何でもいい。ほんの一瞬でも、依田を怯《ひる》ませることができれば……。
彼女の瞳《ひとみ》に、冷蔵庫が飛び込んできた。
……あの中には、液体窒素の入った容器がある。
そうだ。使えるとしたら、これしかない。だが、どうやればいいのか。たとえば、依田がドアを開けた瞬間に、中の液体窒素を顔に浴びせかければ……。
早苗は、両手で容器を揺り動かしてみた。だめだ。ゆうに二、三十キロはある。ゆっくりと動かすならともかく、自分の腕力では抱え上げることすら不可能だ。かといって、液体窒素を小分けにする入れ物もない。
うっすらと、目に涙が浮かぶ。唇を噛んだ。わからない。どうすればいいの。方法なんて、あるわけない……。
そのとき、天啓のように、頭の中で声が聞こえた。それは皮肉にも、かつて依田自身が発した言葉だった。
「液体窒素は、常温では気化し続ける。口を密閉なんかしたら、ものの数分で大爆発だよ」
早苗は深呼吸した。そうだ。それしかない。とにかく、やってみよう。
冷蔵庫のプラグを引き抜くと、ドアを開けて、容器の蓋《ふた》を取る。ブラジル脳線虫の入った五本の試験管を取り出したが、処置に迷った。そのあたりに放り出しておけば、何かの拍子に試験管が割れて、飛沫《ひまつ》を吸い込んでしまうかもしれない。結局、ハンカチでくるんでハンドバッグに入れる。
早苗は、ドライアイスのような煙を吐き出している金属の容器を見つめた。とにかくまず、容器の口を密閉しなければならないのだが。
書斎の中を見渡すと、机の上にある花瓶とティッシュペーパーの箱が目に入った。液体窒素は水を凍らせる。水は接着剤になるはずだ。
早苗は、ティッシュペーパーの箱を開けて、中身をそっくり取り出した。くしゃくしゃに丸め、上から花瓶の水をかけて、たっぷりと含ませる。それを液体窒素の入っている容器の口に隙間《すきま》のないように詰め込んで、上から蓋をかぶせた。
これでいい。この温度なら、濡《ぬ》れたティッシュはすぐに凍り、容器を密閉するだろう。液体窒素が気化し続ければ、最後には破裂するはずだった。
だが、すぐに計画のあら[#「あら」に傍点]が見えてきた。このままでは、ある程度内圧が高まった時点で、蓋が弾《はじ》けるだけかもしれない。自分の命がかかっていることを考えると、シャンパンの栓程度では心許ない。何とかして、蓋をもっと強固に固定できないだろうか。
早苗は、ドアノブに目をやった。ゆっくりと動いている。板を引っ掻くような音も、断続的に続いていた。もう、残された時間はわずかかもしれない。
もう一度部屋の中を見回すと、本棚の上にある耐震ストッパーが目に入った。阪神大震災の直後に飛ぶように売れた、天井と家具との間を固定する器具だ。
早苗は椅子《いす》に乗り、一基のストッパーを取り外した。中央部のネジで長さを調節するのだが、依田がよほど力任せに回したのか、最初はまったく動かなかった。だが、必死で力を込めるうちに、ネジはそろそろと回り始める。もう少しだ。ようやく取り外すことのできたストッパーを、容器の蓋と冷蔵庫の天板の間にかませた。再び渾身《こんしん》の力でネジを回し、がっちりと固定する。
もう、タイムリミットだ。早苗は、冷蔵庫の扉を閉め、花瓶などを元の位置に戻した。
早苗は、依田に声をかけた。
「依田さん。そこにいるの?」
しばらく間があってから、返事が聞こえた。
「ああ」
「ねえ、聞いて。私、今からドアを開けます。だけど、その前に、一つだけ約束して」
「何だ?」
「しばらく話をする間だけ、待ってほしいの」
「話?」
「気持ちを整理するには、それなりの時間がかかるわ。私のためを思ってくれてるんだろうけど、自分の意志に反して、無理矢理っていうのは嫌なの」
依田は、無言だった。
「お願いだから、私が納得するまで待って。急ぐ必要はないでしょう?」
再び間があった。
「ああ。わかった。約束する」
彼の声音には、何の感情も感じられなかった。早苗は、彼が約束を守るかどうか、一抹の不安を感じた。だが、ほかに取るべき道は残っていない。
「いいわ……。じゃあ、本当に、約束よ」
