「最初は、誰からにしましょうか?」
『憂鬱な薔薇』おばさんには、この面子《メンツ》の中では比較的リーダーシップが備わっていたらしく、いつのまにかグループを仕切っている。
おばさんの視線を受けた『美登里ちゃん』は、信一を指さした。
「ダメよ。人を指さしたら……」
おばさんは、なぜかあわてたように『美登里ちゃん』の指を押さえた。
「でも、『サオリスト』さん。ご指名があったから、最初にやってくれるかしら?」
「はあ」
信一は気が進まなかったが、彼がトップバッターになることは、いつのまにか決められてしまったようだった。不承不承、口を開く。
「ええと。何から話したらいいのか……」
「質問」
『美登里ちゃん』が手を挙げた。
「サオリちゃんって、誰ですか?」
「いや、それは……」
さすがに、パソコンの恋愛ゲーム《しかもHゲー》のヒロインだとは言いにくかった。
「まあ、それは、おいおい、ね」
『憂鬱な薔薇』おばさんが助け船を出してくれたが、この分だと、いつかはしゃべらされることになるかもしれない。
「みなさん、お互いに、チャットで、ある程度の予備知識はありますよね。そこから質問をしていった方が話が早いんじゃないすか?」
『ファントム』君が提案した。おばさんがうなずく。
「そうね。じゃあ、わたしからでいい? わたしが聞いた範囲だと、『サオリスト』さんの現在の最大の悩みは、未《いま》だに定職に就いていないということだったと思うけど」
「はあ」
「今、いくつなんですか?」
「二十、八……です」
『美登里ちゃん』の質問に、信一は小さな声になった。
「仕事ですかあ。別に、そんなに気にすることないんじゃないすか?」
『ファントム』君が、我が身を省みたのか、暗い声で言った。
「でも、『サオリスト』さんの場合は、そういうことじゃないんでしょう?」
『美登里ちゃん』が口を挟んだ。
「どっちかって言うと、人間関係が問題なんじゃないんですか?」
「それは、たぶん、ここにいる全員がそうですよ」と、『ファントム』君。
「でも、わたしは、『サオリスト』さんの場合は、そこに問題のすべてがあったような気がするの」
「まあまあ。決めつけちゃだめ。まずは『サオリスト』さん自身から、話してもらいましょうよ」
『憂鬱な薔薇』おばさんが、割って入った。
「どうなの? あなた自身は、何が一番問題だったと思う?」
信一は考え込んだ。
「それは……やっぱ、僕自身が」
「あなた自身?」
「やっぱ、性格に問題があったし……」
「別に、そんなことないと思いますよ」
『ファントム』君が言う。
「わたしも違うと思うな」と『美登里ちゃん』。
「自分のせいにするのは、ある意味、一番簡単だけど、そこで思考停止しちゃったらダメだと思う」
「あなたは、自分を責めすぎるんじゃないかな。わたしも昔はそうだったけど、自己否定っていうのは、最悪の結論よ」
『憂鬱な薔薇』おばさんも口を添えた。
「だけど……」
口ごもりながらも、信一の心の中には暖かいものが流れていた。これほど周囲から自分を肯定してもらったというのは、彼にとって生まれて初めての経験だった。
「でもやっぱ、僕が悪いっていうか……。何をやっても、すぐに『怠け心』が出てきて、『失敗』ばっかで」
「誰かがそう言ったの?」
『美登里ちゃん』が尋ねた。
「えっ?」
「誰かに言われてたから、あなたもそう思うようになったんでしょう?」
信一は絶句した。
その瞬間、幼い頃の情景が脳裏に甦《よみがえ》った。
テーブルの上一面に置かれた、たくさんの厚紙。途方に暮れたような感覚。手足にびっしょりと汗をかいていたため、台所の椅子《いす》は、ビニールのクロスがつるつる滑って、ひどく座り心地が悪かったこと。
「昔、子供の頃、そう言われてたかも……」
「誰から?」
「ママ……お母さんから」
「どうして、そんなことを言われたのかな?」
「覚えられへんかったから。九九を」
我知らず、信一は子供のような口調になっていた。
「それは、あなたがいくつくらいの時だったの?」と、おばさん。
「三歳……くらい」
『美登里ちゃん』たちは、顔を見合わせた。
たくさんの厚紙のイメージは、焦点が合うように鮮明になった。マジックインキで、1から144までの数字が書かれている。かなり癖のある、母親の字だ。
