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文章简介

作者:日-东野圭吾 当前章节:15386 字 更新时间:2026-6-16 06:24



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赤い指

東野圭吾

     1

 間もなく夕食という時になって、隆正《たかまさ》はさっきのカステラが食べたいといいだした。松宮《まつみや》が土産に持ってきたものだ。

「こんな時間に食べてもいいのかい」松宮は紙袋を持ち上げながら訊いた。

「かまうもんか。腹が減ったら食べる、それが身体には一番いいんだ」

「知らないぜ、看護婦さんに叱られてもさあ」そういいながらも年老いた伯父が食欲を示してくれたことが、松宮はうれしかった。

 紙袋から箱を取り出し、蓋《ふた》を開けた。一口サイズのカステラが一つ一つ包装されている。その一つの包装をはがし、松宮は隆正のやせ衰えた手に渡した。

 隆正はもう一方の手で枕を動かし、首を立てようとした。松宮はそれを手伝った。

 ふつうの大人なら二口ほどで食べ終えてしまうカステラを、隆正はたっぷりと時間をかけ、少しずつ口に入れていった。飲み下す時がやや辛そうだが、甘い味を楽しんでいるようには見える。

「お茶は?」

「うん、もらおう」

 そばのワゴンの上に載っていたペットボトルを松宮は隆正に渡した。それにはストローが差し込まれている。隆正は寝たままで器用に飲んだ。

「熱はどう?」松宮は訊いた。

「相変わらずだ。三十七度と八度の間を行ったりきたりだな。もう慣れたよ。これが自分の平熱だと思うことにした」

「まあ、平気ならいいんだけどさ」

「それより修平《しゅうへい》、こんなところに来てていいのか。仕事のほうはどうなんだ」

「例の世田谷の事件が片付いたから、今はわりと余裕があるんだ」

「そういう時こそ、昇進試験の勉強でもしたらどうだ」

「またそれかよ」松宮は頭を掻《か》き、顔をしかめた。

「勉強が嫌なら、女の子とデートでも何でもしたらいい。とにかく、私のことはそんなに心配するな。ほうっておいてくれればいい。克子《かつこ 》だって来てくれるしな」

 克子というのは松宮の母親だ。隆正の妹でもある。

「デートする相手なんかいないよ。それに伯父さんだって暇だろ?」

「いや、そうでもないぞ。これでもいろいろと考えることはある」

「これかい?」松宮はそばのワゴンの上に置いてあるボードを手にした。将棋盤で、駒が磁石でくっつくようになっている。

「駒に触るなよ。まだ対局中だ」

「俺にはよくわかんないけど、これ、前に俺が見た時からあまり変わってないみたいに見えるんだけどな」

「そんなことはない。刻一刻と戦況は変化しておる。敵もなかなかの指し手でな」

 隆正がそういった時、病室のドアが開いて看護師が入ってきた。三十歳前後と思われる、丸顔の女性だ。

「体温と血圧を測らせてください」彼女はいった。

「噂をすれば何とやらだ。今、こいつに将棋盤を見せてたところだよ」

 隆正にいわれ、丸顔の看護師は微笑した。

「手は決まったかね」

「ええ、もちろん」そういうと彼女は松宮が持っている将棋盤に手を伸ばし、駒のひとつを動かした。松宮は驚いて、隆正と彼女の顔を見比べた。

「えっ、看護婦さんが?」

「強敵なんだよ。修平、もうちょっと近くで見せてくれ」

 松宮は将棋盤を手に、ベッドの脇に立った。それを見て隆正は顔をしかめた。無数の皺《しわ》が、一層深くなった。

「なるほど、桂馬か。その手があったか」

「考えるのは後にしてくださいね。血圧が上がっちゃいますから」

 彼女は手際よく検温と血圧測定を行った。金森《かねもり》と書かれたネームプレートを胸につけている。登紀子《と き こ 》という名前だということは隆正が教えてくれた。少し年上だがデートに誘ってみたらどうだといわれたのだ。もちろん松宮にはそんな気はない。彼女にもないだろう。

