早苗の目には、九歳も年上の男性が、庇護《ひご》を必要としている子供のように映っていた。そして、自分の思いこみが間違っていなかったことを確信した。『|銀色の夜《シルバリー ナイト》』シリーズは、いわば口過ぎの仕事にすぎず、高梨は、いずれは、もっと素晴らしい作品を書くつもりに違いない。彼を励まし、その手助けができたら、どんなに嬉《うれ》しいだろうか。
だが、結局そのときは、言いたかったことの十分の一も言えず、シリーズ最新刊の『天使は舞い降りた』にサインをもらっただけに終わった。早苗はあとでお礼の絵葉書を出し、返事をもらったが、二人の関係がそれ以上に進展することはなかった。
その後、高梨の小説は、徐々に書店の店頭で見かけることが少なくなっていった。気にはなっていたものの、早苗自身も将来の夢に向かっての勉強で忙しく、いつのまにか、小説からは遠ざかっていた。
早苗が高梨に再会したのは、最初の出会いから六年後のことである。早苗は、二十五歳になり、母校の大学病院の精神科にインターンとして勤めていた。
たまたま、休日に神田の書店で精神医学関連の書棚を見ていたとき、早苗は、どこかで見たような風貌《ふうぼう》の男が隣に立っていることに気がついた。油っけのないばさばさの髪で、肘当《ひじあ》てのついたコーデュロイの上着を着た長身の男は、真剣な表情で本に見入りながら、頬《ほお》から顎《あご》を覆っている短い髭《ひげ》を撫《な》でていた。
最初は単なる既視感《デジヤ ヴユ》かと思ったが、男にどこかで会ったという感じは強まるばかりだった。あまりまじまじと顔を見るのも憚《はばか》られたが、ちらちらと様子を窺《うかが》っているうち、男が書棚に本を戻す手が目に入った。男にしては白く、細長い指。はっとしたとき、男は怪訝《けげん》そうに早苗に顔を向けた。薄茶色の目を見たときに、早苗の中で確信が生まれた。
「高梨さん」
早苗が呼びかけると、ぎょっとした顔になる。
「前に一度、お目にかかりました。松宮さんのご紹介で。北島早苗です」
不審そうだった表情がゆるんだ。
「ああ、どうも。よく覚えてますよ。本当に……久しぶりですね」
表情だけでなく、沈んだ声音も以前とは別人のようだった。
しばらく雑談した後、高梨はためらいがちに、お茶でもどうですかと申し出た。早苗は、自分でも驚くほど素直に、誘いを受け入れていた。
二人は、近くにある紅茶の専門店に入った。席についたとき、早苗は、高梨の服装が最初に思ったより金がかかっていることに気がついた。
カシミアのシャツから、畝の太いコーデュロイのパンツとジャケット、バックスキンの靴に至るまで、完かん璧《ぺき》にフィットしているところを見ると、名のある店でのオーダーメイドとしか思えない。その上、時計は金無垢《きんむく》のパテック フィリップだった。高梨はなぜそんなに金回りがいいのだろうと思う。最近は、新刊本や小説誌のラインアップでも、ほとんど彼の名は見かけないのに。
早苗が、二、三十種類もある紅茶のメニューから顔を上げると、高梨は、携帯電話に接続した情報端末のディスプレイに熱心に見入っていた。
「失礼。ちょっと、前場の引け値だけ確認しておこうと思ったんです」
高梨は苦笑し、すぐに機械をしまう。
「為替か何かですか?」
「いや。株ですよ」
その言葉は、早苗の耳には意外な響きを持って聞こえた。高梨と株という取り合わせが、どうにも、しっくりとこない。
「株の取引を、なさってるんですか?」
「ええ。もっとも最近では、ポジションは、ずっとスクェアのままです」
「スクェアって?」
「売り持ちも買い持ちも、ないということですよ。現在の相場は、とても買えるような地合じゃないですし、売りから入るのも勇気がいりますからね」
株式市場が低迷を続けていることくらいは、早苗もニュースで知っていた。
「じゃあ、以前は、ずいぶん、売ったり買ったりされてたんですか?」
