それ[#「それ」に傍点]は、ほんの四、五メートル先に、こちらを向いて座っていた。
ランニングシャツと青いトランクスを身につけていることで、かろうじて元が人間だったと判断できる。
何……これ。嘘《うそ》よ……こんな……馬鹿なことって。早苗は喘《あえ》いだ。
頭部は、通常の倍以上の直径があった。何十本もの白い畝のような隆起が縦横に走っている。土気色の皮膚を突き破らんばかりだった。隆起は、はっきりとした骨の特徴を備えていた。熱帯植物の板根を思わせる薄い骨が、直接、頭蓋骨《ずがいこつ》から生え出しているのだ。それがなければ、ぶよぶよに肥大した組織は崩壊してしまうかもしれない。
両眼は、頭部全体が膨らんだために、極端に顔の中心に寄っているような感じがする。まわりから押し寄せてくる柔らかい組織に埋没し、暗い二つの虫食い穴にしか見えなかった。鼻があったはずの場所にも、空気穴らしきものが残っているだけである。口の名残らしい皺は、すでにほとんど消えかけていた。
巨大な提灯《ちようちん》のように膨らんだ胸郭の上では、ランニングシャツが伸びきり裂けている。薄く張りつめた皮膚を通して、細かく網目状に枝分かれした異様な肋骨《ろつこつ》が透けて見えた。
気球のような腹でトランクスはめくれ上がり、ほとんど脱げかけていた。股間《こかん》の皮膚は疣《いぼ》のような無数の小突起で覆われていたが、性器らしきものはどこにも見あたらない。
一方で、不要品のように投げ出されている四肢は、脂肪や筋肉はおろか骨まで消失しているらしく、萎《しな》びた紐《ひも》と化していた。先端には、黒ずんだ爪のついた五本の指の痕跡《こんせき》が見える。
自分がけたたましい悲鳴をあげていることに、早苗は気づいた。どうしても止めることができない。剥《む》き出しの恐怖に圧倒され、彼女は叫び続けた。
気がつくと、依田の胸にしがみついて震えていた。
「落ち着いたか?」
依田の問いにも、うなずくのが精一杯だった。
「残念だが、来るのが遅かった……。第四段階に入ったんだ」
依田が、ぼそりと言った。
早苗は、霊長類センターで撮影したビデオテープに映っていたものを思い出した。かつては、カニクイザルや、アフリカミドリザル、リスザルであった袋状の物体を。
早苗は、依田の肩越しに、大浴場の中を見やった。
さっき見た人間の後ろにいる、大勢の姿が目に入った。多くは浴槽の周囲に集まっており、入口の方を向いているものもいる。
一瞥《いちべつ》しただけで、全員がグロテスクな変形を遂げているのがわかった。それは、カプランの手記に挟まっていた写真の光景に酷似していた。沢のほとりに並んでいた、袋状に変形したウアカリの姿に。
悪夢のような非現実感が襲ってきた。視界にうっすらと靄《もや》がかかって見える。ここがどこなのかさえ、よくわからない。自分は、ここでいったい何をしているのか。
早苗は、再び大浴場の方を凝視すると、ゆっくりと依田の腕の中から擦り抜けた。脱衣場の隅へ行き、洗面台の前に跪《ひざまず》く。
激しく嘔吐《おうと》した。何物かに胃袋をしごき上げられているような、異常な苦しさがあった。だが、頭を空っぽにしてくれるなら、どんな苦しみでも歓迎したかった。早苗は、身をよじりながら吐き続けた。
吐くものがなくなり、ようやく横隔膜の痙攣《けいれん》がおさまってから、早苗は後ろを振り返った。理性では、あり得ないとわかっている。だが、異様に変身した人間たちが、今にも大浴場から飛び出して、襲いかかってくるという本能的な恐怖を打ち消すことができない。
「だいじょうぶか?」
依田は、早苗の肩に手を置いた。その感触にすら、びくりと飛び上がりそうになる。
「心配しなくてもいい。もう死んでいる」
依田は、早苗の恐怖を読みとっていたらしい。
「あの人たちは、どうなってしまったの?」
「第四段階……つまり、感染者の身体に産み付けられていた虫卵が孵化《ふか》し、孵化した線虫が成長して次の代の卵を生み、さらにまた孵化する。宿主の身体を食い潰《つぶ》し、可能なかぎり個体数を増やそうとしたんだ」
