たとえば、ある中年サラリーマンからの相談では、妻と母親の折り合いが悪く、帰宅すると両方から悪口を聞かされ、責め立てられるのだということだった。そのたびに、どちらも傷つかないように懸命になだめるのだが、状況は悪化する一方で、胃に穴が開きそうだという。
これに対する『庭永先生』の回答は、文句を言われるたびに、妻も母親も叱《しか》りとばせというものだった。どちらも、相談者が毅然《きぜん》とした態度を示さないことに最もイライラしているはずであり、一家で誰が一番偉いのかはっきりさせれば、自ずから問題はなくなるはずだという。現在の妻と母親の態度は、しつけを受けていない犬の『権勢症候群』と同じ症状であり、ご主人様の命に従わないときは、断固として実力行使(鉄拳《てつけん》制裁)をせよとのこと。
快刀乱麻を断つ、と言いたいところだったが、早苗の見たところ、相談者がアドバイスに従った場合、功を奏する見込みはゼロとは言えないという程度だった。そうした過激な手段によって、あっさり解決を見る場合もあるだろうが、逆に、とんでもないくらい紛糾する可能性もある。
しかし、現在の状況そのものが、相談者にとって耐え難いのであれば、それ以上こじれたところで、失うものはないかもしれない。
早苗は、『チャット ルーム』に残された発言記録に一通り目を通したが、すべて同じような調子で、特に宗教がかったところや、『守護天使』について語っている部分は、ほとんど見あたらなかった。唯一わかったのは、ホームページの本文を書いた人物と、『庭永先生』とは別人だということくらいである。
早苗は、チャットの行われる日に、あらためてアクセスしようと思いかけた。だが、ふと『オフ会のお知らせ』という表示が、早苗の目を引く。クリックしてみると、次のような文章が現れた。
このたび、関係者各位のサブリミナルな声援にお応えして、第五回のオフ会を敢行する運びとなりました。場所と時間は、下記の通りです。例によって、庭永先生のお話の後は、懇親会です。チャットでは話しきれなかったことなどあれば、心ゆくまで肉声で語り合いましょう。じかに庭永先生に悩みを相談できるチャンスもあると思います。そこで、一人でたじろいでいるあなた。この際、思い切って参加してみてはいかがでしょうか? 道が開けるかもしれませんよ。
『オフ会』の会場は、西武池袋線の石神井《しやくじい》公園駅から歩いて十分ほどの場所にある、小ぎれいな建物の中にあった。
十室ほどある部屋は、会議やイベントなどのためにレンタルされており、天井のレールに沿って動く中仕切りによって、自由にサイズを変えられるようになっている。この日も、公務員倫理を考える都民の会から、盆栽愛好会、オセロの選手権試合、マニアによる女子校の制服の即売会まで、硬軟取り混ぜて様々な催しが行われていた。
部屋は、すぐに見つかった。立て札に、『地球《ガイア》の子供たち』と大きく墨書された紙が貼《は》られている。知らない人間がこの立て札を見れば、怪しげな新興宗教の説法会か、環境保護運動の集会だと思うだろう。早苗は、周囲を見回した。幸い、誰もこちらを見ている人間はいなかった。深呼吸してから、そっとドアノブを回す。
部屋は、ちょうど学校の教室くらいの広さになっていた。中にいた四、五十人の視線が、いっせいにこちらに向けられたので、早苗は少し緊張した。だが、それも一瞬だけのことで、すぐに思い思いに談笑を始める。集まっている人々は、どちらかというと女性が多く、年齢層は、若者から初老までまちまちのようだ。
「こんにちは」
三十代半ばくらいの小柄な男が、名簿らしい紙を持って、早苗に近づいてきた。色が浅黒く髪の毛がぼさぼさで、前歯がひどく突出している。だが、貧相ながらも親しみのこもった笑顔には、どことなく相手を安心させるものがあった。おかげで、緊張気味だった早苗も、ごく自然に会釈を返すことができた。
「よくいらっしゃいました。お名前は?」
「あの……佐藤です」
「いや、ご本名じゃなくて、ハンドル ネームでけっこうですよ」
「実は、私、まだ、チャットに参加したことがないんです。ほかの方の発言を読ませて貰《もら》っていただけで。それじゃあ、まずいでしょうか?」
