それを実感したのは、数時間遡ってボートを下り、夜営のためにテントを張ってからのことでした。
アマゾン探検は、機動性を確保するために、少人数、軽装備が常識です。そのため、食料も最小限しか持ってこず、後は『現地調達』するのが常でした。そこで、いつも通り赤松先生と森氏が川に釣り糸を垂れたのですが、まったく当たりがありません。
やむを得ず、その晩は、持参したわずかな量のレトルト食品で空きっ腹を宥めて、寝ました。
翌日、我々は『黒い川』を下り、元来た地点に戻ろうとしました。ところが、どこまで行っても、目印を付けておいた場所に出ません。流れが思ったより急だったせいで、またもや行きすぎてしまったのでした。再度川を遡り、ようやく目印の旗を見つけましたが、その時には、とっぷりと日が暮れようとしていました。
しかも、運の悪いことに、ゴムボートを急に方向転換しようとしたときに、危うく転覆しかけ、貴重な弾丸をすべて川の中に落としてしまったのです。
帰り道はわかりましたが、銃が使えない状態では、ジャガーに出くわすと危険です。結局、もう一日、夜営することになりました。
適当な場所を探して、そこから少し川を下ると、小さな沢がありました。川の流れから少し外れたところに、浅瀬が広がっていて、岸にはテントを張るのに充分なスペースもありました。
そのあたりは、雨期になると水没する湿地林《バルゼア》のようでした。バルゼアは普通、アマゾンでは例外的に肥沃な土地なのですが、ここでは、川自体に栄養塩類が少ないために、植物の成育状況はむしろ貧弱で、どことなく見捨てられた土地のような感じがしました。
もう、食べるものは何もありません。我々は、ジャガー避けに起こした焚き火のまわりで、空きっ腹を抱えて集まりました。みな、不機嫌にむっつりと黙り込んでおり、心なしか、僕を見る目が冷たいように感じられました。(言い忘れましたが、ゴムボートを転覆させかけたのは僕です)
日が落ちてからしばらくは、森の中は、ねぐらに帰った無数の鳥の囀りで満ちていました。ヒチコックの映画を思い出すような騒々しさです。やがてそれが収まると、静けさが訪れました。耳に達するのは、間歇的に遠くで聞こえる獣の咆哮と、虫の音だけ……。
そんなときでした。天の恵みのように、我々の前に一頭のサルが現れたのは。
空には満月が輝き、川面を照らしています。さざ波が反射するきらきらした光の粒子を受けて、サルはゆっくりとこっちに近づいてきました。
不気味さに総毛立つような気がしました。ほかの隊員たちも同じ思いだったのでしょう。しばらくの間、誰一人として言葉を発しませんでした。
サルは頭から尾の付け根までが五十センチくらいで、体はふさふさとした茶色の毛皮に覆われていましたが、異様だったのは、その頭部です。一本の毛も生えておらず、しかも陶器のように蒼白なのです。
それはまるで、髑髏の頭を持った死神が、我々に向かってゆっくりと四つ足で歩み寄ってくるかのようでした。
「ウアカリか?」と、森氏が息をのむように囁きました。
「でも、あの顔は……?」
後で聞いたのですが、そのあたりに分布しているはずの二種類のウアカリ、アカウアカリとシロウアカリは、ともに鮮紅色かピンクの頭部を持っています。他には、黒い頭部を持つクロウアカリという亜種がありますが、白い頭のウアカリというのは、まだ知られていないそうです。その時の個体は、もし新種でなかったとすれば、突然変異か、あるいは怪我か病気のために重度の貧血に罹っていたのかもしれません。
ウアカリは、恐れげもなく我々の近くまで来ると、地面に腰を下ろしました。もう、我々との距離は、ほんの四、五メートルほどです。
あらためて、銃の弾丸を失ってしまっていたことが悔やまれました。サルは、ジャングルではご馳走の部類です。ウアカリの成獣を一頭射止めれば、全員の食欲を満たすのには充分すぎるほどでしょう。
この時には、煌々と焚き火に照らし出されて、ウアカリの顔の細部まではっきりと見て取ることができました。仲間と喧嘩でもしたのか、無毛の頭部には、爪痕のようなミミズ腫れが何本も蛇行していました。
「こいつ、頭がおかしくなってるのかな」
