人がいた。大勢の人がいた。焚《た》き火をしていた。焚き火のまわりで、大勢の人がいた。 だった。食べたり、飲んだり、歌ったり、踊ったりしていた。アアアア。焚き火のまわりで、大勢の人が、祭りをしていたのだ。食べたり、飲んだり、歌ったり、踊ったりしている。
兄は、見に行こうと言った。「大勢の人が、祭りをしている」弟は、やめようと言った。「こんなところに、人がいるのはおかしい」だが、兄は、どうしても見に行こうと言い張った。見に行こうと言って、聞かなかったのだ。チェッチェッ。兄弟は、見に行った。焚き火のまわりで、大勢の人が、食べたり、飲んだり、歌ったり、踊ったりしていた。アアアア。焚き火で、肉を焼いていた。後ろに。 。
「食べろ」彼らは、兄弟に言った。「食べろ」彼らは、兄弟に肉をくれた。「これを食べろ」弟は、兄に言った。「騙《だま》されてはいけない」弟は、兄に言った。「こんなところに、人がいるのはおかしい」
だ。
彼らは言った。「食べろ。肉を食べろ」彼らは兄弟に生焼けの肉をくれた。「食べろ」弟は、「騙されてはいけない」と言った。だが、兄は肉を食べた。チェッチェッ。兄は、肉を食べてしまったのだ。大きな。天からの。 のように。「酒を飲め」兄は、生焼けの肉を食べ、酒を飲んだ。チェッチェッ。兄は肉を喰い、そして酒を飲んだ。
弟は、彼らが焚き火で焼いている肉を見た。猿の肉だった。彼らが焼いているのは、猿だった。だが、猿には頭がなかった。チェッチェッ。彼らは、頭がない猿を焼いて食べていたのだ。チェッチェッ。彼らは、頭を切り落とした猿を焼いて食べていたのだ。
弟は、落ち着かなかった。弟は、森の精が人の姿になっているものの間に座っているような気がして、落ち着かなかったのだ。弟は 。弟は、食べなかった。食べたふりをして、吐き出した。酒も飲まなかった。飲んだふりをして、捨ててしまった。静かに。弟は、賢明だった。弟は、何も口にしなかった。弟は、何も食べなかった。兄は、たらふく肉を喰い、酒を飲んだ。チェッチェッ。兄は、与えられたものすべてを、口にした。
夜が明けた。闇《やみ》が引いていった。明るくなってきた。彼らは立ち上がって、消えて行った。森の奥へ、消えて行った。フウウウウウム。一言も、しゃべらなかった。チェッチェッ。今まで、食べたり、飲んだり、歌ったり、踊ったりしていたのに、一言もしゃべらないで、森の奥へ消えて行ったのだ。いなくなってしまった。木々が。 まで。
兄は眠っていた。弟は兄を起こし、帰ることにした。帰り道には、猿の死骸《しがい》が落ちていた。兄が食ベた、猿の死骸が落ちていたのだ。チェッチェッ。頭のない猿の死骸だ。頭を切り落とされた猿の死骸だ。弟には、それが『悪魔の猿』(*2)に見えてしかたがなかった。『悪魔の猿』に見えたので、落ち着かなかった。だが、兄は、気にした様子もなかった。チェッチェッ。兄弟は、帰ることにした。フウウウウウム。
帰り道では、たくさんの獲物がとれた。ブルッブルッ。黒いクモザルと、赤いホエザルがたくさんとれた。兄弟は、獲物を背負って、村人のために持って帰ることにした。たくさんの獲物だった。ブルッブルッ。兄弟は、帰ることにした。兄弟は、歩いて帰った。
兄は、途中で、腹が減ったと言い出した。獲物は、村人のために持って帰るはずだったのに、途中で食べたいと言ったのだ。チェッチェッ。
弟は止めたが、兄は、獲物を食べた。村人のために持って帰るはずの獲物を食べたのだ。チェッチェッ。弟は、それは悪いしるしだと考えた。兄は、獲物を食べた。兄は、獲物を焼くこともせず、生のまま食べた。チェッチェッ。獲物はとらえてから、普通は焼くのに、生のまま平らげたのだ。ジャガーのように、とらえた獲物を、そのまま食べたのだ。弟は、それは、たいへん悪いしるしだと考えた。
兄は、人が違ったように貪食《どんしよく》になっていた。チェッチェッ。兄は、獲物を食べた。村人に持って帰るはずの狩りの獲物を、一人でたいらげてしまった。獲物をすっかり食べ尽くしてしまったのだ。胃がはち切れそうになっても、なおも、もっと食べたいと要求した。チェッチェッ。弟の背負っている獲物も、食べたいと要求した。弟は、それは、たいへん悪いしるしだと考えた。兄は、弟が背負っていた獲物も食べた。全部、食べてしまった。もう、何も残っていない。 もだ。