信一の前には、母親が苛立《いらだ》った表情で座っていた。手には、九九の式を書いた大判の画用紙を持っている。信一には、これまでの経験から母親の顔色を読んで、すでに爆発寸前であることがよくわかっていた。心の中で、気をつけた方がいいぞと警告する声が聞こえる。だが、信一には、すでに椅子に座っていること自体が苦痛でしょうがなくなっていた。彼はもぞもぞと身動きし、頻繁に溜《た》め息をついた。
『八九は? 信一。八九は? さっき教えたでしょ?』
信一は腹が減って混乱し、完全に嫌気が差していた。こんな事は、もう続けたくない。それでも、母親の指し示す紙に注意を払おうとはしていたのだが、つい疲労から、よそ見をしてしまった。とたんに、容赦なく母親の手が飛んできた。
『信一!』
信一は、わっと泣き出した。すると、母親はますます激昂《げつこう》する。
『なんで泣くの? 全部、あんたのために、やってるんやないの!』
母親は、画用紙をテーブルの上に叩《たた》きつけた。小さな子供にとっては、その激しい剣幕は、大人には想像がつかないくらいの恐怖だった。
『どうしてわからへんの? え? どうして、もっと集中できへんの? え? 言いなさいよ。ママが、こんだけ一生懸命になってるのに、なんで、あんたは、いっつも、いっつも、そうなのよ!』
髪の毛をつかまれて、ヒステリックな打擲《ちようちやく》を受けながら、信一は、また激しく泣いた。幼心に、すべて自分が悪いんだと思っていた。自分がダメだから、ママをこんなに怒らせてしまったのだ……。
その後の記憶は、空白になっていた。だが、ひどい目に遭ったという感じだけは残っていた。
信一は、話しながら、いつのまにか涙を流していた。
『憂鬱な薔薇』おばさんや『ファントム』君は、うなずいたり、相槌《あいづち》を打ったりして、信一への共感を示してくれた。『美登里ちゃん』は、黙って大きく目を見開いていた。まるで、彼の悲しみを、すっかり共有しているかのようだった。
全員の質問に答えながら、信一は、さらに記憶を辿《たど》っていく。彼に対する革新的な『早期教育』は、母親の献身的な努力も実らず、結局は失敗に終わったらしい。幼稚園にいる間に、信一は、九九だけでなく、ひらがな、カタカナ、アルファベット、小学校四年生までに習う漢字、簡単な英単語、それに小倉百人一首などを暗記していたが、それでも、母親の遠大な計画と心づもりからすれば、てんでお話にならなかった。
小学校に入学してからは、今までの『失敗』を一気に挽回《ばんかい》すべく、信一の一週間は、ぎっしりと塾やお稽古《けいこ》ごとで埋められた。
月曜日は英会話。火曜日は進学塾と書道。水曜日は算数教室。木曜日はピアノ。金曜日は再び進学塾。土曜日はバイオリン。日曜日は、水泳と家庭教師による徹底指導……。そしてまた、新たな一週間が始まる。それは、決して終わることがない永遠のサイクルのように思われた。
信一の日常は、『効率』によって支配されていた。ぼんやりと空想に耽《ふけ》っていたり、ぶらぶらと野原を歩いたり、川に向かって意味もなく石を投げたりといった無駄な時間は、周到に排除されていた。
その甲斐《かい》あって、小学校低学年での信一の成績は抜群だった。あらかじめ教わる内容をすべて知っているのだから、当たり前の話である。だが、そのことは、思わぬ副作用をもたらした。知っていることばかりを教えられ、しかも、クラスの一番進度の遅い児童に合わせて進められる授業は、信一にとって退屈以外の何物でもなく、彼は授業をまったく聞かない癖が付いてしまったのだ。
教師にしてみれば、授業に全然関心を払っていないのが明白なのにもかかわらず、当てればきちんと正解を言うため、怒ることもできない生徒というものは、実に腹立たしい存在だった。しかも、保護者面談の席で母親にそのことを指摘すると、逆に、授業のレベルが低いのだと仄《ほの》めかされる始末では、むしろ頭にこない方が不思議だった。
曾根というベテランの女性教師は、自然な成り行きとして、信一に対する憎しみを募らせていった。授業では信一を一切指名せず、それ以外でも完全に無視するようになった。信一はただ、そうした状態をあるがままに受け入れるしかなかった。