誰かが呟きました。
そう言うのも無理ないほど、ウアカリの態度は奇妙でした。落ち着き払って地面に座ったまま、奇妙に作り物めいた茶色の大きな目で、じっとこちらを見ています。
蜷川教授が立ち上がりました。手には銃を持っています。足音を立てないようにしながら、ウアカリを迂回するように大きな円を描いて、そっと背後に回り込みます。我々は、固唾をのんで見守りました。
ウアカリにも当然、教授の動きは視野に入っているはずですが、微動だにしません。
蜷川教授は、ウアカリの真後ろに来ると、すばやく背後から忍び寄りました。
その時、ウアカリが上唇を捲り上げ、歯を剥き出しました。しかしそれは、威嚇というよりは、まるで笑っているかのように見えました。
次の瞬間、蜷川教授が振り下ろした銃の台尻が、鈍い音を立てて、ウアカリの剥き出しの頭部を打ち砕きました。
蜷川教授は、無造作に死骸をぶら下げて焚き火のそばに戻ってくると、ベルトに挟んでいた大きなシースナイフを引き抜きました。慣れた手つきで幅広の刃を胴体に差し込むと、巧みに皮と肉の間を広げていきます。さらにそこから強く息を吹き込むと、毛皮は風船のように膨らんで剥離しました。あとは、縦横に大きく切り開いて、脱がせるだけです。
次に、四肢の付け根の周囲にも浅く刃を入れて、まるで夜会用の長手袋やストレッチ・ブーツを脱がせるように、易々と手足の皮を剥ぎ取っていきます。
マントのような毛皮がなくなってしまうと、ウアカリの死骸は、無惨なまでに幼児にそっくりでした。
教授は、ナイフの先端を巧みに使って、手足の付け根や首筋にある臭腺を取り去ってから、山刀《マチュテ》で頭部と四肢を切断し(思ったほどは血が出ませんでした)、ぶつ切りにしました。
今度は各自、骨付きの肉や肝臓などを木の枝に突き刺すと、ざっと塩を振りかけて、焚き火で炙って食べました。
我々は、車座になってウアカリの肉を咀嚼しながら、飢餓を満たす強烈でどこか官能的な喜びとともに、わけのわからない罪悪感に襲われていました。そう感じていたのが僕だけではない証拠には、肉にかぶりつきながらお互いに目が合うと、みな後ろめたそうに目をそらすのです。
手足は、焼いてしまうとますます人間そっくりになったため、全員、目を瞑って、肉の味だけを噛みしめて食べていたようです。しかし、頭だけは、さすがに誰も食べられなかったらしく、最後まで残っていました。
星空の下、圧倒的な闇の広がりに吸い込まれていくような、焚き火のゆらめき。ぱちぱちと薪の爆ぜる音。遠くでときおり聞こえる、獣の叫び声。そして、血腥い臭気と複雑に入り交じった、肉の焼ける匂い……。
あの晩のことを今思い出してみると、感覚としての印象は鮮明に残っているのですが、それとは逆に、どこか夢の中の出来事だったような不思議であやふやな感じがします。
あれ以来、僕の意識の中では、確かに何かが変わりつつあるようです。
あの晩、アマゾンへ来て初めて、自分が大きな自然の一部であることを実感したような気がします。
人間の生や死は、大きな自然の循環の中では、ほんの一部に過ぎません。そう思うと、なにやら心が軽くなった気がします。
今はただ、一刻も早く君の元に帰りたい。
件名:euphoric season
送信日時:1997. 3. 23. 12:52
雨期を愛する人は、心浮きたつ人。ピンクのアマゾンカワイルカのような僕の友達。
乾期を愛する人は、歓喜にあふれる人。深紅のヘリコニアのような僕の恋人。
(多少、字余りです)
何を浮かれているのかと、さぞかし呆れられていることでしょう。しかし、長かった雨期が、ようやく終わりを告げようとしているのです。アマゾンの花は乾期に開花するものが多く、これからがいよいよ、一年で一番美しい時期に入るのですよ。
アマゾンにいられる時間も、後わずかとなりました。もう二度と来る機会はないかもしれません。(新婚旅行がアマゾンというのは、さすがに君も賛同してくれないでしょう?)そう思って、最近では寸暇を惜しみ、身近な自然を観察するようにしています。
今になって、見るもの聞くもの、すべてが新鮮に感じられるというのは、いったいどういうことでしょうか?
