やめてくれ、と思う。助けてくれ。どうしてそんなにいつも、無意味なことばかり言うのか。朝っぱらから、そんなわかりきったことをしゃべって、いったい何が面白いというのだ。だが、もちろん、面と向かってそう言うわけにはいかない。信一は、引き攣《つ》った笑顔を浮かべて、ひたすら老人が彼を解放してくれるのを待った。
「そうかあ。それで、今日はもう、仕事ないの?」
よけいなお世話だと思ったが、へたに暇だと思われると、また誘われる可能性がある。
老人も、信一と同様一人暮らしであり、しかもたちが悪いことに、食事は大勢で食べた方がうまいという強固な信念の持ち主だった。
以前に水炊きに誘われた時は、断りきれずに老人の部屋に上がったが、延々二時間以上も、拷問に耐えなければならなかった。老人は絶えず話しかけてくるのだが、もともと共通の話題などあるはずもないので、すぐに気まずい沈黙が訪れる。手持ち無沙汰《ぶさた》をごまかすには、せめて、せっせと食べるしかなかったが、信一は、その時、老人と同じ鍋《なべ》をつつくことが予想以上に生理的な嫌悪感をもたらすことに気がついた。老人はねぶり箸《はし》が癖らしく、さんざん舐《な》め回した箸で無神経に鍋の中を掻《か》き回す。熱湯で消毒しているから平気だというのが、この世代の考え方なのだろう。
信一は、怖気《おぞけ》をふるいながらも、死ぬような思いで白菜の切れ端を嚥下《えんか》したのだが、老人は、善意のかたまりのような笑みで、もっと肉を食え、遠慮するなと彼に迫るのだった。
鍋の中で煮えている青菜よりしおたれた信一の反応を見れば、二度と誘ってはこないだろうと思うのが常識的な考え方だろうが、あいにく松崎老人には通用しなかったようだ。信一が愕然《がくぜん》としたことには、数日後、老人はその時のことを、『楽しかった晩』として言及したのである。信一の沈黙も一方的に善意に解釈され、誘われたこと自体が苦痛だったとは夢にも思っていないらしかった。
「ちょっと帰っただけで、またすぐ仕事、行きますから」
信一は嘘《うそ》をついた。だが、それで解放してもらえると思ったのは甘かった。老人は、相変わらず無意味なことをしゃべり続け、いつのまにか、懐旧談を始めそうになっていた。
「あの、じゃあ、ちょっと、用ありますから……」
信一は、一瞬の隙《すき》をとらえてそう言った。
「え?」
老人は、ぽかんとした顔で信一を見た。無遠慮に彼の目を凝視する。ピンクのサングラスの奥で、信一は目を瞬いた。
「ちょっと、上で……。その」
信一が言葉に詰まっていると、老人はうなずいた。
「ああ、そう。はいはい。行ってらっしゃい」
ほっとしてきびすを返しかけた信一に、老人は後ろから言葉を投げつけた。
「荻野君さあ、もうちっと、はきはきした方がいいなあ。今時の若い人は、みんな、はっきりもの言うんだろ? それに、朝から暗い顔ばっかりしてっと、福が逃げてって、鬼を呼び寄せちまうよ」
うるさい。じじい。
信一は、鉄製の階段を騒々しい音を立てて駆け上がり、二階に避難した。五つ並んでいる部屋のうち、一番奥が彼の住居だった。鍵《かぎ》を開けて部屋に飛び込むと、すぐにまた、鍵をかける。
自分の部屋に戻ると、いつも心底ほっとした。築二十年を越した安普請で、一日の大半は、南側にあるマンションの陰になっている。光が部屋に射し込むのは、強烈な西日で部屋の半分が燃えるような色に染まる、夕刻のほんのひとときだけだった。
信一はカーテンを開けたが、部屋の中は依然として、まだ夜が明けていないかのように真っ暗である。だが、この穴蔵のようなスペースが、彼にとって唯一の憩いの場所、安息の地なのだ。
1Kで月三万六千円という格安の家賃。しかも、松崎老人の厳しいチェックの賜物《たまもの》か、あまりおかしな住人がいないのが、このコーポラスの大きな取り柄である。以前住んでいた木造アパートでは、殺人事件さながらの大声で夫婦|喧嘩《げんか》をする一家や、真夜中に傍若無人な大音量でロックをかける学生などがいて、ほとんどノイローゼになりかけた。
それ以上に、信一が前の木造アパートに我慢ができなかったのは、周囲に雑草だらけの空き地があって、そこに無数の蜘蛛《くも》が巣くっていたことだった。人の手が入らない環境が、蜘蛛の餌《えさ》になる虫の発生に好都合だったらしい。蜘蛛は絶え間なく生息圏をアパートの方に拡大しようとしており、日に何度となく飛び上がるような思いをした。
