞かされていたためか、喜屋武九段の表情は曇りがちだった。せわしなく煙草をふかしたかと思うと、神経質そうに、瞬きをする。
「そうですか。爪《つめ》が磨り減ってた……」
その口調は、はっきりと、心当たりがあることを示していた。
喜屋武九段は一度中座して戻ってくると、早苗と福家に、一枚の若者たちの集合写真を見せた。ピクニックにでも行ったところらしい。写真を撮られ慣れている今どきの子供らしく、前列の子は寝そべり、その次の列の子は中腰になるなど、フレームいっぱいに要領よく収まっていた。誰もが、屈託のない笑顔だった。このときばかりは、勝負師の卵というより、年齢相応の子供の姿に戻っている。
「ええとですね……お話からだとですね、該当する可能性があるのは、この子じゃないかと思うんですけどね」
喜屋武九段は、そっと、後列の一番左にいる一人の少女の顔を指した。指先が、かすかに震えている。
早苗は、写真の少女の顔に目を落とした。微笑んではいるが、一人だけ口を閉じていた。確信が持てるまで、じっくりと確認する。顔を上げると、喜屋武九段と目が合った。
「どうですか?」
彼の顔には、間違いであってくれという、祈るような思いが顕《あらわ》れていた。だが、早苗の表情を見て、すべてを悟ったらしい。口を開きかけたが、何も言わなかった。
「たいへん残念ですが、間違いないようですね」
福家が、早苗から受け取った写真を見て、宣告した。
「そんな。とても信じられません。どうして、今になって……」
「この方の、お名前を教えていただけますか?」
福家の質問に、喜屋武九段は低い声で答えた。
「滝沢優子さんです」
「こちらで、院生をされてたんですね?」
「昨年までは、そうでした。日本棋院の院生には、十九歳までという年齢制限があるんです。滝沢さんは、いったんそれで退会したんですが、短大を卒業した後、『外来』という資格で院生のリーグ戦にも参加し、再び囲碁棋士を目指していました」
喜屋武九段は、太い指で目頭を擦った。
「本当に努力家で、性格も優しい、いい子なんですよ。院生の間はずっと研修センターに住み込んで、毎日十時間以上も、碁石を握って猛勉強してたんです。爪が薄くなってしまうほど」
「しかし、なかなかプロになれなかったということは、やはり、才能というか実力が伴わなかったわけですか?」
福家の質問に、喜屋武九段は、むっとした表情を見せた。
「実力はありました。才能も、あったと思います。今流行してる、勝負だけにこだわった『地に辛い』碁ではなく、武宮先生か苑田先生を思わせる中央にロマンを求める棋風で、特に、黒番を持つと、『三連星』の布石が得意でした。私から見ても、独自のきらりと光る感性がありましたよ。戦いになってからのパワーも、決して劣っていたわけじゃないですし、前半、厚く打っておいてから、後半ヨセで追い上げる技術もしっかりしてました」
「それでも、伸び悩んでいたわけですよね?」
新聞記者らしく、福家は追求を緩めなかった。
「……そうですね。実力はありながら、なぜか、ここ一番で結果を出し切れずに、負けてしまう癖があったんです。急所で、判を押したように、ポカというかブランダーというか、ふだんなら考えられないようなミスをしでかしてしまうんですね。そのために、なかなか壁を破れずに悩んでいました」
そういう性格類型は、早苗の知っている範囲でも、いくつか存在していた。上がり性で、すぐに舞い上がって前後不覚の状態に陥ってしまう。過度の緊張に耐えられず、そこから逃走するために無意識に負けを選んでしまう。不必要に悲観的になり、悪い予想ばかりが頭にちらついて、マイナスの自己暗示をかけてしまう。自分に完璧《かんぺき》を求めすぎるため、わずかな失敗を犯しただけで嫌気がさしてしまう。こうした性格は、特に日本人に多いと言われているものだが、一方では、鬱病《うつびよう》や拒食症などにもなりやすい特徴だった。