兄は、森の中を歩いている間も、まだ酒に酔っているように、笑ったり、歌ったり、踊ったりしていた。森の中で大声を出すのは、よくないことだ。悪いものや、危険なものを、呼び寄せてしまう。チェッチェッ。兄は、笑ったり、歌ったり、踊ったりしていた。ずっと、そうしていたのだ。踊りながら、歩き、笑ったり、歌ったりしていた。弟がふと見ると、兄の手足にはたくさんの傷があった。木にぶつけて、たくさんの傷ができていたのだ。傷からは、ところどころ白い骨が見えていた。だらだらと血が流れていた。木にぶつけたたくさんの傷からは、白い骨が見えていたのだ。兄の顔色は、こがね虫の幼虫のように真っ白になっていた。チェッチェッ。こがね虫の幼虫のように真っ白なのだ。 なのに、兄は、まったく痛みを感じていないようだった。チェッチェッチェッ。兄は、白い骨が見えていたのに、痛がらなかったのだ。だらだらと血が流れているのに、痛がらなかったのだ。それは、最も悪いしるしだった。
兄弟は、小屋に帰り着いた。ようやく小屋に着いたのだ。弟は、「疲れたな」と言った。兄は、「全然疲れていない。おれはペッカリーのように元気だ」と言った。兄は、小屋についてからもずっと動き回って、片時も休まなかった。湿った森の奥から、ずっと歩いてきたのに、兄は疲れていないのだ。ずっと動き回っているのだ。笑ったり、歌ったり、踊ったりしていた。
ときに、弟が兄の顔を見ると、目がぎらぎら光っていて、恐ろしい形相だった。シューッ、シューッ。蛇のように、ジャガーのように、目がぎらぎら光っていたのだ。それは、兄がもう人間ではなくなっているしるしだった。シューッ、シューッ。蛇のような目だった。恐ろしい顔で、弟を見るのだ。弟は、恐ろしくて、兄の顔を見られなかった。顔を見ないようにしていた。ぎらぎら光っている目を見ないようにしていた。目を合わせないようにしていた。
兄弟は小屋で休んだが、弟は、ハンモックに寝たまま、夜っぴて起きていた。弟は、起きて、小屋の中から兄を見ていた。弟は、兄を見張っていたのだ。
兄は、夜中に目を光らせて、むっくりと起き上がると、外へ出かけていった。シューッ、シューッ。兄は、夜中に起き上がって、外へ出ていったのだ。目を光らせて出ていった。弟は、後をつけた。シューッ、シューッ。弟が後をつけると、兄は、湿った森に入って行った。湿った森の入り口で会っていたのは、『悪魔の猿』だった。なんと、『悪魔の猿』なのだ。シューッ、シューッ。兄は、『悪魔の猿』から何かを受け取っているところだった。シューッ、シューッ。兄は、『悪魔の猿』から何かおかしなものを受け取っていたのだ。何か変なものを受け取っていた。
兄は小屋に帰ってきた。シューッ、シューッ。兄は小屋に帰ってくると、持って帰ってきた肉に、何かを振りかけていた。 だ。明日、村人たちと分ける肉に、何かを振りかけていた。シューッ、シューッ。村人と分けるはずの肉に、変なものを振りかけていたのだ。 だ。
弟は、その姿を見ると、村人たちを起こしに行った。村人たちを起こした。弟は、兄に起こったことを告げた。もう、兄ではなくなったから、殺さなくてはならないことを告げた。何か、おかしなものが兄に取り憑《つ》いたのだ。湿った森の奥で、変なものが取り憑いたのだ。もう、兄ではないのだ。殺さなくてはならない。村人たちは、弟の話を聞いて、もう、兄でなくなったものを、殺さなくてはならないことを知った。
夜が明けた。闇が引いていった。明るくなってきた。村人たちは、兄弟の小屋へ行った。フウウウウウム。木々の間。小屋へ行ったのだ。小屋へ行って、火をつけた。兄が出てきた。火のついた小屋から、兄が出てきた。村人たちは、兄を、取り囲んで殺した。殺したのだ。終わった。終わりだ。これで全部終わったのだ。
民話に続いて、それぞれの分野の専門家による簡単な解説が、注記されていた。
注の1には、アマゾンのインディオの間では、広く部族を越えて、ヘクラと呼ばれる動物の精霊が信仰されており、しばしばヘクラは人間に『憑依』することがあると書かれていた。最も強力なのはジャガーのヘクラであり、サル類のヘクラは、それに次ぐものである。その中でも、『悪魔の猿』のヘクラは別格で、非常に恐れられているらしい。
