「前原さん」加賀が静かに呼びかけた。「それで本当にいいんですね」
不意をつかれたように前原の身体がびくりと動いた。彼は青ざめた顔を加賀に向けた。耳から首筋にかけての部分だけが赤くなっていた。
「どういう意味ですか」
「単なる確認です。おかあさんには自分の行動を説明する能力がない。だから代わりにあなた方がそれをおやりになった。その結果、おかあさんは殺人犯となるわけです。それでいいのですね、と確かめているんです」
「いいのかと訊かれても、だってそれは」前原はしどろもどろになった。「仕方がないじゃないですか。隠したかったけれど、隠しきれなかったわけですし」
「そうですか。それなら結構」加賀は腕時計を見た。「支度はされなくてもいいのですか。しばらくここへは帰ってこられないと思いますが」
八重子が腰を浮かせた。
「着替えてきてもいいですか」
「どうぞ。御主人はどうされますか」
「いや、私はこのままでいいです」
八重子だけが出ていった。
「煙草を吸ってもいいですか」前原が訊いた。
どうぞ、と加賀はいった。
前原はマイルドセブンをくわえ、使い捨てライターで火をつけた。せわしなく煙を吐くが、その顔は少しもうまそうではなかった。
「今、どういうお気持ちですか」加賀は前原の正面に座り直した。
「そりゃあ、やるせないですよ。これまで築き上げてきたものを全部失うのかと思うと」
「おかあさんに対してはどうですか」
「母に対して……ですか。さあ、どうなのかな」前原は煙を深く吸い込み、しばらく止めてからゆっくりと吐き出した。「あんなふうになってからは、あまり親という感じはしなくなっていたんです。向こうも私のことがよくわからないみたいだし。親子といっても、結局こういうものなのかなあなんて思ったりします」
「聞くところによると、おとうさんも認知症だったとか」
「そうです」
「世話はどなたが?」
「母がやっていました。その頃はまともでしたから」
「なるほど。すると、おかあさんはかなり苦労されたでしょうね」
「だと思います。父が亡くなった時にはほっとしたんじゃないですかね」
すると加賀は一呼吸置いてから、「そう思いますか」と訊いた。
「ええ。だって、相当大変だったみたいですから」
加賀は頷かず、なぜか松宮のほうをちらりと見てから前原に目を戻した。
「長年連れ添った夫婦というのは、傍では理解できないような絆《きずな》で結ばれているものです。だからこそ、過酷な介護生活にも耐えられるわけです。逃げだしたいと思うこともあるでしょうし、早く逝ってくれないかと考えることだってあると思います。でもね、実際にその時になってみると、必ずしもほっとするだけではないようです。介護生活から解放されると、今度は強烈な自己嫌悪に襲われることもあるそうです」
「……といいますと」
「もっと何とかできたんじゃないかとか、あんな最期を迎えさせてかわいそうだったとか、自分を責めるんだそうです。ついにはそれが原因で病気になったりもする」
「うちの母も、それが原因であんなふうになったとおっしゃりたいわけですか」
「それはわからない。ただいえることは、老人の内面は極めて複雑だということです。自分の死を意識しているからこそ余計にね。そんな老人に対して我々が出来ることといえば、彼等の意思を尊重するぐらいしかない。どんなに馬鹿げて見えることでも、本人にとっては大事なことだったりするんです」
「私は……母の意思を尊重してきたつもりです。意思といえるものが、今の母にあるのかどうかはわかりませんが」
そう話す前原の顔を、加賀はじっと見つめていた。その口元が緩んだ。
「そうですか。それなら結構です。つまらないことを話しました」
いいえ、といって前原は煙草を灰皿の中でもみ消した。
腕時計を見て、加賀は立ち上がった。
「では、おかあさんを連れ出すのを手伝っていただけますか」
わかりました、といって前原も腰を上げた。
加賀は松宮を振り返り、ついてこい、というように頷いてきた。