早苗は身震いした。
「ふつう、寄生虫は、宿主の体内で無制限に増殖したりはしないわ」
「例外は、いくらでもある。旋毛虫や顎口虫《がつこうちゆう》、芽殖孤虫《がしよくこちゆう》……」
「でも、あの身体は? 人間の身体が、あんなふうになるなんて」
「おそらく、ブラジル脳線虫が、宿主のDNAに干渉した結果だ」
「遺伝子を操作したって言うの?」
早苗はぞっとした。じゃあ、身体があんなふうに異様な姿に変貌《へんぼう》していく間ずっと、彼らは生きていたというのか。
「ブラジル脳線虫は、最初は脳、次に遺伝子を操作する、究極の寄生生物だったんだ。奴《やつ》らは、脂肪や筋肉を餌《えさ》として殖えながら、宿主の身体を作り替えるんだろう。胴体の容積を増やして増殖するためのスペースを作り、手足などの不要な器官は分解して、養分を吸い上げる」
依田の表情は険しかった。
「林檎《りんご》に巣くっている線虫と同じことで、人間の肉体は、奴らの住居兼食糧にすぎない。あの男の身体も、すでにほとんどが食い潰されて、線虫に置き換わっているはずだ。少なく見積もっても、体重の半分以上は、線虫だろうな」
それは、いったい何頭の線虫に相当するのだろう。何億。何百億。あるいは、兆の桁《けた》だろうか。
「あの肋骨《ろつこつ》にしても、線虫で膨らんだ組織を支えるために、ああいう籠《バスケツト》のような形になってるんだろう。ドーキンスの言ったとおり、遺伝子の腕は長い[#「遺伝子の腕は長い」に傍点]んだ。遺伝子は、生物の肉体だけでなく、周辺の環境をも設計《デザイン》する。DNAには、そのために必要なあらゆる命令がインプットされている……待てよ。そうか。青写真だ。そのために、あれほど多くの情報量が必要だったんだ」
「何のこと?」
「ブラジル脳線虫のゲノムのことだ。なぜ、あんなに長大なゲノムが必要だったのか。ずっと疑問だったが、今考えてみれば、何の不思議もない。ミツバチの遺伝子には、蜂《はち》の身体だけでなく、六角形の巣の形に関する情報も書き込まれている。それと同じように、ブラジル脳線虫の遺伝子には、自分の巣として宿主の身体をリフォームするための青写真が含まれてたんだ」
人間とはかけ離れた生き物である線虫のDNAに、我々の肉体を勝手に変形させてしまう情報が書き込まれている……。そう思っただけで、激しい嫌悪感が沸き起こってきた。
早苗は、あらためて大浴場を見た。そこは悪魔にとりつかれた哀れな人間たちの墓場だった。
「とにかく、私は、生存者が残っていないかどうかチェックしてみる。……まあ、その見込みはほとんどないと思うが」
「私も診ます」
早苗は、まだ嘔吐したときの涙で濡《ぬ》れたままの目を上げて言った。
「しかし、君は……」
「だいじょうぶ。私だって、人の死には、数え切れないくらい立ち会ってきたから」
依田はまだ心配そうな表情だったが、早苗は、ゆっくりと立ち上がった。再び大浴場に入るときには全身に鳥肌が立ち、足が竦んだ。使命感だけで、必死に、逃げ出したい気持ちを押さえつける。
『地球《ガイア》の子供たち』の会員たちは、みな、ダルマのような姿勢で、タイルの上に座っていた。膨張した組織が垂れ下がったために、重心が低くなり、安定を保っているらしい。
近づいてみると、彼らの多くは、さらに奇怪な変貌を遂げていた。身体のあちこちに、前衛芸術のオブジェのような異様な突起物が生えているのだ。変身が遺伝子の操作によるものだとすれば、体細胞がすべて死んだ時点でストップするはずだ。最初に見た男性より、まだ先があるに違いない。
早苗は、長く震える息を吐いた。自分でも、神経が麻痺《まひ》し始めているのがわかる。二人目は、頭部の白い隆起は前とそっくりだったが、それ以外にも、腹部から首筋にかけて、びっしりと細長い突起が生え揃《そろ》っている。先端が丸くなっているので、まるで、巨大なカタツムリの目のようだった。
早苗は、細心の注意で突起を避けながら、頸動脈《けいどうみやく》のあたりを触診する。どうしようもなく、指先が震える。思ったとおり、体温も脈も感じられない。