注の2では、その『悪魔の猿』というのが、オマキザルの一種であるウアカリのことらしいと解説されていた。正式名称は、ハゲウアカリ(Cacajao calvus)と言い、さらに細かい分類では、アカウアカリ(C. c. rudicundus)、シロウアカリ(C. c. calvus)、ノバエスウアカリ(C. c. novaesi)、ウカヤリウアカリ(C. c. ucayalii)の四つの亜種が存在する。ワシントン条約及びレッド データ ブックでは、四種とも独立種として扱われているが、いずれも絶滅寸前の危機的状況にあるらしい。オマキザルの仲間としては、雨期になると浸水する水没林《バルゼア》に住む唯一の種類であるほか、短い尾を持つなどのユニークな特徴を持っているという。世界のサル類の中でも、最も調査、研究が遅れている種類であり、いまだに詳しい生態などはわかっていないと結ばれていた。
ウアカリという名には、早苗も高梨のメールで聞き覚えがあった。ページをめくると、白井カメラマンが撮影した写真が載っていた。体がふさふさとした長い茶褐色の毛皮で覆われているのに対して、頭部は真っ赤な地肌が露出し、細かい産毛のような白い毛が生えているだけである。歯を剥《む》き出し、大きな茶色の目を見開いているのは、カメラマンを威嚇しているつもりなのだろうか。
この外見では、インディオから『悪魔の猿』と呼ばれるのもいたし方ないだろうと、早苗は思った。
彼女は、以前、『ナショナル ジオグラフィック』に載っていたマダガスカルのアイアイというサルの写真を見たときのことを思い出した。「アイアイ。アイアイ。おさーるさんだよー」という楽しい歌のイメージがあったので、何となく、もっと愛くるしいサルを想像していた。実際には、異様な感じのする巨大な目と、黒く粗い剛毛、猛禽《もうきん》のように細長い指が、不気味きわまりない外見を作り上げており、現地で『悪魔』と呼ばれて迫害を受けているのも宜《むべ》なるかなと思わせた。マダガスカルでは、このアイアイや、やはり『悪魔の化身』と言われるインドリというサルが、急速に絶滅へと向かっているという。もし彼らが、コアラやパンダのようなポピュラーな外見を持っていれば、そんな憂き目にあうこともなかったに違いない。
近年、ウアカリが生息数を激減させている原因は不明らしいが、『バーズ アイ』では、考えうる理由として、乱開発による生息地の破壊を挙げていた。だが、実際には、現地の人間が彼らを狩り立て、追いつめているのではないだろうかと、早苗は思った。
そういえばと、思い出す。高梨らが道に迷ったときに食べたのも、たしか、このウアカリだった。高梨の班の女性カメラマンも、その時には同行していたはずだ。早苗は、いたく同情した。自分ならば、どんなに飢えていても、こんなにグロテスクな動物の肉はとても食べられないだろう。
それにしても、なぜこの物語は、これほど背筋を寒くさせるのだろうか。
カミナワ族の民話は、全部で十一編が紹介されていたが、九番目の『憑依《ひようい》』は最も地味な部類である。ほかの話はいずれも、熱帯特有の大らかな誇張と破天荒なイメージとに満ちていた。動物や死者が口をきくのはもちろんのこと、道で出会ったしゃれこうべが転がりながら追いかけてきたり、女の顔にワシの翼と蛇の胴体を持った怪物が、突然舞い降りてきて、インディオの子供をさらっていったりする。
その中にあって、『憑依』では、例外的と言っていいほど超自然的な要素が排除されていた。兄弟が湿った森の中で出会った人々にしても、はっきりと『森の精』だったと示されているわけではないし、兄が『悪魔の猿』に会う場面も、弟が、夜、遠目に見て、そう解釈するだけである。結局、村人たちは、弟から聞いた話を鵜呑《うの》みにして兄を殺す……。
この話は、もしかすると、昔、実際に起こった事件の記録なのかもしれない。嫌な想像が早苗の頭をかすめた。もし、兄か弟のどちらかが何らかの妄想性の精神疾患に罹《かか》っていたとすれば、兄が何かに『取り憑かれた』と村人たちから誤解されても不思議はないし、そのために、私刑《リンチ》に遭う可能性だってあるだろう。
