「どうしたの? そんなに私を見て。私、変わった?」
美智子先輩は微笑していた。だが、その顔は異様に膨らみ、白い骨の隆起が何本も走っている。
早苗は首を振った。
「どうしたの? ねえ、北島さん……」
早苗は、部屋を飛び出した。
土肥美智子先輩の忌まわしい姿を見てしまった今では、少しでも早く、この場を遠ざかりたいと思った。だが、いっこうに身体が前に進まない。
どこからともなく、人間とは思えない異様な声が聞こえてきた。歌のようだ。しかし、何を歌っているかまでは聞き取れない。なぜか、それを聞くと涙が出そうになる。
廊下の曲がり角まで来たとき、福家が、ひょっこり姿を現した。
「先生。どうしたんですか?」
「たいへんなの。助けて」
「いいすよ。どうぞ」
福家は、早苗に手をさしのべた。彼の手を握ろうとしたとき、彼がまだ、腕組みをしたままなのに気がついた。片方の手を差し出しながら、どうして、そんなことができるのだろう。
よく見ると、それだけではなかった。彼には、ほかにも余分な手がたくさんあるようだ。何しろ、身体中に、手が生えているのだから。
「どうかしたんですか?」
福家が腕組みをとくと、提灯《ちようちん》のように膨らんだ胸郭が露《あら》わになった。肋骨《ろつこつ》が奇妙な具合に分岐し、網の目になっている。その間を、何か細長いものが行き交っているのが、ちらりと見えた。
早苗は、黙って後ずさりした。
「北島先生。どうして逃げるんすか? 先生……」
心外そうな彼の叫びを聞きながら、早苗は必死で逃れた。福家はまだ、自分で異状に気づいていないのだろうか。だとしたら、彼がそのことに気づく前に、逃げなくてはならない。
後ろを振り返ると、福家の姿はなかった。その代わりに、ずっと彼女を追ってきたものの影法師が見えた。
メドゥーサのように、たくさんの蠢《うごめ》く細い影を生やしている。
早苗が恐怖に立ち竦《すく》んでいると、それは、角を曲がって姿を現した。
怪物の正体を見て、早苗は、胸が潰《つぶ》れるような悲しみを味わった。
「さなえー。逃げないでよー」
それは、親友の晶子だった。だが、その姿は、晶子のものではない。全身に、異様な形の触手が生えている。触手の先端にはたくさんの蕾《つぼみ》があり、そのいくつかは、すでに開花していた。青ざめた顔は、何かに押し潰されたようにひしゃげており、両眼はずっと閉じたままだった。
「晶子……お願いだから、こっちへ来ないで!」
「いまさら、何、驚いてるのよ。私たちってさあ、元々みんな、蛇の化身なんじゃない」
その言葉どおり、晶子の下半身は、巨大な蛇だった。目を閉じ、耳まで大きく裂けた口で、にやにや笑いながら、這《は》うようにこちらへ近づいてくる。
早苗は走り出そうとした。だが、足下を白濁した水が浸しており、思うように走ることができない。水の中では、無数の糸屑《いとくず》のような生き物が蠢いていた。
いつのまにか、ホスピスは燃えさかる炎に包まれている。
ようやく、出口が見つかり、早苗は外へ飛び出した。
誰かが待っている。こちらに向かって、手招きをしていた。
そちらに走ろうとしかけ、早苗は、疑念にとらわれて立ち止まった。もしかすると、今度もまた……。
自分が駆け寄ろうとしていた人物には、顔がなかった。疑惑は加速度的に膨らみ、恐ろしい確信へと変わっていく。
その姿が完全に視界に現れたとき、早苗は絶叫した。
最初に現実との接点を回復したのは、骨と筋肉の固有感覚だった。自分が、うつぶせに横たわった姿勢であることを認識する。次に、手足の触覚が、抱きついている物体の、毛羽立った表面とふかふかした柔らかさを感じた。
これは、ソファだ。その瞬間、記憶がよみがえる。
そうだ。久しぶりに依田と会って、食事に行き、その帰りに、タクシーで彼のマンションへ来たのだ。たしか、西武池袋線の東長崎駅の近くだった。高さ制限の緩やかな時代に建てられたらしく、かなり老朽化しているが、タクシーを降りて見上げた建物は、十一階建ての威容を誇っていた……ここは、その最上階。