「いやいや。とんでもない。よくいらっしゃいました。大歓迎ですよ。特に今回は、みなさん、初めて参加される方ばかりですし。ただ、ここでは、みなさん、ハンドル ネームだけで呼び合っています。その方が気を遣わないですみますしね。私、今日の『オフ会』の幹事をやってますが、本名より、『めめんと』って言った方がわかると思います」
早苗はうなずいた。その変なハンドル ネームの人物は、司会役として、チャットの中にしばしば登場していた。
「今後はチャットにも参加していただきたいですし、あなたも、適当なハンドル ネームをお決めになっておいた方がいいですね」
早苗は、少し考えた。
「じゃあ、『エウメニデス』っていうのでも、よろしいですか」
「けっこうですよ。『エウメニデス』さんですね。わかりました。由来は、あえて聞きません」
『めめんと』氏は、軽く会釈すると、新しく部屋に入ってきた参加者の方へ行った。
「『エウメニデス』さんですか? よろしく。私、『てふてふ』です」
そばで聞き耳を立てていたらしい頭の薄い中年男が振り返って、嬉《うれ》しそうに言った。事情を知らない人が聞いたら、正気の会話とは思えないかもしれない。
「前は信販会社に勤めてましたけど、リストラされて、今は無職です。庭永先生からは、チャットでは、ずいぶん貴重なアドバイスをいただきました」
「そうですか」
それはよかったですねというのも|憚ら《はばか》れて、早苗は曖昧《あいまい》に微笑した。
「え。ええええ。ああああ。……本日は、みなさま、『地球《ガイア》の子供たち』の『オフ会』にようこそご参加いただきました」
マイクを手にした『めめんと』氏が、朗々とした声で話しだした。
『オフ会』というのは、本来、パソコンのオンライン上だけでコミュニケーションを取っている人間同士が、回線をオフにした状態で、つまり直接会う会のことである。だが、『地球《ガイア》の子供たち』の場合、そういう呼び名が妥当かどうかは疑問だった。チャットが主で会合が従なのではなく、最初からチャットはただの撒《ま》き餌《え》にすぎず、今日の会合の方が本番なのかもしれないからだ。
「庭永先生は、もう少ししたら来られると思います。さっき、携帯が入ったんですが、ちょっと、車が渋滞しているようで……。ええ、本日の予定としましては、庭永先生の講演を聞いていただいた後、質疑応答、それから、河岸《かし》を変えて、と言ってもただの居酒屋なんですが、懇親会を行いたいと思います。まあ、世間一般に『オフ会』と言えば、こっちがメインですので、ぜひ、お時間の許す限り、お付き合いいただきたいと存じます」
『めめんと』氏は、控えめに言っても風《ふう》采さいが上がらない部類だったが、いじけたところや、対人恐怖症的な部分は見られなかった。それどころか、マイクを持って壇上に上がったとたん、嬉々《きき》とした顔つきになって人々を見回し、愛想を振りまいている。『めめんと』氏からは、幸せで満ち足りた気分がオーラのように発散されていた。それは、見ている側にも伝染し、参加者たちも、みな、自然に顔がほころんできていた。
早苗だけが、彼に厳しい目を注いでいた。たしかに、『めめんと』氏には不思議な魅力がある。決して単純に明るいだけのキャラクターではなく、悩みに悩んだ挙げ句、こだわりを捨て去った人間に特有の、突き抜けたような明るさが感じられるのだ。
だが、それはどこか、アマゾンから帰ったばかりの高梨を思い出させるような雰囲気でもあった。
部屋の前のドアが開いた。開襟シャツを着た痩《や》せぎすの男が、姿を見せる。
「あ。庭永先生が来られました。どうか、盛大な拍手でお迎えください」
割れんばかりの拍手が沸き起こった。早苗も、手を叩《たた》く。
「どうも、遅くなりました。みなさん。はじめまして」
会員の応える声に、『庭永先生』は破顔した。真っ黒に日焼けした顔に、白い歯が覗《のぞ》く。
「本日は、ようこそ『地球《ガイア》の子供たち』のオフ会へいらっしゃいました。みなさんたちのうち、ほとんどの方々とは、すでにチャットでお会いしていると思いますが、こうして、じかにお目にかかれて、こんなに嬉しいことはありません」
『庭永先生』の声は低く、少し嗄《しわが》れていたが、よく通った。頬《ほお》がこけ、笑っているときでさえ、眉間《みけん》に深いしわが刻まれている。苦しい修行の末に悟りを開いた高僧のようなストイックな雰囲気を漂わせている反面、その目に堪《たた》えられた光は、慈愛に満ちているように見えた。