そう考えると、最初はただの民話として読んでいたテキストは、かなり陰惨な様相を呈してきた。だが、自分がこの話を読んで衝撃を受けたのは、それとはまったく別の理由からである。
『憑依』については、童話や小説などの分析で有名な心理学者の解説が寄せられていた。心理学者もやはり、この話に最も興味を引かれたらしかったが、彼の見解は、早苗とはかなり異なっていた。
心理学者は、未開社会に典型的に存在する、『悪の憑依』の意味について説いていた。ユング心理学では、『憑依』とは、人格が|神がかり《ヌミノース》的な元型イメージに取り込まれてしまった状態だと考えられているらしい。
心理学者は、兄弟が村から離れて住んでいたことに着目していた。多くの未開社会で孤独がタブーとされているのは、人を悪に取り憑かれやすくするためだという。他者との生き生きとした交流を遮断されたとき、人は、ゆっくりとした非人間化の過程を辿《たど》る。
そうした人間は、まず、日常生活の中の様々な禁忌《タブー》を犯すことに無頓着《むとんちやく》になるらしい。「チェッチェッ」という舌打ちのような音は、タブーが犯されつつあると話者が感じたときに、必ず発せられている。そして、タブーを軽んずることは、同胞にとって本当に危険な行為、真に恐ろしい罪に繋《つな》がっていくのだ。「シューッ、シューッ」という、激しい警戒音が発せられなければならないような……。
早苗は、顔を上げた。さっきから、発車のベルが鳴っていた。慌ただしく雑誌とカバンを持って立ち上がり、電車から降りる。雑誌に没頭していたため、もう少しで乗り過ごしてしまうところだった。
マンションに帰って、シャワーを浴びている間も、カミナワ族の民話のことが頭を去らなかった。
髪の毛をドライヤーで乾かし、顔をパックしながら、もう一度、最初から読み返す。このころには、もう、自分の心に芽生えた疑念は、はっきりと意識の上にのぼっていた。理性にはとうてい受け入れられないが、感覚的に否定しきれないものがあるのだ。
医師として、どんなことに対しても合理的な解釈を下す修練は積んできたつもりだったが、意識の表層を一皮剥けば、どんな人間にも、闇《やみ》を恐れる子供の心性が眠っている。思春期には早苗も、一日中|頬杖《ほおづえ》をついて空想に耽《ふけ》っていたような少女だった。今でも、女性誌などの星占いのページは自然と見てしまう。迷信に惑わされるつもりはないが、科学と論理だけが常に正しいとは限らない。直感や皮膚感覚を無視してしまうことの方が、むしろ、非合理的と言えるのだ。
彼女は、とうとう立ち上がって書斎に入って行った。奥の壁面には長い白木の板を何枚か渡した特注の書棚が設《しつら》えてあり、精神医学や終末介護、ガン、エイズなどに関する専門書だけでなく、SFやミステリーなどの小説がぎっしりと詰まっている。目指す本は、いつのまにか端の方へ追いやられていた。アメリカ精神医学会編の、『精神疾患の分類と診断の手引き』(DSM―Ⅳ)である。
うろ覚えの記憶を頼りに、『特定不能の解離性障害』というカテゴリーを探す。そこには、こうあった。
『解離性トランス状態‥特定の地域及び文化に固有な単一の、または挿話性の意識状態、同一性または記憶の障害、解離性トランスは、直接接している環境に対する認識の狭窄《きようさく》化、常同的行動または動作で、自己の意志の及ぶ範囲を越えていると体験されるものに関するものである。憑依トランスは、個人としてのいつもの同一性感覚が新しい同一性に置き換わるもので、魂、力、神、または他の人の影響を受け常同的な=不随意=運動または健忘を伴うものに関するものである。その例として、アモク《インドネシア》、ビハイナン《インドネシア》、ラター《マレーシア》、ピブロクトック(北極)、アタク・ド・ナビオス《ラテン・アメリカ》および憑依《インド》などがある……』
英文の直訳であるため、すんなりとは頭に入って来ない。それでも、おおよそのことはわかった。問題は、これが高梨のケースにはうまく結びつかないことである。
高梨の説明不能な人格の変容。『天使の囀《さえず》り』という幻聴と妄想。典型的な死恐怖症《タナトフオビア》の症状を示していたのが、一転して、死に病的なまでの興味を抱くようになったという事実。さらに、異常な食欲の増進と、性的|嗜好《しこう》の変化……。
