そのとき、ルースリーフに挟まれていた紙束が、滑り落ちた。拾い上げると、一枚の紙と、一葉の写真だった。写真は、沢のような場所に、いびつなキノコに似た物体が点在しているように見えるが、逆光の上にピンぼけで、その正体は判然としなかった。
紙の方は、日誌に比べるとずっと新しかった。英字紙の記事のコピーらしい。
早苗は、ルースリーフをビニール袋に戻した。三つの段ボール箱の中身については、中を見ないで処分するよう勧めれば、圭子にはぴんとくるに違いない。
ルースリーフも、本来、圭子に手渡すべきなのはわかっていた。だが、その前に、何が書かれているのかを確認しておきたかった。もし、彼女や両親に、これ以上の苦しみを与えるような内容であるならば、見せない方がいいのかもしれない。
しかし、その考えは、我ながら言い訳じみていると思う。早苗にはなぜか、今手に握っているものが高梨の死の謎《なぞ》を解き明かす手がかりになるという、強い確信があった。
早苗は、高梨の形見となった太軸の万年筆を、掌《てのひら》の中で転がしてみた。圭子が、どうしても受け取ってほしいと言って、形見分けされた物だった。フロアスタンドの明かりを受けて、エボナイトの軸とペン先が、きらきらと輝いている。高梨は、ほとんど手書きで執筆することはなかったため、まだ新品のようだった。
それでも、高梨がこの万年筆を使っているところは、何度か見たことがあった。こうしていると、彼の生前の姿、それも、アマゾンヘ旅立つ前の元気な様子が脳裏によみがえってくる。
早苗が彼に惹《ひ》かれたのは、彼の文章の中に見え隠れしていた人となりだった。本人に会っても、その印象は変わらなかった。繊細で寂しがり屋だが、どこか自分を突き放したようなユーモアが持ち味だった。時には、悪のりがすぎて、世間の人が眉《まゆ》を顰《ひそ》めるようなブラックなジョークを連発することもあったが、その根底には、常にしっかりした倫理観があったはずだ。あまのじゃくで、世間のしきたりや法律にはあまり敬意を払わなかったが、人として、何が正しくて何が間違っているかは、しっかりとわきまえていた。
それだけに、今回、彼が取った行動は、早苗にはひどいショックだった。
早苗は、机の上にあるルースリーフに目を落とした。これは、高梨のメールの中にあった、アメリカ人夫妻の遺品に違いない。彼は、この日誌をしかるべきルートを通じて遺族に返却すると書いていたのではなかったか。にもかかわらず勝手に日本に持ち帰ってきたのだ。
その理由は、倉庫の中で発見されたスナッフ・ビデオ等と考え合わせると、おのずから明らかだった。高梨は、死愛好症《タナトフイリア》がこうじて、『死』に関するコレクションを始めていた。そして、この日誌もまた、そこに加えようと考えたのだ。とても信じたくない、信じがたいほどの倫理的な麻痺《まひ》である。少なくとも、以前の高梨からは、とても考えられない行動だった。
ルースリーフに挟んであった紙は、サンパウロで発行されている英字紙のコピーだった。高梨がわざわざ探し出してコピーを取り、添付したものだろう。彼の人格そのものに疑いを持たざるを得なくなってきた今、その熱意にも、どこかうそ寒いものを感じずにはいられない。
記事は、ショッキングな内容の割には簡単な、ベタ記事に近い物だった。たぶん、書くべき材料がそれほどなかったからだろう。
アメリカの霊長類学者、ロバート・カプランとジョーン・カプランの夫妻は、数年間、アマゾンに住んで、オマキザルの生態調査をしていたが、ロバートが突発的に精神に異状をきたし、妻のジョーンを殺害し、自殺したのだという。
敬虔《けいけん》なクリスチャンであり、自殺すら禁じられている彼が、深く愛していた妻を惨殺し、頭から十リットルのケロシンをかぶって自ら火をつけた理由は謎である。ブラジルの警察が発見したとき、遺体は二つともほとんど黒焦げの状態だったらしい。
『黒焦げ《バーント・ブラック》』という言葉に、高梨はご丁寧にアンダーラインを引いていた。
早苗は、ルースリーフの方に目を転じた。オマキザルの研究日誌だということはわかっていたが、英和辞典を片手に、もう一度きっちりと翻訳を試みる。