「いまさらお断りするまでもないと思いますが、『地球《ガイア》の子供たち』は、宗教団体ではありません。また、営利を目的としないという点で、いわゆる自己啓発セミナーのようなものとも、一線を画しております。私たちが広めようとしているのは、様々なストレスで傷ついた心を癒《いや》すための、テクニックなのです」
『庭永先生』の語る言葉に、特に新味があるわけではない。内容は、むしろ平凡と言ってもよかった。だが、彼からオーラのように発散されている確信は、とても演技によるものとは思えない。聴衆も、すっかり彼に魅せられてしまっているようだ。
早苗は、じっと『庭永先生』を観察し続けた。金儲《かねもう》けのためにインチキ宗教をでっち上げて、教祖を演じているような人間には見えない。強烈なカリスマ性があることだけは、認めざるをえないだろう。
早苗は、高梨がメールに書いてきた、彼の人となりを思い浮かべてみた。抜群の行動力と信念を兼ね備えた、孤高の人。自ら、救世主《メサイア》コンプレックスの持ち主と公言していたという。高梨の人間観察力は、確かだったはずだ。良くも悪くも、偏執病的《パラノイアツク》なパーソナリティの持ち主であったことは、間違いないだろう。
そうした人間は、往々にして独善に陥りやすく、自己批判力が低下すると、自らの妄想に呑《の》み込まれてしまうこともある。
救世主《メサイア》コンプレックスに取り憑《つ》かれた人間は、病的な全能感に支配され、自分が全人類を救うことができると本気で思い込む。現実認識を失った自己イメージは、際限もなく膨らみ、やがて、キリストや、ナポレオン、マザー テレサなどの再来を持って任じるようになる。そして、辻説法《つじせつぽう》や、本人にしかわからない奇怪な方法で、『世直し』を行おうと試みたりするが、その大部分は、誇大妄想狂として、周囲から敬遠されるだけに終わる。
だが、まれに、そうした猪突猛進《ちよとつもうしん》が、有名な鉱毒事件の場合のように、多くの人を救うこともある。その一方で、他人をうまく操れる術に長《た》けていた場合、ヒトラーのように、大勢の人を巻き込んで、とんでもない惨禍をもたらしかねないのだ。
壇上で演説している男は、常人にはない活力に溢《あふ》れてはいるが、現実との接点を失った偏執狂には見えなかった。表情や態度は、あくまでもまっとうな範囲だし、話す内容にも、極端な飛躍や理解しがたい部分はない。
だが、彼の途方もないエネルギーの源、内面で燃えさかっている炎は、いったい何なのだろう。彼自身の信念、使命感なのか。それとも、脳幹に規則正しい|縫い目《ステイツチ》を作っている線虫から与えられる、単なる電気的刺激にすぎないのか。
アイドルを取り巻く親衛隊のような雰囲気の聴衆の中で、一人だけ厳しい顔つきをしている早苗は、かなり目立つ存在だったのだろう。『庭永先生』は、こちらに目をやったときに、視線を留めた。
しばらく、目と目が交錯したが、彼は、意味不明の笑みを口元に浮かべると、早苗から目をそらした。
十分間ほどのスピーチが終わると、『庭永先生』は集まってきた参加者に取り囲まれた。彼らはみな、口々に、自分の悩みを救ってほしいと訴えている。
だが、『庭永先生』は全員を無視し、壇上から降りると、まっすぐに早苗の方へやってきた。
「ああ。こちらは、『エウメニデス』さんです」
影のように付き従っている『めめんと』氏が、言った。
「『エウメニデス』……? なるほど、あなたは、復讐《ふくしゆう》の女神というわけですか」
『庭永先生』の笑みは、早苗を見ているうちに、凄惨《せいさん》なものに変わった。『めめんと』氏は、事態がうまくつかめず、ぽかんとしている。
「はじめまして。庭永先生。それとも、蜷川《にながわ》先生とお呼びした方がいいですか?」
「どちらでも。ただ、平仮名を入れ替えただけですから。私は、最初から、本名のままでいいと思っていた。……できたら、あなたのお名前もお聞かせ願えますか?」
「北島早苗です。精神科の医師をしております。私は、高梨光宏さんの婚約者でした」