早苗は深呼吸すると、錠を回し、ドアを開けた。
依田は、目の前に立っていた。何の屈託もないような爽《さわ》やかな笑みを浮かべながら。想像したとおり、片手にドライバーを持っている。見ると、外側のドアノブは、ほとんど外されて、ドアからぶら下がっている状態だった。声をかけたタイミングは、ぎりぎりだったのだ。
依田は、戸口のところに立ったまま、入ってこようとはしなかった。早苗が逃げるつもりではないかと疑っているのだろう。彼の手には、牛乳らしい白い液体の入ったグラスが握られている。
「じゃあ、さっさと済ませようか。聞きたいことというのは何だ?」
早苗は、口を開いた。何でもいい。何か質問をしなくては。
「その、つまり……。私には、どういうふうなのか、よくわからないから……いったい、どんな気分になるものなのかとか」
依田は、うなずいた。
「この生き物は、人生を劇的に変えてくれる。あらゆる苦しみを取り除き、人が十全に生きられるようにしてくれるんだよ。本当に、何もかもが変わった。以前の私にとって、人生は牢獄《ろうごく》だった。妻を失った記憶が、私の感情を凍らせていた」
依田は、淡々としゃべった。
「だが、今は、もう違う。見るもの聞くもの、すべてが新鮮に感じられる。この世界の素晴らしさを、そのまま感じられるんだ。君は、麻薬の酩酊《めいてい》のような感覚を想像しているのかもしれないが、全然違う。これこそが、本来、人間が持って生まれたはずの感覚なんだ。縛られていたのは、今までの意識の方だったんだ。ブラジル脳線虫は……天使は、そこから私を解放してくれた」
早苗は、つばを飲み込んだ。
「依田さん。あなたもセミナーハウスで見たでしょう? 感染者が、いったいどんな末路をたどったか……?」
「ああ。たしかに、あれには驚いたな……」
依田は、ほとんど関心がないようにつぶやいた。
「だが、いずれ人間は死ぬ。長く生きることだけが人生の目的じゃないだろう? 大切なのは、今、この時だ。たとえ一瞬でも、意識を至高の状態にまで高めることができたなら、悔いはないはずだ。そうだろう? この境地に達するためだけに、宗教的な苦行に一生を捧《ささ》げる人たちもいる。私は、ようやくこれまでの苦しみから解放され、生まれて初めて心の底からの安らぎを得た。この気持ちを、是非、君にも知ってもらいたい。私はね、君を救ってあげたいんだよ……」
依田の論理は、完全に狂っていた。彼は、自分の目で第四段階に入った人間の姿を見ていながら、自分自身の運命を認識することを拒否していた。いや、そうではない。自分の運命を悟ったことによる恐怖が、ブラジル脳線虫によって快感に変えられているのだ。
依田の心には、最初から、致命的な弱点《バルネラビリテイ》があった。彼の心は、不条理な事件で妻を失って以来、生きる力を失った空洞であり、それを支えていたのは論理だけだった。そして、蜷川教授のときもそうだったが、論理というものが、どんなに簡単にねじ曲げられうるものか、早苗は思い知らされていた。
依田は、なおも早苗を説得しようとして長広舌をふるいはじめた。もはや、普通の人間にとって、それがどんなに感覚的に受け入れがたいものか、わからなくなっているのだ。
依田は、一歩早苗に近づいた。
まだ、爆発は起こらない。何とか、もう少しの間、依田を押しとどめなければならない。早苗は、早口に話し出した。
「それは、よくわかったわ。本当に、素晴らしいことなんでしょうね。……でも、それで、どうなのかしら、その、人生の真実を知るための時間は、どのくらいあるの? ほら、いくら素晴らしい境地に至ったとしても、すぐに終わってしまうんじゃ、困るし……。つまり、だいたい、どのくらいの時間がかかるのか、知っておきたいのよ。感染……してから、そういう気持ちになれるために、どのくらいかかるのかとか、その後、どのくらい時間が残されているのかとか」
依田の表情に、失望の影が走った。自分でも支離滅裂になっているのがわかる。まだか。まだ、爆発は起こらないのか。
「まあ、それは、人それぞれだ。君も蜷川教授の例は知っているだろう? うまくコントロールすれば、一年以上保つ可能性だってある」
