「動物検疫に関する厚生省の杜撰《ずさん》さ、やる気のなさは、何も今に始まったことじゃない。たとえば、我々の世代なら、だいたい記憶にあるんだが、かつてある菓子メーカーが、『アマゾンのミドリガメ』を景品としてばらまいたことがあった。その後、同じ種類の亀は、人気が出て、日本中のペットショップで売られるようになった。だが、ミドリガメは以前から危険なサルモネラ菌の宿主として知られており、アメリカでは、甲羅の直径が十センチ以下のものについては販売が禁止になっている。子供が口に入れたりする危険性を考慮してのことだ。だが、まさに子供をターゲットとした菓子の景品であったにもかかわらず、使われたのは仔亀《こがめ》だった。この時も、多くの医学者から上がった警告を無視して、厚生省は拱手《きようしゆ》傍観を続けた。もし死者でも出ていれば、それからおみこしを上げるつもりだったんだろう。そんなエピソードなら、枚挙にいとまがないくらいだ」
依田の舌鋒《ぜつぽう》は、一段と激しさを増した。
「厚生省がこれまで汲々《きゆうきゆう》として守ってきたものは、自省の権益と製薬業界の利害に尽きる。国民の生命や健康などには、最初から何の関心も持っていないんだよ。その体質こそが、薬害エイズ事件を始めとして、スモンやサリドマイド、さらには汚染された脳硬膜移植による|クロイツフェルト・ヤコブ病《CJD》など、数限りない薬害事件の温床となってきたんだ。賭《か》けてもいいがね、たとえ行政改革で看板だけ掛け替えたところで、彼らの本質が何ら変わらない以上、薬害の悲劇は、これから何度でも繰り返されるよ」
だが、ブラジル脳線虫の問題にしても、最終的には、その厚生省に頼るしかないのだ。これは最悪の状況かもしれない。
「……そう言えば、『悪いニュース』というのを、まだ聞いてませんでしたけど」
早苗は、おそるおそる訊ねた。
「ああ。私が口で説明するよりも、これを見た方が早いだろう」
依田は、机の引き出しから、何のラベルも貼《は》っていない黒いVTRのカセットを取り出すと、パソコンモニターと接続してあるビデオデッキに入れた。
映し出されたのは、研究室の内部のようだった。依田の大学よりは、はるかに設備が整っているようだ。依田が説明する。
「これは、筑波霊長類センターの中だ。私が送った『メドゥーサの首』の凍結幼虫を解凍し、さまざまなサルに対して感染実験を行った。使ったサルは、ニホンザルと同じマカク科に属するカニクイザル、HIVの起源ではないかと言われているアフリカミドリザル、この中では唯一の新世界ザルであるコモンリスザルの、三種類だ」
モニターには、時間を追ってのサルの様子の変化が現れた。
「ブラジル脳線虫は、霊長類の体内にいるときだけ、爆発的な増殖を見せるんだが、感染したサルは、いくつかの段階《フエイズ》を経ることがわかった。これを、第一段階から最終の第四段階まで撮影してある。小さなサルほど、段階間の移行が早い。この場合、コモンリスザルに、最も早く症状が現れている。また、狭いケージに入れ、運動不足の状態で高カロリーの餌《えさ》を飽食させた場合、過程がさらに加速されるようだ」
ブラジル脳線虫に寄生されたサルの様子は、ジョーン・カプランの記録にあったのと、ほとんど同じだった。最初は、健康なサルよりもむしろ、元気そうに見える。旺盛《おうせい》な食欲で餌を食べ、隣のケージのサルにも、しきりに関心を示す。カニクイザルやミドリザルに比べて、リスザルが最も影響を強く受けているようだった。
「これが、第一段階だ。A10神経系に刺激を受ける結果だろう、気分|爽快《そうかい》となり、活動性が高まる」
画面が切り替わり、再び現れたのは、さっきのリスザルだった。相変わらず活動性が高いが、かなり落ち着きがなくなっている。餌の食べ方も、がつがつと貪《むさぼ》るような感じだ。隣のケージに、もう一頭のリスザルを入れると、大きな鳴き声を上げ、激しく格子を揺すったり、噛《か》みついたりする。
「第二段階では、爽快感は病的なまでに亢進《こうしん》しているようだ。隣のケージに入れたのは、メスの個体だ。感染個体の方は、繁殖期でもないのにしきりに求愛行動を取るようになる」
