「いやあ、悪い、悪い」
高梨は悪びれた様子もない。
彼は、いったいいつから煙草を吸うようになったのだろう。少なくとも、アマゾンへ出発する前は、一度も吸っている姿を見たことはない。
高梨は、よく煙草というのは、アメリカ大陸で白人に虐殺された先住民の呪《のろ》いなのだと言っていた。喫煙には、ストレスを和らげ、集中力を高める作用があるとは言うが、結局のところ、緩慢な自殺行為以外の何ものでもない。自分の余生がじりじりと燃え尽きていくのを見ながら喜んでいるとしたら、馬鹿かマゾヒストのどちらかだ……。その時の彼の表情を見る限り、心底、煙草を毛嫌いしているとしか思えなかったのだが。
「ずっと、君のことばかり考えていたよ」
人目を気にして駐車場に連れ出すと、高梨は、急にまじめな顔つきになって、早苗を見つめた。
早苗は、思わず我が目を疑っていた。これが本当に、あの高梨なのだろうか。
単に日に焼けているだけではなく、頬《ほお》が引き締まって、すっかり逞《たくま》しくなった感じがする。何より、表情が見違えるほど明るかった。
「私も会いたかったわ。でも……」
「でも?」
「高梨さん。ずいぶん、変わったみたい」
「そうかな」
「うん。前とは、まるで別人みたいだもの」
「前の方がよかった?」
「今の方がいい」
早苗が首を振ると、高梨は微笑した。
「アマゾンへ行ったのは、結果オーライだったかな」
「どういうこと?」
「まあ、それは、おいおい話すよ」
「じゃあ、あなたの中で、何が一番変わったの?」
「そうだな……ひとつだけ、わかったことがあるんだ」
「何?」
高梨は、早苗を引き寄せて抱きしめた。以前と変わらない、壊れものを扱うような優しい抱擁だったが、はっきりと違っているのは、追いつめられた焦燥感のようなものが、まったく感じられないことだった。
高梨は早苗の耳元に囁《ささや》いた。一瞬、早苗の感じた戦慄《せんりつ》は、耳に吐息を感じたせいなのか、彼の言葉のゆえなのか、よくわからなかった。
「死ぬことが、けっして恐ろしいことじゃないと、やっと気がついたんだ」
高梨の前には、ついさっきまで、グレイビー ソースをかけた厚切りのローストビーフが、小山のように積み重ねられていたはずだった。早苗は、ぽかんと高梨の皿を見つめた。目を離したのは、ほんのわずかな間だった。もしかすると、食べたのではなくて、手品で消したのではないかという気がする。二度目のお代わりだというのに、もう、何も残っていない。
「まだ、お代わりはあるかな?」
ワインを飲みながら、高梨が聞いた。
「ちょっと、食べ過ぎじゃない?」
早苗は、呆《あき》れ顔で言った。
「いいじゃないか。今日は、久しぶりに君の手料理を食べるんだから。何しろ、アマゾンでは……」
「サルやネズミばっかり食べてたんでしょう? 何度も聞いたわ」
「ネズミじゃないよ。同じ齧歯類《げつしるい》だけど。そうだな。パカは柔らかくて、かなりいけるよ。アグーチも悪くない。カピバラとヌートリアは、少し臭みが強いからお薦めじゃないけどね」
「残念だけど、ローストビーフは、もうないわ。まさか、こんなに食べると思ってなかったから。たしか、一 五キロはあったんだけど……」
「ほかのものは、ないの?」
「あいにく、ローストパカやローストアグーチは用意してないし」
「さっきのパスタは? まだ残ってるんじゃない?」
「ええ。あるわ」
早苗は溜《た》め息混じりに言うと、台所からキャビアのスパゲッティの入ったボウルを持ってきた。
「はい。お好きなだけ、どうぞ」
スパゲッティを自分でよそうと、高梨は猛烈な勢いで食べ始めた。ときおりワインで水気を補給しながら、強引に口の中に押し込む。
早苗は、その様子を戸惑いながら唖然《あぜん》と眺めていた。終始上機嫌なところを見ると、ストレスから過食気味になっているわけでもなさそうだが。
帰国してから二週間もたたないというのに、高梨の体型は早くも服の上からでもわかるくらい崩れ始めている。こけて見えるくらい引き締まっていた頬も、心なしか、ぽっちゃりしてきたようだ。