滝沢優子の場合は、日常生活に支障を来すというレベルではなかったのだろうが、勝負というぎりぎりの場面で、相手が盤上没我の状態にあるのに、こちらだけ心が揺れて集中しきれないとしたら、よほどの実力差がないと勝ちきれないだろう。
「滝沢優子さんは、以前、拒食症だったことがあるようにお見受けしたんですが」
早苗が聞くと、喜屋武九段は、少し躊躇《ちゆうちよ》する様子を見せた。プライバシーにかかわることだから、しゃべっていいものかと思ったのだろう。だが、テーブルの上に置いた早苗の名刺を見て、彼女が精神科医だということを思い出したらしく、口を開いた。
「まあ、高校生のころに、一時期、そういうことがあったようです」
「原因は、何だったんですか?」
「私もよくは知らないんですが、痩《や》せようとしてダイエットを始めたのが、しだいに、のめり込んでしまったと言ってました」
根拠のない痩身《そうしん》神話に躍らされて、今も多くの少女が、ダイエットによって健康を害し、精神を傷つけ続けている。精神科医として、常日頃から早苗は憂慮していた。
同じような手口は、メディアに蔓延《まんえん》している。ごく平凡な容貌《ようぼう》の女性にまで、繰り返し暗示をかけて醜形恐怖をあおり、美容整形をすれば明るい未来がやってくると信じさせたり、薄い頭髪や濃い体毛、体臭などを病的なまでに忌避させたりと。結局は、それによって儲《もう》ける業者から、巧妙なマインド・コントロールを受けているだけなのだが。
「それで、歯が悪かったんですね?」
「やはり年頃の女の子ですから、歯のことは相当気にしていたと思います。それで、いつのまにか、笑うときにも口を開けない癖がついてしまったようです。爪のこともそうで、対局中以外は、いつも右手を握りしめていました」
「さっき、『どうして、今になって』とおっしゃいましたね? あれは、どういう意味だったんですか?」
福家が、メモを取りながら訊《たず》ねる。
「今年の春頃、滝沢さんは少しノイローゼ気味だったんです。努力してもなかなか将来の展望が開けてこないのと、あと、失恋などもあったように聞きました。それで、しばらくの間、リーグ戦も休んでいました。それが、三ヶ月ほど前に復帰したときには、別人のように明るい表情になってたんで、驚いたんですよ。どういうわけか、精神的にも格段に逞《たくま》しくなっていて、勝率も飛躍的に上がりましたし、この分なら、入段は間近だろうと、楽しみにしていたんですが……」
「本人は、性格が変わった理由について、何か言ってましたか?」
「一度、聞いてみたことがあったんですが、何だか妙なことを言って、はぐらかされてしまいまして」
「妙なこと?」
「自分には『守護天使』がついているのだとか、何とか」
早苗と福家は、一瞬、顔を見合わせた。
「しかし、実際、そんな感じでした。以前とはうって変わって、険しい勝負所になればなるほど、逆に不敵な笑みを漏らすような感じで、対戦相手から恐れられていたくらいでした。そのせいか、ちょっと神がかり的な逆転勝ちもあったりしましたし」
喜屋武九段は、嘆息した。
「あのまま伸びていれば、きっと、いい棋士になっていたと思うんですが……」
早苗は、もう一度、写真に目を落とした。滝沢優子は、可愛《かわい》らしい顔立ちの少女だった。歯さえきちんと治せば、かなりの美人になったはずだ。実力の世界のはずの棋界でも、女性の場合には容貌がものを言うのは、ほかの世界となんら変わらない。多少入段が遅くなっても、プロにさえなれれば、きっと、囲碁界のマドンナとして脚光を浴びていたのではないだろうか。
「院生の手合いは週に一度で、先週はたまたま休みの届けが出ていたんです。それで、たった今まで、失踪《しつそう》していたことさえ、気づきませんでした。……郷里のご両親に、何と言ってお詫《わ》びをすればいいか」
喜屋武九段は、がっくりと肩を落としていた。
日本棋院の囲碁研修センターは、千葉市の幕張《まくはり》にあった。この日は、たまたま院生の手合日にあたっていた。早苗たちが会いに来たのは、滝沢優子と最も親しかった浜口麻美という少女である。