インディオの民話は、道に迷った高梨らがウアカリを捕殺して喰《く》ったというエピソードと、奇妙なほど一致点が多い。早苗は、高梨がアマゾンで何かに取り憑《つ》かれたという強迫観念にも似た考えを捨て去ることができなかった。感覚的には、むしろその方が納得しやすいのだ。
だが、かりにも精神医学を学んだ人間としては、そんな怪談じみた話をたやすく信じるわけにはいかなかった。合理的な解釈を探しているうちに、『憑依トランス』と呼ばれる現象を思い出したのだが、『DSM―Ⅳ』の記述と高梨の状況には、残念ながら決定的な違いがあった。
『憑依トランス』は、多重人格の一種とも言える。第三者から見て、はっきりとした人格交代が起こるか、本人に、何物かに『憑依』されたという感覚がなくてはならない。ところが、高梨には、そんな意識は稀薄《きはく》である。彼自身は、死を恐れなくなったことを除いて、自分が以前とそれほど変わったとは思っていない。にもかかわらず、客観的な第三者の目から見ると、あたかも彼が『憑依』を受けているかのように映るところに、気味の悪さがあるのだ。
早苗はもう一度『バーズ・アイ』を開き、細かいところまで読み直してみた。カミナワ族の民話には、もう一つおまけがあった。蜷川教授が採集した物語以外に、同じく『憑依』を扱った、『呪《のろ》われた沢』という伝承があるのだという。ところが、この話に限っては、たった一人の伝承者に代々語り伝えられる以外には、いっさい物語ることが禁じられているというのだ。
あれこれ考えているうちに、頭が混乱してきた。早苗は、冷蔵庫からモーゼル・ワインのボトルを出して、グラスに注《つ》いだ。
グラスを口元に持っていってから、あまり飲みたくないのに気がついた。額に押し当てると、冷たくて気持ちがいい。余分な熱を奪い取ったことで、すっきりとした明晰《めいせき》な思考ができるような気がする。
それでは、ひとつの作業仮説として、というよりもSF的|荒唐無稽《こうとうむけい》な思考実験として、憑依が現実に起きたのだと考えてみよう。だとすると、高梨に取り憑いたもの[#「もの」に傍点]とは、いったい何だろうか。カミナワ族の民話にあった、『悪魔のサル』のヘクラか。それとも、アマゾンに棲《す》むという|森の聖母《マドレ・デ・モンテ》やクルピラという怪物なのか。
早苗は、無意識に身震いした。
あまりにも馬鹿馬鹿しい想像だった。にもかかわらず、彼女の直感は、それこそが真実であると告げているのだ。
男子は、三日会わないでいたら刮目《かつもく》して見ろと言ったのではなかったか……。早苗は、古い中国の諺《ことわざ》を思い出していた。高梨の二度目の変貌《へんぼう》を見れば、どんなに注意力散漫な人間でも目を剥《む》かざるをえないだろう。
早苗の前で、大儀そうにソファから立ち上がった高梨は、百二十キロはゆうにありそうだった。力士のように体が締まっていないだけに、よけいに膨張して見えるのだろうが、たかだか一ヶ月あまりでここまで太ってしまうというのは、過食症でも珍しい。巨大な腰まわりに合わせて気球のように膨らんでいるジーンズは、どこで買ってきたのだろうか。彼女なら、片足の部分にすっぽりと入れるかもしれない。
「やあ。仕事中、悪いね。どうしても、頼みたいことがあって」
彼の左手には、口の開いたポテトチップスの徳用袋があった。早苗と話している間も、絶え間なく右手を袋に突っ込んでは、口元へと運ぶ。そのため、右手の指と口元は、油でてかてかと光っていた。
「じゃあ……ここじゃ何だから、上へ行きましょうか」
高梨の姿は、早くも、病院内の好奇のまなざしを集め始めていた。早苗は、先に立ってどんどん歩いていった。彼がさらし者になるのは耐え難かったので、自然に足が速くなった。高梨は、後からよたよたとついてくる。これでは、ここまで来るだけでも一仕事だっただろう。
早苗は周囲の視線を気にしながら、高梨をエレベーターの中に押し込んだ。ストレッチャーが載る大型の昇降機だが、高梨が入ると、ひどく横幅が狭く感じられた。
ホスピスの中を通って、無事に高梨を自分の部屋に導き入れるまで、早苗はずっと、息を詰めるようにしていた。