そうした中でも、信一の日常は、あいかわらず完璧《かんぺき》な一週間のサイクルを繰り返していた。たまにハプニングとして、お稽古ごとの一つが突然終了になることがあった。多くは、母親が教師に対して、何らかの理由で敵意を募らせたことによるものである。(つい昨日まで優秀だと褒めちぎられていた教師は、一晩で、最低の屑《くず》か極悪人へとなり果てた)
だが、それでぽっかりと空いた時間ができるのは、一回きりだった。次の週になると、ちゃんとそれに替わるレッスンが(絵画教室や、ソロバンなど、その時々の母親の素晴らしい思いつきで)用意されているのだ。
信一は疲れ果てていた。学校も塾も、家庭も、彼にとって楽しい場所は一ヶ所も存在しなかった。毎週、毎週、夏休みも年末年始もなく、同じ一週間、塾と無意味な稽古事とによって埋められた不毛の時間が過ぎていく。七、八歳の子供にとって、一年間とは、ほとんど果てしない分量の時間である。それが中学、高校とずっと続くと思うと、絶望的な気分になった。
そして、小学校四年生になったある日、信一はついに、ぽっきりと折れてしまった。
その日のことは、今でも鮮明に覚えている。ときおりは、夢に見ることさえあった。
学校から帰って、おやつを食べ、すぐに別のカバンを持って子供向けの英会話教室に行く途中で、信一は激しい腹痛に襲われたのだ。
バスの中でうずくまって脂汗を流している小学生を見た乗客たちが、驚いて救急車を呼んでくれた。信一は病院へ運ばれ、詳しい検査を受けたが、異常は何一つ見つからなかった。
母親は、知らせを受けて、愕然《がくぜん》として飛んできた。内心、盲腸か、もっと悪い病気ではないかと危惧《きぐ》していたらしい。だが、医師の説明は、彼女にとって、とても納得できるものではなかっただろう。『心因性』などという言葉は、おそらく彼女には、『ずる休み』の同義語としか思えなかったに違いない。
事実、信一の腹痛は、病院へ運ばれてきてすぐに、治まっていた。間の悪いことに、母親が血相を変えて病室の戸を開けた時、信一はいたって暢気《のんき》そうに(親切な看護婦さんに貸してもらった)漫画本に読みふけっていたのだった。
信一は、その時自分を見た母親の目を、今でも鮮明に覚えていた。
それからは、同じ現象がしばしば起きるようになった。英会話教室へ行こうとすると、必ず信一は激しい腹痛に見舞われるのだ。それは、次に算数教室、それからピアノ、さらにはバイオリンへと、次々に波及していった。
母親は激怒した。彼女には、信一が『怠け心』で仮病を使い、しかもそれに『味をしめた』のだとしか思えなかったのである。
彼女の頭の切り替えは早かった。あれほど執着していた信一を、いともあっさりと見放したのだった。彼女の頭の中では、何もかもが完璧に運ばねばならなかった。そして、小学校四年生にして『人生の落伍者《らくごしや》になった』信一は、もはや、彼女のプライドを支えるに足る存在ではなくなっていたのだ。
彼女は方向転換して、信一の姉の教育に力を入れようとした。当初は、女の子だからというだけの理由でまったくの関心外だったのが、信一の脱落で、急遽《きゆうきよ》、母親のプライドを担うべき重要人物へと昇格したのだった。
だが、母親と同じように気が強く、しかもまったく遊ぶ時間のない弟の姿を間近に見ていた姉は、頑として母親の命には従おうとしなかった。それからというもの、家の中では、連日、金切り声をあげての口論と激しい泣き声が聞かれるようになったが、幸か不幸か、信一はそうした諍《いさか》いの圏外にいた。
彼は、突然、あらゆる重圧と義務から解放されたのだ。それと同時に、彼を支えていたすべての事柄からも。
信一は、何をしたらいいのかわからない膨大な時間の前で、ただ茫然《ぼうぜん》と立ちつくしているばかりだった。
授業を聞き流すという悪しき習慣だけは以前と変わらず、曾根教諭からは、意図的に疎外されていたため、信一は学力の貯金を急速に食い潰《つぶ》し、ついにはゼロになった。そうなれば、彼が落ちこぼれるのに、まったく時間はかからなかった。
「それで、学校へは行かなくなって……」