依田と一緒にウィスキーを飲むうち、つい、ソファでうとうとと微睡《まどろ》んでしまったらしい。
「だいぶ、うなされてたな」
依田の声がした。早苗は、目を開けた。蛍光灯の眩《まぶ》しい明かりが網膜を灼《や》き、すぐにまた目を閉じる。
「夢を見てたの……」
そう答えてから、ようやく完全に目が覚めた。早苗はソファの上に座って、目を擦《こす》った。全身が、汗びっしょりだった。
「顔色が、真っ青だぞ」
依田が来て、隣に座った。
「スカートが、皺《しわ》になっちゃったわ……」
早苗は、自分の身体を見下ろした。
「なんだ。震えてるじゃないか」
依田は、早苗の肩を抱きしめた。早苗は、しばらくぼんやりとしていたが、急に依田の腕にひしとしがみついた。
「どうした?」
「怖かったの」
「夢なんだろう?」
「だけど、怖かったのよ」
早苗は依田の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
セミナーハウスでの出来事以来、この一ヶ月間というもの、ひとときも気持ちが休まることがなかった。だが、今、ようやく、心の鎧《よろい》を脱ぎ捨てることができた。あの恐ろしい体験を共有した依田の、腕の中で……。
依田は当惑したようだったが、辛抱強く背中をさすりながら、早苗が落ち着くのを待ってくれた。
「私って、だめね」
「どうして?」
「こんなに脆《もろ》いなんて、思わなかった……」
「無理もない。あんなことがあったんだからな」
早苗はまた、嗚咽《おえつ》を漏らした。
「だいじょうぶ。心配ないよ。全部、終わったんだ。全部……」
「本当? 本当に、全部?」
「ああ」
依田は、早苗をそっと引き離そうとしたが、彼女は依田のシャツの背中を固く握ったままだった。
「事件のこと……警察は、どう思ってるのかしら?」
「あいかわらず、五里霧中だろう」
「でも、もし、私たちが、あそこにいたことがわかったら」
「わかるわけはない。我々とあの事件とを結びつける物証は、何一つ残っていない」
依田は、かなり楽観的なようだった。
実際、一ヶ月後の今日に至るまで、警察からは何の公式発表もなかった。メディアでも、人民寺院事件のような狂信集団の集団自殺であるという説と、未曾有《みぞう》の大量殺人との見方が、対立したままである。
だが、早苗には、日本の警察がそれほど無能だとは思えなかった。たとえセミナーハウスの遺体がすべて黒焦げになっていたとしても、骨の形状くらいは判別できるのではないだろうか。早苗は、あの網目状の肋骨を思い出し、身震いした。さっきの夢にも出てきたように、その映像は、瞼《まぶた》に鮮明に焼き付いている。
もしかすると、警察は、事態の異常性を充分把握した上で、メディアに対して情報管制を敷いているのかもしれない。そうでなければ、これほど捜査の進捗《しんちよく》がないことには説明がつかなかった。
「でも、線虫のことは?」
「心配しなくてもいい。実験室のブラジル脳線虫は、すべて処分した」
そう聞いて、早苗は複雑な気分に襲われた。ブラジル脳線虫に関する研究を完全に放棄してしまうのは、正しい選択なのだろうか。
「私、本当にあれでよかったのかって思うの」
「彼らを、安楽死させたこと?」
早苗は、首を振った。
「もしかすると、何もかも焼いてしまったのは、間違いだったんじゃないかしら?」
「どうして?」
「あの人たちの遺体は、ブラジル脳線虫の危険性を示す歴然とした証拠よ。あれを見ていれば、どんなに分からず屋の官僚でも納得したはずだわ」
「だが、あのままにしておいたら、我々は、今ごろ殺人犯だ」
早苗は、依田を身勝手と非難する気にはなれなかった。自分も、同じことを考えたから、セミナーハウスに放火する手助けをしたのだ。だが、本当に、それでよかったのか。
依田は、早苗の髪の毛を掻《か》き上げ、目の中を覗《のぞ》き込んだ。