依田の言葉を聞くふりをして、機械的に相槌《あいづち》を打ちながら、早苗は、じっと待ち続けた。極度の緊張で、顔の筋肉がこわばってきたのを感じる。
もう、かれこれ五分近くはたつのではないか。どうして、まだ爆発が起きないのだろう。
突然、背筋に冷たいものが走った。どこかに大きな誤算があったのではないか。爆発が起きるまでに何時間もかかるか、あるいは、もしかすると、いつまでたっても爆発には至らないのではないか……。
依田は、あいかわらず早苗の退路を塞《ふさ》ぐように、戸口側に立っている。万が一にも、逃げ出すチャンスはない。
「さあ。私を信じて。何も怖いことはないんだよ。ただ、これを飲み干せばいいだけだから」
見ると、依田は励ますような笑みを浮かべながら、コップに入ったミルクを差し出していた。
生温いミルクの中には、無数の『メドゥーサの首』が浮遊しているのだろう。リアルなイメージが脳裏に浮かんだ。
しかし、これ以上、話をして時間を引き延ばすことはできない。依田は、すでに充分な説得を行ったと信じている。もはや、彼女の言葉には聞く耳を持たないだろう。
進退窮まった。
最後の手段。せめて、依田が実力行使にでる前に、こちらから動いて最後の抵抗を試みるべきなのかもしれない。顔にミルクのコップを投げつけて、いちかばちか部屋の外に逃げ出す……。だが、自分の手足は、まるで鉛でできた義肢のように重く、冷たかった。まるで、すでに、自分の意志とは裏腹に、身体の方があきらめてしまっているようだった。これで、戦うことができるだろうか。
早苗は、ミルクを受け取るために、依田に向かって右手を伸ばした。肩から小刻みに痙攣《けいれん》が伝わって、どんなに抑えようとしても、指先の震えを止めることはできない。
依田は優しい笑みを浮かべて、彼女にミルクを手渡そうとした。だが、ふいに彼の表情が厳しいものに変わった。早苗の手を、じっと凝視している。
早苗は、差し出している自分の手に目をやった。
緊張で白くなっているはずの掌が赤い。低温の容器に触れていたために違いない。
依田は、はっとしたように冷蔵庫の方に目をやり、厳しい目つきで早苗を一瞥《いちべつ》した。
もう、だめだ。これで、何もかも終わりだ。早苗は、依田が大股《おおまた》に冷蔵庫に歩み寄るのを見た。何か、夢の中の一シーンのように現実感がない。この後起こることから、自分の意識を閉ざしてしまいたいと思っているからだろうか。もはや、自殺する気力さえ残っていない。自分はこれから、言われるままに依田から与えられるミルクを飲み、そして……。
金属が軋《きし》むような音がした。
早苗がはっとした瞬間、耳をつんざくような激しい爆発音とともに、冷蔵庫の扉が弾け飛んだ。直撃を受けた依田は、その場に昏倒《こんとう》した。
漆喰《しつくい》のかけらが、ぱらぱらと天井から降り注ぐ。早苗は、自分が床に座り込んでいることに気がついた。鼓膜が破れてしまったのだろうか。耳がよく聞こえない。だが、それ以外は、どこにも怪我《けが》はしていないようだ。
依田は、彼女から数メートル離れた場所に倒れていた。一瞬、死んでしまったのかと心配になったが、もぞもぞと身動きするのが目に入る。
早苗は必死で起き上がった。足下に落ちていたハンドバッグをほとんど無意識に拾い上げ、寝室を出た。パンプスを履き、玄関からよろめき出る。
十一階の住人たちは全員留守らしく、あれほどの轟音《ごうおん》がしたにもかかわらず、廊下に出てきているのは一人もいなかった。
ボタンを押すと、すぐにエレベーターが来た。乗ってから、ガラスに映った顔を確かめる。だいじょうぶだ。特に怪しまれるような様子はない。
早苗は、エレベーターを降りた。一階のエントランスホールを通ると、早くも外に人だかりがしているのがわかった。
まだ耳鳴りがひどいが、かろうじて、ガス爆発だと叫んでいる男の声が聞こえた。早苗はきびすを返すと、正面玄関とは逆方向の裏口へ向かった。ぐるりと駐車場を迂回《うかい》して、表側に出る。四、五十人の人間が、指さしながらマンションを見上げていた。依田の書斎は、窓ガラスが完全に吹き飛んでいた。誰一人、建物には入ろうとしない。