リスザルの様子が、高梨の取った行動と二重写しになり、早苗は両手をぎゅっと握りしめた。
次に、画面にはサルの頭部のアップが現れた。頭頂を中心として、うねうねと蛇行している白い筋は、すでに何度もお目にかかっている爬行疹《はこうしん》だった。こうしてあらためて見ると、不規則な曲がり方は、肝硬変のクモ状血管を思わせる。
「爬行疹は、第一段階から第二段階の始めにかけて現れる。必ずしも時期は一定しないし、中にはまったく現れない個体もあった」
再び、画面転換。今度は、リスザルの様子は一転していた。動作が不活発になり、ぼんやりと瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っているような状態である。相変わらず食欲だけは旺盛で、最初と比べてかなり太ったようだ。
「これが、第三段階だ。多幸症を通り越して、一種の無感動状態《アパシー》に陥っている。実験前は、これが最終段階だと思っていた」
「違うんですか?」
「通常は、これで終わりだ。野生状態でここまで活動性が低下して、しかも捕食者が現れても逃げようとしなければ、餌食《えじき》にされるのに時間はかからないだろう。だが、もし、感染した個体がいつまでも喰《く》われずに生きのびたらどうなるのか。その疑問への答えが、もうすぐ現れる」
画面には、奇妙な映像が現れた。
「これが、第四段階。最終段階だ。奇妙なことは、実験に使った三種類のサルは、それぞれ異なった段階にあったにもかかわらず、一頭が第四段階に突入すると、まるでつられるように、次々と変化していったということだ」
早苗は茫然《ぼうぜん》として画面を見守った。サルはどれも、身じろぎ一つせずに沈黙を守っている。
「この段階に入ると、どの種類のサルも、ほとんど鳴き声をたてなくなる。この次は、ちょっと刺激が強すぎるかもしれない。第四段階に入ったリスザルを解剖するシーンだ」
早苗は、口を押さえた。喉《のど》の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。
次いで、解剖されたリスザルの体組織が拡大して映し出された。彼女は、カプランの手記にあった、『|Typhon《テユポン》』という不気味な言葉が何を暗示していたか、ようやく悟っていた。耳の奥に、晶子の声がよみがえる。
『スネークカルトの象徴でもあるテュポンは、最後はゼウスの雷によって滅ぼされたんだけど、その身体は、無数の|蠢く《うごめ》毒蛇が寄り集まってできた、異様なものだったということよ』
ピンぼけの写真に写っていた袋状の物体の正体がわかると同時に、謎《なぞ》は次々と氷解していった。
「だいじょうぶですか? 顔色が悪いが」
依田が、いつのまにか早苗のすぐ横に来て、腕に手をかけていた。心配そうな表情が見える。目を転じると、ディスプレイにはまだ、異様な物体がいくつも映し出されていた。早苗は目を閉じる。
「悪かった。今の映像は、見せるべきじゃなかったようだ」
早苗は、首を振ってから、声を絞り出した。
「違うんです。やっと、わかったんです。ロバート・カプランが、最後に何を見たのか。そして、なぜ、愛する奥さんと一緒に焼身自殺しなければならなかったのか」
「ブラジル脳線虫に感染していたからだろう?」
「いいえ。感染していたのは、奥さんだけです。カプランは、奥さんが感染したことに気づいていました。そして、感染したウアカリ数個体を、天敵に捕食されないように、金網の中で飼育したんです。その結果ウアカリがどうなったかを見て、彼は奥さんと共に焼身自殺しました。愛する奥さんに、同じ運命を辿《たど》らせたくなかったからです」
「しかし、なぜ、それがわかる?」
「あの手記を読めば、最初から明らかだったんです。カプランの文章は、剥《む》き出しの『恐怖』に満ちていました。もし、彼もまたブラジル脳線虫に冒されていたのなら、どんな状況が起きても、恐怖はすぐに打ち消されてしまうはずです」
「……そうか」
依田は、ビデオを止めた。
早苗の胸の中に、熱いものが込み上げてきた。高梨を始め、線虫に操られるロボットと化して、死へと向かっていった人々の姿には、あまりにも救いがなさすぎた。それを思うと、最期の瞬間まで人間らしい矜持《きようじ》を持って、妻への愛のために自ら死を選んだカプランは、心から立派だと思う。