「たしかに、ブラジル脳線虫の感染を心配する君の気持ちはわかる。だがそれは杞憂《きゆう》だ」
「そうかしら?」
「人間がブラジル脳線虫に出会ったのは、たまたま不幸な偶然が積み重なったからだ。今後、感染の機会があるとは思えない」
「でも、万に一つでも可能性があれば」
「ブラジル脳線虫の棲息域《せいそくいき》がごく限られていることと、事実上、食物を通じてしか感染しないことを考えると、確率は、万に一つもないよ」
早苗は、しばらく黙り込んだ。依田の言っていることは、現実的判断としては正しいのかもしれない。だが、どうしても割り切れない思いが残る。セミナーハウスで亡くなった人たちの犠牲は、まったく無意味だったのだろうか。
「もう、忘れた方がいい」
依田は、励ますように早苗の肩を叩《たた》いた。
「少しは、元気になった?」
「ええ。ありがとう」
早苗は、ようやく彼の胸から離れ、はにかんだ笑みを浮かべた。
「何だか、喉《のど》が渇いちゃった」
依田は、にやりとした。
「飲み過ぎるからだ」
「あなたが、無理に勧めたからよ」
「わかったよ。何か、飲み物を取ってきてあげよう」
早苗は、キッチンへ入っていく依田の後ろ姿を見送った。自分一人では、とうていこの重圧を乗り切れなかっただろうと思う。
これまで自分は、自立した人間、自分の面倒は自分で見られる人間だと思い込んできた。それどころか、苦しんでいる人たちの救済者を気取ってさえいたのだ。ところが、いざ問題が自分では処理しきれないくらい深刻になると、結局は、自分よりも強い人間に頼ることしかできないとは。早苗は自嘲《じちよう》した。
それにしても、依田はなぜ、そこまで強くなることができたのだろう。彼もこの一ヶ月間は、自分と同じく、異常な重圧下に置かれていたはずなのに。
依田が、キッチンから出てきた。飲み物を取りに行っただけにしては、ずいぶん時間がかかったようだ。
「さあ、これを飲んでごらん」
依田が差し出したのは、湯飲みに入った緑色の液体だった。
「何なの、これ?」
「薬草茶だよ。ハーブのほかに、クロレラのような藻が入ってる。気持ちが落ち着くはずだ」
早苗は、湯飲みを受け取ると、口元へ持っていった。どろりとした緑色は、滝沢優子が死んだ手賀沼を思わせた。漢方薬特有の、鼻につく臭《にお》いがする。ふだんなら、どうということはなかったかもしれないが、今は、その臭いを嗅《か》いだだけで胃がむかむかして、とても受け付けそうにない。
早苗は、湯飲みをテーブルの上に置いた。
「どうした?」
依田が、もの問いたげな視線を向けた。
「何だか、臭いがきつくって。飲めないわ」
「鼻をつまんで、一気飲みしてごらん」
早苗は首を振った。
「ごめんなさい。せっかく持ってきてくれたのに。私、水でいいわ」
「じゃあ、何か別の飲み物を持ってきてあげるよ」
依田は、また立ち上がった。
「水道の水でいいのに」
「いいから、いいから」
依田は、先に立ってキッチンに入ると、冷蔵庫のドアを開けた。
「ダイエットコークでいいかな?」
「ええ。ありがとう」
本当は、天然水がベースの飲料が欲しかったのだが、あまり我儘《わがまま》ばかり言うのも憚《はばか》られた。早苗は、依田の手渡した缶のタブを開けて、冷たくて甘い液体を飲んだ。喉《のど》が渇いていたので、思ったより美味に感じられた。
「半分、分けてくれないか?」
早苗が缶を差し出すと、依田は首を振った。
「そうじゃない」
「えっ?」
「君に、飲ませてほしい」
早苗がきょとんとしていると、依田は笑い出した。
「君から[#「から」に傍点]飲ませて欲しいって、言ってるんだよ」
早苗は、依田をじらすために、しばらくの間、考える仕草をしていた。幼い子供のように、缶を口に当てたままで。
それから、首を傾《かし》げて、コークを一口含む。吹き出しそうになるのをこらえながら、依田の顔を覗き込む。
依田が顔を近づけてくると、缶を持ったまま両手を彼の首に回し、唇を合わせた。