奥の部屋に行くと、入り口に近いところに春美が座っていた。彼女は何もいわず、縁側にいる母親に目を向けていた。政恵は背中を丸め、うずくまっている。相変わらず、石のように動かなかった。
「おかあさんを連れ出したいのですが」加賀が春美の背中にいった。
はい、と小さく答えて彼女は立ち上がった。政恵に近づこうとする。
「その前に」加賀はいった。「おかあさんが大切にされているもの、これがあれば気が休まるといったものがあれば、出していただけますか。拘置所まで持っていけるよう交渉してみますから」
春美は頷くと、部屋の中をさっと見渡した。すぐに思いついたことがあったらしく、小さな茶箪笥に近寄った。そこの戸を開け、中から本のようなものを抜き取った。
「これ、いいですか」彼女は加賀に訊いた。
「ちょっと拝見」加賀はそれを開くと、前原のほうに差し出した。「おかあさんの宝物はこれだそうです」
前原が一瞬ぶるると身体を震わせるのを松宮は目撃した。加賀が差し出したものは、小さなアルバムだった。
26
そのアルバムは、昭夫が何十年も目にしなかったものだ。古い写真が貼られていることは知っている。最後に見たのは、おそらく中学生ぐらいだろう。それ以降は、自分の写真は彼自身が整理するようになったからだ。
加賀に見せられた頁には、若かりし頃の政恵と、少年だった昭夫が並んで写っている写真が貼ってあった。少年の昭夫は野球帽をかぶっている。手には黒くて細長い筒を持っていた。
小学校の卒業式だ、とすぐにわかった。政恵が来てくれたのだ。彼女は笑いながら右手で息子の手を握り、もう一方の手を軽く上げている。その手には小さな札のようなものが持たれている。何なのかはよくわからない。
こみ上げてくるものがあった。
認知症になりながらも、今も政恵は息子との思い出を大切にしているのだ。懸命に子育てをしていた時の記憶が、彼女を癒《いや》す最良の薬なのだ。
そんな母親を自分は刑務所に入れようとしている──。
実際に彼女が罪を犯したのなら仕方がない。しかし彼女は何もしていないのだ。一人息子の直巳を守るため、といえば聞こえはいいが、結局のところ、そうしたほうが自分たちの未来に傷が残らないというエゴイスティックな計算が働いている。
いくらぼけているからといって、母親に罪をなすりつけるなど、到底人間のすることではない。
だが彼は差し出されたアルバムを押し戻した。さらに、今にも涙があふれそうになるのを必死でこらえた。
「もういいんですか」加賀が訊いてきた。「おかあさんがこれを拘置所に持っていけば、あなたはもう見られなくなるんですよ。もう少し、じっくりと御覧になられたらどうですか。我々は急ぎませんから」
「いえ、結構です。見ると辛いだけだし」
「そうですか」
加賀はアルバムを閉じ、春美に渡した。
この刑事は──昭夫は思った。おそらくすべてを見抜いているのだ。犯人がこの老婆ではなく、二階にいる中学生だと勘付いている。そこで何とか真実を吐露《と ろ 》させたいと、あの手この手で老婆の一人息子に心理的な圧力をかけてきているのだ。
こんな姑息《こ そく》な手に負けてはならないと彼は自分にいいきかせた。刑事がこういう手段に出るということは、何も確証がないからなのだ。ほかに攻め手が見つからないから、心情に訴えかけようとしているのだ。つまり、このまま押し通せばいいということになる。
ぐらつくな、負けるな──。
誰かの携帯電話が鳴りだした。松宮が上着のポケットに手を突っ込み、それを取り出した。
「松宮です、……あ、はい、わかりました」さらに二言三言話した後、彼は電話を切り、加賀にいった。「主任たちの車が着いたようです。玄関の前にいるそうです」
了解、と加賀は答えた。
ちょうどその時、廊下から八重子の声がした。
「支度が終わりましたけど」
彼女はシャツの上からセーターを着ていた。下はジーンズだった。自分なりに楽な服装を選んだようだ。
「息子さんはどうされますか」加賀が昭夫に訊いてきた。「しばらくお一人なわけですが」