信一は、子供の頃から、重度の蜘蛛恐怖症《アラクノフオビア》だった。それは年々ひどくなり、最近では、蜘蛛に触れることはおろか、近寄ることさえできない。大きな蜘蛛が網を張っている道は、当然のごとく迂回《うかい》した。ところが、『コーポ松崎』の周囲には、よけいな空き地もないし、老人の絶え間ない清掃作業の甲斐《かい》あって、小さな蜘蛛でさえ、建物に網を張るいとまがなかった。だからこそ信一は、やたらに干渉したがる大家の存在にも耐えて、ここにいるのだった。
老人に捕まっていたせいで、貴重な時間を数分間も浪費してしまった。取るものもとりあえず、パソコンを起動する。ハードは年々高性能になっているが、OSもうんざりするほど重くなっているので、たっぷり二分も待たされてから、ウィンドウズが立ち上がった。
本当は、すぐにでもゲームかインターネットを始めたかったのだが、ひどい空腹を感じていた。内側に黒い水垢《みずあか》のこびりついた電気ポットで湯を沸かし、湿気《しけ》たティーバッグで紅茶を入れた。五年も使っているぼろぼろのデイパックから、サンドイッチを出す。コンビニで廃棄処分になるのを、こっそりくすねてきたものだ。
寝不足と疲労、それに精神的なストレスとで、頭の中は混乱の極みに達していた。だが、胃に食物を入れたために血糖値が上がると、どうにか、ものを考えられるようになってきた。
発端は、信一が、夜勤の始まる時間に遅刻したことだった。額が禿《は》げ上がり口髭《くちひげ》を生やした店長は、かんかんになって怒った。たまたま昨日の晩に限って、客が多かったために、信一が来るまで、一人でレジを含めたあらゆる雑用をこなさなければならず、てんてこ舞いだったことも怒りに拍車をかけていた。
「どういうつもりだよ。え? 何で遅れたんだ?」
店長は、いつになく感情的になっていた。
「黙ってちゃ、わからねえだろう? 何とか言えよ」
「すみません」
信一は、ただ謝るしかなかった。
「ったく。いい年しやがって……」
店長が最後にぽつりとつぶやいた一言は、彼の心に突き刺さった。
商品を陳列したり、店内を掃除したりしているうちに、心の古傷の緩慢な痛みが、彼に襲いかかってきた。普段は意識しないようにしていたことが、心の封印を破って、一気に噴き出してくる。企業に入っていれば責任ある仕事を任されていてもおかしくない年なのに、いまだに親から仕送りを受けている身であること。恋人どころか、女性で知人と言えるような人間は一人もいないこと。現在の自分の生活は惨めの一言だし、将来には何の展望もない。
これまでに、他人から傷つけられ、口惜《くや》しい思いをしたときの記憶が、無数の断片となって押し寄せてきた。ふだん、めったに物事を突き詰めて考えることがないだけに、いったん防波堤が破れてしまうと、手の施しようがない。その晩ずっと、信一の頭の中では、救いようのない自己否定が渦巻いていた。
さすがに、これ以上店長の機嫌を損ねるのはまずいと思い、信一はラックの雑誌を整頓《せいとん》しているふりをしたが、彼の心は遠くに飛び去ってしまっている。気がつくと、さっきから同じ雑誌を右へやったり左へやったりしているだけだった。
「おい。何やってんだ。レジやってくれ!」
いらだたしげな、店長の声が響いた。
横目でうかがうと、いつの間にかカウンターの前には、五、六人の客が並んでいる。着色した髪と疲れた皮膚をした、夜行性の若者たちだ。
信一は、そっとピンクのサングラスを上げて目元を袖口《そでぐち》で拭《ぬぐ》うと、走っていった。
「こちらへ、お願いします」
蚊の鳴くような声で後ろに並んでいる客にそう言い、もう一つのレジを開けた。店長は、露骨な侮蔑《ぶべつ》を含んだ目で、信一をにらみつけた。
「千六百、七十五円です……二千円から、お預かりします」
たいていの客は、コンビニの店員を人間とは思っておらず、信一と目を合わせようともしない。それが、今の信一には唯一の救いだった。
「ええと、二千九百、七十九円です」
次に目の前に来た娘は、どことなく『紗織里ちゃん』に似た風貌《ふうぼう》だったので、少しどきりとした。財布から、きっちりと端数までコインを選び出している。『紗織里ちゃん』も、水瓶座のA型で几帳面《きしようめん》な性格であることを思い出す。
だが、すぐに娘は、優しい『紗織里ちゃん』とは似ても似つかない性格であることを露呈した。信一が掌《てのひら》を出すと、娘は、指が触れるはるか以前にコインを落とした。まるで汚いものに触れるのを避けようとするかのような動作だった。
コインはカウンターの上に落ちて散らばったが、信一が拾い集めている間に、娘はさっさと買い物袋を持って出ていってしまった。
「ありがとうございました」
そう言ってからコインを数えたが、百円足りない。
どきりとした。しまった。どうしたらいいだろう?