「せっかく、理想的なダイエットができてたのに……」
「え? なんか言った?」
「なんでもないわ。料理がお気に召したのは嬉《うれ》しいけど、もう少し、会話を楽しまない?」
「うん。そうだね。じゃあ、さっきは僕がアマゾンの話をしたから、今度は君の話を聞きたいね」
「私の話?」
「そう。最近の、病院での出来事とか」
早苗は、驚いた。これまで、高梨は、意識してホスピスの話題は避けていたからだ。
「……あんまり、面白いことはないわ」
「別に、面白くなくてもいいんだよ。君は特に、終末期医療という仕事に携わっているんだし。仕事の上で、辛《つら》いこととか、たいへんなことがあるんじゃない?」
高梨は、またボウルからスパゲッティをたっぷりと皿に移した。ひどい胃拡張になっているのではないかと、早苗は心配になった。
「それはまあ、ね。でも、けっこう深刻な話ばっかりだから」
「いいよ。聞きたいね」
しかたなく、早苗は、名前を伏せて上原康之と青柳謙吉のことを話した。話しながら、益々違和感がつのってくるのを感じる。これまで忌避していた話題を、今日に限ってこれほど聞きたがるというのはなぜだろう。
「その男の子は、もうすぐ死ぬんだろう?」
高梨の無神経な聞き方に、早苗は唖然とした。
「保ったとしても、たぶん、後二、三ヶ月だと思う」
「そうか。それは可哀想《かわいそう》だな。それで、トラックの運ちゃんの方は?」
「わからないわ」
「死ぬときは、やっぱり、かなり苦しむんだろうね?」
「……充分な量のモルヒネを使って、ペイン コントロールをするから、それほど痛みは感じないですむはずよ」
高梨は、話しながら、左手でネクタイを弛《ゆる》めてワイシャツの胸元を開き、その間も右手では、絶え間なくフォークを使っていた。齧歯類のように頬が膨れるほど、口いっぱいにほおばり、あまり咀嚼《そしやく》せずに嚥下《えんか》してしまう。
「それで、具体的には、どういう風に死ぬの?」
この質問には、早苗は、怒りを通り越して呆気《あつけ》にとられた。
「たとえば、ほら、全身の神経が麻痺《まひ》して、呼吸困難に陥って窒息するとか、だんだん心臓が弱ってきて、ついに停止してしまうとか、それとも、先に脳の一部が壊死して、脳死状態になってから……」
「そんなこと聞いて、どうするの?」
早苗の声が押し殺したように低いのにも、高梨はまったく気づかないようだった。
「どうするってわけじゃないけど。小説に書こうとか、そんなことは考えてないし。ただ、興味があるんだよ」
「興味?」
「ああ。山田風太郎の『人間臨終図鑑』って、知ってる? 歴史上の著名人の死に方を集めた本なんだけど、なかなか面白いよ。こないだ本屋で買ってきたんだけど、最近、ちょっと凝っててね。人が、どんな風に一生を終えるかっていうことに」
「こっちは、面白いどころじゃないわ」
「うん。面白いって言ったのは、失言だったかな。ただ、『死』っていうのは、どう考えても、人生最大のイベントだと思うんだ。だったら、目をそむけるよりも、しっかりと直視すべきじゃないかな。その時に、いったいどういうことが起こり得るのか。我々は、それに対して、どういう行動がとれるのか、とか」
早苗は、怒るタイミングを逸してしまっていた。まるで冷水を浴びせられたように、腹立ちは引いてしまっている。
彼女は、空の食器とスパゲッティの入っていたボウルを台所に持っていきながら、高梨は、いったいどうしてしまったのだろうと考えていた。
アマゾンへ発つ前の彼は、明らかな死恐怖症《タナトフオビア》の兆候を示し、死を連想させる物事に対して過敏に反応していた。だが、今晩の、この無神経さはどうだ。人の死をまったく興味本位にとらえているのが、早苗には解せなかった。
居間にコーヒーとミルフィーユの載ったトレイを持っていくと、高梨は椅子《いす》の背にもたれて、ぼんやりと天井の方を見上げていた。
「どうしたの?」
「聞こえる」
「何が?」
早苗は耳を澄ませてみたが、壁に掛かった時計の秒針が刻む音以外に、どこからも、何も聞こえなかった。