日誌は、カプランの妻ジョーンがタイプしたものだった。前半部分は、アカウアカリ(Cacajao calvus rubicundus)というサルの生態と、彼らがときおり見せる異常な行動について、事細かに記してあった。ウアカリは通常、数十頭から、時に百頭以上の大きな群れを作るが、その群れから一頭だけを放逐することがあるのだという。犠牲者である一頭が遠くへ立ち去るまで、群れ全体で歯をむき出して激しく威嚇し、木の実をぶつけたりするらしい。
なぜ、そういう現象が起きるのかは不明らしかったが、放逐された個体は、その直前に、異常に貪食《どんしよく》になったり、群れの中で無差別な求愛行動をとったりしていることが多いという。ジョーンはこれを、群れの秩序を乱したことに対する一種のペナルティーだと考えていた。
不思議なことに、追放された個体はどれも、野生とは思えないほどの、一種超然とした穏やかさを示していたらしい。人間に対しても、まったく恐れる様子はなく、逆に近づいてきて、じっと眺めているという。ジョーンは、彼らを『|隠者たち《ハーミツツ》』と呼んでいた。
動物に対して、常に優しい心で接するジョーンには、早苗も共感できる面が多かった。彼女は、群れから追放された『|隠者たち《ハーミツツ》』を保護し、まめまめしく世話していたらしい。特に、自力で生きていけないと思われる個体には、餌《えさ》を口移しに与えるようなことまでして、可愛《かわい》がっていたようだ。
極端に活動性が低下し、警戒心も見せない『|隠者たち《ハーミツツ》』は、放置しておくと、ジャガーやオウギワシなどの天敵に簡単に捕食されてしまうので、わざわざ百平方メートルほどのスペースを網で囲い、その中で飼育していたという。
日誌は、中程にさしかかったあたりから、読む者を困惑させるくらい、がらりとトーンが変化していった。前半の観察日誌からは趣が変わって、アマゾンの自然を賛美するエッセイになっていく。
早苗は、既視感《デジヤ・ヴユ》のようなものを感じた。どこかで同じような変わり方をする文章を見たおぼえがある。しばらく考えてから、それが、高梨の電子メールであることに気がついた。
終わり近くなってから、日誌には、再び異変が現れる。突然、 |『守護天使』(ガーデイアン・エンジエル) への言及が始まった。
「鳥《バーデイ》、それとも守護天使《ガーデイアン・エンジエル》なの?」「|まどろみ《ドラウズ》の中で、私は、彼らが|羽搏く《フラツピング》のを聞く」「彼らは、私の頭の中で|囀る《チヤープ》」「無意味な言葉の羅列。洪水」「私のことを話している」「絶えず守護天使《ガーデイアン・エンジエル》たちが私に投げかける質問。言葉。言葉。言葉」
早苗は、背筋が寒くなった。高梨の『天使が囀《さえず》っている』という幻聴にここまで酷似しているのを、はたして単なる偶然と片づけていいのだろうか。
日誌は、唐突に終わっていた。
その後に代わって綴《つづ》られていたのは、夫のロバート・カプランの手書きの文章だった。
これはやはり、遺書と考えるべきだろう。読みながら、早苗はそう思った。あらためて、高梨の無分別な行動に悲しみを感じる。
ロバートの大きく歪《ゆが》んだ文字には、激しい感情的な動揺が見られた。妻ジョーンに対する想い。ノスタルジックな回想。大恋愛の末、結婚。お互いのライフスタイルを尊重し、当分の間、子供は作らないと決めたこと。だが、彼女の子宮ガンが判明して、摘出手術を行うことになった。ジョーンは、子供を産めなくなってからは仕事に捌《は》け口を求め、野生のサルに愛情を注いできた。
感傷的なタッチの文に、突然、狂ったような呪《のろ》いと罵倒《ばとう》の文句が混じる。頻繁に出てくるようになった、"Eumenides" という言葉が、その対象らしい。
「彼らは、姿が見えない」「幻覚を与える」「親切を装いながら、実は生《い》け贄《にえ》を求めているのだ」などという文章が続く。行間からは、書き手の剥《む》き出しの恐怖が伝わってきた。
"Eumenides" という言葉を英和辞典で引いてみると、「≪ギリシャ神話≫エウメニデス。復讐《ふくしゆう》の女神たち。ギリシャ語で『親切なものたち』の意の逆説的表現」という説明があった。