「どこか痛むところはありますか」

 測定を終えたところで彼女は隆正に訊いた。

「いや、ないよ。すべていつも通りだ」

「じゃあ、もし何かあったらすぐに呼んでくださいね」金森登紀子は笑顔で出ていった。

 それを見送った後、隆正は早速また将棋盤に視線を戻した。

「この手で来たか。考えなくもなかったが、ちょっと意外だったな」

 この分ならば、たしかに退屈することはなさそうだった。松宮は少し安心し、椅子から腰を浮かせた。

「じゃあ、俺もそろそろ行くよ」

「うん、克子によろしくな」

 松宮が部屋を出ようとドアを開けた時、「修平」と隆正が声をかけてきた。

「何?」

「……本当にもう、無理して来なくていいからな。おまえには、やらなきゃいけないことがほかにたくさんあるはずだ」

「だから、無理なんかしてないって」

 また来るよ、といい残して松宮は部屋を後にした。

 エレベータに向かう途中、ナースステーションに寄ってみた。金森登紀子の姿が見えたので、手招きして呼んでみた。何でしょう、という顔で彼女は近づいてきた。

「伯父のところに、最近誰か見舞いに来ましたか。うちの母以外に、という意味ですけど」

 克子のことは、当然看護師たちは知っているはずだった。

 金森登紀子は首を傾《かし》げた。

「私の知るかぎりでは、どなたも……」

「従兄《いとこ》はどうですか。伯父の長男ですけど」

「息子さんですか。いえ、来ておられないと思います」

「そうですか。お仕事中、どうもすみませんでした」

 いえ、と彼女は微笑《ほほえ》み、元の持ち場に戻った。

 エレベータに乗った後、松宮はため息をついた。無力感に襲われ、焦りを覚えた。このまま何もできないのだろうか、と悔しくもあった。

 隆正の黄色く濁った顔を思い出した。彼の胆嚢《たんのう》と肝臓は癌に冒されている。ただし本人は知らない。担当医師は、単なる胆管炎だと隆正には説明している。癌細胞を手術で取り除くことはもはや不可能で、今はただ出来るかぎりの延命措置が施されているにすぎない。猛烈な痛みを本人が訴えた場合にモルヒネを使うことについては、松宮も母の克子と共に同意した。せめて苦しまずに逝かせてやりたい、というのが二人の共通した思いだった。

 その日がいつ来るのかはわからない。医師によれば、明日来てもおかしくないのだという。顔を合わせて話していると、とてもそんなふうには思えないが、タイムリミットは確実に近づいている。

 松宮が加賀《か が 》隆正と会ったのは中学校に入学する直前のことだった。それまで松宮は母親の克子と二人で高崎に住んでいた。なぜ東京に引っ越すことになったのか、その時の彼にはよくわからなかった。克子の仕事の都合、とだけ聞かされていた。

 はじめて隆正を紹介された時には驚いた。自分たちに親戚と呼べる者がいることなど、まるで知らなかったからだ。母親は一人っ子で、両親はとうの昔に死んでいる──そんなふうに思い込んでいた。

 加賀隆正は元警察官だった。退職した後は、警備会社のアドバイザーをしていた。決して時間的余裕があるわけではなかったはずだが、彼は頻繁に松宮たちのもとを訪れた。特に用があるというふうには見えず、単に様子を見に来ているだけという感じがした。大抵の場合、彼は手土産を忘れなかった。大福や肉まんといった、育ち盛りの中学生が喜びそうなものが多かった。真夏に、スイカ一個を持ってきたこともあった。

 松宮が疑問に思ったのは、なぜこれほど親切にしてくれる伯父と、これまで全く付き合いがなかったのか、ということだった。東京と高崎では、行き来が困難とはいえない。だがそのことについて克子や隆正に訊いても、納得できる説明はしてくれなかった。たまたま疎遠になっていただけだ、といわれるだけだった。

 しかし高校に上がる時、松宮はようやくその答えを克子から聞けることになった。きっかけは戸籍謄本だった。父親の欄が空白になっていたのだ。そのことを母親に問い詰めると、思いもよらない答えが返ってきた。

 松宮の両親は結婚していなかったのだ。松宮というのは、克子が以前結婚していた相手の姓だった。

 二人が結婚できなかったのは、父親が別の女性とすでに結婚していたからだ。つまり二人の関係は俗にいう不倫だった。だが単なる浮気ではなく、男のほうは何とか離婚しようとしていた。それが叶わないとなると、家を出て、克子と共に高崎で住み始めた。彼は料理人だった。