「ええ。本当のことを言うと、本腰を入れてやってたのは、バブルの崩壊前だけです。それ以後は、暴落して値頃感の出た銀行株なんかをちょっと売り買いした程度でね。まあ、今さら積極的に相場を張ろうという気もないんですが、何となく習慣で、株価が気になってしまうんですよ。ゴムや小豆《あずき》なんかの商品先物にも少し手を出したんですが、こちらは、授業料を払ってから、とても素人《しろうと》の手に負える世界じゃないことがわかったんで、撤退しました」
高梨は、ちょうど運ばれてきたキーマン ティーに口を付けた。
「でも、株だって難しいんでしょう?」
「いやいや。全然たいしたことはありません。北島さんなら、こんな相場でさえなければ、かなり儲《もう》けられたでしょうね」
「まさか。私なんか、昔から経済には疎くて、今の公定歩合が何パーセントかも知らないくらいです」
高梨は、笑いながら首を振った。
「そんなことは知らなくても、いっこう差し支えないですよ。必要なのは、人の心に対する洞察力だけです。あなたなら、まさに打ってつけかもしれない」
「そんなものなんですか?」
早苗は、半信半疑だった。
「証券会社からのニューズレターなんかをご覧になったことはないですか? 株式市場の動きを記述するのに、どういう言葉が使われているか見てみれば、よくわかりますよ。たいがいこんな具合です。市場のセンチメント[#「センチメント」に傍点]は、弱気と強気が交錯[#「弱気と強気が交錯」に傍点]。先行き不安感[#「先行き不安感」に傍点]から、神経質な[#「神経質な」に傍点]値動き。大量の不良債権の存在を嫌気して[#「嫌気して」に傍点]の投げ売り。輸出の伸びを好感して[#「好感して」に傍点]、下値で買いが入る。景気回復の遅れを悲観して[#「悲観して」に傍点]急落。こうした言葉から、あなたは、どんな人々をイメージしますか?」
「ううん……もちろん比喩《ひゆ》なんでしょうけど、感情的な表現が多いですね」
「ところが、単なる比喩とばかりも言えないんです。実際に、株式市場での値動きを見ていると、きわめて情緒に流されやすく、衝動的に行動する女性ばかりが売買しているように見えてくるから不思議です。……いや、女性|蔑視《べつし》のつもりはありませんけどね」
早苗は軽く高梨を睨《にら》んだ。
「女性イコール感情的だというのは、偏見ですよ」
「その通りです。実際、株式投資を行っているのは、大部分が男性ですから。それも、かなりの知識と経験を積んだ人々が多いはずなんです。にもかかわらず、彼らの行動は、非常にヒステリックで気まぐれです。まるで、暗闇《くらやみ》の中で右往左往している群衆のような感じですね。ちょっとしたデマが飛んだだけでも、たちまちパニックに陥る」
人間というのは、一人一人は賢くても、群衆になったとたんに愚かな行動をとる傾向がある。株式市場の熱気は、人の理性を麻痺《まひ》させる効果があるのかもしれないと、早苗は思った。
「こうした人々を動かすのは、経済理論でも、長期的なビジョンでもない。わかりやすい物語なんですよ」
「物語?」
「個々の株価を左右する、もっともらしいストーリーです。画期的な新製品を開発した。その製品に致命的な欠陥が見つかった。巨額の簿外債務が発覚した。社長が地検に取り調べられた。外資からM&Aの申し出を受けているらしい。などなどです。しかも、彼らは、そういった物語が真実かどうかにすら関心がないんです。ただ、それが一時的に株価を押し上げ、彼らが売り抜ける間だけ破綻《はたん》せず、市場で通用してくれれば、それでいい。あるいは、逆に株価を引き下げてくれれば……」
高梨は、ティーカップを持ったまま、薄く笑った。
「僕が最初に株に手を出すようになったのは、証券会社の営業マンのしつこい勧誘に根負けして、NTT株を引き受けてからですが、それをきっかけにして、興味を持って市場の動きを見るようになりました。すぐに、これは経済学が律する世界ではないと直感しましたよ。市場は明らかに、経済学ではなく、ゲームの理論と心理学によって動いている。人間の心理を見通す力がある人間には、儲けるのはたやすいのではないかとね。参加者のうち多数がどちらを選択するか、売りか買いかを、一瞬早く予測できれば勝ちというわけです」
「心理学ですか……」
早苗は、カップを鼻の下に持ってきて、ラプサン スーチョンの香りを吸い込みながら、そんなにうまくいくものだろうかと考えた。