肩に、依田の手が置かれた。いつものぶっきらぼうさにそぐわない、優しい仕草である。
「依田さん……」
彼の胸に抱き寄せられた時も、早苗は別段、驚きを感じなかった。ただ、上目遣いに薄茶色の目を覗《のぞ》き込んだ時、まるで高梨に抱かれているような錯覚に陥って、どきりとした。
何もかもが自然で、ずっと以前から、こうなる運命だったような気がした。
依田は、細長い指で、早苗のおとがいをそっと持ち上げる。
早苗は、ゆっくりと目を閉じた。
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十六章 変 貌
二ヶ月が過ぎ、十月の半ばになっても、オフ会の会場から姿を消した蜷川《にながわ》教授と森助手の行《ゆくえ》方は、杳《よう》としてわからなかった。
『地球《ガイア》の子供たち』のホームページも、翌日には削除されてしまっていた。早苗はその後も毎日、さまざまなキーワードを使って検索を続けていたが、今のところ、何も引っかかって来ない。蜷川教授は、インターネットを使って勧誘するのを諦《あきら》めたか、少なくとも、やり方を変えたのだろう。
依田とは、二日に一回くらいのペースで会っていたが、最後には、必ず議論になった。
早苗は、個人の努力で二人の行方を追うには限界があり、警察の助けを借りるべきだという意見だった。だが、依田はそれには否定的だった。蜷川教授と森助手については、すでに家族から捜索願が出されている。警察に、それ以上本気で彼らを捜させるには、ブラジル脳線虫のことを説明するしかないが、まず間違いなく一笑に付されるだろう。たとえ、半信半疑の状態になるまで説得できたとしても、結局は、保健所から厚生省を通じて、くだんの『権威』に問い合わせることになる。『権威』が、警察に対してどういうご託宣を下すかは、考えるまでもないと言うのだ。
だとすれば、適当な口実をこしらえるしかないが、かりに彼らを詐欺か何かで刑事告発したとしよう。警察が首尾よく居所を発見しても、調べれば、すぐに事実無根だということがわかってしまう。彼らをその後もずっと拘束しておくのは無理だし、嘘《うそ》をついたことがわかれば、こちらの立場は、きわめて悪くなるだろう。その後は、たとえ有力な証拠を掴《つか》んでも、まったく取り合ってもらえなくなる恐れがあった。
最後の手段としては、福家を通じて新聞社を巻き込むということも考えられた。だが、これも、福家個人ならともかく、大新聞社がブラジル脳線虫の話を信じて協力してくれるとは、とても思えなかった。
この二ヶ月間、まったく何事もなく過ぎたということが、早苗には、かえって不気味でならなかった。貴重な時間を空費してしまったという気がする。
この日、午後の回診の間も、早苗の頭にはずっとそのことが蟠《わだかま》っていた。部屋に帰ってきたとき、タイミングを計ったように、外線からの呼び出し音が鳴る。
「もしもし、北島先生をお願いします」
受話器を取ると、若い女性の声がそう言った。どこかで聞いたことがあるとは思ったが、すぐには思い出せない。
「はい。私ですけど」
「あの。浜口麻美です。前に、滝沢優子さんのことで」
相手はそう言って、言葉を途切らせた。
「ああ。そうだったわね」
早苗の脳裏には、幕張《まくはり》で会った少女の顔がはっきりと浮かんだ。何かを予期して交感神経が緊張し、心臓の鼓動が早くなる。
「彼女のことで、何か、思い出してくれたの?」
「ええ。でも、大したことじゃないんですけど……」
麻美の声は、電話をかけたことを後悔しているかのように、小さくなった。
「どんなことでもいいのよ。電話してくれて嬉《うれ》しいわ。教えてくれる?」
「はい。あの、今年の春頃なんですけど、優子さんが、ジャムをくれたんです」
「ジャム?」
「ええ。ブルーベリーとサクランボの。旅行のお土産だって言ってたんですけど、どこへ行ったのかは、教えてくれなかったんです。わたしも、特に聞かなかったんですけど」
「そう」