「この人は、亡くなってるわ」
早苗は、むしろほっとしていた。この状態では、死んだ方が幸せだろう。
「こちらもだ」
依田も首を振った。
「だが、これは……ひどい。DNA操作に、何らかのエラーがあったのか……」
早苗は、依田の前に座っている死体に目をやった。大きな身体の各所から、てんでばらばらに細い枯れ枝のようなものが生え、ぶら下がっている。よく見ると、それらはすべて、赤ん坊くらいのサイズの人間の腕だった。ほとんどミイラ化しているが、全部で二十本以上はあるだろうか。
早苗は、目をそむけた。自分の歯がかたかたと鳴るのを、どうしても止めることができない。一刻も早く、ここから逃げ出したい。それだけが、今の早苗にとっての切実な願いだった。
だが、自分の仕事は、まだ終わっていない。早苗は歯を食いしばって、一人一人の触診を続けた。
次に診た人間は、残っている髪の長さから見て女性だろう。だが、頭皮が著しく広がったために、黒髪の密度がひどく疎らになってしまい、巨大な毛虫の頭部のように見える。
彼女の身体に生えている突起は、その前の遺体よりさらに発達しており、イソギンチャクの触手を思わせた。
一本が、二十センチくらいはあるだろう。皮膚から鈴なりになって生え、大きく広がろうとしたところで終わっている。先端の丸い玉も、直径一センチくらいまで発育していた。
早苗は、触診しようとして伸ばした手を、引っ込めた。特に根拠はないのだが、この突起にだけは絶対に触ってはいけないという、無意識の警告を感じたのだ。
女性の身体のタイルに接している部分を見て、死斑《しはん》を確認する。こんな身体では、正確な判定は無理だろうが、たぶん、死後一日というところだろうか。
大浴場の中の人間は、全部で四十三人ほど。そのうち三十人が、浴槽の周囲に等間隔で並んでいた。
何人かの遺体は、生死を確認するまでもなく、浴槽に身体の一部を突っ込んだ状態で息絶えていた。それは、昆虫や蛇が脱皮した後の抜け殻に酷似していた。人間の形はしているものの、褐色になった皮膚以外には、ほとんど何も残っていないのだ。
早苗は、浴槽の上に倒れ込んでいる骸《むくろ》の群れを見渡した。涙があふれそうになった。心の平安を求めてセミナーに参加した人々……。彼らは、どうしてこんな姿にならなければならなかったのだろうか。
そのうちの一人に目をやって、早苗は、はっとした。
「この人……蜷川教授だわ!」
依田が振り向いた。
「間違いないのか?」
「ええ……」
それ以上、説明する必要はなかった。窓から差し込んでくる日射しで、抜け殻の顔面の皮膚が透けて見える。それは、見事な蜷川のデスマスクになっていた。
空っぽになった蜷川は、うっすらと笑っているように見えた。
その隣には、やはり、骨の一部と皮だけになった遺体が横たわっている。こちらは、頭から破れたらしく、顔の部分には、伸びきった皮膚の残骸《ざんがい》と白骨の一部しか残っていない。
だが、早苗は、これは森助手だと直感した。白骨には、明らかにわかる歯の不正|咬合《こうごう》があったからである。アングルの不正咬合の分類で第二級の一類と呼ばれる、特徴的なものだった。下顎遠心咬合で、上の前歯がひどく前に飛び出している。早苗は、『めめんと』森氏の不正咬合から来る、独特の鼻声を思い出した。
黙々と、検死作業を続けていると、額を汗が伝った。今まで気づくゆとりがなかったが、大浴場の中は、湿気が籠《こ》もってジャングルさながらである。その上に、垂れ流された排泄物《はいせつぶつ》の臭《にお》いが押し寄せてきた。依田が、呻《うめ》くような声を出した。
「この臭いは、たまらんな。窓を開けようか?」
依田が窓に近づきそうになったので、早苗は、あわてて制止する。
「だめよ。もし、外にこの臭いが漏れたら、誰かに気づかれるかもしれないわ」
「近くには、誰もいないよ」
「それでも、今は、危険は犯せないわ。それより、水で洗い流したら、どうかしら? 浴槽の栓も抜いて」
「だめだ。それこそ、絶対にまずい」
依田が、厳しい顔で反対した。