「それも、下手をすると、心理学どころか動物行動学の方が役に立つくらいでね」
「動物?」
高梨は、皮肉な笑みを浮かべた。
「もはや消えゆく運命にあるようですが、バブルの真っ盛りには、『場立ち』と呼ばれる人達が活躍しました。東証の立会場で身振り手振りで売買の取り次ぎをしてるところを、テレビで見たことありませんか?」
早苗はうなずいた。どこか体育館に似たフロアで、書類が紙吹雪のように舞い、殺気立った人々が怒鳴りながら、奇妙なジェスチャーを繰り返している……。あんなやり方で、よく間違いが起きないものだと思った記憶がある。
「場立ちは、各証券会社にいるんですが、大手と比べて情報力で劣る弱小証券の場立ちたちは、やることがないときには、何をすると思いますか?」
「さあ」
「野村などの有力証券の場立ちを、ぴったりマークするんですよ。そして、彼らの売買に割り込んだり、理由もわからないまま、真似《まね》をして同じ銘柄を買ったりします。これを、提灯《ちようちん》買いと言うんですがね。フロアでの彼らの行動を上から見ていると、獲物を捕ろうとするライオンにしつこくつきまとう、ハイエナそのものですよ。ライオンの方は、素知らぬ顔をしながら追っ手をまこうとしますし、ハイエナたちは、そうはさせじと目を光らせながら、纏綿《てんめん》として離れない」
想像してみると、かなり滑稽《こつけい》な光景ではある。高梨は、まだ小説家の目で株式市場を見ているのかもしれない。
だが、早苗には高梨の多弁さが引っかかった。まだ駆け出しとはいえ、カウンセラーとしての経験では、過度に饒舌《じようぜつ》な人間は、何かを伝えるより、何かを隠そうとしていることが多い。彼は、それからも株について滔々《とうとう》と話し続けたが、別のことについて質問されるのを恐れているような感じを受けた。
「……まあ、いろいろ偉そうなことを言いましたが、単にバブル真っ盛りの頃の一本調子の上げに乗って儲けさせてもらっただけですよ。その上で、あえて秘訣《ひけつ》を語るとするなら、欲をかかず、腹八分目に留めることです。つまり、けっして山の頂上で売ろうとしないことと、信用取引をする場合には、追い証が来ることまで考えて、余力を残すということくらいですね」
「それで、相当成功されたんでしょうね?」
どのくらい儲けたのかと尋ねるのは、何だかさもしいような気がして、早苗は、曖昧《あいまい》な聞き方をした。
「そうですね。僕が本業でこれまでに得た印税収入全部と比べても、少なくとも数倍の利益は上がったと思います」
高梨は、こともなげに言った。『|銀色の夜《シルバリー ナイト》』のシリーズがヒットしていたときには、彼には相当の収入があったはずだから、その数倍というのは、ただごとではない。
「しかも、たまたま、ブラック マンデーの前に手仕舞っていたのが幸いしましたよ。その後、不動産が暴落しましたから、その金で四谷の小さなペンシル ビルを買ったんです。一階から三階まではテナントが入ってますが、僕は普段は四階で生活し、五階を仕事場にしてるんです。一度ぜひ、遊びに来てください」
「ありがとうございます」
まさか、こんな話を聞くことになろうとは思ってもみなかったので、早苗は、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「それで、次の作品は、いつ頃出るんですか?」
何気なくそう聞いてしまってから、しまったと思う。それまで上機嫌で口数も多かった高梨が、急に口ごもり始めたからだ。一番痛いところを突いてしまったに違いない。
「うーん……そうですね。まあ、できるだけ早くにとは、思ってるんですが」
「あの。楽しみにしてます。私、ずっと高梨さんのファンでしたから」
「そうですか。ありがとう。しかし……」
高梨は、寂しそうな表情になった。
「まあ、あなたも気がついているとは思いますが、最近、本が出てないんですよ」
やはりそうだったのかと思う。よほどのナルシストなのか、容姿に自信があるのか、高梨の単行本には必ず著者近影がついていた。もし新刊を見かけていれば、書店で出会ったときに、彼の顔はすぐにわかったはずだ。