「ああ……そうですね。──春美」昭夫は妹に声をかけた。「すまないが、直巳のこと、頼んでもいいかな」
春美はアルバムを抱えたまま黙っていたが、やがて小さく頷いた。「わかった」
すまん、と昭夫はもう一度詫びた。
「では田島さん、おかあさんを連れていきたいと思いますが」
はい、といって春美は政恵の肩に手をかけた。
「マーちゃん、行くわよ。立って」
促され、政恵はもぞもぞと動きだした。春美に支えられながら立ち上がり、昭夫たちのほうを向いた。
「松宮刑事」加賀がいった。「容疑者に手錠を」
えっ、と松宮は声を漏らした。
「手錠を」加賀は繰り返した。「持ってないのなら、俺がかけるが」
「いや、大丈夫だけど」松宮は手錠を出してきた。
「待ってください。何も、こんな婆さんに手錠なんかかけなくたって」昭夫は思わずいった。
「形だけです」
「そうはいっても──」そういいながら昭夫は政恵の手を見て、思わず息を呑んだ。
彼女の指先が真っ赤だったからだ。
「それは……なんだ」昭夫は母親の指先を見つめて呟いた。
「昨日、話したでしょ」春美が答えた。「お化粧ごっこの跡よ。口紅を悪戯したみたいね」
「ああ……」
昭夫の脳裏に、もう一つの赤い指が浮かび上がった。それは何年も前に見た、亡き章一郎の手だった。
「いいですか」松宮が手錠を持ったまま昭夫に訊いてきた。
彼は小さく頷いた。政恵の手を見ているのが辛くなった。
松宮の手錠が政恵の手首にかかりかけた時だった。ちょっと待った、と加賀がいった。
「外出するには杖がいるんじゃないですか」
「あ……そうです」春美が答える。
「手錠をしたままだと杖を使えないかもしれないな。杖はどこにありますか」
「玄関の靴箱の中に傘と一緒にしまってあるはずです。お兄さん、持ってきてくれる?」
わかった、といって昭夫は部屋を出た。薄暗い廊下を進んでいく。
玄関の靴脱ぎの隅に靴箱が置いてある。その端に細長い扉がついていて、中が傘入れになっているのだ。ふだん使う傘は外に出しっぱなしなので、あまりこの扉を開けたことはない。政恵が使っているという杖も、よく見たことがなかった。
扉を開けると、数本の傘に混じって、杖が入っているのがわかった。取っ手がグレーで、長さは女性用の傘程度だ。
それを取り出した時、ちりんちりんと鈴が鳴った。いつもの鈴の音だ。
昭夫は杖を手に、政恵の部屋に戻った。春美が風呂敷《ふ ろ しき》を広げ、そこに政恵の身の回り品や先程のアルバムをまとめているところだった。二人の刑事と八重子は立ったままその様子を眺めている。
「杖はありましたか」加賀が尋ねてきた。
昭夫は黙って差し出した。
加賀はそれを春美に手渡した。「では、行きましょうか」
春美は杖を政恵に持たせた。「ほら、マーちゃんの杖よ。しっかり持ちましょうね」声が涙で揺れていた。
政恵は表情を変えず、春美に促されるままに足を踏み出した。部屋を出て、廊下を歩き始めた。その姿を昭夫は見送った。
ちりんちりん──杖の鈴が鳴った。
昭夫の目が、その鈴に向いた。鈴には札がついていた。前原政恵、と下手な字が彫ってあった。彫刻刀による手作りの品だ。
それを見た瞬間、激しい心の揺れが昭夫を襲った。息が止まりそうになった。
その名札は、さっきアルバムで見たものだった。写真の中の政恵が手にしていたものだ。
彼は突然思い出した。小学校を卒業する直前、図画工作の授業で名札を作ったのだ。中学に上がってから、自分の持ち物に付けられるように、という主旨だったが、お世話になった人への贈り物でもいい、と教師はいった。それで昭夫は母親の名前を刻んだのだ。近所の文具店で鈴を買い、紐で繋いでから政恵にプレゼントした。
政恵はそれを何十年経った今も大切に持っていた。持っていただけでなく、ふだん自分が頻繁に使うものに取り付けた。認知症になる前のことだ。
それほど彼女にとってこの札はうれしいものだったのだ。息子からの初めてのプレゼントだったからかもしれない。