信一はポケットからティッシュを出すと、大きな音を立てて鼻をかんだ。
「学校へ行かないからと言って、落ちこぼれとは言えないわよ」と、『憂鬱《ゆううつ》な薔薇《ばら》』おばさん。
「そんなの、全然、恥じゃないと思う」
『美登里ちやん』が、強い口調で言った。
「むしろ、当然のことじゃないかな。ほら。車に乗っていて、前に崖《がけ》があるのが見えれば、誰だって車を止めるでしょう?」
「それで、それから、どうしたんですか?」と、『ファントム』君が聞く。
信一は当惑した。話すことはもう、何も残ってはいなかった。あれ以来、彼は、何もしていなかった。二十八歳の今日に至るまで、彼は、再び人生に参加する機会を見つけられないでいたのだ。
だが、そのことに対しても批判めいた感想は聞かれなかったので、信一は安心した。
赤の他人の前で、ここまで正直に自分をさらけ出すことができたというのは、我ながら信じられなかった。自分がすっかり裸になってしまったような気がしたが、不思議なことに、けっして悪い気分ではなかった。
信一は拍手でねぎらわれ、続いて『憂鬱な薔薇』おばさんの告白が始まった。
おばさんは、家族との折り合いが悪いほか、近所づきあいもうまくいかず、新興宗教をはしごするのが趣味になったらしい。だが、結局、どこへ行っても、本当に心が満たされることはなかった。
しかも、おばさんは、ひどい尖端《せんたん》恐怖症だった。人から指を差されるだけで、恐怖に「腰が抜けそうになる」ほどだという。
みなの質問に答えているうちに、おばさんは、ぽつりぽつりと高校で登校拒否になった時のことを語った。父親の仕事の都合で転校し、そこでいじめに遭ったからだという。
『憂鬱な薔薇』おばさんは、クラスの中で、吊《つる》し上げのような非難を受けた時の記憶を語り始めた。担任の教師も同席していたはずなのに、彼女を庇《かば》うようなことは何一つしてくれなかったという。クラスメイトから何を言われていたのかは、今となっては、ぼんやりと霞《かすみ》がかかったようになっていて、思い出すことができなかった。だが、全員から、いっせいに彼女に突きつけられた指のことだけは、くっきりと思い出すことができた……。
信一は、おばさんの話を聞きながら、退屈しはじめていた。さっきまでの昂揚《こうよう》は、もう、嘘《うそ》のように冷めつつある。
自分の話をしていた時には、まわりの人たちから注目と同情を集めて、驚くほど気分がよかった。だが、他人の苦しみは、どんなに深刻なものでも、しょせんは他人事《ひとごと》としか思えない。情報としてなら、もっと悲惨な話は、あらゆるメディアにごろごろしている。
おばさんが絞り出すような声で語る言葉は、途中から、信一の耳を素通りしていった。彼は、ちらちらと『美登里ちゃん』の方ばかり気にしていた。
『美登里ちゃん』は、真剣におばさんの話に聞き入りながら、しきりに、うなずいたり、怒ったりしている。
だが、信一は、怒った顔や憂い顔よりは、やはり笑顔の方が可愛《かわい》いと思った。もっと、笑ったところを見たい。笑わないかな。ほら、笑って。……笑えって。
おばさんが、もっとおもしろい話をすればいいのにと、腹立たしくさえ思う。
あ。笑った。ようやく『憂鬱な薔薇』おばさんの話は、深刻な箇所を過ぎたようだった。信一は、『美登里ちゃん』が口元を手で隠しながら笑う姿を見て、嬉《うれ》しくなった。やっぱり、どう見ても『天使が丘ハイスクール』の『若杉美登里ちゃん』にそっくりだ。
信一は、ふと、『美登里ちゃん』が、けっして歯を見せないことに気がついた。そういえば、洗い場で会った時もそうだった。歯並びが悪いのを気にしているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、いつのまにか、『ファントム』君が話す番に変わっていた。
彼の態度は、のっけから奇妙なものだった。さっきまでは活発にしゃべっていたのに、いざ自分の番となると、急に、うつむいたまま固まってしまったのだ。『憂鬱な薔薇』おばさんがわけを尋ねると、消え入りそうな声で、全員に注視されるのが耐えられないのだと言う。仕方なく、三人はそれぞればらばらな方向を向いて座り、『ファントム』君の話を聞くことにした。車座になった四人が、それぞれそっぽを向き合っているのは、この広間の中でも、かなり奇妙な眺めだったことだろう。