「浴槽の水を、よく見てごらん」
早苗は、依田が指さした水面に目をやった。米の研ぎ水のように、うっすらと白濁している。
「これが、奴らの最後の戦略だ。ウアカリが沢のまわりに集まっていたのも、この人たちが浴槽のまわりに集められたのも、そのためだ。ブラジル脳線虫は、難破船から逃れるように、宿主の身体を喰《く》い破って水中に逃げ込むんだ。こんな色をしてるのは、遺体から抜け出した無数の線虫が泳ぎ回っているからだ。たぶん、まだ生きている」
「まさか……」
「これを、このまま排水口から環境中に放出するわけにはいかない。もちろん、ブラジル脳線虫が、そう簡単に日本の自然環境に適応して、都合のいい宿主を見つけられるとは思わない。裸の線虫は無力な存在だし、大部分は、生き延びられないだろう。だが、これだけ膨大な数がいると、確実にすべてが死滅するともいいきれない」
「じゃ……じゃあ、早く殺さなきゃ」
早苗は、急にパニックに駆られそうになった。
「ああ。そうだな」
依田は少し考えた。
「この人たちの生死の確認は、ひとまず中断することにしよう。感染の拡大を防ぐ方が先だ。君も手伝ってくれ」
奇怪な温室のような大浴場を出たとたん、早苗は自然に小走りになった。ようやく、忌まわしい建物から一歩外へ出ると、深海から浮かび上がったダイバーのように深呼吸をする。
のどかな秋の陽光が眩《まぶ》しく、フィアット パンダのメタリック ブルーのボンネットに、木々から剥《は》がれ落ちた紅葉が数枚散っている。今まで見ていた地獄絵図が、嘘《うそ》のようだ。
「手分けして、これを運び込もう。遺体の方は、まだ全員の死亡が確認できていないから、とりあえず、浴槽の水を消毒する」
依田は、フィアット パンダのラゲージ スペースから、大量の段ボール箱を外へ出した。
上に載っていた早苗のカバンが、地面に落っこちた。依田は一顧だに払わなかったし、早苗も、あえて拾おうとはしなかった。患者を治療する[#「治療する」に傍点]ための薬は、今や、気休めという機能すら喪失している。
段ボールには、マジックインキで、『オサミル』、『カーバム』、『ダゾメット』、『D―D』などと書かれていた。
「これは全部、土壌に注入して燻蒸《くんじよう》するための殺線虫剤だ。線虫類は、昆虫などとは根本的に生理が異なっているから、一般の殺虫剤では効果が心許ないと思ったんだ。だが、こういう状況なら、むしろ有機塩素系の農薬でも持ってきた方がよかったかもしれないな」
二人は、車と大浴場の間を二往復して、六個の段ボール箱を運び込んだ。依田は、様々なタイプの殺線虫剤を浴槽の中に投入した。液体は、浴槽の周囲からまんべんなく注ぎ込み、顆粒《かりゆう》状の薬も、なるべく均一に行き渡るようふり蒔《ま》く。大量の殺線虫剤は、すばやく水に溶けて、拡散していった。
「これで、水の中の線虫は全滅したかしら」
早苗は水面を見つめた。さっきまでより濁りがひどくなったようだが、大量殺戮《ジエノサイド》が完璧《かんぺき》に成功したかどうかは、見た目では判断が付かない。
「ああ。だが、念のため、流すのはもう少し待った方がいいな」
早苗の中には、高梨らの敵討ちを果たしたような、暗い満足感が生まれていた。それとともに、ブラジル脳線虫に対する生理的な嫌悪感が、ますますつのってくるのを感じる。
悪魔を、一匹残らず抹殺したい。
「全部、殺さなきゃ……!」
「ああ」
「早く! 早く、全部殺してよ。ここにいる線虫を全部、一匹残らず!」
依田は、驚いたように早苗を見た。
「早くしないと。そうしないと、また、犠牲者が……」
「だいじょうぶだ。落ち着け!」
腕を強く掴《つか》まれて、早苗はようやく我に返った。
「……遺体の中の虫は、どうするの?」
「今は、どうにもできない。とりあえず、全員の死亡を確認したら、警察に連絡しよう。その間に、線虫が外に漏れ出すことのないように、ビニール シートか何かで包めたらいいんだが」
早苗は、うなずいた。ヒステリックになっていた自分を、恥ずかしく思う。
そのとき、ふと、背後に気配のようなものを感じた。