「でも、朝食にジャムを出したとき、後ろのラベルに、産地が書いてあって。そのとき、優子さん、誰と遊びに行ってたんだろうって思ったんです。ついさっき、思い出したんですけど」
「どこだったの?」
「詳しくは覚えてないんですけど、那須のどっかでした」
「那須……」
早苗の頭の中で、何かが結びついたようだった。赤松助教授が自殺したのは、那須高原サファリパークだった。赤松助教授と滝沢優子が、ともに那須を訪ねていたというのは、単なる偶然とは思えない。
早苗は、麻美に礼を言って電話を切ると、アドレス帳を見て、滝沢優子の実家の電話番号をプッシュした。優子の身元を確認したときに控えておいたものだが、まさか、こんな風に役に立つとは思っていなかった。
電話に出たのは、優子の母親だった。まだ心の傷が癒《い》えていないだろうにと思い、心が痛んだが、優子が手帳か何かに電話番号を残していなかったかと訊《たず》ねる。母親は、早苗に対して、娘の身元を明らかにしてくれたということで恩義を感じているらしかった。すぐに、優子の遺品を探しに行ってくれる。
電子手帳だったら面倒だと思ったが、幸い、母親が見つけだしてきたのは、ごくふつうの手帳らしかった。住所録に028で始まる栃木県の電話番号がないかと訊ねる。一つだけあったが、名前の欄は白紙だという。早苗は、その番号を控えた。
今度は、その番号にかけてみたが、応答がない。
時間をおいて、三度かけてみたが、結果は同じだった。呼び出し音は鳴っているらしいが、誰も受話器を取らないのだ。
早苗は、しばらく考えてから、依田に電話をかけた。依田は、黙って彼女の話を聞いていたが、彼の口から出てきたのは、彼女の予想を裏切り、この週末に、ドライブへ行かないかという誘いだった。
迎えに来た青い車を見て、早苗は微笑《ほほえ》んだ。最近の国産車の流れるようなラインとは違い、四角張ったブリキの玩具《おもちや》のようなフォルムで、特に、フロントスクリーンが真っ平らなところが、妙に懐かしさを感じさせた。
「どうぞ」
依田が、手を伸ばして助手席のドアを開けた。左ハンドルなので、早苗は道路の側に回り込んだ。依田は、早苗の持っていた旅行カバンを受け取る。後部シートを前に折り畳んでラゲージ・スペースを作ってあったが、たくさんの段ボール箱で、ほぼ満杯の状態だった。依田は、カバンを段ボールの上に無雑作に載せる。
早苗が乗り込んでシートベルトを締めると、車は発進した。ドライバーの技量もあるのだろうが、きびきびとした走りである。エンジン音などの細かなノイズがあり、サスペンションの利いた国産車と比べると、シートに伝わってくる震動も大きい。だが、不思議に乗り心地は悪くなかった。
「これ、何ていう車?」
「フィアット パンダ|4×4《フオー バイ フオー》。まだ、君を乗せたことはなかったな」
「フォー バイ フォーって?」
「車輪が四つあって、そのうち駆動するのも四つということ」
車輪が四つ以外のことがあるんだろうかと思ったが、あえて質問はしなかった。
「へえ。小さいけど、四輪駆動なんだ」
「駆動装置は、オーストリアのシュタイヤー プフ社製だよ」
依田は自慢げに言ったが、もちろん早苗には、何のことだかわからない。
「可愛《かわい》い車ね」
「まあね。何といっても、ジョルジエット ジウジアーロのデザインだからな」
「その人って、有名なの?」
「聞いたことないかな? イタリアを代表する産業《インダストリアル》デザイナーで、車で言えば、VWゴルフや、ピアッツァなんかを設計した人」
それからしばらくの間、依田は、ジウジアーロの業績と、フィアット パンダの素晴らしさについて熱っぽく語り続けた。早苗は、ときどき相槌《あいづち》を打つ以外は、黙って依田の話を聞いていた。
依田も自分も、これから向かう場所で直面するであろう事態から、目をそむけているだけだとわかっていた。だが、そのことを話題に上せるのが、怖かったのだ。
フィアット パンダは、渋滞にも遭わず、順調に練馬ICから東京外環自動車道を通り、川口ジャンクションから東北自動車道に入った。着実に目的地へと近づいていく。早苗は腕時計を見た。午前九時三十分。浦和ICから那須ICまでは、だいたい150㎞の距離だから、オービスに引っかからない速度で走って、一時間半ほどだろう。那須ICを降りてからの時間を考えても、昼前には目指す建物に到着することになりそうだった。