以前の僕には、たとえ網膜には映っていても見えておらず、鼓膜を震わせても聞こえていなかったのかもしれません。
世界が、これほど美しかったということを。
ミクロコスモスの集合体。
それが、アマゾンです。
ミクロコスモス。
それも、無数の小さな世界が寄り集まって一つの世界を構成し、全体として調和を保っている。
ロシアのマトリョーシカ人形のような、入れ子構造。
ブロメリアという植物があります。
葉っぱが重なり合って深いロゼットを作っており、その中に雨水が溜まっています。そこが、生き物たちにとってのミクロコスモスなのです。日本でも、よく野ざらしの空き缶や古タイヤの中でボウフラが育っていますが、あれとは違います。
森の中に無数に存在する一つ一つのロゼットが、命を生み出す子宮であり、完璧に独立した小宇宙を作っているのです。あとは少量の水さえあれば、そこは、生き物にとっては大海と同じです。
水さえあれば。
ブロメリアの中からは、ボウフラや、ナメクジのようなものだけでなく、アマガエルやサンショウウオ、カニまで見つかることがあります。そのうち、魚やワニやイルカが見つかるのではないかと、楽しみにしています。はははは。
僕は、今初めて自分のロゼットから頭を出して、近眼の赤い目で懸命に広大な世界を見渡そうとしているカエルのようなものです。
ブロメリアも、美しい花をつけます。
赤い花です。
君に送りたいと思いました。
件名:nightmare
送信日時:1997. 3. 28. 23:12
昨夜、恐ろしい夢を見ました。
前から不思議に思っていたのですが、実生活で悩みが多いときには、奇妙に楽しい夢を見るものですね。逆に、順風満帆の時の方が、悪夢を見ることが多いようです。
夢の中で、僕は、密林を縫うアマゾン横断道路の上を歩いています。二車線で赤土がむき出しの未舗装道路ですが、ジャングルの中を何百キロも蜿々と延びており、どこまで行っても果てしがないように思われました。
すると、頭上で羽音のようなものが聞こえました。
僕はなぜか危機感を抱き、足を早めます。しかし、体は遅々として前進しません。
また羽音。
それに続いて、奇妙な呪詛のような声が聞こえました。
何を言っているのかは、よくわかりません。何人かの人間が、ぺちゃぺちゃおしゃべりをしているようです。
また、羽音がしました。
今度は、前よりも強くなっています。
僕は、必死にアマゾン横断道路の上を走りました。
紺碧だった空が、急に真っ黒に変わりました。何かが舞い降りてきます。
隠れる場所はありません。
立ち竦んで上を見上げようとしたとき、目が覚めました……。
夢自体も奇妙なものでしたが、もっと変だったのは、目が覚めてからもしばらくは、囀りが、耳鳴りのように聞こえ続けていたことです。
まあしかし、そんなことは、別に気にするほどのこともありません。
今、気分は爽快です。
食欲も旺盛で、朝、昼、晩と以前の倍くらいは食べています。これは、我が班の探検隊員全員に共通の現象で、昼食時には、見ているカミナワ族が目を丸くするくらいです。
夜もよく眠れます。昨日はたまたま悪夢を見ましたが、それ以外は、赤ん坊のようにぐっすり眠っています。
ただ一つ困ったことは、もう一つの根源的な欲求が、これまでになかったくらい高まっていることです。
ほとんど四六時中、君を抱くことを考えています。以前は少しく発想に乏しく、淡泊すぎたきらいがあります。今度会ったときは、ぜひ、いろいろなことを試してみたい。
今度のクリスマスには、君にケーキになってもらうというのは、どうでしょうか?