ぎょっとして振り返ったが、誰もいない。錯覚かと思いかけたとき、彼女は、足下近くに座っている人間に気がついた。年齢、性別はわからない。皮膚に粉を吹いているために、コンクリートの彫像のように見えるが、肉体の変形の度合いは、この中ではさほど大きくはなかった。
だが、仔細《しさい》に観察すると、かすかだが、胸郭が上下しているような気がする。
早苗は、しばし凍りついた。ゆっくりとしゃがんで、触診するために、右手を伸ばす。自分の手が、瘧《おこり》がついたように激しく震えているのが、まるでどこかよその世界の出来事のように目に映った。
依田も、早苗の様子がただならないのに気がついたようだった。
「……生きてるわ」
「えっ」
「この人、まだ、生きてるのよ!」
早苗は叫んだ。
「そんな馬鹿な」
依田が大股《おおまた》に近寄ってきて、男性の呼吸と脈拍を調べた。
「本当だ……。信じられん」
あわてて周囲にいる人々をチェックしてみると、何人かには、まだ息があることがわかった。
「どうして。こんなになって、どうしてまだ生きていられるの?」
早苗は、茫然《ぼうぜん》としてつぶやいた。病人が生きていることがわかって、これほど絶望的な気持ちになったのは、初めてだった。
「霊長類センターでの実験では、大部分のブラジル脳線虫は、ダウアー幼虫のような一種の休眠状態にあることがわかっている。エネルギー消費を抑えるためだろう。それに、サルが相当長期間にわたって生き延びていたことを考えると、宿主が餓死しないように、体組織を分解して得たエネルギーの一部を与えているのかもしれない」
依田は、彼自身の恐怖を紛らそうとするかのように、早口に話し始めた。
結局、生存が確認された人々は、七人に上った。しかも、うち三人は、まだ意識があるらしかった。一人は、まだ視力さえあるらしい。目の前で、早苗が指を左右に動かすと、塞《ふさ》がりかけた目の中で、瞳《ひとみ》がゆっくりとそれを追う。
「聞こえますか? 私が、わかりますか?」
早苗は、懸命に呼びかけた。顔全体が虫瘤《ゴール》のような突起物で覆われている。たしかに、早苗を認識しているようではあったが、声を出すことも、身じろぎすらできない状態だった。
「やめなさい。むだだ」
依田が、早苗の肩を掴んで、後ろに引き戻した。
「とても、しゃべれるような状態じゃない。サルでさえ、第四段階に入ると、一匹も声を出せなかった。声帯が養分を奪われて、枯死してるんだ」
「……でも、声が出なくたって、何らかの意思表示はできるかもしれないわ」
「彼らの意思を聞いて、それで、どうするつもりだ? 君は、彼らを助けることができるのか?」
「できないわ。でも」
「こうなってしまってから、彼らの人間としての意識を呼び覚ますのは、かえって残酷だろう」
「人間としての意識? 彼らは、まだ人間なのよ!」
早苗は、きっとして依田の顔を見た。そこに、ある種の冷酷な決意のようなものを読み取り、どきりとする。
「依田さん。この人たちをどうするつもりなの? ……まさか」
そのとき、脇《わき》から、虫の羽音のような声が聞こえた。
「ミドリチャン……」
早苗は、文字どおり飛び上がった。
中腰の姿勢のまま、おそるおそる、声のした方に目をやる。そこにいたのは、先程生存が確認されたうちの一人で、若い男性と推定できる人間だった。
頭部の膨張が甚だしいために、グロテスクな着ぐるみに入っているように見える。レンズがピンク色のサングラスをかけたままだったが、よく見ると、柄の部分はこめかみに突き刺さっていた。皮膚がその上で癒着しているので、白い骨の隆起の間から、サングラスが生えているように見える。口を動かすことはできないようだったが、まだ、亀裂《きれつ》のようなわずかな隙間《すきま》が残っていた。
「カエッテキタノ?」
セロファン紙を震わせているように、無数の倍音の混じった低く異様な声である。
「紙のように薄くなった声帯を、震動させているんだろう」
依田が、つぶやいた。
「しゃべれるというのは、ほとんど奇跡だな」