心の揺れはおさまりそうになかった。共鳴を起こすように、それはますます大きくなっていった。昭夫の中の何かが、壊れないように懸命に支えてきた何かが、音をたてて崩れ始めた。
足の力が抜けた。彼はその場にしゃがみこんだ。
「どうされました?」彼の異変に気づいた加賀がそばにきた。
もはや限界だった。昭夫の目からは涙が溢《あふ》れ出した。心の防波堤は壊れていた。
「すみません。どうも……申し訳ございません」彼は畳に頭をこすりつけた。「嘘なんです。全部嘘なんです。母がやったというのは作り話です。母は犯人なんかじゃありません」
27
彼の叫びに対して声を発する者はいなかった。驚きのあまり絶句しているのに相違なかった。彼はゆっくりと顔を上げた。まず八重子と目があった。彼女も座り込んでいた。苦しげに顔を歪め、絶望で目を暗くしていた。
「すまん。もう、無理だ」昭夫は妻にいった。「もう、やめさせてくれ。こんなこと、俺には無理だ。できない……」
八重子はがっくりと項垂れた。彼女自身も忍耐の限界だったのかもしれない。
「わかりました。では犯人は誰ですか」
そう訊いてきた加賀の口調があまりにも穏やかなものだったので、昭夫は刑事の顔を見返した。加賀は何ともいえぬ哀れみに満ちた目を向けていた。
やはりこの刑事は何もかも知っていたのだ、と思った。だから昭夫の告白にも驚いてはいないのだ。
「息子さん、ですね」
加賀の問いかけに昭夫は黙って頷いた。同時に八重子が、わっと泣きだした。突《つ》っ伏《ぷ》し、背中を震わせた。
「松宮刑事、二階に行ってくれ」
「待ってください」八重子が顔を伏せたままでいった。「息子はあたしが……あたしが、連れて……」涙で言葉が途切れた。
「わかりました。ではお任せします」
八重子は頼りない足取りで部屋を出ていった。
加賀が昭夫の前で片膝をついた。
「よく正直に話してくださいました。あなたは大きな過ちを犯すところでしたね」
「やはり刑事さんは、はじめから我々の嘘を見抜いておられたんですね」
「いえ、電話で呼ばれた時点では、何もわかりませんでした。あなた方の自供を聞いた時も、矛盾は見つからなかった」
「ではどうして?」
すると加賀は政恵のほうを振り返った。
「あの赤い指です」
「あれが何か……」
「あれを見た時、この指はいつ塗られたのだろうと考えたのです。もし事件前から塗られていたのだとしたら、当然死体の首に赤い指の跡が残っていなければならない。おかあさんが手袋をはめたのは、事件の翌日ですからね。私がたまたまその場に居合わせたので、それは間違いない。
でも死体に赤い指の跡などはありませんでした。あなたの話の中にも、そういうものを消したという内容は出てきませんでした。すると指を塗ったのは事件の後ということになる。ところが、おかあさんがその際に使ったはずの口紅が見当たらない。この部屋のどこにもないのです」
「口紅は、そりゃあきっと八重子の……」
そういってから昭夫は、その可能性がないことに気づいた。
「奥さんの鏡台は二階にある。おかあさんは階段を上がれないんでしたね」
「じゃあ、どこに?」
「この家にないとすれば、どこにあるのか。誰かが持ち出したとしか考えられない。それは誰か。そこで妹さんに確認してみたのです。最近、おかあさんが使った可能性のある口紅を知らないか、とね。──田島さん、例のものを見せてください」
春美はハンドバッグを開け、中からビニール袋を取り出した。そこには一本の口紅が入っていた。
「あれが、その口紅です。色を確認しましたが、間違いないようです。詳しく成分を調べれば、さらにはっきりするでしょう」
「どうしておまえが持っているんだ?」昭夫は春美に訊いた。
「前原さん、問題はそこです」加賀はいった。「田島さんがちょっと目を離した隙に、おかあさんが田島さんの口紅で悪戯をしたこと自体は不思議でも何でもない。奇妙なのは、その口紅を現在田島さんが持っているという点なんです。──田島さん、今日以前であなたが最後におかあさんに会ったのはいつですか」
「……木曜の夜です」