頭から熱いシャワーを浴びて、早苗は、身体がすっかり冷え切っていたことに気づいた。うたた寝していたときに、ひどく汗をかいたからだろう。
彼女は目を瞑《つむ》り、大きな吐息をつきながら、滝のように熱い湯に身体を打たれる感覚を楽しんでいた。やっと、人心地がついたような気がする。
今日は、最初から、依田に抱かれる覚悟をしてきた。彼には、自分のすべてを知って欲しい。悪夢の残滓《ざんし》をすっかり洗い流し、生まれ変わったような気分で彼を迎えたかった。
だが、いつのまにか、さっきの夢のことを考えていた。
一つだけ、どうしても不思議でならないことがあった。なぜ、土肥先輩や福家、晶子が化け物の姿で現れたのだろうか。
三人とも、実際には、ブラジル脳線虫の感染は受けていない。しかも、程度の差こそあるものの、自分が信頼を寄せている人たちばかりである。
早苗が、これまでカウンセリングした人々の見た夢の中には、未来を予知したとしか思えないようなものもあった。常識的に考えれば、それは、意識が見過ごしていた様々な情報が、寝ている間につなぎ合わされて、論理的に将来起こりうることを予測したということになるのだろうが。
だが、夢は、ストレートに予測した結果を見せるのではなく、何らかの歪曲《わいきよく》が加えられていることが多い。それは、逆夢となったり、マクベスの魔女の予言のような謎《なぞ》かけの形をとることもある。
それでは、さっき見た夢はどうだろうか。
信頼していた人たちが、怪物になってしまう。これは、信頼を裏切られるという予兆かもしれない。誰も信じるなど、無意識が警告しているのだろうか。
あるいは、裏返しの解釈もできる。当然のことながら、土肥美智子や晶子は、怪物などではない。
だとすると、夢に怪物としては登場しなかった人物が、本当は怪物であるということになる……。
バカバカしい。早苗は苦笑した。
極度の精神的な疲労から生まれた悪夢に、意味など求める方がどうかしている。
早苗は、コックを閉めて湯の奔流を止めると、固く絞ったタオルで身体を隅々まで拭《ぬぐ》った。バスルームを出ると、今度は、バスタオルで残った水気をきれいに拭《ふ》き取る。
鏡に映った自分の顔は、シャワーを浴びる前と比べて、明らかに元気を取り戻しているように見えた。
外していたサファイアの指輪を指にはめようとしたとき、手が滑った。指輪は、鉛直に落下し、洗面所のゴミ箱の中に落ちた。
早苗は、ゴミ箱の中を覗《のぞ》き込んだ。中は、紙屑《かみくず》やシャンプーの空き瓶などでいっぱいになっている。重い指輪は、一番底にまで落ちてしまったらしい。
やむをえず、早苗は、上から順番にゴミを取りのけていった。すると、きらりと光るものが目に入った。手を突っ込んで取ったが、指輪ではないことは、すぐにわかる。もっと、ずっと軽いものだ。
目の前にかざしてみると、それは、空になった薬のパッケージの一部だった。
捨てようとしたとき、何かに気づいた。
もう一度、パッケージをよく見る。そこに書かれていた記号は、早苗のよく知っているものだった。
頬《ほお》が固くこわばるのを感じる。
早苗は、ゴミ箱の中身を、すっかり床の上に出した。
指輪も見つかったが、彼女の注意が引きつけられたのは、別のものだった。さっきと同じようなパッケージが、いくつも見つかったのだ。しかも、それぞれ違う種類の。
強力精神安定剤である塩酸クロルプロマジンとハロペリドール……。この二つの薬は、脳神経の別々の受容器を阻害することで、ともにA10神経系の異常興奮を抑える。ほかに、抗不安薬のメイラックス、抗鬱薬《こううつやく》のイミプラミン、クロミプラミン、それに炭酸リチウム製剤のリーマスまであった。
心臓が、激しく動悸《どうき》を打ち始める。
蜷川も、たぶん同じような薬を使っていたはずだ……。
そんなことは絶対にありえないと、懸命に否定する。
だが、依田がこれほど多量の抗精神剤を必要とする理由は、彼女には、一つしか考えられなかった。
「早苗」