もう、誰かが119番に通報しているかもしれない。早苗は、できるだけ目立たぬように、その場を離れようとした。
そのとき、窓から依田が顔を出した。
ざわめきが起こる。依然、頭部から出血しているようだ。依田は地上を見下ろし、群衆の後ろにいる早苗と目が合った。
早苗の中に恐怖がよみがえったが、同時にかすかな安堵《あんど》の気持ちも生まれた。ここからでは表情まではわからないが、依田は命にかかわるほどの重傷ではないようだ。
依田は、窓から身を乗り出した。ぐらりと身体が揺れる。早苗は息を呑《の》み、人混みから悲鳴が上がった。脳震盪《のうしんとう》を起こしているらしい。
依田は、危ういところで、窓枠をつかんで立ち直った。野次馬の間からは、拍手が湧《わ》き起こる。だが、彼は、なぜかいつまでもそのままの姿勢でいた。見物人たちの歓声は、しだいに訝《いぶか》しげなざわめきに変わる。なぜ、いつまでもあんな姿勢でいるのだろう。気が遠くなりかけているのか。
早苗は、ぎゅっと両手を握りしめた。依田が不自然な姿勢を変えようとしない、本当の理由がわかったのだ。彼は、バランスを崩した刹那《せつな》、凄《すさ》まじい転落の恐怖を感じたのだろう。それが、ブラジル脳線虫によって抗しがたいまでの快感に変換されたに違いない。
依田は、すでに異様な陶酔の中にいるようだった。さらに、宙に向かって身を乗り出し、空を見上げた。
彼の耳には、今、天使の囀《さえず》りが聞こえているのだろうか。
早苗が固唾を呑んで見守る中、危ういバランスを保っていた依田の身体はゆっくりと傾いていった。
彼女は両手で目を覆う。急激に高まる群衆の悲鳴が、潮騒のように耳に轟《とどろ》いた。
重い物体が地面に激突する鈍い音。それを彼女は、身体全体で、自分自身の肉体を粉々に打ち砕く響きとして聞いた。
嵐《あらし》のような怒号の中、早苗はゆっくりとその場を離れた。
歩いているという感覚がなかった。
悲しみすら湧《わ》いてこない。そこにあるのは、深く底知れない喪失感だけだった。
高梨に続いて、自分はかけがえのない人を失ったのだ。
また一人、永遠に。
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十八章 聖 夜
早苗は、クリスマス・ツリーに銀モールを巻きながら、デイルームに流れるBGMに耳を澄ませた。曲は、彼女の好きなアドルフ・アダンの『おお聖夜』だった。
日本のホスピスの半数はキリスト教を基盤にしているが、ここ聖アスクレピオス会病院の緩和ケア病棟では、特定の宗教に偏らないことをモットーとしていた。とはいっても、クリスマスだけは別である。
「北島先生」
早苗が脚立の上から振り返ると、福家が立っていた。トレンチ・コートを片手に持ち、首にはマフラーを巻いたままである。
「あら、こんにちは。今日は、何か?」
「ちょっと、先生とお話しできないかと、思いまして」
福家は、いつになく神妙な顔をしている。
「あんまり、時間がないんですけど」
早苗は時計を見た。あと三十分ほどでイブの夕食会が始まる。
「そのままで結構です。すぐすみますから。話だけ、聞いてもらえれば」
「じゃあ、これを完成させちゃいますね。ちょっと、そこの金のモールを取っていただけません?」
福家は伸び上がるようにして、モールを早苗に手渡した。
「そういう飾り付けなんかは、看護婦さんがやるのかと思ってました」
「彼女たちは、忙しいですからね。私が、ここでは一番ヒマなんです」
「謙遜《けんそん》しますね」
「いいんです。楽しいですから。これはこれで、なかなか美的センスが要求されるんですよ」
福家はうなずいてから、懸念するような顔になった。
「北島先生は、かなり、お痩《や》せになったんじゃないですか?」
「そうかもしれませんね。最近、忙しくて、体重を量る暇もないんです」
早苗は、明るく答えた。
「そうですか。でも、体を壊さないように、気をつけてください」
