饭饭TXT > 海外名作 > 《天使の囀り(日文版)》作者:[日]贵志佑介/贵志祐介【完结】 > 【书香门第】天使の囀り@txtnovel.com.txt

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作者:日-贵志佑介/贵志祐介 当前章节:15481 字 更新时间:2026-6-16 03:23

『あなたは、自分が傷ついていることを、自覚しているでしょうか? 現代社会に生きる私たちは、毎日、心をストレスというヤスリによって削られています。傷だらけになったあなたの心が、ついに耐えきれず悲鳴を上げたら、思い出してみてください。私たちは、みな、地球《ガイア》の子供たちなのだということを。守護天使は……』

 信一は鼻で笑った。おおかた宗教か、それとも、自己改造セミナーの類だろう。こんな文句に釣られて引っかかる馬鹿もいるんだろうか。

 それにしても、今どき『地球《ガイア》』などというネーミングをするセンスは救いようがない。彼は昔から、超常現象やオカルト、『ニューサイエンス』などには興味があったが、カルト宗教の類に対しては強い生理的嫌悪感を持っていた。

 そのままネットとの接続を切ろうと思ったが、ふと、なぜ、このぺージに『美歌&絵瑠』が関係しているのだろうかという疑問が湧《わ》いてきた。

 ちょっとだけ覗《のぞ》いて、笑ってやるのもいいかもしれない。信一は、『地球の子供たち』へのリンクをクリックしてみた。

 画面が、薄い煉瓦《れんが》色のホームページの背景に切り替わった。静かなリコーダーのような音色のBGMが始まる。オルガンかアコーデオンかもしれない。続いて、つま弾くような二台のギター。アップテンポな『天使が丘ハイスクール』のテーマソングなどとは趣が違うが、不思議と心に沁《し》みるようなメロディだった。

 画面に、紹介の文章が出た。最初の部分は、検索エンジンで見た説明文と同じだった。次に、『地球《ガイア》の子供たち』というタイトル文字。

 画像《グラフイツクス》部分は、いつも少し遅れて表示される。じりじりしながら待っていると、天使の装束をまとった美歌&絵瑠が現れたので、嬉《うれ》しくなった。二人とも、両手を後ろに回して、小首を傾《かし》げながら微笑んでいる。これは、ゲームの中で、美歌&絵瑠が、プレイヤーに対して救いの手を差し伸べてくれるときのCGだった。

 へえ、わかってるじゃないか。信一は、少し、このホームページの制作者を見直すような気分になっていた。

 ホームページの内容そのものには、大した感銘は受けなかった。地球環境や、現代人のストレスについての退屈な文章が続くばかりで、『美歌&絵瑠』という文字は、申し訳程度に、一箇所出て来るだけだった。やはり、一種の自己改造セミナーか『癒《いや》し』を目的としたサークルのようなものらしい。うっかり引っかかったりすれば、やっぱり金を毟《むし》り取られるんだろうか。

 長い文章をスクロールしていくと、またいくつか、美歌&絵瑠のCGが出てきた。文字はほとんど無視して、そちらを楽しみに見ていく。やっと末尾の部分まで来た。そこには、週三回、決まった時間に、ホームページの主催者を囲んでチャットができると書かれていた。チャットとは、パソコンの画面上で、文字を使っておしゃべりをすることである。大勢が同時に話に参加することも可能だ。もしどうしようもなく暇だったら、今晩、チャットの様子を覗いてみてもいいかもしれない。

 信一は欠伸《あくび》をすると、ネットとの接続を切り、ウィンドウズを終了させ、パソコンの電源を落とした。

 たちまち、言いしれぬ不安と圧迫感に包まれる。仮想世界から現実に戻った時には、いつもこうなるのだ。一刻も早く、意識を消してしまいたい。この世界には、いつまでも意識を保っておくだけの価値がない……。

 アルコールを受け付けない体質の信一は、小さな薄紫色の錠剤をコカコーラで嚥下《えんか》して、湿った万年床にごそごそと潜り込んだ。

 暗く混沌《こんとん》とした、だが優しく居心地のいい眠りが、いつものように彼を迎えてくれた。

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五章 |親切なるもの《エウメニデス》

 電話が鳴っている。

 早苗は、ぼんやりと点滅している灯を見た。外線から直通番号にかかってきている。誰だろう。親しい友人は、携帯電話か電子メールを使うし、そうでない人たちは、むしろ、病院の代表番号にかけるはずだ。直接この番号にかけてくるのは、高梨くらいだった……。