『ファントム』君は、幼い頃に受けた『傷』について語った。彼の実家は、江戸川区でメッキ工場を経営しているということだった。今から二十年ほど前、『ファントム』君がまだ四、五歳の頃に、そこで事故が起こったのだという。
彼は、事故の詳細については語らなかった。だが、その後遺症によって、自分の顔はこんな風になってしまったのだと。
信一は、『ファントム』君の言う『傷』というのは、最初は精神的外傷《トラウマ》のことだとばかり思っていたのだが、どうやら物理的な損傷を指しているらしい。しかし、三人は、彼の言葉の意味がよく理解できず、ぽかんとしていた。どう見ても、『ファントム』君の顔には、これといって、おかしなところはなかったからだ。
『憂鬱な薔薇』おばさんがそう指摘すると、彼は、気休めはやめてくださいと言った。こんなにひどい痣《あざ》が残ってしまったんですから、と。彼の指さした部分を仔細《しさい》に見ると、たしかに、頬《ほお》のあたりを境にして、皮膚の色が微妙に変わっているようではあった。だが、言われなければ気がつかない程度のことである。
信一は、最初のうちこそ少し興味を持って聞いていたものの、だんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。やはり気になるのは、『美登里ちゃん』のことだった。こっそりと観察していると、蛍光灯に照らされた右手の爪《つめ》のうち、人差し指だけが妙にきらきらと輝いていることに気がつく。最初は、光の当たる角度のせいなのかと思っていたが、そうではないようだ。人差し指の爪にだけマニキュアを塗っているのだろうか。いや、そうじゃない。あれは付け爪のようだ。ますます、興味津々という感じになってくる。
それに、よく見ると、彼女の手はひどく荒れていた。よほど毎日、水仕事ばかりしているみたいだ。
信一が、ふと、『ファントム』君の話に注意を戻すと、彼は自分のハンドル ネームの由来について語っていた。何と、『|オペラ座の怪人《フアントム オブ ジ オペラ》』から取ったのだという。あまりにも醜かったために生みの母親にさえ拒絶され、仮面をかぶって、パリのオペラ座の地下でひっそりと生き続けている怪人《フアントム》……。もとはガストン ルルーの小説だが、今ではむしろ、アンドリュウ ロイド ウェバーやケン ヒルのミュージカルで有名である。
実際、ロイド ウェバー版のミュージカルのCDは、『ファントム』君の愛聴盤だということだった。特に、『ミュージック オブ ザ ナイト』や『墓場にて』などの名曲を聴くと、抑えようもなく涙が出てくるのだという。
「ロイド ウェバーの曲って、感情的に昇華されているから、泣けないはずなんだけどなあ」と『美登里ちゃん』がつぶやく。
それから、『憂鬱な薔薇』おばさんと『美登里ちゃん』は、『ファントム』君の顔は醜くなんかないと一生懸命力説したのだが、彼の思いこみを打ち消すことはできなかった。最近では、顔が映るのが怖くて、窓ガラスのある建物の近くを通る時など、目をつぶっているという……。
信一は、再び『ファントム』君の話を上の空で聞き流しながら、別のことを考えていた。もしかすると、『美登里ちゃん』の手がひどく荒れていることと、彼女が手を触れるものすべてを、せっせとアルコール消毒していることには、何か関係があるんじゃないか。
ふいに、『美登里ちゃん』が信一を睨《にら》んだ。彼が盗み見ていたことには、ずっと気づいていたらしい。彼女の視線には無言の非難が含まれていた。信一は頬《ほお》が熱くなるのを感じた。自分の身勝手さ、薄情さを糾弾されていることに気づいたのだった。
『ファントム』君の話が終わると、最後は、その『美登里ちゃん』の番だった。
信一は、彼女の話にだけは非常に興味があったのだが、彼女から非難されていると思うと、いたたまれなくなってしまい、ちょっとトイレに行くと言って席を立った。