洗面所のアコーデオン・カーテンのすぐ外で、依田の声がした。早苗は飛び上がった。
「化粧を直し終わったら、私もシャワーを浴びたいんだがね?」
「ごめんなさい。今、出ます」
早苗は、あわてて床に散らばったゴミを拾い集めた。
「私にすっぴんを見せるのを、そんなに怖がらなくてもいいんだよ」
早苗は、無理に明るい声を絞り出した。
「……そうはいかないわよ。私も、もう、二十歳じゃないんだから」
「二十歳とは、恐れ入ったね」
どうにか音を立てずに、ゴミを元通りにできた。早苗は、手早く服を身につけ、アコーデオン・カーテンを開けた。
「お待たせしました」
依田は、彼女の姿を見下ろした。
「何だ。また服を着たのか?」
「裸でいるわけにもいかないでしょう?」
「どうせ脱ぐんだから、バスタオルでも巻いておけばいいのに」
「嫌よ」
「どうして?」
「私にも、そのくらいのデリカシーはあるんです」
「それは、失礼」
依田が代わって浴室に入り、ほどなく、激しい雨のような水音が響き始めた。
早苗は、しばらくその場に立ちつくしていた。さっきまで感じていた不安が、急に、実体のないものに思えてきたのだ。
依田は、たしかに抗精神剤を常用しているらしい。だが、ある意味では、それも当然ではないか。あれほど恐ろしいストレスを乗り切るためである。彼が、自分の前で平然とした態度をとっていられたのも、薬の助けを借りていたのだと考えれば、納得がいく。
早苗は、強いて自分を安心させて、リビングルームへ戻ろうとした。だが、そのとき、どうしても説明のつかない薬が一種類あるのに気がついた。
リーマスだ。
炭酸リチウムは、抗躁剤《こうそうざい》以外の目的に使われることはない。ストレスを和らげるためなら、強力精神安定剤や抗鬱剤は有効かもしれないが、抗躁剤は何の役にも立たないはずだ。
そのとき、背後から、かすかな唸《うな》り声のようなものが聞こえてきた。
早苗は、一瞬ぎくりとして立ち竦《すく》んだが、すぐにそれが、機械の音であることに気がついた。モーターかコンプレッサーのような。冷蔵庫だろうか。
……だが、それは、背後から聞こえている。
キッチンは、自分の前方だ。背後にあるのは、おそらく、依田の寝室と書斎だろう。
早苗は、暗い廊下の突き当たりにある二つのドアを見つめた。わずか四、五メートルの距離だが、そこまで行ってドアを開けることが、とてつもない難事業に思える。
音は、三十秒ほどで止んだ。
心の底から、見たくないと思った。未知の扉を開ける恐怖は、セミナーハウスの大浴場を思い出させる。だが、どうしても、確かめないわけにはいかなかった。
早苗は足音を殺して、廊下の突き当たりまで進んだ。部屋が二つ、並んでいる。右側の部屋のドアを開ける。寝室だった。見渡してみても、特に異状は見られない。そっとドアを閉めた。
左側のドアを開けたとたんに、かすかな機械の作動する音が聞こえた。さっきのコンプレッサーの唸り声とは違う。空気がひんやりと冷たいのを感じる。
ほぼ真正面の高い位置に、緑色の目のようなものが光っていた。窓の上に取り付けられたエアコンが作動し、冷気を噴き出している。十一月も半ばをすぎているというのに……。
早苗は、明かりを点けずに中に入った。そこは思ったとおり、書斎だった。正面の窓際には、パソコンの載った机と椅子《いす》があり、机の反対側の壁面は、専門書でいっぱいの本棚が三つ並んでいる。
そして、左奥の角には、暗い色をした中型の冷蔵庫が置いてあった。
早苗は鳥肌の立った両腕をさすった。まるで氷室の中のように、きんきんに冷房が利いている。おそらく10℃以下になっているだろう。ふつうのエアコンでは、これほど極端な温度設定はできないはずだが、わざわざ改造したのだろうか。
早苗は、冷蔵庫の前に立った。これだって、別に異常なことじゃない。自分にそう言い聞かす。依田は線虫の専門家だ。ときには、試料を自宅に保管する必要だってあるかもしれない。