早苗は、時計を見た。午前一時過ぎである。普通の人に電話をかけるには非常識な時間だが、昔から宵っ張りの黒木晶子なら、まだ起きているに違いない。
案の定、晶子の番号をプッシュすると、ワンコールで出た。
「もしもし。黒木ですけど」
「あ。早苗です。遅くにごめん。ちょっと、聞きたいことがあって」
「うん? 何?」
「エウメニデスって何だか、教えて欲しいの」
黒木晶子は、早苗の高校時代の親友で、同じ大学の文学部に進み、現在は母校の講師だった。世界各国の神話の比較研究が専門だった。
「へえ? いいけど。でも、何でまた?」
もっともらしい説明は、あらかじめ用意してあった。
「詳しいことは話せないんだけどね、ある患者さんが妄想に悩まされていて、それに関係しているらしいの。絵を描いて、それがエウメニデスだって言うのよ」
「へえ。その人、よく、こんなの知ってたわね」
晶子は疑わなかったようだ。早苗は、親友に嘘《うそ》をついたことに罪悪感を覚えた。
「エウメニデスっていうのはね、ギリシャ神話に出てくる悪鬼《フユーリーズ》……っていうか、復讐の女神たち、エリニデスの異称なの」
「フューリーズ……エリニデス?」
「まあ、その辺はいろんな呼び方があるんだけど」
「復讐の女神たち[#「たち」に傍点]ってことは、何人もいるわけ?」
「……たしか、アレクト、ティシフォネ、メガイラの三人ね。翼がある上に、髪の毛がすべて蛇っていうから、かなり怖いわよ」
「髪が蛇なんて、ゴルゴンみたいね」
「おそらく、ギリシャ人が恐怖を具象化すると、そうなるのね。しかも、両手には輝く松明《たいまつ》と鞭《むち》を持ってるの。ほとんどSMの女王様のノリでしょう? それで、どこまでも罪人を追いかけて苦しめ、発狂させるっていうんだから、洒落《しやれ》んなんないわよ」
「それが何で、『親切なる者』なんて呼ばれてるの?」
「皮肉が半分で、畏《おそ》れが半分っていうとこかな。悪鬼《フユーリーズ》なんて呼んで、怒らせたくないからってことね。善良なギリシャ人もそうなんだけど、特に罪の意識を持ってる人は、この女神をすごく怖がってたらしいわね。ちょっと、現代人には想像がつかないくらい」
晶子は、まじめな声になった。
「だから、もしかすると、その患者さんっていう人も、何かの理由で罪の意識に苛《さいな》まれてるのかもしれないわね。まあ、その辺は、あんたの方が専門家だけど」
いいかげんな作り話で罪の意識を感じているのは、早苗の方だった。晶子に礼を言って電話を切ってから、彼女は考え込んだ。
カプランが、この言葉で示そうとしたものは、いったい何だったのだろうか。
頭髪が蛇というイメージは、医学的に、どう解釈できるだろう。
無意識の罪悪感から、復讐を恐れる気持ちが働く。怒り、恐怖などが引き金となって、交感神経の緊張で立毛筋が収縮し、体毛が逆立つ。古語の『髪の毛太る』というのも、これに近い状態を表しているのかもしれない。
一方で、ギリシャ彫刻のメドゥーサなどの姿から早苗が連想するのは、人間の頭の中でとぐろを巻いていた危険な蛇、すなわち妄想、激怒、憎悪、攻撃への欲求などが、今にも外に現れ出ようとする恐るべき瞬間だった。
早苗は再び、迷信じみた恐怖にとらわれた。高梨は、天使の羽音と囀りを聞いていた。彼をはるばるアマゾンから追ってきたのは、本当は、復讐の女神だったのではないのだろうか。
もう一度、カプランの手記に戻る。すると、「ついに "Eumenides" の正体を発見した。"Pseudopacificus cacajaoi" と命名する」という意味の文章にぶつかった。"Pseudopacificus cacajaoi" というのも、ギリシャ語かラテン語らしい。英和辞典を引いても、似た言葉さえ載っていなかった。だが、もう一度晶子に電話をかけるのは、さすがに気が引けた。
ふと、インスピレーションが閃《ひらめ》いた。これは、何かの生物に付与された学名なのではないだろうか。
早苗の生物学の知識は、高梨より少ないくらいだったが、それでも、二名法の学名の前半部分は属名で、後ろが種名だということくらいは知っていた。