「なるほど。つまりその口紅は、それ以後、この家にはなかったということになる。前原さん、これがどういうことかわかりますね」
「わかります」昭夫はいった。「母が指を赤く塗ったのは木曜の夜、ということですね」
「そういうことになるでしょうね。となれば、おかあさんが犯人だとするあなたの話と矛盾してくる。何度もいうように、死体に赤い指の痕跡はなかったのです」
昭夫は爪が掌に突き刺さりそうなほど強く拳を固めた。
「そういうことか……」
虚しさが彼の全身を包んでいった。
28
松宮は言葉を失っていた。廊下で立ち尽くしたまま、加賀と前原昭夫のやりとりを聞いていた。
何という愚かで浅はかな犯罪だろうと思った。自分の息子を守るためとはいえ、年老いた母親を犯人に仕立て上げるとは、松宮には理解できない発想だった。それでも前原が最後の最後になって告白してくれたことは唯一の救いだった。
しかし加賀は、赤い指に気づいていながら、なぜその時に指摘しなかったのか。そうしていれば、もっと早くに真相を明らかに出来たはずなのだ。
「なんでだよ。警察には行かなくていいっていったじゃねえか」階段の上から声が聞こえた。直巳の声だ。
「だからね、もうだめなの。全部わかっちゃったから……」八重子が泣いている。
「知らねえよ。なんでだよ。俺、いうとおりにしたじゃねえか」
がん、と何かのぶつかる音がした。あっ、という叫び声が聞こえた。
「てめえらのせいだろ。てめえらのせいだからな」直巳が喚いている。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
どうしようかと松宮が思った時だった。加賀が大股で廊下を歩き、階段を駆け上がっていった。
何だよう、という悲鳴に似た直巳の声がした。それからすぐ、加賀が下りてきた。彼は少年の襟首《えりくび》を掴んでいた。階段を下りきると、その腕を振った。直巳は床に転がった。
「松宮刑事、この馬鹿|餓鬼《が き 》を連行してくれ」
了解、といって松宮は直巳の腕を掴んだ。直巳はすでに泣いていた。小学生のように涙で顔をぐしゃぐしゃにし、ひいひいと喉を鳴らした。
「来るんだ」松宮は腕を引っ張り上げるようにして直巳を立たせ、玄関に向かった。
「あたしも……」後ろから八重子が追ってきた。
玄関のドアを開けた。門の外に小林や坂上の姿があった。彼等は松宮たちに気づくと、門扉を開けて入ってきた。
「ええと、状況を説明しますと……」
小林は手を振った。
「加賀君から話は聞いている。ご苦労だったな」
彼は部下を呼び、直巳と八重子の身柄を任せた。それを見送った後、改めて松宮を見た。
「春日井家のパソコンを調べたところ、消去されたメールの中に、事件当日に受け取っているものがあった。父親は覚えがないそうだから、おそらく被害者の女の子が受けたのだろう。写真だけのメールで、『スーパープリンセス』とかいうアニメの人形が大量に写っていた」
「差出人はわかっているんですか」
「フリーメールで本名は不明だ。しかし確認できるんじゃないのか」小林は前原家の二階を指差した。
「たしかに前原直巳はパソコンを持っています」
「披害者はメールの写真を見て、どこかに出かけた。差出人を知っていて、会いに行った可能性がある」
「直巳のパソコンを押収《おうしゅう》しますか」松宮は訊いた。
「その必要はあるが、まだあわてなくていい。逮捕しなきゃいけない人間が、中にもう一人いるんだろ?」
「死体遺棄の主犯は前原昭夫です。今、加賀刑事と話しています」
「だったら、ここはもういいからすぐに行け。加賀君の話をよく聞いておくんだ」
「話を?」
「大事なのはここから先だ」小林は松宮の肩に手を置いた。「ある意味、事件よりも大切なことだ」
29
松宮が戻ってきて、外にいる捜査員たちに直巳と八重子の身柄を引き渡したことを加賀に伝えた。昭夫は項垂れたままでそのやりとりを聞いた。
政恵は再び縁側で座っている。春美も隣に付き添っている。何分か前の光景に戻っていた。しかしその短い時間に、この家のすべてが逆転してしまった。