「『天使の囀《さえず》り』」
「何のこと?」
早苗は、テーブルにコーヒーとデザートの載った皿を並べながら聞いた。
「八時半か。普通は、もう少し早いことが多いんだけどね」
高梨は時計を見て、呟《つぶや》いた。
早苗は当惑した。彼が何を言っているのか、まったく理解できない。
「いったい、何のこと?」
「うん。最初は、まず、羽搏《はばた》きの音が聞こえるんだよ。だんだんに周りに集まってくるような感じで。それから、今度は囀りが聞こえ出す。ほら……今!」
高梨の様子は、とても冗談を言っているようには思えなかった。幻聴が聞こえているのだろうか。
「私には、何も聞こえないわ」
「うん。そうかもしれない。僕以外には、聞こえないのかもしれない」
早苗は、舌で唇を湿した。優しい声で質問する。
「それって、どんな音なの? 小鳥が囀っているような音?」
「そうだなあ。よく、夕暮れ時なんかに、街路樹にとまった雀の大群が一斉にやかましく啼《な》き立てることがあるじゃない? ちょっと、それに似てるよ。不思議と日没の頃に多いのも同じだしね」
「ピーピー、チーチー、啼き立てるような音?」
「ああ。でも、それだけじゃないんだ。もっと不思議な感じ。そこら中でぱちぱちと、線香花火みたいに弾《はじ》けてるっていうか」
高梨は、じっと目を瞑《つぶ》った。
「テープの逆回転で作った音楽を聞いたことある? 何もないところから音がすうっと始まって、急速に大きくなり、ぷっつりと消える。独特な非現実感があって、バイオリンやクラリネットの音色でさえ、まるで聞いたことのない楽器みたいに聞こえるんだ。今聞こえているのも、そうなんだよ。まるで、空間の裏側で囀っているみたいで。それも、鳥じゃなくて、大勢の天使たちが……」
幻聴には、様々な原因がある。脳底部に腫瘍《しゆよう》などの異状が存在する場合、神秘的、宗教的な体験に伴う異常な昂揚《こうよう》によるもの、追跡妄想などの意識障害、LSDやメスカリン、PCPなどの薬物の作用、それに精神分裂病である。
高梨の場合、異常な食欲や死への興味を除けば、精神分裂病の兆候は見られなかった。
「その音が聞こえるようになったのは、いつ頃から?」
「さあ。『天使の囀り』が聞こえだしたのは、ここ数週間かな。羽搏きの方は、もう少し前からだけど」
「ねえ、さっき、インディオの村で幻覚剤を試したって言ってたじゃない?」
「エペナ?」
高梨は、コーヒーにたっぷりと砂糖を入れると、一口飲んだ。それから、ミルフィーユを見つけて、目を光らせた。
「そう、それ」
「カミナワ族の村に行ってすぐの頃だから、二ヶ月くらい前かなあ」
「何回くらい、試したの?」
「一度きりだよ。それも、ごく少量」
「その時、どんな感じだった?」
「何て言うかなあ。気分が悪くなって、あまりいいトリップはできなかったんだけど。たしか、インディオたちが踊ってるようなシーンが見えたよ。あと、バクとか、オオカワウソなんかの動物も」
「幻聴はあった?」
「いや。エペナでトリップしている間は、音は何も聞こえないんだ」
高梨は、カメレオンのような素早さでミルフィーユを掴《つか》むと、一口で食べてしまった。
早苗は、幻覚剤のフラッシュバックを疑っていた。だが、今の話からすると、可能性は薄そうだ。
問題は、高梨自身が、幻聴をまったく不自然だと感じていないことだった。
「ねえ、その音って、不愉快じゃない?」
「別に、そうでもないよ」
高梨の目は、早苗のミルフィーユに釘付《くぎづ》けになっていた。早苗は仕方なく、皿を高梨の方に押しやる。高梨は、当たり前のようにぺろりと平らげた。
「でも、たくさんの鳥が啼くような声だったら、うるさいでしょう?」
「鳥じゃなくて、天使だからね」
高梨は、いとも当然という顔をして、コーヒーを飲んでいる。