冷蔵庫には、鍵《かぎ》がかかっていた。鉄板にドリルで穴を開けて、面付け錠をネジ止めしてあるのだ。
早苗は、机の引き出しを調べた。真鍮《しんちゆう》製らしい小さな鍵が、プラスチックでできた名刺の空き箱の中に無造作に転がっていた。
解錠しようとして手が震え、指先から鍵が滑り落ちた。急いで拾い上げ、鍵穴に入れて回す。思ったより大きな音がして、ぎくりとする。
冷蔵庫の扉を開けると、薄暗闇《うすくらやみ》に光が射す。だが、それとともに籠《こも》っていた空気が解放されて、部屋の温度はさらに急降下したようだった。
早苗は、身震いをしながら中を見た。
冷蔵室内のしきりだけでなく、冷凍室との境の壁まで取り払われて、高さが八十センチくらいある金属製の容器が納められていた。前に、依田の研究室で同じものを見た覚えがあった。
おそるおそる、容器の蓋《ふた》に触れてみる。ひどく冷たかった。アルミニウムの蓋は、口の外径より一回り大きく、上から被《かぶ》せてあるだけである。密閉すると爆発の危険があるからだ。よく見ると、冷蔵庫のパッキンにも、外へ気体を逃がすための穴が開けられていた。中に入っているのはたぶん液体窒素だろう。蓋を取ると、案の定、ドライアイスのような白い煙が流れ出す。
容器の口には、フックのような金具が引っかけてあった。うっかり触れると、指先の皮膚が貼《は》りついてしまうかもしれない。指にハンカチを巻いてから、金具を引っ張り上げる。金具の先は細長い金属製の棒になっていて、花弁のような形の六つの輪がついていた。うち、五つの輪にプラスチックの試験管が差してあり、一つだけが空きになっている。すでに一本は、解凍済みということだろうか。
試験管の外側は白い霜で覆われ、中身は見えない。
喉元《のどもと》に、何か固いものがせり上がってくるような気分だった。
まだ、決めつけるのは早すぎる。これは、C・エレガンスのような、ただの線虫かもしれないからだ。
だが、そう考えるには無理があることに気がついた。設備が不充分な自宅で線虫を凍結保存するためには、頻繁に液体窒素を運んでは、注《つ》ぎ足さねばならない。あえて、そんな面倒なことをする理由があるだろうか。
一方、もしこれが、ブラジル脳線虫だったとしたら。
ずっと研究室に置いておけば、いつ誰の目に触れるかわからない。わざわざ自宅に持ってきたというのも、うなずけなくはない。
だが、依田はブラジル脳線虫はすべて処分したと言ったはずだ。なぜ彼は、嘘《うそ》をつかねばならなかったのか。自分を安心させるためというのも、著しく説得力に欠ける。
早苗は、ゆっくりと試験管を元に戻した。呼吸が早くなっている。どうしようもなく手が震えるため、凍った試験管同士が触れ合って、かちゃかちゃという音を立てた。
……自分は、事実から目をそむけようとしていた。これだけの状況証拠があれば、依田がブラジル脳線虫に感染しているということは明らかではないか。
凍結された試験管に、捨てられていた薬のパッケージ。セミナーハウスでの事件以来、これほど重圧のかかる状況が続いているのに、ほとんどストレスを感じていないように見えること。
そして、彼には感染する機会があった。大浴場で、異様に変形した遺体から、粘液のようなものを吹き付けられたときだ。自分は、今までに何の症状も出ていないのを見ると、すぐに洗い流したことで事なきを得たらしい。だが、依田も同じくらい幸運だったとは限らない。
数時間前の、フランス料理店での食事を思い出す。せっかくのフルコースも、早苗はほとんど喉を通らなかったのだが、依田は、一皿残さずきれいに平らげていた。
そして、今晩の彼は、いつになく、性的な衝動を抑えかねているように見える。背筋に、震えが走った。依田は、高梨とほとんど同じ症状を見せているのだ……。
早く逃げなくては。早苗はそっと書斎を忍び出た。
玄関へ向かおうとしたとき、全身の血が凍りつくようなショックを受けた。