そう言ってから、なぜか赤面して、咳払《せきばら》いをする。
「もうすぐ、例の事件に関する追跡調査が、記事になります。まだ、充分裏はとれてないんですが、他紙に後れをとるわけにはいかないもんで」
「例の事件というのは、高梨さんたちの……?」
「それだけじゃなくて、うちで主催したアマゾン調査プロジェクトに端を発する、一連の事件すべてですよ。参加者が不可解な連続自殺を遂げたことから、那須のセミナーハウスでの集団死事件も含んでます」
早苗の手が止まった。
「あの事件も、関連があったんですか?」
「ええ。セミナーハウスを借りていたのは、蜷川教授と森助手ですからね。どうやら、一連の自殺と、同じ原因によるものらしいです」
「同じ原因ですか?」
「死体は、ほとんど完全に炭化するまで焼けてましたが、警察は、那須のセミナーハウスを徹底的に調べたんです。死体は、なぜか全部浴室に集められていましたが、そこの排水パイプから、主に園芸用に用いられる線虫を殺すための特殊な薬剤と、大量の線虫の死骸《しがい》が発見されましてね」
「線虫……」
「ええ。実は、赤松助教授の遺体を解剖した執刀医から、脳にかなりの数の線虫が巣くっていたという証言がありました。どうやら、アマゾンの風土病で、人間の中枢神経を冒すものらしいです。そのために、感染者は、精神に異常を来して、次々に自殺したんじゃないかということでね」
早苗は無言だった。
「これには、興味深い、もう一つの後日談があるんですよ。その執刀医は、別の大学の教授に、線虫の含まれた遺体の試料を渡したそうです。依田健二といって、線虫類の研究では、かなり有名な人らしいんですがね。その依田教授が今度は、不可解な事故で死亡している。ご存じないですかね。少し前に、大学教授が、自宅のマンションの爆発事故で転落死したという事件」
「新聞で読みました」
「その依田教授が、セミナーハウスでの事件当日に、車で那須まで往復しているらしいんです」
「……それは、どうしてわかったんですか?」
「東北自動車道には、上河内町など数ヶ所にNシステムが設置してあるんですよ」
「Nシステムって?」
「自動車ナンバー自動読み取り装置です。それに、依田教授の車のナンバーが記録されてました。時間的にも、ぴったり符合するらしくてね。しかも、依田教授は、実験用の農場から、セミナーハウスの排水溝で見つかったのと同種類の薬剤を、大量に持ち出していたことが判明してるんです」
「じゃあ、依田教授は、大量殺人の容疑者ということになっているんですか?」
福家は首を振った。
「動機がありませんよ。依田教授と、蜷川教授や『地球《ガイア》の子供たち』という自己啓発セミナーとの接点も、見つかりませんでしたし。我々はすでに、蜷川教授が、何らかの理由から、セミナーの会員に対して故意に線虫病の感染を広めていたという確証をつかんでいます。その結果、集団自殺に至ったのだろうというのが、警察の見方です。依田教授に関しては、想像ですが、独力で調査を進めるうちにセミナーハウスで大量の遺体を発見し、線虫病のこれ以上の蔓延《まんえん》を防ぐために、独断で焼却したんじゃないかと。ところが、焼却する過程で何らかの手違いか事故があって、彼自身も感染してしまったとすれば、筋は通ります」
「なぜ、依田教授は、すぐに警察なり保健所へ通報しなかったんでしょう?」
「さあ。よほど急を要する理由があったのか、専門家以外は近づくのも危険だと思ったのか……今となっては、真相はわかりません。ただ、依田教授の研究室から、冷凍された線虫のサンプルが見つかってましてね。この仮説が正しかったかどうかは、今後の研究で明らかになると思います」
早苗は黙って脚立から降りた。BGMは、ビーチボーイズの歌うクリスマスソングに変わっていた。タイトルは知らないが、子供の頃、何度もラジオで聴いた記憶がある。
「これから、病室へ行かなきゃならないんですけど」
「ああ、どうぞ。私も、これで失礼します。とりあえず、現在の状況をお知らせしておこうと思っただけですから」