 間もなく二人の間に子供が出来たが、その時点でも彼の離婚は成立していなかった。それでも表向きは夫婦として生活していたが、やがて思いもかけない悲劇が訪れた。彼のほうが事故で命を落としたのだ。勤務先である日本料理店が火災に遭い、逃げ遅れたということだった。

 幼い子供を抱え、克子は生活費を稼がねばならなくなった。母親が水商売をしていたことを、松宮はうっすらと覚えている。平日には深夜遅くにならないと帰ってこない彼女は、いつも酒に酔っていて、しばしば流し台で嘔吐《おうと 》していた。

 そんな母子に手をさしのべたのが加賀隆正だった。克子は高崎の住所を誰にも知らせていなかったが、隆正だけは把握していて、時折連絡をしてきたらしい。

 隆正は克子に、東京に戻るように勧めた。そのほうが自分が援助しやすい、というのが理由だった。克子は実兄に迷惑をかけたくなかったが、息子のことを考えると意地を張っている場合ではなかったと思い直し、上京を決意した。

 隆正は母子の住処だけでなく、克子の働き口まで見つけてきてくれた。その上、生活費の補助もしてくれたようだ。

 すべての経緯を聞き、松宮は自分がなぜ人並みの暮らしをしてこられたのかを思い知った。何もかも、妹思いの伯父の優しさがあったればこそだった。

 この人だけは裏切ってはならない、何としてでも恩に報いねばならない──そう思いながら松宮はその後の学生生活を過ごした。奨学金を貰《もら》ってまで大学に進むことを決心したのも、それを隆正が望んだからだ。

 そして進路については迷いなく警察官への道を選んだ。この世で最も尊敬する人間が就いていた職業だ。ほかの仕事など考えられなかった。

 命を救うことができないのならば、せめて思い残すことのないようにしてやりたい、というのが今の松宮の願いだった。それが隆正への最後の恩返しだと思った。

     2

 会議用の資料の作成を終え、パソコンを終了させるかどうか迷っていると、二つ離れた席の山本《やまもと》が立ち上がった。鞄《かばん》を机の上に置き、帰り支度を始めている。

「山さん、お帰り?」前原《まえはら》昭夫《あきお 》は声をかけた。山本は同期入社であり、出世の度合いも昭夫と似たようなものだ。

「うん。いろいろと雑用はあるんだけど、あとは来週まわしだ。おたくは何やってるの? 金曜日だってのに、遅くまでがんばるねえ」山本は鞄を手に昭夫の席までやってきた。パソコンの画面を見て、意外そうな顔をする。「何だよ、これ。この会議は来週の末だろ。その資料を今から用意してるわけか」

「早めに済ませとこうと思ってね」

「えらいねえ。何も金曜の定時後にしなくてもいいと思うけどなあ。残業手当がつくわけでもないのにさ」

「まあ、ちょっと気が向いたから」昭夫はマゥスを操作してパソコンを終了させた。「それよりどう、これから。久しぶりに『お多福』あたりで」酒を飲むしぐさをした。

「悪い。今日はだめなんだ。女房の親戚が来るとかで、早く帰ってこいっていわれててさ」山本は顔の前で手刀を切った。

「なんだ、残念だな」

「また今度誘ってくれよ。だけどおたくも早く帰ったほうがいいんじゃないの。ここんところずっと、定時後も残ってるみたいだけどさ」

「いや、いつもってわけじゃないけど」昭夫は作り笑いをした。人間というのは他人のことを見ていないようで見ているものだと思った。

「ま、無理しないほうがいいぞ」

 お先に、といって山本は離れていった。

 昭夫は壁の時計を見上げた。六時を過ぎたところだった。

 何気ないふうを装い、彼は室内を見渡した。営業部のフロアには十人あまりが残っている。そのうち昭夫が統括している直納二課の課員は二人だ。一人は入社二年目の若手で、昭夫は彼と一対一で話すのを苦手にしていた。もう一人は昭夫よりも三歳下で、課内では最も話の合う存在だったが、アルコールは一滴も受け付けないという下戸だった。つまりどちらも飲み屋に誘える相手ではなかった。