昭夫はゆっくりと立ち上がった。身体が鉛のように重かった。
「私もそろそろ行かなければ」
「何かいい残すことはないんですか」加賀は訊いた。「おかあさんと妹さんに」
昭夫は首を振り、足元の畳を見つめた。
「まさか、母親があんなことをしているとは思いませんでした。お化粧ごっことはねえ。昨日、妹からそんな話を聞かされてたんですが、まるで気にしていなかった。それが命取りになるとはね」自嘲の笑みを漏らした。
春美の近づく気配があった。昭夫は顔を上げた。彼女は唇を噛んでいた。頬には涙が伝っている。充血した目が大きく見開かれた直後、彼は頬に衝撃を受けていた。何が起きたのか、すぐにはわからなかった。自分の頬が熱くなっていくのを感じ、ひっぱたかれたのだと自覚した。
「すまない」頬の痺《しび》れを感じつつ、彼は頭を下げた。「こんなことになって……」
春美は大きく首を横に振った。
「お兄さんが謝る相手はあたしじゃないでしょ」
「えっ……」
「前原さん」加賀が春美の横に立った。「あなたには、まだ本当のものが何ひとつ見えていないようですね」
「本当のもの?」
「最後の最後になって、あなたが過ちに気づいてくれてよかったと思います。でもね、あなたは肝心なことを知らない」そういうと加賀はビニール袋に入った口紅を見せた。「私は先程妹さんに会いに行った時、次のようにお願いしたんです。あなたが隠していることは、私がいいというまでは決して口にしないでください、とね」
「隠していることって……」
「私はさっき、少し嘘をいいました。口紅については、正確にいうと、妹さんにこのように訊いたのです。おかあさんから口紅を預かっていませんか、とね。預かっているということだったので、ではそれを持ってきてくださいと頼んだのです」
加賀のいっていることの意味がよくわからず、昭夫は困惑して春美を見た。
彼女はいった。
「あの口紅は、あたしのものじゃないのよ。おかあさんが前から持っていたものなの」
「お袋の? だけど、おまえが持っていたんだろ」
「昨日、この家の庭で拾ったのよ」
「庭で?」
「電話があって、庭の植木鉢の下に口紅を隠しておくから取りに来てほしい、そうしてしばらく預かってほしいって。わけはいずれわかるだろうから、とにかくいうとおりにしてほしいということだった」
「えっ、どういうことだ」昭夫は混乱し始めていた。「電話って、誰から?」
「ケータイ、持ってるのよ。あたしが買ってあげたの」
「ケータイ?」
春美は悲しそうに眉根を寄せた。
「まだわからないの?」
「何が──」そういった時、ある直感が昭夫の頭に閃《ひらめ》いた。
だが次の瞬間、彼はそれを否定しようとした。あまりにも信じがたいことだったからだ。しかしすべての状況は、その考えを受け入れよと彼に求めていた。
「まさか」彼は縁側に目を向けた。
政恵は先程までと同じ格好でうずくまっていた。置物のように動かなかった。
まさか、と彼はもう一度呟いた。
辻棲は合う、と思った。息子夫婦の企《たくら》みを知り、彼女は計略を破綻《は たん》させる方法を考えた。そこで思いついたのが、あの赤い指だ。警察は必ず、いつ塗ったのかを問題にする。口紅を春美に預けてしまえば、塗られたのは事件前だと判断される。つまり犯人は政恵ではありえない、となる。
しかしこの仮説が成立するためには、大きな前提が| 覆 《くつがえ》されなければならない。
お袋はぼけてなどいないのか──。
昭夫は春美の顔を見た。彼女の唇は、何かを訴えるように震えていた。
「おまえ、知っていたのか」
春美はゆっくりと瞬きした。
「当たり前でしょ。あたしはいつも一緒にいるのよ」
「どうしてぼけたふりなんか……」
すると春美はゆらゆらと頭を振り、哀れみを込めたような目で昭夫を見た。
「お兄さん、こんなことになっても、まだその理由がわからないの? そんなことないでしょ」
昭夫は沈黙した。彼女の指摘は的を射ていた。彼にはすでに答えがわかっていた。