『憂鬱な薔薇』おばさんは、驚いたような顔をしたが、『美登里ちゃん』は、そっぽを向いていた。信一が広間を出る時に振り返ると、彼女はすでに話を始めていた。内容までは聞こえないが、『憂鬱な薔薇』おばさんと『ファントム』君は、何やらしきりに感心しているようだ。彼は後ろ髪を引かれる思いだったが、あまりぐずぐずしていると変に思われるので、トイレに行くことにした。
ゆっくりと用を足して、のろのろと手を洗う。鏡を見ながら、溜《た》め息をついた。
自分は、つくづく運が悪いと思う。あの二人の言うことを聞いてなかったのは、話が退屈だったからだ。自分のせいじゃない。それに、『美登里ちゃん』に好感を抱いていたからこそ、彼女の方を見ていたのに。どうして、あんなに怒った顔をしたのだろう。理不尽だと思う。だが、いずれにせよ、このままでは、どうにも広間には帰りづらかった。『美登里ちゃん』が自分を呼びに来てくれて、怒ってないから戻ってきてと言ってくれないかなあ。だが、さすがに、そんなことが現実に起こりそうにないことは、わかっていた。
それにしても、席を立った時に、せめて、こちらを見るくらいのことはしてくれてもよかったのに……。
もしかすると、最初から全部、自分の誤解だったのではないかと思いつく。『美登里ちゃん』は、怒ったのではなく、ただ恥ずかしがっていただけなのかもしれない。だとすると、今頃、自分がいないので寂しい思いをしているのではないだろうか。
考えれば考えるほど、それが真相であるように思われてきた。きっと、そうだ。だって、彼女には怒る理由がないじゃないか。信一は、あわてて鏡に向かって髪を直すと、トイレを出て、小走りに広間に帰っていった。
だが、『美登里ちゃん』の厳然たる態度の前には、彼の甘い幻想など、とうてい生き残る余地はなかった。
「……それで、三つの星というのを英語にして、『トライスター』っていうハンドル・ネームにしたんです」
それだけ言うと、彼女は、ぴたっと口をつぐんでしまった。まるで、信一には、何も聞かせたくないという感じだった。
あとの二人が、気まずい雰囲気を救おうとするかのように、しゃべり始めたが、肝心の『美登里ちゃん』の話を聞いていないので、何のことだかわからない。かえって、孤独感が増すだけだった。
彼は、だったら討論になど参加するものかという拗《す》ねた気分になり、そのあとはわざと押し黙っていた。
初日の研修は、そこまでで終わった。信一は、『美登里ちゃん』に語りかけて『誤解』を解こうと思っていたのだが、彼女は、彼の気持ちを知ってか知らずか、さっさといなくなってしまった。
翌日から、研修に様々なバリエーションが加わった。企業研修に使われそうなゲーム形式のもの。初日の告白を発展させた発表会と、全員での集中討議。そして、その内容を基にして、グループごとに台本を書いて、サイコドラマのような寸劇を行ったりもした。
とはいえ、信一には、今ひとつ、ぴんとこなかった。たしかに、お互いに悩みを告白することによって、それぞれが自分の抱えている問題を見つめ直すことができたし、共同作業を通して、会員たち同士の連帯は深まったかもしれない。だが、それだけで、はたして本当に新しい自分を獲得することができるのだろうか。
ここで行われている研修は、どれも比較的まじめなもので、オカルト臭ぷんぷんの、いかがわしい部分は見あたらなかった。しかし、逆に言えば、それが『地球《ガイア》の子供たち』の限界なのかもしれない。人間は弱いものであり、今までの自分を変えなくてはならないまでに追いつめられると、何か絶対的な存在に縋《すが》りたくなる。神がかった演出も、時には有効なのだ。こうした、総花的で寄せ集めの研修では、いつまでたっても、最後の心の殻を破れないのではないだろうか。
信一の疑問に応えるように、三日後から、研修の様相が少しずつ変わり始めた。
まず、午前中の研修に、ヨガか超越瞑想《TM》のような修行が加えられるようになった。会員たちは、指導されて畳の上で結跏趺坐《けつかふざ》を造り、ゆっくりとした腹式呼吸を行った。信一も、以前に禅の教室に通ったことがあったので、だいたいのことはわかっている。