 そう思っただけで、涙が溢《あふ》れそうになる。

 あれから、すでに二ヶ月近くが過ぎているのに、未《いま》だに、立ち直るきっかけすら、つかめないでいる。もしかすると、このまま、自分は、だめになってしまうのかもしれない。親しい友人たちの時がすべてを解決するという慰めの言葉が、今ほど空虚に聞こえたことはなかった。

 耳障りな呼び出し音は、鳴り続けた。

 ひょっとすると、また週刊誌の取材かもしれない。そう思うと、受話器を取ろうとする気力も萎《な》えてしまう。

 日本中、どの電話機も、すべてこの音なのはなぜだろう。以前、ダイヤル式の黒電話だったときも、全部同じ音だった。法律の規制でもあるのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、十回コールが響くのを聞いていた。相手は、それでもあきらめようとはしなかった。早苗は、根負けして受話器を取り上げる。

「もしもし……」

「北島早苗先生ですか? 福家です」

 しばらく、誰だかわからなかった。それから唐突に思い出す。アマゾン調査プロジェクトの主催紙の記者。高梨の死の直後には、インタビューにも来た。だが、それだけだ。今さらまた、何の用だろう。

「もしもし?」

「あ。はい」

「福家ですが」

「はい」

「あの……だいじょうぶですか?」

 福家の声には、心配そうな響きがあった。

「はい」

「お気持ちはわかりますが、高梨さんの件については、あまり責任を感じない方がいいと思いますよ。不可抗力だったわけだし」

「どうも」

 不可抗力。責任を感じない方がいい。警察で受けた取り調べが、脳裏によみがえる。

 ……そこんとこが、どうしても、わからないんだよなあ。どうして、睡眠薬を机の引き出しなんかに入れてたの? 自分で使うにしては、ちょっと多すぎるでしょう。量がさ。それに、管理上、まずいんじゃないですか? 病院の規則には、明らかに違反してるでしょう? 先生。以前から、それ、前からちょくちょく誰かに渡してたんじゃないの? 睡眠薬。こっそりとさ。それで、高梨さんもそれ知ってたんでしょう? そうでなかったら、鍵《かぎ》のかかった机の中に薬があるなんて、わかるわけないんだよなあ。ねえ、先生。いいかげん、本当のこと言ってくれませんか?

 ……だいたいね。人の命を預かるお医者さんとしてね、杜撰《ずさん》じゃすまされないことってあるんだよ。え? わかってんの? 人一人亡くなってるんだよ。ま、あんたは、まわりで人がばたばた死んでくのに、慣れてんのかもしれんがね。あんたが原因で人が死んだら、もう、そんなこと言ってられないんだよ。あんたもさ、亡くなった人のこと、少し考えてみたらどうなの?

「……から、先生がもうお読みになってたら、感想、と言ったら語弊がありますが、どう思われたか教えてもらいたいと思いまして」

 福家は、何かしきりにしゃべり続けていた。

「あの」

「はい?」

「読んだっていうのは?」

「だから、高梨さんの作品ですよ」

「どの?」

「聞いてなかったんすか?」

「はい」

 さすがに、福家は呆《あき》れたようだった。

「だから、『燈台』に載った短編ですよ。昨日、発売になった」

「高梨さんの短編が、『燈台』に掲載されてるんですか?」

「……そう言ってるじゃないですか」

 福家は、苛立《いらだ》ったように言った。

 ここ二、三年、高梨の作品は、一般の小説誌ではほとんど見られなくなっていた。にもかかわらず、週刊誌やテレビは、高梨の死を、かつての人気作家の異常な自殺としてセンセーショナルに報じていた。とはいえ、小説誌が高梨の作品の掲載に踏み切るというのは、事件後、初めてである。

『燈台』は、老舗《しにせ》の純文学専門の月刊誌である。『燈台新人賞』の過去の受賞者リストには、現在活躍中の人気作家の名前も散見される。しかし、純文学の人気の|凋落に《ちようらく》よって、最近での実売部数は同人誌並みに落ち込んでいるという話を、以前、当の高梨から聞いたことがあった。

 高梨は、新たに作品を書くたび、以前つきあいのあった編集者には原稿を送っていたはずだった。お蔵入りするはずだった原稿が、今回の事件で、急遽《きゆうきよ》掲載されることになったのではないだろうか。