コインを持って困っている彼の前に、次の客がどさりとかごを置いた。早くしろと言わんばかりに、彼をにらむ。
「あの、店長……」
だが、店長は彼を無視して、猛烈な勢いでキーを叩《たた》いていた。
やむを得ず信一は、百円足りないまま、次のレジを打った。あの、馬鹿女め。わざと少なく払いやがって。外見だけで、『紗織里ちゃん』に似ているなんて少しでも思ったのが間違いだった。
あれは蜘蛛みたいに邪悪な女だ。蜘蛛女だ。蜘蛛女蜘蛛女蜘蛛女蜘蛛女蜘蛛女……!
客がいなくなってから、信一は自分の財布を出して、レジに百円玉を入れようとした。金を取るのなら犯罪だが、入れるのだからオーケーのはずだと思っていた。まさか、あれほどひどく叱責《しつせき》されることになるとは夢にも思っていなかった……。
信一は、冷めてしまった紅茶をがぶりと飲んだ。睡眠時間を削《けず》って、これ以上あんな不愉快なことを思い出していてもしかたがない。
デスクトップのアイコンをクリックして、インターネットに接続する。
『お気に入り』に登録されたアダルト・サイトをいくつか巡回したが、完全露出の画像にも食傷気味で、見たいとも思わない。それでもつい習慣で、ロリータや、SMなどの画像をいくつかダウンロードした。ホモセクシュアルやスカトロ、獣姦《じゆうかん》の画像などもあったが、趣味に合わないので、見てみることもしなかった。
一通りページの巡回が終わると、信一は、インターネットとの接続を切った。
ほんの半年ほど前には、信一は重度のインターネット中毒患者だった。一日十数時間をネット・サーフィンに費やし、食事や睡眠すらろくにとらないような日々が続いた。文字通り寝食を忘れて、国内や海外のアダルト・サイトを探訪していた。一つのサイトには、また別のサイトへのリンクがあるため、際限がなかった。インターネット中毒とは、一種の情報中毒であり、途中でやめるのは困難だった。だが、たとえアダルト関係に限っても、すべてのぺージを見尽くすのは、百年かかっても不可能である。それどころか、日々新しいサイトが生まれ、更新されていくのだ。
インターネットのシステムである、World Wide Webという言葉を思う。それは、世界中に張り巡らされた蜘蛛の巣を意味している。自分は、この蜘蛛の巣に危うく絡《から》め取られてしまうところだったと思う。これは、偶然の暗合なのだろうか。そもそも自分は、なぜ、いつから、これほど蜘蛛を恐れるようになったのだろうか。
信一は、被害妄想めいた思考の断片を追い払うと、デスクトップにある『FLマスク』というソフトを起動した。このソフトは、ネット上で自由に手に入れることができる、いわゆるシェアウェアだった。本来は、画像にモザイクをかけるためのソフトだが、ほとんどのユーザーは、モザイクを外すのに使っているはずだ。
彼は、『FLマスク』の上に、先ほどデスクトップにダウンロードしたロリータの画像を呼び出した。……このソフトの作者は警視庁から刑事告発を受け、たしか、有罪判決が出たはずだった。今後、ネット上の『有害情報』を規制しようとする動きは、ますます活発化していくのだろう。
ちらっとそんなことを思ったが、すぐに忘れてしまった。もともと、さしたる関心があったわけでもない。自分に差し迫った関係のない問題について考えたりするのは、時間の浪費以外の何物でもない。
彼は熟練した手つきで、マウスでドラッグした枠を画像上のモザイクの枠に合わせた。若干、はみ出してしまう。モザイクのサイズがイレギュラーなのだ。そこで、『マスク枠コントローラ』を呼び出して微調整をする。
うまくいった。今度はモザイクの種類を判定しなければならないが、たぶん『QOマスク』だろう。たいていはそうだ。マウスのポインタで『QOマスク』のボタンをクリックすると、モザイクはきれいに消えた。