 昭夫はこっそりとため息をついた。仕方がない、今日は真っ直ぐ帰るか。

 その時、携帯電話が鳴りだした。画面を見ると自宅からだった。瞬時に不吉な予感が胸中に広がるのを覚えていた。なんだろう、こんな時間に──。

「もしもし」

「ああ、あなた」妻の八重子《や え こ 》の声がした。

「どうした」

「それが、あの、ちょっといろいろあって、早く帰ってきてほしいんだけど」

 妻の声には余裕がなかった。早口になっているのは、うろたえた時の特徴だ。予感が当たったようだと思い、憂鬱《ゆううつ》になった。

「なんだ。今、手が離せないんだけどな」予防線を張った。

「何とかならない? 大変なんだけど」

「大変って……」

「電話じゃ話しにくいのよ。どんなふうにいっていいかわからないし。とにかく、帰ってきて」

 彼女の吐く息の音が伝わってくる。かなり興奮しているようだ。

「一体、何に関することだ。それだけでもいってくれ」

「それが、あの……とんでもないことになっちゃったのよ」

「それだけじゃわからん。ちゃんと説明しなさい」

 しかし八重子からの返答はなかった。昭夫は苛立《いらだ 》ち、もう一言何かいおうとした。その時彼の耳にすすり泣きが聞こえた。その途端彼は、自分の鼓動が速まるのを感じた。

「わかった。今すぐ帰るから」

 そういって電話を切ろうとすると、「ちょっと待って」と八重子がいった。

「なんだ」

「春美《はるみ 》さんには、今日は来てもらいたくないんだけど」

「来られるとまずいのか」

 ええ、と八重子は答えた。

「何といって断ればいいんだ」

「だからそれは……」そのまま彼女は沈黙した。混乱して、考えがまとまらないようだ。

「じゃあ、俺から電話しておくよ。理由は適当にいっておく。それでいいな」

「すぐに帰ってきてくれるわね」

「ああ、わかった」昭夫は電話を切った。

 彼の会話を聞いていたらしく、三歳下の部下が顔を上げた。「何かあったんですか」

「いや、それがよくわからないんだ。早く帰ってこいの一点張りでね。だから、その、これで失礼するよ」

「あ、はい。気をつけて」

 大した用もないのに居残りをしているほうがおかしいんだ──部下の顔にはそう書いてあった。

 昭夫は照明器具メーカーに勤務していた。東京本社は中央区の茅場町にある。地下鉄の駅に向かう途中、携帯電話で春美の家にかけた。春美は昭夫よりも四歳下の妹だ。今は田島《た じま》という姓になっている。

 電話には春美が出た。昭夫だと知ると、やや戸惑った声で、「何かあったの?」といきなり尋ねてきた。彼女としては、「おかあさんに」を略したつもりなのだろう。

「いや、別に何でもない。じつは先程八重子から電話があって、お袋はもう寝ちゃったらしいんだ。それでわざわざ起こすこともないだろうということで、今夜はそのままにしておこうということになった」

「じゃああたしは……」

「うん、今日は来てくれなくていい。明日、また頼むよ」

「ふうん……明日はいつも通りに行けばいいの?」

「それでいいと思う」

「わかった。うちもこれからやらなきゃいけないことがあるから、ちょうどよかった」

 売り上げの計算か何かだろう。春美の夫は駅前で洋品店を経営している。

「そっちも忙しいだろうに、いつも悪いな」

「いいわよ、そんなこと」

 春美は低い声でいった。今更そんな台詞《せりふ》は聞きたくないという響きがある。

「じゃあ、また明日な」そういって昭夫は電話を切った。

 会社を出て、少し歩き始めてから、傘を忘れてきたことに気がついた。朝、家を出る時には雨が降っていたのだ。いつやんだのか、昭夫は把握していなかった。今日はずっと会社にいたからだ。今から取りに戻るのも面倒なので、諦めて駅に向かった。これで置き傘が三本になってしまった。

 茅場町から地下鉄を乗り継いで池袋に出て、西武線に乗り換えた。電車は相変わらず混んでいる。身体の向きを換えることはおろか、手足を少し動かすのにさえ周りに気を遣う。四月半ばだというのに、人いきれで額や首筋に汗が浮いてくるほど蒸し暑い。

 昭夫は辛うじて吊革の一つを確保した。正面の窓ガラスに疲れた顔が映っている。五十前の男の顔だ。ここ数年で、生え際がかなり後退した。目尻が下がったように見えるのは、顔の皮膚が綾んできたからだろう。眺めていて愉快なものではなく、彼は瞼《まぶた》を閉じた。