パソコンを起動し、インターネットで検索をかけて、生物学のデータベースを探す。使用したキーワードは、"scientific name" や "biology" "zoology" などである。慣れない分野なので、なかなか見つからなかったが、ようやく、Biosis 社の生物の学名専用の検索エンジンを捜し当てた。
スペルを間違わないよう慎重に、"Pseudopacificus cacajaoi" と入力し、検索してみるが、そういう生物は存在しないという回答だった。念のために、唯一覚えている学名である、"Lynx lynx" で検索してみると、ちゃんと、オオヤマネコらしき説明が出てきた。だとすれば、"Pseudopacificus cacajaoi" なるものは、もしカプランの妄想でないとするなら、彼が発見した新種の生き物で、まだその名前は学会には登録されていないのかもしれない。生物種の宝庫であるアマゾンでは、多くの生物が絶滅する一方で、今日でも新種が次々と発見されているのだ。
今度は、インターネットでラテン語の辞書を探してみた。運良く、こちらはすぐに見つかった。"cacajaoi" という種名は、ウアカリのことだろうと見当がつく。ジョーンの書いた観察日誌に、アカウアカリの学名が "Cacajao calvus rubicundus" とあったからだ。問題は属名だった。
ネット上の辞書には "Pseudopacificus" という言葉はなかったが "pseudo-christus" が『偽りのキリスト』で、"pseudo-episcopus" が『偽司教』、"pseudo-propheta" が『偽預言者』であるところから、"Pseudo" は、『偽の』という意味の接頭辞だと推測できる。
残る "pacificus" は "Pax+facio" で、『平和を与えるもの』という意味だった。だとすると、属名である "Pseudopacificus" は、『偽りの平和を与えるもの』とでもなるのだろうか。
今わかるのは、ここまでが限界のようだった。早苗は、インターネットとの接続を切った。
それにしても、『ウアカリに偽りの平和を与えるもの』とは、いったい何だろう。
早苗は、カプランの手記の最後に、ふと目を留めた。"Typhon!" という謎《なぞ》めいた言葉の殴り書きで終わっている。その前の文章は、「ケイジの中のサルを見に行った」だった。
"Typhon" というのは、おそらく "Typhoon" のスペルミスだろう。だが、アマゾンのジャングルにおける『台風』とは、いったい何を意味しているのだろうか。
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六章 聖 餐
バスは、林の中の細い道を縫って走っていた。単調な景色は、どこまで行っても変わり映えしない。信一は、ぼんやりと窓の外を眺めながら、このひょろひょろと伸びた貧相な木々はシラカバだろうかと思った。とはいえ、樹木に関する彼の知識を総動員したところで、自信を持って言えるのは、それがヤシの木ではないという程度にすぎない。
木立の間からは、ときおり、金持ちの別荘か企業の保養施設らしき洒落《しやれ》た造作の建物が垣間見《かいまみ》える。自分には一生縁のない場所だと思い、信一は冷たい目を向けた。だいたい、個人でこんな物を所有できるのは、悪いことをしているやつに決まっている。企業も、まず間違いなく悪徳企業だ。大規模な森林火災でも起こって丸焼けになってしまえばいいのに、などと思う。
しかし、こうやってバスに揺られているのは、決して悪いものではなかった。いつもの見慣れた景色から一歩外へ踏み出すだけで、ずいぶんと気分転換になるものだ。この前、旅行と名の付くものに出かけたのは、いつのことだっただろうか。
信一が何よりも楽しんでいたのは、目的地に向かって前進しているという感覚だった。幸いなことに、東京を出てから、一度も渋滞には巻き込まれていない。このあたりでも、夏になれば、どっと観光客が押し掛けるのだろうが、今時分は、まだ道路はすいているようだ。少々|口惜《くや》しいが、自分が、遠足に行く小学生のようにわくわくしているのは、認めざるを得ない。それにはまた、別の理由もあった。