「……場所は、わかってるの?」
早苗は、依田がフィアット パンダのリーフリジッド サスペンションの特性について説明し終えたときに、訊ねた。
一瞬の沈黙があり、依田は、移動式の灰皿で煙草をにじり消すと、煙を吐いた。半分開いた窓から入ってきた風が、煙を吹き散らす。
「住所は確認してある。君が聞いてきてくれた電話番号から、夕刊紙に広告が出てた業者に依頼して調べたんだ。貸別荘らしいということまでわかったんで、客みたいな顔をして仲介の不動産屋に行ったら、世間話の合間に、ぺらぺらと何でも話してくれたよ」
「貸別荘?」
「ああ。だが、場所が中途半端で人気がなかったために、大学のサークルの合宿や企業の新人研修なんかを当て込んで、セミナーハウスに模様替えしたんだそうだ。そういうのが、一時期需要が多かったそうでね。だがそれでも、依然として利用状況は芳しくなかったらしい。それが、今年の五月から、半年契約で借り手がついた。条件としては、三、四十人が合宿できて、集会のできる大広間があって、瞑想《めいそう》の邪魔にならないような静かな場所にある物件ということだったんで、担当した営業マンの話では、これは宗教か人格改造セミナーのたぐいだとぴんときたそうだが、借りてくれる以上はお得意さんだ。特に、この不景気では、客の選《え》り好みなんかはできない。契約後、賃貸料は一年分が前金で振り込まれた上に、極端に干渉されるのを嫌っている様子だったので、一度も連絡は取っていないそうだ」
「たしかに、連絡はつきにくいみたいね。私が電話をしたときも、誰も出なかったわ」
「ああ」
「居留守を使ってるのかしら? それとも……」
「まあ、今、あれこれ気を回してみても、しょうがないよ。行ってみれば、わかることだ」
依田は、新しい煙草に火を付けた。それから煙を気にしたのか、レバーを引いて、キャンバス地のサンルーフを全開にする。秋の日射しが車内に降り注ぎ、風がリズミカルで小気味よい音を立てた。
早苗は、ほっと救われたような気分になった。こうして吹きすさぶ風の音を聞いていると、それだけで心身が清められるような気がする。爽籟《そうらい》という言葉を思い出した。簫《しよう》の音のような秋風の爽《さわ》やかな響き……。
あたりの景色に目を向ける余裕を取り戻す。天気も快晴だし、こういう状況でなければ、楽しいドライブだったかもしれない。フィアット パンダという車も、気に入り始めていた。
だが、少し首を巡らせると視野の隅に映る、シートの後ろに積まれている荷物が、否応なく、前途に待っているものを思い起こさせた。
「君のカバンには、何が入ってるの?」
早苗の視線を見て、依田が訊ねた。
「一応、一通りの診察ができる道具を。それと病院から、線虫病の薬をいくつか持ってきたの。サイアベンダゾールとか、メベンダゾールなんか……」
「そうか」
依田は何も感想を述べなかったが、早苗には、彼の考えていることがわかっていた。どんな薬を持ってきたとしても、気休めでしかない。脳幹の奥深くに巣くっているブラジル脳線虫を駆虫できる薬など、あるはずもないのだ。
「依田さんの、この大きな荷物は?」
「ああ。まあ、何かの役に立てばと思って持ってきた。農学部の付属農場へ行って、主に土壌消毒のための殺線虫剤とか、有機塩素系の殺虫剤なんかを調達してきたんだ」
「……そう」
それから、しばらく会話が途切れた。
早苗は、今日は福家も連れて来ていれば、もっと心強かったのではないかと思い始めていた。少し窮屈かもしれないが、後ろで段ボールの上にでも腰かけさせておけばいい。その様子を想像して、早苗の口元は少し緩んだ。
だが、福家に助力を求めることには、依田が強硬に反対した。新聞記者に包み隠さず事情を打ち明けるということは、何もかも公表する覚悟を決めるということでもある。先の見えない今の段階では、秘密裏に事を運ぶという選択肢を残しておかなくてはならないというのだ。結局、それには、早苗も同意せざるを得なかった。
「以前、私の妻が事故で死んだという話はしただろう?」