しかし、残念ながら、インターネットのセキュリティの問題を考えると、これ以上書くわけにはいきません。
この先は、再会したときのお楽しみに取っておきましょう。君にもぜひ、何か斬新なアイデアを期待しています。
愛を込めて。
件名:removal
送信日時:1997. 4. 2. 11:19
トラブルがあったので、ここを引き払わなくてはならなくなりました。
友好的だったカミナワ族の態度が、豹変しました。
理由は、よくわかりません。通訳も困惑するばかりです。どうやら、我々が、道に迷ったときに夜営した場所が「呪われて」いたとか何とかいうようなことなのですが……。
とにかく、我々が「穢れて」いるので、すぐに退去しろということです。彼らの様子から見て、応じなければ、非常に危険な事態を招きそうです。
あと少しで日程を終了できるというときに、こんなことになって、たいへん残念です。
現在、この村にいるのは我々五人だけなので、川を下って、マナオスで別働隊と合流する予定です。
また、連絡します。
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一章 死恐怖症《タナトフオビア》
北島早苗は、病室の入り口で立ち止まった。
右手奥の窓際にあるベッドに、青いパジャマを着た少年が腰掛けている。外を眺めているのだろうか。身じろぎ一つしない後ろ姿は、いつにもまして小さく見えた。
病室には、ほかに誰もいなかった。検査でなければ、どこかで息抜きでもしているのだろう。普通の病棟なら六人部屋にする広さだが、ベッドは四隅に一つずつしかない。患者が全快して退院することのないホスピスならではの、ささやかな贅沢《ぜいたく》だった。
「康之《やすゆき》くん」
早苗は明るい声で呼びかけた。少年は目元を手で擦《こす》ってから、ぱっと振り向いた。ふっくらと頬《ほお》の膨らんだ丸顔には、いつもと変わらない人懐っこい笑みを浮かべている。だが、下瞼《したまぶた》に貼《は》りついた睫毛《まつげ》だけが、妙に黒々としていた。
「何してるの?」
「別に……外見てた」
「何か面白いもの、見えるの?」
「桜並木」
実際には並木と言えるほどのものではなく、病院から少し離れた駐車場のわきに、貧弱なソメイヨシノが四、五本植わっているだけだった。すでに満開をすぎていて、白い花弁が散ってしまった隙間《すきま》から、緑の葉が目立つようになっていた。
「もうお花見向きじゃないけど、ああいうのも悪くないわね」
早苗は、少年の横に立って、窓の外を眺めた。
「うん」
思ったより日射しが強く、目を細める。少年は眩《まぶ》しくないのだろうか。ついつい、目にも症状が現れつつあるのではないかと、心配してしまう。
「排気ガスもひどいのに。何だか、一生懸命咲いてるっていう感じね」
「うん。……見られてよかった」
少年は小さな声で言った。
早苗はとっさに言葉を返すことができなかった。少年には、もはや来年の桜の花を見られる可能性は残されていない。はっきりと本人に告知はしていなかったが、頭のいい子だから、とうに察しがついていることだろう。彼は明らかに、見納めの意味で桜を眺めていたのだ。
桜の花は、日本人にとっては、散りゆくもの、儚《はかな》いものの象徴であり、どうしても死を連想させてしまう。早苗は一瞬、駐車場の持ち主に掛け合って、別の木に植え替えてもらおうかとさえ思った。
だが、ホスピスや隣の一般病棟の入院患者には、窓から見えるあの桜を楽しみにしている人も多い。彼らの楽しみを奪ってしまうのが、はたしてよいことだろうか。それに、あれがなくなってしまうと、このあたりの景色はますます殺伐となるに違いない。
「康之くん。夜は、ちゃんと寝られてる?」
「うん」
「頭痛は? もし、ひどいようだったら言ってね。お薬出してあげるから」
「うん。だいじょうぶ」
少年の顔には、これ以上薬はのみたくないという気持ちが表れている。それも無理はないだろう。毎日、ジドブジンを四回静脈注射している上に、ddlとddCを各二回服用しなければならず、ぺプタイドTなどの神経機能改善のための補助薬や、リタリンなどの抗鬱剤《こううつざい》、各種のビタミン剤なども入れると、薬漬けの状態と言ってもいい。