「スランプなんですか?」
「まあ、そうも言えるかな。書く方じゃなくて、売れ行きの話ですけどね」
「でも、あんなにたくさんベストセラーになったのに」
「要は、飽きられたんでしょうね。読者に。あなたとこの前会って一年ほどしてから、売れ行きがぴたりと止まったんです。以前の作品は、もう、ほとんどが絶版でね。文庫本も、三十冊以上あったんだけど……」
早苗は、高梨の自虐的なまでの率直さに当惑した。
「きびしい世界なんですね」
高梨は、しばらく無言のまま、冷えたキーマンを啜《すす》っていたが、唐突に革のショルダーバッグからプリントアウトされた原稿の束を取り出した。
「これは、一番最近書いた作品なんです。もしあなたに頼めるなら、読んで感想を聞かせてくれませんか?」
「……でも、私なんかでいいんですか?」
「もちろん。厳しい批評をお願いします。気を遣ったりしなくていいですから」
「わかりました」
早苗は、高梨に同情する反面、彼の現在の苦境を喜ぶような気持ちが、自分の中で動いているのに気がついた。
それは、言ってみれば、友達に貸したまま所在がわからなくなってしまった本が、久方ぶりに自分の手元に戻ってきたような感情だった。
今、彼を助けられるのは自分しかいない。そう考えるのは、けっして悪い気持ちではない。自分は昔からずっと彼の才能を認めていたのだし、自分の助けによって、彼がもう一度スターダムに復帰することができたら、どんなに誇らしいだろう。それも、今度こそ、本物の小説を書くことによって。
高梨から預かった原稿は、『残映』と題されていた。一見、時代小説風のタイトルだが、冒頭の部分を見ると、舞台は現代のようだった。早苗は、高梨と別れてマンションに帰ってから、一気に原稿を読了した。四百字詰め原稿用紙に換算して三百枚ほどで、長めの中編といったところだろうか。
一世を風靡《ふうび》した後、長く世間から忘れられていた二枚目俳優が、ノーギャラ同然で出演した映画で悪役としての演技に新境地を見いだし、再び脚光を浴びる。だが、それも束《つか》の間《ま》で、身に覚えのないスキャンダルに巻き込まれ、メディアから執拗《しつよう》なバッシングを受ける。俳優は、誰にも信じてもらえない抗弁を諦《あきめ》めて、自ら『悪役』を演じて、破滅への道を辿《たど》るという筋だった。
抑えた筆致だが、主人公の苦悩は、作者自身の経験とも重なるところがあるのか、ひしひしと伝わってきた。傑作なのかどうかは判断がつかなかったが、少なくとも、力作であることだけは間違いない。
ただ、登場人物が、あまりにも強烈に『死』を意識している点だけが、妙に気になった。特に、スキャンダルの中で足掻《あが》いている最中、主人公がバルコニーから夕陽を見ながらつぶやく、「これは、産みの苦しみなんだろうか。それとも、死の苦しみなのか?」というセリフには、ぞっとするような感じを受けた。
早苗の感想を聞いてから、高梨は作品にかなりの手直しを行い、昔つきあいのあった小さな出版社に持ち込んだ。編集者は相当難色を示したようだが、何とか小部数での出版にこぎつけた。
その後、ごくわずかながら増刷がかかったと聞き、早苗は意外に思いながらも喜んでいた。
ところが、それから一週間もたたないある日、偶然高梨の書庫に入った早苗は、そこに数十冊の『残映』を見つけた。その時はそれほど気にしなかったが、本の数は、日を追うごとに増えていった。早苗は何度か、アルバイトらしい若者が、都内の大書店の紙袋に入った本を持ち込むのを目にしたが、高梨は何も説明しなかった。やがて、『残映』は書庫から溢《あふ》れ出て、彼の仕事部屋の床にも堆《うずたか》く積み上げられるようになった。それは、見ているだけでも気が滅入ってくるような光景だった。
早苗は、ピンク フロイドの歌詞の一節を思い出していた。折り畳まれたままの新聞は床の上に放置され、毎日、配達の少年が新しいのを持ってくる……。迫り来る破局と狂気を予感させる歌だった。もし、そのまま仕事場の中で本が増え続けたなら、早晩、高梨の神経か仕事場の床のどちらかが崩壊するのではないかと密《ひそ》かに危惧《きぐ》していた。