音が不快かどうかは、何ホーンや何デシベルといった物理的な大きさよりも、聞く側の受け取り方によって決まる。早苗は、昔読んだ北杜夫《きたもりお》のエッセイを思い出した。細かい部分は忘れてしまったが、ゴキブリなどの害虫は殺虫剤に耐性を持つ種類が次々と現れるのに、美しい啼き声を聞かせてくれる秋の虫は簡単に死に絶えてしまうのはなぜだろう、というような内容だった。
だが、もしかりに、ゴキブリが夜中に台所で鳴いていたとしたら、それがどんなに妙《たえ》なる音色だったとしても、死ぬほどおぞましいに違いない。
たとえそれが現実の音でなくても、原理は同じである。高梨は、今聞こえている幻聴に対して肯定的な感情を抱いている。それは、『天使の囀り』というような呼び方をしていることからも明らかだった。だが、その理由がわからない。もし、いきなり説明のつかないような音が空中から聞こえてきたとしたら、まず、当惑と恐怖を感じるのが普通ではないだろうか。
高梨は、相変わらず天井の一点を見つめていた。部屋の照明は対角線の角に置かれたフロアランプが二つだけである。どちらの光の輪からも外れて、うっすらと影になっている部分。
同じあたりに視線をさまよわせているうちに、早苗は気味が悪くなってきた。高梨に暗示にかけられたように、無数の天使たちが、そのあたりに蝟集《いしゆう》しているような気がしてきたのだ。想像力が生み出した奇怪な幻影。雀くらいの大きさで、鳥そっくりの二枚の羽根が生えている。遠目には人間のような格好をしているが、よく見ると、目も鼻も口もない。背中に開口部がある唇のような発声器官からは、しきりに鳥が囀るような奇妙な音を発している。我々とは、まったく異質な存在……。
しばらくすると、高梨は、視線を早苗に戻した。
「聞こえなくなった」
「ほんと?」
「ああ。行っちゃったみたいだ」
それを聞くと、早苗も金縛りが解けたように肩の力が抜ける。
高梨は急に椅子から立ち上がると、早苗のそばにやってきた。
「どうしたの?」
高梨は早苗の質問には答えず、いきなり彼女の背中と膝《ひざ》の下に手を回した。
「ちょっと……待って!」
早苗は足をばたばたさせてもがいたが、高梨はにやにや笑いながら、彼女を高々と抱え上げた。寝室に入ると、そのまま電気もつけずに彼女をベッドへと運んでいく。半開きのドアから明かりが射し込んでくるが、背後からなので高梨の表情は見えない。
「ねえ、待ってってば。まだ後片付けをしなくちゃならないし。それに」
高梨は、ベッドカバーを捲《めく》りもせずに早苗を横たえると、上から覆い被《かぶ》さってきた。彼の体重がますます増えているのが、よくわかる。早苗の腕力では、とうてい跳ねのけることはできない。
あきらめて抗《あらが》うのをやめると、高梨は、ゆっくりと彼女の服を脱がせた。有無を言わせずに運んでこられたために、乱暴なことをされるのではないかと恐れていたが、高梨には、そういうつもりはないようだった。
だが、彼が急に上体を起こしてズボンのベルトを引き抜いたとき、彼女はひやりとした。今晩の高梨の様子は、常軌を逸していたからだ。
その後の彼の行動は、まったく予想外のものだった。高梨は、ベルトを自分の首に巻きつけると、バックルに通した端を彼女に握らせた。早苗は高梨の意図がわからず、彼の顔を見上げた。
「引っ張って」
早苗は耳を疑った。
「でも、そんなことしたら……」
「だいじょうぶだよ。人間は、そんなに簡単に死んだりしないから」
高梨は小さく笑った。薄暗い部屋で、白目の部分と歯だけが光って見える。
今まで知らなかっただけで、彼にはSMの趣味があったのだろうか。早苗は、彼の意に添うべきかどうか逡巡《しゆんじゆん》していた。今晩の彼は、何から何まで自分の知っている高梨光宏とはかけ離れていた。
「ぎゅっと引いてくれよ。君の手で。僕を愛してるなら、できるだろう?」
「でも、だからって」
高梨は早苗に覆い被さり、唇を重ねた。長い接吻《せつぷん》が終わると、高梨は早苗の耳元に口を寄せた。荒い息づかいの中で、囁《ささや》くように言う。
「僕はただ、自分が生きてるってことを実感したいだけだ。そのために、近くに『死』を感じていたいんだよ」