「それ、何ていう題ですか?」

 今となっては、高梨の最後の作品、最後の言葉である。どんな理由であれ、活字になったのは嬉《うれ》しい。だが、福家が読み上げた題に早苗はぎょっとした。

「いや、読み方、ちょっと違うみたいすね。ええ……」

「いいです。読んでみますから」

「よかったら、ファックスで送りましょうか?」

「いいえ。自分で買いますから」

 早苗は、受話器を置いた。福家にはああ言ったものの、急に、高梨の遺作を読むのが怖くなってきた。しかし、聞いてしまった以上、無視することはできない。それに、高梨はきっと、自分が読むことを望んでいたはずだ。

「絶対、読まなきゃだめだわ。高梨さんの、最後の作品なんだもの」

 早苗は、声に出して言った。

 決めた。昼休みに本屋へ行って、『燈台』を買おう。

 ささやかだが、一日の目標ができたことで、気持ちに張りが生まれたような気がする。いいかげんに元気を出さなければならない。ホスピスに入院している患者たちのためにも。みな、過酷な境遇におかれているにもかかわらず、逆に、元気をなくしてしまった自分のことを心配してくれているのだ。

 早苗は最近、彼らと話すことで、むしろ自分の方が癒《いや》されるように感じていた。

 静かだった。時計を見ると、午前一時を回っている。早苗は伸びをすると、かすむ目を擦《こす》った。天井に目を凝らす。かつて高梨が、天使の幻影を見ていたあたりだ。

 机の上には、開いたままの月刊誌がある。昼休みに、近くの本屋に行くと、『燈台』は一部だけ置いてあった。子供の頃、欲しかった本を買ったときのように、胸に抱きしめて帰った。

 彼女は、ボルドーワインの入ったグラスを取り上げた。高梨の自殺からしばらくの間は、酔いの助けを借りないと寝付けないという状態が続いた。体調が悪化し、自分で触診すると、はっきりと肝臓が腫《は》れてきたのがわかったこともあって、ここ二、三日は我慢して禁酒している。だが、今晩だけは、どうしても飲まずにはいられない気分だった。

 もう一度、高梨の小説に目を落とす。タイトルは『|Sine Die《サイニーダイイー》』。さっき英和辞典を引いたところでは、ラテン語で『無期限に、最終的に』という意味らしい。

 内容は、事前の想像を大きく裏切るものだった。強いて言えば、死をテーマにした幻想小説ということになるのだろうか。筋らしい筋もなく、一人称で、ひたすら死への異様とも思える憧憬《どうけい》を語るだけである。高梨の全作品を熟読し、彼の作家としての思考方法を知りつくしていると思っていた早苗も、驚きを禁じ得なかった。

 何よりも異質に感じたのは、その文章だった。以前の作品の、推敲《すいこう》を重ねた端正な文章とは、似ても似つかない。酩酊《めいてい》感を誘うような独特のリズムはあるものの、どちらかというと支離滅裂な感じが拭《ぬぐ》えない。

 書き出しは、こうなっていた。

 やっぱり、死そのものしかないんだね。死への恐怖を消し去るのは。

 死が何も解決しないなどという、空《むな》しい空々しいお題目。死だけが、あらゆる問題に対する、最終的で、決定的な解決じゃないか。

 これが主題であり、タイトルの意味するところでもあるのだろう。だが、これが、悩み苦しんだ挙げ句、高梨の行き着いた死生観だったとすれば、あまりにも悲しい言葉だと思う。

 早苗はページをめくって、最後の語り手による独白を見た。問題の箇所だ。

 涅槃《ニルヴアーナ》とは、吹き消すという意味だね。お誕生日おめでとう! 哀れなケーキの全身に打ち込まれてヤマアラシの針のように突き立ったロウソクの炎が、小さな気流にゆらいで消える。象徴的に自らの命の炎を吹き消す、この喜び。射精寸前のように脊柱《せきちゆう》を這《は》い上がる戦慄《せんりつ》。ようやく、ここまで来たんだね。思えば、長い道のりだったね。こうして、一歩一歩確実に、死に近づいているんだね。えもいわれぬ安堵《あんど》を感じるだろう? お誕生日おめでとう! 人が誕生日を祝うのは、まさにそういう理由からだよね。身も世もなく号泣しながらこの世に産み落とされた瞬間から、我々はみんな、一日千秋の思いで死を待ちわびているんだね。戦いの終わりを。マラソンのゴールを。解放の瞬間を。永劫回帰《えいごうかいき》を。ひそかに胸をわくわくさせながら、でも、素知らぬ顔で待ち続けているんだよね。ニンフォマニアの尼僧みたいにね。