「あなたは、私がわかるの? 私の言うことが、聞こえますか?」
早苗は、青年の前にかがみ込んだ。
「……ボク、コンナニナッチャッタ」
声は青年の咽喉《いんこう》のあたりから響いてくる。彼は、早苗を誰かと取り違えているようだった。『ミドリちゃん』というのは、ガールフレンドだろうか。
早苗は、青年の目を見た。大浴場の窓から射し込む光を反射し、きらきらと輝いている。早苗は、依田の実験室にいたウサギの目を思い出していた。外界の認識能力が失われ、ただ照明を反射して、ぎらぎらと輝く目。
だが、青年の目は、まだ清明な意識を保っているような感じがする。無限の後悔と絶望がひしひしと伝わってくるのだ。この段階に至っても、ブラジル脳線虫から与えられる快感が恐怖をうち消し、青年から、完全に発狂するという最後の逃げ道さえ奪っているのかもしれない。
だが、人間が、これほど惨めな状態にあっていいものだろうか。
「どうしたらいいの?」
早苗は、途方に暮れた。すると、依田が静かな声で言った。
「楽にしてやろう」
「そんな」
早苗は、息をのんだ。
「そんなこと、できないわ!」
「じゃあ、どうするんだ? このまま、警察に通報するか? そうすれば、我々が罪に問われることはない。だが、この連中はどうなる? 病院へ収容されても、治療は不可能だ」
「でも、私たちに、人の命を奪う権利はないもの」
「彼らの処遇を、一度、公的な機関に委《ゆだ》ねてしまったら、安楽死は不可能になる。日本では、そういう法律が整備されていないからだ。彼らは、自然死するまで、この状態で放置されるんだぞ。今まで保ったんだ。あと、どれくらい生き永らえるかわからない。その間、彼らをずっと苦しませておくのか?」
「でも、もし、この人たちが生きたいと思っていたら」
「君が彼らと同じようになったら、それでも、まだ生きていたいと思うか?」
「思わない。でも……」
殺人の禁忌《タブー》とヒューマニズムのジレンマは、ターミナルケアの現場で、何度も早苗の脳裏に去来した問題だった。だが、これほど過酷で恐ろしい状況には、まだ、一度も直面したことがない。
「……シテ」
青年の声がした。二人は、はっとして、彼の巨大な頭部を見つめた。
「コロシテ」
今度は、はっきりと聞こえた。彼の目には、自分の姿を認識する知性の光が宿っていた。たとえそれが、一片の救いもとどめない純粋な絶望であったとしても。
「彼は、はっきりと自分の意思を伝えた」
依田は、決然とした調子で言った。
「ほかの人間には意思表示の手段がない。彼の言葉は、全員を代表したものと受け取るべきだ」
「わかったわ」
早苗は、『鬼手仏心』という言葉を思った。人間としての尊厳を守り、耐え難い悲惨な状況から解放するためには、一刻も早く彼らを死なせてやらなくてはならない。たとえそのために、後に刑事罰に問われることになったとしても。
二人は大浴場を出た。建物の中を探すと、一階の厨房《ちゆうぼう》脇と二階に消火栓の扉があった。開けてみると、折り畳まれた布製のホースが見つかった。ガレージと大浴場は隣り合っているから、長さはこれで充分だろう。さらに早苗は物置の中を探して、ツール ボックスと新品のガムテープを何巻か見つけた。
その間に、依田はガレージへ行った。内側からシャッターを開け、フィアット パンダを入れるエンジンの音が聞こえてくる。早苗がホースを抱えてガレージへ行くと、依田が、パンダの後部を、ガレージのドアぎりぎりまで寄せているところだった。
ガレージには持ち主が不明のパジェロとマーチが入っていたが、パジェロには、キーが差したままになっていた。依田は、パジェロのエンジンもかけ、パンダに接触しないように気をつけながらバックさせた。
二人は手分けして、消火栓のホースをフィアット パンダとパジェロの排気筒につなぎ、継ぎ目をガムテープでぐるぐる巻きにした。二本のホースの先は、廊下を通って大浴場に導く。
大浴場の曇りガラスにカッター ナイフで深い傷を付け、周囲をガムテープで補強してから金槌《かなづち》で叩《たた》く。ガラスが割れ、小さな穴が開いた。そこに二つのホースの先を入れて、脱衣場にあったタオルで隙間を塞《ふさ》ぎ、ガムテープで固定する。それから、ドアの隙間を慎重に目張りした。