だが、ある日、早苗が彼の仕事場に行ってみると、本の山はすっかり消え失《う》せていた。高梨が、自分の本を保管するためだけに、近くの倉庫を借りたのだった。
当面の問題は、一応片づいたかに思われた。だが、真の危機が浮上してきたのは、それからまもなくのことだった。
「何で、こんな変な夢ばかり見るんだろう?」
早苗と高梨が恋人同士になってからひと月ほどたったある朝、ベッドの中で寝返りを打ちながら、高梨がつぶやいた。
「どんな夢?」
早苗は寝ぼけ眼で聞いた。
「ここのところ毎晩、同じ夢を見るんだ。細かい部分は違ってたりするんだけど、たいていの場合、僕は大きな屋敷のような場所にいる。長くて薄暗い廊下があって、両側にはドアが並んでいる。僕は、一番手前のドアを開けようとする」
「中には、何があったの?」
急に興味を引かれて、早苗は訊《たず》ねた。
「何も」
高梨は首を振った。
「最初の部屋はがらんどうで、中には何もなかった。次の部屋もそうだった。その次は、ドアを開けるとすぐに壁になっていた。その次のドアは鍵《かぎ》がかかっていて、どんなに引っ張っても開かなかった」
「何だか、つまらない夢ね。結局、何も見つからないの?」
「いや。最後のドアが開くと、部屋の奥にテーブルが一つだけあって、その上に贈り物のようにリボンのかかった箱が載っている。僕は、どきどきしながら箱を開けた」
「どうせ、それも空っぽだったんでしょう?」
早苗はいたずらっぽく微笑《ほほえ》みながら聞いた。
「いや。中には、蛇が入っていた」
高梨は、不愉快そうに顔をしかめた。
「蛇?」
「うん。箱の中は暗くて色や格好までは見えないんだけど、毒蛇だということだけはわかるんだ。それを見て、僕は箱を投げ捨てる。すると、どこからか声が聞こえてきて、『お前はどこへ行こうと、それを捨てることはできない』と言うんだ」
「ふうん……」
「僕は恐ろしさに震えながら、部屋を飛び出す。そして、ほかの部屋を片っ端から開けるんだけど、今度は、どの部屋にも、あの箱が載ったテーブルがあるんだ。たいていは、そこらあたりで目が覚める」
早苗は、聞きながら、憂慮を深めていた。最初に『残映』を読んだときから疑いは持っていたが、高梨の精神は明らかに変調を来しつつあった。
専門家の目から見て、それが死恐怖症《タナトフオビア》に蝕《むしば》まれている兆しであることは、明らかだった。
精神科医は心理学には疎いのが通例だが、早苗は、親しい友人が神話について研究している影響もあって、夢判断には一通りの知識がある。『蛇』は、人間の見る夢の中でもっとも根元的なシンボルの一つなのだ。それは、現在では蛇がまったく生息していない極地に住むイヌイットの神話にまで登場することを見ても明らかだろう。
そして、『蛇』が象徴する最も重要な事柄とは、『死』にほかならなかった。
看護婦が二人、しゃべりながら洗面所に入ってきた。早苗は我に返ると、部屋へ戻った。パソコンのディスプレイは暗くなり、羽根の生えたトースターが夜空を飛行する幻想的なスクリーン セイバーが作動している。
椅子《いす》に座り、マウスに触れると、もう一度文書作成画面に戻ったが、早苗は内心では、もう仕事に集中するのを諦めていた。
考えてみると、高梨には、死恐怖症《タナトフオビア》に陥る条件が充分すぎるほど揃《そろ》っていた。
まず、裕福で、日々の糧を得るためにあくせくする必要がないことが挙げられる。
死恐怖症《タナトフオビア》は、古来から、王侯貴族の心の病として知られている。毎日、生活のために数多くの問題と格闘しなくてはならない人間の心には、不確かな遠い将来に起きる死への恐怖など取り憑《つ》く余裕がない。欲しいものをすべて手に入れてしまった人間の虚脱感、心の隙《すき》こそが危険なのだ。
次に、考えすぎること、『凝視』してしまうことである。
作家や哲学者といった人種もまた、死恐怖症《タナトフオビア》の好餌《こうじ》である。彼らの最大の悪癖は、何事も『凝視』してしまうことにある。もともと、宇宙の森羅万象に『意味』など存在するはずもなく、真正面から『凝視』すれば、どんなものでも意味を失って見えるのは、当然のことである。