「そこにかけてくれる?」
高梨が倒れ込むように座ると、ソファは、大きく中央がたわんだ。
早苗は、笑顔が引き攣《つ》るのを感じていた。
過食症の治療ということなら、土肥美智子にアドバイスを仰げばいいかもしれない。できることなら、今の高梨の姿を見せたくはなかったが、もはや、そんなことを言っている時期ではない。このまま太り続ければ、生命に危険が及ぶのは目に見えていた。
そう考えている間にも、高梨はデイパックを下ろし、食べ物を取り出していた。彼は最近、袋物のジャンク・フードを偏愛しているらしい。どれも高カロリーで、動脈硬化の原因になりそうなものばかりだった。
「高梨さん。こういう食べ物は、本当はあまり身体によくないのよ」
早苗は、やんわりと指摘した。
「後ろに、成分表が載ってるでしょう? この、マーガリンとか、ショートニングとか、植物性油脂とかいうものが要注意なのよ。こういう油は、常温では液体なのに、無理に固形化しようとして、工業的にトランス脂肪というものに変換されているの。天然には存在しない不自然な構造を持った油で、人体に悪い影響を与える可能性があると言われているのよ」
「そんな話は、初めて聞いたよ」
「日本以外の国では、すでに常識になってる話よ。オランダなんかでは、トランス脂肪を含んだ製品は、販売を禁止しているわ。ドイツでも、マーガリンの発売とクローン病の多発した時期が一致していることから、疑わしきは使用せずということで、いっさい使われていないし」
「どうして、日本では、禁止されてないんだろう?」
高梨は、あいかわらず、スナックをばりばりと貪《むさぼ》り食いながら言った。
「さあ。それは厚生省に聞いてみた方がいいでしょうね」
「しかし、だったら、バターの方がずっと身体にいいわけだ。僕は、醤油《しようゆ》バター味というのが大好きなんだよ」
「……そう」
ここまで摂《と》りすぎたら、身体に悪いという点では何でも同じだわと、早苗は心の中で呟《つぶや》く。
「それで、さっき、何か私に頼みたいことがあるって言ってたけど?」
高梨は、再び袋の中身を口の中に流し込むと、脂まみれの指をトレーナーの胸元で拭《ぬぐ》った。よほど頭が痒《かゆ》いらしく、髪に手を突っ込んで、しきりに掻《か》き毟《むし》る。ばらばらと、白いフケが散った。
「最近、よく眠れないんだ」
「そう?」
「それで、薬をもらえないかと思って」
早苗は、あらためて高梨の姿を見やった。たっぷりと皮下脂肪が付いたせいか、顔色は紙のように白い。特に何かに悩んでいるような感じはないが、過食症はストレスから起きる。もしかすると、不眠によるストレスが、異常な食欲に拍車をかけているのかもしれない。
「前にあげたお薬は? かなりまとめて出したはずだけど?」
「ああ。あんまり効かないんだ。体重が増えたせいかもしれないけど。あまり、強い薬じゃなかったんじゃないかな?」
「そんなはずはないけど」
早苗は、少し考えた。
「わかったわ。じゃあ、一回に一錠じゃなくて、二錠のむようにして。だけど、もし眠くならなくても、絶対に、それ以上のんだらダメよ?」
高梨はうなずいた。目は子供のようにきらきらと輝いていたが、視線に落ち着きがなく、焦点が定まっていない感じだった。ちゃんと指示が伝わっているのかどうか心配になる。
「あと、これからしばらくの間、カウンセリングに通うようにしてくれる?」
「カウンセリング? 薬をのめば、寝られると思うけど」
「うん。それもあるけど、やっぱり、少し食べすぎだと思うのよ。このままだと、健康に悪いし。時間があれば、私がカウンセリングできるし、手が放せないときは、ほかの先生に頼んどくから」
「ああ、わかった」
高梨は、思いの外あっさりと承知した。
「じゃあ、お薬をもらってくるから、ちょっと待ってて」
早苗は部屋を出て、薬局へ向かった。処方箋《しよほうせん》を書き、薬を受け取って部屋に帰ると、高梨の姿はなかった。時間にすれば、ほんの四、五分のことだっただろう。
あわてて部屋を出て周囲を探してみたが、やはり彼はいなかった。近くにいたホスピスの入院患者に聞いてみると、ついさっき、異様に太った男が、エレベーターで下へ行ったという。