信一は、にやりとした。これが、『CPマスク』だと、キーワードを入れなければモザイクを外せないので、厄介なところだった。ヌード写真にアイドルの顔をすげ替えたアイドル・コラージュ、通称『アイコラ』のページでは、訴えられることを恐れてか、ほとんどのモザイクが『CPマスク』になっている。もちろん、『CPポップ・アップ』か『Gマスク』を使えば、多くの場合、キーワードは簡単に探知できるのだが。
画面上で、せいぜい十一、二歳と思われる白人の少女が一糸まとわぬ姿になった。だが、まだどことなく、モザイクのかかっていた場所が不自然な感じを与える。『左右反転』をかけてみた。やはりそうだった。今度こそ、完全に無修整の画像がディスプレイに映し出されていた。少女は、毛むくじゃらの男の手で猥褻《わいせつ》なポーズを強要されながら、青ざめ、こわばった笑みを浮かべている。
ネット上でこんな画像が公開されているということは、世界中の無数の変態趣味の男たちの目にさらし者になっているということである。この子の人権は、いったいどうなるのだろう。今度はふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。その写真自体が、歴然とした犯罪の証拠と呼んでもおかしくないものだったからだ。
だが、いつもと同じく、そこで思考停止する。自分は、犯罪の実行に加わったわけでもなく、有料の画像を見るために犯罪者に送金して、間接的に彼らに荷担したわけでもない。ただ、自分の部屋からこっそりと無料の画像を覗《のぞ》き見て、興奮しているだけだ。誰にも迷惑はかけていないんだから、オーケーだ。
その次の絵は、もう少し手強《てごわ》かった。『QOマスク』を外しても、モザイクのあった部分はいくつかのブロックに分割されて、入れ替えられていた。これを生の画像に戻すには、より精緻《せいち》な作業を可能にする別の画像ソフトに取り込まなくてはならない。そこまでやるのも面倒だったので、そのまま保存する。
モザイクを外してきれいになった画像は、MOという光磁気ディスクに保管していた。近年のコンピューター関連の技術革新はめざましく、フロッピーとほぼ同じ大きさのディスクに、数千枚の画像を保存することができる。その多くは、こうした用途に活躍していた。もっとも信一は、一度保存した画像は、ほとんどの場合、二度と呼び出して見ることはなかったが。
その後も作業は順調に進んだが、五十番目くらいに出てきた画像は吐き気を催すようなものだったので、消去した。信一は身震いした。こんなものを見て喜ぶ人間がいるとは、とても信じられない。画面中央に大きなモザイクがかかっていたために、ダウンロードしたときは、何がなんだかわからなかったのだ。
いちじるしく気分を殺《そ》がれてしまった。『FLマスク』を終了させ、気を取り直そうと、机の引き出しから、数十枚のCD―ROMを納めてあるファイルを取り出した。中身はすべて、パソコンゲームのソフトだった。
彼がインターネット中毒から『立ち直れた』のは、ゲームに熱中するようになったからだった。フロイトは、モルヒネ中毒の患者をコカインで治療していたというが、信一にとってのコカインにあたるのが、これらのソフトなのである。
音楽CDそっくりの円盤を、パソコンにセツトする。CD―ROMプレイヤーはオートランに設定してあるので、自動的に読み取りが始まった。
ディスプレイの中央に、ゲームの画面が現れた。Imagoという会社名に続いて、『天使が丘ハイスクール』というタイトル文字。その下で、セーラー服と水着、それに天使のコスチュームの美少女たちが、信一に向かって微笑《ほほえ》みかけていた。最近、彼がすっかりはまっている、『恋愛|S L G《シミユレーシヨンゲーム》』である。
信一の背後にある大型のスライド式の本棚には、文芸書の類は一冊もなかった。ぎっしりと詰まっているのは、少女漫画と、それにゲームの空き箱ばかりである。
特に気に入ったゲームは、ウィンドウズからセガサターンやプレイステーションなどに移殖されるたびに買い揃《そろ》えているため、同じタイトルの箱がいくつも並んでいる。内容はほとんど同じなのだが、ごく微妙な差異があると聞くだけでも、すべてを手に入れずにはいられなかった。