この家に越してきてからのことが脳裏に蘇った。八重子の冷淡な振る舞い。それにひきずられるように昭夫も老いた母親を疎《うと》ましく思うようになった。そんな両親を見て、息子がまともに育つはずがない。直巳は祖母のことを、何か汚いもののように扱っていた。昭夫も八重子も、それを注意しなかった。
それだけではない。この家の住人たちの間には、心の繋がりというものが全くなかった。家族らしい暖かみなど、ここには存在しなかった。
そんな状況に政恵は絶望したのだ。その結果彼女が選んだ道は、自分だけの世界を作り、その中には家族たちを入れないというものだった。唯一、それが許されたのが春美だった。おそらく政恵は彼女といる時が一番幸せだったに違いない。
ところが昭夫たちは、政恵のその演技を見破れなかった。それだけでなく、その演技を利用しようとした。昭夫は、政恵を前にして八重子と話し合っていた時のことを思い出した。
「大丈夫よ、これだけぼけてるんだから、警察だって詳しいことを調べようがない。家族であるあたしたちが証言すれば、それを信用するしかないじゃない」
「問題は、ぼけ老人がなぜ女の子を殺したかってことだ」
「ぼけてるんだから、何をするかわからないわよ。そうだ、おかあさんは人形が好きだから、人形を壊すようなつもりで殺しちゃったってことにしたらどうかしら」
「罪はそう重くないはずだよな」
「罪になんて問われないんじゃないかしら。精神鑑定というのがあるじゃない。あれをしてもらえば、この婆さんがまともじゃないってことはわかるはずよ」
あの会話を、政恵はどんな思いで聞いていたのだろう。その後もぼけたふりをしていた彼女の胸の内には、どんな怒りと悲しみと情けなさが渦巻いていたことだろう。
「前原さん」加賀がいった。「おかあさんは、あなた方が間違った選択をしないよう、無言で信号を送り続けていたんです。最初に手袋をはめた時のことを覚えていますね。あの手袋には異臭が染みついていました。ここが犯行現場だとおかあさんは私に知らせてくれたのです。ところが我々があなた方を疑い始めると、あなた方は新たな過ちを重ねようとした。そこでおかあさんは赤い指の仕掛けをすることにしたんです」
「私を罠《わな》にはめるために……ですか」
「そうではない」加賀は厳しい口調でいった。「どこの世界に息子を罠にはめようとする母親がいますか。あなたに思いとどまってもらうために、です」
「お兄さん、昨日、あたしがいったでしょ。おかあさんは最近お化粧ごっこをするって。もちろんおかあさんにそんな癖なんてない。あれもおかあさんからの指示だったの。どうしてそんなことをいわなきゃいけないのか、あの時にはさっぱりわからなかった。でも、今はわかる。あの話を聞けば、きっとお兄さんはおかあさんの手を調べる。指に口紅が塗られていることに気づけば、お兄さんとしては拭き取らなきゃいけない。その時におかあさんは抵抗するつもりだったのよ。ぼけたふりを続けたままでお兄さんに計画を断念させるには、それしか方法がない。おかあさんはそう考えたのよ」
昭夫は手で額を押さえた。
「そんなこと……考えもしなかった」
「あなた方は自分で仕掛けた罠に自分ではまったのです」加賀は静かにいった。「妹さんに会い、話し合いました。私は、あなたに目を覚ましてほしかった。我々がおかあさんを警察に連れていく前に、自ら計画を断念してほしかった。それがおかあさんの願いでもあるからです。おかあさんはその気になればいつでも計画を阻止できた。認知症が演技であることをあなた方に告白するだけでよかった。それをしないのは、一縷《いちる 》の望みをあなたにかけていたからです。我々はその思いを尊重したかった。どうすればあなたの目を覚まさせられるか、妹さんと二人で考えました。妹さんはいいました。おかあさんの杖を見せたらどうだろう、と」
「杖……」