『めめんと』氏は、泡を食った様子で割って入り、早苗を蜷川教授から引き離そうとした。だが、蜷川教授は彼を手で制した。
「高梨さんとは、アマゾンで行動を共にしました。いい人でした。また、優秀な作家でもありました。心から、お悔やみを申し上げます。今日は、そのことでいらっしゃったんですか?」
「彼がなぜ、殺されなければならなかったのか、あなたになら教えていただけると思いましたので」
二人の周囲を取り巻いている人々の間から、当惑したようなざわめきが起きたが、すぐに静かになった。大多数の人々は、早苗が冗談を言っているのだと思っているのか、笑顔のままだった。
「高梨さんは、自殺されたように伺いましたが」
「外形的には自殺でも、彼の自由意思によるものではありません。高梨さんの脳は、当時、別の存在によって支配されていました」
「なるほど。でしたら、わざわざ私にお聞きになるまでもないでしょう。その間の事情については、すっかりご存じなわけだ」
「一応の推測はできました。しかし、どうしても、蜷川先生にお聞きしないと、わからないこともあります」
「ほう。どういうことですか?」
「一度もアマゾンへ行ったことがないはずの、畦上友樹さんや滝沢優子さんまでが、どうして感染し、同じような死を遂げなければならないのか、ということです」
再び、ざわめきが起きたが、今度は容易に消えなかった。何人かが早苗の方を指して、何を言っているのかと周囲の人間に訊《たず》ねている。早苗は、じっと蜷川教授の顔を注視していたが、まったく表情に変化はなかった。
「そのお二人なら、覚えていますよ。たしかに、『地球《ガイア》の子供たち』の会員でした。亡くなられたということは伺ってますが、それが、私の責任だとおっしゃるんですか?」
「違うんですか?」
「もちろん、違います。地球上の生命は、等しく、優勝劣敗の法則に従っています。あなたが名前を挙げた方たちは、残念ながら、生き残るだけの強さを備えていなかったということですよ」
「もし、あなたに騙《だま》されて、危険な寄生虫を感染させられなければ、死ぬことはなかったはずです!」
「危険な寄生虫? ウアカリ線虫は、注意して扱えば、けっして危険なものではありませんよ。私や、ここにいる森君が、その証拠です」
蜷川は、ブラジル脳線虫を意図的に感染させたということを否定しなかった。早苗は、怒りに身体が熱くなるような気がした。
二人の周囲は、一転して、水を打ったように静まり返っている。話している内容はよくわからなくても、全員、ただごとでない雰囲気を感じ取っているようだ。
「宿主に対して、死ぬように命令する寄生虫が、危険じゃないとおっしゃるんですか?」
早苗は声のトーンを強めた。驚きの声が上がる。人々は急に、めいめい勝手にしゃべり始めた。会場は、一気に騒然とし始めた。
「なるほど。そう解釈されたわけですか。おそらく、あなたは、高梨さんや赤松助教授の自殺を見て、そういう結論に飛びついたのでしょうが、根本的に誤解している。ウアカリ線虫は、決して、そんな命令などしない」
「ブラジル脳線虫……あなたがウアカリ線虫と呼んでいる生き物は、あたかも|脳 虫《ブレイン ワーム》がアリを操るようにして、次々と感染した人を自殺に追い込んでいます。これだけ大勢の犠牲者が出ている以上、どんなに強弁しても、そのことだけは誤魔化せませんよ」
蜷川教授は、悠揚迫らざる態度を崩さなかった。周囲の騒ぎにも、まったく無頓着《むとんちやく》のようだ。
「私は別に、責任逃れをするつもりはない。ただ事実を語っているだけです。大脳の発達した霊長類の行動は、きわめて複雑だ。とても、吸虫がアリを操るようにはいかない。考えてみてください。『死ね』という命令を出そうと思えば、宿主にまず、『死』の概念を理解させなくてはならないし、『捕食者に喰《く》われろ』という命令を出すなら、サルの意識の中に存在する『捕食者』のイメージを把握してからでなくてはならない。たかが線虫ごときに、そんな洒落《しやれ》た芸当ができると思いますか?」
早苗は混乱した。蜷川教授の指摘には、それなりに説得力がある。
「では、なぜ、これだけ多くの人が自殺しているんですか?」
「それは、不運にも、ごく一部の人間が辿《たど》ってしまった帰結です。あくまでも、結果的にそうなってしまっただけの話でね」