「ほかには、どこか変わったことはない? 手足が痺《しび》れるとか?」
「うん。今んとこ、ない」
ときおり起こるひどい頭痛以外に目立った症状が出ていないというのは、少年の病態を考えれば僥倖《ぎようこう》と言えた。今ごろは、半身|麻痺《まひ》に陥っていたり、言語障害や記憶障害、意識の混迷などの症状が出ていても不思議ではなかったからだ。
現に、先週まで隣の病室にいた二十代の男性は、まったく同じ疾患から人格に崩壊に近い変化を引き起こして、最後の一月ほどは、ほとんど情動欠損の状態だった。いくら早苗が話しかけても反応はなかったし、この世のすべての事柄に興味を失ってしまったようだった。
だが、少年にとって、はたして今の状態が幸運だと言えるのだろうか。
清明な意識のまま、迫り来る死を見つめなくてはならないということが。それも、まだ十一歳という年齢で。
「前の家の近くにも、桜並木があったんだ」
少年が、ぽつりと言った。
「へえ。きれいだった?」
「うん。川があって、その土手の上。ジローをつれて、夕方よく散歩に行った」
「ジロー?」
「柴犬《しばいぬ》。早苗ちゃんに言ったことなかった?」
「うん。初めて聞くわ」
「馬鹿だから、おんなじお客さんが何べん家に来ても、絶対覚えないんだ。来たときにはきゃんきゃん吠《ほ》えるんだけど、帰りにはシッポを振るんだよ。さっきは吠えたりしてごめんなさいっていう感じで。でも、その次同じ人が来たときも、やっぱり吠えるんだけどね。でもでも、可愛《かわい》いとこもあったんだよ。僕とかお姉ちゃんが学校から帰ると、飛び回って喜んで。僕が家ん中を通って裏庭に行くと、ジローが外を走って先回りしてるんだ。また玄関の方に走ってくと、やっぱりジローが先に来てるんだ。フィラリアで、死んじゃったけどね」
「そう……」
「訓練して少しでも利口にしようと思って、裏山にもよく連れてったなあ。木の枝とか投げると、ジローはすごい勢いでダッシュして行くんだ。でも、帰ってくるときには、たいてい手ぶらって言うか、手じゃないな、何て言うの? 口ぶら? 何もくわえてなくて。見つからなかったのか、忘れちゃったのか、どっちかわかんないけど。でも、何となく自分がへまをしたってことだけはわかってるらしくて、そわそわして僕と目を合わせないようにしてるんだ」
少年の話を、早苗は痛ましい思いで聞いていた。老人の昔語りとは違い、彼が懸命になって回顧しようとしている生涯は、あまりにも短かった。
彼は、ふいに口をつぐんだ。目をつぶって、記憶を探ろうとしている。
「最近、いろんなことが、よく思い出せないんだ……。お父さんやお母さんのこととか、お姉ちゃんやジローと遊んだときのこととか」
「きっと、お薬のせいよ。いっぱいお薬をのんでいるから、一時的に頭がぼーっとしてるだけだと思うわ」
それが一時の気休めにすぎないことは、早苗にはよくわかっていた。もうしばらくすると、彼がこの世に生きてきたよすがである追憶に浸ることさえ、思うにまかせなくなるだろう。
「でも、僕には、一番大事な思い出なのに……」
少年は何かを言おうとしたが、それ以上は言葉にならない。唇が震えていた。
「早苗ちゃん。僕、怖いよ……」
早苗はベッドに腰掛けると、少年をしっかりと抱きしめてやった。追いつめられた小動物のような小刻みな震えが、胸に伝わってきた。
少年は、本当ならばこれから人生が始まるという年で、すべての終わりを受け入れようとしていた。それに対して、早苗にしてやれることは、ただ、こうして抱擁してやることだけだった。
早苗が部屋に戻ると、すぐにノックの音がした。
ドアを開けると、土肥《どい》美智子が、両手に湯気の立つコーヒーの入った紙コップを持って立っていた。
「コーヒーブレイクよ。あなたの分も、持ってきてあげたから」
「すみません」
「二百五十円」
早苗は、苦笑して白衣のポケットから財布をとりだした。
美智子が、小ぶりのソファの肘掛《ひじか》けに腰を下ろす。ぎしぎしと音がした。早苗は、小柄だが太り気味の美智子の体重に肘掛けが持ちこたえられるかどうか、少し心配になった。