信一は、伸びをするような格好をして、さりげなく身体を起こし、バスの前の方の座席にいる少女を盗み見た。
少女とは言っても、もしかすると、もう二十歳をすぎているかもしれない。隣に座っているおばさんと何事か話しながら、しきりに口元に手を当てて笑っている。その仕草が、日頃女性と接することの少ない信一には、新鮮に映った。知的で楚々《そそ》とした感じが漂っているところ、どこか『天使が丘ハイスクール』の中の『若杉|美登里《みどり》』というキャラクターを思わせるのだ。信一は、『オフ会』で彼女を見かけて以来、心の中で勝手に彼女を『美登里ちゃん』と呼ぶことに決めていた。これから一週間、彼女の近くにいられるということだけでも、胸が躍る。やはり今日は、思い切って参加することに決めて、よかった。
「あの子、かわいいっすね」
信一の隣に座っていた青年が、ぽつりと言った。信一は、心の中を見透かされたような気がして、彼の顔を見た。一度だけ、『オフ会』で話したことがある。そのときはまだ、会員同士はチャットでのハンドル・ネームを使うというルールをよく知らなかったので、本名を名乗りあった。記憶では、畦上《あぜがみ》友樹という名前で、信一よりは少し年下だったはずだ。ハンドル・ネームは、たしか、『ファントム』だったと思う。
『ファントム』君は、信一の視線に合うと、パニックに襲われたように顔をそむけた。細面の色白の顔に、ぱっと赤みが差す。顔を掌で覆い、その隙間《すきま》からそっとこちらを見ているのには、信一は呆《あき》れた。顔立ちはけっこう整っている方なのに、他人に見られているのを意識したとたん、彼は、いつもこういう過敏な反応を示すようだ。もちろん、その理由は、信一には知る由もない。
「あの子の名前、知ってるの?」
信一が、なるべく彼の方を見ないようにしてやると、『ファントム』君は、ほっとしたように手を下ろして答えた。
「本名とかは、わかんないすね。でも、ハンドル・ネームは、『トライスター』っていったと思いますけど」
「えっ。あの子が、『トライスター』だったの?」
チャットにその名前でなされた書き込みは、数こそ多くはなかったが、信一の記憶には深く刻まれていた。真っ直ぐで建設的な意見の持ち主という印象だったが、そのくせ、ふつうの人には気が付かないような鋭い部分も持ち合わせている。信一も、二、三度、直接意見を戦わせたこともあったが、とても敵《かな》わないと思って、すぐに自説を引っ込めたものだった。
それにしても、『トライスター』ってなんのことだろう。三つの星……。オリオン座のことだろうか。昔、そういう名前の旅客機もあったけど、まさか、スチュワーデスだったなんてことはないだろうな。……そう言えば、偶然だろうけど、『ファントム』っていうのも、戦闘機だ。
「で、隣で話してるのが、『憂鬱《ゆううつ》な薔薇《ばら》』おばさん」
「えっ、あれが? 嘘《うそ》だろう。勘弁してよ」
信一は、思わず口走っていた。『オフ会』で顔だけは見覚えがあるが、細い目に厚ぼったい唇をした中年女性である。
彼は、少なからずがっかりしていた。『憂鬱な薔薇』なる人物が女性であることは見当が付いたし、彼が、人生に対して投げやりで悲観的な意見を書き込んだときには、優しく、かつ諄々《じゆんじゆん》と教え諭してくれたからだ。そのため、信一は、てっきり『憂鬱な薔薇』なる人物は、若くて魅力的な女性だと思い込んでしまっていた。さらには、幾分かの願望も手伝って、『美登里ちゃん』イコール『憂鬱な薔薇』だと、一人決めにしかけていたのである。
俺《おれ》の感じたときめきを返せと、信一は心の中で叫んだ。だが、すぐに、まあいいやと思い直す。『美登里ちゃん』は、ちゃんと合宿に参加しているのだし、ハンドル・ネームまでわかったのだから。
信一は、彼女の後ろ姿を見ながら、ふと、自分がこうしてバスに揺られていること自体が、ひどく不思議な気がした。少し前までの自分であれば、とても考えられないことだ。