本当に、それだけのために、わざわざやってきたのだろうか。何となく、釈然としないものが残ったが、早苗は福家をエレベーターの前まで送っていった。福家は、乗り込んでから、閉まりかける扉を押さえた。
「そうだ。ちょっと、言い忘れてたことがありました」
「何ですか?」
「那須のセミナーハウスでの事件なんですが、遺体は、さっきも言ったようにほとんど黒焦げの状態でした。しかし、骨は残ってましてね。ふつうでは考えられないような、異常な形状をしたものが多数あったそうです。これも、例の線虫病によるものかどうかは、不明ですが」
早苗は、ぞっとした。一瞬、脳裏に、あのセミナーハウスで見た、悪夢のような光景がフラッシュ・バックしたのだ。
「それから、赤松助教授の遺体の解剖をした、渡邊《わたなべ》教授なんですが、その後、そのことについて聞きに来た若い美人の女医さんがいると、私に教えてくれました。その女医さんは、もしかすると、後日警察から事情を聞かれるかもしれないとのことです」
「……そうだったんですか」
ようやく、早苗にも合点がいった。なぜ、福家が、突然訪ねてきたのか。
「ありがとう」
エレベーターの扉が閉まってから、早苗は、小さな声でつぶやいた。
早苗は、病室のドアを開けた。上原康之は、ベッドに横たわり、目を閉じていた。眠っているようだ。目の下には黒い隈《くま》ができ、頬《ほお》がげっそりとこけている。彼だけはイブの夕食会にも参加できなかった。悪性の肉腫《にくしゆ》が全身に転移しており、今日、明日にも亡くなって不思議ではない状態だった。
少年には、努めて明るい態度で接するようにしていた。だが、こうして彼の寝顔を見ていると、やりきれない思いに襲われる。
なぜ、この世には、|復讐の女神《エウメニデス》が実在しないのだろうか。アレクト。ティシフォネ。メガイラ……。彼女たちなら、両手に松明《たいまつ》と鞭《むち》を持ち、薬害エイズ事件の主犯たちを発狂するまで追いつめたことだろう。
カプランは、ブラジル脳線虫を|復讐の女神《エウメニデス》と呼んだ。もちろん、|親切なる者《エウメニデス》ではなく、悪鬼《フユーリーズ》というのが真意だったに違いない。たしかに、ブラジル脳線虫は、感染者に対しては、天使の仮面をかぶった悪鬼のようにふるまった。
だが、線虫そのものに、悪意があるわけではない。彼らはただ、過酷な生存競争の中で、子孫を残すためのプログラムを忠実に実行しているにすぎないのだ。
それでは、悪鬼と呼ぶべきなのは、蜷川教授ら、ブラジル脳線虫の感染を故意に広めた人間たちだろうか。
いや、そうではない。彼らの行動は、悪意ではなく、ねじ曲がった、恐るべき善意に基づいていた。彼らは、ブラジル脳線虫によって心をコントロールされていたために、自らはその歪《ゆが》みを認識できなかったのだ。
すべては、何かに依存せずには生きられない、人間の根元的な弱さに起因していたのだ。
悪鬼《フユーリーズ》……。
あらためて、今まさに上原康之を死へと追いやろうとしている、薬害エイズ事件について思った。
これも、明確な害意に基づく犯罪ではない。
だが、恐ろしい結果を充分予見できる知識と頭脳を持ち、それを食い止めるべき立場にありながら、拱手傍観《きようしゆぼうかん》して同胞に死の苦しみを与え、責任については頬かむりし続けてきた厚生省の官僚たち。はたして、彼らが許されてもいいものだろうか。
さらに、人の命を救うべき医師が、自己や製薬会社の利益を図るため安全な血液製剤への転換を妨害し、多くの罪もない人々を死の淵《ふち》へ突き落とすに至っては……。
これこそ、悪鬼の所行と呼ぶにふさわしいだろう。
早苗は、そっと康之の髪を撫《な》でた。
それでは、おまえのしたことは、どうなのだ。
心の中で、反問する声が聞こえる。おまえは、常に正しい選択をしてきたと言えるのか。
彼女は、依田が死んだ直後のことを思い出した。
依田のマンションの前の人混みを離れ、通りに出たとき、頭の中は真っ白になっていた。大切なものを失ってしまったという認識で、本来痛みを感じるはずの心の一部が、麻痺《まひ》してしまったようだ。もう、どうなってもいいなどという捨て鉢な考えが明滅する。だが、そうなっても、意識の別の部分では、しっかりと現実に対処していたらしい。