三番目は、科学に対して素朴すぎるほどの信頼を抱いていることだった。
本来、世界を正確に記述することと、人間が幸福に生きられるようなヴィジョンを示すことは、無関係である。ドーキンスの『利己的な遺伝子』などはそのギャップを示す最たるものであり、すべての生命が遺伝子の|乗り物《ヴイークル》でしかないという考え方は、たとえ事実であったとしても、我々を裸で酷寒の宇宙に向き合わせ、凍えさせる。
もしかすると、人間の恐怖の総量というのは、常に、ほぼ一定なのではないだろうか。
ほんの数世代前には、どんなに大きな町でも、夜ともなれば漆黒の闇《やみ》に包まれた。そんな時代には、人々は本気で幽霊を信じ、恐れていたことだろう。だが、死後の世界が否定されてしまったとき、恐怖の対象は、現実に存在する危険、そして死そのものへと移る。
人間の想像力が作り出した闇の領域は、昏《くら》くはあっても、けっして真空のような『虚無』ではない。それは、人間が真の暗黒に直面するまでの緩衝地帯としての役割を担っていた。それなのに我々は、自らを守ってくれていた優しい闇を駆逐してしまったのだ。
アメリカ精神医学会編の、『精神疾患の分類と診断の手引き』(DSM―Ⅳ)を見ても、死恐怖症《タナトフオビア》に関する記述はいっさいない。要するに、未《いま》だに独立した精神障害の範疇《はんちゆう》とはされずに、単なる鬱病《うつびよう》として扱われているのだ。恐怖の対象が不合理なものではなく、誰もが恐れて当然の『死』であることと、それによって明らかな社会的不適合が起こる場合が稀《まれ》であるからだろう。だが、死恐怖症《タナトフオビア》は、ほかのどんな恐怖症にも増して、深く静かに心を蝕む。やがてそれは、人類の社会を根本から掘り崩していく可能性すらあるのではないか。
早苗は、今後、特に日本において、死恐怖症《タナトフオビア》が激増するのではないかと予想していた。昨今は翳《かげ》りが見えるとはいえ、世界有数の経済的繁栄を達成したこの国では、生活の心配がない程度に裕福な層が、ブロイラーのようにひしめき合っている。しかも、無宗教で内的な規範が軒並み崩壊してしまっている日本人は、いったん死への恐怖に囚《とら》われてしまうと、そこから逃れるすべはほとんどないのではないか。
今年の一月になって高梨は唐突に、新聞社の主催するアマゾン調査プロジェクトに加わることを決めてしまった。早苗は、彼の気持ちが理解でき、大自然に触れることは精神に良い影響を与えると考えたため、あえて反対しなかった。
早苗は、溜《た》め息をついた。
眼前に迫った死に戦《おのの》いている上原康之少年と、靄《もや》のかかった遠い将来に確実にやって来る死への恐怖に取り憑かれてしまった高梨……。
結局、自分には、誰一人として、救うことはできないのだろうか。
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二章 帰 還
昼食のメニューは、ゴーヤ チャンプルーだった。スプーンですくってから口元まで持っていく前に、卵や豚肉などの細片の大部分が、ぽたぽたとテーブルに落下してしまう。しばらくむなしい努力を続けてから、青柳謙吉はうんざりしたように、皿を前に押しやった。
「もう、食べないの?」
偶然そばを通りかかってから、ずっと彼の様子を見守っていた早苗が尋ねた。
「先生か。俺《おれ》、食欲ねえんだ。いいんだ。これ、やっからさ」
青柳は振り返ったが、彼の視線は早苗まで届かなかった。腰を浮かせると、尻《しり》ポケットからウィスキーの入っているらしい金属製のフラスクを取り出す。
「お酒だけじゃ、身体に悪いわ。アルコールっていうのは、空っぽのエネルギーだけだから、もっとほかのものも摂《と》らないと」
早苗はたしなめた。ホスピスでは飲酒は禁じられていないが、さすがに昼食代わりにされては困る。
「いまさら、身体にいいも悪いもねえだろう」
青柳は、片頬《かたほお》だけを歪《ゆが》めて笑った。五十三歳のがっちりした体格の大男で、頭を五分刈りにして、片目にアイパッチを付けているため、精悍《せいかん》を通り越して恐ろしげに見える。