最初は、冷やかし半分だった。偶然見つけた『地球《ガイア》の子供たち』のホームページに、それほど興味を引かれたわけではない。現代人のストレス、地球環境の悪化など、彼にはまったく関心のないことが長々と書き連ねてあるだけなので、すぐに退屈してしまった。ただ、『美歌《みか》&絵瑠《える》』のグラフィックスが彼を誘っているように見え、接続を切ってからも、ずっと心に残っていた。馬鹿げているとは思ったが、何となく、彼女たちを見捨てたような罪悪感を感じたのだ。『天使が丘ハイスクール』というゲームは、今では彼の感情生活のすべてと言ってもよく、登場するキャラクターは、彼の行き場のない愛情の、感傷的な捌《は》け口となっていたからである。
信一は、『地球《ガイア》の子供たち』の『チャット』の指定日に、もう一度接続してみることにした。もちろん、自分で書き込みをするつもりは毛頭なく、ただ、どんなことを話しているのかと思っただけだった。
あくまでも自分の身は安全圏に置いておき、ヤバそうな話があれば、接続を切ってしまえばいい。画面上でクリックしているうちに、こちらを特定する目印となる『Cookie』と呼ばれるプログラムをハードディスクに送り込まれる可能性はあるが、そんなものは、あとで掃除することはできるし、もう一度同じホームページに接続したりさえしなければ、向こうからこちらを突き止めることはできない。
そう思って、こわごわ覗《のぞ》いてみた『チャット』だったが、意外なことに、彼はこれにすっかり嵌《は》まってしまった。
ふつうチャットと言われるものは、文字通り、参加者たちの気ままなおしゃべりに終始するのだが、『地球《ガイア》の子供たち』でのそれは、はっきりとした目的を持った、一種の公開人生相談とでも呼ぶべきものだった。
まず、一人の相談者が個人的な心の悩みについて語り、それに対して、ほかの参加者たちが意見を述べるという形式らしい。信一は、最初のうちこそ、斜に構えた冷笑的な態度で参加者の発言を読んでいたが、いつのまにか、そこで交わされる真剣な討議に引き込まれていった。
参加者の多くは、相談者の苦しみに真摯《しんし》に耳を傾け、一緒になって解決策を探ろうとしていた。もちろん、信一と同じように、冷やかしでチャットを覗きに来た人間の中には、悪ふざけとしか思えないような意見を述べる者もいた。だが、そういう書き込みは、ほとんどの場合、単に無視された。しばしばほかの会議室で見られるような罵倒《ばとう》の嵐《あらし》を期待していた人間は、退屈するのか、一人去り、二人去りしていった。
信一は、それまで、こういう集まりを、同病相哀れむようなものとして馬鹿にしていた。だが、一人のために、大勢の人間が一生懸命に知恵を絞り、激論しているのを見るうちに、いつしか感動を覚えていた。そもそも、こういうぺージに興味を持つということは、参加者のほとんどが、対人関係に何らかの悩みを抱えているからだろう。にもかかわらず、多くの人間が、(おそらく日頃とは別人のように)積極的に発言し、打てば響くようにテンポよく議論が進む。これは、一つには、仲間の救済というはっきりとした目的があるためかもしれない。
また、議論が変に煮詰まってきたり、雰囲気が緊迫しすぎたりしたときには、必ず誰かがジョークを差し挟んだりして、巧みに場の緊張をほぐすのだった。特に、半ば司会役のようになっている『めめんと』という人物が発言するタイミングの絶妙さには、信一は感心しきりだった。
参加者たちも、みな、表面では堂々と意見を述べながらも、実は、そうした小さな齟齬《そご》が諍《いさか》いにまで発展するのを、心の底では恐れていたのかもしれない。逆に言えば、そういう人間ばかりが集まっているからこそ、決定的な対立が回避され、討論が長続きしているのかもしれなかった。
長く議論をしているうちに、参加者の間には、ある種の一体感が醸成されてきた。信一は、ますますこの場を立ち去りがたく感じるようになり、思い切って、自分でも書き込みをしてみた。どうせ自分の意見など、無視されるか、冷たく一蹴《いつしゆう》されるかと思っていたのだが、予期に反して、返ってきたのは真面目《まじめ》で好意的な反応ばかりだった。信一は、他人から是認してもらうというのは、これほど心地よいものなのかと驚いた。それは、ほとんど忘れかけていた感覚だった。彼は味を占めて、何度も書き込みを行い、ますますチャットにのめり込んでいった。