 もうみんな、すっかり忘れたね。その昔、本当に昔、ある能天気な学生がのどかな遺書を書いて、華厳の滝から飛び降りたんだけど。でも彼は、きっと、何となくは理解してたんじゃないかな。大いなる悲観は、大いなる楽観に通ずるとか何とか。その言葉の意味するところは、なにもマゾヒストじゃなくったって、今の我々にはクリアーだよね。

 かえすがえすも残念なことは、生きている間しか死ぬ喜びを感じることはできないっていう、パララックスなパラドックスだね。生きる喜びとは、死を身近に感じること。生きてるだけで楽しいって? 考えてごらん、せめて、まだ生きてるうちに。はっはっは。もしもだよ。もしも、永遠に死ねないとしたらどうする? 暗くて寒くて空気も稀薄《きはく》な宇宙の中で、いつまでも意識を保たねばならないとしたら?

 それより、もっと別のシナリオもある。もし、次から次へと、わけわかんない生き物に輪廻転生《りんねてんしよう》していくとしたら?

 天国は、冥王星《めいおうせい》と海王星の間、彗星《すいせい》の雲の核にあり、そこには、たくさんの門《ゲート》がずらりと並んでる。見たことはないけど、間違いない。そうなんだ。死んでようやく自由になったばかりの、僕らの不滅の魂は、生まれ変わりのために、どれか一つの門に強制的に取り込まれるんだね。前世は袋形《たいけい》動物の門をくぐり抜け、今生は毛顎《もうがく》動物門に吸い込まれる。来世は有櫛《ゆうしつ》動物門、来来世は有鬚《ゆうしゆ》動物門が待っている。その次? 星口《ほしくち》動物門か、そのたぐいだろうね。どんな生き物か、見当もつかない? まあ、開けてびっくりだね。はっはっは。鳥になって、自由に大空を飛びたい? 夢があっていいね。でも、生き物の数、考えてごらん? 脊椎《せきつい》動物の目があるだろうか? 宝籤《たからくじ》どころの騒ぎじゃないね。ほとんど、発狂しそうな確率だね。

 あ、でも、もしかして脊椎フェチ? だったらこれはどうだろう。ものは相談なんだけど、脊索《せきさく》くらいでよかったら、第一志望はホヤ、第二志望はギボシムシ、第三志望はナメクジウオというのでは? はっはっは。

 そうして、思考能力のない、ただ感じるだけの意識、盲目的な欲求、機械的な反射、それに苦痛だけが、果てしもなく続いていくんだね。闇《やみ》の中でひたすら、蠢《うごめ》いて、蠢いて、蠢いて、死ぬ。もがいて、もがいて、もがいて、喰《く》われる。そしてまた、這いずって、這いずって、這いずって……。もう、明らかだね。永遠に生きるのと、永遠に死んでるのと、どっちがベターなのか。

 だけど、心配はいらない。来世も霊魂も、ただのタナトフォビアたちの世迷い言。我々は結局、遺伝子の作った機械にすぎないよね。せいぜい電池が切れるまでの寿命。さあ、もうこれでだいじょうぶ。悪夢は去ったね。祝おうね。人に生まれた幸せを。お楽しみは、これからだからね。

 死を思おうね。死が約束されていることを思おうね。死が、はるか遠い彼方《かなた》から、亀のような鈍重な足取りで近づいてくることを思おうね。(ただ、気をつけた方がいい。この亀は、うっかりよそ見をしていると、突如甲羅の穴から火を噴いて、回転しながら飛んで来たりすることもあるからね。はっはっは)

 まあ、何だね。誕生日は決められなかったから、せめて自分の命日くらいは、自分で決めたいものだね。手後れになる前に。亀が飛んでくる前にね。だけど、首吊《くびつ》りはパスだね。一瞬じゃ、もったいないからね。最初で最後、そして人生最大のイベント。かといって、あんまり痛いのも、気が散るしね。むしろ、シングルモルトのウィスキー片手に、睡眠薬を一錠ずつ、ゆっくりゆっくり嚥下《えんか》する。これがお洒落《しやれ》なやり方だね。たっぷりと、自分自身を焦《じ》らしてやろうね。眠りにつく直前に、朦朧《もうろう》としてくる意識の状態を楽しむように。タナトスの欲求が高まり、口の中には生唾《なまつば》が溢《あふ》れ、目が血走り、死への渇望で頭がくらくらして破裂寸前になるまでに。そうして、薄れゆく意識の中で確かめてみようね。生と死の本当の境界を。明から暗へと切れ目なく移行する、存在論的なまどろみの中で。

 これが最後の瞬間なんだろうか? それとも今か? 今にも、意識が消滅するのか? これか? 今なのか? 今度こそそうか? この時? 今? それとも……?