作業の途中で、早苗は、大浴場の中から、奇妙な音が聞こえてくるのに気づいた。
耳を澄ます。さっきの青年が、一人で何かをしゃべっている。だが、そこには、奇妙な節回しが加わっていた。
しばらく聞くうちに、同じ抑揚、高低のパターンが繰り返し出てくるのに気がついた。これは、メロディだ。愕然《がくぜん》とする。彼は歌っているのだ。
早苗は、耳を澄ませた。それは、彼にできる人間らしい最後の営為だ。せめて、自分一人でも、最後まで聞いてやりたかった。
ふと、『夢がかなう、あの教室へ』という言葉が聞こえるような気がした。
でも、もういいわ。やめて。喉《のど》が破れちゃうわ。早苗は、作業を続けながら、ぽろぽろと涙を流した。
目張りが完了すると、ガレージへ行って、依田に合図した。依田は、いったん切っていたフィアット パンダとパジェロのエンジンをかけた。
ホースが少し膨らみ、排気ガスが流れていることがわかる。途中でホースが折れ曲がっていないか点検しながら大浴場に行くと、もう、『歌』は聞こえなくなっていた。
気になって、早苗が中の様子に耳を澄ませていると、静寂を破り、異様な嗄《かす》れ声が響いた。
「サオリチャン……」
それっきり、後は沈黙が訪れた。おそらく、紙のようになった彼の声帯には、負担が大きすぎたのだろう。
早苗は、そっと涙を拭《ぬぐ》った。
大浴場の広さを考えると、排気ガスでいっぱいにするまでには、かなりの時間がかかりそうだった。その間に、二人は、もう一度セミナーハウスの中をくまなく調べた。
厨房にあった大型の業務用冷蔵庫を開けると、中から、冷凍された三頭の灰色のサルの死骸《しがい》が出てきた。モンクサキだ。これもブラジル脳線虫の卵で濃厚に汚染されているはずであり、処分する必要があった。
二時間半後、依田は車のエンジンを切ると、フィアット パンダを正面玄関の前に出した。二人は大浴場に戻って、ドアと窓を開け放し、排気ガスを追い出す。臭気が外に漏れることには、もうかまっていられなかった。浴槽の栓も抜き、無数の線虫の死骸を含んだ水を、排水溝から流した。ホースとガムテープを処分し、安楽死の証拠が残らないようにする。
生存を確認していた七人は、全員死亡していた。唯一しゃべることのできた、あの青年も、すでに冷たくなり始めている。生地獄のような苦しみは終わった。だが、本当に、これでよかったのだろうか。早苗は、あらためて自分のやったことに気づき、おののいた。
自分は人の命を奪ってしまった……。
だが、今はまだ、後悔や感傷にひたっているときではない。やるべきことは、まだ残っていた。ロバート カプランは、どんな思いで妻の遺体と一緒にケロシンをかぶって火をつけたのだろうか。そう思って、怯《ひる》みそうになる心を励ます。
依田が、セミナーハウスのガレージから、ポリタンクに入ったガソリンを見つけだして持ってきた。もし、フィアット パンダのガソリンを汲《く》み出さなければならなかったら、帰りにガス欠の心配をしなければならないところだった。すでに重大な違法行為に手を染めてしまった以上、この近辺で給油をするわけにはいかなかったからだ。
二人がかりでポリタンクを抱え上げて、遺体の上に念入りにガソリンを撒布《さんぷ》した。頭蓋《ずがい》の深奥部まで、すっかり焼きつくすか、充分な高温にする必要がある。モンクサキの死骸も、遺体と一緒に並べてガソリンに浸した。
大浴場の奥の方の遺体から、順番に作業を進めていった。唯一しゃべることのできた青年の頭からガソリンを注ぐとき、早苗は胸が痛んだ。うなだれた巨大な顔をピンクがかったガソリンが伝い、あごの先からぽたぽたと流れ落ちた。ごめんね。でも、こうしなければならないの。あなたみたいな苦しみを、ほかの人に味わわせないためには……。
早苗が、何気なく依田の姿を目で追ったとき、彼のすぐそばに佇立《ちよりつ》している遺体が目に入った。ほかのどの遺体よりも変形の度合いが大きく、かなり前に死亡しているのが明らかだったので、さっきは、ほとんど調べていない。