圧倒的なソフトの種類の多さから、主にテレビ用のコンシューマー・ゲーム機でプレイしていた時期もあったが、最近はすっかりパソコンゲームの虜《とりこ》となっていた。何と言っても、機械が高価なだけあり、情報量と画面の発色が断然違うのだ。信一のパソコンは、CPUも二世代ほど前のもので、ハイエンドには程遠かったが、ビデオボードとサウンドカードだけは高価なものを組み込んである。
それに、彼がテレビゲームよりパソコンゲームを愛好するのには、もっと明白な理由があった。
ほとんどのゲームの箱の背には、銀色の丸いシールが燦然《さんぜん》と輝いている。その上には青い字で、『コンピュータソフトウェア倫理機構、十八歳未満お断り』と書かれていた。これは、たとえ箱の表面の絵がアニメタッチの可愛《かわい》らしいものであっても、ゲームが進むにつれて、ちゃんと猥褻《わいせつ》で変態的なCGが現れますよというお墨付きなのである。
これが、いわゆる『十八禁』ゲームだが、テレビゲームでは低年齢のユーザーまでを想定しているため、せいぜい『十八歳以上を推奨』するゲームしか存在しない。つまり、それだけ性描写が制約を受けることになるのだ。パソコンで『恋愛SLG』と呼ばれるものは、少数の例外を除いて、ほとんどがこうした『十八禁』の指定を受けている。『変態ゲーム』略して『Hゲー』は、今や日本固有のサブカルチャーとして、海外でも多くのファンを獲得していた。
信一はヘッドホンをつけて、ゲームの起動画面をクリックした。なじみ深いテーマソングが流れる。椅子《いす》の背に深くもたれて、ほっと溜《た》め息をついた。現実の世界では、嫌でも他人と交渉を持たねばならず、常に、深く傷つけられることのないように身構えていなくてはならない。張りつめていた心のガードが、まるで温かい湯に浸したようにほとび、緩んでいくのを感じる。
前回セーブしたゲームのデータを読み出して、いよいよ前回の続きをプレイしようとしたとき、電話が鳴った。
くそっ。誰だ、こんな朝早くから。
無視しようかとも思ったが、電話は執拗《しつよう》に鳴り続けた。あいにく、留守電はセットしていない。業者がどこで彼の番号を知るのかわからないが、テープは、すぐにわけの分からない勧誘のメッセージでいっぱいになってしまうからだ。
「……はい」
不機嫌な声で、信一は電話に出た。何かの勧誘だったら、すぐに受話器を叩《たた》きつけてやろうと思いながら。
「あんた、男のくせに、えらい長電話やねえ!」
姉の声だった。
「さっきから何べん電話しても、ずっと話し中やったわ」
インターネットに接続していたのだと言おうと思ったが、面倒なのでやめた。ケーブルテレビに加入するような金はなかったが、せめて旧式のモデムをやめてISDNにすれば、接続中も電話を受けられる。だが、そうまでして受けたいような電話など、彼のところにかかってきたためしはなかった。
「何や」
「何やとは、ご挨拶《あいさつ》やね。あんた、正月も帰ってこんかったでしょ。どうしとるか思うて、電話したんやないの」
「元気やし」
「元気やったら、連絡くらい、よこしなさい。お母さんも、お父さんも、心配しとるよ」
姉は信一とは二つ違いだったが、すでに恰幅《かつぷく》のよい堂々としたおばさんになっていた。両親と信一が話すと必ず喧嘩になるので、最近では姉が代わって電話してくる。姉にだけは可愛がってもらった記憶があるし、小学校でいじめに遭ったときに庇《かば》ってもらったという負い目があるので、いまだに頭が上がらなかった。
「まあ、それはええわ。それより、今度の休みでも、ちょっと、こっち帰ってこれん?」
「何で?」
「あんたに、会わせたい人がおるんやわ」
「会わせたい人って、誰?」
信一には、郷里に会いたい人間など誰一人いない。
「うちの人の会社の、事務やってる人やの。気だてのええ、しっかりした娘さんよ」
姉の褒め方から、美人ではないことが容易に推測できた。信一は、ゲームの起動画面に出ている女の子に目をやった。アニメーターがエアブラシで描いた皮膚は、シミ一つないピンクで、大きくてつぶらな瞳《ひとみ》はきらきらと輝いている。