何度か、タクシーを乗り継いだような記憶がある。なぜ、そんなことをしたのかは自分でもよくわからない。運転手に行き先を告げるときも、表面上は平静を保っていた。いざとなると、保身のための本能が働くということなのだろうか。
気がつくと、自分のマンションに辿《たど》り着いていた。ドアを閉め、鍵《かぎ》をかけると、早苗は、上がり框《かまち》に座り込んでしまった。立ち上がる気力さえ湧いてこない。
自分の右手が固く握りしめているハンドバッグが目に入った。しばらくぼんやりと眺めてから、その中に何が入っているのか思い出した。
指先にまったく力が入らず、ハンドバッグの留め金さえ、なかなか開けることができない。ようやく蓋《ふた》が開くと、早苗は中身をそっと三和土《たたき》の上に空けた。
口紅やコンパクト、香水、手帳、財布などに混じり、ハンカチでくるんだ五本の試験管が転がり出てきた。中身はまだ凍っているが、外側に付いた霜がハンカチをぐっしょりと濡《ぬ》らしていた。
それは、依田のマンションでの出来事が、けっして白昼夢などではなく、現実であったことの証《あかし》だった。
早苗は、しばらく試験管を凝視していた。
それから、立ち上がって洗面台のところへ行き、赤い方のカランをいっぱいに回した。蛇口から水が迸《ほとばし》り、しだいに熱くなっていく。
湯温が八十度を超えたと思われるあたりで、洗面台に栓をする。手の甲に熱湯が数滴かかって火傷《やけど》をしたが、ほとんど痛みは感じなかった。あたりは、浴室の中のようなもうもうとした湯気に包まれている。
玄関に戻って、試験管を拾い上げた。
片手だと取り落としてしまいそうな気がして、両手でそっと握りしめる。掌《てのひら》の熱が冷たい試験管に奪われていく。手の感覚が希薄になった。
ブラジル脳線虫は、今、試験管越しに、生命の熱を吸収しつつある。外気から。そして、自分の掌から。悪魔はまだ眠っているが、復活までのカウントダウンは、すでに始まっている。
だが、絶対に、復活などさせてたまるものか。おまえたちは、けっして目覚めることのないまま、闇《やみ》に帰るのだ。
頬を、湯気ではない、熱い液体が伝うのを感じた。行き場のない怒りが、体の中に充満している。愛する者たちを奪っていった生き物に、酬《むく》いを受けさせたかった。
早苗は試験管を取ると、洗面台に溢《あふ》れんばかりの熱湯の中に、一本、また一本と落とし込む。飛沫が上がり、プラスチックの試験管は、ゆっくりと洗面台の底に転がった。四本目にかかる頃には、湯の温度はかなり下がったようだ。だが、依然として手を浸けられないくらい熱い。一気にこれだけの温度差に曝《さら》されれば、どんな生き物も生きてはいられないだろう。
最後の一本を湯の上にかざしたところで、早苗の手がぴたりと止まった。
今だ。早く落とせ。この忌まわしい生き物の詰まったガラス管を、清浄な熱湯に浸けて、消毒しろ。それで、何もかもが終わる。
嗚咽《おえつ》が、込み上げてきた。早苗は、泣きながら、試験管を握り締めていた。
蛇口からは、熱湯が噴出し続けている。手は、いつの間にか、暖かい湯気で濡れそぼっていた。
だが、なぜか、思い切ることができない。
頭の中に閃《ひらめ》いた、とんでもない考えのためだった。
早苗は、いつのまにか、試験管を握った指を開くことなく引っ込めていた。
だが、自分の判断に、どうしても自信が持てない。今回の事件で、理性も、感覚も、何一つ無条件に信頼できるものなどないことを思い知らされていた。本当に正しいことが何であるのか、いったいどうやって決めればよいのだろう。
早苗は、無数の『メドゥーサの首』が、浮遊した形のままで凍結されている試験管を見た。
ギリシャ神話のメドゥーサは、睨《にら》まれた者を石に変えてしまう、恐ろしい怪物だった。だが、ペルセウスによって切り落とされたその首は、別の怪物を斃《たお》し、生《い》け贄《にえ》にされかけていた王妃アンドロメダを救うのに役立った。