「おわかりですね。あの鈴のついた名札です。おかあさんがあれを大切にしていたことを妹さんも御存じだったのです。アルバムと杖、この二つを見ても何も感じないのなら、もう仕方がない、というのが妹さんの意見でした。あなたが杖をおかあさんに渡した時、正直いって私は諦めました。でも、よく思いとどまってくださった。あなたが謝罪する声は、おかあさんの耳にも届いているわけですから」
「加賀さん……あなたはいつ母がぼけてないことに……」
「無論、赤い指先を見た時です」加賀は即座に答えた。「なぜ指先を赤く塗ったのだろう、いつ塗ったのだろうと思い、おかあさんの顔を見た時です。その時、目が合いました」
「目が……」
「おかあさんの目は、しっかりと私を見ていました。何かを語りかけてくるのがわかりました。あれは何も考えていない人間の目ではなかった。前原さん、あなたはおかあさんの目を真剣に見つめたことがありますか」
加賀の言葉の一つ一つが、重い| 塊 《かたまり》となって昭夫の心に沈んでいった。その重みに耐えきれず、彼はその場にしゃがみこんだ。畳に両手をつき、縁側を見た。
政恵は動かず、庭のほうを向いていた。しかしこの時になって昭夫は初めて気づいた。年老いた母親の丸い背中は、小刻みに震えていた。
昭夫はそのまま突っ伏し、畳に額をこすりつけた。涙がとめどなく溢れた。
古い畳の匂いがした。
30
前原直巳の取り調べは小林が行った。松宮もそれに立ち会った。直巳は終始怯えた様子で、時には涙を浮かべたりしながら、質問に答えた。
「春日井優菜ちゃんと会ったのはいつ?」
「あの日です。学校の帰りに会いました」
「君から声をかけたのか」
「優菜ちゃんのほうです。僕が鞄に『スーパープリンセス』のキーホルダーをつけているのを見て、どこで買ったのって訊いてきたんです」
「教えてやったのか」
「秋葉原で買ったと教えてやりました」
「その後は?」
「優菜ちゃんはフィギュアのことなんかをいろいろと訊いてきました。あの子はインターネットでファンサイトなんかも見ているらしくて、びっくりしました」
「どこで話していたんだ」
「うちのそばの道端です」
「それで君はフィギュアを見せてやるといったのか」
「僕がフィギュアならいっぱい持っているといったら、優菜ちゃんは、自分もたくさん持っているけど、僕がどんなのを持っているか見たいといいました」
「見せる約束をしたのかね」
「優菜ちゃんはおとうさんのパソコンに画像を送ってほしいというので、送ると約束しました。アドレスは優菜ちゃんの名札の裏に書いてありました。もし、自分の持っていないフィギュアがあれば見に来るというので、家を教えてやりました」
「すぐに写真を送ったのか」
「家に帰った後、デジカメでフィギュアを撮って、パソコンで送りました」
「優菜ちゃんはすぐに来たのか」
「五時半頃に来ました」
「君は家に一人だったのか」
「お婆さんが奥にいますけど、めったに部屋から出てきません」
「優菜ちゃんにフィギュアを見せたのか」
「見せました」
「どこで?」
「家のダイニングで、です」
ここまでの質問では、比較的よどみなく直巳は答えた。口調もしっかりしていた。ところが次の質問を聞いた途端、彼の態度は一変した。
「なぜ優菜ちゃんの首を絞めたのか」
青ざめていた直巳の顔が、急激に紅潮した。目は吊り上がった。
わかんない、と彼は低く呟いた。
「わからないということはないだろ。何か理由があって首を絞めたんじゃないのか」
「帰るっていうから……」
「帰る?」
「フィギュアを見せてやったのに、帰りたいっていうから」
「それで首を絞めたのか」
「……わかんない」
この後は何を訊いても、口を固く結んだままだった。脅しても、すかしても無駄だった。たまりかねたように小林が怒鳴ると、凍り付いたように身体を硬くした。それだけでなく、小刻みに痙攣《けいれん》を始めた。
しばらく頭を冷やさせようと取調室から出そうとした時、ようやく口を開いた。
「……親が悪いんだ」
31
心拍数を示す数値が七十の付近を行ったりきたりしていた。松宮は脂の浮いた顔をこすり、隆正を見た。酸素吸入マスクの下の顔は、ぴくりとも動かない。