「あの、さっきから言ってる自殺って、いったい何のことですか? それから、寄生虫って……?」
二人の話を聞いていた『てふてふ』氏が、ついに勇を鼓して訊ねたが、蜷川教授は、目もくれようとはしない。
「ウアカリ線虫が、宿主を操る操縦桿《ジヨイステイツク》として使っているのは、脳内の快楽神経なんですよ。文字通り、喜び《ジョイ》によって、宿主をコントロールするわけだ。それは、吸虫がアリを操る以上に単純なメカニズムかもしれない。だが、単純だからこそ、効果的に機能するということがある」
「A10神経系のことは、知っています」
「だったら、話は早い。ウアカリ線虫が実際にやっていることは、マイナスからプラスへとコードを変換する、ただそれだけなんですよ。宿主の脳が強い不安やストレス、恐怖などを感じたときに、彼らは脳内物質の濃度変化からそれを察知し、自動的に快感へと変えてくれるわけです」
「でも、それでは……」
「これは、私自身[#「私自身」に傍点]、感染しているからこそ[#「感染しているからこそ」に傍点]、わかることなんでね。幸か不幸か、私には、この世の中にほとんど怖いものがない。とはいえ、たとえば交通事故に巻き込まれそうになったときには、人並みにひやりとするし、科研費の申請が蹴《け》られたときなどは、強い怒りとストレスを感じる。そんなとき、ウアカリ線虫は、直ちに私の感じたネガティブな感情を鎮め、快感へと転換してくれるんです」
「だったら、どうして、自殺を……」
「あなたも精神科医ならば、推測がつくんじゃないですか? そもそもなぜ、単純に恐怖を快楽へと変えられたサルが、捕食されてしまうのかということです。ジャングルの中で最も激しい恐怖を呼び覚ますのは、言うまでもなく捕食者の接近でしょう。小さなサルにとって、いきなり頭上から自分の何倍もある大きな鳥が舞い降りてきたときの恐ろしさは、たいへんなもののはずだ。当然、すぐに安全な場所に逃げ込もうとする。ところが、ウアカリ線虫に感染したサルの脳の中では、巨大な猛禽《もうきん》への恐怖が快感へと変わるために、その場から動くことが出来なくなる。結局、自ら進んで、捕食者に身を任せてしまうことになるんですよ」
蜷川教授は平然とした様子で、不安な面持ちの聴衆に目をやる。騒ぎは収拾がつかないほど大きくなりつつあるが、誰もが、それ以上、どう反応していいのかわからない様子だった。
「感染した人間の頭の中で起きることも、これとまったく同じです。かりにその人間が、特定の対象に強い恐怖症を持っていた場合、今度は、その対象に強く引き寄せられてしまうことになる。問題は、途中でそれをストップするのが至難の業だと言うことです。対象に近づけば近づくほど恐怖が高まるために、結果的に、より強い快感を感じることになる。そのため、自らを律する訓練の出来ていない人間は、取り返しのつかないところまで行ってしまうんですよ。動物恐怖症の大学助教授は、のこのことトラに近づき、我が子を失うという被害妄想に囚《とら》われた母親は、自らその子を殺害してしまう。醜形恐怖に取り憑《つ》かれていた青年は、自らの顔貌《がんぼう》を薬品でどろどろに溶かし、不潔恐怖症の少女は、アオコの腐敗臭漂う沼で水浴する。そして、死恐怖症《タナトフオビア》の作家は、自ら最も遠ざけたいと思っていた死を選ぶことになる」
早苗は唖然《あぜん》とした。蜷川教授は、話しながら白い歯を見せている。
「だが、さっき私が言ったように、ウアカリ線虫は、正しく対処しさえすれば、決して危険な寄生虫ではないんです。たしかに、哀れなウアカリのような猿にとっては致命的かもしれないが、人間においては少々事情が違う。我々には、意志と未来を見通す力がある。逆に、ウアカリ線虫をコントロールすることもできるはずです。もちろん、注意は必要ですよ。偶発的にも、強すぎる恐怖を感じるような状況は、極力、避けなくてはならない。人間は、圧倒的な快感に逆らえるようにはできていませんからね。だが、ある一線さえ越えなければ、種々の脳内薬品を用いて、強すぎる快感を制御することは可能だ。現実に私たちは、その方法で、今まで生き延びてきた」
早苗は、激しい怒りと戦慄《せんりつ》で、身体が震えるのを感じた。
「あなたは、それでいいでしょう。でも、あなたに騙されて感染させられ、亡くなった人はどうなんですか?」