 八重子からの電話について考えた。一体何があったのだろう。真っ先に思い浮かぶのは、母親の政恵《まさえ 》のことだ。老母の身に何かあったのか。だがそれならば、八重子がああいう言い方はしないような気がした。ただ、春美には来てもらわないでくれといっている以上、政恵と無関係ではないようにも思える。

 昭夫は思わず唇を歪《ゆが》めた。八重子からどんな無理難題をいわれるのかと想像するだけで気持ちが暗くなった。じつのところ、最近はいつもこうだ。会社から帰宅するなり、何らかの抗譲を受ける。彼女がどれだけ嫌な思いをしているか、その忍耐の限界にきているかを、時には切々と、また時には激怒しながら訴えてくる。昭夫の役目はそれを聞くことだ。黙って聞き、決して反論しないことだ。少しでも彼女を否定するようなことをいえば、事態はもっと悪くなる。

 急ぎの仕事があるわけでもないのに残業をするのは、家に早く帰りたくないからだった。帰宅したところで疲れた身体を休められる状況ではない。身体だけでなく、精神まで余計に疲れるだけだった。

 同居さえしなければ、と後悔することもあるが、そこに至った経緯を振り返ると、結局こうするしかなかったのだと改めて思うだけのことだ。親と子の関係は断ち切れるものではない。

 だけどよりによって、こんなことにならなくてもいいじゃないか──つい恨み言をいいたくなる。だがそれをぶつける相手など、どこにもいない。

     3

 昭夫が八重子と結婚したのは、今から十八年ほど前だ。上司の紹介で知り合い、一年間の交際を経た上でのゴールインだった。熱烈な恋愛関係になったわけではない。お互い、ほかに気に入った相手が出来るわけでもなく、特に別れる理由もなく、女性のほうが婚期を逃す前にはっきりさせたほうがいいということで、結婚に踏み切ったのだった。

 独身時代、昭夫は独り暮らしをしていた。結婚後はどうするかということで、二人で何度か話し合った。どちらでもいいと八重子はいったが、結局昭夫が借りていた部屋で新婚生活をスタートさせることになった。実家には年老いた両親がおり、いずれは同居せねばならない。それまでは妻に余計な苦労をさせたくない、という思いからだった。

 三年後に子供が生まれた。男の子だった。直巳《なおみ 》というのは八重子が考えた名前だ。妊娠中から決めていたというのだった。

 直巳が生まれてから、前原家の生活は微妙に変化し始めた。八重子は子育てを中心に物事を考えるようになった。それはそれでいいと昭夫は思ったが、それ以外の家事には全く意欲を示さなくなったのは不満だった。片付いていた部屋は荒れ放題になった。夕食がスーパーの弁当ということも珍しくなくなった。

 それで注章すると、彼女は目をいからせた。

「育児がどれだけ大変か、わかってる? 部屋が汚れる程度のことが何よ。そんなに気に入らないなら、自分で掃除すればいいじゃない」

 昭夫としては、自分が子育てにあまり貢献していないと自覚していたから、彼女の反論に対して、何もいい返せなかった。育児が大変だということはわかっている。それを放棄されないだけましだという思いもあった。

 初孫が生まれたことは、当然、両親も喜んでくれた。孫の顔を見せるため、月に一度ぐらいの割合で実家に帰るのが、習慣となった。八重子も初めのうちはそれを嫌がっているふうではなかった。

 だが何度目かに帰った時、政恵の一言が八重子を怒らせた。離乳食についてのアドバイスだったが、それが八重子の方針とまるで違うものだったのだ。彼女は直巳を抱くと、突然家を出てタクシーを拾い、自宅に戻ってしまった。

 追うように帰宅した昭夫に八重子はこう宣言した。

「あたし、もうあの家には行かないから」

 さらに彼女は、子育てや家事についてあれこれ文句をつけられることに対し、これまでどれだけ我慢してきたかを訴え始めた。まさに堰《せき》を切ったかの如《ごと》くだった。昭夫がどんなに説得しようとしても、聞く耳を持たなかった。