視線を上げると、美智子がコーヒーを啜《すす》りながら、じっと早苗を注視していた。
「いやだわ。どうしたんですか?」
「あなた、ひどい顔してるわよ」
「まあ。失礼な」
「冗談じゃないの。患者さんに同情するのはいいけど、一緒になって苦しんでたら、あなた、そのうち燃え尽きちゃうわよ」
「だいじょうぶです。ちゃんと、気分転換もしてるし」
美智子は黙ってコーヒーを飲んでから、早苗の机の上のカルテを見た。
「上原康之くんね?」
「……はい」
隠しても意味がなかったので、早苗はうなずいた。
「誰でも、子供は特に可哀想《かわいそう》に思うものなのよ。しかもあの子は、薬害エイズの被害者なんでしょう?」
「ええ」
美智子は、カルテに目を走らせた。
「ここには、母子感染とあるけど」
「康之くんのお父さんが、血友病患者だったんです。一九八四年に汚染された非加熱の輸入血液製剤を投与されて、HIV陽性になったんですけど、大学病院からは本人に告知されなかったみたいで……」
「それで、母親にも感染したの?」
「ええ。それで、何も知らずに妊娠したために、お姉さんと康之くんも……」
「ひどい話ね。で、彼の家族はどうしたの?」
「両親とお姉さんは、三年前に亡くなりました」
「じゃあ、彼は今、ひとりぼっちなわけか」
美智子は溜《た》め息をついた。
「それで、彼が発症したのが……ちょうど二年前か。もう少し後なら、まだ何とかなったかもしれないのに。つくづく運がなかったわね」
エイズウイルスの増殖を防ぐのに、多剤併用のカクテル療法が有効だと確認されたのは、ここ一、二年のことである。現在では、AZTのほか、四種類のプロテアーゼ阻害剤や五種類の逆転写酵素阻害剤などを併用することによって、HIV陽性であっても、長期間、エイズを発症しないようにコントロールすることが可能だった。
だが、いったんエイズを発症してしまい、さらに日和見《ひよりみ》感染が重篤化してからは、事実上、有効な治療法は存在しない。
「しかも、よりにもよって、原発性の脳NHLでは、打つ手なしだわね……」
早苗は、相槌《あいづち》を打つ気にもなれず黙り込んだ。
高度悪性群の非ホジキンリンパ腫《しゆ》《NHL》は、エイズの日和見感染で起こる三種類のリンパ腫のうちでも予後は最悪であり、特に中枢神経系が冒されている場合には、診断後の平均余命は二、三ヶ月にすぎない。
「脳のNHLって、たしか、放射線照射しか治療法がないんじゃなかったっけ」
「ええ。でも、実際問題として、ほとんど効果は望めませんし。こっちへ移ってきてからは、放射線はかけてません」
「そうか。じゃあ、あとは、どう彼の心のケアをしてあげるかだけね」
「でも、どうしたらいいのか、私にはわからないんです」
早苗が手に持ったままの紙コップの中では、コーヒーが複雑な波紋を作っていた。
「康之くんは、はっきりと、死が目前に迫っていることを知ってます。必死で運命を受け入れようとしてるんですけど、若いから、まだ生きようとする心のエネルギーが強くて、それで、ひどく苦しんでるんです。それなのに、私にも泣き言一つ言わないんです。何だか、それを見てるだけで辛《つら》くて……」
早苗は絶句した。
「やっぱり、あなたにも心のケアが必要だったようね」
美智子は微笑《ほほえ》んだ。
「すみません」
「何も、謝ることはないわよ。ただ、ここでは、たくさんの人をできるだけ心安らかに向こうへ送ってあげることが仕事でしょう? 誰でもいつかは死ぬんだからね。あなたも、私も。そのたびに神経をぼろぼろにしていたら、終末期医療《ターミナル・ケア》は務まらないわよ」
「はい」
美智子は立ち上がった。ソファの肘掛けに腰掛けていたときと、さほど頭の高さは変わらない。
「だいぶ寝不足みたいだから、少し仮眠を取った方がいいわね。薬の処方は、お手のものでしょう?」
「ええ。ご心配いただいて、すみません」
「じゃあね」
美智子は、部屋を出ていこうとした。
「あの。先輩」
「何?」
「私の愚痴を聞いて、気持ちが軽くなるようにするために、わざわざ来てくれたんですか?」
「そうよ」
「すみません。いつもお気遣いいただいて。私なんて、人の心を救いたいだとか、大きなこと言ってホスピスを志願したのに」