「これは、壮大な『実験』なんですよ。人類の将来において、どういう個体が生き残っていけるかを選別するための」
蜷川教授は、平然と言い放った。
「自殺してしまったのは、最初から心に致命的な弱点を抱えていた人々です。いわば、人生の不適格者だ。遅かれ早かれ、淘汰《とうた》されてしまったはずです。まあ、彼らにも気の毒な部分はある。ウアカリ線虫に対する対処の仕方を教えられてませんでしたからね。そうした場合は、えてして拙《まず》い結果を招くということがわかっただけでも、大きな収穫と言っていいでしょう」
「人間をモルモットのように殺しておいて、『実験』……?」
「必要な『実験』ですよ。あなたも精神科医なら、現在、我々が置かれている状況は、よくわかっているはずだ。不安や恐怖は、ジャングルの中では必要な機能だったが、文明社会では、逆に大きな負担になっている。現代の人間は、過酷な競争によるストレスと不安、パニック障害などで、押し潰《つぶ》されつつある。強すぎるストレスが加われば、人間の神経細胞は物理的な損傷を受ける。我々のシナプスは、ほとんど擦り切れる寸前と言ってもいい。ウアカリ線虫は、我々を過剰なストレスから守ってくれる守護天使であり、天使の囀《さえず》りこそは、我々が待ち焦がれていた福音です」
「寄生虫の奴隷《どれい》になることが、福音なんですか?」
「かつてインカ文明では、奴隷たちは、コカの葉を噛《か》むことによって過酷な労働に耐えていた。現代では、それが、飲酒やセックス、麻薬や抗精神薬などに置き換わっただけです。だが、それらはいずれも、肉体的・精神的依存という高価な代償を伴うものばかりだ。よくご存じでしょう。中には、有機溶剤のように、主成分が脂肪である脳を溶かしてしまうものまで混じっている」
蜷川教授の言葉は、いっそう熱を帯びた。
「それに比べて、ウアカリ線虫は、いっさい脳にダメージを与えることなく、自動的にストレスをコントロールしてくれる。理想的な、生きたドラッグと言っていい。私は、アマゾンの密林文明について調査した際に、彼らの麻薬文明《ドラツグ・カルチヤー》なるものの正体が、実はウアカリ線虫だったという傍証をいくつか掴《つか》んでいる。残念ながら、彼らの文明は、ウアカリ線虫の濫用《らんよう》によって滅んだようだが、我々は決して、同じ轍《てつ》は踏まない。現代のバイオ技術によってウアカリ線虫を『品種改良』していけば、今後、危険性はますます減少するはずだ」
蜷川教授の目は、一種異様な光を帯びていた。さっきまでの、エネルギッシュな人格者としての仮面は、完全に消えてなくなっている。早苗が相対しているのは、病的な救世主《メサイア》コンプレックスによって突き動かされている、狂信者だった。
「かつて人間は、脆弱《ぜいじやく》な肉体という弱点を、毛皮の鎧《よろい》をまとい、鉄製の武器を身につけることによってカバーした。現在、我々に残された最大のウィークポイントは、心だ。我々は地球上で唯一、自分がいつか死ぬのだということを強烈に意識させられている生き物であり、常に、どうすればよりよく生きられるのか、幸せになれるのかという、答えの出ない疑問に苦しんできた。だが、その心の隙間《すきま》をウアカリ線虫という鎧で覆ってしまえば、我々は無敵の存在になる。二十一世紀は、新たなる共生[#「共生」に傍点]の時代の幕開けとなるでしょう。そのときには、戦争や犯罪、モラルの低下などの問題は、すべて過去のものとなっているはずです。私がやっているのは、そのための準備なんですよ。目先しか考えない安直なヒューマニズムも結構だが、もっと大事なのは、人類全体の行末を視野に入れたグランド・デザインだ。違いますか?」
蜷川教授は、言うべきことはすべて言い終えたというふうに、微笑した。早苗に軽く会釈して、きびすを返すと、すたすたと会場を出ていく。
あわてたように、『めめんと』森氏が後に従った。『オフ会』の参加者たちは、呆気《あつけ》にとられた様子で、誰一人として蜷川教授を引き留めようとする者はなく、黙って二人が立ち去るのを見送った。
早苗もまた、後を追うことができなかった。膝《ひざ》が、がくがくと震えているのがわかる。それが、怒りのためなのか、恐怖によるものなのかは、自分でもわからない。