 こうして想像するだけで、エクスタシーを感じるね。それこそ、震えが来そうなくらい。死は、とことん味わい尽くし、しゃぶり尽くさなきゃね。これこそ、思考能力を持って生まれた者の特権だし、今まで我慢して生き続けてきたことへの代償だしね。

 何と言っても、人生最高の贅沢《ぜいたく》だね。自分の命を消費し尽くさなきゃ得られなかった、これが究極の快楽なんだものね。はっはっは。

 早苗は、それ以上読み続けるのが辛《つら》くなって、目を閉じた。

 人間は、誰しも死恐怖症《タナトフオビア》ならぬ死愛好症《タナトフイリア》に似た要素は持っている。『怖いもの見たさ』は、霊長類の本能に根ざしているのだ。ただ闇雲《やみくも》に危険から遠ざかるばかりではなく、正体を探ろうとする行為が、結果的に生存率を上昇させることもあるからだ。へっぴり腰で蛇の玩具に近づくサルの姿は、我々の目には滑稽《こつけい》に映るが、合理的な戦略を実践しているにすぎない。

 このため我々は、恐ろしいものから遠ざかろうとする一方で、強く惹《ひ》きつけられもする。ホラー映画に根強い人気があるのもこのためだろうし、はっきりとした効果は確認されていないが、広告の世界では昔から、人の目をキャッチするためには何かしら死を暗示する要素を入れておくことが効果的だとも言われてきた。楽園の図柄の中に、騙《だま》し絵のように骸骨《がいこつ》を紛れ込ませておく類の手法である。エロチックな刺激などは、あからさまな方が効果的だが、人は、こと恐怖に関しては、サブリミナルなメッセージの方によりよく反応するらしい。

 だが、『怖いもの見たさ』は、しょせんは恐怖の裏返しでしかない。

 早苗はこれまで、高梨の死愛好症《タナトフイリア》的な行動に対しても、形を変えた死恐怖症《タナトフオビア》の現れではないかと疑ったことがあった。あまりにも死に対して深甚な恐怖を感じたために、まるで魅せられたようになってしまったのではないかという解釈である。

 だが、その考え方は、『|Sine Die《サイニーダイイー》』を読むことによって、根底から覆されてしまった。高梨は、やはり、純粋な喜びを感じて『死』を志向していたとしか思えないのだ。終末医療の現場で働いている彼女には、とても理解できない心理状態だった。死恐怖症《タナトフオビア》を死愛好症《タナトフイリア》に百八十度変えるには、いったいどんな魔術を使ったのか。

 死恐怖症《タナトフオビア》の最も厄介なところは、|エイズウイルス《HIV》のように、一度取り憑《つ》かれたら、終生逃れられない場合が多いという点にある。もちろん、一時的に気分が上向くことはある。悟りを開いたような心境になったり、生が有限だからこそ、有意義に生きなくちゃと前向きに決意したり、すっきりした顔で、もう吹っ切れたよと言うこともある。だが、そんなときでも、死恐怖症《タナトフオビア》はけっして消滅したわけではなく、意識の奥底にじっと身を潜めている。そして、心がひどく疲れたり傷ついたりしたとき、あるいは、何のきっかけもないときでさえ、突如として、その鎌首《かまくび》をもたげるのだ。そのふるまいは単なる比喩《ひゆ》を越え、不気味なくらいHIVに似ていた。ほかのすべての恐怖とは根本的に異なり、人間は、死そのものへの恐怖には金輪際慣れることができないし、根本的に克服することも不可能なのである。

 にもかかわらず、高梨は現実に、『|Sine Die《サイニーダイイー》』に書かれているとおりの方法で自殺してしまった。あたかも死を楽しむように。死恐怖症《タナトフオビア》の人間には、絶対に、こんな真似はできないはずだ。いったいこれを、どう説明すればいいのだろう。

 早苗は、我慢して、もう一度最初から奇妙な短編小説を読み直してみた。もしかすると、彼の死恐怖症《タナトフオビア》そのものは健在だったのかもしれない、という疑問を抱く。ここまで死に対して異常な関心とこだわりを見せるのは、その根底に恐怖が存在しているからではないか。だとすれば、死に対する恐怖は感じつつも、何らかの方法で、それを強引にねじ伏せているのかもしれない。恐怖を快感によってマスキングするようなやり方で。