一見素朴で融通の利かない真面目さは、しばしば誠実さと誤認される。また、控えめなユーモアは、その場の緊張を和らげるだけでなく、自分たちが客観性を失っていないかのような幻想を共有させて、連帯感をいや増す効用がある。この二つの組み合わせが、最も効果的に人間の警戒心を解除することは、いくつかのカルト宗教などがすでに実証済みである。
信一は、ほんの一瞬だけ、自分たちが釣り針に掛かった魚であるような気がしたが、そう考えることは不愉快だったので、すぐに忘れてしまった。
そして、議論が出尽くしたときに現れたのが、『庭永先生』なる人物だった。(ハンドル・ネームは単に『庭永』となっていたが、古参らしき会員たちが、『先生』をつけて呼んでいたので、他の会員も自然にそれに倣《なら》うことになった)
『庭永先生』のアドバイスでは、いかなる悩みもほとんど一刀両断という感じだった。堂々巡りの議論に疲れた参加者たちにとって、それは神託にも等しいように感じられた。誰もが彼の言葉の明快さに感激し、自分の悩みにも解決策を与えてくれるのではないかと期待しているのがわかる。
信一も、その例に漏れなかった。彼はいつしか、チャットのある日を心待ちにするようになり、つい先日、初めての『オフ会』に参加したのだった。
『庭永先生』は、思った通りのすばらしい人物だった。先生の語る言葉自体に、それほど新味があるわけではなかったが、その声音には、本物の喜びと確信がこもっていた。『庭永先生』の謦咳《けいがい》に接することのできた参加者は、たちまち、彼のカリスマ性の虜《とりこ》となってしまうのだった。
今見回してみても、そのときの『オフ会』に出席した参加者のほとんどが、一週間のセミナー合宿に参加するために、バスの中に揃《そろ》っているようだった。
東京から一時間四十分ほどバスに揺られて、ようやく目的地に到着した。セミナーハウスは思ったより大きく、大勢が長期間泊まり込みで生活できるような造りになっている。一階には、食堂と厨房《ちゆうぼう》、テレビとソファのある休憩室のほか、ちょっとした銭湯くらいのサイズの大浴場があった。二階はすべて畳敷きの和室になっている。こちらは、研修と寝泊まりに使うのだろう。間仕切りの襖《ふすま》をすべて取り払うと、五十畳くらいはありそうだ。
一応、男女に分かれて荷物を置く場所を決める。修学旅行(信一には一度も経験がなかったが)のようにわくわくしていた。信一は、『ファントム』君の隣に荷物を置く。
「『サオリスト』さん。よろしくお願いします」
『ファントム』君は、嬉《うれ》しそうに言った。『サオリスト』というのは、信一の使っていたハンドル・ネームである。『ファントム』君は、年齢の近い信一に妙に親しみを感じているらしかった。信一は、当惑気味に挨拶《あいさつ》を返す。
『めめんと』氏がやってきた。『オフ会』でも司会をしていたので、単に古参の会員というよりは、むしろ『庭永先生』の秘書のような存在なのかもしれない。三十代の半ばくらいの小柄な男で、前歯がひどく突出している。だが、本人は、容貌《ようぼう》に関するコンプレックスなどはまったく持っていないらしい。貧相ではあるが、親しみのこもった笑顔で、全員に研修の日程表を配る。それによると、毎朝、七時起床。体操と散歩の後朝食、食器洗いと部屋の清掃、午前の部の研修、正午に昼食、休憩時間一時間を挟んで午後の部の研修、入浴、夕食、後かたづけ、さらに夜の研修、十一時就寝という順だった。
睡眠時間はたっぷり八時間もあるし、さほどきつい時間割とは言えないだろう。この種のセミナーでは、しばしば参加者を睡眠不足に陥れて正常な判断力が働かないようにしたがるものだが、『地球《ガイア》の子供たち』では、そんな姑息《こそく》なテクニックは用いるつもりはないようだった。
今日はすでに夕方になっており、夕食までの間、部屋の掃除をすることになっていた。信一は、流し場までバケツに水を汲《く》みに行った。隣に誰か来たと思って目を上げると、『美登里ちゃん』だった。どきりとするが、目が合ったので、お互いに会釈する。彼女は、なぜかバケツの柄に赤い縁取りのあるハンカチを巻きつけて持っていた。ジーンズのヒップ・ポケットからウェットティッシュのようなものを出して、丁寧に水道の蛇口を拭《ふ》く。かすかにアルコール臭がかおった。