早苗と福家は、タクシーを降りた。研修センターは、まだ新しく、小ぎれいな感じのする建物だった。ちょっと見には、銀行の寮のように見える。まわりは芝生で囲まれていて、駐車場には、子供たちを送迎するためのものらしい、研修センターの名前入りのミニバスがとまっていた。
玄関を入ったところにあるロビーには、卓球台が置かれていた。まだ小学生くらいに見える少年たちが、熱戦に興じている。彼らもまた、将来のプロ棋士を目指す院生なのだろうか。
事務室の受付で来意を告げると、浜口麻美を呼び出してくれた。対局は、もう終わっているらしい。
現れた少女は、十七、八歳くらいに見えた。色白で頬《ほお》がふっくらしている。階段を下りたところで立ち止まって、探るような目つきで早苗たちを見た。まだ、優子が死んだことは知らないのだ。
「こんにちは。突然、お邪魔してごめんなさい」
早苗は、自己紹介した。精神科医と新聞記者が連れ立ってやって来たと知り、浜口麻美は、ますます狐につままれたような表情になった。
卓球をしていた少年たちも、何事かというような顔でこちらを見ている。早苗は、麻美を外に連れだした。喫茶店などに行くよりも、太陽の下で話した方が、話の衝撃を和らげられるような気がした。
早苗は、浜口麻美にショックを与えないようにと、喜屋武九段から何度も念を押して釘《くぎ》を刺されていたことを思い出した。最終的には、早苗の精神科医という肩書きがものをいい、事情聴取にあたっては充分な配慮をするという約束で、ようやく許可が得られたのである。
「さっき、市ヶ谷の日本棋院で、喜屋武先生にお目にかかったとこなの。それで、あなたが、滝沢優子さんと一番親しかったって聞いたものだから」
「優子さんと? そうですけど……え? でも、親しかった[#「かった」に傍点]って?」
浜口麻美は、さすがに勝負師を目指しているだけあって、勘の鋭い子のようだった。これ以上遠回しに言っても、辛《つら》さを増すだけだろう。早苗は、思い切って優子が亡くなったことを告げた。
早苗の真剣な態度から、それが事実であることを悟ったのだろう、麻美の顔が蒼白《そうはく》になり、ついで目からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
しばらく麻美が落ち着くのを待ってから、早苗は、優しい声で質問を始めた。福家は、今回は口を挟まずに、横で聞いていた。
麻美は、ハンカチで目元を押さえながら、それでも、一生懸命に質問に答えた。麻美は今十八歳だった。滝沢優子とは二歳違いだが、以前から気が合って、姉妹のように仲がよかったという。優子が人並みはずれた努力家だったという点は、喜屋武九段の話と符節を合わせていた。さすがに、人差し指の爪《つめ》が磨《す》り減ってしまうほど稽古《けいこ》する院生は、それほどいないらしい。
麻美は、優子ほどは勉強していないということだったが、それでも、ふだんから爪には気を付けているという。彼女は、早苗に人差し指を見せた。コラーゲン入りのクリームやファイバープロテイン配合の液体で爪を強化している上に、補強用のベース コートと、ひび割れを防ぐトップ コートを塗っているのだという。
化粧品の話をしている間だけ、麻美は平静に戻っていたようだったが、急に優子の死を思い出したらしく、涙ぐんだ。
優子さんは、あんなに努力家で、優しい人だったのに……。
早苗は、麻美の背中をさすってやった。これ以上悲しませるには忍びなかったが、まだ聞かなくてはならないことが残っていた。
「実は、優子さんが亡くなったのは、我孫子市の手賀沼なの」
麻美は、早苗の手を振り払うようにして、さっと顔を上げた。目を見開いている。その反応の激しさに、早苗は驚いた。
「手賀沼で? 本当に、優子さんは、手賀沼で死んだんですか?」
「そうよ」
「そんな……。じゃあ、きっと、うちへ来る途中だったんだわ」