周囲では、いったん鎮まったざわめきが、再び大きくなりつつあった。
「いいニュースと、悪いニュースがある」
早苗の話を聞いた後、依田は、しばらく腕組みをして考えてから言った。
「いい方は、何ですか?」
「ブラジル脳線虫は、おそらく、蚊によっては伝幡《でんぱ》しない」
それが本当なら、吉報と言うべきだった。
「でも、なぜ、それがわかったんですか?」
「いくつかの証拠から、そう推測できるんだ。少し前に、ブラジル脳線虫の凍結幼虫を国立感染症研究所にいる旧友に送って、サルへの感染実験を依頼していた。筑波《つくば》霊長類センターで実験した結果、ブラジル脳線虫は、霊長目であれば宿主特異性はほとんどないということがわかった。にもかかわらず、アマゾンでは、ウアカリ以外に感染が広がっている様子はない。これが、最大の理由だ」
「蚊を通じて広まるのなら、他のオマキザルにも感染が広がっているはずだということですか?」
「そうだ。ブラジル脳線虫がウアカリを宿主としたのには、いくつかの理由があると思う。ウアカリは、オマキザル科で唯一、水没林《バルゼア》に住んでいる。かつての同僚で、レッド・データ・ブックの編纂《へんさん》なんかにも加わっている男がいるんだが、彼の話では、アマゾンで食物連鎖の頂点に位置するジャガーは、非常に泳ぎが巧みであり、雨期には水没したジャングルでも狩りを行うそうだ。また、ウアカリは、植物質だけでなく、昆虫などの小動物も捕食する。したがって、ウアカリからジャガー、ジャガーの糞《ふん》から昆虫か腹足類などの未知の中間宿主、そこから再びウアカリという、サークルが存在すると考えられる」
依田の講義を聞いていると、なぜか早苗は、安心できるような気がした。
「もっとも、ウアカリの天敵の本命は、ジャガーよりもむしろオウギワシかもしれない。そうだとすると、ブラジル脳線虫が宿主に『天使の羽音』を聴かせている理由がわかる。ウアカリにとっては、オウギワシの翼の音は、そのまま死を意味している。したがって、聴いただけで、すぐに逃げようという条件反射が働くはずだ。ブラジル脳線虫がわざわざ内耳に侵入して頻繁に羽音を聞かせるのは、この、逃走への条件反射を弱める狙《ねら》いがあるのかもしれない」
「……蚊によって媒介されないという、ほかの理由は何ですか?」
「この前も言ったと思うが、ブラジル脳線虫の作る『メドゥーサの首』は、バンクロフト糸状虫のミクロフィラリアのように蚊に吸入されるためには、少々大き過ぎる。それで、筑波霊長類センターでは、特殊な顕微鏡を使って、サルの血管の中で『メドゥーサの首』がどういう振る舞いをするかを観察してもらった。その結果、『メドゥーサの首』は常に血管のサイズぎりぎりの大きさになり、通れないと、いったんばらけてから、適当な大きさに組み直すという行動を取ることがわかった。これで、『メドゥーサの首』が、宿主の全身に効率よく行き渡るためのものだということが、ほぼ実証されたんだ」
想像しただけで肌が粟立《あわだ》つようだったが、いい知らせには違いない。
「おそらく、ウアカリは、かなり長い間にわたって、ブラジル脳線虫の感染を受けてきたんだと思う。そのため、ウアカリの側でも対抗進化をした節がある。あの、ウアカリの奇怪な容貌《ようぼう》自体、感染個体を識別するのを容易にするためなのかもしれない。ブラジル脳線虫に感染すると、しばしば頭皮に白い爬行疹《はこうしん》が現れる。頭部の毛が禿《は》げ上がった上に顔色が鮮紅色ならば、一目瞭然《いちもくりようぜん》だからね」
早苗は、ジョーン・カプランが付けていた観察日記の中で、ウアカリの群れが感染した個体を追放するくだりを思い出した。
結局、ブラジル脳線虫は、繁栄を極めている線虫類の中では落ちこぼれだったのかもしれない。あまりにも特殊化しすぎたために、進化の袋小路に入ってしまったのだ。ウアカリの対抗進化と個体数そのものの減少、さらには、開発によってウアカリの天敵であるオウギワシやジャガーまでが数を減らすことによって、ブラジル脳線虫は絶滅寸前に追い込まれていたはずだった。人間という、新しく、きわめて魅力的な宿主を発見するまでは。