神経の伝達する情報をできるだけ遮断し、呼吸回数を減らして脳を低酸素状態に置くことによって、意識を、ある種の忘我《トランス》の状態に持っていくことができる。これは、悟り云々《うんぬん》とは関係なく、純粋なテクニックの問題であり、多くの宗教が、この状態における恍惚感を布教に利用していた。誰でも、完全なトランス状態の一歩手前くらいまでは簡単に到達することができるのだが、その先へ進むには、ある程度の修行が必要だった。
この日も、幸運な数人の会員だけが、深い瞑想《めいそう》を行うことができたようだったが、その他大勢は、感じをつかむという程度にとどまった。
その日の夜の部の研修では、さらに別の展開があった。全員に一つずつ、薬品のカプセルが配られたのだ。
それまではリラックスした表情を見せていた会員の間にも、さざ波のように動揺が広がった。さすがに、皆、不安の色を隠せないようだ。まさか麻薬ではないだろうとは思うものの、得体の知れない薬を服用することには抵抗があるのだろう。
最近の高校生あたりなら、躊躇《とまど》うことなく薬を嚥下《えんか》できるのかもしれないと思う。彼らは、街角で得体の知れない人間が売っている正体不明の『合法ドラッグ』なども、平気で服用するくらいだから。
信一は、配られた緑と白のカプセルを見た。酒の飲めない信一は、薬物おたくでもあり、麻薬や覚醒剤《かくせいざい》にこそ手を出さなかったものの、ドラッグや抗精神剤に関する知識は、一通り持っていた。
彼の掌の上にのっているのは、プロザックという名前で知られる脳内薬品、SSRIだった。SSRIは、セロトニンという脳内物質をコントロールすることにより、不安や強迫性障害、パニック障害などを抑制する作用を持っている。開発国のアメリカでは、何でもインスタントに解決したがる能天気な気質にマッチしたらしく、『幸せの薬』として、すでに爆発的な普及を見せていた。
日本では、まだ厚生省の認可が下りていないはずだが、これだけの量を調達したとなると、不法に輸入したのかもしれない。
何だ。プロザックだったのか……。信一は、『地球《ガイア》の子供たち』の底が知れたと思い、少々拍子抜けしていた。
たしかに、参加して得るものは多少あったと思うが、もしネタがこれだけだったとしたら、子供|騙《だま》しもいいとこだ。ふつうは一ヶ月くらい飲み続けなければ、効果は現れないはずだ。
だが、実際に薬を服用してしばらくたつと、気分が落ち着いてくるのを感じた。偽薬《プラシーボ》効果かもしれないが、前向きな気持ちを取り戻すための方法としては、オーケーかなという気もする。
それ以降、夜の部の研修では、必ず薬をのむようになった。以前と同じようなプログラムの繰り返しでも、プロザックの作用もあってか、ゆっくりと人格が変わっていくような感覚があった。
だが、研修が終われば、もう、薬をのむこともなくなる。そうすれば、すべては元《もと》の木阿弥《もくあみ》ではないのか。
その答えは、最終日の晩にもたらされた。
会員たちが畳敷きの大広間に集まると、白檀《びやくだん》のようなお香が鼻をついた。食事の時と同じようにテーブルが配置され、部屋の一番奥には、仏像のようなものを載せた壇が設《しつら》えられている。
『庭永先生』が現れた。いつものあの、確信に満ちた笑みを浮かべている。
会員たちは、何事が起こるのかと、固唾《かたず》を呑《の》んでいた。『庭永先生』は、満面に笑みを浮かべて、これから会員たちは、『守護天使』を迎え入れるための『聖餐《せいさん》』を授けられるのだと説明した。
「最初にあなた達が聞くことになるのは、守護天使の羽音です。耳を澄ませてみてください。天使たちが、飛び回っているのが聞こえるようになりますから。心の底から、彼らを受け入れようと念じてさえいれば、やがて、天使たちは、いつでもあなた達と一緒にいて、見守ってくれるようになるでしょう。そして、美しい声で囀《さえず》ったり、あなた達に語りかけたりするようにもなるのです」 信一は苦笑した。あまりにも言うことが現実味を欠いているし、まるでパソコンの画面上で飼うバーチャル・ペットの説明のように聞こえたのだ。会員の間を見回しても、みな半信半疑で、曖昧《あいまい》な笑みを浮かべている。