 早苗の頭に真っ先に浮かんだのは、ドラッグだった。ホスピスでも、終末期の患者の不安を軽減する目的で、メジャー・トランキライザーや、抗不安薬などを処方することはあった。しかし、死への恐怖を完全に消し去ってしまうような薬物など存在しない。たとえ、コカインやヘロイン、メタンフェタミン、PCPなどを大量に用いたところで、そこまでの効果を上げられるかどうかは疑問である。

 だが、彼がアマゾンから、信じられないほど強力な作用を持つ、未知の麻薬を持ち帰っていたとしたら、どうだろうか。死への恐怖が耐えがたいものになるたびに、麻薬による恍惚境《こうこつきよう》で気分を紛らわせていたとしたら。そして、いつしかそれが単なる嗜癖《しへき》を越えて、死への恐怖そのものに耽溺《たんでき》するような倒錯した条件付けを造り出してしまったなら……。

 早苗は、苦笑いした。ときどき自分でも、憶測と妄想の区別がつかなくなることがある。頭を振って、月刊誌に目を落とす。

『燈台』でも、高梨の作品の扱いに苦慮している様子は、ありありと見て取れた。解説をまかされた文芸評論家も、半ば困惑気味に『死に取り憑かれた』と表現している。その言葉は、正しいのかもしれない。

 だが、逝ってしまう前に、彼はこの作品で何を言いたかったのだろう。

 早苗の耳の奥で、福家記者の電話の声がよみがえった。彼は最初、『|Sine Die《サイニーダイイー》』というタイトルを見て、ローマ字と英語を併せたものだと速断してしまったらしい。

 まるでそれが、読者すべてにあてたメッセージ、「死ね。|Die《ダイ》」という命令文であるかのように。

 高梨のビルは、中央線の四谷駅から、東へ歩いて十分ほどの場所にあった。

 早苗は、外壁に白いタイルを使った細長い五階建ての建物を見上げた。ここには、あまりにも多くの思い出があった。しかも、屋上は高梨が自殺した現場でもある。できれば、もう二度と来ないつもりだったのだが……。

 早苗は、小さなエレベーターに乗って、五階で降りた。電話では、仕事場で待っているということだったが。

 早苗がノックをする前に、ドアが開いた。そこに立っていたのは、髪をキャップの中に押し込み白いトレーナーの上下を着た若い女性だった。早苗を見て会釈する。

「北島さんですよね。私、お電話した鍋島圭子です」

 早苗は、黙って頭を下げた。

 通夜と告別式のときに、喪服を着て座っていた姿を思い出す。泣き崩れる母親をいたわりながら、気丈に弔問客に挨拶《あいさつ》を続けていた。鍋島圭子に会ったのは、そのときが初めてだったが、芯《しん》の強い女性だという印象がある。

「どうぞ。入ってください。いま、兄の遺品の整理を始めてたとこなんです」

 鍋島圭子は脇《わき》に寄って、早苗を招き入れた。

 喧嘩《けんか》別れのようになって以来、ここに入るのは初めてだった。早苗は、見慣れた部屋を不思議な思いで見回した。この部屋の主が、もはやこの世に存在しないということが、信じられなくなってくる。

「最初は、両親も一緒に出て来るって言ってたんですけど、母が伏せってしまったんです。それで、遺品の処分は、全部、私にまかせるってことになって」

 圭子は二十七歳ということだったが、早苗より年下とは思えないくらい、しっかりして見えた。

「両親は、できたらこのビルも売ってしまおうって言ってるんです。あんなことのあった場所ですから。それで、急ですけど、家具や備品なんかも、来週、まとめて業者に引き取ってもらうことになったんです。今日、明日中にも、残しておきたい遺品をまとめなくちゃならなくなって。北島さんにも、日曜日なのにご無理言ってすみません」

「いいえ。本当なら、私なんか、形見分けしてもらう立場じゃないですから」

「兄は、よく、あなたのことを話してました」

 圭子は微笑《ほほえ》んだ。色白で丸顔の日本的な美人だが、面差しは、あまり高梨とは似ていない。

「すごく年が離れた兄妹ですけど、わりと仲はよかったんですよ。お互い、何でも話しました。私が結婚してからは、なかなか会う機会もなかったんですけど、たまに電話があった時とか」