依田は世間話をするような何気ない調子で言った。
「ええ」
「私が殺したようなものなんだ」
穏やかでない言葉に、どきりとする。当たり障りのない話題に切り替えた方がいいのだろうか。だが、ホスピスでの経験から、彼に最後まで話させようと思った。
早苗は黙って、彼が話し始めるのを待った。依田は、しばらくしてから、堰《せき》を切ったように話し始めた。
「五年前だった。私は結婚が遅かったから、まだ新婚一年目のことでね。妻は、妊娠八ヶ月だったんだが、ある晩、気晴らしにドライブに行きたいと言い出した。結婚前は、よく夜中にドライブに出かけていたんだ」
依田は口をつぐんだ。まるで、そのときの感触がよみがえってきたというように、ハンドルを握っている両手を眺める。
「……嫌な予感がした。前から、何かが猛スピードで近づいてくる。それが、ヘッドライトを消して、反対車線を逆走してきた車だと気がついたときには、判断の時間は、一秒の何分の一かしか残されていなかった。私は、左に急ハンドルを切った。間一髪で、衝突は回避できた。逆走してきた車は、そのまま何事もなかったように走り去った。だが、私たちの乗った車は、歩道に乗り上げて、電柱に衝突した。私は、奇跡的にかすり傷一つ負わなかった。しかし、助手席にいた妻は即死だった。もちろん。お腹の子供もだ」
「ひどい……」
「事故の原因を作ったドライバーは、ついにどこの誰だかわからなかった。それも、当然かもしれない。相手は、ただ走りすぎただけで、現場に塗料片一つ、ブレーキ痕《こん》さえ残していないんだからね。私の記憶も混乱していて、白っぽい乗用車というだけで、それ以外の特徴は何一つ思い出せなかった。結局は、私の脇見《わきみ》か居眠り運転による、単なる自損事故ということになった。警察や保険会社に、どんなに逆走してきたドライバーがいたと訴えても、責任回避のための作り話をしているとしか思われなかったんだ」
早苗には、何一つ慰めの言葉が思いつかなかった。
「今でも、あのときのことを夢に見ることがある。私は、同じように左に急ハンドルを切り、相手は、平然と走り去る。そして、そのたびに、ぐったりとして動かなくなった妻を抱いて、歯噛《はが》みしながら思う。今度こそ[#「今度こそ」に傍点]、絶対に回避なんかしない。正面衝突してやると」
話し終えると、依田は、ぴたりと口をつぐんだ。両手でハンドルを握り締め、怖いような目で、じっと前方を見据えている。横顔は固く、一切の慰めを拒否しているようだった。
早苗は、彼に言葉をかけるのを諦《あきら》めた。再び、沈黙が訪れる。耳に届くのは、はためくような風の音だけだった。
依田の心に暗い影を投げかけてきたものが、ようやくはっきりした。日頃の、ぶっきらぼうで強気な態度には、それほど辛《つら》い経験を経てきたと窺《うかが》わせるものはなかった。よほど強い精神力によって、自分を律しているのだろう。だが、表面では平気な顔を取り繕っていても、内側では、傷痕はいまだに癒《い》えず、血を流し続けているのだ。
早苗は、何とかして、彼を救ってあげたいと思った。多少でも、苦しみを軽くすることはできないのだろうか。過去をすっかり忘れ去ることは不可能でも、徐々に、気持ちを未来に向けていくようにすることは。
そのために、もし、自分にできることがあれば……。
早苗は、依田の横顔を見つめた。
依田の気持ちには、少し前から気がついていた。もともと、素直に自分の思いを口にできるタイプには見えないし、何をしようとしても、辛い記憶は足枷《あしかせ》になるだろう。事故後五年を経過しても、依田は、自分だけが幸せになることには罪悪感があるようだった。
にもかかわらず、彼は、出会って間もない自分に、すべてを打ち明けてくれた。そのことは、嬉《うれ》しく思う。
問題は、今、その話をする気になった理由だった。
もしかすると、依田は、今話しておかないと、二度とチャンスがないかもしれないと考えたのかもしれない。
これから行く場所で、待ち受けているもの[#「待ち受けているもの」に傍点]によっては。
那須ICで東北自動車道を降りてから、フィアット パンダは那須街道を北上した。しばらく行ったところで、右折する。