「あなたのおうち? 我孫子市内なの?」
「ええ。湖北台なんです」
それで、謎《なぞ》の一つが解けた。喜屋武九段の話では、滝沢優子は、研修センターのある幕張にほど近い千葉市内のアパートで、一人暮らしをしていたということだった。同じ千葉県内でも、千葉市内から手賀沼までではかなり距離があるし、交通の便も悪い。なぜ滝沢優子が手賀沼へ行ったのかが、わからなかったのだ。
「優子さんは、あなたのおうちに来たことはあったの?」
「ええ。前に一度、今年の春頃だったんですけど、優子さんをうちへ招待したんです」
麻美は、遠くを見るような目をして言った。楽しかった思い出らしい。かすかに、口元がほころびかける。
「そのときは、湖畔を案内して、ずっと歩きました。ふだん、どうしても運動不足になりがちですから、汗をかいてもいいようにジャージーを着て、スニーカーを履いて。優子さんは、すごく手賀沼が気に入ったって言ってました」
早苗は、先日見た沼の光景が目に焼き付いていたので、少し驚いたが、考えてみると、春先であれば、まだアオコも発生しておらず、それなりに美しい景色かもしれない。
「あのあたりは、白樺派《しらかばは》の聖地なんですよ。明治から大正にかけて、志賀直哉とか、武者小路実篤とか、バーナード リーチとか、中勘助《なかかんすけ》なんかが住んでて、今でも住居跡なんかが残ってるんです。わたしは小学生の頃から志賀直哉が大好きで、優子さんは武者小路実篤の愛読者だったんです。それで、わたしたちも、志賀直哉と武者小路実篤みたいに、一生友達でいましょうねって、言ってたんです……」
麻美は言葉をつまらせた。
「『水の館』は、つまらないので行かなかったんですが、そのすぐ近くに、『我孫子市鳥の博物館』というのがあって、いろんな鳥の剥製《はくせい》なんかがあるんです。そこで、カラスとサギを戦わせたらとか、いろんな冗談を言い合ってて、二人だけでウケてたんです。まわりにいた人たちは、冗談の意味がわからないんで、変な女の子たちだって言う目で、ちょっと引いてました」
「カラスとサギ?」
「碁のことんです。囲碁には、爛柯《らんか》とか、手談《しゆだん》とか、いろんな異名があるんですけど、烏鷺《うろ》っていうのもあるんです。黒石と白石の戦いだから、カラスとサギ」
「ふうん」
「あ。そういえば、優子さん、最近、おかしかったなあ。頭の中にいる鳥の話とか、してたし」
「え? どういうこと?」
「それが、変なこと言うんです。『対局中、頭の中で、たくさんのカラスとサギがせめぎ合っていて、ぎゃあぎゃあうるさいの』とか、『天使って、小鳥みたいなものだと思う?』とか」
早苗と福家は、顔を見合わせた。
「やっぱり、きっと優子さんは、私のうちを訪ねるつもりだったんだと思います。突然来て、驚かせようと思って……」
麻美は、絶句した。
「優子さんが亡くなったのは、何時頃ですか?」
「たぶん、朝の十時前だと思う」
「じゃあ、やっぱり、そうですよ。きっと、まだ早すぎると思って、手賀沼のまわりで時間を潰《つぶ》してたんだと思います。それで、きっと、足を滑らせて……」
麻美は、鼻をすすり上げた。どうせわかることだ。早苗は、麻美には真実を知る権利があると思った。
「麻美さん。ショックを受けないで欲しいんだけど、優子さんは、たぶん自殺らしいの」
「えっ」
「目撃者がいるのよ。彼女は、自分で、沼の中に入って行ったって」
「そんな。何かの間違いです。最近、優子さん、すっごく明るくなってましたし、碁の成績だって絶好調でした。……それに、変じゃないですか? わたしに会いに手賀沼に来たのに、どうして、会わないまま死んじゃったりするんですか?」
「そのことが不思議だから、あなたにお話を聞こうと思ったのよ」
麻美は、しばらく考えてから、大きく首を振った。
「いいえ。ぜったい違います。もし優子さんが自殺しようと思ったら、今頃の手賀沼なんか、ぜったい選ばないと思います」
「たしかに、私が見ても、ちょっと汚かったわ」