電話は、またしても保留音に変わった。早苗は受話器を肩に挟んだまま、いらいらして、ボールペンを指先でくるくる回した。
机の上には、高梨が描いた絵があった。彼がイメージした『天使』の姿が、色鉛筆の繊細なタッチで表現されている。
天使は本来中性のはずで、中世の絵画などでは少年の姿で表されることが多いが、高梨の天使は、むしろ女性に近いようだった。画面では大勢の天使が輪舞しているが、いずれも長い髪を風になびかせている。
天使たちの着ているのは、羽衣か寛衣《ローブ》のような奇妙な異国の装束だった。ギリシャ風なのかもしれないが、早苗の知識では何とも言えない。中の一体の天使は、大きな角笛を捧《ささ》げ持ちながら吹いている。まるで、この世の終わりを告げているかのようだった。
画面の下の方では、高梨本人とおぼしき人物が、ベッドに横たわって天使たちを見上げていた。その表情は限りなく安らかで、両手は胸の上で組み合わされている。もしかすると、天使が角笛を吹きながら告げに来たのは、彼自身の死なのかもしれない……。
やっと電話がつながった。
「お待たせしました。教務課です」
「北島と申します。赤松先生とお話ししたいんですが。急用で」
「ただいま、赤松助教授は休暇中です」
「それでは、ご自宅の電話番号を教えていただけませんか?」
「申し訳ありませんが、お教えできないことになっておりまして」
「そうですか」
早苗は落胆した。しかたがない。
「それでは、またお電話いたします。休暇は、いつまでになってますか?」
すぐに答えが返ってくると思いきや、相手は答えを躊躇《ためら》っていた。
「こちらでは、わかりかねます」
「休暇の届けが出ているのではないのですか?」
「申し訳ありませんが、そういうご質問にはお答えできません」
「は?」
いくら尋ねても、相手は同じ答えを繰り返すばかりだった。早苗は狐につままれたような思いで電話を切った。
彼女が赤松靖助教授に連絡を取ろうと思ったのは、アマゾンでの高梨の様子について聞きたかったのと、探検隊がどうしてカミナワ族から退去を迫られたのか、本当の理由を知りたいと思ったからだった。どうしてそれまで友好的だったカミナワ族が態度を豹変《ひようへん》させたのかは、高梨に聞いても、はかばかしい答えは得られなかった。早苗の勘では、その理由が、現在の高梨の精神状態の謎《なぞ》を解き明かす鍵《かぎ》になるような気がしていた。
しかたなく今度は、アマゾン調査プロジェクトを主催した新聞社に電話をかけてみる。
今度はすぐに、担当者らしき人物につながった。
「はい。社会部」
若い男の声が、ぶっきらぼうに言った。
「私《わたくし》、北島と申します。御社で主催された、アマゾン調査プロジェクトを担当されてる方をお願いしたいんですが」
「私《わたし》、福家《ふくや》と言いますが」
相手の声が、急に慎重なものに変わった。早苗は、職業柄、そこに含まれているかすかな緊張に気がついた。
「実は、先ほど、赤松先生にお電話したんですが、休暇中ということで、連絡がつかなかったんです」
「そうですか」
妙に言葉少ない上に、声の抑揚に不自然なストレスがある。福家という記者には、既知の事実だったのかもしれない。
「あの、私、高梨光宏さんの知り合いのものです。いくつかお伺いしたいことがあったんですが」
「は。どういうことでしょう?」
「向こうで何が起きたのか、知りたいと思いまして」
「何が起きたのか、と言うと?」
これでは、埒《らち》があかない。
「実は、私、精神科医をしております」
相手の声音に、再び変化が現れた。
「精神科の先生ですか。失礼ですけど、どちらの?」
「聖アスクレピオス会病院の、緩和ケア病棟に所属しています」
「と言うと……エイズ ホスピスですか?」
「ええ」
福家は沈黙した。
「私は、高梨さんのカウンセリングを行っているんですが、アマゾンで、何か精神的にショックを受けるような出来事があったと思われるんです。それが何かはわからないんですが、インディオの村を急に追い出されるという事件があったと聞いています。それで、もしその間の経緯《いきさつ》をご存じでしたら、お教え願えないかと思いまして」