 仕方なく、当分実家には帰らなくていいと昭夫はいった。時間が経てば彼女の頭も冷えるだろうと思った。しかし一度生じた感情のもつれは、おいそれとは修復されなかった。

 それから何年も、昭夫は両親に孫の顔を見せることができなかった。用があって実家に帰る必要がある時でも、いつも彼一人だった。当然のことながら、彼は両親から問い詰められた。孫に会わせてくれと頼み込まれた。

「夫の実家に行きたがる嫁なんかいないってことは、私が一番よくわかっているよ。| 舅 《しゅうと》や| 姑 《しゅうとめ》なんてものは鬱陶《うっとう》しいだけだからね。だから八重子さんはいいから、直巳だけでも連れてきてくれないかい。お父さんも寂しがってるし」

 政恵にいわれ、昭夫は困惑した。両親の気持ちはわかる。だが八重子が納得するとは思えなかった。そもそも、そんなことをいいだす勇気がなかった。直巳だけを連れていくなどというと、彼女が激怒するに違いなかった。

 そのうちに何とかするよ、といって昭夫はごまかした。もちろん、それについて八重子に話したことは一度もない。

 そんなふうにして七年ほどが過ぎたある日、政恵から電話がかかってきた。父の章一郎《しょういちろう》が脳梗塞で倒れた、というのだった。意識がなく、危険な状態だという。

 その時、昭夫は初めて八重子に同行するよういった。父に会うのはこれが最後かもしれないから、という理由を添えた。さすがに八重子も、舅の臨終に立ち会わないのはまずいと思ったのか、拒否はしなかった。

 八重子と息子を連れ、昭夫は病院に駆けつけた。待合室では青い顔をした政恵が座っていた。章一郎は血栓を溶かす治療を受けている、という話だった。

「お風呂から出て、煙草《たばこ》を吸ってたなと思ったら、急に倒れたのよ」政恵は泣きだしそうな顔でいった。

「だから煙草はやめさせたほうがいいといっただろ」

「そんなこといっても、お父さんの楽しみだから」政恵は苦しげにいった後、八重子を見た。「お久しぶり。わざわざごめんなさいね」

「いえ。すっかりご無沙汰してしまって、申し訳ありませんでした」八重子は固い顔つきでいった。

「いいのよ、いろいろとお忙しいだろうから」政恵は八重子から目をそらし、母親の後ろに隠れるように立っている直巳に笑いかけた。「大きくなったねえ。わかる? おばあちゃんだよ」

 挨拶しなさい、と昭夫はいった。直巳はぺこりと頭を下げただけだった。

 春美も夫と共に駆けつけてきた。昭夫と少し言葉を交わした後、彼女は政恵を励ますように寄り添った。八重子のほうには見向きもしない。両親に孫を会わせない義姉に腹を立てているように見えた。

 気まずい空気が漂う中、昭夫は処置が終わるのを待った。治療がうまくいくことを祈るしかなかった。だが一方で、別のことも考えていた。このまま父が亡くなった場合のことだ。誰に知らせるか、葬儀はどうするか、会社には何といえばいいか──様々なことが頭に浮かんだ。

 暗い想像は膨《ふく》らみ、葬儀後のことにまで及んだ。一人きりになった母親をどうすればいいだろう。当分は何とかなるかもしれないが、ずっと一人にしておくわけにはいかない。何らかの形で自分が面倒をみるしかない。しかし──。

 八重子は少し離れた椅子で、直巳と並んで座っていた。その顔に表情はなかった。直巳は状況がよくわかっていないのか、退屈そうにしていた。

 同居などはとても無理だ、と昭夫は思った。離れて暮らしていて、たまに会うだけでも、あれほどそりが合わなかったのだ。同じ屋根の下で暮らしたりすれば、どんなトラブルが起きるかわかったものではなかった。

 とにかく父には助かってほしい、と昭夫は念じた。いずれは向き合わねばならない問題だが、とりあえず先送りにしたかった。

 この願いが通じたのか、章一郎は一命を取り留めた。左半身に少し麻痺《ま ひ 》が残ったが、日常生活に著《いちじる》しく支障を来《きた》すというほどでもなかった。退院までの日々はスムーズだった。退院後、昭夫はしばしば様子を尋ねる電話をかけたが、政恵から悲観的な言葉は出なかった。