美智子は首を振った。
「あなた、人間は何のためにネットワークを作って生きてると思う?」
突然の問いに、早苗はとまどった。
「それは、その方が、情報を効率よく伝えられますし……」
美智子は、鼻で笑った。
「あなたもやっぱり、インターネットなんかで毒されてる口だわね。情報なんて、しょせん九割は屑《くず》で、残りも毒入りじゃない。人間と人間のネットワークというのはねえ、情報網なんてものじゃなくて、トランポリンのネットなの」
「……はあ」
「何があっても、一人で受け止めようなんて思ったらだめ。潰《つぶ》れちゃうからね。そんな時は、まわりの人に少しずつショックを分担してもらって、ネット全体で、ぼわんと吸収すればいいの。わかった?」
「はい」
「それから、先輩なんて呼ぶんじゃない。前にも言ったでしょう? 私は女子校の時に嫌な思い出があって、その言葉を聞くと、今でも背筋が寒くなるのよ」
どんな思い出なのかは、聞きたいような聞きたくないような気分だった。早苗は「わかりました」とだけ言い、ドアが閉まってから「先輩」と付け加えた。
胸につかえていたことを話しただけでも、だいぶ気分がすっきりしたようだ。美智子先輩には、感謝しなくてはならない。
早苗は大きく伸びをした。
土肥美智子は、早苗の大学の先輩だった。科目も同じ精神科だが、二十九歳の早苗より一回り年齢が上であるため、知り合ったのはここへ来てからだった。専門である思春期の心の危機については何冊も著作があり、(メディアに媚《こ》びているという、やっかみ半分の批判にさらされながら)新聞にコラムなどを執筆することも多かった。また、早くから終末期医療にも関心を持って、(保守的な層の反発を受けながらも)様々な提言を行っていた。そのため、ここ聖アスクレピオス会病院の緩和ケア病棟が、日本で初めてのエイズの末期患者専用のホスピスとして開設されたとき、院長から三顧の礼で迎えられたという噂《うわさ》だった。
仮眠を取るようには言われたものの、実際のところ、そんな暇はなかった。これから、内科医や神経科医たちと、ホスピスでの今後の治療方針について協議をしなければならない。
早苗は、エイズ脳症の治療だけでなく、患者の精神的苦痛を取り除くためにも、積極的に抗精神薬を用いていきたいという考えを持っていたため、医師たちを納得させるだけの理論武装が必要だった。
彼女は、机の上のノートパソコンの蓋《ふた》を開けて、スリープ状態から目覚めさせた。ふと、いつから電源を入れっぱなしだったのか気になった。パソコンも人間と同じで、あまり長時間働かせていると、疲れて具合が悪くなる。肝心なときに限って、重度の昏睡《こんすい》状態に陥ったりするのだ。それを防ぐためには、ときおりOSを終了させ、電源も切って休ませてやるのがよいらしい。だが、人間が相手ならともかく、何が悲しくて、機械のメンタル・ヘルスにまで気を配ってやらなくてはならないのかと思う。
とりあえず、メールをチェックしてみた。朝一番で見たばかりだったが、その後すでに八通来ていた。医局からの連絡事項。製薬会社のニューズレター。薬剤師の問い合わせ。どこで調べてくるのか、あなたにふさわしい収入と社会的地位の男性を紹介しますという、お見合い業者からの勧誘……。
だが、高梨からのメールはなかった。ここ一週間ほど音信不通だったが、最後のメールの内容が、現地人との間にトラブルが発生したなどという不穏なものだっただけに、ひどく気にかかっていた。
文書ファイルを開いて看護計画についてのメモを作成している間も、早苗の脳裏には、ずっと高梨のことがちらついていた。
少し気分を変えようと思い、パソコンはそのままで部屋を出た。洗面所の鏡の前に立ち、つくづくと自分の顔を眺める。額が広く目が大きいのに比べて鼻も口も小作りなために、年齢より若く見られることが多い。にっこりと笑ってみた。土肥美智子に、ひどい顔だと言われたのが気になっていたが、これなら、そう悪くない。
口紅をきれいに引き直してから、少し左右を向いた顔もチェックする。高梨と会う前は、いつも同じことをしていたのを思い出した。