「ええと……高梨さんは、その、アマゾンでエイズに感染したと、こういうことなんでしょうか?」
相手の沈黙の理由がわかって、早苗は苦笑した。
「いいえ。そうではありません。たまたま、高梨さんとは知り合いなものですから、相談を受けただけです。高梨さんがHIV陽性かどうかは、検査していませんのでわかりません。たぶん、違うと思いますけど」
「そうですか」
福家は安心したように、急にぺらぺらとしゃべり始めた。
「それはよかった。いや、失礼しました。近々、エイズ関係のルポをやる予定なんですが、その節は、ぜひ、取材のご協力をお願いします」
「はあ」
それからしばらく、早苗は質問を続けたが、福家はのらりくらりとした答えに終始して、何一つ収穫はなかった。逆にいつのまにか、高梨の様子について聞き出されている始末である。もっとも、こちらの方でも、大半の事実は隠さざるを得なかったのだが。
受話器を置いてから、早苗は、最初に福家の声にあったあの緊張は、いったい何だったのだろうと思っていた。
それから、はっと気がついた。たしか福家は第一声で、「社会部」と言った。新聞社の機構に詳しいわけではないが、アマゾン調査プロジェクトのようなイベントであれば、普通は、文化部のような部署が担当するのではないだろうか。
何かが起きつつあるという感覚は、強まる一方だった。
ディスプレイのタスクバーに表示されている時計を見ると、ちょうど日付が変わったところだった。
早苗は、大きく伸びをした。長い間集中して作業していたため、肩がばりばりに凝っているだけでなく、パソコンの画面を見つめていた目が霞《かす》む。
早苗は部屋を出ると、暗く森閑とした廊下を通って、コーヒーの自動販売機のところへ行った。
十代から二十代の初めくらいまでは、少しくらい徹夜をしても平気だったが、さすがにもう、それほどの無理はきかなくなっている。そろそろ、体力の曲がり角に来ているのかもしれない。昼間、うっかりそんな愚痴をこぼしたりすると、その若さで何だと土肥美智子に叱《しか》られるだろうが。
疲れて甘いものが欲しくなっていたが、砂糖のボタンを押しそうになった手を、危ういところで引っ込めた。ブラックコーヒーの紙コップを持って部屋に帰り、机の引き出しにしまってある、人工甘味料のアステルパームの錠剤を入れる。最近、仕事で夜更かしすると、夜食のせいか、てきめんに体重が増えてしまうのだ。
目を休めたくなって、部屋の明かりを消すと、窓を開け放った。
外には、どこにも真の闇《やみ》はなかった。東京の空全体が、消えることのない照明を反射して、うっすらと微光を放っている。星はほとんど見えなかった。
コーヒーを飲みながら夜景を見ていると、様々な思いが頭をよぎっていく。
もう自分も、若いと言われる年齢《とし》は過ぎてしまった。日本人が結婚する年齢はどんどん上がっているとはいえ、二十九歳は、一つのターニング・ポイントである。少しでも早く結婚した方が、年老いた田舎の両親は喜ぶのだろうが……。
今までにも、チャンスはなかったわけではない。高梨と付き合うようになった前後にも、何人かの男から誘いを受けた。一人は大学の同級生で、今は実家の総合病院を継いでいる。最も熱烈なラブコールを送ってきたのは、製薬会社のプロパーが催した合コンで、隣の席に座った公認会計士だった。どちらも、容姿、性格、経済力、将来性ともに申し分ない男たちだった。だが、自分が彼らと本気で付き合う気になれなかったのは、どうしてだろう。
その答えはわかっていた。それはおそらく、彼らが自立した大人で、自分なしでもやっていけるのがわかっていたからに違いない。
自分には昔から、他人から求められたい、必要とされたいという欲求が群を抜いて強かった。原因は、よくわからない。両親と年の離れた姉たちから可愛《かわい》がられて育ったが、その反面、誰も自分の助力をあてにしていないという現実に、ずっとフラストレーションを感じていたせいかもしれない。いつも、誰かに保護されるよりも、保護する立場になりたいと思っていた。それが医学部へ進学し、終末期医療に携わるようになった本当の理由だった。