「ふつうの人でもそうですけど、優子さんは、ぜったいに、あんなところに飛び込んだりしません。だって、だって、優子さん、すごい潔癖性だったんですよ? 不潔なものは大嫌いで、電車に乗っても、ぜったい吊革《つりかわ》にはつかまらないし、文房具なんかも、全部抗菌グッズでした。対局の時の座布団まで、自分専用のを持ってきてましたし、対局前には、新品のタオルで、盤石を、すっごく丁寧に拭《ぬぐ》ってました。そんな人が、どうして、あんな臭いアオコがいっぱいの水の中に飛び込むんですか?」
麻美は、むきになったように言い募った。早苗は、あえて反論しなかった。亡くなった友の名誉を守ろうとする彼女の心情はよくわかったし、それ以上に、彼女の言うことには筋が通っていた。
「もう一つだけ、教えてくれる? 優子さんが、明るくなったきっかけっていうのは、何だったのかしら? 何か、聞いてない?」
麻美は、考え込んだ。
「そういえば、たしか、セミナーみたいなのに参加したって言ってました」
「セミナー? どういうの?」
「よくは、知らないんですけど。あんまり詳しくは聞きませんでしたから。でも、自己啓発セミナーって言うんですか? 何か、そういう感じでした。優子さんは、わたしも誘いたがってたみたいなんですけど、わたしは、そういうのとか宗教みたいのは、ダメなんです」
「名前とか、覚えてない? 所在地とか、どこで勧誘されたとか?」
「ええと。入ったきっかけは、インターネットからだって言ってましたね。偶然、そのセミナーのホームページを見つけたとか。名前は……ごめんなさい。よく思い出せないです」
「いいわ。きょうは、協力してくれて、助かったわ。もし、何か思い出したら、電話してくれる?」
「はい。わかりました」
麻美は、そう言ってから、急に何かを思い出したようにつぶやいた。
「そうだわ。ガイア……」
「え?」
「セミナーの、名前。たしか、ガイアっていう言葉が付いてました」
「ありがとう」
だが、麻美には、早苗の言葉は、もう耳に入っていないようだった。
今頃になって、急に優子が死んだという実感が迫ってきたのだろう。まるで、悪夢でも見ているような気分なのに違いない。早苗の別れの挨拶《あいさつ》にも、かすかに顔をうなずかせただけだった。
早苗は、しばらく行ってから振り返った。
少女は、研修センターの中へは戻ろうとはせず、西日を浴びながら、ただその場に立ちつくしていた。
[#改ページ]
十五章 救世主《メサイア》コンプレックス
家に持って帰った仕事がようやく一段落したのは、午前一時を過ぎてからだった。
早苗は、文書ファイルをフロッピーに落とすと、紅茶を入れた。英国式に、温めたミルクをたっぷり入れた大きめのカップに、熱いオレンジペコを注《つ》ぐ。
紅茶を飲みながら、ブラウザを起動し、パスワードを打ち込んで、インターネットに接続した。仕事を終えたサラリーマンなどのアクセスが増えるため一番回線が混雑する時間帯であり、いつもより余分に時間がかかった。
キーワードで、ホームページの検索を開始する。
最初は、シンプルに『ガイア』とした。かなり多いのではないかと予想はしていたが、該当するホームページは、二千件以上あった。
ディスプレイには、そのうち最初の十件だけが表示されている。『次の十件』を何度もクリックして、要約《サマリー》の内容を確認する。インターネット放送局「ステーションガイア」、宮崎シーガイア観光ガイド、パソコン通信「ガイアネット」のサービス案内、女子プロレス「GAEA JAPAN」の情報、そのほか、地球環境保護団体、健康食品の通信販売……。この分では、すべて見終わるのは、いつになるかわからない。
次に、キーワードを増やして、『ガイア―自己啓発セミナー』としてみた。
該当なしだった。考えてみると、目指す団体が自ら『自己啓発セミナー』を名乗っている可能性は、むしろ低いかもしれない。検索エンジンは、ホームページの文中にキーワードが含まれているかどうかで選別するわけだから、どちらかと言えば、相手が使いそうな言葉を選ぶ必要があった。