 そんなある日、八重子がこんなことを尋ねてきた。

「ねえ、もしあの時にお義父《と う 》さんが亡くなってたら、あなた、お義母《か あ 》さんのことはどうするつもりだったの?」

 苦しい質問だった。何も考えてなかった、と彼は答えた。

「同居とか考えなかったの?」

「そんなことまで頭が回らなかったよ。なんでそんなことを訊くんだ」

「だって、もしそんなことをいいだしたらどうしようかと思って」

 八重子は、同居はしたくない、と断言した。

「あたし、悪いけどお義母さんとはうまくやっていく自信がないの。いつか面倒をみなきゃいない日が来るかもしれないけど、同居だけは考えないで」

 ここまではっきりといわれると、昭夫としては何もいい返せない。わかった、と短く答えたそして、政恵が先に死んだほうがお互いにとっていいのかもしれないなどと考えた。八重子は、章一郎のことはさほど嫌っているように思えなかった。

 だが事態は彼の希望するようには転がらなかった。

 それから数ヵ月後のことだった。政恵が暗い声で電話をかけてきた。章一郎の様子がどうもおかしい、という内容だった。

「おかしいって、どうおかしいんだ」昭夫は訊いた。

「それがねえ、同じことを何度もいったり、逆に私がたった今しゃべったことを全然覚えてなかったり……」そういってから彼女はぼそりと呟《つぶや》いた。「ぼけてきてるのかなあ」

 まさか、と昭夫は反射的に答えた。小柄だが頑健な身体を持ち、毎朝の散歩と新聞の精読を欠かさない父がぼけることなど、それまで考えたこともなかった。どこの家庭でも起こりうることと理解はしていたが、自分たちには無関係だと、特に根拠もなく信じていた。

 とにかく一度様子を見に来てほしいといって政恵は電話をきった。

 この話を八重子にも聞かせた。彼女は昭夫の顔を見つめていった。

「それで、あなたにどうしろってことなの?」

「だから、とりあえず状況を見に行くよ」

「で、もしお義父さんがぼけてたらどうするの?」

「それは……まだ考えてない」

「あなた、安請《やすう 》け合《あ》いしないでよ」

「安請け合い?」

「長男の責任ってのもあるでしょうけど、うちにはうちの生活があるんだから。直巳だってまだ小さいし」

 ようやく八重子のいっている意味がわかった。ぼけ老人の世話を押しつけられたらかなわないと思っているのだ。

「おまえに面倒をかけたりしないよ。そんなことはわかってる」

 それならいいけど、と八重子は疑わしそうな目をしていった。

 その翌日、会社が終わった後、昭夫は父親の様子を見に行った。どんなふうにおかしくなっているのだろうと怖さに似た不安を抱え、門をくぐった。ところが出迎えてくれたのは、その章一郎だった。

「やあ、なんだ今日は。どうした?」

 父はじつに快活に話しかけてきた。昭夫の仕事のことなども尋ねてくる。その様子を見るかぎり、ぼけの兆候など微塵《み じん》も感じられなかった。

 外出していた政恵が帰ってきたので、昭夫は自分の印象を語った。しかし彼女は当惑したように首を捻《ひね》った。

「たしかに調子のいい日もあるんだけど、私と二人きりだとおかしくなるのよねえ」

「時々様子を見に来るよ。とにかく大したことがなさそうで安心した」

 そういってその日は辞去した。そういうことが二度ほどあった。いずれも章一郎の様子におかしなところなど見受けられなかった。しかし政恵によれば明らかにぼけているのだという。

「昭夫と話したことなんて、殆《ほとん》ど覚えてないのよ。お土産の大福を食べたことさえ忘れてるんだから。やっぱり一度病院に連れていきたいから、お父さんを説得してくれない? 私がいっても、自分はどこも悪くないっていうばかりだから」

 政恵に頼まれ、仕方なく昭夫は章一郎を病院に連れていった。脳梗塞の具合を再検査するためだと説明すると、章一郎は納得した。

 診断の結果、やはり脳がかなり萎縮《いしゅく》していることが判明した。老人性痴呆症だった。

 病院からの帰り、政恵は今後の生活についての不安を口にした。それに対して昭夫は、何ら具体的な解決策を提示できなかった。出来るかぎり協力する、という漠然とした台詞を述べただけだ。まだ事態をそれほど深刻に受け止めていなかったし、八重子に無断で何かを約束するわけにもいかなかった。