洗面所のアコーデオン・カーテンが開き、バスローブを着た依田が現れたのだ。たった今、シャワーから出たばかりなのだろう。髪の毛が濡《ぬ》れ、かすかに湯気が立っていた。あいかわらず口元には笑みを浮かべているが、眼光は、これまでに見たことがないほど険しかった。
「そこで、何をしてるんだ?」
依田は、静かな口調で訊《たず》ねた。早苗は、金縛りにあったように身体を固くしていた。何か言い訳をしなければと思うが、声を出すことができない。
少し前までは、あれほど安心感を与えてくれたはずの笑みが、今は、まったく違ったものに見える。
「早苗?」
「別に。ちょっと退屈しただけよ」
やっと声が出た。
「ずいぶん、長いシャワーだったわね」
「たったの五、六分だ。自分のことは棚に上げて、よく言うね」
依田の眼光が和らいだ。
「だが、それだけ君は、待ち遠しかったってことだな」
「……そうかもしれないけど」
依田は、大股《おおまた》に早苗に近づいた。早苗には、後ずさりするいとまさえなかった。彼の顔を正視することもできず、うつむいていると、視界いっぱいに依田の胸が迫ってくる。
長く強力な両腕で肘《ひじ》のあたりを掴《つか》まれ、引き寄せられると、身体が浮き上がり、あっという間に抱きすくめられていた。
「ね、ねえ、ちょっと……」
早苗は腕を突っ張ろうとしたが、彼の腕の中では、どんなに頑張っても、まったく身体の自由は利かなかった。胸郭が圧迫されて、呼吸すらままならない。依田の膂力《りよりよく》に、初めて恐怖を覚える。
「待って。私……」
抗議の声を発しかけた早苗の口は、依田に塞《ふさ》がれた。
彼の舌が、生き物のように早苗の唇を割って侵入する。さらに、歯の間を無理やりこじ開け、彼女の舌を求めて動いた。
自分をがっちりと捕まえている男の肉体は、無数の線虫の巣と化している。そう思っただけで、おぞましさに発狂しそうだった。自分の口腔《こうこう》を蹂躙《じゆうりん》する舌は、巨大な線虫そのもののような動き方をしているではないか。早苗は、ただ、されるがままになっていた。
エイズはキスでうつることはない。だが、ブラジル脳線虫はどうなのだろうか。不安が増殖し、どうすることもできないという絶望感と恐怖に、身体が硬直していた。
そんな早苗の様子を、依田は、恥じらいと経験不足によるものと受け止めたようだった。
「早苗。愛してるよ」
依田は、接吻《せつぷん》を中断すると、彼女の耳元で囁《ささや》いた。
だが、その言葉すら、すでに彼自身のものではなくなっているのだ。早苗は、依田の脳を支配している線虫が彼の口を借りてしゃべっているかのような、錯覚にとらわれた。
ふいに、胸を圧迫していた鋼鉄のような腕の力が弛《ゆる》んだ。ようやく息がつけるようになったかと思うと、尻《しり》の下を抱えて、赤ん坊のように持ち上げられた。
「どうするの?」
早苗は震える声で訊ねた。
「寝室へ行こう」
「でも、私……」
「だいじょうぶだ。私を信頼して」
「待って、ねえ、お願いだから、待って」
依田は、まったく聞く耳を持たないようだった。寝室に入り、ベッドの上に下ろされたが、身体が竦《すく》んで、逃げ出すこともできない。
依田は、バスローブを着たまま、覆い被さってこようとした。
「長かったな……。私たちは、これからようやく一つになるんだ」
その言葉は、早苗にとって、まったく別の不吉な意味を孕《はら》んでいた。セミナーハウスで見た遺体と自分の姿が、二重写しになる。
瞬間、金縛りが解け、早苗は依田をつきのけた。
「早苗……」
「来ないで。こっちへ来ないで!」
「なぜだ? どうして急に」
依田は、突然、はっと思い当たったようだった。
「まさか……さっき」
早苗は、思わずかぶりを振っていた。それは自白に等しい行為だった。
「そうか。見たんだな」
依田が、こちらに向かって一歩足を踏み出した。その瞬間、早苗はきびすを返すと、脱兎《だつと》のごとく寝室を飛び出した。一瞬の判断で、書斎に飛び込み、叩《たた》きつけるようにドアを閉める。