「チャンプルーは嫌い?」
「嫌いってわけじゃねえけどさ。いまんなって、こんなもん食ったってなあ、別にエイズが治るわけじゃねえし……」
ゴーヤ チャンプルーの材料であるニガウリに含まれている三種のプロテインは、HIVの増殖を抑制する作用があるとされていた。
「何か、食べたいものあるの? 取ってもらう?」
「いいよ」
「青柳さん、鉄火丼が好きだったわよね。だったら……」
「いいってば」
青柳は苛立《いらだ》たしげに遮った。その表情を見ていて、早苗は気がついた。
「ねえ、食べさせてあげようか?」
「え? 馬鹿言え」
青柳は赤くなった。
「たまには、いいじゃない。若い女の子に食べさせてもらうのって、嬉《うれ》しくない?」
「誰が若い女だ? 三十路《みそじ》女の吐く言葉かねえ」
「失礼ねえ。まだ、二十九よ」
早苗は、青柳の隣の椅子《いす》に座ると、チャンプルーをスプーンにすくった。
「はい。口開けてー」
「よせってのに。人が見てんだろ?」
「誰もいないわよ」
食堂と兼用の談話室であるデイルームに残っているのは、青柳と早苗だけだった。
早苗が待っていると、青柳は、不承不承といった感じで口を開けた。早苗は、彼の大きな口の中に、チャンプルーと飯を交互に入れた。青柳は二、三回|咀嚼《そしやく》すると、あっという間に呑《の》み込んでしまうので、何か、不思議な大型動物に給餌《きゆうじ》しているような気分だった。
「よく食べるわねえ。もしかして、おなかすいてたんじゃないの?」
「へっ。こんなとこ人には見せられねえから、早いとこ食っちまおってだけだよ。先生も可哀想《かわいそう》に、旦那《だんな》がいりゃあ、毎日こうやって食わしてやれんのにな……」
なおも減らず口を叩《たた》こうとする青柳の口に、早苗は少し多めに飯を詰め込んで黙らせた。
さりげなく、彼の目の動きを観察する。サイトメガロウイルスの感染のために、左目も相当視力が落ちてきているようだ。アイパッチをしている右目の方は、すでに完全に失明している。
早苗には、なぜさっき、青柳がチャンプルーの皿を持って掻《か》き込もうとしなかったのかがわかるような気がした。彼は、理不尽な運命に対してスプーン一本で戦いを挑んでいたのだろう。
「はい。これでおしまい。お茶かなんか、ほしい?」
青柳は口をもぐもぐさせながら、黙ってうなずいた。
早苗が急須《きゆうす》に玉露を入れてポットから湯を注いでいると、青柳は低い声で言った。
「俺、もう長くねえんだろ?」
「何言ってんの。まだまだよ」
「さっき、ほかの奴《やつ》らがくっちゃべってんのを聞いちまったんだけどさ、一番長くねえのが、あの坊やで、次が俺じゃねえかって……」
「みんな、いい加減なこと言ってんのよ。気にしないで。そんなこと、私たちにだって予測できないんだから」
早苗は、無責任な噂話《うわさばなし》をする連中に怒りを覚えた。悪気はないのだろうが、自分も同じ立場にありながら、どうして他人の痛みにそれほど鈍感になれるのだろう。彼女は、湯気の立つ茶碗《ちやわん》を青柳の手に握らせた。
「俺さあ、もし、動くこともできなくなって、先の見込みもないとなったら、無理に生かしとこうなんてしねえで、ひと思いにやっちまってくれよな」
「ひと思いにっていうのは、ちょっと難しいわ。でも、ホスピスでは、基本的に延命だけを目的とした治療はしないから……」
青柳は、少し安心したように玉露を啜《すす》った。
元は長距離トラックの運転手だった青柳がHIVに感染したのは、異性間交渉によるものだった。
それも、彼自身の女遊びが原因ではなく、妻が浮気相手からうつされたウイルスに感染してしまったのである。心中は察するにあまりあった。
ひと思いに……か。早苗は、青柳の言葉を胸の中で反芻《はんすう》した。もちろん、日本では、安楽死は認められていない。本人か家族の意思が明らかな場合に、無意味な延命治療を施さないというのがせいぜいだった。
だが、青柳が言うように、もはや回復する見込みが絶無である場合、患者を耐え難いような苦痛の中に放置するのが、はたして人道的と言えるだろうか。