「……前に言うたやろ。見合いは嫌いやから、する気ないって」
「まだ、そんなこと言うてるの!」
姉の声は、怒気を帯びた。
「あんた、自分の年、考えたことあるの? いつまでもふらふらしとるけど、もう二十八なんよ?」
「わかっとるわ。自分の年くらい、言われんでも」
信一は鼻白んだ。
「ちっとも、わかってないやないの。いつまでも、プー太郎でどうすんの? お父さんとお母さんも、いつまでも元気やと思っとったら大間違いやからね」
「俺《おれ》はプーとちゃうで。ライターや。今もパソコンで、原稿書いとったとこ……」
「何が原稿やの。笑わせんといて!」
ゲームやアニメ雑誌に投稿した文章が何度か採用されたことから、信一は、フリーライターという肩書きの付いた名刺を作っていた。いつかは、本格的なゲームの評論を書こうとも思っていたのだが、当然のことながら、姉は歯牙《しが》がにもかけない。
「ええかげんに、目え覚ましなさい! うちの人が、あんたに仕事も用意してくれてる言うてるんやから。わかってんの? この不景気で、ほんまはリストラせなあかんとこなんよ。それを、特別にあんたのために……」
怒りで、少し手が震えた。だが、反論する言葉は出てこない。これまでも、いつもそうだった。腹の中では、様々な思いが渦巻いているのだが、それを言葉で表現することができないのだ。
信一は長く息を吐き出すと、受話器を置いた。しばらくは、すぐにまた姉から電話が来るのではないかと身構えていたが、それっきり呼び出し音が鳴ることはなかった。
すっかり気分が悪くなっていた。一刻も早く神聖なゲームの世界に入り、すべてを忘れたかった。この世で彼が唯一愛しているのは、ゲームのヒロインである『川村紗織里ちゃん』だけだった。
CD―ROMをセットし、ヘッドホンをつける。ゲームの起動画面をクリックすると、テーマソングである『School Days』が始まった。もう、それだけで涙が出そうになるほど、ほっとする瞬間だった。
School Days. もう一度、君と過ごしたい。胸躍った、あの季節を。争いも、妬ねたみも、苦しみもない世界で。
School Days. もう一度、君に来てほしい。夢がかなう、あの教室へ。大事なのは、素直な心、ただそれだけ。
School Days. ああ。地上に訪れた、この奇跡の時間《とき》。君を待っている、制服の天使たち。放課後の図書室。蝉《せみ》の鳴くプール。文化祭の校庭。そして、夕暮れの校門で。
きっと、どこかにあるはずだよ。Another time, another place. 天使たちの降り立つ場所が。それが、天使が丘ハイスクール。
すぐにクリックしてゲームを始めることもできるが、信一は、テーマソングを最後まで聴いた。何度聞いても感動的だと思う。どうして、こういう素晴らしい歌がヒットチャートに上らないのかが、不思議でならなかった。しばらく余韻に浸ってから、マウスで隠しコマンドのある画面の一部分をクリックした。もう一度、テーマソングが始まった。今度も最後まで聞いてから、いよいよゲームを始める。
ゲームとは言っても、あらかじめ決められたセリフが文章で現れるので、ほとんどは、その上を機械的にクリックするだけである。ときおり三つぐらいの選択肢が示されるのだが、これも、好き勝手なものを選ぶわけにはいかない。ゲームを最後までクリアーするためには、常に正しい選択をしなければならないのだ。
信一はあらかじめ、インターネット上で、『天使が丘ハイスクール・完全攻略ページ』というサイトを探し出していた。すでにゲームを完全にクリアーした人間が、どこでどの選択肢を選ぶべきかという一覧表を作っているのである。
信一は、その一覧表をプリントアウトして、パソコンの脇《わき》のドキュメント・ホールダーに留めていた。この前はうまくいかなかったが、今度こそ、万全の準備を整えて、『紗織里ちゃん』をゲットすることができる。