信一は、雛壇《ひなだん》の上を見た。頭が象で体が人間の男女二体の神が抱き合う異様な姿の像が祀《まつ》ってある。以前から宗教に興味を持っていた彼には、それが何であるのか、すぐにわかった。ヒンドゥー教の神から仏教の守護神となった『大聖歓喜自在天《ガネーシヤ》』だ。日本の寺院では一般に秘仏とされ、夫婦和合を象徴している。ガネーシャが敷いている布には、頭が七つあるコブラの文様が描かれていた。こっちは、ヒンドゥー教の蛇神ナーガだろう。インドでは、ヘビは、不死と繁殖の象徴とされている。まるで、象の影がヘビであるように見えた。
この二つの取り合わせからの連想には、何となく性的な臭《にお》いがした。ここは、もしかしたら、その手のセックス教団なのだろうか。信一の中で、妄想のような、かすかな期待が頭をもたげる。もちろん、『憂鬱《ゆううつ》な薔薇《ばら》』おばさんでは困るが、『美登里ちゃん』だったら……。
古手の会員たちが、テーブルの上に銀製の皿を配り始めた。短冊状に切った、得体の知れない物体が載っている。信一は、鼻を近づけてみた。わずかだが、獣臭さを感じる。何かの動物の肉らしい。表面は火で焙《あぶ》ってあるらしく、ぱさぱさした茶色になっているが、断面はぬらぬらした暗赤色のままだった。『たたき』の状態らしい。続いて、やはり銀製の鉢が置かれた。こちらは人数分には足りず、白い砂のようなものが盛られていた。
「さあ。これが、研修の締めくくりになる『聖餐』の儀式です。少し臭いがあるかもしれませんが、岩塩を添えて召し上がってください」
みな、手を出しかねて、まわりの人間の様子を窺《うかが》っている。『庭永先生』は、それ以上、その肉について説明をしなかった。会員たちは例外なく、なぜ、肉のたたきを食べることが守護天使を迎え入れることになるのか、よくわからないような顔をしていた。だが、一人が肉片を手に取って、ぱらぱらと岩塩を振りかけると、次々とそれに倣《なら》った。
信一は、一瞬|躊躇《とまど》いを覚えた。雛壇の上のガネーシャの像が視界に入る。何だか、信一を見て笑っているように見えた。
背筋がぞっと寒くなる。心の奥で、食べるな、という声がした。
だが、まわりを見回すと、ほとんどの会員は、すでに肉に口を付けていた。『憂鬱な薔薇』おばさんは、肉を噛《か》み切ろうとして、苦労しているようだ。『ファントム』君は、考え込むような表情で咀嚼《そしやく》している。
『美登里ちゃん』は、肉片を口元まで持ってきてから、躊躇《ちゆうちよ》していた。信一と目が合うと、彼女はぷいと顔を背け、箸《はし》の先を口に入れた。目をつぶって、ゆっくりと噛む。かすかに喉《のど》が上下する。それは、妙にエロチックな光景だった。
こうして見ると、まだ食べていないのは信一だけのようだった。ふと、『庭永先生』が、じっと彼を注視しているのに気がついた。目には、心なしか厳しい光が宿っているような気がする。
信一は、あわてて箸を口に近づけた。しかし、どうしても受け付けることができない。
早くしないと……。まわり中から、非難の視線を浴びているような気がする。プロザックを服用しているにもかかわらず、パニックに襲われそうになる。
守護天使のことを考えて、懸命に気持ちを静めた。
このままではいけない。新しい自分に生まれ変わるためだと、自分自身を納得させる。これを食べさえすれば、守護天使がやって来て、自分を祝福してくれるはずだ。頭の中に、美歌と絵瑠のイメージを思い描いた。彼女たちは、自分が勇気を奮い起こすのを待っているのだ。
信一は、肉に岩塩をのせると、口の中に放り込んだ。二、三度噛んだが、思っていた以上に堅く筋張った肉だった。それに、独特の臭みがある。
これ以上長く口の中に入れていると、吐いてしまいそうだった。一気に嚥下する。
肉片は、まるで逆棘《さかとげ》でも生えているかのように、食道の壁に逆らった。だが、難渋した挙げ句、ようやく胃の腑《ふ》に収まる。信一はひどく咳《せ》き込んだ。涙があふれそうになる。
「おめでとう。みなさん。守護天使は、みなさんの中に迎え入れられました」
『庭永先生』が、おごそかに宣言した。
会員たちは、しばらくの間、どう反応していいのかわからないようだった。ややあって、自発的な拍手が沸き起こる。拍手は潮騒《しおさい》のように、いつまでも鳴りやむことがなかった。