「あっ。ちょっと、止まって!」
早苗の叫び声に、依田は反射的にブレーキを踏んだ。フィアット パンダのブレーキは、利きが良すぎるくらいで、つんのめるような感じで道端に停車する。
「どうしたの?」
早苗は、『天使の荊冠《けいかん》美術館』と書かれた看板を指さした。
「赤松助教授か?」
「ええ。やはり、そうだったのよ。まっすぐ那須高原サファリパークに向かったとしたら、なぜ赤松助教授がこの美術館を見つけられたのか、不思議だったんだけど。赤松助教授は、この道を通って[#「この道を通って」に傍点]セミナーハウスに向かう途中で、偶然、この看板を見たんだわ。そして、『天使』という言葉に惹《ひ》かれて立ち寄った」
「そうか。……だったら、もう間違いないな」
依田がアクセルを踏むと、フィアット パンダは、弾《はじ》かれたように走り出した。別荘の点在する高原の秋の木立の間を、猛スピードで進む。途中で細い道に入ってから、急に路面の状態が悪くなったので、さっきまでと比べると、かなりバンピーなドライブになったが、もはや乗り心地を気にしているような余裕はなかった。
早苗は、そっと依田の様子を窺った。彼が目いっぱいアクセルをふかし続けているのは、そうしなければ怯《ひる》みそうになる、自分の心と戦っているのだということはわかっていた。早苗自身、心の裡《うち》で恐怖がどんどん膨れ上がりつつあるのを意識していた。
道が大きくカーブし、木々が疎《まば》らになっているところで、フィアット パンダは急に減速し、ゆっくりと止まった。
「たぶん、あれだ」
依田は、白樺《しらかば》の木立の向こうに見える建物を指さしながら、ささやいた。
早苗は、食い入るように見た。何の変哲もないモルタル塗りの二階建てである。正面の白壁に埋め込んである白木の丸太だけが、アクセントになっている。外観からは、ただの保養施設のようにしか見えない。
あたりは、ひっそりと静まり返っていた。近くにはほかの別荘はないし、頻繁に車の通る道からも隔たっている。いくら聞き耳を立てていても、建物自体からは何の音も聞こえてこなかった。
二人は、しばらくそこで建物を監視していたが、依田は再び車を発進させた。
「どうするの?」
「ここでこうしていても始まらない。とりあえず、車を前につけよう」
早苗は、浮き足立つような気分を押さえつけ、両手を握りしめた。
依田は、フィアット パンダを、建物の真ん前に止めた。エンジンをアイドリングさせたまま、ドアを開け、早苗を見やる。
「君は、車の中で待っていてくれ」
「いいえ。私も一緒に行きます」
依田は何か言いかけたが、早苗の顔を見ると黙って車のエンジンを切った。
建物の表には、『那須高原セミナーハウス』という素っ気ない木の札が掛かっているだけである。依田は、メイルボックスに書かれている建物の所番地を確認してから、インターホンを押した。応答はない。正面玄関には、鍵《かぎ》はかかっていなかった。依田は、分厚い白木のドアを開けると、内に向かって「ごめんください」と声をかけた。
やはり、応える声はなかった。だが、早苗は、そこが無人ではないような感触を持った。大勢の人々が、どこかで、息を殺しながらこちらの様子を窺っているような気がしたのだ。
しばらく待ってから、依田は、土足のまま上がった。抵抗はあったが、早苗もそれに倣《なら》うことにした。裸足《はだし》では、柔らかい足の裏を負傷する危険があるし、万一の場合には、靴を履いていた方がすばやく逃げ出すことができる。
玄関の正面は壁で、左右に廊下が続いている。右は食堂、左は大浴場という表示があった。二人は食堂の方へ行ってみることにした。食堂と厨房《ちゆうぼう》設備、それにテレビとソファのある休憩室があったが、そこにも人影はなかった。
早苗は、食堂の中を見回した。特にちらかっているというわけではないが、いくつかの椅子が引いたままになっており、テーブルの上には、コップが出しっぱなしになっている。妙に雑然とした雰囲気だった。灰皿の縁の部分には、すでに火は消えているが、吸いかけのような格好で煙草が載っていた。
「ここ、少し前まで誰かが生活していて、急にいなくなったような感じがしない?」