前回セーブしたデータをロードする。これで、この前の続きからプレイすることができる。インターネットで『Hゲー』関係のホームページを渉猟した時に、彼はゲームのセーブデータそのものをダウンロードできるサイトまで発見していた。つまり、そこからダウンロードしたデータを入力すれば、任意の場所からゲームを始めることができるのだ。労せずして、最後のご褒美であるHなCGだけを楽しむことができるわけだが、それでは、ゲームをやる意味がない。
画面上では、主人公の男の子が、出会いを求めて学校の中や町を徘徊《はいかい》する。主人公の名前は、最初にゲームをインストールしたときに『荻野信一』に変えてあった。
『しんいちー。おっはよー! 』
軽快なストリングスによる、爽《さわ》やかな感じのBGM。朝の通学路で、ショートカットの女子高生が、『信一』に声をかけてくる。椎名由美だ。主人公に一途《いちず》に思いを寄せる、なかなか可愛《かわい》い子なのだが、残念ながら今回は、この子が本命ではない。画面に のマークが出ると、マウスをクリックして、次のセリフを出す。
『おっはよーじゃねえよ。おめーのせーで、昨日は寝不足なんだからな! 』
現実の彼が、女の子に対してこんな口を利いたことは一度もなかったが、全く違和感はなかった。今の彼は、ごく普通っぽい男子高校生で、すっかりクラスの中に溶け込んでおり、女の子みんなから関心を寄せられる存在なのだ。
『何で、あたしのせいなのよ? 』
『何でだー? ゆうべ夜中に電話かけてきたのは、どこの誰だ? 』
『だってー。どうしても、誰かに聞いてもらいたかったんだもん。 』
『何でそれが、俺じゃなきゃなんねーんだ? 』
『ごめんごめん。ほら、手近にいて、暇そうな人間っていったら、あんたくらいしか思いつかなくて。 』
『おめーなー! そういう言い方って、ねえだろう? 』
……。クリック。クリック。
会話は、延々と続く。信一は、あっという間に現実世界のことを忘れ、ストーリーの中へと没入していった。
『荻野くん。由美ちゃん。どうしたの? 』
『川村紗織里ちゃん』が、校門のところで彼を待っていた。身体の前を隠すように、両手でカバンを持ったポーズで。
『いやなにー。ほら、信一が、朝からつまんないことばっか言うもんだから……。 』
だが、信一は、もはや由美のセリフなど読んでいなかった。彼の目は、『紗織里ちゃん』に吸い付けられていた。
邪魔な会話のウィンドウなどをいったん全部消して、『紗織里ちゃん』の可憐《かれん》な絵姿をじっくりと鑑賞する。
二十八歳の荻野信一は、二次元の世界に住む美少女に恋をしていた。彼にとって、これほど真剣な恋は、生まれて初めてと言っていい。
『紗織里ちゃん』……。信一は小声でつぶやいたが、ヘッドホンをしているために、自分の声は聞こえなかった。こんなにそばにいるのに、どうして手が届かないのだろう。
ほっと溜《た》め息をついてから、会話のウィンドウを戻す。現実の世界とは違い、授業はあっという間に終わって放課後となり、次の選択肢が出た。
1 紗織里ちゃんと、日曜日の約束をする。
2 紗織里ちゃんを、ツーショットに誘う。
3 帰宅する。
1か2か迷ったが、例の一覧表を見ると、どうやら日曜日の約束をするのが正解らしかった。1をクリックすると、思いがけず『紗織里ちゃん』の絵が動画になり、にっこりと微笑《ほほえ》む。その上、答えは音声で出力された。
「いいわよ。じゃあ、デートしましょうか?」
文字による返事の代わりに、彼女の肉声(?)がヘッドホンの中に響いた。高まるBGM。信一は、まるで本物の女性からデートのOKをもらったかのような、いや、それ以上の幸せを感じていた。ヒロインだけあって、『紗織里ちゃん』の攻略は最も難易度が高く、最初のデートの約束を取り付けるまでに、すでにかなりの時間を費やしていた。
約束をしてしまうと、この日は、もうこれ以上『紗織里ちゃん』と過ごすことはできない。そのまま帰宅してもよいのだが、信一には別の戦略があり、しばらく学校に残っていた。すると、セーラー服に金髪をポニーテイルにした双子が現れた。美歌《みか》と絵瑠《える》だ。