 高梨は、自分のことをどんな風に言っていたのだろうか。そう思っていると、圭子が先回りして教えてくれた。

「いつものろけられて、たいへんだったんですよ。北島早苗さんは、すごく素敵な人なんだって。それに、可愛《かわい》くて頭もいいだけじゃなくて、人の不幸を見過ごせない優しさがあるって言ってました」

 早苗は目を伏せた。

「褒めすぎだわ」

「そんなことないと思います。兄は、けっこう辛辣《しんらつ》で、めったに人を褒めない人でしたから。私の友達なんかでも、もう糞味噌《くそみそ》でしたし」

 高梨の思い出話に耽《ふけ》っていると、だんだん辛くなりそうだった。早苗は上着を脱いだ。身体を動かしている方が、少しは気が紛れるだろう。

「じゃあ、始めましょうか? 高梨さんの持ち物って、すごく量が多かったりしますから。特に本とか」

「あ、でも、北島さんに手伝わせるわけには。何かお持ちになりたい物を見つけたら、おっしゃっていただければ」

「お手伝いさせてください。もし、かまわなければ」

 圭子は微笑した。

「すいません。助かります。本当のこと言うと、主人も、接待ゴルフだとか言って来てくれませんでしたし、私一人で、どうしたらいいかって思ってたんです」

 早苗は部屋を見渡した。圭子は、机の引き出しを開け、山のようなフロッピーディスクを見た時点で、どうしたらいいかわからなくなっていたらしい。一つずつ内容を確認していくわけにもいかない。早苗は彼女と一緒に、とりあえず全部、段ボール箱に納めることにした。

「書庫の中は、もう、見ました?」

「いいえ。私、ここに来るの初めてで。それ、どこにあるんですか?」

 早苗は、仕事場の奥にあるドアを開けて、灯りのスイッチをつけた。

「ここがそうなんです。通路が狭いから、一人ずつしか入れませんけど」

 高梨の書庫は、通路の幅が一メートル足らずで、仕事場をL字型に取り囲むようになっていた。床や壁は剥《む》き出しのコンクリートのままで、裸電球に照らされて、天井まで書籍がぎっしりと詰まっている。ちょっとした本屋くらいの分量があるのではないか。

「これ、どうしたらいいんでしょう?」

 圭子は覗《のぞ》き込んで、途方に暮れたような声を出した。

「もし、処分なさりたいのでしたら、どこかに寄付したらいいと思いますけど。何冊か、稀覯本《きこうぼん》もあるはずですし」

「でも、もうそんな暇、ないですしねえ」

 圭子は、自分の見通しの甘さを後悔しているような表情で、書庫に入った。細い通路を蟹《かに》歩きしながら、本の背表紙を拾い読みしている。

「小説以外にも、何だか、難しい本が多いですね。哲学とか、心理学とか。やっぱり、図書館かどっかに寄付すべきかしら。あとは、けっこう、自然科学の本も多いみたい。図鑑みたいな。あら? これは……」

 圭子の声が、しばらくとぎれた。

「どうかしました?」

 書庫から出てきた圭子の顔は、少しこわばっていた。

「何か、あったんですか?」

「ええ。ああいうのは、あんまり見たくありませんでした……」

 それ以上は、何も言わない。早苗は、気になって書庫に入った。

 圭子が見つけたものは、すぐにわかった。L字を曲がったところにある、一番奥の書棚である。大量のビデオや大判の本などが並んでいたが、どれも真新しいところを見ると、比較的最近購入したものらしい。

 上の方の段には、写真や図版などが豊富な法医学書が並んでいた。それから、中段あたりに目を移して、早苗は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。大量の『死』をテーマにした書籍が集められている。それも、『鬼畜系』などと呼ばれる興味本位の本ばかりだった。さらに、下段には、ずらりとホラービデオばかりが並んでいた。タイトルからすると、ほとんどは、過激なスプラッターものらしい。およそ、高梨の生前のイメージにはそぐわなかった。

 早苗が書庫を出ると、圭子がつぶやいた。

「信じられません。兄が、あんなものを見るようになっていたなんて。私の知ってる兄は、残酷なものとかグロテスクなものが、大嫌いだったんです」

「ええ。それは、私もよく知ってます」

 早苗は、慎重に言葉を選んだ。

「でも、高梨さんは、アマゾンから帰ってきてからは、少し様子が変わったような感じでした」

「どうして? いったい何があったんですか?」

「それは、私にも」

 圭子は、死後、初めて知った兄の一面に、ショックを受けているらしく、言葉少なになっていた。

 結局、大量の書籍は、古本屋に売却し、一番奥の棚の本については、誰の目にもつかないように処分することになった。二人は、それからしばらくの間、一番奥の書架から、大量のビデオや写真集などを運び出しては、黙々と段ボールに詰めていった。それだけで、中型の段ボール六箱分にもなった。