安楽死問題がいまだに論議の対象にすらなっていないのは、法秩序にいささかでも波風を立てるのを嫌う官僚の画策によるものではないかと、早苗はひそかに疑っていた。たしかに、意識不明の病人に対して家族や医師が勝手に気持ちを忖度《そんたく》して命を絶つという行為は、ある種の危険をはらんでいる。だが、たとえ一言でも本人が意思を伝えられた場合には、苦しみを終わらせてやるのも、立派な終末期医療の一端ではないだろうか。
ホスピスでも、安楽死の問題はタブーに近かった。しかし早苗は、いつか機会があったら、土肥美智子に意見を聞いてみたいと思っていた。
デイルームを出てナースステーションの前を通りかかったとき、早苗は若い看護婦に呼び止められた。
「北島先生。お電話です」
まだ十代のあどけない顔をした子だが、妙に嬉《うれ》しそうな顔をしている。
「誰から?」
「男性の方でー、タカナシさんって、おっしゃってますけど」
どきりとしたが、早苗は平静を装った。
「じゃあ、部屋で取りますから、保留しといて」
物見高い看護婦の視線を、まだ背中に感じる。駆け出したい気持ちを抑えて、ゆったりとした歩調で自室に戻り、一回深呼吸をしてから受話器を取った。
「もしもし……」
「僕です。お久しぶり」
高梨の声は、能天気なくらい元気そうに聞こえた。
「どうしたの? 全然連絡がなかったから、心配してたのよ?」
抑えきれない嬉しさを隠すために、つい咎《とが》め立てするような口調になってしまう。
「ごめん、ごめん。急に村から退去しなくちゃならなくなって、ばたばたしてたもんだから。途中でパソコンは川に落とすしで、メールも送れなくなっちゃってね」
どうやら高梨には、大事なものを川の神に捧《ささ》げる習慣でもあるらしい。
「最後のメールの調子だと、インディオに食べられちゃったかと思ったわよ」
「いやあ。実際、かなり険悪な空気でね。あのままぐずぐずしてたら、本当に命が危なかったかもしんない」
……しんない?
「それで、今、どこなの?」
「成田」
「ええっ?」
早苗は絶句した。そう言えば、さっきから変だとは思っていたのだ。ブラジルからかけているにしては音声がきれいすぎるし、何より、電波が地球の反対側まで往復するのに要するはずの時間差がまったくない。心臓が高鳴っているのがわかったが、それが、驚きのせいなのか、再会を期待しての興奮のためなのかはわからなかった。
「でも……帰ってくるのは、まだ、二週間くらい先じゃなかった?」
「予定を繰り上げることになったんだよ。トラブルもあったし。それで、今からそっちへ会いに行っていいかな?」
早苗はあわてた。
「そうね。今すぐは、ちょっと。まだ、仕事があるから」
「だいじょうぶ。時間はとらせないよ。顔、見るだけ」
「ううん……嬉しいんだけど、やっぱり、ここでは」
「じゃあ、すぐ行く。愛してるよ」
電話は唐突に切れてしまった。
早苗は、茫然《ぼうぜん》として受話器を置いた。愛してる、という言葉だけを、何度も反芻《はんすう》する。手紙やEメールならともかく、彼がそんな言葉を口に出して言うのは、ほとんど聞いたことがなかった。おかげで、それからしばらくは仕事に身が入らなかった。高梨が現れたのは、およそ二時間後のことである。
呼び出しを受けて早苗が病院本館の受付に駆けつけると、高梨は、柱にもたれて煙草をふかしていた。黒いキャップにTシャツ、サングラス、カメラマンのようなベストとジーンズという格好だった。
早苗に気づいて、高梨は顔を上げた。真っ黒に日焼けした顔の口元から、白い歯がこぼれる。早苗は立ち止まった。彼女の目には、一瞬、別人のように映ったのだ。
「やあ」
高梨は身を起こすと、くわえ煙草のまま、大股《おおまた》に歩み寄ってきた。そのまま彼女を抱擁しようとするので、あわてて手で制した。
「ちょっと、煙草。煙草!」
「ああ、ごめん」
高梨は、にやりと笑うと、ベストに付いているポケットから携帯用の灰皿を出して、煙草を揉《も》み消した。
「ここは禁煙じゃないけど、私の個人的なお願いとしては、できれば病院では煙草は遠慮してほしいわ」