早苗は、蜷川教授が、滅亡したアマゾンの古代文明がブラジル脳線虫を利用していたと言っていたことを思い出した。はたして、ブラジル脳線虫と人類との関《かか》わりは、そのときが最初だったのだろうか……。
「そもそも、アマゾン探検隊と関わりのない若者が二人も感染していたことで、蚊による感染の可能性を疑ったわけだが、それも、あなたの話で理由がはっきりした。要するに、ブラジル脳線虫は、人為的に[#「人為的に」に傍点]感染を広げられていたわけだ」
依田は、まるで、それがごく自然な成り行きであるかのような、呑気《のんき》な言い方をした。
「ただ、蜷川教授は、どうやって大量のブラジル脳線虫を日本に持ち込むことができたんでしょうか? ワシントン条約によって、ウアカリ属の輸入は全面禁止されているはずです。自分の身体から虫卵を取り出して、継代飼育するのは、相当難しいんでしょう?」
「まあ、まず無理だろうな。専門家の中でも、よほどの特殊技能がなければ」
「依田さんみたいな、ですか?」
「そうだな」
依田は、照れもせずに答えた。
「だが、彼らが採った方法は、だいたい想像がつく。実は、森助手の研究室に問い合わせてみたんだ。森助手とデータのやりとりをしていたんだが、突然連絡がつかなくなって困ってますと言ってね。すると、森助手は、帰国してから、もう一度アマゾンに渡っていることがわかった。期間は、一、二週間だ。しかも、その時、森はモンクサキというサルを数頭、個人で輸入したらしい。これも、たまたま|送り状《インボイス》が大学に届いたんで、わかったんだ」
「モンクサキ?」
「私もよく知らなかったんだが、オマキザルの一種で、最もウアカリに近縁の種類ということだった」
早苗は、高梨からのメールに、その名前があったのを思い出した。陰気な顔をした、灰色のサル。顔つきや雰囲気が、森にそっくりだという。
「これから先は、推測だがね。おそらく、蜷川教授の指示で、森はアマゾンヘ渡航し、『呪《のろ》われた沢』でブラジル脳線虫に感染したウアカリを捕獲し、その肉をウアカリと近縁のモンクサキに食べさせて、ペットショップを使って輸入したんだと思う」
「検疫は、どうやってパスさせたんですか?」
「そんなものはないよ」
「ない? でも、実験用のサルは……」
「あなたの疑問は、しごくもっともなんだがね。実験用のサルとペットとでは、扱いが違うんだよ」
依田は淡々と、早苗の心胆を寒からしめるような説明をした。
「たしかに欧米では、以前からサル類の厳しい輸入規制を行ってきた。アメリカでは、かの有名な|疾病管理センター《CDC》が、人への疾病の感染を防ぐ観点から、徹底的な検疫を行っている。ヒト以外の霊長類については、輸入者は登録が必要で、しかも輸入目的は、科学、教育、展示の三種類に限られ、ペット目的での輸入は禁止されている。英国では、アカゲザルが狂犬病を持ち込んだ事件以来、サルの厳重な輸入検疫を始めた。ドイツでも、マールブルグ病がきっかけで、研究用とサーカス用以外のサルの輸入を全面的に禁止している。しかし、日本に限っては、サルの輸入規制はいっさいないんだ」
「じゃあ、誰でも、いくらでも、勝手に輸入できるんですか?」
「たしか一九七三年だったと思うが、厚生省は人畜共通伝染病調査委員会を設置して、サル類の輸入の実態調査を行った。これにより、恐るべき実態が判明した。輸入サル類は、約八割がペット用で、しかも、赤痢菌や寄生虫に高率に汚染されていた[#「赤痢菌や寄生虫に高率に汚染されていた」に傍点]んだ。この結果に基づいて厚生省が何をしたかというと、輸入業者に対して、『自主的規制を指導』しただけだった。それから今日に至るまで、何の追加措置も採られてはいない。つまり、サルの検疫は、すべて業者任せで、実験用のサルに対しては、専門会社が最低九週間かけて行う厳重な検疫が施されているが、ペット用の猿に関しては、だいたいペットショップなどに検疫の能力があるはずもないから、事実上フリーパスということなんだ。したがって、ペット業者を通せば、寄生虫に感染したサルを輸入することなど簡単なんだよ」
「……でも、厚生省は、あまりにも無責任じゃないですか。エボラ出血熱の問題でも明らかですけど、人間に最も近いサル類をペットにすることは疫学的に危険が大きすぎますから、本来なら、アメリカのように即時全面禁止にすべきなんです」