「これ、どうします?」

「とりあえず田舎に送ってから、どこかで燃やすか、ゴミとして処分できるところを探します」

 圭子は、見るのも嫌だというように、段ボールから顔を背けた。

「でも、ここには、兄自身の本はあんまりないんですね」

 ぼんやりと部屋を見渡しながら言う。

「何冊か、持って帰ろうと思ってたんですけど」

 早苗は、はっとした。

「……近くに、貸倉庫があるんです。今もまだ、そこにまとめて置いてあるはずです」

「えっ。そうなんですか。知りませんでした。じゃあ、一応、そこも見てみないといけませんね」

 立ち上がろうとする圭子を、早苗は押しとどめた。

「もしよかったら、今から私が行って、どれくらい本があるか確認してきましょうか?」

「でも、それじゃあ」

「場所がちょっと、わかりにくいんです。二人で行くよりも、手分けした方が、早く片づくと思いますし」

 貸倉庫の鍵《かぎ》は、すぐに見つかった。早苗は、圭子の気が変わらないうちにと、鍵を持って高梨の仕事場を後にした。倉庫までは、早足で十五分近くかかる。初夏の風は爽《さわ》やかだったが、汗ばむような思いだった。

 倉庫にはいると、空調がきいてるはずなのに、かすかに黴《かび》臭い臭《にお》いが漂っていた。

 高梨の本は、防虫剤と一緒に倉庫会社の名前入りの段ボールに詰められて、スティールの棚に整然と納められていた。これだけの量を古本屋が引き取ってくれるとも思えない。ここにある本は、結局、このまま朽ちて行くしかないのだろう。

 早苗は、段ボールの数と内容をチェックしながら自分の心配は杞憂《きゆう》だったのかと思い始めていた。これ以上、圭子にショックを与えるには忍びないと思ったのだが、ここにあるのは、紛れもなく、高梨の自著ばかりのようだ。

 だが、最後列の棚の奥にあった三つの段ボールを見たとき、不審を感じた。表に、書名などがいっさい書かれていないのだ。

 最初の段ボールを開けてみると、簡易製本機で綴じたような、お粗末な装丁の本がぎっしりと詰まっていた。背表紙の文字からすると、洋書のようだ。一冊、抜き出してみる。中身は、仕事部屋にあった本と同様に写真集だった。だが、内容のおぞましさは、とても比較にならない。無惨に切り刻まれたり、焼け爛《ただ》れたりした死体の写真ばかりだ。その多くは東南アジア系と思われ、少なからず子供も混じっていた。

 気分が悪くなってきたので、早苗は本を閉じた。どんなに規制の緩やかな国でも、とても合法的に売られているものとは思えない。一応、ほかの本も見てみたが、大同小異だった。

 二つ目の段ボールには、VHSのビデオテープが詰まっていた。ケースには『Real Murder 1,2,3,4』『True Infanticide 1,2』『Super Snuff Series 1,2,3』などという手書きの文字が見える。

 三つ目のタイトルを見て、内容はほぼ想像がついた。以前、スナッフ・ビデオと呼ばれる、人殺しの瞬間を撮った映像が、闇《やみ》で取り引きされていると聞いたことがあった。それも、偶然撮影されたものなどではなく、最初からビデオを作る目的で殺人を犯すのである。

 おそらく高梨は、これらのビデオテープを、インターネットなどを通じた通信販売で入手したのだろう。こういう物に金を払うのは、間接的に殺人に荷担することになる。そのくらいの理屈が、彼にわからなかったはずはなかった。裏切られて悲しいというより、自分が現実に目にしているものが、どうしても信じられなかった。

 最後の段ボールを開ける。数本のビデオテープの横に、透明なビニール袋に入った一冊のルースリーフが入っていた。

 何だろう。早苗はビニール袋からルースリーフを取り出した。日本で主流の二十穴のものとは違い、リングが五つしかない。英文をタイプ打ちした紙が綴《と》じられている。右上には日付があり、日誌のような体裁だった。紙は変色し、一度|濡《ぬ》れてから乾かしたようにごわごわしていた。あちこちに、焼け焦げたような染みがついている。

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