実は、この双子が、難易度の高いキャラクター攻略の鍵《かぎ》なのである。制服を着て、一緒に授業を受けたりもしているが、美歌&絵瑠は天使なのだった。
『あれれ。信一。何してんのよ? 』
『おめーを待ってたんだよ。 』
『へえ? 紗織里ちゃんは? 』
『何で、そんなこと聞くんだよ。 』
『べつにィ。いいけどね。 』
二人は常にユニゾンで話すので、事実上、一人のキャラクターと同じだった。
美歌&絵瑠が天使だということは、名前を見れば明らかだった。熾天使《してんし》(最上級の天使)ミカエルそのままの安直なネーミングである。さらに、美歌&絵瑠が登場するシーンでは、BGMが、わざとらしく、パイプオルガンのようなサウンドに変わった。
1 ふたりを、ツーショットに誘う。
2 ふたりから、情報を聞く。
3 帰宅する。
信一は、迷わず1を選んだ。
日頃から美歌&絵瑠とツーショット(スリーショットと言うべきかもしれないが)を重ねて、好感度を高めておけば、肝心な時に、目指すキャラクターとの結びの神になってくれる。最初のうちはあえて『攻略ページ』を見ずにプレイしていたので、このことに気づかなかった。だが、天使の助けなしには、このゲームの完全攻略は不可能なのである。
信一は、美歌&絵瑠にフォアグラ バーガー(本当に、こんな恐ろしいファーストフードが存在するのだろうか?)をおごってやり、買い物では荷物を持ち、さらに、カラオケに行って、思う存分歌わせてやった。(美歌&絵瑠が歌うのは、賛美歌ばかりだった)
『今日は、ありがと。すっかり信一に、おこづかい使わせちゃったね。 』
『たいしたことねえよ。このくらい。 』
『でも、荷物持ってもらったりしたから、疲れたんじゃない? 』
美歌&絵瑠はいつになく神妙に礼を言ったが、もちろん、ゲームの中での散財なので、信一の実際の懐は痛まない。
だが、疲労という点では、もしかすると、美歌&絵瑠の言うとおりかもしれなかった。ゲームに没入している間に、現実世界の時間はあっという間に過ぎ去って、いつの間にか、昼近くになっていた。ディスプレイの絵に、目の焦点が合わなくなっている。今日はコンビニの夜勤の日ではないものの、さすがにもう、切り上げた方がいいだろう。
ここまでのデータをセーブして、信一はゲームを終了した。
最悪だった気分は、かなりましになっていた。難易度の低いキャラクターから順番に攻略していって、これまでこのゲームに、のべ五十時間以上もかかりきりだったのだが、いよいよ、大本命の『紗織里ちゃん』をゲットできる日も近い。すでに眼精疲労と肩凝りは慢性化していたが、今日はぐっすりと眠れそうな気がした。
それでも、ゲームを終えてしまうと、急に寂しくなった。何となく、そのままパソコンの灯を消してしまうのが、惜しいような気がする。
肉体は早く眠ることを要求していたが、もう一度インターネットに接続してみた。電子メールをチェックしてみたが、予想通り、どこからもメールは来ていなかった。次に、当たらないので有名なマイクロソフトの|星占い《ホロスコープ》を見る。『好調な一日。ひそかにあなたのことを思っている女性がいます』というコメントが出ていた。
『お気に入り』のアダルト ページは、一通り巡回が終わったばかりだ。そこで、気まぐれに、サーチ エンジンでホームページの検索をしてみた。
最初は、『川村紗織里』で検索してみた。登録されているホームページの中で、一語でもこの語を含むものは、自動的に検索され、リストに上がってくる。該当は、数十件あった。すべて、ゲーム関係のサイトだ。ざっと見渡してみたが、今までにチェックしたもの以外に、特に目新しいものはなかった。
今度は、『美歌&絵瑠』と入力してみた。
件数はさっきより若干少ないが、検索結果には、ほとんど同じページが並んでいる。だが、最初の十件のうち、一つだけ見慣れないタイトルのホームページが目に付いた。
『地球の子供たち』。
もしかすると新しいゲームの名前かと思って説明文を読んだら、違っていた。