今度は、『ガイア―癒《いや》し』で調べてみる。該当するホームページは十六件だったが、残念ながら、期待していたような内容は現れなかった。それから、複数の検索エンジンを使いながら、さまざまなキーワードと『ガイア』との組み合わせを試みたが、目指すホームページは見つからない。
浜口麻美の話では、滝沢優子が自己啓発セミナーに入会したのは、インターネットを通じてだということだった。だとすると、必ずアクセスできるはずなのだが。
滝沢優子がどうやってそのページを見つけたのか、推理しようとも試みたが、これは、さすがに無理だった。別のホームページにリンクがあったのかもしれないし、ほかの媒体で、偶然アドレスを見ただけかもしれない。早苗の経験でも、ネット サーフィンの途中では、しばしば、思ってもみなかったようなホームページを発見することが多い。アドレスを登録しておかなかったために、二度と到達できないページもいくつかある。
試行錯誤を繰り返すうちに、キーワードがネタ切れになってしまった。もう一度、最初から考え直してみる。第一のキーワードは、本当に『ガイア』でいいのだろうか。
もしかすると、『地球』か『大地』などに『ガイア』というルビを振っているのではないかと思いついた。その場合は、『ガイア』では検索に引っかからないはずだ。早苗は、まず『地球』と入力し、少し迷ってから、『地球―天使―蛇』で検索をかけてみた。別に、それで発見できると思ったわけではない。とりあえず、今回の事件に関して、鍵《かぎ》になっていると思った言葉を打ち込んでみただけだった。
これだけとりとめのないキーワードでも、該当は七件あった。予想したとおり、宗教や、オカルト関係の項目が多い。その中に、『地球《ガイア》の子供たち』というタイトルが見える。
サマリーには、こうあった。
『あなたは、自分が傷ついていることを、自覚しているでしょうか? 現代社会に生きる私たちは、毎日、心をストレスというヤスリによって削られています。傷だらけになったあなたの心が、ついに耐えきれず悲鳴を上げたら、思い出してみてください。私たちはみな、地球の子供たちなのだということを。守護天使は……』
これだ……。
緊張で、手が震えるのを感じる。早苗は、深呼吸してから、問題のホームページに飛んだ。
画面が、薄い煉瓦《れんが》色のホームページの背景に切り替わる。BGMに、心に沁《し》みるようなアコーデオンの調べが流れてきた。続いて、つま弾くような二台のギター。偶然にも、早苗の好きな曲だった。マドレデウスの『禁じられた旅』である。
画面には、『地球の子供たち』というタイトル文字と、文章が現れた。
あなたは、自分が傷ついていることを、自覚しているでしょうか? 現代社会に生きる私たちは、毎日、心をストレスというヤスリによって削られています。傷だらけになったあなたの心が、ついに耐えきれず悲鳴を上げたら、思い出してみてください。私たちはみな、地球《ガイア》の子供たちなのだということを。守護天使は、いつでもちゃんと、あなたを見守っています。癒しと救いは、すぐ手の届く場所にあるのです。
私たちの肉体は、怪我《けが》をすれば血が流れ、痛みを感じるようにできています。しかし、心の傷は、目には見えず、ともすれば、自ら痛みなどないと誤魔化してしまいがちです。しかし、目に見えないからといって、心の傷を軽視するのは危険です。それは、長い目で見れば、肉体の損傷以上にあなたにとって有害なのです。それは、私たちの無意識に深く沈潜し、おりに触れ蛇のように鎌首《かまくび》を持ち上げて、私たちの生活に破壊的な影響を及ぼし、ときとして、命を奪うことすらあります。