また、メドゥーサの死骸《しがい》の左半身から流れ出た血は猛毒だったが、右半身からの血には、逆に、死者を蘇生《そせい》させる力があったという。医術の祖、聖アスクレピオスは、その血を用いて多くの英雄を生き返らせたのだ。それが神の逆鱗《げきりん》に触れる行為であるということを、百も承知しながら。
そして、アスクレピオスのシンボルである蛇は、古代ギリシャでは、夢によって人を癒《いや》すとされていた……。
康之が、かすかに身じろぎした。早苗は、ふっと我に返って、彼の顔を見た。口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。何か、楽しいことでも思い出しているのだろうか。
「早苗ちゃん」
ふいに、康之が譫言《うわごと》のようにつぶやく。
「あ。ごめんね。起こしちゃった?」
「ここ……どこ?」
康之は目を半眼に開いていた。まだ、夢を見ているのだろうか。早苗は、彼の額に手を当てて囁《ささや》いた。
「さあ。どこかしら?」
「すっごく、きれいだ……」
「何がきれいなの?」
「夕陽」
彼の意識は、夢とうつつの間をさまよっているらしい。
「そうね。本当に、きれいね」
「風が……」
「冷たい?」
康之は、かすかに首を振った。
「気持ちいいんだよ」
「そうね。気持ちいいわねえ。空気が冷たくて、澄んでて、とっても爽《さわ》やかで。そよ風が頬《ほお》に感じられるわ」
康之は微笑《ほほえ》んだ。
「僕、少しよくなったのかな? だって、こんなに気分がいいんだもん」
早苗は驚いた。康之がまだ、こんなにはっきりとしゃべれるとは、思っていなかった。彼の言うとおり、あたかも快方に向かっているような錯覚すら抱かせる。
「きっと、そうね」
「ここ、裏山だ。前によく、ジローを連れてきた。そうでしょう?」
「そうよ」
康之は、大きく息を吸った。
「草の香りがする。あ。聞こえた……」
「何かしら?」
「鳥みたいだ。いっぱい、鳴いてる」
早苗は一瞬言葉に詰まった。だが、すぐに優しい声で説明する。
「それはね、天使たちが囀《さえず》ってる声なの」
「天使……?」
「そうよ。前に、羽音が聞こえたって言ってたでしょう? 病室の天井を飛び回ってるって」
「うん」
「たくさんの天使が、康之君を守ってくれてるのよ。嫌なこと、つらいことを、みんななくして、楽しい気分にしてくれるの」
「そっか。だから、僕、もう苦しくないんだね」
「そうよ」
「僕、死ぬのも怖くないよ」
「そう?」
「だって、死んだら天国へ行って、お父さんや、お母さんや、お姉ちゃんや、ジローに会えるんでしょう?」
「ええ。そうよ」
「楽しみだな。何だか、うきうきして、すっごく待ち遠しいよ」
早苗は、黙って康之の肩を抱きしめてやった。
「あ。また聞こえた。……本当だ。天使だ。すごいよ。いっぱいいるよ」
「姿が見える?」
「うん。やっぱり、早苗ちゃんの言うとおりなんだね。背中に羽根が生えてて、薄いガウンみたいな変な服を着てる。牛の角みたいな笛を持って」
早苗には、その光景が見えるような気がした。天使たちは、寛衣《ローブ》のような奇妙な異国の衣装をまとい、鳥のように甲高い不思議な声で囀ったり、角笛を吹いたりしながら、空いっぱいに輪舞している。
「あれ?」
「どうしたの?」
「声が聞こえるんだ。天使の囀りじゃなくて」
「誰かの声?」
「うん。僕を呼んでる」
康之は口をつぐんだ。懸命に心の耳を澄ませているのだ。
「丘の向こうに、芒《すすき》のいっぱい生えた原っぱがあるでしょう? あそこから、僕を呼んでるんだ。ほら、聞こえるでしょう?」
「ええ。聞こえるわ」
「そうだ。やっぱり、そうだ」
少年の目から、涙が溢《あふ》れ出した。
「お父さん。お母さん。お姉ちゃんも。ジローもいる……」
「そうね。みんな、一緒ね」
「笑ってる……僕に手を振ってる……ほら、ジローが吠《ほ》えた。そこら中、飛び回ってるよ。また会えて、嬉《うれ》しくてしょうがないんだ。シッポを振ってる。見えるでしょう?」