自分が、どちらかというと陰のある男性に惹《ひ》かれるのも、そのためかもしれない。早苗は、これまでに淡い恋心を抱いた相手を思い出した。いずれも、どこか脆《もろ》さを抱えた男性ばかりだった。
高梨のように……。
ふいに、風圧が彼女の髪を揺らした。微風というには強すぎる風が、外から吹き込んでくる。
慌てて窓を閉めようとしたとき、行き止まりになっている部屋の中に風が吹き込むはずがないという、単純な事実に思い当たった。
振り返って、早苗はコーヒーの入った紙コップを取り落としそうになった。
開いたドアの前に、男が立っている。思わず大声を上げそうになってから、それが高梨であることに気づいた。
「そこで、何してるの?」
自分の声が震えているのに、ショックを受けた。
高梨は、後ろ手でそっとドアを閉めた。かちゃりという金属音。
「君を見てたんだ」
長身の影が、ゆっくりと近づいてくる。
「どこから入ったの?」
「急患搬送用の入り口だよ。あそこは、一晩中開いてるみたいだね」
高梨は、早苗の髪に手を伸ばした。早苗は、彼の手を擦り抜けるようにして、デスクの前に戻った。紙コップを置いて、腕組みをする。
「どうしても、君に会いたかった」
高梨は、ゆっくりとこちらに向き直った。
「今日は、特別忙しかったのよ。書類仕事が溜《た》まっちゃって」
「別に、デートを断られて、根に持ってるわけじゃないよ。ただ、どうしても、君の顔を見ないと眠れないと思ったんだ」
「不眠症気味なの?」
高梨はうなずいた。
「あの音が聞こえるから?」
「いや。そうじゃない。『天使の囀り』は、夜中には聞こえないよ。まだ、時差ボケが続いているのかもしれない。今時分になると、目がさえちゃうんだ」
早苗は、机の引き出しから錠剤のシートが入った紙袋を取り出した。
「これをのめば、今晩は眠れると思うわ。ただし、かなり強い薬だから、きちんと用量を守ってね」
高梨は、薬を受け取りながら相好を崩す。
「のみ過ぎると、危険なのかな?」
「うん」
「死ぬこともある?」
「自殺に使うつもりだったら、無駄よ。これ全部いっぺんにのんでも、たぶん死なないから」
「それは残念だ」
高梨は、薬を尻《しり》のポケットに入れると、早苗の首筋に手を伸ばした。しばらくは、頸動脈《けいどうみやく》のあたりを撫《な》でていたが、やがて、胸元に手を滑り込ませてこようとした。
「ちょっと、だめよ」
早苗は笑いに紛らわそうとしたが、高梨は、いっかな止めようとはしない。彼女を抱き寄せて、執拗《しつよう》に身体をまさぐる。
「だめだったら。仕事があるの」
「愛してる」
「やめてってば!」
早苗は、力を込めて高梨を突きのけた。
「ここは……私の仕事場なのよ。もう、帰って」
だが、高梨は再び早苗を引き寄せた。首筋に唇を当てる。
「早苗……」
「いいかげんにして。やめないと大声を出すわよ」
「かまわないよ」
高梨は、まるで熱に浮かされてでもいるようだった。早苗を抱きすくめると、ところかまわず、キスし始める。
早苗は、一瞬、本当に助けを呼ぼうかと思った。だが、高梨をさらし者にはしたくなかった。
「早苗!」
高梨は、激情に駆られたように、彼女の両腕を掴《つか》んで机の上に押し倒した。ペン立てが頭に当たり、派手な音を立てて転げ落ちる。彼は、さらに早苗の身体を持ち上げて、完全に机の上にのせた。彼女の両脚を抱え上げ、無理やり開かせようとする。
早苗は、高梨に対して初めて恐怖を感じた。レイプされると思うと、身体が竦《すく》む。たとえ相手が恋人であっても……。頭の後ろを探った手が、紙コップに触れた。
中に残った液体を、思いっきり高梨の顔に浴びせかける。
高梨は、動きを止めた。
「私は、あなたの持ち物じゃない! 私の意思を無視して、こんなことをするんだったら、もう二度と会いたくないわ! 出てって!」