妙な胸騒ぎを感じる。高梨はなぜ、逃げるように姿を消したのか。
だが、早苗には、いつまでも彼にばかりかかずらっている暇はない。今日は、ホスピスへの入院を希望する何組かの患者やその家族と面談を行うことになっていた。
仕事を全部終えてから、彼女が再び自分の部屋に戻ったのは、夜の九時を回ってからだった。
ルーティン・ワークに埋没しているうちに、今日、高梨が訪ねてきたことが、夢だったような気がし始めていた。昔と変わらないスリムで内省的な高梨は、今もちゃんとどこかにいるのではないだろうか。数時間前に自分が見たのは、高梨とは別人のどこかの内分泌異常の患者だったのではないか。
机に向かって座ったときに、漠然とした違和感を感じた。
一瞬、何がおかしいのかわからなかったが、すぐに、一番上の引き出しが、ほんのわずか、開いていることに気づく。
普段は、この引き出しには鍵《かぎ》をかけてある。だが、肝心のその鍵は、机の上の小物入れに無造作に放り込んであった。開けようと思えば、誰にでも開けられる。
早苗は、そっと引き出しを開けた。だが、中を見る前から、すでに覚悟はできていた。
引き出しの一番奥に入っていた睡眠薬の瓶が、三つともそっくり消え失《う》せている。いずれも、高梨に与えていた、安全性の高いベンゾジアゼピン系の薬ではなく、効き目の強いブロムワレリル尿素製剤だった。
少なくともこれで、高梨が逃げるように帰って行った理由は、はっきりした。
だが、彼は、何のために、これほど大量の睡眠薬を必要としたのだろう。
突然、電子音のメロディが鳴り響いたので、どきりとする。『オペラ座の怪人』の『マスカレード』……。嫌な予感が走った。急いでカバンを開け、携帯電話を取り出す。
「もしもし?」
相手の気配は感じられるものの、返事はなかった。しかし、彼女は、いたずらではないと直感した。
「もしもし? 高梨さん? そうなんでしょ?」
低い含み笑いが返ってきた。笑いはいつまでも続いていたが、そのうちに甲高い哄笑《こうしよう》となって弾《はじ》けた。
「高梨さん? 聞こえる? ねえ、返事して」
「ああ。ごめん」
高梨の声は、まだ笑いの余韻を引きずっていた。
「何だか、今晩は、気分がいいんだ」
「高梨さん。あなた、睡眠薬を持っていったでしょう? どうして?」
「どうして?」
また、高笑いが響いた。声を張った笑いの中に、ときどき悲鳴にも似た喘《あえ》ぎ声が混じる。ほとんど病的な躁《そう》状態にあるようだ。早苗の背筋を冷や汗が滑り落ちた。まさか。
「薬ってのは、のむためにあるんだろう?」
まるで自分が、気の利いたジョークを飛ばしたとでもいうように、高梨は爆笑した。
「高梨さん。今、薬をのんでるのね?」
高梨の笑いの発作が鎮まるのを待ってから、早苗は訊《たず》ねた。
「薬かあ。のんだよ。もちろん」
「ねえ、教えて。どのくらいのんだの?」
「どのくらいか。どのくらいかなあ」
高梨は、喉《のど》の奥で機嫌のいい猫のような音を立てた。
「わからない……わかれない……わかりえない。ん? どれが正しいんだっけ?」
「ねえ、これは大事なことなの。よく聞いて。あなたが持ってったのは、すごく強い薬なの。のみすぎると、命にかかわるのよ」
「そうか。命にねえ。それは大変」
「冗談じゃないのよ。ねえ、今、どこにいるの? すぐにのんだ薬を吐き出さないと、手遅れに……」
「うるさい。僕は、昔っから、アール・デコは嫌いだって言っただろ? ぐにゃぐにゃして、気持ち悪いんだ」
高梨は、吐き捨てるように言った。
「高梨さん……」
「ああ、ごめん。君に言ったんじゃないんだ。さっきから、うるさいんだよ」
「うるさいって?」
「天使。もう、さっきからずっと、まわり中で囀《さえず》ってる。ごちゃごちゃと、僕にいろんなことを言うんだ。わけのわからないことばかり、喃語《なんご》みたいな……」
一刻も早く、高梨を見つけだして、胃を洗浄して睡眠薬に拮抗《きつこう》する薬を注射する必要がある。だが、彼はいったいどこにいるのか。
「高梨さん。そこがどこなのかだけ、教えて? ね?」
「そうじゃないって。水滸伝《すいこでん》には、そんな奴《やつ》は出てこない」