「研修、どんなことするのかしら?」
ふいに『美登里ちゃん』から話しかけられて、信一は、へどもどした。二次元の美少女相手になら、いくらでも大胆になれるのだが、3D、つまり三次元の世界に住む生身の女の子と話すのは、極度に苦手だった。
「さ、さあ。僕も初めてだから……」
「みんなで寄ってたかって、一人の人を吊《つる》し上げるようなことするって、聞いたことあるけど……」
「えっ。それって、『地球《ガイア》の子供たち』で?」
ぎょっとして、彼女の顔をまじまじと見る。
「ううん。ふつうの、会社の新人研修なんかでやるやつ」
信一は、ほっとした。
「……どうかな。ここじゃきっと、そんなことしないと思うよ」
「そうね。たぶん」
彼女の横顔には、どこか憂いが漂っているように見えた。
「『美登里ちゃん』は……」
そう言いかけてから、あわてて口をつぐむ。しまったと思った時には、もう遅かった。『美登里ちゃん』は、しばらくぽかんとしていたが、左手で口を押さえながら、のけぞるようにして大笑いした。
「何それ?……おかしい。わたし、ミドリなんて名前じゃないわよ」
「いや、ちょっと、ほかの人と間違えて」
「へーえ? でも、そんなハンドル・ネームの人、いたっけ?」
「いやまあ、深く追求しない」
信一は、耳たぶまで赤くなるような気がした。
「わたし、『トライスター』よ。ちゃんと覚えといてね」
「あ。……うん。僕、君とチャットしたことあるよ」
「そうでしょ。『サオリスト』さん」
「えっ」
『美登里ちゃん』は水道の栓を止めると、ポリバケツを持って、にやにやしながら立ち上がった。
「ミドリちゃんのことなんか考えてたら、サオリちゃんに悪いんじゃない?」
部屋の掃除をしている間中、『ファントム』君は何度か不思議そうな顔で信一を見た。自分ではわからなかったが、どうやら、よほど舞い上がった状態だったらしい。
掃除が済むと、夕食だった。ホワイトシチューとご飯、それにサラダという、ごくふつうのメニューである。味はまず、可もなく不可もなしと言ったところである。調理をするのも、手伝うのも、すべて古参の会員らしい人たちだった。さっき通りすがりに、信一がちらっと見たら、一階の厨房には、業務用らしい大型冷蔵庫があった。ひょっとすると、シチューなどは、あらかじめ人数分を作って冷凍しているのかもしれない。
食後の休憩の後、大広間で夜の部の研修が始まった。とは言っても、これが最初の研修なので、最初のうちは、全員、勝手がわからずに、ただざわめいているだけだった。ざっと見たところ、セミナーの参加者は、総勢、四、五十人といったところだろう。信一が参加した第一回の『オフ会』の後、第二回も行われたはずなので、半分はその時の参加者だろう。
『めめんと』氏から、男女混合で四、五人ずつグループを作るよう指示され、混乱はいや増した。まだ自己紹介もしておらず、いきなり声をかけるのも少し躊躇《ためら》われるところだった。
「ねえ、わたしたちとグループ作りましょうよ」
信一が振り返ると、『憂鬱《ゆううつ》な薔薇《ばら》』おばさんが立っていた。隣には、『美登里ちゃん』こと『トライスター』さんが(どちらも本名ではないが)いる。どうやら、信一と、そばにいた『ファントム』君に向かって声をかけたらしい。
「いやあ。助かります」
『ファントム』君は、素直に感謝を表した。信一も黙ってぺこりと頭を下げたが、緩みそうになる頬《ほお》を引き締めるのに苦労した。
研修の最初のプログラムは、自分の悩みについて、率直に打ち明けるというものだった。もちろん、チャットですっかり話している会員もいたが、大部分の参加者は、まだ、そういう機会には恵まれていなかった。
今回は、お互いに面と向かってしゃべる上に、きちんとルールが定められていた。聞き手に回った後の三人は、けっして話し手を批判したり、解決策を押しつけたりしてはいけない。ひたすら話を引き出すようにしながら、悩みの根本原因と思われることまで遡《さかのぼ》っていくのが目標だった。これは、この手の人格改造セミナーでよくあるような、一人を一度大勢でこてんぱんにやっつけてから、最後の最後に肯定してやるという手口とは対照的で、信一は好感を抱いた。