高梨はしばらく茫然《ぼうぜん》と佇《たたず》んでいたが、やがて、無言のまま彼女の前から離れた。来たときと同じように、静かにドアを開けて出ていく。
ドアが閉まってからも、長い間、早苗は堅い姿勢を崩さなかった。
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三章 憑 依
駅ビルの中にある書店に立ち寄って、早苗は、『バーズ アイ』の最新号が出ているのに気がついた。
第二回のアマゾン紀行特集は巻頭にあった。主催の全国紙には、すでに同時進行で数回にわたって関連記事が掲載されているが、どちらかというと、系列のグラフィックス誌である『バーズ アイ』の特集の方が好評を博しているらしい。
最近は、アマゾンというと、無秩序な森林伐採などの環境破壊に警鐘を鳴らす記事ばかりになりがちで、読者も少々食傷気味だが、『バーズ アイ』の視点は、ひと味違っていた。誌面からは、急速に失われつつある大自然の驚異を少しでも記録しておこうという、熱い使命感のようなものが伝わってくる。高梨のメールでは、好き勝手なことをしている変人集団という印象しかなかったが、実際には、それぞれの別働隊が、きちんと自分の仕事をこなしていたらしい。あまり目にしたことのない絶滅寸前の稀少《きしよう》動物の姿や、一瞬の野性のひらめきをとらえた写真なども、昔日の『ライフ』を髣髴《ほうふつ》とさせる迫力だった。
肝心の、高梨が書いた紀行文の方は、彼の文章をずっと読んでいる早苗の目からすると、可もなく不可もないという出来映えだった。
一般にはあまり知られていない昆虫などの生態を、人間社会になぞらえた皮肉なユーモアを交えて巧みに紹介している。それでいて、文化系の作家にありがちな過度の擬人化に陥ることなく、科学的正確さを心がけているところは、特に体系的な自然科学の素養があるわけでもないのにと感心させられた。
高梨は、いったいいつ、これを書いたのだろう。
文章自体はまともで、死恐怖症《タナトフオビア》は言うに及ばず、妄想、幻聴などの異常体験を匂《にお》わせるようなところも、いっさいなかった。プロの作家だから、そうしたものをうまく隠して書くことも可能だろうが、早苗には、高梨の文章なら見破ることができるという自信があった。
高梨は、集中して書けば筆は早い方だったから、帰国してすぐの、比較的精神が安定していた時期に書き貯めていたのかもしれない。
そう思うと、最近の高梨の様子がわからないだけに、少し心配になった。
先日の深夜の一件以来、まだ、喧嘩《けんか》別れのような状態が持続している。高梨から何度か電話はあったが、彼女は、しばらく頭を冷やしましょうと提案し、二週間が過ぎていた。ここのところ、連絡は途絶えている。
早苗は、『バーズ アイ』誌を買って、帰りの電車の中で熟読した。
蜷川《にながわ》教授が採集してきたという、カミナワ族の民話に目を引かれる。彼らの口頭伝承をマイクロカセットに録音し、カミナワ族の言語とポルトガル語の二人の通訳を介して文章に起こされたものである。原音のリズムを尊重するためだろう、やたらに繰り返しのセンテンスが多く、翻訳不能の擬音も、そのまま記載されていた。ところどころ伏せ字にされているのは、テープの音声が不明瞭《ふめいりよう》聞き取れなかった部分だろう。
何気なく読み進むうちに、早苗は、肌寒いような感覚に襲われた。それは九番目に載っていた物語で、正体不明の存在による『憑依《ひようい》』がテーマだった。
カミナワ族の民話 採集番号⑨ 憑依 (*1)
兄弟がいた。狩りをしていた。村から離れて、狩りをして暮らしていた。湿った森の奥へ行って狩りをしていた。フウウウウウム。狩りに行った。兄弟は狩りに行ったのだ。湿った森の奥へ、狩りをしに行った。
獲物はとれなかった。小猿一匹、とれなかった。とれなかったのだ。まったく。小猿一匹も。兄弟は、森の奥へ入って行った。木が。湿った森の奥へ、入って行った。ずっと、入って行った。ずっと、ずっと、奥の方へ入って行った。