おそらく、かなり長い間生存していたのだろう。遺体の全身には、長さ四、五十センチにまで成長した触手が鈴なりになっていた。その先端には、薔薇《ばら》の|蕾の《つぼみ》ような形をした器官がついている。その姿は、全身に無数の毒蛇が蠢《うごめ》くメドゥーサを思わせた。
依田が遺体の前で方向転換しようとしたとき、早苗は、あっと思った。警告の叫びを上げようとしたが、一瞬早く、ポリタンクの口が一本の膨らんだ蕾に接触する。
その瞬間、遺体から生えている触手の、すべての[#「すべての」に傍点]蕾がいっせいにパチンと弾けた。
早苗と依田に向かって、大量の白濁した粘液が吹き付けられる。
「洗い流せ! 早く!」
依田の荒々しい怒鳴り声を聞きながら、早苗は大浴場を飛び出した。洗面台に頭を突っ込んで、髪に水をかけて必死で洗う。
すでに、胃の中には何も残ってはいなかったが、途中で、こみ上げてくる胃液を何度も吐いた。悪《あ》しきものを、全身全霊で拒絶するかのように。
ようやく髪の毛から粘液の感触が取れたとき、依田が、むっつりとした顔で、大浴場から出てきて、ポリタンクを置いた。濡《ぬ》れネズミになっているところを見ると、大浴場の中のシャワーを使ったらしい。
「ちくしょう。まさか、あの突起が、罠《わな》だったとはな。最後の最後に、あんな芸当を……」
「……だいじょうぶ?」
「ああ。これ以上、あの中にいると危険だ。ガソリンは、もう充分だろう」
依田は、大浴場から廊下を通って正面玄関の外まで、ガソリンで細い筋を引いた。砂利道の上でポリタンクを置き、ライターで火をつけると、炎は、躍り上がるように、地面に書かれた黒い線の上を逆流していった。
フィアット パンダが元来た道を戻っていく間に、爆発音が聞こえ、大浴場のガラスが吹き飛んだ。ボンネットの上にまで、微細なガラスの破片がばらばらと落下する。
早苗が助手席から振り返ると、セミナーハウスは、真っ黒な煙を上げ、激しく炎上しているところだった。
[#改ページ]
十七章 悪 夢
早苗は、蜒々《えんえん》と続く長い廊下の途中にいた。
妙に後ろが気になる。誰かに追われているような気がして、しかたがないのだ。
ホスピスの廊下に人影はない。だが、周囲には、人の気配が濃密に漂っていた。どこかで息を潜めているような。
早苗は、並んでいる部屋のドアを順番に開けてみたが、どれも、中はがらんどうだった。
入院患者は、一人もいない。みな、死んでしまったのだろうか。
見覚えのある、木製のドアが目に付いた。土肥美智子医師の部屋だ。
早苗は、ドアをノックする。どうぞ、という声がした。
ドアを開けると、美智子先輩は後ろを向いて、机に向かって書き物をしていた。顔を伏せたまま、
「どうかしたの?」と言う。
「たいへんなんです。みんな、おかしくなってしまって」
「おかしいって?」
「みんな、ぼんやりして、天使の羽ばたく音や、囀《さえず》る声を聞いてるんです。それは幻覚なんですけど、本当は、頭の奥に食い込んだ線虫のせいなんです。線虫は、蛇と同じように大地母神《ガイア》の子供で、人に夢を見させるんですが、放っておくと、とても恐ろしいことになるんです」
早苗は、懸命に訴えた。思考に焦点が合わず、自分でも説明がもどかしい。
「それは、たいへんね。みんな[#「みんな」に傍点]、そうなの?」
「ええ。まわりの人が全部。どうしたらいいでしょう?」
「そうねえ」
美智子先輩は、書き物をしている手を止めた。
「困ったわねえ。私が行ってあげられるといいんだけど、私、ここから動けないから」
「どうして、動けないんですか?」
「知りたいの?」
「ええ……」
美智子先輩の座っている回転|椅子《いす》が、くるりとこちらを向いた。
彼女の両脚は、細い紐《ひも》のような物体に姿を変えていた。
「急にこんなふうになっちゃって、歩けないのよ。それとも、あなたが椅子を押してってくれるかしら?」
早苗は、茫然《ぼうぜん》と彼女を見つめた。