一見素朴なようでいて、なかなか巧妙な文章だった。つかみは占い師のよく使う話法で、開口一番、あなたは傷ついていると大上段に決めつけられると、暗示にかかりやすい人は、そうかと思ってしまう。心の傷|云々《うんぬん》ということになれば、たいていの人は一つや二つの心当たりはあるし、特にこの場合、ホームページには大勢の人がアクセスするわけだから、その中には、深い悩みを抱えた人もいるだろう。勧誘する側では、百人に鼻で笑われても、一人が引っかかれば大成功なのだ。
ここで、|心の傷《トラウマ》について述べていることは、特に間違ってはいなかったが、それを完全に脅し文句のように使っていることには、問題があった。
飛ばし読みをしながら画面をスクロールしていくと、『守護天使』について述べている部分が見つかった。
そうすれば、あなたにも必ず、守護天使の姿が見えるようになります。馬鹿馬鹿しいと思われたかもしれません。しかし、守護天使は、たしかに実在するのです。それが、神話に登場するような羽根の生えた美少年であろうと、私たちの心に本来備わっている作用、無意識の持つ特殊な働きについて擬人化した名前であろうと、理屈はどうでもいいのです。ただ、現象として、守護天使は実在する。それだけは、自信を持って断言できます。
いにしえの人々、科学知識には乏しくても、何が正しいのか直感的に判断できた人々は、そのことをよく知っていました。守護天使に守られている家庭では、子供が高い木に登っても、燃えさかる暖炉のそばで遊んでいても、両親は心配しませんでした。守護天使に守られている限り、絶対に事故が起きないことを知っていたからです。私たちが地球《ガイア》の子供たちであることを忘れなければ、心には調和の気が満ち、守護天使が、私たちを不慮の災害から守ってくれるのです。
これだけだった。『守護天使』などという、わけのわからない存在について語りながら、その正体については、結局、何一つコミットしていない。しかも、断定的な書き方を避けながら、まるで、それが心理学的に説明可能な現象であるかのような印象を与え、うまくオカルト臭を消している。なぜか文章の切れ目ごとには、天使の格好をした二人の女の子のマンガが配置されていた。これもまた、アニメ世代の若者の心をとらえる方策なのかもしれない。
それでは、私たちの目を曇らせているものは、いったい何なのでしょうか? そこには、たくさんの要因が挙げられます。まず、私たちが、母なる地球をあまりにも痛めつけてしまったために、地磁気そのものが攪乱《かくらん》されてしまっているという事実があります。さらに、あまりにも多くの化学物質が私たちの生活に入り込んでしまった結果、身体の持っている自然の良能が阻害されています。
しかし今や、私たちにとっての最大の敵は、ストレスなのです。現代におけるストレスは、すでに心理災害とでも言うべきレベルに達しています。間断なく、あまりにも多量のストレッサーにさらされ続け、かつ、私たちを守ってくれるはずの守護天使を否定し去ってしまった結果、私たちの精神はじわじわと蝕《むしば》まれ、取り返しのつかないようなやり方で、崩壊へと突き進んでいます。あなたは、まだ、その兆候に気づいてはいませんか? もし、あなたが日頃、無意識に、他人を厭《いと》わしく思うようになっているとしたら……。
早苗は、長い文章をスクロールして最後まで読んだが、どこまで行っても、同じ論法、同じ種類の根拠を示さない警告が続くだけだった。『守護天使』や、『地球《ガイア》の子供たち』という言葉が何を示すのかということは、どこにも明言されていない。
早苗は、『チャット ルーム』へと飛んだ。チャットは、毎週、決まった時間に行われているらしく、残念ながら、今日は休みだった。だが、過去の発言内容はそのまま残されていたので、ざっと眺めてみる。チャットとは、ふつうは参加者同士による気楽なおしゃべりのことだが、ここでは、一種の人生相談のようなものらしい。問題を抱えた人間が、順番に悩みを打ち明け、それに対して、『庭永先生』なる人物が解決策を与えている。その内容は、早苗の目にはかなりドラスチックに思えるものが多かったが、それなりの説得力を持ってはいた。