高梨が言葉を切ると、かすかに、聞き覚えのある音が聞こえた。固いもの同士を、ゆっくりと打ち合わせるような響き。……グラスの中で、氷がぶつかるような。
「あなた、お酒を飲んでるの?」
早苗は息をのんだ。
「だめよ。すぐにやめて。睡眠薬とアルコールを一緒にのむなんて、自殺行為なのよ!」
「どうして、そんなことばかり言うんだ? 意味がないじゃないか? え? どうして、蒸し焼きにしなきゃならないんだ?」
「高梨さん!」
早苗は、叫んだ。
「うるさいんだよ。そんなにまわり中で。どうしてほしいんだ? 僕は、聖徳太子じゃないぞ。せめて、質問をするのか啼《な》くのか、どっちかにしてくれ」
高梨は、グラスの液体を飲み干したらしい。からりという乾いた音がした。
「はじめのこえ。うごかぬこえ。おうずるこえ。たすくるこえ」
「高梨さん! 返事して!」
「つづめこと。のべこと。うつしめぐらしかよう。はぶくこと……」
高梨は、譫言《うわごと》のようにしゃべり続けた。後半は、何を言っているのかほとんど聞き取れない。
「しっかりして!」
「ああ。近づいてきた。もうすぐみたいだ」
高梨は、ふいに落ち着いたしゃべり方に戻った。一時的に錯乱を脱したらしい。
「……もうすぐって、何のこと?」
「あんなに怖かったのが、ほんと、嘘《うそ》みたいだ。もう怖くない。胸がうきうきする。ただ眠いだけで。このまんま……」
「高梨さん! だめよ! しっかりして!」
「こんなに、まわりがうるさくっちゃ、別れも言えないよ。囀りばっかりで。そこら中。天使が」
高梨は、長いあくびをした。
「ああ。暗くなってきた」
「高梨さん! よく聞いて。これから、私が……!」
早苗は、懸命に話しかけようとした。
「眠くてたまらない。おやすみ。早苗」
唐突に電話は切れた。
早苗の耳の中では、通信の途絶を示す信号音だけが反響し続けている。
なぜか、もう二度と高梨の声を聞くことはできないのではないかという、恐ろしい予感があった。
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四章 恋愛|S L G《シミユレーシヨンゲーム》
朝の空気は、不愉快なくらい頬《ほお》に冷たく、真正面から射し込む陽光は、疲れた網膜には眩《まぶ》しすぎた。
荻野信一は、一人、とぼとぼと歩き続けていた。途中、駅へ向かう何人もの勤め人たちとすれ違う。信一は、彼らとは視線を合わせなかったし、向こうも、彼には目もくれようとはしない。
もう、身も心も、ぼろぼろだという気がしていた。彼を支えていたのは、自分の部屋に帰れば、『紗織里《さおり》ちゃん』が待っていてくれるという一念だけだった。
だが、ようやく『コーポ松崎』へと帰り着くと、一階の共用廊下の前に、箒《ほうき》を手にした小柄な老人がいるのが見えた。信一は、思わず舌打ちしてしまい、その音を聞かれなかったかと思ってどぎまぎした。
大家の松崎老人だ。中学校の教師を定年になってからは、よほど暇なのだろう。見たところ、ゴミなどどこにも落ちていなかったが、常に身体を動かしていないと気がすまない性分らしく、毎日早朝から、コーポの周りの清掃に励んでいる。
話しかけられるとうっとうしいので、信一はなるべく顔を合わせないように帰宅する時間をずらしたりしていたのだが、今日はうっかりしていた。
目敏《めざと》い老人には、とっくに彼の姿は見つけられてしまっているはずだ。いまさら後戻りするわけにもいかない。
信一が門を入ると、松崎老人は、すたすたとこちらに近づいてきた。信一は曖昧《あいまい》に会釈して擦り抜けようとしたが、危惧《きぐ》したとおり、老人は彼を呼び止めた。
「おう。荻野君。今帰ったの?」
「ええ。まあ……」
「夜勤?」
「はあ」
「コンビニ?」
どうしてこう、わかりきったことばかり聞くのだろうかと、信一はうんざりした。
「まあ」
「そう。あそこのコンビニ、何てったっけな?」
「……ライトハウス」
「そう。そうだった。そうだった。そういう名前だった。ライトハウス。大手だ。たしか、上から何番目かだな。しかし、最近は本当に便利んなったなあ。一日二十四時間開いてるんだから。ええ? 夜中でも、いつ行っても、何でも買える。だけんどまあ、その分、働いてる方はたいへんだわな」