 章一郎の症状は、それから急速に悪化した。そのことを知らせてくれたのは春美だった。

「兄さん、一度見に行ったほうがいいわよ。驚くから」

 彼女の言葉は、不吉な想像を広がらせた。

「驚くってどういうことだよ」

「だから、行けばわかるわよ」それだけいうと春美は電話をきった。

 数日後、昭夫は様子を見に行った。そして妹の言葉の意味を理解した。章一郎は変わり果てていた。やせ衰え、目には精気がなかった。それだけではない。彼は昭夫の姿を見た途端、逃げようとしたのだ。

「どうしたんだよ、親父。なんで逃げるんだ」

 皺だらけの細い腕を掴《つか》み、昭夫はいった。すると章一郎は悲鳴のような声をあげ、手をふりほどこうとした。

「あんたのことがわかんないのよ。知らないおじさんが来たと思ったみたいね」後で政恵からそのように説明された。

「お袋のことはわかってるのか」

「わかる時もあるし、わからない時もある。おかあさんだと思ってる時もあるし……。この前は春美のことを自分の奥さんだと思ってた」

 そんなことを話している間、章一郎は縁側に座って、ぼんやりと空を見ていた。二人の話は耳に入っていないようだった。その彼の指先は真っ赤だった。どうしたのかと昭夫が訊くと、政恵はこう答えた。

「お化粧ごっこをしたのよ」

「お化粧ごっこ?」

「私の化粧品をいじったらしいわ。口紅でいたずらして、指があんなふうになったの。小さい子供と一緒」

 政恵によれば、幼児退行の症状を示す時もあるし、突然正常になる時もあるのだという。確実なことは、おそろしく記憶力が低下していることだった。自分のやったことさえも覚えていないのだという。

 そういう人間と一緒に暮らすということがどういうことか、昭夫には想像もつかなかった。ただ、政恵の苦労が並大抵でないということだけはわかった。

「大変なんてものじゃないわよ」春美と二人で会った時、彼女は険《けわ》しい顔をして昭夫にいった。「前にあたしが行った時、お父さんが暴れてたの。おかあさんのことをすごく怒ってた。見ると、部屋が荒らされてるの。押入の中のものが引っ張り出されて、そこらじゅうに散らばってた。お父さんは、自分が大切にしてた時計がない、おまえが盗んだんだろうっておかあさんを責めてるわけ」

「時計?」

「ずいぶん前に故障したからってお父さん自身が捨てたものよ。そういっても納得しない。あれがないと出かけられないといってだだをこねるの」

「出かけるって?」

「学校、といってたけど、何のことかはあたしにもおかあさんにもわからない。だけどね、そういう場合でも逆らってはいけないの。時計は探しておきますといって、ようやく落ち着かせたわ。学校へは明日行けばいいでしょうといって聞かせた」

 昭夫は沈黙した。とても自分の父親の話だとは思えなかった。

 今後どうするか、という話になった。春美は夫の両親と同居している。それでも可能なかぎりは政恵の手伝いをするつもりだといった。

「おまえにばっかり甘えるわけにはいかないんだけどなあ」

「だって、兄さんのところは無理でしょ」

 春美は八重子の協力が期待できないことを仄《ほの》めかしてくる。昭夫は黙っているしかなかった。実際、八重子に章一郎のことを話しても、反応は冷たかった。お義母さんも大変ね、といった他人事のような感想が出てくるだけだ。そんな妻に、おまえも協力してくれよ、の一言が昭夫にはいえなかった。

 それからしばらくして昭夫が様子を見に実家に帰った時のことだ。家に入ると汚臭がする。トイレが壊れたのだろうかと思って奥に進むと、政恵が章一郎の手を拭いているところだった。章一郎はきょろきょろと周りを見ている。そのしぐさは幼児そのものだった。

 事情を訊いてみると、章一郎が自分の排泄物《はいせつぶつ》を紙おむつから取り出し、それで遊んでいたということだった。そのことを政恵はじつに淡々とした口調で述べた。こんなことはしょっちゅうで、今さら驚くことではない、といった表情だった。

 彼女は明らかにやつれていた。ふっくらとしていた頬の肉は落ち、皺が増え、目の下は薄黒くなっていた。

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