いつのまにか、心は、彼のことでいっぱいになっていた。
高梨が颯爽《さつそう》と文壇にデビューしたのは、まだ大学に在学中の、弱冠二十歳のときだった。
処女作のタイトルは、『Implosion』である。辞書によれば、『Explosion』の反意語で、『内破』とか『爆縮』などと訳すらしい。
あらゆる人間関係に背を向け引きこもっている若者の、ひたすら内攻していく心の襞《ひだ》を描いた作品で、あまりにも自閉的な世界は、広く一般に受け入れられたとは言えないものの、純文学の最高権威とされる賞の候補作品にもなり、文芸作品の慢性的不振の中では、まずまずの売れ行きを示した。
早苗は当時、まだ小学生だった。とりわけ早熟な文学少女というわけでもなかったが、夏休みの読書感想文を書くために書店で本を物色しているときに、受験と青春という、当時の最大関心事がテーマの一部を成していることに興味を引かれ、たまたま手に取ったのだった。
一読して、頭の中には混乱した印象が残った。これといった筋があるわけではないし、はっきりしたモデルがあるらしいリアルな人物と戯画的なキャラクターが混在していて、いかにも未完成な感じがした。だが、読後日が経つにつれ、なぜか彼女の頭の中では、作品のイメージが膨らんでいった。表面的な不整合や瑕疵《かし》の陰に隠れていた暗い煌《きら》めきのようなものが、いつまでも消えない残像となって心に残ったのである。
もっとも多感な時期に読んだ本の影響力は大きく、早苗はその後も、高梨の作品を読み続けた。
高梨は、デビューしてしばらくは、純文学誌に実験的な作品を発表していた。単行本化された際の売れ行きも概して悪くはなかったが、作風を一転して、『|銀色の夜《シルバリー・ナイト》』という都会的なテイストの恋愛小説のシリーズを書き始めてからは、若い女性を中心に多くの読者を得るようになった。新作が出れば、短期間ながらベストセラーのリストにも上るようになり、いくつかの作品は、テレビドラマ化や映画化もされた。
早苗は、少々複雑な感慨を抱いていた。自分が早くから認めていた作家がメジャーになるのは、うれしいことには違いなかったが、反面、掌中の珠《たま》を他人に奪われたような気分にもなった。それに、『|銀色の夜《シルバリー・ナイト》』シリーズもけっして嫌いではなかったものの、読者に対する妙な迎合が目につく分、『Implosion』で感じた|※迸《ほ》とばるしような才能の輝きは、かなり薄まっているように感じたのだ。
早苗が最初に高梨に会ったのは、まだ十九歳の医学生のときだった。たまたま、早苗がアルバイトをしていた塾の経営者が、高梨と高校の同級生だったため、せがんで、引き合わせてもらったのである。
『Implosion』を読んで以来、早苗の中では著者がどんな人なのだろうかという興味が膨らんでいたが、当時流行だったキリギリスのような色のスーツで現れた高梨は、神経質で繊細な文学青年という想像からは程遠かった。社交的で洒脱《しやだつ》、退屈しないように女性をもてなす術を知っている男性。だが、生き生きと内面を映し出す茶色の目と、棋士のように白く細長い指だけは、なぜか想像通りだった。
高層ビルのホテルのバーでは、高梨は、早苗を一番よく夜景が見える位置に座らせてくれ、様々な話題で楽しませようとした。だが、その大半は、早苗が聞きたいと思っていた小説の話ではなく、いかにも若い女性が好みそうな、ファッションやグルメの話だった。おそらく、早苗を『|銀色の夜《シルバリー ナイト》』シリーズのファンだと思いこんでいたのだろう。
話題が一瞬とぎれたとき、早苗は、思い切って『Implosion』の話を持ち出してみた。まだ小学生だったので、読んでいる最中はよく理解できなかったが、読後、自分の中で、イメージがどんどん膨らんでいったことに驚いたと。
そのときの高梨の表情の変化は、印象的なものだった。薄茶色の目には、素朴な驚きと照れ、矜持《きようじ》と恥ずかしさが入り交じったような色が、次々に交錯した。世慣れた大人の仮面が剥《は》がれ落ち、実際はろくに世間を知らないまま作家になってしまって、当惑している少年の素顔が覗《のぞ》いたのである。