彼女が中から鍵《かぎ》をかけるのと、外から激しくノブが引っ張られるのとは、ほぼ同時だった。
「早苗! ここを開けろ!」
依田が、荒々しくドアを叩いた。早苗は、耳を覆ってうずくまった。
「いいかげんに……!」
怒りを爆発させかけた依田の声の調子が、唐突に穏やかなものに変わった。
「早苗。わかった。何もしないから、ここを開けてくれないか?」
早苗は、何が起こったか気がついた。依田の心に生じた強いストレスが、一瞬にして消され、別の感情に置き変えられたのだ。
「君は誤解している。話を聞いてくれ」
「誤解じゃないわ」
彼女は、ようやく声を絞り出した。
「どうして、そう思う?」
「あなたは嘘をついてたわ」
「嘘《うそ》? ああ……そこにあった試験管のことだな。それは、ブラジル脳線虫じゃない。別の種類の線虫を冷凍保存してあるだけだ」
「もう、やめて。洗面所で薬のパッケージを見つけたの。それで、何もかもわかったのよ」
依田はしばらく黙っていたが、拍子抜けするほどあっさりと早苗の疑惑を肯定した。
「わかった。君の言うとおりだ。私は感染している。おそらく、セミナーハウスで、遺体の触手から粘液を吹き付けられたときだろうな。あのとき、一部が目に入った。すぐに洗滌《せんでき》したが、間に合わなかったらしい」
早苗は、唇を噛《か》みしめた。
「早く、病院へ行きましょう! 今すぐ治療をはじめれば……」
依田は、早苗の言葉を一笑に付した。
「治療? 今さらどうしようもないよ。君にもわかってるだろう」
そのとおりだった。現代医学では、すでに依田を救う道はない。
「だから私は、残りの人生をブラジル脳線虫と共存するしかないわけだが」
依田は、他人事《ひとごと》のような調子で言った。
「だが、これも、そんなに悪いものじゃない。君にも[#「君にも」に傍点]、いずれわかる[#「いずれわかる」に傍点]……」
早苗は、身震いした。依田の意図が、はっきりとわかったのだ。自分を道連れにするつもりだ……。
「ねえ。もしも……もしもよ? 奥さんが生きてたら、同じことをしたの?」
依田は、含み笑いを漏らした。
「ああ。もちろんだ。この素晴らしい感覚を知ってもらいたいからね」
早苗は絶望した。すでに自分の知っていた依田は存在しない。ここにいるのは別人だ。
逃げなくては。なんとしても、自分の力で。
書斎の窓を開ける。外の世界の雑音が、部屋の中に入ってきた。だが、そこは周囲からは隔絶された場所だった。地上十一階から街路灯に照らされた地面を見下ろすと、足が竦むような気がする。エアコンの室外機を置く出っ張り以外には、伝い歩きのできるような張り出しなど、いっさい見当たらない。
「おい。何をしてるんだ?」
窓が開く音が聞こえたのだろう。依田が狼狽《ろうばい》したような声を出した。
「もし、ドアを破って入ってきたら、私、ここから飛び降りるわ」
「馬鹿なことを言うな」
「本気よ。私、セミナーハウスで見た人たちみたいになるくらいだったら、死んだ方がいい」
実際、早苗は、それぐらいなら死を選ぶつもりだった。死ぬことは怖いが、死よりも遥《はる》かに恐ろしい運命があることを、はっきりとこの目で見てしまっている。
「早苗。落ち着くんだ」
「今言ったことは、脅しじゃないわ」
「わかった。ドアを破ったりはしない。お互い、少し冷静になろう……」
事態は、神経戦の様相を呈してきた。いつまで、自殺するという言葉が通用するだろうか。自分でも、死のうという意志をいつまで持ち続けられるか自信がなかった。
この膠着《こうちやく》状態に終止符を打つのは、いったい何だろうか。
そのとき、ドアから、かすかな音が聞こえてきた。硬いもので、木の板を引っ掻《か》くような……。依田が、ドライバーでドアノブか蝶番《ちようつがい》のネジをはずそうとしているのかもしれない。
残された猶予は、ほとんどないはずだ。早苗は、絶望的な思いで書斎の中を見回した。武器になりそうなものは何一つない。