「ああ。まるでマリー セレステ号だな」
早苗は、厨房のドアを開けた。とたんに、塵芥《じんかい》でいっぱいのゴミ箱を真夏に開けたときのような悪臭に顔をしかめた。臭《にお》いの元は、すぐにわかった。流しに出されている大量の食器が、洗われないまま放置されており、食べ残しの残飯が腐敗しているのだ。
「ひどいな。これは」
依田も、鼻の付け根に皺《しわ》を寄せていた。
「ここの住人が失踪《しつそう》したんだとしても、たった今ということはなさそうだ。これを見ると、少なくとも一、二週間はたってるんじゃないか?」
依田は、季節はずれの大きなカビの塊に覆われた皿を指さした。
「どうするの?」
「二階を見てみよう」
二人は、階段を上がった。早苗の胸騒ぎは、さっきから強まる一方だったが、襖《ふすま》を開け一目見ただけで、そこには何もないことがわかった。大宴会場のような畳敷きの部屋の隅には、たくさんの荷物が残されてはいたものの、人の姿はどこにも見あたらない。荷物のいくつかをあらためてみたが、着替えや化粧品、MDプレイヤー、財布、文庫本などが見つかっただけだった。
「もう、限界だわ。警察に電話しましょう」
早苗は、依田の顔を見て言った。建物全体に充満している息詰まるような空気を感じ、早くこの場から立ち去りたかった。これ以上耐えられないという気がした。
「妙だな……」
早苗の言葉を聞いているのかいないのか、依田はのんびりしたことを言う。
「妙? どう見たって、これは異常事態よ!」
「いや、そうじゃない……スリッパが、どこにも見あたらないだろう?」
「スリッパ?」
「こういうところでは、ふつうスリッパ履きだろう。玄関には、スリッパ立てはたくさんあったが、スリッパそのものは、二、三足しか見あたらなかった。もし、ここにいた連中が失踪したとしたら、スリッパを履いたまま消えたということになる」
そう言われてみると、たしかに、おかしかった。だが、それを敷衍《ふえん》すると、どういうことになるのか。
「じゃあ、まだ、建物のどこかに……?」
「とにかく、一階のまだ見ていない場所を見てみよう」
階段を下りると、玄関の前を通って、今度は大浴場の方に向かった。大浴場の入り口は、廊下の左手にあり、さらにまっすぐ行くと、ガレージらしい。
依田は、大浴場の脱衣場へ続く引き戸を開けた。
早苗は、息をのんだ。
そこには、たくさんのスリッパが、散乱していた。三、四十足はあるだろう。いくら風呂場《ふろば》が大きくても、全員が一時に入るというのは不自然である。それに、脱ぎ捨て方が、あまりにも乱雑だった。幼稚園児でも、ここまで、滅茶苦茶に放り出したりはしないだろう。
何よりも不気味なのは、それだけの数の人間が奥の大浴場にいるはずなのに、寂として声がないところだった。
そのとき、早苗の鼻孔は、敏感に異臭を感じ取っていた。厨房に充満していた生ゴミが腐ったような臭いとは違う。それは、病院では、なじみ深い、人間の排泄物《はいせつぶつ》の臭いだった。
依田は、退路となる引き戸を開けたまま、脱衣場に上がった。早苗も後に続く。大浴場の方を気にしながら、まず、脱衣|籠《かご》をチェックする。脱ぎ捨てられた服は何着か見つかったが、スリッパの数と比べれば、比較にならないほど少ない。大部分の人は、着衣のまま大浴場に入っていったのだろうか。
依田が、黙って大浴場のガラス戸を指さした。
早苗は、ぎょっとして、立ち疎《すく》んだ。
窓から光の射し込んでいる大浴場の方が脱衣場より明るいため、中の人影が曇りガラスを通して、ぼんやりと見えるのだ。
一人は、ガラス戸から近い位置にいる。洗い場のタイルの上に座っているようだ。その奥には、浴槽の周囲に輪になって座っているらしい人影が見える。だが、どれ一つとして、身動きしない。
依田はゆっくりと歩み寄ると、大浴場のガラス戸に手をかけた。早苗は、その場を動くことができなかった。両手を、掌《てのひら》に爪《つめ》がくい込むぐらい固く握りしめる。
引き戸はわずかに開いたところで傾《かし》いで、レールに引っかかった。そのとたん、隙間《すきま》から、強烈な悪臭が襲ってくる。依田は、一瞬たじろいだが、今度は両手でガラス戸をつかみ、勢いよく引き開けた。